伏見宿・太田宿 (顔戸駅 → 美濃太田駅前ホテル) <旧中山道26回目>

 

2010年5月30日(日) 晴 

 前日横浜駅発の夜行バスで名古屋駅まで行き、名鉄電車に乗り継ぎ広見線の顔戸(ごうど)駅 を8:25スタート。

 2年7ヶ月ぶりに中山道に戻ってきた。

 大湫・細久手・御嵩宿を飛ばして顔戸駅から再開した理由は第24回を参照 して下さい。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「御嵩宿」 ← 「目次」 → 「鵜沼宿」

 

 第24回で述べた通り腰に不安があるのにも関わらず、無謀にも経費節減のため夜行バスで移動するという手段をとった。2時間おきに3回も休憩を取るため殆んど眠られなかったが、逆に何度も足腰を伸ばせたのが腰には良かったのかも知ない。

 とりあえず無理をせずにゆっくり歩き、少しでも痛くなったら中途でやめ、早めにホテルに入るということで歩き始めた。

 結論から先に述べると、いつもよりゆっくり歩いたのがよかったのか足も腰も痛むこともなく最後まで歩くことが出来た。 


【在原行平卿之墳】 (左奥) 

 中山道からは「顔戸交差点」を左折し、顔戸橋を渡って160m行った先の踏切を越えた右側、顔戸駅の線路を挟んだ反対側の三角地に説明板・寛保三年建立の碑・歌碑が 立っている。

 行平は業平の兄に当たり、碑には『在原黄門行平卿之墳』、歌碑には百人一首の『立別れ いなばの山の峰に生ふる まつとしきかば 今かへりこむ 中納言行平歌』と刻まれている。

【在原行平卿之墳(町重文)】

 在原行平は、弘仁九年(818)五一代平城天皇の孫として生まれ、天長三年(826)に在原朝臣の姓を賜った。

 行政官として朝廷に仕え民部卿の職にあり、善政を施し広く一般の敬愛を受けたという。元慶五年(881)には貴族の子弟の教育の場として奨学院を創設し、教育にも力を注いだ。この間和歌の道にも精進し、「古今集」「後撰集」などに多くの歌を残す歌人としてその名を記す。

 行平のくわしいことはよくわかってはいないが、美濃守に任ぜられこの地を治めたとき、人民を治めよき政治を布いたとして人々に尊崇されていたと伝えられる。

 こうした所以があってか、江戸時代の寛保三年(1742)に顔戸の念仏講信者たちが、行平の徳を偲び「在原黄門行平卿之墳」と刻んだ碑を建立した。

  行平の墓所については諸説があるが、明治二十三年(1890)頃、行平の末裔という大津市浄土宗華階寺の住職大谷氏より、家伝の古記録に「可児郡伏見川の向に行平卿の墓あり」と記したものがあると、信書が役場に届いたという。

 平安時代の六歌仙、三六歌仙に名を連ねる在原業平は、この行平の弟である。

  百人一首  在原行平 歌

    立ち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

     御嵩町・御嵩町観光協会


【顔戸城址】 (右奥) 

 「顔戸交差点」を右折した突き当たりに土塁と空堀が見られ、説明板が立っている(交差点から75m)。

【顔戸城址由来】

 応仁の乱(1467〜77)の頃、中央の政権をも揺るがすと言われた武将が、ここ顔戸の地で活躍していました。その武将が歴史に今も名を残す斎藤妙椿その人です。

 妙椿は、ここ顔戸の地に東・西・北の三方に戦いに備えるための豪壮な空堀と土塁を設け、南は可児川の自然の流れを防御手段に利用した平城「顔戸城」を築城し、東美濃の守りの拠点としました。

 城の規模は、東西およそ150メートル、南北およそ167メートルの規模を有し、空堀と高く盛られた土塁に囲まれた内側に館を構えた平坦面があり、豪壮な中世平城の姿を今に伝え「構」と呼ばれ、東美濃でも有数の平城としてその名を馳せています。

 妙椿はもとは八百津の浄土宗善恵寺で僧侶として修行をしていましたが、長禄四年(1460)守護代を務めていた兄利永が世を去ったため仏道を捨て、政界に乗り出し頭角を現した人物です。

     平成十年十月 御嵩町・御嵩町観光協会


【比衣(ひえ)一里塚趾】 (右側) 8:45

 可児川沿いの国道21号線を進み、「東海環状道」の高架が見えたら右斜めの道に入る。その入口右側のガードレールの後ろに中山道比衣一里塚跡の白い石柱が 立っているのですぐ分かる(顔戸交差点から430m)。

 ここは日本橋から96番目の一里塚だが、説明文等はない。

(左の写真で、左の直線道路が21号線。奥の赤い高架が「東海環状道」。中山道は横断歩道に続く道)

 「東海環状道」を潜り、道なりに進むと、右角に「←中山道」の道標が建っている十字路に出るので、ここを左折し国道に戻る。真直ぐの上り道を行っても「共和中学校」の前を通って国道に合流できるが、左折すると国道に合流する手前右側に道標が 立っているのでこちらが中山道だと分かる。石柱には『右御嶽宿』『左 伏見宿』と彫られていた。


【大柳之碑】 (右奥)

 「高倉口信号」を越えて130mほど行くと、国道の上り坂手前に右斜め方向の矢印が付いた「中山道」の案内板が立っている。この案内に従い、僅か210mだが国道を迂回する右斜めの細道を進む。

 道の中程で小さな山田川を渡るが、ここから右手を見ると名鉄の廃線道の下に石碑が見える。望遠レンズで見ると石柱には大柳之碑と彫られていたが近くまで行かなかった。

 平成13年に廃線となった八百津線の沿線に、伏見宿の飯盛女の信仰対象となっていた柳の木(樹齢千年)が立っていたとのこと。

 山田川を渡って坂を上り、再び国道に戻ると伏見宿に入って行く。


【伏見宿】 日本橋から96里30町(380.3Km)、京へ39里4町 (153.6Km)
 天保14年(1843)で人口485名、総家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋29軒。

 伏見宿は、慶長七年(1602)、中山道のなかでもいち早く設置された御嵩宿(東へ約一里)から遅れること約90年後の元禄七年(1694)、土田宿(可児市)の廃宿にともなって開宿されたといわれています。

