日光御成街道(4) 東川口駅 ~ さぎ山記念公園

2016年10月9日(日) 雨のち曇

  「東川口駅」から、前回終えた跨線橋(県道105号線)に戻って10:15出発。

(注:解説で街道の左側、右側とは幸手に向っての左右です)

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【諏訪神社 (右側) 10:20~10:25
 JR武蔵野線の跨線橋を越えた、少し先の右側に『諏訪大明神』の扁額を掲げた鳥居が建つ諏訪神社がある。
 境内に掲げられていた『日光東照宮参拝図絵馬』の説明文に諏訪神社と絵馬の説明、及び絵馬の写真が添付されていたが、写真が不鮮明だったので掲載できず、また、社殿の中を格子戸の隙間から覗いた所、何枚かの絵馬が掲げられていたが、薄暗かったので本物の絵馬も分からなかった。

【日光東照宮参拝図絵馬】 川口市指定有形民族文化財(平成24年9月5日指定)
 絵馬が奉納されている諏訪神社は、旧戸塚村一本木組(現戸塚地区一本木ま町会)の鎮守で、かつて隣にあった新義真言宗寺院の延寿院(明治初期廃寺)が管理していました。日光御成道に面していることから、安永5年(1776)の10代将軍徳川家治と天保14年(1843)の12代将軍徳川家慶の日光社参の際には、将軍の小休所となりました。
 当絵馬は、明治12年(1879)、地域の信仰者たちが日光東照宮を参拝したことを記念し、男女別に一対として製作し、奉納したものです。一方には、日光山の山々に社殿、筑波山、男性参拝者7人が描かれ、その7名が奉納者銘に記されています。もう一方には、男性先達と女性参拝者9人の人物が描かれ、その名が奉納者銘に書かれています。
 当絵馬は、女性が積極的に参加していることなど、地域の庶民信仰の様相がうかがえる貴重な文化財です。
     川口市教育委員会

 社殿に向って左方向の裏道を進むと社殿の下が崖になっており、この辺りの御成道が高台の尾根筋を通っている事が分かる。かつては見晴らしが良かったので小休所となったのだろうと想像出来る。


【貝殻坂 (右側) 10:35
 街道に戻り、右後ろから交わる広い道を横断し、「東川口郵便局」を過ぎた先に、右に下る分れ道がある。
 ここを右に下りて行く坂は貝殻坂と言い、初期の日光御成道はここを下り、「釣上新田」を通って岩槻宿へ向っていた。
 しかし、二代将軍徳川秀忠の時に『宇都宮釣天井事件』(1622年)が起きたことで、「釣」が縁起悪いと現在の真直ぐ進む道になったと云う。
  


大門宿】 
  大門宿は、日光御成道の江戸から三番目(岩淵宿と川口宿は合宿として一つに数える)で、江戸から六里一九町(25.6Km)の場所にある宿場。
 初期の鎌倉街道中道に沿って出来た集落と思われ、中世には市が開かれていた記録がある。戦国時代末に宿場の機能が整ってきたと云う。
 日光御成街道の宿場となった時期は不明だが、寛文六年(1666)までには、公式な宿場となっていたとのこと。
 天保十四年(1843)の『日光御成道宿村大概帳』によると、宿高1137石、戸数180軒、人口896名、町並7町23間、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒、問屋場1ヶ所。


【大門神社 (右側) 10:45~11:00
 「大門小学校入口」信号で国道463号線に合流したら、左折するとすぐ先に大門神社の赤い鳥居が建ち、その右に説明板が立っている。

【大門神社】 (祭神・祭儀等略)
創立 不詳
     明治十三年十一月二十三日拝殿再建竣工
由来 
 大門神社は住吉十二所社と称し旧大門村、下野田村の鎮守の神として下野田に鎮座せしものと伝ふれどその記録文は、旧蹟等も認められずに、古来より現今の神域に鎮座せしものと推考される。
 明治初年、神仏分離令により、明治六年四月大門村村社に列せられる。
 明治四十年六月十四日大字大門地内、下野田地内、玄番新田地内に鎮座せる神社(十社)を合祀し以って十二所社の社号を 宗教法人 大門神社と改称す。
     平成七年七月吉日 大門神社 総代


