浜街道(1) 八王子(八日町交差点)~京王「多摩境駅」
2014年3月12日(水) 晴
八王子駅西口ロータリー左手の北西へ斜めに延びている広い歩行者専用道路を進み、甲州街道の「八日町交差点」を10:45分スタート。
【片倉城跡】 東京都指定史跡(昭和11年3月標識指定・平成11年3月3日史跡指定) 片倉城跡は湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約三〇mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切りがなされ、 三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。 『新編武蔵風土記稿』などでは応永年間(1394~1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。 築城主体や年代の特定は困難ですが深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から十五世紀後半以降に築城され、 十六世紀代に廃城となったと推定されています。しかし城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。 平成二二年三月 建設 東京都教育委員会 |
【住吉神社】 由緒 鎌倉官領、片倉城主、長井大善大夫道広が、応安五年(1372年)城の鎮守の神として、摂津国(大阪市)住吉大社を勧請したものである。 慶安二年(1649年)十月十七日、徳川三大将軍より朱印七石を受ける。 境内は城跡で、都の指定を昭和十一年三月受ける。 例祭日 八月第四日曜日 附記 当神社には、嘉永四年(1851年)川幡元右衛門泰吉および、その門人が「数学の実力がつきますように」という祈願された算額が奉納されています。 |
【由来記】 當寺起立ハ文安二年 五輪石塔二柱アリ文字詳ナラズ 畠中進江ト仁此地ヲ寄附而 小室ノ阿弥陀堂ヲ建立シタモノト思考ス 心安守公和尚ヲ開基トス住吉ハ小庵ニテ阿弥堂ナリド思ヘリ天文年間「自賢庵」ト云フ 右文安二年ヨリ慶安貮年迄貮百五年過ル世代七代ハ開基心安和尚ヨリ世代八名ノ相續アリ 然ルニ天正年間中ノ頃 永林寺一種長純和尚ヨリ 三世岳應義堅和尚ヲ請シテ報地起立上堂大禮ス 其后慶安二年徳川三代将軍ヨリ高六石御朱印地ヲ賜フ (後略) |
やがて左カーブすると「八王子バイパス」の防音壁が現れ、バイパスに架かる「片倉第2跨道橋」を渡る。 跨道橋を渡ったら、バイパス入口(車用)の次の側道を右折する。 緩やかな上り坂を進むと程なく道は突き当たりになり、その手前の左側に長い階段が見えてくる(左の写真)。 この階段が鑓水峠の入口。151段登ると「絹の道→」の道標が現れる。 登り終えた所から振り返ると八王子市街が一望できる。本日は晴れていても少々霞んでいたので富士山は見えなかった。 ここから暫くは雑木林が続く浜街道のハイライトで、落ち葉を踏みしめながら往時を偲べる、文字通り「絹の道」と呼ぶにふさわしい山道となる。 |
【絹の道】 (市指定史跡) かつては浜街道(横浜街道)と呼ばれ、八王子から鑓水、原町田を通って横浜へ通じていた。絹の道と呼ばれるようになったのは昭和30年(1955)頃から。 安政6年(1859)横浜が開港されると、安価で上質な生糸は重要な輸出品となる。八王子に集められた山梨などからの生糸はこの道を通って横浜へ運ばれ、生糸の流通の仲買で活躍したのが地元鑓水の商人達である。 横浜に来航した外国人たちもこの道を通って八王子や高尾山などへ観光に行き、トロイアの遺跡を発掘したとドイツのシュリーマンやイギリスの外交官アーネスト・サトウは記録を残している。 絹の道資料館の石塔が立つ別れ道から道了堂入口までの道は当時の面影を残している。 |