 宿場の長さは約570mにおよび、駱駝が逗留した宿場としても知られています。

 現在、伏見宿内の中山道は国道21号線へと姿を変え、残念ながら当時の面影を伝える風景はごくわずかとなっています。

     一本松公園内の『中山道伏見宿周辺マップ』の案内より

 

木曽海道六拾九次之内 伏見 (広重)

伏見宿から少し離れるが、犬山街道沿いにあった有名な大杉を

広重は松に代えて描いたのではないか。

室戸台風で倒れてしまったが、

広重が描いた大杉はここにあった。

 


【本陣跡】 【尾張藩領界石】 (左側) 9:15

 大柳之碑から国道に戻ってすぐ左側の「伏見公民館」前に、『伏見宿 本陣之跡』と刻まれた三角形の石碑、その隣には『是よ里東尾州藩領』と刻まれた大きな石柱が立っているが、共に説明文等はない。


【浄覚寺】 (左側) 9:20

 公民館の次の道を左に70mほど入ると竹山淨覚寺がある。門前に『徳川光友夫妻菩提所』の石柱が 立っていた

 境内には、御嵩町指定名木「シャシャンボ(ツツジ科)・ヒイラギ(モクセイ科)・もみの木(マツ科)」の三本があり、その根本には芭蕉の句碑(古池や蛙飛びこむ 水の音)が立っていた。

 本堂の裏手にトイレがあったので拝借。顔戸駅には無なかったため我慢していたので助かった。

 徳川光友(1625−1700)は、尾張国尾張藩の第二代藩主で初代藩主・徳川義直の長男。正室は徳川家光の長女・千代姫(霊仙院)。わずか3歳で当時13歳の光友に嫁いだが、当然大名の妻子は江戸に住まうのが原則で尾張に行った訳ではない。


【一本松公園(休憩所)】 (右側) 9:30〜9:45

 次の「伏見交差点」右角の小公園に新しいトイレと休憩所がある。『左 兼山 八百津』『右御嵩』の道標も立っている。また、休憩所の壁には伏見宿付近の案内が掲げられていた。ここで休憩をしながら居合わせた男性ウォーカーと暫く話が弾む。

 

 この「伏見交差点」を左折して「伏見小学校」に沿って450mほど行くと東寺山古墳が、また、学校前の「洞興寺」には飯盛り女を葬った女郎塚がある。

 始めは訪れる予定だったが、ウォーカーと話し込んで休憩が長くなったため行かなかった。この先にも大きな古墳はあるし、「飯盛り女の墓」も東海道藤沢宿の「永勝寺」で経験しているので良とする。


【旧旅籠三吉屋(お休み処 らくだ)】 (左側) 9:47〜9:55

 「伏見交差点」を越えた左側にかわいい駱駝の絵が掲げられている古い家がある。ここは旧旅籠の三好屋で現在 その一部がお休み処となっている。看板には『観光案内・歴史資料・土産品・飲物 伏見地区ふるさとづくり活動センター』とあった。

 中山道の資料が置いてあり、喫茶店も兼ねて親切な対応で居心地が良いので休憩はこちらを勧める。

 私達は手前の休憩所で休んだので資料だけ貰うつもりだけで入ったが、氷の入った水をサービスして頂き有難かった。申し訳なかったが資料を頂き、記帳のみして出てきた。

【駱駝】  

 文政七年(1824)、伏見宿の人々を騒然とさせる出来事が起こりました。なんと、珍獣「駱駝」がやってきたのです。

 もともとこの駱駝、幕府に献上される目的でペルシャ(現イラン)から連れてこられたのですが。幕府に献上を断られたため見世物興行師の手に渡り、各地を見世物としてまわりました。そして中山道を旅する途中、興行師が伏見宿にさしかかったあたりで病気になり、3日間ほど逗留したのだそうです。その時の記録が「御祭礼当人帳」に残されています。それにようると、近隣の村々から駱駝見物のため2日間で2,000人以上の人があつまってきたそうです。

 駱駝を始めて見た人たちは、どんない驚いたことでしょうね。

     一本松公園の啓示資料より


【松屋】 

 三吉屋の向かいで元酒屋であったらしいが、その建物がそうであるかも含め詳しいことは不明。

 帰宅してから分かったことだが、多くのホームページに駱駝が逗留したのは「松屋」とある。「三吉屋」とどちらかと悩む。

 行く前にこれらことが分かっていたら、「松屋」のことを上記お休み処で聞くことが出来たのにと思ったが後の祭り。


【正岡子規の句碑】 (左側) 10:00

 伏見交差点から西坂を下り、右側「CoCo壱番屋」の手前に「播隆上人名号碑」があったはずで、大きな石碑にもかかわらず見逃してしまった。播隆上人は苦労を重ねて前人未到の槍ヶ岳を開山した人。 御嵩町内では9基確認されているとのこと。

 

 「CoCo壱番屋」の向かいに子規の句碑が 立っている。

 説明板は古いもので、字がかすれて非常に読みづらかった。

 かけはしの記に依れば明治二十四年(1891)五月末日、木曽路を経て故郷松山への道中、伏見宿に泊った正岡子規は、「朝まだきほの暗き頃より舟場に至って下り舟を待つ。つどい来る諸國の旅人七・八人あり。」と記している。

 新村湊にて 

   すげ笠の 生國名のれ ほととぎす

の一句を残し小舟にて木曽川駅までの舟旅を楽しんだ。

     御嵩町観光協会


太田渡道標】 (左側) 

 句碑のすぐ先「上恵戸交差点」で左県道122号線・右県道381号線と斜めで交差するが、中山道は直進する。

 その交差点左側の三角地頂点でガソリンスタンドの前に天正四年建立の太田渡道標が立っている。

 道標には『右 太田渡岐阜市 約九里』『左 多治見及大山 約四里』と刻まれている。


【長塚古墳】 (左奥) 10:33〜10:50

 そのまま国道の左側を歩き、右手「上恵戸神社」の前を過ぎると、21号線のバイパスと三角形の形で合流する左側に大きなショッピングセンター「ラスパ」がある交差点に出る。中山道はここで真直ぐ方向の国道を行くのであるが、長塚古墳に行くために「ラスパ」側に左カーブして信号を渡り右折する。