 上記一の鳥居をくぐり長い参道を進むと、参道の中頃左側に庚申塔が建っている。
  

 更に参道を進み、拝殿前の二の鳥居をくぐった右に由緒が立っていた。

【大門神社 御由緒】 
御縁起(歴史)
 
 日光御成街道の江戸日本橋から数えて四番目の宿場である大門町は、中世から鎌倉街道中道の道筋として発展し、毎月八の日に市が立った。この市については、戦国期の成立とされる「市場之祭文写」に「足立郡大門市祭成之」と記されており、市を開くに当り修験者により無事息災と繁盛を祈って祈願文が読上げられたことがわかる。
 当社は、この大門町の鎮守として祀られてきた神社で、『風土記稿』大門宿の項に「十二所権現社 村の鎮守なり」とあるように、かつては十二所権現社といったが、明治四十年六月十四日に地内の無格社八社と大字玄番新田の村社木傘神社・大字下野田の村社稲荷社の計十社を合祀したことにより、改称したものである。往時の社名は熊野十二所権現に由来すると思われ、本山派修験として勢力のあった中尾村(現緑区中尾)の玉林院の活動が創立の背景にあったと考えられる。
 江戸時代には、真言宗の熊野山宝光院華蔵寺が当社の別当で、明治五年に廃寺になるまでは参道西側に堂があった。開山の源盛は寛永元年(1624)に寂している。その末裔は当社隣の熊野家である。
 境内にある愛宕神社は、元禄年中(1688~1704)の創立で当時大門宿に大火があり、過半数の家々が焼失したことから、里人が相計って火防の神である愛宕様を勧請し、円福寺境内の小高い丘に祀ったと伝えられる。明治五年の円福寺廃寺に伴い、当社に移された。
例祭日
 九月十九日


 拝殿の上部にある見事な龍の彫刻は、左甚五郎作と伝えられるが、アップした写真を撮り忘れてしまった。
 拝殿の後ろに廻ると、彫刻が見事な朱塗りの本殿が見られる。
    


【大門宿本陣表門 (右側) 11:07~11:13
 街道に戻り、左「美園郵便局」を過ぎたすぐ右側「お好み焼KANSAI」の隣に、大門宿本陣(會田家)の表門が残っている。

【大門宿本陣表門】 埼玉県指定史跡(昭和40年3月8日指定)
 大門宿は、日光御成道の宿場である。日光御成道は、江戸幕府の将軍が日光東照宮(栃木県日光市)に参詣(日光社参)する際に使用した道であり、本郷追分(東京都文京区)で中山道から分岐し、幸手宿(幸手市)の南で日光道中に合流するまでの街道である。
 大門宿は江戸から三番目の宿場(岩淵・川口は合わせて一宿の扱い)で、寛文六年頃までには宿場として際立していたと考えられている。江戸時代末期の天保十四年(1843)当時の規模は、戸数一八〇軒、人口八九六人、本陣と脇本陣各一軒、旅籠六軒であった。その内の本陣がこの場所にあった。大門宿の中央、街道の北側にあたる。現在、正面の表門が保存されている。
 この表門は、門扉の両側に部屋が付属する長屋門形式である。寄棟造、茅葺で、間口一六・三一m、奥行四・五八mである。元禄七年(1694)に建立され、文政七年(1824)に修理された。
 将軍家の日光社参は一九回行なわれた。将軍家が岩槻城(岩槻区)に宿泊する際、大門宿には供奉
(ぐぶ)する幕臣が分宿した。第一〇代将軍徳川家治の安永五年(1776)の日光社参では、本陣に伊予松山(愛媛県松山市)城主の松平定静(さだきよ)が、脇本陣には播磨姫路(兵庫県姫路市)城主の酒井忠以(ただざね)が宿泊した記録がある。
 なお、大門宿の本陣は会田家が勤めていた。会田家は、本陣の他に宿の問屋や大門町の名主、紀伊徳川家鷹場の鳥見役なども勤めていた。

