大田原宿・鍋掛宿・越堀宿 (太田原ホテル → 豊岡バス停) <旧奥州街道5回目>
2012年10月24日(水) 晴
大田原宿の「パインズ温泉ホテル」を8:10スタート。
(注:
文中で街道の左側、右側とは白河に向っての左右です)
【大田原宿】 宇都宮宿追分から10里30町17間(42.6Km)、白河宿まで10里24町2間半(41.9Km)
宿内人数 1,428人、宿内惣家数 245軒(本陣2、脇本陣1、旅籠42)
【那須与一像】 (左側) 8:15
ホテルのすぐ先右側の敷地(新富公園?)に本陣・問屋・高札場があった所のはずだが、このとき全面的に開発か整備中だった為、説明板等は見当たらなかった。奥州道中最大の本陣だったらしい。
そのすぐ先左側の「大田原信用金庫本店」前に那須与一の銅像が建っている。おそらく屋島の合戦で船上の扇を射抜いた時の姿であろう。
【金燈龍(かなとうろう】 (左側) 8:20
与一像のすぐ先「金燈籠交差点」左角の「金燈籠ポケット公園」に金燈籠が建っている。
また、公園内に『奥の細道』の序文と那須野のくだりが刻まれた石碑と、『旧奥州道中 大田原宿』の石柱も立っている。
【金燈籠】 町人文化ノ華ガ咲キ誇ッタ文化文政ノ頃 ココ大田原宿ハ江戸ノ文化ヲ奥州ヘ伝エル旅人ト ミチノクノ産物ヲ江戸ヘ送ル商人ノ行キ交ウ宿場トシテ栄エタ タマタマ文政二年(1819)十月ニ「町内安全」ノ祈リヲコメテ建立サレタノガ金燈籠デアリ モノ堅イ人達ニヨッテ欠カサズ点サレ 旅人ヤ町人ノ目安トナリ心ノ安ラギトナッタ常夜燈デモアッタ コノ燈籠ハ鹿沼ノ技工ガ鋳タ由デアリ 本体基部ニハ當時ノ町内有志及ビ世話人三十八氏ガ鋳名サレテイル貴重ナ文化財デアッタガ 太平洋戦争末期ニ供出シ ソノ姿ヲ消シタノハ残念ナコトデアッタ ソノ後 昭和三十年七月 町内有志ニヨリ三斗小屋宿カラ金燈籠ヲ譲リウケ 百人講ノ盡力ニヨリ復元サレタコトハ 先人の意ヲ継グ自然ノ情トシテ高ク評価サレルトコロデアッタ 然シナガラ時代ノ推移ニ伴ウ車ノ激増ニヨリ 金燈籠ハソノ安住ノ地ヲ失イ 十字路ノ片隅ニ放置状態ニアッタノヲ昭和五十三年八月ニ黒磯市ヘ返還ニナッタモノデアル 折シモ金燈籠建設委員会ガ結成サレ 金燈籠再建ノ計画ヲ発表シタトコロ 上町内有志ヲ中心トスル各位ノ深イ理解ニヨッテ再建デキタノハ何ヨリモ幸イナコトデアル ココニ「上町 江戸 白川」ト刻マレタ台石ニ往時ヲ偲ビ 祖先ノ息吹キヲ感ジトリナガラ 建設用地提供者並ビニ別記協力者一同ニ感謝スルト共ニ 上町「金燈籠」ガ末永ク伝エラレルコトヲ望ムモノデアル 昭和五十四年八月吉日 金燈籠建設委員会 |
【大田原神社】 (左上) 8:40
奥州道中はこの先、枡形道になる。
次の信号を左折したら最初の道を右折する。この右折する右角に「旧奥州道中 大田原宿 寺町」の石柱が立っている。
更に左、右と曲がると左側に龍泉寺がある。また、龍泉寺の脇を入って行くと後ろに光真寺があり、大田原氏代々の墓があるとのことだったが感じがいして通り過ぎてしまったので寄らなかった。
龍泉寺の隣にある呉服の「鱗屋(うろこや)」が良い雰囲気を醸しだしていた。
そのすぐ先、右カーブする所に大田原神社への脇階段があるのでここから登った。
【御由緒】
大同二年の創建で、大田原藩祖大田原備前守資清大田原城築営に当り、城郭内に祠を建て、ニ神を奉斎し祭田百石を寄せて、奉賽の典を厚くした。
爾来庶民の参拝の便を図り、金田村中原の中宮に、中田原温泉(ゆせん)大明神と称奉遷し、更に該丘上に移し、温泉神社を改めて大田原神社と称した。
明治三十七年現在地に奉遷すると共に神域の拡張整備をなし、清浄たる別天地を画し、大田原の総鎮守として現在に至る。