 信号を渡って300mで右手に見える「市原産業」の前を左折する。そこから550mの細い道を直進すると右側「東和耐火工業」の後ろに小山が見えてくる。これが前方後円墳の原形をよくとどめている長塚古である。犬山街道のすぐ手前になる。

 説明板は後円墳を登って反対側に下りるか、150mほど犬山街道へ右廻りするとある。

 私達は下の写真で妻が上ろうとしている所から後円部に登って反対側に出た。登ると正にが細長く、の方がであることがはっきり分かり、何故か興奮した。

【長塚古墳】 国・県・市指定史跡

 所在地 可児市中恵戸字野中199−1〜3

 全長81m・後円部直径46m・高さ8.3m・前方部幅32m・高さ5.9m

 木曽川と可児川に挟まれた中位段丘の南端に位置し前方部を西に向ける前方後円墳である。

 墳丘のまわりには、幅25m程度の堀がめぐいたようであり、後円部南東方向には幅5m前後の外堤の一部が保存されている。

 墳丘は二段築成でほぼ原型を保ち東濃地方では最大級の前方後円墳で、当墳の南西に位置する西寺山古墳、西方の野中古墳とともに前波の三ツ塚と呼ばれ、古墳時代前期四世紀末から五世紀初頃の築造と考えられる。

   国指定昭和31年5月15日

     可児市教育委員会


【西寺山古墳】 (左奥) 10:55

 長塚古墳の説明板から犬山街道に出て右折するとすぐ先の左側、弘福寺駐車場うしろにある。

【西寺山古墳】 市指定史跡(昭和31年6月2日指定)

前波の三ツ塚

 当所、中恵戸地内の前波地区には、古くから「前波の三ツ塚」と呼ばれる大きな古墳が知られます。これら三つの古墳は、古墳時代の前期に位置づけられ、概ね四世紀の中頃〜末頃にかけて相次いで築かれています。埋葬施設や外表施設、出土品などの状況から、西寺山古墳(前方後方墳)→野中古墳(前方後円墳)→中塚古墳(前方後円墳)の順で築かれたものと考えられます。

西山寺古墳の概要

 西寺山古墳は、墳丘の半分程度が削平されていますが、平成十年と十六年に実施した発掘調査の結果から、元は全長六十メートルの前方後方墳と確認されました。前方部の長さは二十六メートル、後方部の長さは三十四メートルを測ります。墳丘は二段に築かれ、裏込めも含めて川原石による葺石で厚く覆われています。

 墳頂部付近には数多くの埴輪が立て並べられていたようで、発掘調査では転がり落ちて壊れた多量の埴輪片が、墳端付近から出土しています。これらの埴輪は、円筒形ではなく底に穴のある壺の形をしたものばかりです。その形状から(二重口縁)壺形埴輪と呼びますが、外面が赤く塗られた大型品です。

 墳頂にある埋葬施設の状況は分かりませんが、昭和初期に鏡が出土したと伝わります。

西寺山古墳の意味

 隣接する伏見地区の前方後方墳三基も含め、この古墳は四世紀の可児地区の首長墓と考えられます。

 古墳時代前期の東日本では、各地で前方後円墳に先立ってよく前方後方墳が築かれています。濃尾平野でもこの傾向は顕著で、当可児地域の他、西濃方面や犬山方面で見受けられます。西寺山古墳の壺形埴輪や葺石に状況は、犬山方面との深いつながりを示します。

     平成十八年十月建替 可児市教育委員会


【大杉之跡】 (左奥) 11:00  

 広重が『伏見宿』の浮世絵に描いた大杉は昭和9年9月の室戸大風で倒れてしまい、現在は跡形もなく石碑が立っているだけである。

 名木 大杉之跡の碑は、西寺山古墳前の犬山街道を東に戻り、長塚古墳前の五叉路を越えてすぐの左側民家前に立っている。上記【伏見宿】の現在の写真参照)

 石碑の裏には説明文が刻まれていたが、帰ってから写真を見てみると文字が不鮮明で判別が難しかった。

 此所ニ屹立セシ大杉ハ樹幹ノ周囲一丈九尺余(約5.8m)樹高十八間(約33m)樹齢ニ千年有余年ニ及ビテ 霊験アリ岐阜県ノ名木ノ一ニ数ヘラレシヲ昭和九年九月廿一日大暴風雨ノ為ニ倒ル尊民齊シク之ヲ悼ミ碑ヲ建立シ後世ニ止ム


【恵土一里塚跡】 (右側) 11:20

 大杉之跡から国道に戻って西進するとやがて左側に「ヤマダ電機」がある「中恵土交差点」に至る。

 その交差点手前右側、ヤマダ電機の反対側で地下横断歩道建造物の横に恵土一里塚跡の新しい石碑が立っている。

 日本橋から97番目の一里塚で、 碑の正面には『中山道 一里塚の跡 これより約30メートル東 』、右面は『江戸・伏見宿』、左面は『京・今渡の渡し・太田宿』、裏面に『中山道開宿400周年記念事業 可児市・可児市観光協会』と刻印されている。


<昼食> 11:2 5〜12:10

 「中恵土交差点」を渡った左側の「Bakery Restaurant がろん」で『がろんセット』を注文。今日はチキンのトマトソース煮にスープ・サラダ・デザートとライスかパンバイキングが付いて980円であった(飲み物は別料金)。他に『パスタセット』もある。

 セットメニューでパンを選ぶと店で焼いているミニパンが食べ放題になる。10種類ぐらいのミニパンには二種類のクロワッサン・クルミ入りパン・よもぎパン・雑穀パン・その他色々あった。お腹一杯になることを請け合い。

 ここは元パン屋であったが近年レストランを併設した店で、料理もパンも美味しく、大満足の★★★★


【辞世塚】 (右側) 12:25

 「中恵土交差点」から二つ目の「可茂公設市場交差点」で国道と分かれて右折し、「加茂中央市場」前の細道を軽く上って行く。

 交差点から400mでJR太田線の踏切を渡るのだが、途中の沿道一杯に黄マーガレットと思う 花(写真)が咲き乱れて美しく、心も足も和んだ。

 その踏切の手前(写真で坂を上りきった所)辞世塚なるものが あり、石灯籠と新旧4基の石碑が立っていたが、どういう人たちが建てたのだろう?