【大門宿脇本陣表門 (左側) 11:16
 本陣のすぐ先左側に脇本陣表門も残っている。但し、個人の門なので敷地内に入ることは出来ない。

【大門宿脇本陣表門】 さいたま市指定有形文化財(建造物) (昭和47年4月19日指定)
 大門宿は、日光御成道の宿駅で、本陣一、脇本陣一、旅籠六軒がありました。ここは、脇本陣で、本陣がはす向いにあります。
 この表門は、寄棟造、茅葺きで、「立隠れ」(門構えが半間引っ込む)、くぐり戸のある長屋門です。間口一六・〇〇メートル、奥行き四・六〇メートルと、ほぼ本陣表門と同規模ですが、本陣の壁が大壁で縦格子窓付きの番所があるのに対し、ここは、真壁で番所がなく、窓は横に菱子が走るなど、本陣と比べるとやや簡略化されています。
 この表門の建立年代は明らかになっていませんが、安永五年(1776)の徳川家治(十代将軍)の日光社参にあわせて建てられたものと考えられています。この時に、しんがりを勤めた姫路藩主酒井忠以が往路宿泊をし、帰路には、磐城平藩主安藤信成がここで休止しました。
 なお、当時の記録には「西御本陣」「西本陣」などと記されています。
 この門は、本陣表門とともに、大門宿の往時の姿を伝える遺構として、大変貴重なものです。
     平成十八年三月 さいたま市教育委員会

【大興寺 (右側) 11:23~11:32
 「大門(上)」信号を越え、次の「大門北」信号の手前右側に大興寺の大きな自然石の標石がある。
 山門を入ると、すぐ左側に六地蔵などの石仏、そこを左に曲がった所に庚申塔等七基が建っている。
    

 更に二つ目の門の左横に六地蔵と共に徳本上人念仏供養塔
(下記写真中央)が建っている。

【徳本上人念仏供養塔 一基】 浦和市指定有形文化財(歴史資料) (昭和55年3月28日指定)
 徳本上人は、江戸時代後期に活躍した浄土宗の僧です。宝暦八年(1758)、紀伊国(現和歌山県)の生まれで、文化十三年(1816)、江戸に下り、小石川一行院を道場に東国各地を巡り、念仏化道を勧めました。その会所の多くは寺院境内ですが、浄土宗以外の寺院も含まれています。また、会所には、このような独特な書体の六字名号と花押を刻んだ供養塔が、講中により建てられました。
 ここの供養塔は、正面に南無阿弥陀仏の六字名号と「徳本」の名、そして花押が、右側面には「五十年 夢のうき世と思ふへし ねても覚ても後世を忘るな」の御詠歌、左側面に「文化十四歳次丁丑四月望日留錫化益、当山第十七世法印永津臨終念仏講中敬白」の建立趣旨が刻まれています。台石には世話人、講中名が刻まれていますが、その範囲は、ここ大門宿を中心に、北は岩槻町(現岩槻市)から南は戸塚村(現川口市)にまで及んでいます。
 徳本上人の念仏供養塔は、関東地方にも数多く建てられており、市内にも他に二基が現存しています。これらは近世の浄土宗や講の発展を知る上で貴重なものです。
 なお、この供養塔は、文政四年(1821)九月に建立されたことが近年、明らかになりました。(駒崎家文書)
     平成七年九月 浦和市教育委員会 大興寺


 二つ目の門には三つ葉葵の紋が掲げられ、門を入った右側に比較的新しい鐘楼、正面に本堂弘法大師像が建っている。
    


【庚申塔 (左側) 11:45
 「大門北」信号で国道122号(岩槻街道)の上り線を渡り、東北道をくぐり、更に122号の下り線を渡って県道105号線を右カーブして行く。本来の日光御成道は大興寺の塀に沿って北上していたが、東北道に分断されてしまった。
 国道に沿った道はすぐ左カーブして、国道463号と交わる「鶴巻陸橋(西)」信号を横断して県道を進む。
 この信号を渡った直ぐ左側、「美園公民館」前の分れ道に、新しく出来た祠の中に庚申塔が安置されていた。
  


