白河宿
(白坂駅 → 女石) <旧奥州街道7回目>
2012年11月14日(水) 晴
宿泊した新白河駅から白坂駅に戻り、7:40スタート。
(注:
文中で街道の左側、右側とは白河に向っての左右です)
白坂駅より、昨日終えた「JAしらかわ白坂営業所」前迄戻らずに、真直ぐ国道294号線へ向った。
三角形の二辺を寄り道したことにして、「JA前」から「八幡神社」迄の何も見るべきものが無い国道1.9Kmをカットした。
【金売吉次兄弟の墓】 (左奥) 7:55
白坂駅から東へ真っ直ぐ進み、昨日曲って来た信号を曲らずに横断し、「三輪台集会」を過ぎた先から左折して一本北寄りの道を暫く進むと右側の林の中に金売吉次兄弟の墓がある。
奥州道中をそのまま進んだ場合は、「JAしらかわ白坂営業所」前から左右に曲る国道294号線を25分程行った信号のある十字路を越え、更に5分程進むと右側に八幡神社がある。その神社入口に「←(伝)金売吉次兄弟の墓 0.3Km」の標柱が立っているので、そこを左折して5分程行くと、左側の林の中に金売吉次兄弟の墓がある。
【(伝)金売吉次兄弟の墓】 市指定重要文化財(史跡) 平成8年3月29日指定(指定面積1,164u) 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられています。 石塔は、白河石(安山岩質凝灰岩)で作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)ですが、後世に積み替えられたため、別種の石造塔の一部が混ざっています。紀年銘などがみられず、明確な製作年代は特定できませんが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されます。 承安四年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京都を往来する途中、ここで盗賊に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉寺兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。 石塔の石囲いは、元治元年(1864)七月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「 吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。 平成十六年 白河市教育委員会 |
【八幡神社】 (左側) 8:05
金売吉次兄弟の墓から5分程で国道294号に出る。
奥州道中に合流した所に八幡神社の小さな社が建っている。街道沿いには石仏が三基と「金売吉次古跡」の標石が建っている。
【一里塚・題目碑】 (両側) 9:00〜9:10
八幡神社から2〜3分進んだ左側に地蔵菩薩が赤い帽子と衣装を着けて座っている。この地方の地蔵は殆んど座像である。
その先、小さな川を渡ると「新一里段」と言う地名になり、左側に池が現れる(8:15)。
坂を上ると左側に「新白河中央病院」が建っている。ここは過去に問題を起こして閉院の危機に陥ったと聞いていたが、幾つかの科がほそぼそと開業しているようだった(8:20)。
往時、この病院の近くに一里塚があったとのことであるが、今は何も残っておらず、「一里段」という地名のみが残っているだけである。
病院前から下り坂になり、途中左手に寛政五年(1793)建立の題目碑が建っている。
【戊辰の役古戦場】 (両側) 9:00〜9:10
題目碑を過ぎ、左側にニュータウンが見えてくると再び上り坂になり、東西三坂山に挟まれた峠を越えると、下り坂の途中左側に二つの溜め池が見えてくる。私達が通った時は溜め池が地震で壊れたために、2013年3月11日まで改修工事中で、水は全くなかった(8:37)。
この溜め池の所から右の旧道(小丸山集落)に入って行く。集落途中で5分程休憩したが、休憩しなければは6分程で国道に合流し、すぐ国道289号を横断する。
その交差点から7分程進むと国道294号は右に曲がって行く。
その右カーブの左右の広場に戊辰役古戦場の碑などが多数建っている。
【戊辰の役古戦場】 市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応四年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩摩大垣等西軍が大挙して三方から白河を攻めた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、潤四月二十五日、会津兵は一旦西軍を退けたが、五月一日、再び来襲してたので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数しれず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。 |