【龍洞寺】  (新四国第一番 新西国第三十番札所) (右側) 12:50  

 踏切を渡り、国道21号線と交差する「住吉交差点」を直進。今渡神社入口を過ぎた「今渡公民館南交差点」のすぐ先に龍洞寺の入口がある。山門を入ったすぐ左に『龍の枕石 (下の写真)なるものが鎮座していた。案内板には『天正年間(今より凡そ四百年前)』『当寺縁起の名石と伝わっている』と書かれていただけだった。

 むかし、むかし、木曽川の岸は岩がごつごつして、雄と雌の龍神がその洞穴に住んでいた。

 ところがこの龍神は時々ものすごい嵐を起しては田や畑を何も出来なくなるような荒地にしてしまい、村人は食べるものも無くなって苦しんでいた。

 そんなある日、江陽というお坊さんがこの村にきて、村人を助けたい一心で三日三晩祈り続けた。すると、よく晴れた空が急に暗くなり、天地がひっくり返るような激しい雷雨が起こった。それでも祈り続けると、突然、岩が割れてものすごい水柱が立ち、雄の龍が天に登り、雌の龍は深い淵に閉じ込められてしまったそうだ。

 やがて嵐もやんで青空になったので、村人がおそるおそる岩の割れ目を覗くと、中に形のいい石あった。

 村人がなんだろうと騒いでいると、お坊さんがその石は「龍神の寝枕」だと教え、村人の力を借りてこの村に龍洞寺という寺を建て、「龍の枕石」を本堂の西に祀った。

     可児の昔話より


【古中山道】  (ここで道草)

 現在の中山道は船渡しがないので、富士浅間神社参道の前を右カーブして太田橋を渡るのであるが、往時の渡し場跡と廃宿となった旧土田(どた)宿を見たいために右折せずに直進した。


【弘法堂】 (右側) 13:00

 富士浅間神社前の信号から二本目で弘法大師の幟が立っている道を右へ入ると、すぐ弘法堂が現れる。旧中山道は、この弘法堂の脇を通って木曽川に下りていった。

 弘法堂の境内には、可児の名地水と云われる「錦江水」が湧いていて飲めるようになっていたが、上には民家が沢山あるため手を出さなかった。


【今渡(いまわたり)の渡し場跡】 (遊歩道木曽川沿い)

 弘法堂の脇を木曽川に下りると、そこは良く整備された600mの川沿い遊歩道になっており、竹林と木のチップを敷き詰めた足にやさしい道が続く。途中 ベンチも沢山用意されている。

 遊歩道に下りるとすぐ川側に、江戸時代後期から昭和二年まで渡し場であった、今渡の渡し場跡の説明板が立ってい

 下記【太田宿】の現在の写真参照(説明板が立っていた所より対岸の化石林公園を写したもの)。

【今渡の渡し場跡】 市指定史跡(昭和47年3月29日指定)

今渡の渡し場

 中山道の三代難所の一つ「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい」と詠まれた、現可児市今渡地区に残る木曽川の渡し場跡です。(この対岸の呼称が太田の渡し)。木曽川が出水する度に「船止め」となったので、今渡地区には、旅人のための宿屋や茶屋などが建ち並び、湊町として繁栄したと伝わります。

 明治三四年三月には両岸を渡す鉄索を張り、それに船を滑車でつなぎ、川の流れを利用して対岸へ船を進める「岡田式渡船」となりました。その頃には、渡し賃も無料となっていたようです。乗客がほどよく乗り合わせると出発し、一日に何回も往復しました。夜でも対岸の船頭小屋へ大声で呼び掛けると、船を出してくれたといいます。

 昭和二年二月、このすぐ上流に見る太田橋が完成し、渡し場は廃止されました。

渡し場の移り変わり

 鎌倉時代に起こった承久の乱の記録によれば、当時の官道である東山道は、この下流にある市内土田地区から木曽川を渡り、「大井戸の渡し」と呼ばれていました。

 江戸時代に入り、この官道は中山道として再整備されました。当時の絵図などから見ると、江戸時代の中頃までは同じ土田地区の渡り付近(土田の渡し)から渡っていたようですが、後期頃からはここ今渡地区へ移されています。

 土田の渡しは、中山道の正式な渡し場でなくなりましたがその後も続き、昭和五年頃に岡田式渡船を採用し、昭和三五年頃に廃止されました。

市内渡し場の渡船料金(明治14年)

 

今渡の渡し

川合の渡し

土田の渡し

1銭2厘

1銭

1銭

牛馬

2銭4厘

2銭

2銭

1銭2厘

1銭

1銭5厘

荷物

2銭4厘

1銭5厘

 

                  『可児町史』(通史編)1980より     

     平成十七年九月建替 可児市教育委員会


【化石林】 (木曽川)  13:15

 遊歩道を渡し場跡より6分程進むと、川の中に何本かの石杭が頭だけ覗かせて並んでいる所に来る。但し、言われて初めて化石と分かるもので、普通は川石としか見えない。

 左の写真は木曽川の下流に向かって いる遊歩道で、化石林の案内板が立っている場所。

 川の中に石と見えるのが化石林の頭部。

 ここにある化石林は、今から約千八百万年前の森林が立ったままの状態で埋没し、化石化して出来たものです。今まで大半が水没していて確認されていなかったが、平成六年(1994)九月の異常な近年にない渇水により、河床に化石化された根元部分が多数(約四百本余)林状に立っているのが見られ、化石林として確認されたものです。

 平素はそのときの水量により違いますが、水面上に点在して山状になって見られるのは一本一本の珪化木(木の化石)です。

 なお、この樹木の種類はアオギリ科の仲間と言われています。大きさは大きいもので直径一メートルのものもあります。この地域の昔を想像してみて下さい。


【土田川並番所跡と杭跡】 (木曽川)