【庚申塔 (右側) 11:53
 緩い右カーブの県道を進み、「浦和大学入口」バス停の辺りに7番目の一里塚があったが、今は何も残っていない。
 そのバス停を過ぎた少し先の右側にある「レストランしみず」の手前の民家のブロック塀前に庚申塔が大小3基建っている。
  


<昼食> 11:55~12:33
 上記庚申塔のすぐ先にある「和洋レストランしみず」で昼食。


【庚申塔・馬頭観音 (右側) 11:35
 「レストランしみず」の隣にあるコンビニ(セブンイレブン)の駐車場の一番奥に、安永七年(1778)の庚申塔と3基の小さな馬頭観音が建っている。
  


国昌寺】 (左奥) 12:50~13:00
 その直ぐ先の信号の右上にある「国昌寺 左折 ←700m」の案内に従って、寄り道(道草)をする。
 緩やかに右カーブして800m弱進むと右側に国昌寺がある。
 現在の入口の先に、本来の入口と江戸時代中期の山門が残っていて、門の表には菊の御紋、欄間には左甚五郎作と伝わる龍の彫刻が飾られている。
      

 山門の脇を通り抜けるか、現在の入り口から境内に入ると、左手に寺の説明板阿弥陀一尊種子板石塔婆が建っている
(下の写真)

【國昌寺】 
 國昌寺は、曹洞宗の寺院で、大崎國昌寺といいます。天正年間(1573~1592)、見沼区染谷にある常泉寺の第八世住職であった心巌宗智大和尚が開山しました。二世(中興開山)は能書家としても著名な大雲文竜です。
 文竜は、名僧智職としてその名は朝廷にまで達し、特に書に秀でていたため、後陽成、後水尾両天皇から三度も召され、宮中で書を指南しています。寺には、寺宝として大雲文竜書の「大弁才尊天号」の軸物(市指定有形文化財)が伝わります。
 山門は、江戸時代中期(宝暦頃)の建築で、市の有形文化財に指定されています。欄間の龍は、左甚五郎の作と伝えられるもので、棺を担いでこの門をくぐりぬけると、龍に中身を喰われて軽くなるという伝説を持っています。また、この龍は、もともと見沼に住んでいて作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘付けにして門におさめたという伝説もあります。
 また、境内には、鎌倉時代の大型の阿弥陀一尊種子板石塔婆(石指定有形文化財)の文化財もあります。
     平成二十八年三月 さいたま市


 説明板の右に観音堂、現在の入口右手に鐘楼が建っている。
    

 山門を背に正面を見ると大きな石灯籠の先に本堂が建っている。
  


【見沼の龍神 (左奥) 13:02
 国昌寺の前を少し先に進むと、見沼代用水が流れ、国昌寺橋が架かっている。橋には『見沼代用水路 東縁
(ひがしべり)』と書かれていた。
 その橋を渡った右に見沼の龍神の説明板が立っている。


国昌寺橋

見沼代用水(左の立て札が説明板)
【「見沼の龍神」=見沼の伝説】 
 将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永は、この辺りの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていました。ある晩のこと、為永は夢を見ました。見沼の主である龍神という美しい娘が現れ、「私の住むところがなくなる、新しい住処を探すまで工事を中止してほしい・・・」といいます。来春の稲の作付けに間に合わせるため工事は一日も休めません。そのうち工事に負傷者や障害が続出し、為永も病に倒れてしまいました。するとまた夢に先ほどの美女が現れ、「おまえの病を治してあげるから、私の頼みも聞いて欲しい・・・」と、毎夜やってきては、夜明けに姿を消します。為永の病気はにわかに良くなりましたが、家来が為永の部屋を覗くと、蛇身の女が為永の体をなめまわしていました。家来の者もそれには気を失い、為永もその話を聞くと肝を冷やしました。為永は、詰所を萬年寺(見沼区片柳)に移しました。萬年寺でも、棺が門をくぐろうとすると中に舞い上がるというようなことが起ったため、人びとは、龍神が為永の仕打ちを怨んでの仕業に違いないといいあったといいます。
     平成二十四年三月 さいたま市


