前回歩いてきた国道1号線が五反田駅のガードに着いたらくぐらずに手前を左折、駅入口前を通り過ぎたらすぐ右折する。「大崎橋」を渡り、「ゆうぽーと」のある「大崎広小路交差点」を越える。
再び国道1号線に合流したら歩道橋を使って反対側に渡る。渡ったら「中原口交差点」を右折して、すぐ細道を左折する。
首都高下の広い道路に出たら、対面の道路に真っ直ぐ行きたいが、この広い道路は渡ることが出来ない為、1号線に迂回しなければならない。
再び旧道に入った所の左側に、車道に向いて「旧中原街道」の標識が見つかるので、この道路に間違えが無いことが分かる。
長年旧街道を歩いていると、このような約5.5mの道幅に入った途端、標識を見なくとも直感的に「江戸時代のままの旧道だな!」と分かるようになってきた。
事実、旗の台二丁目付近と、ここ西五反田六丁目から荏原二丁目の2か所に江戸時代からの道幅の通りが残っているとの事である。
【お地蔵さまの由来】 このお地蔵さまは享保十二年(1727)に建てられた「子別れ地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩です。 ここは、かつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸を見送った場所であったと云われております。 櫻井秀雄寄進 |
【旧中原街道供養塔群(一)】 品川区指定有形民族文化財(昭和63年3月22日指定) 本供養塔群は、かつては現在地の北方約十㍍の辻にあったが、昭和三十八年の区画整理の際、ここに移されてきた。 四基の供養塔のうち中央の大きい石造地蔵菩薩は、総高一・九㍍に及ぶ。造立年代はわからないが、台石に刻まれている十七の村名や型態からみて江戸時代中期と考えられる。向かって右の地蔵菩薩は延享三年(1746)寒念仏供養のためのもの、左手奥の馬頭観音は元文元年(1736)造立であり、この頃戸越本村に馬持講があったことを示す。その前にある聖観音は石造墓碑で、貞享年間(1684~87)に建てられた。 これらの供養塔は江戸中期から後期の庶民の信仰状況を示すものとして貴重である。 平成十三年三月三十日 品川区教育委員会 |
【旧中原街道供養塔群(二)】 品川区指定有形民族文化財(昭和63年3月22日指定) 旧中原街道は江戸虎ノ門より相模国平塚に至る道路で、かつては東海道に並行した脇街道として旅行者や物資の輸送に利用された。
本供養塔群は、旧戸越村地内の旧中原街道に沿った所に六基存在する。寛文六年(1666)延宝元年(1673)宝暦四年(1754)造立の庚申塔、古来子育地蔵と呼んで信仰される造立年代不明の大きな地蔵、風化甚だしく銘文不明の供養塔、髭題目が刻まれた寛文二年銘(1662)の石造墓碑がある。これらの供養塔群は旧街道時代の状態がよく遺され、江戸期の街道の面影を伝えるものとして、また戸越村・桐ヶ谷村の民間信仰を今に伝える民俗資料としてその価値が高い。 平成十三年三月三十日 品川区教育委員会 |
右から石造墓碑・子育て地蔵・五輪塔の様な供養塔・庚申塔・長い銘文と三猿・青面金剛立像が下の写真の配列で六基並んでいた。
ここの左手、中原街道と国道一号線の間に、全国にある○○銀座の発祥の地、「戸越銀座」がある。
「戸越」の地名の由来は、「江戸越え」が変化して「戸越」になったと云われる。
【平塚の碑】 古くは鎌倉へ通じる古道で、江戸時代には東海道の脇街道として往来の盛んであった中原往還(中原街道・相州道)沿いに「平塚」と呼ばれる大きな塚があった。 伝承によると、後三年の役(1083~87)において八幡太郎 源義家をたすけた弟の新羅三郎 源義光は奥州からの帰途、この地において夜盗に襲われ多数の配下を失った。その霊を祀ったのが、この塚の由来とされている。 時の流れとともに、この塚は取り壊されたが、地域の人たちによって昭和二十七年(1952)三月、「平塚の碑」が建立され、伝承は受け継がれている。 昭和五十九年四月三十日 品川区教育委員会 |
【旗の台一丁目石造庚申供養塔】 品川区指定有形民族文化財(昭和61年3月十四日指定) 中原街道から分かれて小山に至る旧道の分岐点にあり、寛文五年(1665)旧中延村の庚申講中が造立したもので、区内現存の庚申塔五十基のうち三番目に古い。中央に「南無妙法蓮華経」の髭題目を彫り、その下に石塔を造立した七名の氏名が刻まれている。 本塔は高さ九二センチメートル、板碑型で材質は安山岩、向かって右上部に一部欠損が見られるが、保存状態は概して良好である。日蓮宗の影響か、青面金剛・三猿・日月が彫られていない文字塔として特色がある。 全村のほとんどが日蓮宗といわれる旧中延村に、日蓮宗の僧が指導したと思われる庚申講の存在を示す資料として貴重である。 平成十三年三月三十日 品川区教育委員会 |