 遊歩道を更に2分進むと、ここも言われて初めて分かる木杭穴跡が川の中にある場所に来る。

 江戸時代(1603〜1867)、尾張藩は木曽川を支配・管理するため、寛文五年(1665)錦織奉行所を新設し、その配下として川並番所を設置しました。

 この川並番所は、木曽川一帯の舟運と材木に関する監視を行う役所で、通行する筏や舟を管理し、また洪水などで流失する御用材や商い材を拾い集めたり、盗木の監視、船荷の改めをしていました。

 土田川並番所は、現在の土田地内カヤバ工業の北部グランド付近に設置されていたようです。

 当時は川岸近くに木の杭を何本も立てて、洪水などで流れてきた御用材や流木を拾い集めていたようです。その杭は川底に穴を掘り固定されていました。現在渇水時にその穴跡を岸より見ることが出来ます。


【夜泣き岩】 (木曽川) 13:25

 遊歩道の途中にある小川を飛び石で越え6分進むと、大きな岩が岸近くの川の中にある場所に来る。

 文治元年(1185)の冬、平家の平知盛が壇ノ浦で海に身を投げてから、その妻が悶々として、昔今渡と土田の境に姫が淵と云う底の知れぬ深い淵があり、この淵に身を投じて死んだと伝えられている。しかし現在は川の瀬が変わり、岩は残っているが淵らしいものは見当たらない。

 この現在見られる岩を夜泣き岩と云い、伝説によると巨岩で淵の付近にあって、月の澄んだ夜などこの岩の上に幻のような女が白装束に髪を乱して立ってさめざめと泣きその泣き声が川面を流れたと伝えられている。

 この幻の女の姿は、平知盛の妻の亡霊であると後の世に伝えられた。以後この岩を夜泣き岩と云っている。

     可児町郷土史より


 夜泣き岩の少し先で遊歩道は終わり、その先は「中濃大橋」まで土手道となっている。

 遊歩道が終わった少し先を左折して「渡りクラブ」に出ると、その建物の前に「土田一里塚跡」が建てられているそうだ。その先に廃宿となった土田宿があり、そこから現在対岸の祐泉寺あたりへの渡し場が江戸時代中期まであった。

 一里塚があるそうだと言ったのは、当初遊歩道が先まであることを知らずに、木曽川から少し離れた古中山道を下って見に行こうと予定していた。だが、遊歩道から左に入る時少し前の農道を曲がってしまったらしく、そのため「渡りクラブ」の手前に出て場所が分からくなり、結局一里塚は見ることが出来なかった。

 更に、一里塚の先には藤原定家の歌にも詠まれた「桜井の泉」もあるとのことだが、暑さの中捜しまわる気力もなくなり残念な思いをしながら元の浅間神社前に戻った。遊歩道の案内図をもっと良く見ればよかったと思ったが、後悔先に立たず。


【今渡の渡し碑】 (右側) 14:00

 浅間神社前を曲がるとすぐ太田橋にさしかかる。その渡る手前の右角小公園に今渡の渡し場跡の新しい碑が立っている。

 碑には「木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい とうたわれた 中山道三大難所の一つ」と書かれ、

 渡し場の地図には、下記のように書かれていた(写真の石板)

 中山道の三大難所の一つにうたわれた「太田の渡し」南側渡し場(今渡の渡し場)は、川瀬の変化と共に上流へと変更され、最終的には現太田橋下流付近となりました。明治三十四年に鉄索(ワイヤー)を用いた岡田式渡船となり、昭和二年二月には太田橋の完成とともにその役目を終えました。太田橋のすぐ下流の今渡神明弘法堂下には、渡し場に通じた石畳が今も残されています。

 この小公園から対岸の見ると「日本ライン下り」の船乗り場がある。ここから犬山城まで急流もある木曽川の舟下りが楽しめる(下の写真は太田橋の上から撮影したもの)

 太田橋は、昨年(平成20年)歩道橋(上の写真で右側)が完成し安心して歩けるようになったが、以前は東海道の天竜川橋のように歩行者は恐る恐る渡っていた。

 但し、この歩道橋は国道21号線の「御門町交差点」まで下へ降りる道がなく、橋の途中で左下に見える「化石林公園」にも行くことが出来ないし、右下のライン下りの船乗り場にも降りられない。どちらも大回りしなければならないのが甚だ不便ある。


【化石林公園】 

 「御門町交差点」から左折して川沿いのジョギングコース (土手道)を歩く。

 化石林公園へは交差点を左折してすぐ下りて行く道があるが、帰りもここへ戻ってこなければならず、川岸(太田の渡し跡)までかなりの距離があるので、ジョギングコースから下の公園内を見渡すだけにした。

 旧中山道は、渡し場の先「坂祝(さかほぎ)町」まで太田宿内を除き所々消滅している。

 写真に写っている青い橋が太田橋。公園内の説明板あたりが太田の渡し場付近。


【古井(こび)一里塚跡】 (右側) 14:20〜14:45

 化石林公園を過ぎ、土手道をしばらく進むと右下に「文化会館」が現れ、裏庭へ下りる階段がある。

 ウォーカーのホームページを見ていると古井一里塚が見つけられないと皆が書いているが、文化会館の裏(土手下)に一里塚跡を発見した。土手から階段を下りたすぐの所に鉄製の河童の彫刻があるが、その隣に一里塚跡と書かれただけの白い標柱だけが立っているではないか。それほど新しいものとは思えず、何故皆が発見できなかったのか不思議であった。

 文化会館の表側に回り、トイレを借りてしばらく休憩した。自販機の飲料も安く買える。


【岡本一平終焉の地】 (右側) 

 文化会館から土手道に戻ると、そこには岡本一平終焉の地碑と、太田宿の絵地図があった。

 美濃加茂市古井町下古井同神明堂、岸 清二氏の離れ、現在地より北方約百米、二十一号線沿い「東八楼」(糸遊庵ともよぶ。現在、中山道会館に移築、復元)において、徹夜で原稿を書きつづけ、やっとペンを置いて風呂に入りその場に倒れた。昭和二十三年十月十一日午後六時四十分、享年六十二歳。

 机の上には、「一休禅師の伝記」の原稿があった。

 岡本一平(1886−1948)は漫画家、作詞家で、妻かの子との間に生まれた長男は「芸術は爆発だ」の岡本太郎。

 碑の隣に立っていた太田宿の絵地図によると、旧中山道はここから3本目の道を右に入るとあったが、最初の道を右折し、国道に接する所で左折して宿場内に入るのが良いだろう。