【与一の里おおたわら名木】
名 称 大田原神社のスギ(複数)
所 在 地 大田原神社境内
目 通 3.0メートル
樹 高 28.7メートル
推定樹齢 300年
選定理由 巨木
平成三年三月二十六日 大田原市
【大田原城跡】 (右上) 8:45
大田原神社参拝後、正面参道を下りる途中の「龍頭公園」に入ると奥に陸橋がある。 これを渡れば下まで降りずにそのまま大田原城跡に行ける。この陸橋の下が奥州道中である。
高台にある文字通りの城跡で、回りが土塁で囲まれている形である。南側の土塁を登ったら大田原の町並が望めた。北側に登ればおそらく蛇尾川が良く見えた事だろう。
【大田原城跡】 史跡(昭和36年12月8日指定)
天文14年(1545)大田原資清によって築城され、町島水口より移り、以来明治4年(1871)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城である。東西210メートル、南北327メートル、面積9.1ヘクタール。本丸、二の丸、三の丸に区画され、この外北・西両曲輪・馬場・作業場等築城法にかなった防御を第一とした要塞の地である。明治5年(1872)兵部省に引渡され、取り壊された。 慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原の前、奥羽の情勢からこの地を重視して城の補修を命じ、さらに徳川三代将軍家光は寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。文政8年(1825)には火災によって焼失したが、同元年新たに造営した。戊辰の役には西軍の運事拠点となったために、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬかれた。 明治19年長野県渡辺国武(大蔵大臣)の所有に帰したが、昭和12年嗣子千冬(司法大臣)これを大田原町に寄贈したので、公園として整備し、市民の憩いの場所となっている。 |
【蛇尾(さび)川】 9:00
大田原城跡から街道に下りて、蛇尾川に架かる蛇尾橋を渡った「河原交差点」を左折する。曲ってすぐ左に蛇尾川についての案内板が立っている。
この交差点を直進してそのまま国道461号を黒羽に向うのが芭蕉の歩いた奥の細道である。『奥の細道(4)へ』
【蛇尾川の由来】
「サビ」とは栃木県の方言で、斎日(さび)のこと。祭日を決めて神様に身を清めてもらう行事を行った流域を流れる川の意味である。
ただ、蛇尾川は「水無川」、「暴れ川」という相反するイメージが強い。これが、「蛇尾」という文字のゆらいであるとの説もある。
栃木県大田原土木事務所
奥州道中はこの先右カーブすると、5Km以上殆んど真直ぐな道になる。
【豪族瀬尾家居館跡】 (左側) 9:15
左側「富士電機」前を過ぎ、軽い上り坂の途中左側に瀬尾家があり、その塀の前に平家之豪族瀬尾家居館跡(中田原城)と東山道(旧奥州街道)の新しい石碑が立っていた。また、門前には那須野で詠んだ曽良の句碑が立っていた。『かさねとは やえなでしこの ななるべし』
【家之豪族瀬尾家居館跡(中田原城)】
古来九世紀前半 當地より西に 二〇〇間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに 十社の神々の 鎮座の跡が 見られる
平成二十一年十月吉日 瀬尾家本家 四十一代當主 隆志書
【東山道(旧奥州街道)】
北 陸奥の国へ・出羽の国へ
南 奈良の国へ
天喜五年(1057)源義家が勅令を蒙り父頼義とともに奥羽領国として下向の途次、秋葉山瀬尾(せのお)神社(市杵島姫神)當家は平家であるため脇名、秋葉神社に滞陣して戦勝を祈り、東山道を通り當地に向