【会津藩戦死墓、会津藩銷魂碑(松並)】
この地内は戊辰の役白河口の戦いの中でも最大の激戦地であった。この碑には会津藩若年寄横山主税、海老名衛門等、三百四名の戦役藩士の名が刻まれている。
この碑は、地元高橋金五郎氏をはじめとする地元住民ならびに会津藩関係者の手によって建立された。毎年六月第一日曜日には慰霊祭が行われている。
平成十三年 白河観光協会
【長州大垣藩六人之墓(松並地内)】
この墓には、慶応四年閏四月二十五日の白河口の戦いで戦死した長州、大垣藩将兵六名が葬られている。大正四年まで薩摩藩七名の戦死者も葬られていた。
明治九年六月に明治天皇が、同四十一年九月には東宮嘉仁親王が立ち寄り供養された。
平成十三年 白河観光協会
【稲荷山公園】 (左側) 9:12
戊辰役古戦場のすぐ先左側に、上述した戊辰役の激戦地だった稲荷山があり、現在は公園となっている。当公園は毎週1回放射線量を測定し、その結果が掲示されているのを見ると、福島県に居ることが実感できる。この日の数値は、11月9日測定で0.26マイクロシーベルト/時だった。
低い稲荷山の頂上には、西郷頼母の歌碑(うらやまし 角をかくしつ 又のへつ 心のままに 身をかくしつ)と戊辰役の説明文が建っている。
また、歌碑の右奥には權兵衛稲荷神社が建っている。稲荷山からの帰りはこの神社の参道階段を下りて街道に戻った。
【西郷頼母の歌碑建立趣意】
この石碑の短歌の作者「八握髯翁」は、西郷頼母近悳と称する幕末会津藩の重臣でした。一八三〇年、会津藩家老の嫡子として生を受け、西郷家を継ぎ三十九歳の壮年の時に戊辰戦き争にまき込まれ、一九〇三年(明治三十六年)七十四歳で波乱の生涯を閉じました。 |
【慶応四年五月朔日白河口激戦図】 (図は割愛)
この地は稲荷山と呼ばれ、戊辰戦争白河口の戦いにおいて新政府軍と奥羽越列藩同盟軍による激戦の舞台となった場所である。図には青色で新政府軍が南・東・西の三方に分かれて小峰(白河)城下に進軍する様子が記載されている。新政府軍の中央隊が奥州街道を城下南側に向けて進軍し、小丸山に大砲四門を据えて稲荷山の同盟軍を攻撃、右側には城下東側の雷神山に向けて進軍・攻撃する右翼隊、左側には城下西側の立石山に向けて進軍・攻撃する左翼隊。一方、赤色で図示される同盟軍がこれに対応するように、それぞれ稲荷山、雷神山、立石山で守備するが、新政府軍に押されて城下北側の阿武隈川を越えて退却する様子が描かれている。この日の激戦では同盟軍死者約七百名、新政府軍約二十名伝えられており、新政府軍圧倒的な勝利により小峰城下が制圧された。
財団法人白河観光物産協会
【藤屋建造物群】 (左側) 9:40
稲荷山から街道に戻り、突き当りの信号を左折する。
右カーブして谷津田川に架かる「南湖橋」を渡った先の信号の左角に、「歴史風致形成建造物」である藤屋建造物群が建っている。
下の写真の後ろには大きな蔵も建つ。
【藤屋建造物群】 歴史風致形成建造物 ・指定番号:第3号(平成23年7月21日指定) 藤屋(藤田本店)は、味噌・醤油の醸造業店
として天保元年(1830)頃に初代藤田弥五兵衛氏によって創業され、現当主で6代目を数える。本家である酒造業藤屋は白河藩主松平定信関係の資料にも「白錦」などの銘酒を製造していたと記されている。 |
【奈良屋呉服店】 (右側) 9:44
次の信号の右角に奈良屋呉服店が建っている。また、前の松の木の下には「新町」の説明板も立っている。
【奈良屋呉服店建造物群】 歴史風致形成建造物・指定番号:第9号(平成23年7月21日指定)
奈良屋呉服店は、明治14年(1881)に阿部家5代金次郎氏によって創業された。呉服店を営む以前の江戸時代には、油・砂糖を商っていたとされる。また、明治中期には、自転車を販売する代理店でもあった。 |
【新町】
江戸から奥州街道をたどり、白河城下の入り口にあたる町が新町です。一番町・ ニ番町・ 三番町・ 七番町・九番町の五つに分けられています。
江戸時代初期、会津領時代の城絵図には「鉄砲町」とあり、初代白河藩主となった丹羽家時代の絵図では「足軽町」とあります。
このことから、当時は新町が江戸側の防御の役割を担っていたことが推測されます。後に町人が中心の町になっても足軽屋敷が点在していたのは、その名残と考えられます。
町名の由来は、「白河風土記」(1805年完成)によれば、新しく取り立てられた町と推定していますが、いつ頃よりこう称されるようになったのかは不明であると記しています。また家数はニ〇ニ軒とあります。
白河市
【月よみの庭】 (左側) 9:50 〜9:55
奥州道中は奈良屋の先の信号を右折して「天神町」に入る。その曲り角正面に月よみの庭と称する白河石を散りばめた庭がある。
【白河石の説明】 ”礎固き わが白河の”
白川石の庭です。石英安山岩質の凝灰岩であるため色が白く、東京や京都の神社仏閣などでは珍重されている。 |
庭には、「江戸時代の踏石」や中央には「優陽の松(雄飛の松)」が植わっている。
また、その右脇には「天神町」の説明板が立っている。