【中原街道高札場跡】 高札場は札場(フダバ)ともいい、江戸時代に高札が掲示された場所をいう。高札とは法度(法令・禁令)などを板札に墨書したもので町辻、橋詰など多くの人々の目にふれる場所に設置されここ中原街道は江戸から相模国中原へ向かう主要な道路であった。当敷地は芳根氏で徳川時代から大正時代まで俗称を(札場)と呼ばれていた。 なお同所には東京都認定天然記念物の大欅(樹齢約四百年)が昭和四十一年まであった。 平成十年十月吉日 品川区郷土の会 この「昭和大病院前交差点」を反対側に渡って、左の旧中原街道に進む。 冒頭に述べた通り、この道も江戸時代からの道幅が残っている道である。 但し、旧道は短く、右に90度曲がってすぐ「旗の台交差点」で新道に合流する。 かつては、右に曲がった先で南北に川が流れ、橋が架かっていたと思われる。 地図を見ると、川が塞がれて一部緑地帯となっているのが見られるからである。 |
【日蓮上人袈裟掛けの松 由来】 弘安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。 天保期(1830~1843年)の「嘉稜紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。 なお現在ある松は三代目であると伝えられる。 御松庵 社団法人 洗足風致会 |
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【馬頭観世音供養塔】 大田区文化財 天保十一年(1840)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。 光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀之内・碑文谷 道」「東 江戸中延」「南 池上・大師 道」「西 丸子稲毛」というように東西南北のそれぞれの方向を示す地名が示されている。 この銘文から、もとは中原街道と碑文谷-池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成十三年に現在地に移設された。 江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
【勝海舟夫妻の墓】 大田区文化財 勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(1823)江戸に生まれる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。 維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。 洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十二年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。 別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた 千束村の別墅に 楓樹数株を植ゑて うゑおかば よしや人こそ 訪はずとも 秋はにしきを 織りいだすらむ 染めいづる 此の山かげの 紅葉は 残す心の にしきとも見よ (飛川歌集より) 昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 |
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【留魂祠】 由緒 明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(1877)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と供に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六(1883)年、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感(ごくちゅうかんあり)」の「願留魂魄護皇城(ねがわくはこんぱくをとどめてこうじょうをまもらん)」に由来するものです。 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木1-5-9)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御意思により、大正二(1913)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。 南洲会 |
