芦野宿・白坂宿
(豊岡バス停 → 白坂駅) <旧奥州街道6回目>
2012年11月13日(火) 晴
自家用車で家を出て黒磯駅に車を泊め、「ゆーバス」にて前回終えた終点の「豊岡バス停」まで行き、ここを9:10スタート。
(注:
文中で街道の左側、右側とは白河に向っての左右です)
「大田原宿・鍋掛宿・越堀宿」 ← 「目次」 → 「白河宿」
【道標】 (右側) 9:30
「豊岡バス停」を過ぎ、少し登って頂上、その後長い下り坂となる。
やがて県道79号は左へカーブして行くが、奥州道中は県道から分かれて細道を真直ぐ進む。
旧道に入ってすぐ、右折道がある角に道標が立っている。右側面に『右 新田経黒羽至』、正面に『左 芦野経白河至』と刻まれている。
旧道は道標の前を過ぎるとすぐ黒川に突き当る。往時はこのまま真直ぐ川を渡って対岸に行ったが、現在はここに橋がないので、左折して県道に架かる「黒川橋」を渡る。
県道に上る前に黒川橋の付け根を見ると『平成10年8月末(27日未明)豪雨 最高水位』が赤線で示されていた。その赤線は現在の道路と同じ高さで堤を越えていた。
(写真は「黒川橋」で、最高水位は橋の上面である道路面だった。左の道が旧道で、写真を撮った場所が往時、川を渡った所)
【夫婦石一里塚】 (右側) 9:50
橋を渡ると上り坂になり、大きくU字にカーブする。この道の途中、山側のカエデが真っ赤に紅葉していたのが素晴らしかった。最高の時期に歩けて良かった。
U字が終わり右へカーブする辺りに夫婦石があるはずだが、何故か見つけられなかった。夫婦石神社の看板に気が付いた時にそちらに行けば良かったと、通り過ぎてしばらく経ってから気がついてもあとの祭りだった。明治天皇の夫婦石野立所も見逃してしまった。
そうこうしているうちに夫婦石一里塚に着いてしまった。一里塚は両側に残っているが小さいので標柱が無ければ見逃しそうである。
左塚 右塚
【館山城跡】 (右奥) 10:06
一里塚の先、坂を下る途中で左に入る道が旧道である。
すぐ県道に戻るが、合流する直前で菖蒲川に架かる「菖蒲橋」を渡る。
県道に合流して右奥に見える崖が館山城跡である。 田圃の向こうに城山へ登るものと思われる道が見えるが、遠いので行かなかった。
足利将軍四代義持の頃に、芦野疑灰岩の山頂を削って築いたもので、熊野堂(芦野氏居館跡)から移ったと言われている。
義持の時代は、辞世の変化で全国的に山城が築かれる時代であり、芦野氏も時代の流れに即応し、天然の要害を利用した堅固な山城に居館を移した考えられる。
【芦野氏居館跡】 (左奥) 10:12
県道に合流した少し先で左へ入る道があり、その角に右方向『芦野氏旧墳墓
0.7Km』、左方向『建武山温泉神社 0.5Km』の案内板が立っている。
墳墓は遠いので行かなかったが、温泉神社方向へ左折して200m程入ると芦野氏居館跡がある。
但し、写真で分かる様に畑の前に説明板と標柱が立っているだけである。
【芦野宿】 宇都宮宿追分から16里16町44間半(64.7Km)、白河宿まで5里1町35間(19.8Km)
宿内人数 350人、宿内惣家数 168軒(本陣1、脇本陣1、旅籠25)
【河原町地蔵尊】 (左側) 10:22
芦野氏居館跡から街道に戻り、すぐ先の国道294号線を横断し、奈良川に架かる橋を渡る。
橋を渡ったすぐ左に河原町地蔵尊の鞘堂がある。下の写真は芦野宿内方向から写した地蔵堂。奥の道は歩いてきた方向で、橋は奈良川に架かる橋。
【由来】 この地蔵尊は享保十ニ年九月廿七日に、河原町・上野町両講中により、祖霊の供養や万病の治癒・安産子育てへの願いを込めて建立されたものである。地蔵尊は本来六道能化の菩薩として六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を遊界し、そこで苦しんでいる衆生を未来が尽きる迄済度するという大誓願を発している仏である。そのことから、姿は菩薩でありながら比丘形で頭髪を剃り顔も柔和で優しく造られている。そのためか、昔から庶民・特に婦女子の信仰が深まり、様々な願いが地蔵尊にこめられるようになってきた。 河原町地蔵尊は奥州街道芦野宿内の南端にあることから北端にある新町地蔵尊と共に、宿内の安全祈願はもとより、悪疫が芦野宿内に入ることを防いだり旅人の道中安全、ひいては道中で亡くなった旅人の供養の役目があったものと思われる。 又、奈良川の橋のたもとにあることや、地蔵尊の台座に「水」の刻字のあることなどから、水害、水難防けの願いも込められていたように考えられる。 このことは反面道祖神的な役割を、この地蔵尊に託したともみられ、当時は地域の特性や立地条件を考えての建立であったと推測する。 地蔵尊の供養の祭りは講中の人々によって引き継がれ、今日では以来二百七十年の歴史を向えることになる。 お祭りの日には、町内各戸に手造りの燈籠が、ともされる風習があり、道行く人々を楽しませたものである。 地蔵尊前の広場では盆踊りが趣味の客と講中で催され、近郷、近在の人々でにぎわったといわれている。 御供養の導師は代々、上野町最勝院御住職が勤められている。 これまで地蔵尊は露座であられたが、平成八年に至り講中により鞘堂が新築され、ここに安置されている。 平成九年八月吉日起 |
【三光寺】 (右後ろ) 10:29〜10:36
地蔵堂のすぐ先で道は左にカーブし、宿場内の上の道に突き当ったら左折するのであるが、ここで右折して三光寺、芦野氏陣屋裏門、御殿山に寄り道。
この合流点を右折するとすぐ、左側に三光寺(日本三所芦野聖天)がある。
入口の階段を上るとまず白河城主お手植えの「松翁」という見事な松が出迎え、その奥に本堂が建つ。本堂には曼荼羅を具体化したこれも見事な格天井がある。