 国昌寺への道筋で、赤いTシャツを着て自転車に乗った大勢の人が列をなして疾走していたので、初めは何かと思っていたら、この北東方向、「東北道」の東側に接する「埼玉スタジアム」が近いことが分かって納得がいった。
 後で調べたら、浦和レッズとFC東京の準決勝が14:00から行なわれたので、それに間に合うようにレッズのファンが急いでいたのだった。
 まるで、大坂夏の陣で赤備えの真田幸村が徳川家康めがけて突撃するような数と気迫だった。


【氷川神社】 (左側) 13:40~13:46
 街道に戻って13:17。
 暫く進んだ二つ目の信号手前右側に寂れた成田不動尊。
 信号を渡って左側の「野田小学校」前を過ぎるとすぐ、氷川神社の鳥居が現れる。
 その参道入口右側の街道沿いに安永二年(1773)の庚申塔が建っている。
  

 鳥居をくぐり、長い参道を進むと、森の中の緑地に氷川神社が建っている。

【氷川神社 御縁起(歴史)】 
 見沼代用水東縁の流域の農業地域の一角にある上野田は、江戸中期から将軍家の保護のもと「野田の鷺山」として知られ、鷺の一大繁殖地であった。昭和四十年代以降は、環境の変化などのため、鷺の飛来は絶えてしまった。
 当社は、この上野田の鎮守として祀られてきた神社で、『風土記稿』上野田村の項にも「氷川社 村の鎮守なり、照光寺持 末社雷神社」と載る。当社の創建の年代は不明であるが、村民の菩提寺となってきた曹洞宗の照光寺の創立が寺伝に承応年間(1652~55)とあるところから、当社もまた村の発展に伴って照光寺と同時期に勧請されたものと思われる。ちなみに、照光寺は、元来は当社の裏手にあったが、神仏分離の後、現在地に移転した。
 一方、『明細帳』記載の由緒を見ると、「創立不詳、明治六年四月村社に列せられる、住吉は諏訪社一柱ありしがいつの頃か合祭したりと云伝ふ」とある。ここに載る諏訪社は、『風土記稿』に当社の末社として記されているもので、当社に合祀された形になっているが、実際は現在も旧地(自治会館のある所)に社殿が残り、祭りも行なわれている。当社の本殿は明治二十五年十二月、拝殿は同四十一年九月に改築され、同じく四十一年の十一月には、同大字字東台の村社天神社とその境内社の稲荷社・琴平社・疱瘡社の三社を合祀した。

深井家長屋門】 (左奥) 13:55
 街道に戻って、次の道を左に少し入ると右側に照光寺がある。ここは特筆するものはないので、寺に沿って右折し、次を左折、更に次を右折すると突当りに深井家長屋門が見られる。
 最後の右折道角に案内標識が立っている。
  


【農と見沼代用水の原風景 (左奥) 13:59
 案内標識が立っている所を真直ぐ進むとすぐ、見沼の龍神から続く見沼代用水が再び見られる。
 案内柱には、『見沼田圃の散歩道③ 農と見沼代用水の原風景』と書かれていたが、この時期、特に美しい景色ではなく、上記「国昌寺橋」付近と同じ風景だった。


さぎ山記念公園】 (左側) 14:12~14:35
 街道に戻り、「浦和東高校入口」信号を過ぎ、天久保
(あまくぼ)坂を下った信号がさぎ山記念公園入口で左手に公園が広がる。

【さぎ山記念公園】 
開設年月日:昭和61年5月10日
開 設 面 積:43,500㎡
 かつては鷺が集団営巣する「野田のさぎ山」として国の特別天然記念物に指定されていたこともあり、その名を後世に残すとともに、往時を偲ぶことができる公園として整備されました。
 園内には芝生広場をはじめに、鷺のモニュメントが目印の花畑を配した池では釣りを楽しむことができます。
 また、自炊やキャンプが体験できる「青少年野外活動センター」は、自然とふれあえるキャンプ場となっています。