【洗足池辨財天(厳島神社)御由緒】 一、御祭神 市杵島姫命 一、御神徳 福徳財宝授けの神 音楽、舞踏、芸能上達の神 水神、水路、海上安全の神 交通安全の神 商売繁盛の神、特に水商売繁盛の神 一、由緒沿革 創建の年代は、不詳なれど、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが、長い年月の池中に没してしまっていた。その昭和の初め頃より数多くの人々の夢枕に辨財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具体化し、多くの人々の尽力によって、昭和九年七月洗足風致協会の手により築島遷宮の運びとなり、以来今日に至る間、多くの参拝者に、右御神徳を授けられている。 |
【名馬池月の由来】 治承四年(1180)源頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。 或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来たちがこれを捕らえて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを「池月」と命名し頼朝の乗馬とした。 寿永三年(1184)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。 ここに名馬池月の銅像を造り、その名馬池月発祥の伝承を永く後世に伝えようとするものである。 平成九年十月吉日 洗足風致協会創立六十五周年記念 社団法人 洗足風致協会 |
【御由緒】 當社は千束八幡神社と稱し 平安前期の貞観二年豊前国宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ 今日に至る 遠く千百余年の昔より この地の氏神として尊崇せられ 普く神徳を授けてこらる 承平五年 平将門の乱が起る 朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり 乱後忠方は池畔に館を構え 八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき 館が池の上手に当たるに依りて池上氏を呼稱 この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す 之池上康光なり 又八幡太郎義家奥羽征討の砌 この池にて禊を修し 社前に額つき戦勝祈願をなし出陣せりと伝える 源頼朝も亦鎌倉に上る途次 この地を過ぐるに八幡宮なるを知り 大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉 近郷より将兵集まりて 鎌倉に入る事を得 旗挙げ八幡の稱あり 名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり 尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが 大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし 古歌の『日が暮れて足もと暗き帰るさに霊に映れる千束の松』と詠まれて居り 老松の偉容が想像されよう 斬の如く當八幡神社は城南屈指の古社にて亦名社なり 宮司 恵良彰紀識 左の写真は「池月橋」から見た千束八幡神社の小山で、左側に赤い鳥居とその奥の石の鳥居が見える。 |
大正十二年四月に建てた石碑で、大正時代に工事した堅苦しい改修内容が刻まれていた。 |
【庚申供養塔】 大田区文化財(昭和50年3月19日指定) 文化十一年(1814)に、品川の御忌(きょき)講(御忌とは法然上人の忌日)という浄土宗を信仰する人々が再建したものである。背面の銘文から、延宝六年(1678)に森氏道円が願主となり建てた旧碑が、何かの事情で失われていたものを再建されたことがわかる。 この塔のような角柱型に文字を刻んだ庚申供養塔は、江戸時代後期によくみられる特色のものである。 また向かって右面に刻まれた銘文により九品仏(浄真寺、世田谷区奥沢)への道しるべを兼ねたものであることがわかる。この地点が中原街道から浄真寺に至る旧道の分岐点に当たることは、古い地図からも確認できる。 江戸時代の民間信仰の様相を示すものとして貴重である。 大田区教育委員会 |
【石橋供養塔】 大田区文化財(昭和51年2月25日指定) 安永三年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主になって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。 石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。 正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。 石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。 大田区教育委員会 |