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【道了堂】 鑓水商人の大塚忢郎吉が中心となって、峠を通る旅人や村内の安全のために、村でも見晴らしの良い峠の上に、浅草花川戸かから道了尊を勧請して明治7年(1874)に創建したもの。さまざまな経緯を経て、全体が整備されたのは明治10年(1877)で、道了堂建設のいきさつを記した「築礎碑」は明治13年に建てられている。地元の人々の信仰を集めて繁栄したが、しだいに荒廃し、昭和58年(1983)に倒壊しかけた堂が撤去され、今は礎石の跡と石の灯篭などがわずかに、かつての面影を忍ばせている。 (左下の写真は「道了堂跡」を後ろ側から写した大塚山公園の山頂) |
竹林 梅林 枯葉散る雑木林
【絹の道】 市指定史跡(昭和47年10月26日指定) 指定区間 御殿橋から大塚山公園(道了堂跡)まで 安政六年(1859)の横浜港開港から明治はじめの鉄道の開通まで、八王子近郷はもとより長野・山梨・群馬方面からの輸出用の生糸が、この街道(浜街道)を横浜へと運ばれた。 八王子の市にほど近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は「江戸鑓水」とも呼ばれた。 なお、この「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和二十年代の末に名づけたものである。 平成五年五月三十一日 八王子市教育委員会 (左の写真で、右の道が大塚山から下りて来た絹の道、左の道は国道16号で出る道。間の三角点に石塔群が建っている) |
【絹の道資料館】 昭和60年に、歴史的な雰囲気などが損なわれないよう、 「絹の道」の保全と環境整備を目的とした基本構想が策定されました。 旧道了堂のあった大塚山を公園として整備し、市指定史跡「絹の道」の中心的な施設としてかつての鑓水の生糸商人、八下要右衛門家屋敷跡に休憩所を兼ね備えた資料館を建設することになりました。 この計画に従って、昭和62年から、発掘調査による遺構の確認や、石垣の復元などを経て、生糸商人屋敷の景観をイメージした木造の門や、入り母屋屋根をもつ絹の道資料館が平成2年3月に開館しました。 資料館のパンフレットより |
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【展示室ごあんない】 その昔、日本がまだ東洋の小国であった頃、多摩丘陵の一寒村ですぎなかった鑓水村が、遠くアメリカやヨーロッパから、「江戸鑓水」と注目を浴びたことがありました。それはこの村から、生糸の貿易に携わる多くの商人が出てきた事によるものでした。 山間の小さな農村の片隅で引かれた細い生糸は、太い束となり、大きな荷駄となって、「絹の道」を通り抜け、港へ集められ、世界へ旅立って行ったのです。 当館では、幕末から明治にかけて、「絹の道」を舞台に、生糸と生糸にかかわった人々のドラマを、いくつかの資料により解説しています。 |
【水路と建物跡】 (左の写真) 八木下要右衛門(ようえもん)は、山の裾に建てられていたため、湧水が豊富で、この排水には石積の水路を用いて南側へ流す工夫をしています。復元された水路は、南側が暗渠になる優れた構造となっています。この水路の東側には、漆喰壁の蔵と河原石の礎石を持つ使用人の住居と思われる建物がありました。 八王子市教育委員会 【異人館跡】 八木下要右衛門屋敷の南の隅に建てられていた書院は、別名「異人館」と呼ばれていました。 ここを訪れた外国人をもてなした場所であったからと伝えられていますが、螺旋状の階段が設けられていたことも、当時としては異国風であったのかもしれません。 発掘調査の結果、建物の基礎などはなく、整地した土の上に建てられていたことがわかりました。 八王子市教育委員会 |
進行方向から写したもの |
反対側から写したもの |
八王子を過ぎて最初の一里塚だが、説明板等は何も無い。 塚は右側のみ残っている。 |