また、本堂前に那須町指定文化財の「絹本墨書 聖天掛軸」という標柱も立っており、右手駐車場に綺麗なトイレがある。
尚、日本三所聖天は、ここ芦野聖天と東京浅草の待乳山聖天(日光街道1回目参照)、埼玉県の妻沼聖天をいう。
【松翁】 那須の名木 文化八年、白河城主松平定信(楽翁)公の当山本尊 聖天扁額奉納記念として植樹されたと伝えられている。 後年、名を松平の「松」楽翁の「翁」をとり『松翁』と名づけられた。 その雄々しい姿は200年の歳月を経て見るものの目を圧倒している。 なお那須の名木に指定されている。 |
【寺宝 森羅万象図】
堂内格天井百三十枚に描かれた絵。
種類は人物・動物・山水・草花等。
一枚一枚が独立して画かれている。
意味するところは、真言宗の世界観・宇宙観を表現する曼荼羅を具体的な絵図で表している。
作者は佐藤梧陽・号は槐山・黒羽の人。
幕末から明治にかけての絵師。他の作品に黒羽大雄寺所蔵。「司馬温公のかめ割り図」などがある。
堂内拝観自由
【日本三所芦野聖天堂大改修記念碑】
凡そ今生に生受けし者は、草木一葉に至るまで一朝の霊魂を宿すのであり、況や人間として生命を授かり、心腹のひと隅に霊心を抱かせぬ者は一人としてありません。古来洋の東西を問わず人は信仰に活路を求め、心の闇路に一灯を灯さんがために日夜の精進と積善を重ねて来ました。
顧みれば、当地芦野の聖天信仰の歴史的意義は深甚を極め、霊験あらたかに衆民をば累累として済寧の明日へと導いて参りました。抑も日本三所聖天は、今からおよそ千二百年前、弘法大師空海が勅命によって一本の香木に三躰の聖天像を刻み、後年分かれてそれぞれの安置寺院が日本三所と称されました。その一躰が長年の屈曲を経て、応永年間芦野公に迎えられました。日本三所芦野聖天の由来はここにあります。寛政年間、白河城主松平定信(楽翁)公が江戸幕府の筆頭老中に抜擢され芦野聖天に心願を懸け、江戸三大改革のひとつ「寛政の改革」を成就しました。その御礼として文化八年「聖天」の扁額を宝前に奉り、一方芦野公は代々供養料を寄進して信仰を深めました。その後、明治期の廃藩置県によって芦野公の禄を離れても、県内はもちろんのこと県外からも多数の信徒が参拝し、縁日には境内は人人で満ち溢れ、霊験あらたかな由緒ある「聖天様」としてその殷賑を極めました。しかしながら、時が流れ進むにつれて昔日のおもかげはうすれ、その佇まいは往時をしのぶよすがもありません。屋根には草木がしげり、鬼瓦はもとを離れて落下し、外縁は朽ちて傾き、雨滴は天井をうがって佛具を錆と化すに至りました。
しかるに時の風雪に耐える聖天堂の傷みを目の当りにし、檀信徒一同心を一にして、前改修を数えること百二十年、ここに大改修を決意し、その日を迎えることになりました。
平成九年八月吉日
【芦野氏陣屋裏門】 (右奥) 10:41
三光寺の前を更に南へ4〜5分進んだ左側の大塩氏宅で、移築された芦野氏陣屋裏門が見られる。
この時期、下の写真にも少し見えるように玄関先の紅葉が見事で綺麗だった。
後で分かったことだったが、この先国道294号と合流する手前を左に入ると、町指定文化財の芦野氏旧墳墓があるとのことだった。
この門は、旗本芦野氏の陣屋(現御殿山)の裏門として建造されたもので、長屋造りである。芦野城は、十六世紀半ばの築城とされ、江戸時代には芦野氏の住居(陣屋)が二の丸(広場)に置かれた。陣屋には表口と裏口に二つの門があり、表門はニの丸の西南に位置し、四脚門(よつあしもん)であった。この門は広場北側に建っていた。 明治維新の新政により、陣屋の意義が失われると、建築物は希望者に売り渡された。その時大塩家の祖先が買い受け、解体して現在地へ復元移築したものである。(表門は高瀬の渡辺家が買い求め、移築するはずであったが、損傷、減失し、現在は残っていない。) この陣屋裏門は、左右対称ではなく、向って右側に中間部屋(ちゅうげんべや)、左側は厩(うまや)になっており構造的に左側に長い門であったと思われる。 芦野氏は、鎌倉時代の『吾妻鏡(あずまかがみ)』に「葦野地頭(あしのじとう)」として登場し、その後、十四世紀半ば那須氏が那須地方に勢力を拡大すると、那須氏から養子を迎え、那須系芦野氏となった。江戸時代には、交代寄合旗本として現在の大字芦野、冨岡、大畑、梓、大島、漆塚と芳賀郡の赤羽村をはじめ下の庄と呼ばれた村々を含め三〇一六石の領主であった。実高は一万石に近かったと思われる。江戸城では帝鑑の間詰め(ていかんのまづめ・溜之間に次ぐ部屋で、譜代衆、交代寄合が詰めた部屋)の格式で、参勤交代をした旗本である。 この陣屋裏門は、芦野氏陣屋の遺構を現代に残し、芦野氏の格式を現在に伝えるものである。 那須町教育委員会 |
【御殿山】 (宿場町の右上) 10:53
芦野氏陣屋裏門を見学して引き返す途中、三光寺まで戻る手前で『御殿山0.3K・歴史探訪館0.4K』の標識を見つけたので細道を登ることにした。三光寺の裏山を抜け数分草道を登ると御殿山下の広場(駐車場)に出る。この道は広場の案内板によると『芦野遊歩道』と言う事だが、ここまでは獣道みたいな細い山の道だった。
御殿山(芦野城)は更に登らなければならないが、現在は公園になっているとのことなので、登らずに下から見上げただけにした。ただ、天然記念物の『こうやまき』が聳えているとのこと。
【芦野の里めぐり】
奥の細道の歴史と自然が残り、いにしえの面影を感じさせる芦野の里は、鎌倉時代から城下町として発展してきた町です。旧奥州街道が通り、江戸時代には宿場として、参勤交代をはじめ旅人などで大変なにぎわいを見せていました。遊行の柳は、歌まくらの地として、西行・芭蕉・蕪村などの多くの歌人が訪れ有名な句を遺しています。