豊臣秀吉、天庄十八年八月(1590)奥州鎮定のとき、脇名秋葉神社で那須資晴の子藤王丸が会見し、この道を通り當地に向う
【中田原一里塚】 (左側) 9:33~9:40
巻川に架かる「二本松橋」を渡って左側、コンビニ「セブンイレブン」の前に中田原一里塚が現存しているが、木は植わっていなかった。右側の塚は残っていない。
【一里塚(中田原)】 大田原市史跡(昭和36年3月22日指定) 街道の両側に一里(約4Km)ごとに設けられた五間(9m)四方の塚。多くはその上にえのき・まつ・さいかちの木を植えて、旅人の目印にしたもの。その起源は古代中国にあるが、我が国では戦国末期すでに存在し、徳川幕府は慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道を整備し、多くの旅人に便宜を与えたが、明治以後交通機関の発達、道路の改修等によって、残存するものは極めて少なくなった。 この一里塚は、江戸五街道の一つ奥州道中筋に、完全でないが残された貴重なものの一つである。 |
【道標】 (右側) 9:53~10:00
一里塚から十数分、Y字路になっている「市野沢小入口信号」の三角点に道標・聖徳皇太子碑等4基の石碑が建っている。一緒に「黒羽刑務所 右へ6K」の看板が立っているのですぐ分かる。
また、ここには現代の道標も立っており、左『コウヤマキ 0.8KM』、右『一里塚 0.9KM』とあった。
【道標】 大田原市指定文化財・史跡(昭和60年5月15日指定)
道標は、路の方向を示すもので木や石で作る。この道標は、江戸街道の一つである奥州道中(街道)から棚倉街道への小滝入口分岐点、追分に建てられたものである。棚倉地方では日光道または、江戸道と呼び奥州道中大田原宿を経由して江戸・日光方面に向う捷路として重要な街道であった。 寛永6年(1629)8月「紫衣事件」によって江戸幕府の怒りをかい、僧沢庵宗彭と玉室宗珀が流人として流刑の地羽州上山と奥州棚倉への途中、この追分口まで一緒に護送されたきたが、沢庵は奥州路、玉室は棚倉路を北へ次のような決別の詩を作り袂を分かった歴史的な地点である。 沢 庵 天、南北に分かれ両鳧(ふ)(二羽のかも)飛ぶ、何れの日にか旧捿(旧巣)翼を双べて帰らん。常無く只此(かく)の如し、世上の禽(とり)も枢機(向を変える機)有り 玉 室 草鞋(そうあい)竹丈、雲と与(とも)に飛ぶ、旧院何れの時か手を把って帰らん 永遠く山長く猶信を絶つ(さらに音信も絶えた)。別離今日己に機を忘る(枢機も忘れた)と詩んだ。この道標は市内でも最も古いもので重要な文化財である。 左面、之より左奥殊通 右面、之より右たなくら |
【小滝のコウヤマキ】 (左側) 10:10
道標から10分、次の「市野沢交差点」を渡った左側にコウヤマキが聳えている。説明板は二つあった。
【与一の里おおたわら名木】
名 称 小滝のコウヤマキ(一本) 所 在 地 小滝1103-3 主要地方道 大田原・芦野線(旧奥州街道)沿い 目 通 3.1メートル 樹 高 17.0メートル 推定樹齢 400年 選定理由 市指定天然記念物 平成三年三月二十六日 大田原市 【コウヤマキ 1本】 天然記念物(昭和36年3月22日指定) 樹 高 30メートル 目通り周囲 31.5メートル 推定樹齢 約400年 スギ科「コウヤマキ」紀州高野山に多きをもって名づけられる。江戸五街道の一つ奥州道中三マキの一と称さらる。 |
【弘法大師の碑】 (右側) 10:30
更に、直線道路を歩いて「市野沢郵便局」手前、柳の木の下に弘法大師の碑が建っている。