 園内に入ると、芝生広場の左奥に「さぎ山記念館」があり、数種の鷺の剥製や鷺に関するパネル等が少しある展示館となっている。
開館時間:午前9時から午後5時まで
休 館 日 :年末年始


【見沼自然公園 (左奥) 14:35~14:45
さぎ山記念公園の芝生
(上の写真)の奥にある釣りが出来る池の縁を進むと、道路を挟んで、見沼自然公園にそのまま入って行ける。公園に入ると正面に修景池がある。

【見沼自然公園】
開設年月日:昭和6年3月31日
開設面積:109,200㎡
 さぎ山記念公園の隣に位置し、見沼田圃の原風景を取り込み自然環境に配慮した、人と自然のふれあいの場となる公園として整備されました。
 芝生広場や修景池の周りでは多くの人が思い思いの時間を過ごし、また、園内の南側には自然観察園として水生植物や野鳥の池、湿地帯が広がり羽を休める野鳥や自然に育まれた動植物を観察することができます。


 池の前を右手に進むと広い芝生の中に井澤弥惣兵衛為永翁像が建っている。

【見沼代用水路の開祖 井澤弥惣兵衛為永】
 井澤弥惣兵衛為永は紀州溝ノ口村(現和歌山県海南市)に生まれ、その年を明確に表すものはありませんが、徳川幕府が寛政年間にまとめた系譜集によると承応三年(1654)になっています。
 為永は幼少の頃より学問、特に算術に秀でており、若くして紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系に造成された亀池は代表的な施設として現在でもその姿を保っています。
 享保元年、徳川吉宗が八大将軍になった頃の幕府は財政状況が大変苦しく、財政改革に乗り出した吉宗は紀州徳川藩主当時、治水事業に能力を発揮していた為永を享保七年、江戸に召し出し、紀州流といわれる土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に大きく貢献しました。
 為永は享保十年、新田開発のため見沼溜池を観察し、干拓後の水源を見沼に代って利根川より水を引くこととし、享保十二年(1727)より工事を開始し、元荒川の底を通す伏越・綾瀬川の上を通す掛渡井等を構築し、翌年の春に完成させ、総延長約六十キロに及ぶ見沼代用水路をわずか半年にて完成させました。これにより見沼溜池井約一二〇〇ヘクタールの新田開発と八丁堤下流の水源を確保することとなりました。また、見沼代用水の開削に合わせ小林沼(久喜市)等の、数多くの沼地を開墾し、黒沼・笠原沼用水、天久保用水、高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けています。そして閘門式運河としての通運施設を開発し、芝川と東縁・西縁用水路を結ぶ通船堀を享保十六年(1731)完成させています。これは当時のわが国の技術レベルの上でも、世界の通運史上からみても特筆されるものであり、現在通船堀遺跡は国指定史跡となっています。
 為永は晩年、美濃郡代を兼ね、元文三年(1738)三月にその生涯を閉じたとされています。


 なお、「見沼代用水路」の名称については、見沼に代る水源としての用水路との理由から命名されたものです。


 為永像から右手の正門口へ向うと、龍の彫り物と説明板がタイルに嵌め込まれていた。

【見沼の龍】
 昔、この一帯は田の用水を貯めておく大きな沼でした。その頃沼には龍神様が住んでおり、いくつかの話が今に伝えられています。
    『見沼の笛の音』
 月のきれいな晩、美しい女の人がまるで夢のようにやさしい笛の音を見沼のほとりに響かせ、村人たちは次々と音につられて姿を消し、見沼の龍神様が姿を変えてあらわれたものではないかとのはなしです。
    『見沼の弁天様』
 長旅に疲れた女の人を馬に乗せた馬子が、小判ほどの鱗をもらい、小さなやしろとしての弁天様にまつると、それからというもの村には豊年が続き、水害もなくなったとのことです。