 宿内の説明板には、順に『い・ろ・は』の記号がふられている。


【太田宿】 日本橋から98里30町(388.1Km)、京へ37里4町 (145.7Km)
 天保14年(1843)で人口505名、総家数118軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋20軒。

 太田宿は、江戸日本橋からおよそ九十九里(約385Km)の位置にあり、伏見宿との間には木曽川が流れており、交通の要衝として栄えました。町並みは東から上町、中町、下町と大きく分かれ、十九世紀中頃の規模は東西に六町十四間(約673m)であり、宿内戸数が118戸の規模でした。この宿場に本陣と脇本陣が中町にそれぞれ一軒あり、旅籠屋などがありました。

 本陣や脇本陣以外の旅宿を旅籠屋といい、主に一般庶民や私用の武士たちが宿泊しました。記録によると太田宿には旅籠屋が20軒あったとされ、旧小松屋(吉田家)もその内の一軒でした。

 この宿場町には、今も残る江戸時代の面影を残すとともに、次の時代に向けてその姿を連綿と受け継いでいます。

     小松屋の展示資料より

 上記以外の補足として

 太田宿は中山道の宿駅としての機能だけでなく、後に太田代官所が設置されるなど木曽川筋の軍事・政治・経済の重要な拠点として位置づけられたのです。

 人馬継立問屋場は上町に一ヶ所、中町に二ヶ所ありました。宿高は凡そ一九三九石で、多くの人々は農業や商いをかねて生活をしていました。農業は五穀を主として季節毎に野菜を作っていましたが、畑より田の面積が多くありました。農業用水はなく、耕作は苦労していたようです。

     中山道会館の展示資料より

木曽海道六拾九次之内 太田 (広重)

木曽川を越える「太田の渡し」を描いている。

手前:今渡の渡し場跡(弘法堂下)

対岸:太田の渡し場跡(化石林公園)


【法華経塚と飛騨街道追分 (左側) 

 左側の「明神水神公園」(トイレと休憩所あり)を越えた所に、『南無法蓮華経』と刻まれた大きな石碑と説明板が立っている。

 法華経塚は、埋葬地(墓地)の入口に建てられた石碑だったと言われています。

 ここから少し東に行くと、飛騨高山へ向う飛騨街道の追分があります。

 現在、ここから東に進んだ神明堂の交差点付近には、明治時代に伊藤萬蔵により建立された中山道と飛騨街道の道標が残っています。

     美濃加茂市商工観光課


【新町木戸門跡】 (左側) 

 空き地に標柱のみ立っている。


【太田稲荷】 (左側) 

 播隆上人と志賀重昴の墓碑は、祐泉寺にあるものと思い込んでいたので、こちら太田稲荷の奥を注意していなかったので見逃してしまった。

 しかし、写真を良く見ると赤い鳥居が 沢山並んでいる後ろに碑が写っているではないか。


【祐泉寺】 (左側) 15:08

 やがて街道は小さな枡形になって、そこに祐泉寺の入口がある。山門は木曽川に向いている。

 境内で芭蕉句碑(春なれや 名もなき山の 朝かすみ)と坪内逍遥、白秋の歌碑がある(下の写真で、右側の灯籠の右に並んでいる2基が逍遥と白秋の碑)

 龍興山祐泉寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、寺伝によれば文明6年(1474)、土岐源氏・土岐頼政の次男、東陽英朝禅師(大道真源)が湧泉庵という庵をむすんだことにはじまるといわれています。

 永正年間(1504〜1521)には八百津の大仙寺の末寺となり、祐川庵といいました。寛文年間(1661〜1673)には、関の梅龍寺末寺の祐泉寺となり。明治になって妙心寺本山の直末となりました。

 また、火難水難から守るとの言い伝えが残る龍場観音があり、美濃四国27番目の札所となっています。

 境内には坪内逍遥や北原白秋といった文人が詠んだ歌碑、槍ヶ岳を開山した播隆上人、「日本ライン」の命名者、志賀重昴の墓碑などが残されています。


太田宿旧跡 小松屋  吉田家住宅】 (左側) 15:15〜15:25

 江戸時代に旅籠を営んでいた建物をそのまま活用した太田宿のお休み処。畳の上でくつろげることが出来る。

 また、美濃加茂出身の文学者・坪内逍遥などの資料展示もあり、太田宿の各種資料も多数手に入る。

 入場無料、時間/8:30〜17:00、休日/火曜日(祝日の場合は翌日)。

 


【十六銀行旧太田支店】 (右側) 

 小松屋の向かいにあり、現在も人が住んでいる。

 この建物は、十六銀行太田支店として明治40年12月に建設されました。

 太田町から市町村合併で昭和29年4月に美濃加茂市が誕生し、その後、昭和40年10月まで58年間の長きに渡り地元の繁栄に貢献してきた建物です。

 建物の内部には金庫もそのまま残されています。

 外観においても2階窓部分につけられた防犯用の格子や、鬼瓦についている銀行を現す銀の文字などが残されており、当時を偲ぶことが出来ます。


【永楽屋】 (右側) 

 小松屋のすぐ先にある2階に格子がはめられた古い呉服店。看板には永楽通寶が描かれている。

 日曜日は休みなのか閉まっていた。

 左の写真で、二軒目(白壁の隣)が永楽屋、三軒目が下記の辰巳屋。

 各々の家でなく、宿の雰囲気が出ている写真を載せてみた。


【辰巳屋】 (右側) 

 永楽屋の隣にあり、同じく2階に格子がはめられた 築100年近い家。肥料店らしくこちらも閉まっていた。

 辰巳屋の前にそばだんごの店「そば道場」があるが、15:00で閉店となっていた。閉まっていると無性に食べたくなるものだ。


【御代桜(みよざくら)酒造】 (右側) 

 明治二十六年(1893)創業のかなり大きな酒造所で、店の横から見ると奥の方まで酒蔵が並んでいる光景が壮観である。


【脇本陣林家】 (左側) 15:30〜15:40

 桜酒造の斜め向かいにあり、下の写真で分かる通り卯建(うだつ)の立派な大きな家。中央にこれも立派な表門がある。左側の主屋は現在も林家の居住となっており見学は出来ないが、右側の隠居所は無料で見学できる。

