鵜沼宿 (美濃太田駅前ホテル → 犬山遊園駅) <旧中山道27回目>

 

2010年5月31日(日) 晴 

 ホテルから昨日終えた虚空蔵堂前に戻り、ここを8:05スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「伏見・太田宿」 ← 「目次」 → 「加納宿」

 


【坪内逍遥ゆかりのムクノキ】 (右側)

 虚空蔵堂前を右折して土手道へ上がって行く途中、虚空蔵堂の後ろに大きなムクノ木が聳えている。

 坪内逍遥(1859〜1935年)は安政六年、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末子として生まれました。

 その後、明治二年に父の引退とともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。

 十八歳にして上京し、明治十六年東京大学を卒業すると、文化論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となりました。また、演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究にあたり近代日本文学の基を築きました。

 逍遥の明治42年から二十年間にわたる「シェークスピヤ全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。

 大正八年には、夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、このムクノクの根元で記念撮影をしました。逍遥六十一歳でした。

     平成八年二月 美濃加茂市教育委員会

 土手を上りきったらしばらく土手道を進む。「日本ライン魚協」の手前に新しい公衆トイレがある。

 往時はここから川の傍まで下りて川沿いに歩き、この先の加茂川を渡ったら、斜め右へ国道21号線まで出る様なルートであったが、現在は殆ど消滅している。

 旧中山道がこの先消滅しているので、加茂川の前後で国道に出ることになるが、多くのウォーカーは「日本ライン魚協」の建物を直前で右折して建物後ろの細い道に進み、トヨペット裏を戻るように国道に出ている。

 私達は「漁協」の一本手前の道を左折して真直ぐ国道に出た。国道に出た所から右に入る道は「深田神社」の参道だった。


【取組一里塚】 (左側) 8:50

 国道に出たら左折し、国道をしばらく歩くことになる。

 25分程すると「パジェロ製造株式会社」前を通過する。ここはパジェロ誕生の地である。

 工場の正門から390m(6分位)で見逃してしまいそうな小さな橋を渡る。この橋を渡った左たもとに史跡 一里塚趾の白い標柱が立っている。フェンスの裏で見にくいが、ENEOSのガソリンスタンドの手前になるので、ENEOSを目標にすると良い。実際は「ガクブチ」店の前である。日本橋から99番目の一里塚。

 ここで出合った男性と、この先「うとう峠一里塚」まで、3人でお喋りしながらの道行きとなる。茨城から出て来て中山道を区切ることなく通しで歩いているとのことで、足も速く大変元気な定年退職したばかりとお見受けする人であった。


【ロマンチック街道】 (左側) 8:55〜9:15

 坂祝(さかほぎ)町役場の前を通過して500m強で「ロマンチック街道」の看板が見えてくる。ここから「勝山交差点」までの約1.3Kmは、遊歩道として整備された気持ちが良い土手道になる。

 平成元年(1989)完成。

 「ロマンチック街道」入口から土手に登った所に展望台があり木曽川の流れや奇岩が臨める。ライン下りの舟が来れば絵になると思っていたが、まだ早い時間の為かこの先も出合うことはなかった。

 また、ここには行幸巌(みゆきいわ)と刻まれた大きな石碑が建っていて、下記の碑文が添えられていた。

 飛騨木曽川国定公園「日本ライン」  昭和三十九年三月三日指定

 名勝 木曽川                昭和六年五月十一日指定

   名所 行幸巌

 “日本ラインの景を知らずして河川の美を語るべからず”といわれた如く、正にラインの名にそむかず奇勝千変万態、水、狂うかと見ればまた油の如く渦をなして流れ、軽舟飛沫をあびて下る。