【優陽の松(雄飛の松)】 【江戸時代の踏石】 良質の白河石黒目。 よく踏まれているので、滑らかな味わいがある。 |
【天神町】
江戸からの奥州街道が東に折れた所が天神町です。町の西端の天神山(菅原道真を祀った天神神社の山)が町名の由来と言われています。
「白川風土記」(1805年完成)によれば、家数は一三二軒で、職業が分かる文政六年(1823)の絵図では、町屋敷の九割以上が商人と職人で構成され、城下の商業を担っていた町と考えられます。
白河市
【今井醤油店】 (右側) 10:02
少し進んだ右側に今井醤油店がある。
【今井醤油店建造物群】 歴史風致形成建造物・指定番号: 第4号(平成23年7月21日指定) 今井醤油店は、江戸時代末頃に今井清吉氏によって創業された。江戸時代には、当地において魚屋、乾物屋を営んでおり、文政6年(1823)」「天神町絵図」には「肴商売武兵衛」、天保年間(1830〜44)絵図には「肴屋清吉」と記されている。醤油製造を営むようになったのは、4代目今井清吉代の江戸時代末期と伝えられ、現当主で8代目を数える。 建造物群は、旧奥州街道に面した漆喰壁の座敷蔵と切妻・平入りの伝統的町屋建築の店舗が一体となって特徴的な景観を呈している。座敷蔵は、明治26年(1893)に建築されたもので、店舗・主屋は、魚屋を営んでいた江戸時代の建造物を増・改築し、現況の概観は昭和30年代の改修によるものである。 白河市 |
【二平麹店】 (右側) 10:05
今井醤油店のすぐ先に二平麹店がある。
【二平麹店建造物群】 歴史風致形成建造物・指定番号: 第5号(平成23年7月21日指定) 二平麹店は、明治29年(1896)に、二平浅吉氏によって麹屋として創業された。現当主で4代目を数え、麹に加え味噌の醸造も行っている。中心市街地には、かつて麹屋が多く存在していたが、現在では唯一の麹店となっている。 旧奥州街道に面した店舗とその奥の主屋は、安政5年(1858)に建造されたもので150年以上の歴史を有する白河の伝統的な町屋建築である。切妻・平入りの建築様式に格子窓を備え、土間空間と一体となった店舗、麹室を併せた居住空間が江戸時代の趣を伝えている。 白河市 |
【天神町屋台会館】 (左側) 10:06 〜10:10
二平麹店の向かいの天神町屋台会館に屋台が収められている。
屋台会館はガラス張りで中の屋台が見えるが、ガラスが朝日で反射して屋台の写真はうまく撮れなかった。
【天神町屋台】 推定製作年 嘉永五壬子年(1853年)
藩政時代、当町には呉服、太物商が十数軒もあり城下一番の繁華街で藩に金子を用立てるような大店も多く屋台の製作には相応の費用かけたものと思われるが、藩主であった松平定信公が主導した寛政の改革以来の倹約令により華美なものは慎んだようで彫刻も白木のままである。
十一ある彫刻のうち正面下の彫刻は、葡萄棚で栗鼠が戯れている様子であるが葡萄の房を金属の玉で作ってあり屋台が移動するたび揺れ動き彫刻の静に動を加味している。古くは、屋台と山車があったが、傷みがひどく現存するのは屋台のみである。
現在は祭礼に参加する戸数も人員も減少し元方、荘者とも夫々の役割の人数が逆三角形になっているが、往時は荘者にあっては應接方筆頭を頂点として加入人数も多く底辺が広かったため屋台の運行は廻具方荘者会所と屋台との間を、踊り子たちを背負って送迎することも役目の一つであった。
尚、古い記録によれば幕末の頃に町奉行の布告によって踊り子や芸人等は他所から頼まなくてはならなくなったため黒羽・喜連川など栃木方面より呼びよせたようで、断続的に昭和初期まで続いた。
平成二j十二年十一月吉日 、天神町屋台会館
【松井薬局】 (左側) 10:11
屋台会館の隣に松井薬局があり、現在の店の左隣りで、蔵が建っている街道面に説明板が立っていた。
現在、蔵は修理中で保護シートが掛けられていた。
樹木に隠れている蔵は、奥へと数棟並んでいた。
【松井薬局建造物群】 歴史風致形成建造物・指定番号: 第12号(平成23年7月21日指定)
松井薬局は、江戸時代末期の文久年間(1861〜64)に、安田信義氏によって松井薬舗として創業され、明治12年(1879)当地に移転した。2代目安田平助(敬止)氏は、薬種問屋の傍ら大正7年(1918)から11年までの間、白河町長を務めている。 |
【関川寺(かんせんじ)】 (右奥) 10:15 〜15:25
松井薬局の先で街道は左・右へとカギ形に曲っている。
ここでカギ形を左に曲らずに右折して、関川寺と谷津田川の紅葉を見に寄り道をする。
右折した突き当りに関川寺があり、この時期、参道のイチョウ(下の写真)や境内のカエデが最高に色づいて綺麗だった。
境内には、柄杓を持った「杓底観音」像と「永平半杓水」の説明板や「赤穂義士中村勘助の妻の墓」等がある。
【永平半杓水】