 裏庭には樹齢130年と云われる銀杏の巨木(写真で母屋の後ろにそびえている木)がある。 

 入場無料、時間/9:00〜16:00、休日/月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始。

【旧太田脇本陣林家住宅(国指定重要文化財)】 

 旧太田脇本陣林家住宅は明和六年(1769)に建築された主屋と、天保二年(1831)に建築された表門と袖塀、それに裏の二棟の土蔵から成っています。
 江戸時代に太田宿は、中山道の宿場町として栄え、大名や地位の高い人が泊まる本陣と脇本陣が各一軒あり、林家は脇本陣としての役目のほか太田村の庄屋や、尾張藩勘定所の御用達をつとめた旧家であります。
 この建物を見ますと、主屋の両端の妻に卯建が建ち、ひときわ目を引きますが、これは防火壁の役目を果たすと同時に脇本陣の権威を象徴するものであります。
 又、この建物は中山道において脇本陣としての遺構を当時のまま残している唯一の建物であり、昭和四十六年に国の重要文化財に指定されています。
 今でも脇本陣の前に立つと「したにー、したにー」と声をはりあげながら通っていった当時の大名行列や旅人の行き交う姿が目に浮かんできます。

     昭和六十一年一月 美濃加茂市


【旧太田宿本陣門】  美濃加茂市指定有形文化財 (右側) 

 脇本陣の斜め前で「太田宿中山道会館」の向かいに門のみ建っているのが往時の福田家の本陣門

 旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。

 「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861)仁孝天皇の皇女「和宮」が十四代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。

 この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理しました。


【太田宿中山道会館】 (左側) 15:45〜16:00

 本陣門の前にあるのが、太田宿の歴史や文化を学べる展示室、軽食堂、物産展示・販売コーナー等が入っている中山道会館

 敷地内には岡本一平の「糸遊庵」が移築・復元されている。

 入館料無料、開館時間/9:00〜17:00、休館日/月曜日(但し祝日の場合は開館し、翌日休館)。

【糸遊庵(しゆうあん) 〜みのかも文芸ゆかりの家〜

 糸遊庵は、近代漫画の祖として知られる岡本一平とその家族が、美濃加茂市に昭和二十一年(1946)に転居してから亡くなるまで過した居宅です。

 岡本一平の漫画家としての活躍は、明治時代後期から始まります。新聞紙上で漫画に短い文章を添えた『漫画漫文』が掲載されると、たちまち大好評となり、彼は「総理大臣の名前は知らなくてもその名を知らないものはいない」とまでいわれるようになりました。

 昭和二十年(1945)、戦火を逃れて現在の加茂郡白川町三川に疎開。この地で、人間の感情や生活をこだわりなく五・七・五の詩形で表現する『漫俳』を提唱し、昭和二十一年(1946)には現在の美濃加茂市吉井町下吉井に転居。終戦直後の暗い世の中に活気をと、漫俳や地方公演などの活動をはじめて矢先、彼は脳溢血のため帰らぬ人となりました。しかし今もなお、漫俳や彼の絵画作品などは、この地域の人々に大切にされ、伝えられています。

     岡本一平顕彰碑建設委員会


【太田川並番所跡】 (左奥) 

 「中山道会館」の先を左折して170m、旅館の後ろの土手下角に川並番所跡の案内板が立っている。

 江戸時代、木曽川を支配・管理するために尾張藩は川並番所を設置しました。寛文5年(1665)に手代1名、足軽1名が川並番所に常駐していたとされています。川並番所は錦織奉行所の支配下にあり、船積荷物改や筏川下げの管理や流木の取締りをおこなっていました。その後、幾度かの機構改革が行われました。

 太田宿本陣総年寄の福田三右衛門は、尾張藩から留木裁許役を命ぜられました。

 また、この付近には明治初期に、中町地辺から土田へ渡る「新渡し」がありました。

 昭和2年太田橋の開通により、太田の渡し(太田→今渡)で使用されていた、岡田式渡船航法が払い下げられ、昭和34年頃まで利用されていました。

※岡田式渡船航法・・・岡田只治が考案した渡船航法で、両岸にやぐらを組み、鋼鉄線を渡し、滑車により川の流れを利用して対岸へ船を導く航法。

     美濃加茂市商工観光課


【高札場跡と追分道標】 (右側)  16:15

 「中山道会館」横に戻り、少し行くと西の枡形になる。その右角に「高札場跡」の古い説明板と「高札場跡と郡上街道追分」の新しい説明板が立っている。

 また、説明板の向こう側には追分道標が建っており、『右 関上有知 左 西京伊勢 道』と刻まれていた。

【高札場跡】

 江戸時代、幕府・大名が法令や禁令を公示するため、墨書した高札を掲示した所を高札場といい、宿場等人の目につきやすい所に設置されました。

 太田宿か、次の宿までの人馬の駄賃やキリシタン禁令等の高札が掲げられていました。

【高札場跡と郡上街道追分】

 高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てました。弘化2年(1845)の「加茂郡大田村家並み絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。『濃州徇行記』には「毒薬、親子、火付、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札と船高札があったとされます。また、ここは郡上へ向う「郡上街道」との追分でもあります。

 左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。

     美濃加茂市商工観光課


【弥勒寺跡と下町の枡形】 (左側) 

 道標で左折し、突き当りで右折するが、その右折手前右側に説明板が掲げられている。

 弘化2年(1845)の「加茂郡大田村家並絵図」の中には弥勒寺が描かれています。

天保年間には祐泉寺9世海音和尚が隠居していたようです。嘉永3年(1850)に脇本陣林市左衛門が娘の宝林尼首座のために尼寺として再興しましたが、明治時代に廃寺となりました。新田次郎の『槍ヶ岳開山』では、播隆上人が太田宿に立ち寄った際に滞在していた場所として登場します。

 播隆上人はこの南側の敷地で葬られましたが、廃寺に伴い、現在は祐泉寺に墓碑が移っています。

     美濃加茂市商工観光課


【尾張藩太田代官所跡】 (右側) 