 対岸に迫るは鳩吹山、ここ坂祝河畔は、「ライン下り」第一の佳景。

 特に「行幸巌」からの眺望は、古来幾多の名士嘆賞の地として名高い。

 昭和   二年十一月  二十日   昭和天皇陛下

 昭和   四年  九月二十四日   閑院宮殿下

 昭和   五年  五月二十二日   グロスター公ヘンリー殿下

 昭和   五年  八月二十五日   李王殿下同妃殿下

 昭和   五年  十月  十五日   梨本宮殿下

 昭和   六年  八月   四日   澄宮崇仁親王殿下

 昭和   八年  五月  十一日   賀陽宮殿下

 昭和   八年  五月  十二日   秩父宮殿下

 昭和   九年  六月  十六日   陸軍大臣林洗十郎閣下

 昭和二十八年  八月    五日   清宮貴子内親王

 昭和三十二年  三月    七日   高松宮殿下

 昭和三十二年  七月  十九日   今上天皇陛下

     平成四年三月吉日 建之

 しばらく「ロマンチック街道」を行くと前方の高い山(城山)の頂上に城の様な建物が見えてきて、土手下国道に「猿啄城展望台⇒0.1km」と書かれた道標があった。

【猿啄(さるばみ)城】

 築城年代は不明。応永十四年(1407)の頃は西村豊前守善政が城主。

 嘉吉元年(1441)、善政が祖母の法要に出かけた際、田原左衛門尉頼吉により城が略奪される。

 その頼吉も天文十六年(1547)、外出した際に家臣の多治見修理に襲われ討ち死にした。

 永禄八年(1565)、織田信長が東美濃攻略を開始。鵜沼城攻略を木下藤吉郎に任せ、猿啄城攻撃を総大将・丹羽長秀、先方・川尻鎮吉として攻撃し落城さす。戦勝を記念してこの地を「勝山」と称し、川尻鎮吉に猿啄城を与えた。

 川尻鎮吉は城を「勝山城」と改称し、天正二年(1575)、岩村城に移った際にこの城は廃城となった

【猿啄城展望台】

 1997年12月に、坂祝町誕生100周年を記念して、標高276mの城山山項に建てられた展望台で、ここから木曽川・坂祝の町・恵那山・中央アルプス・御嶽山・白山などの山々や、遠く伊勢湾も望むことができるとのこと。


【岩屋観音堂】  坂祝町指定有形文化財 (右側) 9:25

 国道に戻り、次の「勝山西」信号越えたすぐ先、右側に崖の中腹へ上って行く山道が現れる。その登り口には「中山道」の案内板が立っており、この山道が岩屋観音堂への参道兼旧中山道となっている。

 現在でも整備されたとはいえ崖伝いの細い道なので、往時はかなり厳しい道だったと想像できる。

 崖道の途中から木曽川を見下ろすと、ライン下りで最大の急流と思われる箇所に出会う。ここで舟が通ったら最高の絵になるだろうとしばらく眺めていたが、やはり一艘も来なかった。(左の写真)

 観音堂の手前に『巌屋坂之碑』が建っていた。

 観音堂は崖の中腹に岩を掘った中に納まっており、堂の裏側に回ると沢山の石仏が置かれていた。


うとう坂】 入口9: 45

 観音堂前の階段を下りて、再び国道を800m程行くと、左手に現在は閉店となっている「カフェテラス お食事ゆらぎ」の建物が見えてくる。ここからうとう峠の坂道に入るのだが、その入口がチョット分かりづらい。

 「ゆらぎ」の後ろが駐車場になっていて、その西端に下り階段がある。それを下りて水路と一緒になっている国道下のトンネルを潜って反対側に出ると、うとう峠の登り口になっている。

 以前通った『中山道21回目』の最後で紹介した十二兼駅手前の水路トンネンルと同じである。

 将来「ゆらぎ」の建物が取り壊されてしまっても、歩道脇の電柱に「←中山道」の案内があるので、気をつけていれば見つかるだろう。

【中山道】

 中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原境までは木曽川に沿ってありました。

 しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿につながっていました。

     うとう坂登り口の案内板より

 歩きやすい山道を6分ほど登って行くと、道が二又になっている所に出る。右の上り道を行くか、左のやや下り道を行くか悩むところだが、どちらも頂上近くで合流するので問題ない。そして、その分れ道に中山道の道標が立っている。

 矢印の向き(←→)は、今登ってきた道と左方向の道に平行になっているので、左の道が正式な中山道だろうと3人とも解釈した。また、上部に鳥の形の板が付いており、その裏側を見ると、真中に「中仙道」、登ってきた道方向が「坂祝」、左方向の道が「鵜沼」と記されていたので、更に間違いないと確信した。