【芦野氏陣屋跡】 那須町指定史跡 通称「御殿山」または「芦野城」とよばれ、芦野氏近世の居城(陣屋)跡である。 奈良川の東岸にあり、芦野の町並を見下ろす丘陵上に位置している。 面積は約三ヘクタールで、現在は山林と公園になっている。 築城の時期にはニ説あり、一つは天文年間(1532〜55)、芦野資興の代であり、一つは天正十八年(1590)の芦野盛泰の代である。城の形式から前者の説が妥当と考えられている。 明治四年の廃藩置県までの約三百数十年間ここに芦野氏の居城があった。居城は、自然の丘陵上に大規模な造成を行った平山城である。 本丸と二の丸、三の丸に相当する廓があり、二の丸には表門と裏門、そして御殿や蔵が存在した。 御殿は、木羽葺で、間口約二九メートル、奥行き約一一メートルあり、玄関、客間、奥の間、大広間、宿直間、仲間部屋、広敷台等に区切られていた。建物の奥には陰殿(トイレ)もあった。 那須町教育委員会 |
【那須町のこうやまき】
二の丸跡から東方の小高い所に、他の樹木を圧倒してこうやまきがそびえています。(栃木県天然記念物・那須町の名木に指定)
樹高は約24m、推定樹齢400〜500年と考えられ、この城の築城記念樹といわれています。
こうやまきは、2006年(平成18年)に誕生されました、秋篠宮悠仁殿下のお印に選ばれています。
*ここより約5分
那須町教育委員会
【那須歴史探訪館】 (宿場町の右上) 11:00
御殿山下をそのまま進むと町側に陣屋風の那須歴史探訪館が建っている。有料なので館内には入らなかったが、復元された門(下の写真で紅葉の後ろ)の前の硝子仕切りに下記説明が書かれていた。
【ようこそ那須歴史探訪館へ】 那須町には、那須連山を背景に、その裾野を流れる河川によって培われた豊かな自然の中に、先人たちが築きあげた足跡が数多くのこっています。 那須町は、古代東山道、中世鎌倉街道、近世奥州街道、原街道と時代の変遷と共に政治、経済の主要な道が走り、関東と陸奥を結ぶ重要な地位を占めてきました。 那須町の東部に位置する芦野には、芦野館(芦野氏居館)、館山城、芦野城(御殿山)の三つの城館跡があります。芦野城は、本丸、二の丸、三の丸を持つ中世からの城郭で、江戸時代には交代寄合旗本芦野氏三〇一六石の陣屋がありました。 本館の建つこの地は、芦野氏の上級家臣の屋敷があった根古屋(ねごや)にあります。皆さんをお迎えした門は、芦野氏陣屋裏門の複製で、正面に向って右側には中間部屋があり、左側は厩になっていました。 本館から北へ向かえば、奈良川の源流衣更(ころもがえ)の清水、境の明神に至り、奥州の山並みが行く手に迫ってきます。 南に目を向ければ、那須氏の一族である伊王野(いおうの)氏の歴史が息づいています。三蔵川が形成する伊王野谷には縄文遺跡をはじめ、東山道、鎌倉街道の推定経路が走り、黒川駅家(くろかわうまや)があった所と考え られています。 遥か西方には、今なお噴煙をたなびかせている茶臼山を主峰とする那須連山がそびえ、那須温泉郷と近年別荘地として急激に開発が進んだ那須高原を一望のうちに臨むことができます。 観光地「那須」は、近代になってレジャー、行楽の地として一躍脚光を浴びてきました。その背景には、原始から近現代まで脈々と受け継がれてきた那須の歴史があります。 本館を拠点に、もう一つの「那須」を楽しんでいただければ幸いです。 |
【平久江家門及び構え・しだれ桜】 (右奥) 11:04
那須歴史探訪館の前を通り突き当りを左折するとすぐ右側に平久江家門と大きなしだれ桜が見られる。
奥州道中の宿場内を通って来た場合は、「丁字屋」の先の郵便局前を右折するとすぐ左側にある。
【平久江家門及び構え】 那須町指定建造物 この門の建築は、棟門の一種で、この地域における比較的上級武士の門構えである。 平久江家は、江戸初期から芦野家の重臣と見られる家柄で、本家は、根古家の一段高い地に家屋敷を構えていた。 当家は、分家筋にあたり、幕末には家老職を勤めた人物も輩出している。 構えは枡形の形式をとっており、武家屋敷特有のものといえる。 この門及び構えは、当時をしのばせるものとして貴重なものである。 那須町教育委員会 |
【那須の名木 平久江家のしだれ桜】 平成6年11月3日指定
推定樹齢 400年
幹 回 り 252cm
樹 高 18m
那須町
【仲町の道標・芦野町道路原標】 (右側) 11:09
「芦野郵便局」の所で奥州道中に戻ると、この郵便局の前に仲町の道標と芦野町道路原標が建っている。
道標は大正五年十一月三日の建立で、正面の文字は、『奥羽街道』の下に右側『越堀鍋掛ヲ経テ大田原ニ至ル』、左側『白坂ヲ経テ白河ニ至ル』 と刻まれている。また、下部に里程が刻まれたいたが、行き先は読めるものの里程部分は読めなかった。あとで調べたところ『白河ヘ五里・福島ヘニ十六里・仙台ヘ四十七里・大田原ヘ六里・宇都宮ヘ十八里・東京ヘ四十五里』とのことだった。
右側面は、『南ハ伊王野ヲ経テ黒羽ニ至ル』、『黒田原ヲ経テ小島ニ至ル』と刻まれ、こちらにも下部の里程部分は擦れて読めなかったが、 あとで調べたところ『伊王野ヘ一里・黒羽ヘ・黒田原ヘ 一里十七町・小島ヘ九町』とのことだった。
【芦野宿碑・明治天皇行在所記念碑】 (右側) 11:10
食事の為、「芦野郵便局」を左折して三光寺方面に丁子屋まで少し逆戻りしたが、開店が11:30との事で、それまで宿内を見学。
宿内の家々の前には屋号を記した常夜燈が建っている。
白河方面に向って左側にある丁子屋の向いに奥州道中 芦野宿の碑が建ち、その隣の駐車場奥に大きな石の明治天皇行在所記念碑が建っている。
【石の美術館】 (左側) 11:14〜11:25
次いで、郵便局の斜め向いにSTONE PLAZA(石の美術館)が建っているので、無料部分 (ショップ)だけ見学した。石蔵喫茶もある。