蓑に添う 市野沢辺の ほたる哉
この句は、平安時代の高僧の弘法大師(空海)が、この地を通った際によんだものだと伝えられている。実際には江戸時代によまれたものらしいが、かつてこの句碑が市野沢地内にあったという。ここに再び建て、後世につたえるものなり。
【旧奥州道中 練貫・石碑】 (左側) 10:55
綺麗な相の川に架かる「高野橋」を渡り、「練貫交差点」を過ぎると上り坂になる。
その上り始める左側に右奥州海道と刻まれた常夜燈や十九夜塔等の石碑が5基と、比較的新しい旧奥州道中
練貫の石柱が並んでいる。
【明治天皇御駐輦記念碑】 (左側) 10:08
上りが終わり、下り坂になるとその途中、周りに民家など何もない場所に明治天皇御駐輦記念碑が建っている。ここから歩道がなくなる。
【鍋掛宿】 宇都宮追分から13里32町14間(54.6Km)、白河宿まで7里22町5間半(29.9Km)
宿内人数 346人、宿内惣家数 68軒(本陣1、脇本陣1、旅籠23)
【鍋掛宿】(後述の八坂神社境内に建つ芭蕉句碑の説明板内に書かれていた文章)
鍋掛宿は、江戸時代の五街道の一つ奥州街道の宿場として栄えた集落であり、最盛期には、戸数も百余戸を数え、旅籠、茶屋、その他多くの商家などで賑わったという。
江戸時代初期の正保三年(1646)以後は幕府直轄地天領として明治まで治められた。
【樋沢神社・蹄跡・葛籠石(つづら
いし)】 (左側) 11:55~12:02
明治天皇御駐輦記念碑から8分程進んだ所で「那須塩原市」に入る。その標識の所を右へ1.6Km行くと白鳥が飛来する「羽田沼」があるとの案内板が立っていた。
「那須塩原市」に入って更に40分進んだ左側に樋沢神社という小さな神社があるが、この境内に蹄跡石(上の写真)と葛籠石(下の写真)という巨石が鎮座している。
【葛籠石・八幡太郎義家愛馬蹄跡(伝説の地)】 管理者 樋沢葛籠会
ここ葛籠石・八幡太郎愛馬蹄跡の巨石にまつわる言い伝えは、樋沢村に古くから残っている。 後三年の役(1083~1087)で陸奥平定に向う八幡太郎義家(源義家)が樋沢村にさしかかったとき、ふと小高い丘にお宮があるのを見て軍勢を止めた。 よく見ると、それは源氏の氏神である八幡神社であった。 義家は戦勝祈願にと、馬で一気に丘を駆け上がった。 あまりの勢いに、境内にあった巨石の上に馬の前脚が乗ってしまい、蹄の跡がくっきりと、刻みつけられたという。 また、この時すぐ脇にあるもう一つの巨石が葛籠(「つづらふじ」で編んだ着物を入れる箱型のかご)に似ていることから、義家が葛籠石と名付けたと伝えられている。 以後、巨石信仰の場、伝説の地として今日まで大切に守られてきた樋沢村の文化財である。 平成六年三月吉日 那須塩原市教育委員会 |
【樋沢の大沼】 (右側) 12:05
樋沢神社のすぐ先右側に『伝説の大うなぎ 樋沢の大沼』という看板が立っていたので少し右へ入ったが、沼らしきものは無く駐車場に説明板のみ立っていた。
後で調べたら、更に奥へ入って行かなければならない様だった。
野間の大野家文書によれば、延暦十六年(797)平安初期の武将坂上田村麻呂が、盗賊高丸追討のたけ下向し、那須野原茶屋台(現成功山の麓)に布陣した。それより二十余町東に大沼があって住民がこの沼の鰻が民を食い悩ますと訴えたところ、田村麻呂は人夫を集め、沼を掘り抜き干潟とし「二十尋」もある大鰻を退治した。
この事からウナギヶ沼と言うようになったという。また掘り抜いた水尻が大沼となって下へ流れず干しあがったので「ヒサワ(干沢)という也。」と地名の由来を伝えている。
この沼は千二百年以上も前から常に満々と水を貯え当地の命の水として使われてきたのである。