 峠道は誰よりも早く登る方だと言う茨城の人が、私の腰をかばうペースに合わせて登ってくれたのには申し訳なく思った。

 やがて途中の休憩所に出るが、そこから整備された石畳道(写真参照)なる。

 この辺りは「日本ラインうぬまの森」と呼ぶ散策路になっているとのこと。

 うとう峠の標高は105m。


【うとう峠一里塚】 (右側) 10:05〜10:25

 登り口から20分、石畳道から8分程で峠を登りきる。峠からやや下がった所にうとう峠一里塚があり、その下は広い「ふれあい広場」となっている。一里塚には新旧2枚の説明板が立っていた。

 (写真で、左側の丸みが一里塚。手前に下るとすぐ「ふれあい広場」)

【旧中山道うとう峠一里塚】 市指定史跡 

 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利をおさめた徳川家康は慶長六年に東海道各宿に対し伝馬制を敷き、宿駅制の準備に着手しました。美濃を通る中山道では、慶長九年(1604)に大湫宿、同十一〜十二年に細久手宿が設けられ、さらに寛永十一年(1634)には加納宿、元禄七年(1694)には伏見宿が新設され美濃中山道十六宿体制が完成しました。また、この間の寛永年間(1624〜1644)には大名の参勤交代制が敷かれ、各宿に問屋・本陣・助郷制が整備されています。

 各務原地域を通る中山道は、慶安四年(1651)にそれまで木曾川を越えて犬山膳師野から可児へ抜ける道筋から、鵜沼の山添いを通り、ここ『うとう峠』を越えて太田宿へ至る道に付け替えられました。うとう峠の「うとう」とは、疎(うとい・うとむ・うとう)で、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの意味があると考えられます。このうとう峠と鵜沼宿との間は、十六町(約1.8キロメートル)に及ぶ山坂で、長坂・天王坂・塞の神坂などの険しい坂が続き、『うとう坂』と総称されていました。

 うとう峠の『一里塚』は、峠を西側にやや下ったところにあり、道の南北両側にそれぞれ『北塚』・『南塚』が残っています。北塚は直径約10メートル・高さが約2メートルで良く原形を保っているのに対し、南塚は太平洋戦争中に航空隊の兵舎建設によって、南側の半分が壊されてしまいました。

 かつて各務原地域には、ここ以外に各務原山の前・六軒東方・新加納村にも一里塚がありましたが、現在ではすべて消滅しています。一里塚は江戸時代の交通・宿駅制度を考えるとともに、当時の旅人の苦労が偲ばれる重要な史跡であり、うとう峠の一里塚は、そのわずかに残された貴重な歴史的財産といえます。

    平成六年二月吉日 各務原市教育委員会

【うとう峠一里塚と中仙道】

 江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)・「中仙道分間延絵図」(寛政12年7月〜文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とかうとう坂」と呼んでいました。「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。

 「うとう坂」にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕篭の乗り賃の支払いのめやすとなり、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松が植えられていました。ここでは片側だけ残り巾10m、高さ2.1mあります。塚の上には松が植えられていました。

 江戸時代に、各務原を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の歩く距離は9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の旅の距離数から、当時の交通事情が推定できます。

 この「ふれあい広場」には「センターハウスやまびこ」が建っていたが、本日は月曜日なので休館となっていた。会館のトイレが利用できなかったが、広場下の池の傍に綺麗ではないが小さな便所があったので助かった。茨城の人はここで別れて先に出発して行った。私達は広場のベンチでしばし休憩。


【赤坂の石塔】 (右側) 

 「ふれあい広場」から下ると団地があり、その先すぐ「合戸池」が見えてくる。この先も「中山道」の標識が立っているので、その案内に従って「合戸池」を回るように右折する。次いで突き当たりを左折して坂を下って行くのだが、何故かこの場所に「中山道」の標識は立っていなかった。

 坂の途中で草地の中に古い石塔が4基並んでいる所を通る。また、坂道は造成された住宅密集地を通るが右側は開けて遠くに各務山等が望める。


【赤坂の地蔵堂】 (左側) 10:40

 坂を下りきった所にY字路があって小さな三角地となっている。その真ん中に可愛い地蔵堂が建っている。

 地蔵堂前のY字路を右折して「赤坂神社」の前を通り、交差点に入って行く。


【鵜沼宿入口の道標】 (右側) 