戦前から残る石蔵に、那須山の噴火によって出来た同じ芦野石を使った新しい建物を付け加えて再生した美術館。アンモナイト等の化石が沢山売られていた。
<昼食> 11:30〜12:15
「丁子屋」にて、うな重を注文。
営業時間は、11:30〜15:00、17:30〜19:30。 定休日は、毎週月曜日と最終火曜日。並1,900円、上2,400円。
【丁子屋】
創業300年のうなぎ料理の老舗。
店の前に安達家蔵座敷(那須町指定文化財・建造物)の石碑が建つ。
安達家は、丁子屋の屋号を持つ江戸時代から続く旅籠である。
写真の蔵座敷は店の奥に有り、トイレを借りるとその途中で見学できる。
蔵座敷八畳二間は、意匠・構造ともに優れており、道中身分の高いものは、身の安全を図るためにこのような土蔵造りの部屋に泊まったといわれている。
【遊行柳・湯泉神社(ゆぜんじんじゃ)】 (左奥) 12:25〜12:37
丁子屋をあとに石の美術館前を過ぎると道は枡形になる。
次いで左手奥の石段を上った所に建中寺がある。ここには寄らなかったが、芦野氏の19代〜27代迄の新墳墓と呼ばれる墓と供養塔がある。初代から18代までの旧墳墓は前述した【芦野氏陣屋裏門 】の先にある。(芦野氏旧墳墓と新墳墓のある建中寺は、『奥の細道(5)』を参照)
建中寺先の道を左折して奈良川を渡り、国道294号に出ると右斜め奥に柳の 木が見える。その国道を渡って案内標識がある右斜めの道を進むと300mで遊行柳に着く。遊行柳の周りには歌碑、句碑、標柱、案内板等が並んでいる。
遊行柳の奥には上の宮湯泉神社があり、その境内に大イチョウが聳えている。
【遊行柳】 那須町指定史跡 諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊皓上人が当地方順化の時、柳の精が老翁となって現れ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。 いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。
那須町教育委員会 |
【謡曲「遊行柳」と朽木柳】
謡曲「遊行柳」は、その昔諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関辺りで老翁に呼びとめられ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた名木の柳の木の前に案内され、そのあまりに古びた様子に、上人が十念を授けると老翁は消え去った。
夜ふけ頃、更に念仏を唱えて回向する上人の前に烏帽子狩衣の老翁が現れて遊行上人の十念を得て非情の草木ながら極楽往生が出来たと喜び、幽玄の舞いを通して念仏の利益を見せる名曲である。
朽木柳については、宗祖遊行上人が芦野巡化の折、老翁姿の柳の精が出現して上人を案内したとのいわれからやがて「遊行柳」と呼ばれるようになったという。何代も植え継がれて来た。
謡曲史跡保存会
【那須の名木・遊行柳】 平成6年11月3日指定 幹回り 90cm
樹 高 10m 田一枚 植て立去る 柳かな 芭蕉 江戸 春蟻建立
左の写真で、遊行柳の前にある常夜燈の左側に建っているのが、芭蕉句碑。
道の辺に 清水流る 柳かげ 志ばしとてこそ 立とまりつれ 柳散清水涸石処々 蕪村 (柳散り清水かれ石ところどころ) |
【遊行柳の由来】 石碑
遊行柳の伝説は、遊行巡化を宗旨の生命とする時宗の遊行上人と時衆が、昔この地で朽木の柳の精霊を済度したという、仏教史上の広義の史話と、その伝説地としての広義の史跡とを内容としている。
その大要は、昔々の遊行上人(宗祖上人ともいう)が巡化で芦野を通られた時、使用の杖が根づいて、年古りいつしか朽木の柳・枯木の柳とよばれる巨樹になった。星積り遊行十九代尊皓上人の文明三年(1471)当地方遊行あり、その時柳の精が老翁と化して出現、上人にも古来の道を教えて後、化益をうけて成仏し、その歓びに、草も木も洩れぬ御法の声きけは、朽ちはてぬへき後もたのもしの一首を献じた。上人返しに、
おもひきや我法の会にくる人は、柳の髪のあとたれむとは
とあり、柳の精は消えうせた。以来柳は遊行柳とよばれるようになり、傍らに寺が立ち揚柳寺となったという。「藤沢智裳覚書の説」 別説は遊行十四代太空上人巡化の時、柳の精の女性が出現、救いを求めた。上人は六時礼讃の日中法要を修して化慶し、精は成仏したという。「遊行寺の記録の説」 それ以来遊行上人当地方巡化の際は、必ず柳に回向あり。本伝説の流布発展に大いに寄与した。
これらは草木国土のような非情物までが、念仏の功力によって皆悉く成仏するという、法華経に基を発する大乗仏教思想の所産であり、感激的な済度談であり、時宗の絶対的念仏思想の端的な表現である。
なお本柳には、道の辺の柳、清水流るるの柳などの別名がある。これは西行の
道の辺に 清水流る 柳かけ しばしとてこそ立とまりつれ
の新古今集にのる一首によるものであり、この歌はこゝで詠んだものとの伝えあり、謡曲でもこれを取りいれている。これら別名は主に文芸の世界で用いられ、この世界でも多彩で見事な花を咲かせた。
代表的なものをあげると、道興の回國雑記(文明十八年・1486)を初見として、蒲生氏郷紀行にも見え、江戸時代になると、玖也・宗因・三千風等の作品あり、次いで芭蕉奥の細道に「田一枚」の句あり、さらに桃隣・蓮阿・青房・北華・馬州等の作品が続き、蕪村に反古衾の「柳散り」の句がある。その後は暁台・白雄・風耳等が続き、現代に至るも宗教・歴史・芸能・文学関係の来訪絶えることなく、そのかみの芳躅が偲ばれている。
【上の宮の「いちょう」】 那須町指定天然記念物(平成6年11月3日指定) 那須の名木