【八王子道道標】 この道標は、輸出品の花形であった生糸を横浜港へ運ぶ時の道しるべとして慶応元年(西暦1865年)に建てられました。 当時、この道すじには、家屋敷が建ち並び、外国人等も往来し大変なにぎわいを見せていました。 生糸の仲買人として活躍したこの地の商人たちは、鑓水商人として、後世にその名を残しています。その姿は、道標の正面に描かれています。 なお、この道標は、 御殿橋南側にあった旧鑓水公会堂横に建てられていましたが、大栗川の改修工事に伴い、昭和63年に現在の場所に移されました。 八王子市教育委員会 八王子市鑓水町会 (左の写真で、八王子方面の右奥から手前に来るのが絹の道。左手が御殿橋) |
【永泉寺由緒】 永泉寺の開創は弘治元年(西暦1555年)甲斐武田族 永野和泉(武田信玄の叔父に当たるとか)が時の党族争い等の醜さから逃れて 諸家臣と共に鑓水に移住し一宇を建て 家宝の正観音像を奉安し(現在武相観音十四番札所)由木永林寺開山佳持に就いて剃髪し覚峰文公と改名し一宇を高雲山永泉庵と称して其の基を開き 当寺開基位となり永禄二年(西暦1559年)九月九日寂す その後永林寺三世住職 岳應義堅大和尚が天正元年(西暦1573年)当寺を法地寺院として開山し 諸堂山門・七棟を建立する 天正十五年(西暦1587年)十月十日寂す 曹洞宗大本山永平寺・総持寺に属す 現在の本堂は明治十八年火災全焼したため鑓水絹商人八木下要右エ門の母屋の寄進をえて移築し 以後奥の間養蚕室・茅葺き屋根を改築し 現在に至る (左上の写真が八木下要右エ門の母屋を移築という本堂) |
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本堂の左向かいに建つ石碑俳句の3番目が芭蕉の句碑(左下の写真の真中)。 『先づたのむ 椎の木もあり 夏木立』と刻まれている。 |
【小泉家屋敷】 東京都指定有形民俗文化財(昭和47年4月19日指定) 小泉家の主屋(建築面積一一二平方メートル)は明治十一年(1878)に再建されたものであるが、木造平家建入り母屋造、茅葺、田の字形四間取りで、この地方に旧来から見られる典型的な民家建築を示している。 屋敷地の面積は約三三・二アールで、南面した道路沿いは宅地、田畑地となっており、背後の畑地から北側にかけては山林で次第に高くなり尾根に達している。 敷地内には母屋のほか納屋・堆肥小屋・稲荷社・胞衣塚などが点在し、多摩丘陵地域の一般的農家の屋敷構・生活形態を知る上で貴重な民俗資料となっている。 平成十九年三月一日 東京都教育委員会 |
【田端遺跡】 (入口の説明板) 境川に面した丘陵裾部一帯に広がる縄文時代中期から晩期(約4500~2800年前)にかけての集落に、墓地、祭祀遺跡である。 昭和43年に周石墓(しゅうせきぼ)、土擴墓(どこうぼ)からなる後期の集団墓地、死と再生に関する祭祀の場と考えられる後期から晩期にかけての環状積石遺構(ストーンサークル)が発見され、昭和46年都史跡に指定された。その後、周辺域の発掘調査により竪穴住居跡などからなる中期から後期の大規模な集落も確認された。現在、整備された範囲内の遺構は、盛土保存され、環状積石遺構の複製が展示してある。 平成17年3月31日建設 町田市教育委員会 【町田市田端環状積石遺構】 都史跡(昭和46年3月30日指定) 縄文時代後期中頃から晩期中頃 (約3,500~2,800年前)に至るまで連続的に構築された遺構である。 大小の自然礫を帯状に積み上げ、長軸(東西)約9メートル、短軸(南北)約7メートルの楕円形を呈し、ほぼ長軸上に富士山を望む。また冬至には蛭ヶ岳頂部に沈む夕日を観測できる。積石の周辺部には周石墓7基、土擴墓25基、組石6基がある。積石の内部からは石棒、刻線文礫、大珠、玉類、土偶、耳飾、スタンプ形土製品、注口土器、埋甕など、日曜用具以外の特殊遺物が多数発見されており、本地域一帯に住居する集団の宗教的な場であったと考えられる。 2006年(平成18年)3月31日建設 町田市教育委員会 |