【桜坂(さくらざか)】 この坂道は、旧中原街道の切通しで、昔は沼部大阪といい、勾配のきつい坂で、荷車の通行などは大変であったという。 今ではゆるい傾斜道となっているが、坂の西側に旧中原街道のおもかげを残している。 坂名は両側に植えられた桜に因む。 |
【ジャバラ】 六郷用水物語 この水車は、ジャバラ(足踏み水車、踏車ともいう)と呼ばれる揚水用水車の模型です。かつては、六郷用水流域の水田においても、早春や干ばつ時の水が少なくなった時に、羽を足で踏んで回転させ、田に水を揚げていました。 (実際に使われていた水車とは若干異なります。) |
【庚申供養塔】 大田区文化財(昭和49年2月2日指定) 寛文元年(1661)に造立された本区最古の庚申供養塔。当時の沼部村村民の有志八名が造立したもの。舟型の石に地蔵菩薩像を彫った形態は、初期の庚申供養塔の様式を示している。 銘文中の「庚申待」の文字は、本区所在の庚申塔中最初の記載で、庚申待の習俗を知る資料としても貴重である。 庚申待とは、道教の思想に基づく民間信仰で、庚申の日に人々が宿に集まって、徹夜で談笑し、厄除息災を祈念する風習である。 大田区教育委員会 |
【丸子の渡し跡】 大田区文化財(昭和50年3月29日指定) 丸子の渡しは、沼部(現田園調布本町)と上丸子(川崎市中原区)とを結ぶ多摩川の渡しで、古くは「まりこのわたし」ともいった。渡し守子の「もりこ」がなまって「まりこ」となったともいわれる。 この付近は、すでに鎌倉時代の文書に「丸子荘」と記載されたり、また文明十八年(1486)から十九年にかけて、京都から東国方面へ旅行した際の記録である『廻国雑記』に「東路のまりこの里に行かかりあしもやめずいそぐ暮れかな」と詠まれた。中世以来の渡し場と推定される。 江戸時代になると、中原街道が整備され、物資の搬入時に利用され、昭和九年(1934)丸子橋が完成するまで利用され、江戸東京の玄関口として大きな役割を果たしていた。 大田区教育委員会 |
【旧原家母屋跡地】 原家九代目文次郎は、明治二十四年から二十二年の歳月をかけて、この地に母屋を大正二年に完成させました。総ケヤキ造りの母屋は、高度な木造建築技術を駆使した明治時代を代表する建築物として平成十三年に川崎市の重要歴史記念物に指定されました。十一代目正巳はこの建造物を多摩区にある川崎市立日本民家園に移築復元することによって、後世の多くの人々が郷土の暮らしぶりや、先人達の知恵を学ぶ屋舎として活用されることを望んだものです。 平成二十一年一月 十二代目 原正人 【川崎歴史ガイド】 徳川家康が初めて江戸の入った天正十八(1590)年、まだ東海道は整備されておらず、家康は平塚からほぼ直線で江戸に向うこの道を通った。 江戸時代の初め、江戸に通じる主要街道として使われたこの道も、東海道が整うと徐々にそれまでの賑わいを失っていく。 しかし、その後も沿線の物資や農産物輸送などに欠かせない大切な道として、中原街道は、人々の生活に深い関わりを持ち続けてきた。 |
街道から18m奥に重厚な長屋門が建ち、門まで植栽されている松の木が松並木の景観を呈して、風情を高めている。 安藤家の祖先は、小田原の後北条氏に仕えていた安藤大炊助重虎(おおいのすけしげとら)で、後北条氏滅亡後に小杉村に土着帰農したと伝えられている。江戸時代には、橘樹郡小杉村の割元名主として、代官の指揮下で近隣の村々の名主を統括していた。 |
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【旧名主家と長屋門】 川崎市指定重要歴史記念物(平成24年11月27日指定) 江戸時代この辺りの名主の代表格だった安藤家。代官から賜った長屋門が今に残る。門の内側にある高札のほか、この旧家には古文書、絵図など貴重な歴史資料が多く残されている。 門は閉じられていたので内側は見られなかった。 建築年代は江戸時代末期(19世紀中期~後期)で、構造形式は木造平屋建て(中二階あり)、寄棟造、桟瓦葺。 |
【明治の醤油づくり】 川崎歴史ガイド 「キッコー文山」の商標で石橋醤油店が醤油作りを中原の地で始めたのは明治三年。昭和二四年に創業を終えるまで、ここには大樽を据えた醸造工場や蔵が建ちならび活況を呈した。 |
【小杉御殿の御主殿跡】 川崎歴史ガイド 二代将軍秀忠が建てた小杉御殿は、家康の送迎のほか、鷹狩りの休息所などに使われた。後に東海道が主街道となると、御殿は廃止される。この辺りに御殿の中心、御主殿があった。 |