鏡山の麓にあり、約1キロメートル西方にある健武山湯泉神社に対して上の宮とよばれている。創立や、由緒・沿革などについては未詳であるが、社頭には遊行柳の史跡があり、風光明媚な社域である。社地内にあるこの「いちょう」は樹勢すこぶる盛んであり、当地域最大の巨樹である。なお、高さは三五メートルで目通りは六・一メートルを数える。
那須町教育委員会 |
【べこ石】 (左側) 12:53
遊行柳をあとに、真直ぐ畦道を通って国道294号に出て左折。すぐ左側に「遊行庵」と「遊行茶屋」があるが火曜日は休みだった。ここで旧道が右から国道に合流する。
程なく左側に「甦る豊郷」の碑が現れ、次いで「岩倉右大臣歌碑」が建っている所を左へ、「峯岸集落」に入って行く。(12:45)
峯岸集落の中ほど左側に「大黒天」、「十九夜塔」、「羽黒山大神・月山大神・湯殿山大神」の碑が建っている。
次いで左側に「愛宕神社」の鳥居。社殿は恐ろしく急で細く長い石段のうえにあり、手を付かなければとても登れそうもない様な階段だった。
そのすぐ先左側の階段上にべこ石が 鎮座しており、石の表面には碑文がびっしりと刻まれていた。尚、碑文は(ここには載せないが)傍らの説明板に全文が書かれていた。
【べこ石の碑】 この碑は嘉永十年(1848)十月に芦野宿の問屋をつとめた戸村右内忠恕が撰文建立したもので、全文十九段、約三千五百の文字を刻した碑文である。 長文で孝行の大切さと善行をすすめ、堕胎の戒めと生命の尊重など実例や例えを用いながら儒教的精神を中心とした人の道を優しく教えている。 この碑は、自然石に炎帝神農氏の姿か、昔時この地方でも牛を「べこ」と称し石の形が臥牛に似ているための呼称と思われる。 この碑文を通して幕末期の民情風俗や社会、経済及び道徳思想を知る歴史的文献として貴重である。
那須町教育委員会 |
【べこ石の碑と時代背景】
べこ石の碑が建立された嘉永元年(1848)の時代は、外国船が日本近海にしばしば来航し、通商を求めた時期にあたり、これに対し幕府は「外国船打払令」をもって対抗し、その後講和策が講じられている。国内では、大塩平八郎の乱や渡辺崋山・高野長英らが投獄された蛮社の獄を経て、水野忠邦による天保の改革が始まり、尊王攘夷思想の高まりとともに幕藩体制が崩壊に向う時期にあたり、徳川幕府にとってまさに外患内憂の時代といえる。
碑は芦野宿の問屋職であった戸村忠恕(ただひろ)が晩年中風の身をもって、人倫道徳の本道を衆庶に教え論すために撰文したもので、路傍の石に彫らせ、建立したものである。
戸村家は黒羽町須佐木の出身で、元禄年間(1688−1704)芦野に移り住み、酒造業を兼ねた。明治天皇の東北・北海道御巡幸に際し、三度行在所になった名家である。その元は佐竹の一族で、佐竹氏の秋田移封の時、帰農し須佐木に定住した一族である。
天保 八年(1837) 大塩平八郎の乱
天保一〇年(1839) 蛮社の獄
天保一一年(1840) 天保の改革始まる
天保一三年(1842) 異国船打払令を改め、薪水給与令復活
天保一五年(1844) オランダ国王開国を進言
フランス船、琉球に来航。薩摩藩に限り、琉球対仏貿易を許す
弘化 三年(1846) 海防の勅論、幕府に下る
幕府、外船来航を奏上
米使ピッドル浦賀に来航、通商を要求する
弘化 四年(1847) 島津氏、琉球を英・仏に開港
信濃善光寺付近で大地震
嘉永 元年(1848) べこ石の碑建立
嘉永 三年(1851) 朝廷、国難を七寺七社に祈願。再び海防の直論、幕府に下る
嘉永 六年(1853) ペリー浦賀に来航。開国
安政 元年(1854) 日米和親条約調印。日英・日露和親条約調印
【論濃の碑】 (左側) 13:14
べこ石を見たら国道に合流するが、また、すぐ左の旧道に入る。
この旧道の山側には石仏が沢山並んでおり、中程まで進むと左側に峯岸館従軍者之碑が建っている。
この道もすぐ国道に合流し、左上に地蔵が座っている前を今度は右の道「板屋」の集落へ入って行く。この旧道にも馬頭観音等多数の石仏や墓が見られる。
旧道に入って10分弱、上り坂の途中左側の民家の庭先に論農の碑が建っている。
【論農の碑】 那須町書跡
板屋の坂を芦野側から登ると中途の左側に立つ。べこ石の撰者と等しい戸村忠恕の農民に論す言句が彫ってある。
べこ石と等しく嘉永元年の建立で、内容は病害虫の駆除、予防から飢餓のための備荒法飢人の看護法まであり、これまた地方史料としも貴重なものである。
那須町教育委員会
【板屋一里塚】 (左右) 13:15
論農の碑が建っているすぐ先に、板屋の一里塚が左右残っている。但し、道路工事で坂が削られたため、塚と標柱が見上げるほど高い所になってしまった。説明板は道路脇に立っている。
芦野側から写した両塚 右塚 |
【板屋の一里塚】 那須町指定史跡 奥州街道(陸羽街道)は「徳川実記」によると、慶長九年(1604)五月に開通したものと記されている。その年に徳川家康は諸国に命じて東海、東山、中山の諸道を修理させ、一里塚を築かせたという。当町には南から、夫婦石、板屋、泉田の三ケ所がある。板屋の一里塚は、日本橋から四四里(一七六キロメートル)目のもので、近年、坂の傾斜を緩和する工事で削られ、その全容はうかがえないが道の東西二ケ所に残存し、当時の面影を残している。 那須町教育委員会 |
【脇沢の地蔵様】 (右側) 13:45
板屋から高瀬(高徳寺前で13:35)を経て、脇沢で国道に合流する。
合流した右上に脇沢の地蔵様が三体。その内左側の地蔵様の顔は!!(写真参照)
その先の橋を渡ってすぐ右側に小さな道標が立っていて、『右
脇澤高瀬ヲ経テ芦野』、『左 寄居白坂ヲ経テ白河』と刻まれていた。
【寄居集落】
更に、ほぼ真直ぐな国道294号をしばらく進んだ先の国道沿いの植木が、鳥の形に刈り込まれているのがユニークだった。(14:00)