大本山永平寺開祖、道元禅師さまは「水は生命なり」と申され、御生前谷川の水を使われるにも一杓の半分をお使いになり、残りの半分は千億人のためになればと、もとの谷川へお戻しになられたと伝えられ、これが「永平半杓水」の御遺訓であり、「この五文字」は単に水だけについてのお示しではなく、総てのものに対する道元禅師さまの家風、更には道元禅でもあり、即仏法でもあり「作法これ宗旨」と申すべきでしょう。
昭和五十八年永平寺二代さま御遠忌の祈り、一婦人いたく心を打たれて相談あり、時に山僧観音像建立を勧め、名付けて「杓底観音」と称しました。
作家、司馬遼太郎先生は当山を尋ねられ(昭和六十三年七月)著書「街道をゆく三十三」の中で次のように記されています。”旧城下町の町内の一つである愛后町の一部に入ると、曹洞宗の大きな寺があった。入ってみて、本堂の前の泉が気に入った。住職もこの泉を大切にしているらしく、「永平半杓水」と説明板を掲げている。(中略)この寺は関川寺とある。当代は四十八世とあるから、よほどふるい。”
関川四十八世 顕正代
【中村勘助の妻の墓】
赤穂義士の一人である中村勘助は、白河藩主を務めた松平大和守家の家臣、三田村小太夫の子で、赤穂藩主中村庄助の養子となりました。
元禄十五年(1702)、勘助は妻子を、白河の実弟三田村繁右衛門に預け、吉良家への討ち入りを遂げました。
この事件により、長男の忠三郎(十五歳)は遠島、ニ男の勘次(五歳)は浅草の曹源寺に預けられる処分が下されました。妻と娘はそのまま三田村家に預けられ、妻は享保七年(1722)、六十三歳で白河にて没しました。
白河観光協会
【谷津田川】 (右奥) 10:25〜10:37
関川寺の「中村勘助の妻の墓」を見てお寺の裏側から谷津田川に出ると、河畔両側の見事な紅葉に目を奪われた。
河畔を右に進むと復元された水車小屋があり、しみずや跡の説明板が立っていた。
水車小屋の先にある妙関寺の山門横に天然記念物の乙姫桜と呼ばれるシダレザクラが見えるが、今は桜の季節ではないので遠くから眺めただけにした 。
紅葉の後ろが関川寺 奥の水車小屋がある辺りがしみずや跡 |
【しみずや跡】 谷津田河流域水車跡群 谷津田川流域には、江戸時代の後半より昭和時代の前半にかけて精米(米つき)をはじめとする水車が数多く存在していました。 谷津田川の河川改修にともない、9つの水車跡で発掘調査が行われています。 しみずや跡の調査では、岩盤に掘られた水路の跡や柱の穴などから、水路をまたぐ形をした水車小屋跡や、屋内で回っていた水輪の位置をとらえることができました。現在の水車小屋は、調査で確認された遺構を三校として、建物の西半分が再現されています。 水車の廃業後に作られた石積や、建物の基礎の一部には、水車で使われていたと考えられる米つきの石臼が転用されており、ほぼ完全な形の石臼が13個出土しました。 |
【カギ形】 10:41
元のカギ形道に戻って、右折する左角に白河城下の説明板が 立ち、その向い(右側)は問屋跡だが、今は何も無い。
その先左側の蔵の前に中町の説明板が立っている。
【奥州街道と白河城下】
白河小峰城は、慶長年間頃に城郭及び城下の骨格が整備され、寛永四年(1627)白河藩成立後は、初代白河藩主丹羽長重によって屋敷地の拡張が図られるとともに、石垣を
多用した城郭に改修されました。
城郭の改修と合わせて、奥州街道沿いに城下町も形成され、商人や職人が居住して大きな賑わいを見せていました。
城下町は「通り五町」と呼ばれた、天神町・中町・本町・横町・田町を中心とし、これに並行して南側に裏町が配置されていました。
記録によれば、寛文年間(1661〜73)の白河城下の町人は7千5百人余りで、武家人口と合わせた城下の総人口は1万5千人程と推定されます。福島県内では、会津若松城下に次ぐ規模を誇っていました。
市街地には、多くの歴史遺産とともに、当時の奥州街道を中心として町割が非常によく残されており、今も城下町の姿を偲ぶことができます。
白河市教育委員会
【中町】
町の両端が城下町特有の「カギ形」で、天神町、本町と接しています。城の正面入り口にあたる大手(追手)がありました。
また、諸藩の使者を応接する屋敷や、幕府・藩のお触れ書を掲示する「高札場」など公的な施設も置かれ、小峰城の玄関口とも言える町でした。
「白河風土記」 (1805年完成)によれば家数が118軒とあります。
白河市
【大谷家住宅】 (右側) 10:45
次いで右側に、綺麗な「なまこ壁」の大谷家住宅が建っている。
【大谷家住宅建造物群】 歴史風致形成建造物・指定番号: 第10号(平成23年7月21日指定)
大谷家は、元々味噌醸造を営む商家であった。明治後期に本町大谷忠吉本店から味噌醸造店として分家・創業し、昭和52年頃まで営業していた。 |
【樂蔵(らくら)】 (右側) 10:49〜10:56
大谷家住宅の隣に樂蔵と言う、食事所や土産物店等十軒の新しいショップが並ぶ一角となっているが、本日は休業日ということで残念ながら昼食はお預けとなった。
但し、綺麗なトイレは利用でき、その前に休憩所もある。
【中町小路 樂蔵】
白河市は、奥州の玄関口として知られています。 |
【敷教舎(ふきょうしゃ)跡】 (右側) 10:59
樂蔵の先の信号を左折すればすぐ白河駅。