平成二十二年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会
【鍋掛神社・鍋掛一里塚】 (左側) 12:10~12:22
樋沢神社から5分程で鍋掛神社の階段前に着いたが、神社はかなり高い所にあった。階段を登る前の石垣の下に山栗が沢山落ちていたのでしばらく栗拾いをした。
【愛宕神社(鍋掛神社)】
寛文五年(1665)以前の勧請。 昭和三十年愛宕神社に元無格社温泉神社と鶏島神社が合祀され、鍋掛神社と改称された。 愛宕とは、火を意味する古語からきているともいわれ、日本各地にある愛宕神社の本社は京都市左京区愛宕町にあり火伏せ(火災を防ぐ)の神がまつられている。 本市の西那須野地区には「あたご町」という町名があり、その由来は、町内にある愛宕神社にあるといわれている。 また、塩原地区にも関谷愛宕神社がある。 平成二十二年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会 |
この階段を40段ほど上った鳥居の右横に錦掛一里塚がある。
神社は更に上にあるので、社殿まで行かずに鳥居の前で手を合わせた。
【鍋掛の一里塚(史跡)】 市指定文化財(昭和44年1月1日指定) 江戸時代、全国の主要な街道に日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれた塚で、ここ鍋掛愛宕峠の塚は奥州街道四十一番目のもので、江戸より四十一里(約百六十一キロメートル)の距離を示す塚である。 (鍋掛宿誌) 当時の旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。 「野間の大野家文書」には、慶長九年甲辰(1604)に築かれたという記録が残っている。 もとは、ここより約十一メートルほど東側にあったが、道路の拡張工事等により現在地に移された(平成六年三月) また、かつては街道の南側にも塚があったが、現在では残っていない。 那須塩原市教育委員会 |
<昼食> 12:25~12:58
すぐ先の「鍋掛交差点」左角にあるコンビニのベンチで 昼食をとる。ここまで食堂等も無く、地図上で交差点を渡った所に「与作食堂」があると書かれていたが、今は廃業していた為、ここにコンビニがあって助かった。
【清川地蔵尊】 (左側) 13:00
「鍋掛交差点」を渡った所に清川地蔵尊がある。 比較的大きな座像で鞘堂に納めれている。
清川地蔵の建立は、延宝七年(1679)で、本市の石仏地蔵の中では古いものである。
当時の宿場の生活は決して楽ではないと思われるが、人々の信仰の強さを物語る大きな地蔵である。
お地蔵様は、庶民のあらゆる願いを叶えてくれるもの、また子供の成長を見守ってくれるものとして信仰されてきた。
特に、清川地蔵は子育て地蔵として地元民の信仰が厚かった。
毎年四月二十四日の祭礼には集落の女性全員が集まり、ここ清川地蔵様だけに唱える念仏が行われている。
平成六年三月吉日 那須塩原市教育委員会
【芭蕉句碑】 (左側) 13:07
清川地蔵尊から数分先の八坂神社境内に芭蕉句碑が建っている。句碑の説明板には前述した鍋掛宿の解説と奥州道分間延絵図(鍋掛宿部分)が載っていた。