 また、近くの国昌寺には、左甚五郎の作と伝えられる龍の姿が刻まれた欄間があります。江戸時代中期、村の作物を荒らす龍を釘付けにしたという伝説の門です。

 まさに見沼は、古くから龍と深いゆかりのある地と言えるでしょう。


 正門から県道214号線に出た公園入口の右(園内に向って左側)に野田の通船堀跡の説明板が立っている。

【野田の通船堀跡】
 この水路は、江戸との往復の舟を通した私設の運河跡です。享保13年(1728)、見沼溜池は干拓されて新田となり、在来の溜井に代る用水として見沼代用水路が開かれました。この公園の北東に接して流れているのが、見沼代用水路です。同16年、代用水路縁辺の村々と江戸とを結ぶ内陸水運が幕府によって開かれました。これを見沼通船といい、年貢米、薪炭、野菜、柿渋、酒などが江戸に運ばれ、江戸からは、肥料、塩、雑貨などが運ばれて来ました。
 見沼通船には、各所に河岸(荷積み場)が置かれ、拠点に通船会所が設けられました。この公園に隣接する中久喜家の祖は、井沢弥惣兵衛為永に従って見沼新田開発に就事したということです。一方、同家では、住宅庭先までの通船堀を私的に設け、芝川(見沼中悪水路)、加田屋川を経る通船を開き、代用水路側と両方の船荷を効率的に取り扱いました。
 浦和市では、公園造成にあたり、この通船遺跡をそのまま残し、近世の専業交通の歴史を学ぶ場としました。
     平成6年4月 浦和市

【旧坂東家・見沼くらしっく館 (左奥) 14:50~15:05
 見沼自然公園を出たら、県道を左に250m程行った、「三崎台」バス停前を右に入ると旧坂東家住宅見沼くらしっく館がある。

【旧坂東家住宅見沼くらしっく館】 さいたま市指定有形文化財(建物)
 
かつての農家の姿を再現

開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日   月曜日(祝日は除く)
       年末年始(12月28日~1月4日)
入館料   無料



式台

囲炉裏
 旧坂東家住宅見沼くらしっく館は、市指定文化財「旧坂東家住宅」を中心に、かつての「農家のすがた」を再現しています。
 「生きている民家」をテーマに、農家のくらしを直に感じ取られるよう、住宅の中も自由に見学することができ、また、当地で行なわれてきた年中行事の再現と公開を行なっています。
 敷地の北側一帯屋敷林から続く見沼の斜面林が、東側は加田屋新田が広がり、のどかで緑豊かな自然環境を有しています。

【さいたま市指定有形文化財(建造物)「旧坂東家住宅」】 平成3年10月3日指定
 加田屋新田を開発した坂東家の旧宅をほぼ同位置に復元したもので、木造平屋、寄棟造り茅葺の建物です。床面積87坪(約286㎡)で、建築年代は解体時に発見された墨書銘から、安政4年(1857)に建てられたことが判明しています。
 坂東家は、紀州(和歌山県)の出身で江戸に住む商人でした。この地の新田開発は、坂東家によって江戸時代の初めから行なわれていましたが、享保13年(1728)の見沼代用水の完成に合わせて開かれた田は、坂東家の屋号である「加田屋」をとり、「加田屋新田」と名付けられました。以来、坂東家は、見沼代用水の見回り役やこの地の名主などの要職を明治期に至るまで長く務めたのでした。

     パンフレットより


 見沼クラシック館前の「三崎台バス停」より、国際興行バスにて「大宮駅東口」まで行き、大宮駅よりJRで帰宅。
 正式には「さぎ山記念公園入口」の信号を本日の日光御成道の終了点とし、二つの公園と見沼クラシック館は道草扱いとする。



4回目の旅終了(15:05)。見沼クラシック館前「三崎台バス停」。

【本日の記録 】
 江戸時代の街道のみの距離は、5.2Km(東川口駅陸橋~さぎ山記念公園)
 本郷追分から、六里二十町(25.7Km) (日本橋からは一里を加える)。
 寄り道を含めた実歩行距離は、11.0Km(東川口駅~三崎台バス停)  累計:43.8Km
 4時間50分 18,300歩。

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