信号を渡ったすぐ先の「白河中町郵便局」の前に山車が納められている倉庫があった。扉が開いていて、山車の全貌を見る事が出来た。
その隣の駐車場前に敷教舎跡の説明板が立っている。
この場所は、白河藩主松平定信が寛政十一年(1799)に建てた郷学所(ごうがくしょ)「敷教舎」が置かれた場所とされます。白河藩には藩校「立教館」(寛政三年創設)がありましたが、敷教舎は「白川風土記」
に「城下の庶商幼童の輩をして学問筆算教導の所」と位置づけられた、庶民のための学校でした。
敷教舎は、白河では使者請所(諸藩の使者の応接所)の敷地内に、藩領須賀川町(現須賀川市)では、郷士、相楽氏の屋敷内に設けられ、
白河を「敷教第一舎」、須賀川を「敷教第二舎」と称したと伝えられています。
授業の内容はよくわかっていませんが、資料によれば、須賀川では立教館教授が派遣されて講釈(四書五経)を行い、手習・素読・算術等を町人や医師が担当したことが知られるので、白河でも同様の授業が行われていたと考えられます。
白河市教育委員会
【白河宿本陣芳賀(はが)家跡】 (右側) 11:02
敷教舎跡の先で二つ目のカギ形になり、右・左へと曲った先の「古楓堂 堀川印刷所」前に白河宿本陣芳賀家跡の説明板が立っている。
本陣の向いには「柳屋」と呼ばれる脇本陣があった。柳下氏宅とのことであるが確認し忘れた。
本陣は、江戸時代の大名、幕府役人などの宿舎となる旅籠である。白川宿の本陣は、この地にあった本町の芳賀源左衛門家が代々務めた。明治九年(1876)明治天皇の第一回東北巡幸の際には休憩所とされた。本陣芳賀家の表門口は当時約16間余り(約30
m)であった。
本町復起会
【白河県立病院・白河医術講議所跡】 (右側) 11:04
本陣跡の隣に白河県立病院・白河医術講義所跡の説明板と、白河医術講義所跡の石碑が建っている。
明治四年(1871)8月、白河県(明治2年〜4年)は、県立病院と医術講議所を白河宿本陣の芳賀源左衛門宅の一部に開業した。病院長に大学東校(後の東京大学医学部)の教授横川正臣、旧白河藩医岡崎東海など医師7〜9名で診療を行った。病院に付属させた医学生教育機関の医術講議所もあわせて設置された。
明治4年11月白河県が福島県に包括されると、翌5年2月病院医術講議所は須賀川へと移転した。この場所は、全国に先がけて、近代病院経営と医術演習の草創期をになった地である。
本町復起会
【本町(もとまち)】 (右側) 11:05
白河医術講義所跡すぐ先右側のおむすび屋「たさぶろう」の店先に本町の説明板が立っている。
奥州街道沿いに食事処は少ないうえ水曜は休みの為、仕方なくこの「たさぶろう」でおにぎりを購入した。
【本町】
「十軒店」と称される、ひときわ大きい「カギ形」で中町と接しているのが本町です。「白川風土記」(1805年完成)によれば、家数は九六件で、町名の由来は記されていませんが、一説には古くからの街であるためとも言われています(「白川因縁記」)。
職業が記される町の絵図では半数近くが宿屋であり、旅館街ともいえる町を設定しでした。大名が参勤交代の際などに宿泊する本陣と脇本陣も置かれていました。
白河市
【萩原朔太郎の妻・美津子の生家】 (左側) 11:11
「たさぶろう」の先左側の「大谷忠吉本店」は、萩原朔太郎の妻・美津子の生家である。
「大谷忠吉本店」は、明治12年(1879)創業で、130年の歴史がある日本酒「白陽」の蔵元。
店と蔵の間に奥まで長いトロッコ用レールが敷かれていた。
【萩原朔太郎の妻・美津子の生家】 この地は、日本を代表する大正・昭和期の詩人である萩原朔太郎ゆかりの地である。当地の大谷忠一郎は、家業の酒造業を営みながら詩人として活躍した。忠一郎は、萩原朔太郎にも師事し、「北方詩人」などを主宰した。萩原は、当地の忠一郎のもとを度々訪ねており、そのよう縁で忠一郎の妹美津子と昭和13年(1938)に結婚した。 本町復起会 |
【渋木茶舗建造物群・岩淵悦太郎生家跡】 (右側) 11:15〜11:21
「大谷忠吉本店」のすぐ先左側にある「和菓司 玉屋」は趣のある建物だった。
奥州道中はその先の信号を左折するが、その信号の右角に明治13年創業の渋木茶舗が建っており、現在の建物は明治23年頃のもので、歴史風致形成建造物に指定されている。
更に、この地(「渋木茶舗」の左側の空地か?)は岩淵悦太郎の生家跡で店の左側に説明板が立っている。
それらを見学していたら店主が出て来て、話を伺う事が出来た。
店主曰く、庇に掲げられている古い看板は明治40年頃「伊勢丹」が書いたものとのこと。看板には「丹光書」とあるが、伊勢丹の創業者から三代目まで小菅丹治である。もしかしたら二代目の戒名が「丹光院」ということで、号が「丹光」かもしれない。この辺はわたしの想像で、本当に伊勢丹の社長が書いたものかその時充分確認しなかったので定かでない。
また、岩淵悦太郎の生家であった「岩淵屋」が酒造業を営んでいたことから、当時の大きな酒徳利が保存されており、それを見せていただいた。