【芭蕉の句碑】 芭蕉が元禄二年(1689)三月(旧暦)「奥の細道」行に旅立ち、黒羽より高久に向う道すがら四月十六日、手綱をとる馬子の願いにより作り与えた句を碑にしたものである。 野を横に 馬牽(ひ)きむけよ ほとゝぎす この句は、どのあたりでつくられたかは明らかではないが、余瀬より蜂巣を過ぎると野間までは広き原野が続いていたので、この間につくられたものと思われる。 その昔行われていた那須野の狩りを想い起こし「私も武将になったつもりで、いばって命令してみようか」という心境で詠んだものである。 句日の建立は、文化五年(1808)十月に、当時鍋掛宿の俳人菊池某外数名によるものと思われる。 平成五年(1993)三月、街道景観形成事業により、ここに建て替えられた。 黒磯市教育委員会 |
【正観寺(しょうがんじ)のシダレザクラ】 (左側) 13:11
八坂神社の隣にある正観寺の山門脇に大きなシダレザクラがある。
また、街道沿いに古そうな道標が立っていて、『記念句 右芦野町ヨリ白河至 左○○村ヨリ大田原至』と刻まれていた(○○は擦れて読めなかった)。
【正観寺のシダレザクラ】 市指定記念物(平成13年3月9日指定) 本樹は、四月には端麗で美しい花を咲かせる。樹高約十五メートル、目通り周囲約ニ.八メートル、枝張り東西約十七メートルである。 幹は、地上約ニメートルのところで三本に分岐している。 推定樹齢約ニ五〇年とされる。 シダレザクラは、エドヒガンの一変種で、和名では、イトザクラという。 落葉小高木。枝は横に開出し、小枝は下垂する。幹は老成にして粗渋。葉は互生し有柄で、狭楕円形をしている。 樹齢は長く、高さ二十メートルに及ぶものもある。 那須塩原市教育委員会 |
【越掘宿(こえぼりしゅく)】 宇都宮追分から14里5町2間(55.5Km)、白河宿まで7里13町17間半(28.9Km)
宿内人数 569人、宿内惣家数 113軒(本陣1、脇本陣1、旅籠11)
越堀宿は奥州道中ではかなり遅く出来た宿場で、正保三年(1646)開設。
仙台の伊達候が参勤交代で江戸に向う途中、那珂川が増水して渡れない場合、この越堀に小屋を設けて水の引くのを待ったという。後に、この小屋を中心にして町が出来、宿駅としての機能が整ったとのこと。
【昭明橋の風景】 13:22
正観寺のすぐ先で県道は左カーブするが、奥州道中は右の小道を直進する。旧道に入ったすぐ左側(三角形の地)にかつて本陣・問屋を営んでいた菊池助之丞の家があったとのことだが、今は何も無い。
旧道はすぐ左折し那珂川に架かる昭明橋の袂に出る。前述の【芭蕉句碑】にあった分間延絵図を見ると、奥州道中は現在の橋の前を左に入り、右へ大きくカーブして斜面を下り、橋の下で斜めに川を渡って右手の方に上り、今度は左に大きくカーブして越堀宿に入って行くように描かれていた。即ちS字を描くように川を渡っていたようだ。
その証拠に、先程の旧道から橋の前を真直ぐ進む(県道からは橋の手前を左折する)と馬頭観世音等の石碑群があった。その先の道は無くなっているようだった。
現在は昭明橋に戻って那珂川を渡らなければならないが、橋の上から見る河畔の風景は素晴らしい。
左側に一本だけ紅葉していた木があっただけで感嘆したが、秋も深まって更に紅葉が進めばどんなに綺麗なことだろう。
【浄泉寺・領境界石】 (右側) 13:30~13:45
昭明橋を渡ると越掘宿で、突き当りを左折する。
左折して100m程行った左側に本陣・問屋を営んでいた藤田源蔵の家があったとのことだが、今は何も無い。
更に進むと右側に浄泉寺があり、参道に入った石段下左側に御膳水の碑が生垣に隠れてあり、石段を上がった境内右手に黒羽領境界石と明治天皇御駐輦之碑が建てられている。また、奥の苔むした急な階段を登ると越堀の大杉が聳えている。
【御膳水】 (碑文は 漢文で刻まれていたが、汚れている箇所があって不明確だったので一部のみ記載する)
明治天皇即位九年東北巡幸以
越堀本陣充行在所