 交差点の信号手前で左後ろからの道と交わった三角点を振り返ると、大きな石に『ここは中山道鵜沼宿 これよりうとう峠 左』と刻まれた道標が建っている。


【高札場】 (右側) 10:50

 交差点を渡る前の右角に真新しい高札が復元されている。

【由緒】

 高札場とは、法令や禁令を書いた高札を掲げた場所で、多くの人目につきやすい場所に立てられていました。鵜沼宿では、東の見附と天王社(現、赤坂神社)の間に南向きにありました。

 この高札場は「中山道宿村大概帳」の記録に基づいて、ほぼ当時のままに復元しました。

 また、復元の際に読みやすい楷書に書直しました。


【尾州領傍示石】 (左側) 

 交差点を渡る前と渡った所の左角に2本の傍示石が建っている。

【由緒】

 中山道は鵜沼宿(尾張藩領)から各務村(幕府領)を経て、再び鵜沼村に入りました。尾張藩は村境を明示するため「是より東尾州領」「是より西尾州領」の2本の傍示石を建てました。

 この傍示石は明治時代以降に街道から移され、その後、鵜沼中学校に建てられましたが、中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどしました。

 各務原市の大切な歴史遺産の一つになっています。


【鵜沼宿】 日本橋から100里30町(396.0Km)、京へ35里4町 (137.9Km)
 天保14年(1843)で人口246名、総家数68軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋25軒。

 鵜沼宿は江戸の日本橋から数えて五十二番目の宿場です。宿の東側の出入り口にあたる赤坂見附には、道標を兼ねた「地蔵堂」があります。

 宿内の全長は東西約840m。道路は幅員5mほどの舗装がされているものの、江戸時代にかかれた家並図に見られる地割はほぼ残っており、往時の面影を偲ぶことができます。

 また、ところどころ歩道に石張り舗装がしてあったり、大安寺川に架かる「大安寺大橋」には常夜灯や木製の欄干が整備してあって、当時の風情も楽しめます。木曽川の南には、国宝犬山城を望むことができます。

 本陣は明治二十四年濃尾大地震で倒壊してしまいましたが、本陣跡の桜井家の庭には、尾張徳川家から拝領したと伝えられる「自然石の手水鉢」が現存し、他の資料については、各務原市歴史民俗資料館に保存してあります。

     岐阜県十七宿散策ガイド及び中山道ぶらり歩記(街道で入手したパンフレット)より

 

木曽街道 鵜沼ノ驛 従犬山遠望 (英泉)

犬山城と木曽川越えに鵜沼宿を描いている。1艙見える舟は鵜沼の渡し舟。

 

ライン大橋から望む犬山城。

木曽川奥の橋は犬山橋。


【大安寺(だいあんじ)橋】 

 次の交差点を越えるとすぐ、昔の雰囲気が出ている大安寺橋を渡る。

 橋を渡る手前左側に雰囲気のある木製常夜灯と道標『太田町二里八丁』、渡った右にも常夜燈と足元に道標『岐阜市ヘ四里十丁』が立っている。

 往時にはこの橋から犬山城が見えたと云うが現在は見えなかった。

(写真で、橋を渡った所に建っているのは下記の町屋館)


【中山道鵜沼宿町屋館(旧武藤家住宅)】 市指定重要文化財 (右側) 

 大安寺橋を渡った右側に堂々たる古民家が建っている(写真は京側から写した町屋館)

 建物は文化庁の『登録有形文化財』、各務原市の『景観重要建造物』で現在は資料館となっているが、本日は月曜日なので休館。

【由来】

 当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家の住宅です。平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。

 屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの三棟からなります。主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築されたものと伝えられています。

 三棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。


【安積(あずみ)門(旧大垣城鉄門 )】 市指定重要文化財 (左側) 

 町屋館の向かいに石垣と鉄板で覆われている門が建っている。

【由来】

 当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げられた後、安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。

 規模は、間口約七.五メートル、高さ四.五メートルあり、構造形式から高麗門と称されます。高麗門とは、左右二本の本柱上部に小振りな切妻造の屋根を架け、さらにその後方に控柱を立て、本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、主に城門として用いられてきました。