【渋木茶舗建造物群】 歴史風致形成建造物・指定番号: 第7号(平成23年7月21日指定) 渋木茶舗は、明治13年(1880)に八百屋町渋木家から独立した渋木啓次郎氏によって横町に渋木商店として創業された。その後明治23年に当地に移転営業し、丸喜園茶舗、さらには渋木茶舗と名称変更した。当初は養蚕家であったが、次第に茶舗としての営業を行うようになった。 建造物群は、旧奥州街道に面した伝統的な切妻・平入り形式の店舗。その奥にかつては住居であった主屋・中庭の奥に座敷蔵という構成であり、白河の伝統的な町屋建築である。これらの建造物は、明治23年頃に建築されたものである。 白河市 【岩淵悦太郎生家跡】
岩渕悦太郎は、現代日本語の生態の科学的研究方法の基礎を作った国語学者である。文部省教育課程審議会・同国語審議会等の委員を務め、
NHK放送文化賞を受賞している。主な編著作は「日本方言地図」 「岩波国語辞典」 「国語史編集」などがある。 本町復起会 |
【横町】 (右側) 11:24
信号を左折して、左側「ヨークベニマル」の向かいに横町の説明板が立っている。
横町に入ると左右に「だるま店」が残っている。
本町の四辻から北に直角に折れる奥州街道に添って南北に延びる町です。小峰城の東側に接し、町の北端には三之丸に入る「横町門」があり、東側には藩の家臣が住む「番士小路」がありました。
町名の由来は分かっていませんが、大手(追手)門のある城の正面に対して、その横にある町という意味とも推測されます。
「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は112軒とあります。
白河市
【田町】 (右側) 11:29
JR東北線のガードをくぐった先右側の「津島神社」前に田町の案内板が立っている。
北側を流れる阿武隈川と接するのが田町です。江戸時代中頃まで、阿武隈川は歩いて渡っており、橋が初めて作られたのは元禄二年(1689)のことと伝わります。
会津・仙台方面からの入口で、町の北端には城下の入口を示す大木戸が置かれていました。また、大木戸の外側には享和三年(1803)の洪水で失われた「河原町」がありました。
町の中央付近には城内に入る「田町門」があり、三之丸の北小路と通じていました。
「白河風土記」(1805年完成)によれば、家数は131軒とあります。
白河市
<昼食> 11:35〜12:00
程なく阿武隈川に架かる「田町大橋」を渡る。
水曜日は町中休みで食事処も休めるところもなかったが、橋を渡った所を左折して100m程行くと河原に下りられたので、草むらに座って先程購入したおにぎりを食べた。この日は北の風だったので、河原に下りたら風がさえぎられ、寒い思いをしないですんだ
【]姫(えなひめ)神社】 (右側) 12:07
「田町大橋」を渡ると緩い上り坂になり、その途中右側「羅漢山霊園入口」の標識を右に入ってすぐ左側に]姫神社がある。
神社右横の説明板の傍らには、小さな「八房の梅」が植えられていた。
【]姫神社縁起】 祭神 当社は、兵法家鬼一法眼の息女皆鶴姫を祭る古社である。 縁起 時は平家全盛の世、平治の乱で平清盛に敗れた、源氏の棟梁源義朝の遺臣である吉岡家三兄弟のうち、長兄鬼一法眼は、京都堀川に住み、兵法家として中国伝来の兵法虎の巻「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を秘蔵していた。源義経は鬼一法眼より「六韜三略」の秘伝書入手したが、平家の圧迫激しく、義経は金売吉次と共に京を脱出し平泉の藤原秀衡のもとに向った。 皆鶴姫も旅装を整へ、恋する義経の後を追った。しかし旅なれぬ身故に、京都からの長旅で白河北辺の俊嶮に歩行困難となり、病をえて此処に辿り、宿も無く雨露を防ぐ術もなく、旅の衣を傍の楓に掛け横臥快復を待てり、 里人は其の行動に感激し、手厚く看護するも甲斐なく息を引き取り埋葬する。 その時懐中に梅の実あり。里人は遺品として之を蒔きたり、梅は「八房の梅」にて花咲き、実結び、里人は大事に育て、社を建立し祭れりと云う。 |
【女石・奥州道中幕府管轄終点】 12:18
]姫神社を後に、右カーブして下り坂となり、下り終えた右斜め道との三角点 (追分)で道中奉行管轄の奥州道中は終点となる。この先は奥州各藩の管轄となる。
ここから右に分ける奥州街道と左に分ける会津街道との「女石追分」には街道の説明も道標もなく、ただ、「女石バス停」と4号線の「女石信号」がその名を示しているだけである。
通称・奥州街道は此処から右斜めに進んで前方に見える国道4号線に合流し、仙台まで仙台道、
盛岡、青森、松前を経て函館までを松前道等と呼ばれて続くが、この先の道路の呼び方はこの他にも色々あった。
下の写真で右斜めの道が更に続く奥州街道(陸羽街道)。奥の青い道標が国道4号線。
【仙台藩士戊辰戦歿之碑】 (左側) 12:18〜12:25
上の写真で、左側の紅葉が見える所に仙台藩士戊辰戦歿碑がある。