【黒羽領境界石(史跡)】 市指定文化財(昭和47年10月25日指定) 黒羽藩主大関増業(ますなり)は、自藩と他藩との境界を明らかにすらために文化十~十一年(1813~14)何箇所かに境界石を建てた。 ちょうど増業が大坂城勤務の時で、碑は大阪で造られ船で運ばれた。 ここ浄泉寺境内にある標柱には、「従此川中東黒羽領」と刻まれてあり、背面には、「於摂州大阪作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある。 高さ百五十一センチメートルの花崗岩の四角柱である。 もともとこの境界石は、那珂川の左岸越堀宿(黒羽領)側に建てられていた。川をはさんで向こう側は鍋掛宿(幕府領)で、両宿は奥州街道の宿駅であった。 大正七~八年(1918~19)頃、保存のため現在地に移された。 那須塩原市教育委員会 (写真左から、境界石の説明板、境界石、境界石の標柱、明治天皇御駐輦之碑 ) |
【枡形の地】
浄泉寺を出てすぐ小さくS字カーブしている道が枡形の地で、右側に石碑が建っているので分かるが、今では言われなければ気が付かない程の軽い枡形である。
【此の地 奥州街道越堀宿 枡形の地】
鍋掛村役場跡
黒磯町鍋掛支所跡
黒磯市老人憩の家鍋掛荘跡
越堀自治公民館建設記念
【坂本屋と道標】 (右側) 13:47
枡形の地碑に次いで、右側に馬の供養碑があり、その先に越堀宿坂本屋の石碑と、新しい道標(石碑)が一段高い所に据えられている。
【奥州街道】
右 これより江戸四十里
左 これより白河宿七里
平成十七年ニ月吉日 鈴木
越堀宿が終わると街道は右にカーブして山の中へ上り坂になる。
この右カーブする所を左に分かれて行くのが『奥の細道』である。 「奥の細道 4回目」へ
【高久靄崖(あいがい)の墓】 市指定史跡 (左上) 14:00
越堀宿からしばらく進んで、下り坂になるとその途中の左側崖上に高久靄崖の墓と書かれた白い木柱が建っている。この標柱以外に説明文等は一切無い。
【高久靄崖】
高久靄崖(1796~1843)は、下野那須郡(現那須塩原市)の杉渡戸に生まれた江戸後期の文人画家で、谷文晁や渡辺崋山等と交友があった。
【伊勢大神宮遥拝碑】 (右側) 14:04
高久靄崖の墓からすぐ先右側の杉渡戸(すぎわたど)公民館前に伊勢大神宮遥拝碑が建っている。こんな場所から伊勢神宮が見えるはずがないが、江戸時代から「お伊勢さま」は憧れの地だったということが分かる碑である。
【寺子(てらご)一里塚】 (右側) 14:33~14:55
杉渡戸公民館の先で右方向に進む。この辺りは地名通り杉の森となっている。
やがて富士見峠に差し掛かるが、現在の峠は道路が整備された為か富士山が見える様な地形ではない。
峠からの下り道途中に「奥州街道 寺子一里塚の里」と書かれた標柱が建っている(14:24)。一里塚はもうすぐである。
峠を下り終えて「寺子交差点」手前右側の「寺子一里塚公園」内に50m移設復元された寺子一里塚と峠から移設された馬頭観世音が建っている。
公園内の東屋で暫し休憩する。
【寺子の一里塚(史跡)】
一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。 ここ寺子の一里塚は、奥州街道四十二番目のもので、江戸より四十二里(約百六十五キロメートル)の距離を示す塚である。 一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。 鍋掛の一里塚が慶長九年甲辰(1604)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。 最初の一里塚は、現在地から約五十メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。 現在の塚は、平成七年三月に復元されたものである。 平成七年三月吉日 那須塩原市教育委員会 |