旧道の寄居集落へ入って右カーブする所に屋敷門を持つ豪邸が数軒続けて並んでいた。(14:16)
【泉田一里塚】 (左側) 14:25〜14:35
寄居集落を抜けて、国道に合流すると、前方左手に泉田一里塚が見えてくる。
田圃の中にせり出しているタイヤチェーン脱着場内に保存されている。ここにベンチがあったので暫し休憩を取る。
【泉田の一里塚】 那須町史跡 旧陸羽街道沿いの本町内に一里塚が三ヶ所あり(夫婦石、板屋、泉田)その最北端に当るのがこの一里塚である。 一里塚は、始め徳川家康が天下に命じて築かせたが完成したのは慶長九年(1604)徳川ニ代将軍秀忠の時で、三六町を一里として道の両側に塚を築きその上に榎を植えさせ旅人に距離の目安とした。 那須町教育委員会 |
【初花清水】 (左側) 14:48
一里塚の先で、再び左へ「寄居大久保」の集落に入る。旧道に入ると左右に石切り場が見える。左側はそれほど大きくはないが、少し入ると切り出した跡が良く見える。
右側の石仏群を見て少し進むと左手に清水がチョロチョロと流れ出ている初花清水がある。説明板にはこの先の瓢石(ふくべいし)の説明もあった。
【初花清水と瓢石】 いざり勝五郎 車にのせて 引くよ初花 箱根山 これは那須町近在の田植え歌であり、盆唄であり、追分でもあり、誰もが知っていて、唄った歌である。また、酒宴の興にのって、中村歌右衛門もどきのこわ色をはりあげて、 「ここらあたりは山家故、紅葉のあるのに雪が降る」 という、いまでこそ知る人もすくないが、ラジオもテレビもない明治から大正の、なつかしくも忘れがたい「初花」のせりふである。
「いざり勝五郎」―歌舞伎名題「箱根霊験躄(いざり)仇討」という芝居は、寄居大久保にも深い関係があって、わが里には、ことさらに近しく親しく迎えられたのである。 山仕事を終えて帰る人が、これを助けて寄居の里へ連れてきてやり、庄屋徳右衛門に事情を話してあずけた(『芦野小誌』には大島四朗平とある)。 飯沼勝五郎その妻初花といい、兄の仇を求めて旅を続け、棚倉から豆沢を経て来たのだ、箱根権現に願かけて、どうしても仇討をとげたいのだといったが、駆落者ではないかとも思われる―徳右衛門は、しかしせんさくはしなかった。 勝五郎は、足腰が立たなかった。これでは江戸を過ぎてもまだはるかな箱根にはとうてい行けないだろう。徳右衛門は、大久保の先のところに小屋を建てて二人を住まわせてやることにした。ここなら街道往来の旅人が見える。もしかしたらその仇が通るかもしれないと、二人にも話した。二人は鍋かまを借りて、ここに住んだ。たべ物はすこしずつだが、山働きの里人たちがとどけてくれた。 崖のすみから、きれいな清水がわいて流れていた。 初花は勝五郎の回復を日夜、神仏に祈った、が―思うようではなかった。 足腰が立たない勝五郎は、初花が、御礼かたがた徳右衛門方へ仕事の手伝いに行っている間、たまに通る旅人の中に仇を求めながら日を過ごした。手もち無沙汰になると、すわった岩に小柄で無心に瓢を刻んだ。大小さまざまの瓢が、道の面や崖の岩肌に紋様のように彫られた。 わき出る清水で洗う初花の顔はきれいで美しかった。 往来の旅人からは仇は見つからなかった。 勝五郎、初花は、ここを旅立つことにした。 徳右衛門も、それがよかろうと、勝五郎のために箱車を作ってくれ、小金もわずかだが初花にくれた。「わしは四朗兵衛の下司下郎。よなべに作ったこのわらじ。足が立ったらはかしゃんせ(義太夫の語り)」と、大島四朗兵衛は、わらじを勝五郎に贈った。 二人は深く礼を述べ、本懐成就を誓った。
勝五郎をのせて初花が引く車が、やがて一里塚のかげに消えた。 ○いざり勝五郎・初花についての点描的言い伝えは、寄居・山中・木戸でも聞いたが、話の中で一つしかないものが、どこにもあったりして混乱する(たとえばお礼においていった刀が、山中にも木戸にもあった)。 ○初花清水の石標は昭和三年、芦野青年団が建てたが、私が見たときは倒れて田のあぜのところに頭を埋めていた。(現在は清水の傍に建っていた) ○瓢石は、現在拡幅された道路ぞいの崖に、だれが刻んだかただ一つある。詩心豊かな人の作であろう。この瓢石はおそらく三代目なのか。すっと前にはあたり一面、道路まで大小さまざまの瓢が彫られていたのだという。 |
【瓢石】 (左側) 14:53
初花清水のすぐ先、国道に合流する所に瓢石が建っている。
傍に立っている標石には『瓢石 勝五郎旧跡 初花清水従是二丁』と刻まれていた(写真真中の石碑)。
【明治天皇山中御小休所】 (右側) 15:03
国道に出て奈良川に架かる戸坂橋を渡ったら、右「中山」方向へ入る。
坂道を上りきった所の真っ赤な紅葉が目を引き、その右側、民家の塀の内側に明治天皇山中御小休所の石碑と説明板が立っている。
石碑は、昭和13年3月建之とあった。
【明治天皇山中御小休所】 那須郡蘆野町大字寄居字堂矢場にあり。 鈴木留治宅地千八百五十六番地三百三十坪の内、實測百十一坪六合を指定せり。 明治十四年山形秋田両縣及び北海道巡幸の際、八月七日及び還幸の砌十月七日御小休所となりたる處なり。 白河に通ずる舊陸羽街道中、山中とよばれし所にして、當時鈴木清次郎の居宅なり。 今、孫留治繼承せり。 平屋建茅葺なり。御座所にて充てられしは、八疊の座敷にして舊規模よく保存せらる。 昭和十ニ年十二月 文部省発行明治天皇聖蹟抜粋 |
【馬頭観世音】 (右側) 15:23
再び国道に合流して、ゆるい坂を上る。
その坂の頂上に大きな馬頭観世音が建っていて、脇添えに安政六未年九月吉日と記されていた。
坂を下った左側に地蔵菩薩坐像ともう一体の仏像が岩を削った小さな階段上にあった(15:30)。
【境の明神(玉津島神社)】 (左側) 15:35