 当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられます。

 当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門(二之門)の二例が現存しています。


【菊川酒造】 (左側) 

 明治4年創業。黒い板の大きな酒造所。

 この建物も文化庁の『登録有形文化財』、各務原市の『景観重要建造物』となっている。

 


【芭蕉句碑】 (右側) 11:00

 真新しい『中山道鵜沼宿脇本陣』の塀を引っ込ませた一角に芭蕉の碑と句碑が3基並んで建っている(下の写真参照)

【鵜沼宿と芭蕉】

 貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。

その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、

 汲溜の水泡たつや蝉の声

の句を読み、さらに同年八月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。

 ふく志るも喰へは喰せよきく之酒

 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、

 おくられつ送りつ果ハ木曾の秋

と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだといわれます。


【脇本陣 坂井家 (右側) 

 句碑に続いて木の香が匂うような改築されたばかりの建物である。

 ここも月曜日なので休館していて内部を見られないのが実に残念である。たまたま、通りかかった車から降りてきた人が休みなんてけしからんと嘆いていた。見学施設がある宿場町は月曜日を避けた方が良いと分かってはいたが、今回はある事情から土・日でなく日・月と歩いた。それにしても心残りで脇本陣をあとにした。

【由緒】

 鵜沼宿の脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ〜五年(1685〜88)に松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています。

 史料によれば、江戸時代中後期の「鵜沼宿万代記」に脇本陣坂井半之右衛門と記され、「中山道分間延絵図」には街道に南面する切妻屋根の主屋と表門が描かれています。また「宿村大概帳」天保十四年(1843)には、脇本陣坂井家、門構玄関付き建坪七十五坪と記され、その間取りが「鵜沼宿家並絵図」元治元年(1864)に詳細に描かれています。

 なお、当施設は「鵜沼宿家並絵図」に描かれた幕末期の脇本陣坂井家を復元しています。

 (写真は、新装なった脇本陣と右側に芭蕉句碑)

 脇本陣の隣が「二ノ宮神社」。


【古民家4棟】 (左側) 

 神社の斜め前に古民家が4棟並んで、全て文化庁の登録有形文化財、且つ、各務原市の景観重要建造物となっている。

手前から、

【坂井家住宅】

 明治二十七年建築の旅籠屋(丸一屋)。

【茗荷屋梅田家住宅】 

 江戸時代の建物で旅籠屋(茗荷屋)。

【梅田家住宅】 

 明治元年建築の家。

【安田家住宅】 

 昭和五年建築の家。


【鵜沼宿碑】 (左側) 

 次の交差点を渡った左角に『鵜沼宿』の石碑と『道路改修記念碑』が建っている。


【弘法堂】 (右側) 

 交差点から約300mにある弘法堂には、お堂の脇に前掛けを掛けた沢山のお地蔵さんが並んでいた。


【衣装塚古墳】 (右側) 11:20

 弘法堂から100mで「空安寺」の手前に衣裳塚古墳が現れる。

 衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。

 墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。

 衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります 。

 衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。

     平成4年3月30日 各務原市教育委員会


坊の塚古墳】 (左側) 

 衣裳塚古墳からすぐ先の「都クリニック」を左折して、すぐ右に入ると坊の塚古墳がある。

 傍まで行かなくともしばらく街道を進むと、左手空き地の奥に前方後円墳の形が分かる古墳の頭部を見ることが出来る。岐阜県で2番目に大きい古墳とか。


【津島神社】 【皆楽座】 (右側) 11:40

 次の交差点を越えた右側に津島神社がありその境内に皆楽座が建っている。ここのベンチで少し休憩を取る。隣の公園には公衆便所もある。

【皆楽座】

 客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられた。明治二四年の濃尾地震により倒壊したが、明治三二年に再建された。津島神社藩塀は皆楽座の南側に隣接して立つ。

 


【播流上人碑】 【山之前一里塚】 

 街道は程なく国道21号線に合流する。合流したら国道の左側に渡ること。

 国道に合流してしばらく進むと車道は上り坂の陸橋となるが、歩行者は左側の側道を行く(国道に合流してから側道入口まで約650m)。

 側道を中程まで行くと、JR高山本線を越える為の高架歩道が現れるが、その手前に岩を築き上げた『中山道中安全の碑』なるものがあった。ここが播流上人碑山之前一里塚跡と思われるが説明文等がなかったので不明。