【富士見峠の馬頭観世音】
馬頭観世音は、荷役として世話になった馬の供養と、旅人の交通の安全を祈り道標として建てられた石仏である。
安永四年(1775)十二月寺子村を施主村として、寺子組ニ十五ヶ村のうち十四ヶ村が協力して碑を建立したようである。
地元の古老の話では、かって奥州街道富士見峠にはニ~三軒の茶屋があり、行き交う旅人の休息地であったという。
この馬頭観世音も峠の頂上付近に建てられていたが、保存のため街道景観形成事業により現在地に移された。
平成八年丙子三月 那須塩原市
【会三寺(えさんじ)】 (左側) 15:00
「寺子交差点」を渡って少し下った右側に会三寺がある。当初は111体、現在は80数体のハシカ地蔵が祀られ子供の病気に霊験ありとのことだが、地蔵堂までは見なかった。
【余笹川見晴らし公園】 (右側) 15:03
会三寺すぐ先の余笹川に「寺子橋」が架かっている。
その橋の手前右側には余笹川見晴らし公園があり、過去に大洪水があったとは思えない綺麗な川の見晴らしだった。
園内には東屋と余笹川改修の案内板、「天皇陛下・皇后陛下行幸啓記念」の石碑が建っていた。
【洪水についての文章】
余笹川流域では、台風4号に刺激され活性化した前線の活動で、平成10年8月26日から31日にかけ、総雨量1,254mm、27日には最大時間雨量90mmという豪雨を記録し昭和13年以来の大洪水が発生しました。
この大雨による被害は、黒磯市や那須町などの栃木県北部を中心に広範囲に及び、県内の死者は5名、行方不明者2名、床上または床下まで水に浸かった家屋は2,846棟に上り、住民5,500名以上が避難しました。特に余笹川では、洪水流により数時間で流路幅が3倍から5倍に広がり、河岸の8割以上が決壊しました。
【寺子地蔵大菩薩】 (左奥) 15:07
見晴らし公園の反対側を少し下った所に寺子地蔵菩薩が前面解放のお堂に安置されていた。
享保年間(1716~1736)は、この辺一帯が大飢饉に見舞われ、食べるものが無く「老人や子供の餓死者が多かった」と言われている。その難を逃れる為、熊久保仁兵衛、鴇巣次良兵左衛、松本九兵衛、後藤仁衛門、井上泛兵衛氏らにより話し合い各家を宿として信州の石工、北原又衛門、原孫七、伊藤万右衛門、北原磯左衛門に依頼して餓死者を供養する為地蔵を建てたと云い伝えられている。
また、本地蔵は「イボ」地蔵とも言われている。毎年八月二十三日には、講中の出席をえて、子供の成長と家中安全を願って念仏をあげております。
平成二十二年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会
奥州道中は、寺子橋を渡り「ゆーバス」終点の豊岡バス停まで歩を進めた。この先バスの便が無いため本日はここで終了。
「ゆーバス」は今迄歩いてきた道を樋沢神社の先にある那須脳神経外科病院まで戻り、病院からUターンして鍋掛交差点まで行き、ここを左折して黒磯駅へ 、200円均一で1日2~3本走っているバスである。
5回目の旅終了 15:30 豊岡バス停
15:49発「ゆーバス」で黒磯駅着16:24。駅前に泊めておいた自家用車で帰宅。
今回の記録:街道のみの距離は、17.0Km (大田原ホテル前~豊岡バス停)
宇都宮宿追分から、15里5町 (59.5Km)
7時間20分 32,000歩 (大田原ホテル~豊岡バス停)
寄り道を含めた実歩行距離は、19.8Km(大田原ホテル~豊岡バス停) 累計72.3Km