【仙台藩士戊辰戦歿碑】 かつて会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点であったここ女石の地にあるこの碑は、明治ニ十三年(1890)、戊辰戦争における仙台藩の戦死者の慰霊のため、旧仙台藩主伊達宗基により建てられたものである。 なお、この碑の傍らの「戦死供養碑」は、白河周辺で戦死した仙台藩士百五十名余を葬った墓で、明治二年(1869)の建立である。 白河観光物産協会 |
【小峰城(城山公園)】 (左奥) 12:50〜13:08
奥州道中を完歩して、元の道を戻り、最後に白河小峰城(別名白河城)を見学する。
「田町大橋」の先の信号まで戻り、ここを右折。(白河駅方面から進んだ場合は、JR東北線のガードをくぐって最初の信号を左折。)
城に向う途中の両側に「郭内応急仮設住宅」が並び、その先には福島地方裁判所・保険所・年金事務所・監督基準署等があり、信号から580m程で「城山公園」入口に到着する。
園内右手に小峰城の三重櫓が見えるが、残念ながら2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災により、至る所で石垣が崩れ、修理中の城に近づくことが出来なかった。この地震による崩落は余震の時も含め10箇所にも及んだとのこと。
下の写真は、公園広場から見た修理囲いと、石垣が崩落した1箇所。この三重櫓の左側部分が本丸跡になる。
【小峰城跡】 国指定史跡(平成22年8月5日指定) 梯郭式平山城 小峰城後は、南北朝期の興国・正平年間(1340〜69)頃に、結城親朝により築城されたのが始まりとされます。 |
【白河駅】 (左奥) 13:12
城跡から真直ぐJR線の方に行くと、線路の下に歩行者用トンネルがあり、反対側の駅舎にすぐ行ける。
駅の開業は明治20年(1887)だが、現在の駅舎は大正10年(1921)に建てられたもの。東北新幹線が開業して隣に新白河駅が出来てから、こちらは「スイカ」も使えない様なマイナーな駅となってしまった。しかし、新幹線がこちらを通らなかったおかげで美しい駅舎が残ったとも言える。内部も大正ロマンが感じられ、ホームからは小峰城が望める。
1時間に1本の電車まで時間があるので、駅舎付属の喫茶店でお茶してから黒川駅に戻る。
【白河駅の駅名由来〕
白河の地名は、古関跡の下を流れる「白川」という小川に由来するという説とアイヌ語で、”自陣”を示す「シラガー」という言葉が転訛したというふたつの説があり、古くは「白川」と表記されていました。 |
7回目の旅終了 12:25 女石 ― 13:12 白河駅
白河駅13:56発の電車で黒磯駅に行き、泊めていた車で「白河関跡」と「南湖公園」を見学してから帰宅。
今回の記録:街道のみの距離は、9.2Km (JAしらかわ白坂営業所前〜女石バス停)
宇都宮追分から、21里26町(85.3Km)
女石まで、4時間45分 17,500歩。 白河駅まで、5時間32分 21,700歩。
寄り道を含めた実歩行距離は、12.9Km (白坂駅〜白河駅) 累計106.0Km
「女石」から先は、「奥の細道5回目」 白河関跡】へ続く。
【黒川駅より車で観光】
【白河関跡】 15:30〜15:50
奥州道中(国道294号)の東側を走る県道76号線沿いの旗宿に白河の関跡がある。白坂から芭蕉が歩いた道を同じように辿ると、1時間45分(6.7Km)掛かる。
また、関跡に隣接して「白河関の森公園」がある。この公園には芭蕉と曽良の銅像が建ち、台座には二人の句が刻まれていた。レストランや物産センターもあるが、すでに閉まっていた。白河市街と同じで水曜日は休みかもしれない。
関跡入口から鳥居をくぐって山道を上って行くと、途中に「矢立の松」、「古歌碑」が建ち、奥に「白河神社」が建っている。神社の右から戻る途中の細道では、「空掘・土塁跡」、 「奥の細道・曽良の日記碑」、「従二位の杉」、「旗立の桜」、「幌掛の楓」等が見られる。
【白河関跡】 国指定史跡(昭和41年9月12日指定)
白河関は、古来よりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの国家古歌に詠まれた場所である。 白河藩主松平定信(樂翁)が寛政十二年(1800)年八月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。 |
【矢立の松】
治承四年(1180)、源義経が平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、この松に矢を射立てたと伝えられる。現在は、少量の根株を残すのみである。
【古歌碑(平兼盛、能因法師、梶原景季)】
「白河関」に題材をとる平安時代の和歌三首を歌碑としたものである。
平兼盛(?〜990)
「便りあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと」(『拾遺和歌集』)
三十六歌仙の一人、平兼盛が奥州に下り歌枕白河関を越えた感激を都の知人にどうやって知らせようかと詠んでいる。
能因法師(988〜?)