再びゆるい坂を上って行くと、下野国(栃木県)と奥羽国(福島県)の県境に差し掛かる。坂の頂上が国境で、ここを挟んで両側に境の明神と呼ばれる二つの神社が鎮座している。
まず、ここまでの旅の無事を感謝して下野側の境の明神である玉津島神社に詣でる。
栃木県側から写した玉津島神社 玉津島神社 |
【境の明神】 那須町指定史跡 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。 創建は古く、天喜元年(1053)四月十四日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治三九年十二月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。 那須町教育委員会 【境の明神と玉津島神社】 衣かへ紐ときあへず奈良川にをちこち人の越え渡るなり (読み人知らず) 境の明神の地に二社ある。その一つは天喜元年(1053)四月十四日、紀州和歌の浦玉津島神社を勧請したと伝えられている。祭神は衣通姫(そとおりひめ)である古代国境には住吉神社(中筒男命・なかつつおのみこと)と玉津島神社の両神を祀ることが慣わしであったという。両神とも和歌の神として知られ、女神は内、自らの国を守り、男神は外、他地方を抑えるという考えがあるという。 京の都と奥州を結ぶ道は、古代には東山道(のち関街道)があり、伊王野谷を流れる三蔵川を北上し白河の関に至る道である。途中の追分には追分明神(住吉玉津島神社という)が鎮座している。祭神は衣通姫である。 中世(鎌倉時代)には鎌倉と奥州を結ぶ奥大道(鎌倉街道)が確認されている。さらには奥州道中の前身(芦野では往古街道の呼称がある)がいくつかの紀行文から知られている。近世(江戸時代)になって江戸と奥州を結ぶ奥州道中が整備され、参勤交代をはじめ交通、流通の幹線として多くの人馬の往来があった。 境の明神は、このような時代背景の中、旅する人々によって道中安全の神として信仰の対象となったものである。 近年、境の明神の二社をめぐって祭神の異説があるが、江戸時代の文献には二社とも「大明神」「玉津島神社」とし、宿村大概帳や奥州道中分間延絵図には、関東側を玉津島神社とし、奥州側を境明神としている。 境の明神の由来は国境の神がその原形であり、当初は小さな祠であったろうと推察される。その後、為政者や経済、信仰などの事由によって現在のような社が形成されてきたものであろう。 境の明神に二社が並立しての存在が確認できるのは極めて稀である。那須町以外では茨城県と福島県境や旧黒羽町須佐木と須賀川境、旧馬頭町と太子町の県境に明神峠が存在するが、いずれも建立時期に違いもあり、目的もまた異なるが、二社の存在が明確にはなっていない。
国境(県境)に建つ二社の歴史的な意義をさぐり、正しく後世に伝えることも重要な課題であろう。 |
【領界石】 (右上)
いよいよ関東と分かれて東北の福島県白河市に入る。
この県境左側の崖上に『境 福島縣西白河郡・栃木縣那須郡』と刻まれた県境の碑が、右側崖上に松平定信が建てたという『従是北白河領』と刻まれた領界石が立っている。
現在の道路標識には『うつくしま、ふくしま、ようこそ福島県』と書かれていた。
【境の明神】 (左側) 15:40
福島県に入ってすぐ左に、奥羽側の境の明神が建つ。この神社でこの先の旅の無事を願 う。
奥羽側の説明文を読み始めると、「玉津島」と「住吉」が逆転して混乱してくるが、最後まで読めば疑問が解消できる。
境内に建つ、芭蕉の句碑は見逃してしまった(※)。
【境の明神】 旧奥州街道に面して、陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が二社並立している。陸羽側の境の明神は、玉津島明神を祀り、下野側の明神は住吉明神を祀っている。 境の明神の由緒は不詳であるが、文禄四年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは弘化元年(1844)に建てられた小祠である。 奥州街道は五街道の一つで、奥州・越後などの諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。このため道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり、灯籠や碑の寄進なども盛んに行われている。 境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯籠が並び、松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や歌碑も多く建立されている。神社北側の杉林は、別当寺であった和光山豊神寺の跡地で、神仏習合の名残りをとどめている。 玉津島明神と住吉明神 玉津島明神(女神・衣通姫)と住吉神社(男神・中筒男命)は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸羽・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。 白河市教育委員会 |
(※)見逃した芭蕉の句碑は、2013年11月14日の『奥の細道』で再度ここを訪れた時に確認したので、記す。
本殿の左横に句碑が五つ並んでいて、入口門の左壁に、五つの句碑の写真と解説文が貼ってあった。
芭蕉の句碑は一番奥で、凸凹した自然石に刻まれている為、解説を見なければ分からない程碑文が擦れていた。
この句碑は、安永6年建立で、刻まれている文字は、
はせお
風流の
はじめや
奥の
田うへ唄
【白河ニ所関址碑】 (右側) 15:45
奥羽側境の明神の前にニ所の関の説明文と、階段を上った 右手に白河ニ所関址の石碑がある。