 JRの線路を越え、再び側道から車道に戻ると右手に『ガスト』が見えてくる。


<昼食>  12:15〜12:50

 各務ヶ原手前の「ガスト」で昼食。


 各務ヶ原駅前の「各務原町」信号で本日の中山道歩きは終了し、この後電車で国宝犬山城見学に向う。

 信号を左折すると90mで「名電各務原駅」。13:07発の電車で「犬山遊園駅」13:12着。

「犬山遊園駅」から木曽川沿いの遊歩道を犬山城目指して歩く。途中「日本ライン」の説明板があった。

 このあたりから見られる木曽川両岸の岩石と優れた景観は、ドイツのライン川に似ているというので、大正2年(1913)愛知県の生んだ有名な地理学者志賀重昴(しげたか)により、日本ラインと名づけられました。

 両岸の谷壁と山地はチャートとよばれる中生代に海の底にたい積してできた硬い岩で、侵食されにくく尾根となっており、侵食に弱い砂岩や頁(けつ)岩は谷となっています。


【犬山城】  13:15〜14:50

 駅から犬山尻城入口まで坂を登り1.3Km(25分)。本日まで犬山城祭りとのことで、駅で貰ったパンフレットを見せるだけで入城料が通常500円から400円に割り引いてくれた。

 かつて家族で岐阜をドライブした時、この犬山城が閉園となって見る事が出来ずに城好きの私にとって残念な思いをしたので、今回は中山道を途中放棄してでも訪れたかった場所である。

【犬山城の歴史】

 犬山城は天文六年(1537)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。

 戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、1600年の関ヶ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。

 小牧長久手合戦(1584年)の際には、豊臣秀吉は大坂から十二万余の大群を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。

 江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正成が元和四年(1618)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。

 明治四年(1871)九代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城になり、櫓や城門なで天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。

 明治二四年の濃尾震災で天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れましたので、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。

 その後、伊勢湾台風などでも被害を受けましたが、昭和三六年(1961)から四○年まで四年間をかけて解体修理をおこないました。望楼型の独立天守で高さは二十四メートルです。

 国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城の四城のなかでも、最も古い城であります。

 平成十六年四月、財団法人 犬山城白帝文庫が設立され、城の所有は個人から財団法人になりました。

【天守閣構造の大要】

坪数      約二百坪

外観      三重(内部四階、石垣の中ニ階付)

内部      納戸の間 百五十畳

        中央部四室に区画した所があり、西南部に床が七寸高く、所謂、上段の間が南面して設けられ、天井、床の間、床脇等の痕跡もあり特別室になって居る。創建当時の城主の居間で、その北が武者隠しの八畳で、万一を警護する武士の詰所である。東ニ間は共に納戸で六畳と十畳とあり、以上四室を取巻く二間半巾の板の間は武者走りと言います。

二階      武具の間、百四十四畳。中央部が武具の間で西北東の三方に武具棚があります。

三階      唐破風の間、二十八畳。小間合せて四十一畳。外観二重の屋根裏に当る。

四階      物見の段、二十八畳。四方に約半間の廻禄及勾欄あり展望がよろしい。

天守の石垣 低いのは室町時代の特徴であります。

 犬山城から木曽川に下り、広重の浮世絵(鵜沼宿)ポイントである「ライン大橋」から犬山城を写す(上記【鵜沼宿】の現代の写真参照)

 「ライン大橋」から再び木曽川沿いの遊歩道で「犬山遊園駅」に戻る。



 27回目の旅終了(14:50) 犬山遊園駅。

  各務ヶ原駅前の交差点で街道歩きを終えて犬山城を見学後、犬山遊園駅15:04発の名鉄で豊橋駅まで行き、新幹線で帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、11.0Km(虚空蔵堂〜各務原町交差点)

          日本橋から百一里二十六町(399.5Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、16.2Km(美濃太田駅前ホテル〜犬山遊園駅) 累計483.7Km

          4時間45分(虚空蔵堂〜各務原町交差点)。 6時間45分 28,900歩(ホテル〜犬山遊園駅)

 

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