「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関」(『後拾遺和歌集』)
風狂数奇の歌人、能因法師が奥州に旅した際、白河関で詠んだ歌。都と白河関の距離・時間を詠みこんだ著名な歌である。
梶原景季(1162〜1200)
「秋風に 草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし」(『吾妻鏡』)
源頼朝(1149〜99)が、文治五年(1189)七月二十九日、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、側近の梶原景季が、白河関の社殿で詠んだものである。
【白河神社・由緒】
第十三代成務天皇五年(135)白河国造命と天太玉命を奉祀し、勅命により鎮座、のち白河の関設置に当り、関所南北に住吉・玉津島明神を祀る。延暦十年(792)永承七年(1053)平兼盛、源頼義・義家等が稲田を奉献し、寿永三年(1184)三月九日源義家、文治五年(1189)源頼朝等が金弊を奉献、元和元年(1615)伊達政宗公社殿を改築奉納(本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋あり)、享和元年(1801)に白河城主松平定信公が神庫を奉納。奥の細道曽良日記にも記された二所の関明神として、現在国技である大相撲二所の関部屋の発祥地、八月に二所の関古式相撲が嵐祭りとして奉納される。
白河の関を境内とし、境内は昭和四十一年九月十二日付けで文化庁より国指定史跡「白河関跡」に指定された。
【空掘跡】
空堀は、敵の侵入を防ぐため、曲輪に沿って掘られた防御施設である。
【奥の細道 白河の関】
心許なき日かず重るまゝに白河の関にかゝりて旅心定まりぬいかで都へと便求めしも理也中にも此関は三関の一にして風騒の人心をとゞむ秋風を耳に残し紅葉を俤にして青葉の梢猶あはれ也卯の花の白妙に茨の花の咲そひて雪にもこゆる心地ぞする古人冠を正し衣裳を改し事など清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ
卯の花をかざしに関の晴着かな
曽良
楸邨書
【従二位の杉】
鎌倉前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植し、奉納したと伝えられる老木である。
推定樹齢約八百年、周囲約五メートル。
【幌掛の楓】
源義家が安倍貞任攻め(前九年の役)のため白河関を通過する時、この楓に幌をかけて休息したと伝えられる。
【南湖公園】 国指定史跡・名勝(大正13年12月9日指定) 16:05〜16:20
白河の関跡から北へ約9Km行った所、国道289号に合流した所に南湖公園がある。
上記【戊辰の役古戦場】の項で古戦場手前の国道289号を渡ったが、この交差点を右折すると20分程度(1.5Km)で南湖公園に着く。
【南湖公園】 県立自然公園 享和元年(1801)に12代白河藩主の松平定信が「大沼」と呼ばれていた湿地帯に堤を作って水を貯め、身分を越えて領民が集える場として造園された日本最古と云われる公園。 |
園内には大きな池、日本庭園の翆樂苑、南湖神社があり、紅葉は最高に美しかった。
また、園内の御休み処等で販売されている「南湖だんご」が有名で、それぞれの店で味付けが異なると言われる。TVで紹介されたのを見て、訪れた時に食しようと思っていたが、暗くなったこともあり、「だんご」のことはすっかり忘れて買いそびれてしまった。
【翆樂苑】
翆樂苑は、平成七年(1995)に完成した回遊式日本庭園で、特に紅葉が綺麗である。園内に茶室もある。
私達は暗くなってきたので、入園せずに門から中を覗いただけにした。(下の写真が、翆樂苑入口)
開園時間は9:00〜17:00、入園料310円(呈茶とセットで730円)。
【南湖神社】
白河藩主・松平定信を祭神とする神社。境内に松風亭蘿月庵がある。
また、東日本大震災でかなりの箇所が損壊したそうで、未だに復旧工事が続いている。
【蘿月庵由緒】 白河市文化財(建物)指定
蘿月庵は風雅の茶室である。
寛政年間、城主松平定信の臣、三輪権右ェ門(号待月)が其の父、長尾仙鼠の為に経営したもので、元白河市九番町松並にあったが、松平氏桑名に移封の折、中町常盤惟親譲り受け、邸内に移した。後、一時、西白河郡役所の所有に帰したが、大正十三年五月、南湖神社境内に移された。
城主定信は(晩年、樂翁を称す)殊の外、この茶室を愛し度々ここに遊んだが、一日たわむれに、その水盥をとり、中に蘿月の文字を印たるより、この茶室を蘿月庵と称するに至ったものである。因に様式は道安好二畳台目で、傑作の名が高い。現在はここで毎月第二日曜に茶会が行われている。
昭和四十二年 白河市教育委員会