【境の明神とニ所の関】
白河の関は「ニ所の関」と古来からいわれるとおり二ヶ所にあった。勿来の関といわれた菊多剗(せき)と共に大和政権が蝦夷対策として設けたもので南北八キロ間に数ヶ所配置された剗があった。白河市旗宿地内の「関の森」は城主松平定信候が「古関蹟」と断定し昭和十三年国史跡指定となっている。奈良、平安初期の国境には男女ニ神を祀るとされ、下野国住吉神社に中筒男命を祀り、関東明神と称し、岩城国玉津島神社に衣通姫命を祀り、奥州明神と称し「二社の関」の由来するところであります。
江戸五街道の設置と奥州街道白坂宿場町の発展と共に旅人の安全祈願の参詣も多く、参勤交代や旅人の茶店南部屋の千代の餅、仙台屋のうぐいす餅が親しまれたという。関守石井家と共に、境の明神祈願寺別当に天台宗一実神道派修験法院の豊神寺が社殿脇に建立されたのもこのころである。
徳川最盛期元禄ニ年、庶民芸術・文化のはなやかな頃、芭蕉が曽良を伴い奥州の第一歩を関の明神へとさしかゝり夕暮れ時、くいなが鳴いていた。
関守の宿をくいなに問おうもの 曽良
初夏の奥州路は、うつぎの花が真白に咲いてにぎやかな田植え唄がきこえやっと奥州に入った。気をはずませて旅を続けたことゝ思う。
【白河ニ所関址】
白河ノ関ハ古クカラニ所ノ関ト呼ハレハ潢準平原ノ中ヲ横断スル奥州路ハココテ道ヲ幾通リニモ選ヘルノテアル白河樂翁ニヨリ指定サレタ今ノ旗宿道ハ其ノ一本テアル 然シコレヨリ西側三キロノ所ヲ通 ツテイル白坂道ハ昔カラヨク利用サレ古ノ関蹟ニミラレル関ノ男女ノ明神址カアリ古関ノ体裁ヲモツトモヨク保チナカラ白坂ノ関址ハ全ク無視サレテ来タ 余 多年関境ノ研究ニ没頭シ江戸時代ヨリノ関守ノ家テアル石井浩然(南部藩士テ故アツテ南部藩ノ参勤交代路ニアタル白河ノ関守トナッタ石井七兵衛ノ子孫)ト其ノ考証ノ當タリ遂ニソノ関屋跡ヲ確認スルコトカ出来タ 茲ニ白河ニ所ノ関址之証ヲ機トシ白坂道白河関址ニ記念碑ヲ建立シ永ク白河ニ所ノ関ノ意ヲ傳承セントスルモノテアル 昭和五十七年五月 建之 理学博士・東京学藝大学名譽教授・國士館大学教授 岩田孝三 白河関守 石井浩然 |
【衣がえの清水】 (左下) 15:51
境の明神からすぐ先の左側に衣がえの清水の標識が立っており、国道から少し下りると期待に反して極々小さな水溜まりに清水が僅かに流れていた。
芭蕉も奥の細道で芦野から白坂宿入口迄、現在の国道294号沿いに歩いているから、この清水を飲んでいるかも知れない。
【衣がえの清水】
境の明神から少し北にあるこの清水は「更衣清水」ともいい、集落の飲み水になっていたと伝える。かつて弘法大師がこの清水で身を清め、衣替えをしたという。 また、一説には弘法大師が水を求めたが日照りで井戸の水がなかったため、大師が持っていた杖をさすと清水が湧いたとも伝えている。 白河観光物産協会 |
【白坂宿】 宇都宮宿追分から19里21町19間半(76.9Km)、白河宿まで1里33間(7.5Km)
宿内人数 289人、宿内惣家数 71軒(本陣1、脇本陣1、旅籠27)
【戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡】 (左側) 16:04
県境から続く緩い坂を途中で綺麗な紅葉や馬頭観音等の石碑を見ながら下ると白坂宿に入って行く。
下りきって民家が現れた所の左側に戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡と刻まれた石碑と説明文が立っている。
芭蕉と曽良は、このすぐ手前を右に折れて、旗宿で一泊したのち白河関へ向った。 『奥の細道』へは、ここをクリックして下さい。
【戊辰戦役旧大垣藩士酒井元之丞戦死之跡】 五月二十六日白坂天王山の戦いにおいて大垣藩銃隊長境元之丞重寛は自軍の先頭に立ち兵を指揮していたが持っていた軍旗が東軍の銃撃目標となり胸部に銃弾を受け陣没した。 この碑には妹のかつが詠んだ「進み出て積を尽くしたこの神のいまは偲びてたつる石ふみ」の歌が刻まれている。墓所は白坂観音寺にあり大垣藩三名が合葬されている。 昭和六十三年戊辰年六月 白河観光協会 |
【旅籠「かめや」跡・本陣跡】 (右側) 16:10
右側にある酒屋「えちご屋」の少し先の亀山氏宅が、旅籠だった「かめや」の跡。右側の門柱に「かめや」の表札が掲げられているのですぐ分かる。
その向いが問屋兼本陣を勤めた白坂周右衛門跡だったが、今は何も無い。
【観音寺】 (左側) 16:14〜16:30
「白坂郵便局」(右側)を過ぎた左側に観音寺がある。
トイレの拝借をお願いしたところ、快く奥まで案内して頂いた上に、茶・菓子までお接待して頂き大変恐縮してしまった。
山門を入った右手の観音堂に、「一刀三念仏」と云われる小さな観音像が開帳されていた。
この観音像のことは、ここへ来る数日前にTVで紹介されたのを見ていたので期待と不安を持って訪れたため、対面出来て嬉しかった。
一刀ごとに三回念仏を唱えながら彫ったという仏像で、千年の歴史があるそうだ。
16:35、観音寺先の交差点手前左側にある「JAしらかわ白坂営業所」前で本日の行程終了。
この交差点から左折してJR東北線の白坂駅に向う。
6回目の旅終了 17:05 白坂駅
白坂駅より新白河駅に行き、「ホテルサンルート新白河駅東」に宿泊。
今回の記録:街道のみの距離は、16.6Km (豊岡バス停〜JAしらかわ白坂営業所前)
宇都宮追分から、19里14町 (76.1Km)
7時間55分 3,300歩 (豊岡バス停〜白坂駅)
寄り道を含めた実歩行距離は、20.8Km (豊岡バス停〜白坂駅) 累計93.1Km
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