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【御蔵稲荷と多摩川】 川崎歴史ガイド この辺りに小杉御殿の御蔵があった。御殿は、当時このすぐ裏側を流れていた多摩川を背後の守りとしていた。川の流路が変わり、その頃の川筋は今、等々力緑地となっている。 【小杉御殿跡碑】 (左の写真で右側の碑の文章) 徳川二代将軍秀忠公が鷹狩の際や中原街道を経て相州中原御殿への中宿として慶長十三年(1608)着工中原街道の北側一万二千坪の地に表御門裏御門あり下馬札が立てられ御賄御蔵御殿番陣屋等の屋敷が棟を並べ規模大であった 約五十年後に建物の一部を品川の東海寺に更に上野弘文院へ賜はり御殿は廃止となった 此所は御蔵屋敷の跡で御蔵稲荷といわれ陣屋跡御主殿跡にも稲荷社がある |
由緒等は見つからなかったが、御神木のケヤキは樹齢150年、樹高24m、幹回3.1mと記されていたが、古い案内なので現在はもう少し大きくなっていると思われる。 左の写真で、鳥居の奥に見えるのが御神木のケヤキでその奥のイチョウは見頃だった。イチョウの右隣が拝殿。 小杉神社の創建は不明だが、江戸時代小杉村と呼ばれていた当地の周辺には杉山社、神明社、総社権現(神明社の相殿)の三社があり、三社とも小杉村の鎮守となっていた。昭和26年(1951)に三社を合祀して小杉神社と改称したと云う。 |
参道 |
【史蹟 徳川将軍小杉御殿跡】 小杉御殿はこの附近東西旧多摩川河畔迄約四万平方米の地に1608年(慶長十三年徳川秀忠の代)造営され1672年(寛文十二年徳川家綱の代)に全部撤収となったものである 昭和四十四年二月 武蔵中原観光協会建之 【西明寺と小杉学舎】 川崎歴史ガイド 真言宗知山派。境内の弁財天には中興の祖北条時頼にまつわる伝説がある。参道付近はよく公の場として使われた。明治六年には、本堂に「小杉学舎」が置かれ、近代小学教育の場となった。 |
本堂 |
【龍宿山金剛院西明寺縁起】 西明寺の名は遠く弘法大師が勅命をうけて渡支(804)した際の宿坊の寺号に発し帰国後大師の東国御巡化の砌りこの地に留錫し高弟泰範上人に命じ堂宇を建立す その後北條時頼公(1263)の信仰篤く当時は最明寺とも称した記録がある 近世徳川家康公も小杉御殿の隣地西明寺を崇敬し境内を殺生禁制の地と定め祈祷料として御朱印地を寄付された 文化三年(1806)仁和寺宮一品親王より菊桐御紋章幔幕を下付された 当時の本堂(大正十四年焼失)昭和九年新築の外 十一面観世音菩薩を安置する観音堂あり 寛永五年(1628)長谷川丹後守寄進の鰐口が現存している また鐘楼堂(昭和三十八年改築)閻魔堂等七堂伽藍があったと伝えられる 多摩川の両岸にわたり末寺二十有余の談林として真言密教の法鼓を鳴らし今日に至っている 最明寺時頼百首抄よ里 我が心 かがみにうつす ものふらば さこそ姿の見たくかるべし 昭和五十年四月吉日 【印度菩提樹】 お釈迦さまは、ブッダガヤの菩提樹の下の金剛座で三十五のときに覚りを得られました。 |
【小杉駅と供養塔】 川崎歴史ガイド 川崎宿より五十年遅れて小杉もまた宿駅に指定された。 供養塔にも稲毛領小杉駅とある。台座の「東江戸、西中原」は街道が平塚の中原と江戸を結ぶ道であることを示している。 |
【庚申塔と大師道】 川崎歴史ガイド この庚申塔は「見ざる聞かざる言わざる」で知られる庚申信仰の最盛期、江戸時代のもの。道標を兼ね東江戸道、西大山道、南大師道と彫られている。昔ここから大師へ向った。 |
【二ケ領用水と神地橋】 川崎歴史ガイド 稲毛領、川崎領を潤した二ケ領用水の本流は、神地橋で中原街道と交わる。 用水の恵みを受け、この辺りでとれた質の良い米は特に「稲毛米」と呼ばれ、江戸の人々に喜ばれた。 左の写真の二ヶ領用水は、前述の「東光院」脇を流れる六郷用水と共に江戸時代に開発された用水の今日の姿である。 二ヶ領とは、川崎領と稲毛領のことを指す。 |
【泉沢寺と門前市】 川崎歴史ガイド 室町末期、世田谷からここに泉沢寺を移した吉良氏は、税を免除して居住を促し、また門前市を開き、この地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。 【泉澤寺の文化財】 当寺は、浄土宗に属しています。 当寺は、延徳三年(1491)武蔵国多摩郡烏山(現・東京都世田谷区)に、吉良氏の菩提寺として創建されました。その後、天文十八年(1549)堂宇がことごとく焼失したため、その翌年、世田谷領主吉良頼康が、現在の中原区上小田中に新しく建立しました。当寺には、中・近世からの歴史を物語る数多くの文化財が所蔵されており、次の文化財は、川崎市重要歴史記念物に指定されています。 古文書では、当寺再興に関する吉良頼康関係の判物、北条氏政の禁制(虎の印判状)、徳川家康の代官神谷重勝の寺領朱印状下附に関する書状、徳川氏奉行人連署奉書があります。 仏像では、江戸城内にあった五代将軍綱吉の霊廟に祀られていた木造・四天立像(広目天・多聞天・梵天・帝釈天)と、南北朝時代(十四世紀)制作の銅像・阿弥陀如来立像が所蔵されています。 昭和六十二年十月 川崎市教育委員会 |