 枡形を右折すると国道41号線の高架があり、それを潜ったらすぐ左折して土手道に出るのが旧中山道。

 そこを左折せずに真直ぐ50m程進むと、右側太田小学校の生垣に太田代官所跡の説明板が立っている。

 尾張藩は天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付代官を配置しました。太田代官所は天明2年(1782)に設置され、当初の代官は井田忠右衛門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名され、田宮如雲が総管に任命されました。

 このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父平右衛門です。

     美濃加茂市商工観光課


【坪内逍遥ゆかりの妙見堂】 (左側) 

 太田代官所のすぐ先の左側に表記の看板と「日蓮宗 太田教曾」の石柱が立っている。

 あまり中を覗かなかったため、境内に播隆上人の銘号碑があることが帰宅してから分かった。

  近代文学界において活躍した岐阜県人は多いが、その中でも特筆大書すべきは、市域において誕生した坪内逍遥であろう。

 坪内逍遥は安政六年(1859)五月二十二日、大田村光徳の大田代官所役宅で呱々の声をあげた。幼名勇蔵、のち雄蔵と改めた。父の平之進(平右衛門ともいう)は代官所の手代で、十一石三人扶持の、いわば下級武士であった。逍遥はその三男で十人兄弟の末子として誕生したのである。逍遥の幼年時代は文字通り幕末動乱期のまっただ中にあって、剣術の稽古や兵法の訓練にあけくれ、落着いて学問のできる雰囲気でなかったが、彼は母から絵草紙や百人一首を、兄から漢籍を習って、文学的素養を見につけた。

 明治二年(1869)父の隠退にともなった太田を離れ、名古屋郊外の笹島に移り住んだ。従って、逍遥が太田に居住したのは、誕生後十年間にすぎない。しかし、この十年間の太田生活は、逍遥に忘れ難い思い出を残したのではなかろうか。

 名古屋へ移り住んだ後、はじめて寺子屋へ入門して学問をしたが、それよりも、つれづれに読んだ草双紙や読本(よみほん)、母につれられての芝居見物が、大きな影響を及ぼしたようである。

 明治九年、十八歳にして上京、明治十六年、東京大学を卒業するや『小説真髄』『当世書生気質』を著して、明治新文壇の先達となった。さらに逍遥は、早稲田大学教授として演劇と近代文学の研究と指導を、早稲田中学校長として青少年の教育に力をつくした。また、島村抱月・松井須磨子らの、文芸協会等の演劇活動の指導に情熱をそそぐとともに、明治四十二年から昭和三年に至る二十年にわたり『シェークスピア全集』の完訳に精魂を傾けた。

 この間、大正元年七月と八年五月には生まれ故郷の太田を訪問、特に八年は夫婦そろって来訪、生家の近く、虚空蔵堂の境内に立つ椋(むく)の古木の根本で記念撮影をした。

 この年、逍遥は六十一歳『逍遥劇談』『ヘンリー四世第一部』『同第二部』を刊行、まさに円熟の境にあった。

 郷土訪問を終えて逍遥はこの時の感激を二首の歌に託した。

   やま椿さけるを見ればいにしへを 幼きときを神の代をおもふ

   この木の実ふりにし事ししのばれて 山椿ばないとなつかしも

 (幼少の頃、深田の天神神社境内にあった椿の実で「木の実振りっこ」という遊びを思い出して歌われたのではないか?)

 この二首の歌は、祐泉寺に歌碑として建てられている。後、逍遥は祐泉寺住職龍山無庵に書簡を送り、第一首の三句目「いにしへを」を「ふるさとを」と訂正するよう求めている。

 また、これに先だって逍遥は、蜂屋小学校、校長有賀好風の請を入れて同校の校歌を作詞した。

   千歳(ちとせ)の昔にその名高く 雲居の供御(くご)ともなりぬる柿 蜂屋 蜂屋 蜂屋 蜂屋

   名に負ふ柿こそ村の誉れ 今なほ天下にたぐひあらず 蜂屋 蜂屋 蜂屋 蜂屋    (下略)

 この校歌碑も、新装成った蜂屋小学校の校舎前面に、美しく刻まれている。

 昭和十年(1935)二月十八日、逍遥は熱海の別荘双柿舎で、七十七歳をもって永眠した。墓は熱海の海蔵寺にある。

 戦後、昭和三十一年、坪内逍遥顕彰会が発足、太田小学校北側に用地を購入し、三十三年三月地鎮祭を挙行、逍遥庭園と顕彰碑を作り、三十七年一月十五日、逍遥の女婿・飯塚友一郎らの参列を得て、顕彰碑の除幕式を挙行した。

     『美濃加茂市史より抜粋』

 太田小学校の脇(高架下を潜ったら右折)の道を通って学校正門側に回ると逍遥公園内に「坪内逍遥顕彰碑」と説明板があるとのこと。私達はこのあと美濃太田駅(ホテル)に向う途中にあるにもかかわらず寄らなかった。


【虚空蔵堂】 (右側) 16:25

 高架下に戻り、土手道方向に曲がるとすぐ右側に虚空蔵堂がある。 

【虚空蔵堂と承久の乱 古戦場跡】

 中山道を江戸から京へ向うとき、太田宿の西の出口に虚空蔵堂はあります。

 天明2年(1782)の「加茂郡大田村家並絵図」には既に描かれており、当時から信仰の対象となっていました。ここには、京への道標があり、旅人たちの道案内となっていました。ここから段丘を下り、木曽川沿いに京を目指して西へ進みました。

 まああた、承久3年(1221)に起こった「承久の乱」の木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府が、木曽川を挟んで戦いました。このあたりが戦場の北端であったといわれています。(可児側が幕府軍・太田側が朝廷郡)

     美濃加茂市商工観光課



 26回目の旅終了(16:25) 虚空蔵堂。

  虚空蔵堂より美濃太田駅に向かう途中で夕食後、駅前の「ホテルルートイン美濃加茂」泊。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、9.7Km(顔戸交差点〜虚空蔵堂)

          日本橋から九十八里三十三町(388.5Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.5Km(顔戸駅〜美濃太田駅前ホテル) 累計467.5Km

          8時間00分 30,500歩(顔戸駅〜虚空蔵堂)。 9時間00分 33,750歩(顔戸駅〜ホテル)

 

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