大月・下花咲・上花咲・下初狩・中初狩・白野・阿弥陀海道宿 (大月駅 → 笹子駅) <旧甲州街道8回目>

 

 2007年11月23日(金) 快晴

  電車で大月駅迄行き、駅前を9:40スタート。

 
(注:解説で街道の左側、右側とは下諏訪に向っての左右です)

 

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 甲州街道を大月まで進んだところで中山道に戻り、本日(23日)も大湫・細久手を歩く予定にしていたが、細久手唯一の旅館「大黒屋」が満室だった為、しかたなく甲州街道を歩くことにした。

 二つの街道を同時に挑戦しているとこのような場合に便利なので、今後は臨機応変に両街道を歩くことにする。


【大月宿】 日本橋から二十四里十ニ町三十九間(95.6Km)、下諏訪へ二十九里四町三十三間(114.4Km)

 天保14年(1843)で人口373名、総家数92軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋2軒。

 相模の国に通じる富士山道の追分で、江戸時代には富士山を信仰する富士講の人たちが行き交って大いに賑った宿。


【明治天皇御召換所跡】 (左側)

 さつき通り商店街から続く道を更に行くと「大月2丁目」交差点で国道20号線に合流する。

 国道左手にある「大月市役所」の先に碑が建っている。

明治大帝は王政維新後民情安定に大御心を注がれ給ひ明治十三年六月十六日宮城御發輦二品伏見宮貞愛親王を始め太政大臣三條實美参議寺島宗則仝伊藤博文仝山田顕義宮内卿徳大寺實則文部卿河野敏謙内務卿松方正義侍従長米田虎雄山口正之陸軍中将三浦梧樓宮内少輔土方又元太政少書記官伊東巳代治等百官有司供奉し峻坂難路の甲州街道を降らせられ小佛の險を越へ鳳輦親しく我縣に臨み一週日間に亘り縣下の民風土情を宸察あらせらる此の砌仝十八日大月町字大月先々代溝口五左ヱ門宅に御駐輦あらせられた由緒深き尊き御遺跡なり


【道標・常夜燈】 (左側) 

 「大月橋東詰」交差点左角に道標3基(石碑と石柱2基)、常夜燈、祠が並んでいる。

 一番右の道標が大きく「右甲州道中 左富士山道」と彫られている。他2基の道標も同じような内容。

 往時はここから右へ曲がって桂川沿いに急坂を下り、現在の「新大月橋」あたりから川を渡っていたが、今は道が無いので少し戻って富士急行線沿いの道を北方向に行き、JR線の跨線橋である「昭和橋」を渡ってもう一度左折する。すなわちJR線の右側の道に出る。出た所が「大月東中学校」前である。

 


【下花咲宿】 日本橋から二十四里二十六町二十一間(97.1Km)、下諏訪へ二十八里ニ十六町五十一間(112.9Km)

 天保14年(1843)で人口374名、総家数77軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋22軒。

 下花咲宿と上花咲宿は問屋業務を半月交替で行っていたので合宿のようだが、本陣・脇本陣はそれぞれにあった。

【駄賃並びに人足賃銭】 慶応三年(1867)十一月

大月へ

  荷物壱駄    百三拾九文

  乗掛荷人共   同前  (荷物が軽くて人も運ぶとき)

  軽尻馬壱疋   九拾文 (予備の馬をつけるとき)

  人足壱人    七拾五文 (人足が触れ状だけを運ぶとき)

下初狩へ

  荷物壱駄    三百弐拾七文

  乗掛荷人共   同前

  軽尻馬壱疋   弐百拾八文

  人足壱人    百五拾四文


【下花咲一里塚跡】 (左側)

 大月東中学校の巨大な擁壁を右手に見ながら「新大月橋」を渡って国道に戻る。

 国道に合流してすぐ「大月県民信金」の向かいに一里塚跡が見えてきて、芭蕉句碑・庚申塔・馬頭観音なども並んでいる。

 一里塚は江戸幕府創立の翌年、慶長9年(1604)日本橋を基点として、五街道の1里ごとに目印として造られた塚のことで、道の両側に5間四方(82.5m2)の盛土を築き、崩れないようにエノキ、松、ケヤキ、モミなどが植えられました。

 当時の旅人は、一里塚を目安に人夫や馬の駄賃を計ったり、雨宿りしたりする格好の場所として大変重要な存在であったといえます。

 この塚はその内の一つで、江戸より24番目24里(約94.2Km)を示すものです。かつて市内にあった一里塚中、古文書、地名、現状などを総合してその存在が確認される唯一のものであると共に、県内の現甲州街道沿いにその面影を留めるものとして、他には見られない貴重な史跡です。

 (この一里塚は、建設省甲府工事事務所創立70周年記念事業の一環として復元されたものです。)

【芭蕉句碑】

 天保十三年(1842)七月建立

 しはらくは 花の上なる 月夜かな

 元禄四年春、48歳の句。満開の花の上に月が上った。しばらくは月下の花見ができそうである。


【本陣(星野家住宅)・明治天皇花咲御小休所】  国指定重要文化財(昭和51年5月指定) (右側) 10:15〜10:50

 「スカイラーク」と「藍屋」に挟まれた所にある大きな屋敷。

 建物の前には「本陣」と「明治天皇花咲御小休所」の大きな石碑が建っている。

 私たちは10:15に着いてしまい、開館まで時間があるのでしばらく外廻りを見ていたが、結局無理にお願いして少し早めに入らせて頂いた。

 裏にある土蔵は焼失からまぬがれたので、一部貴重な資料も残っているとのこと。

 また、この先にあった高札を譲り受けたとのことで、当時の貴重な札も展示されている。

 建物は平成6〜7年に解体修理された。

 現在も星野家が守っており、ここに住んでいる。また、富士山麓のおいしい水を使った星野家が作っている「富士納豆」も販売している。

 開館時間/10:30〜12:00、13:30〜16:30。休館日/毎週木曜日・12/27-1/10。入館料/300円。内部撮影は自由。

 星野家は、甲州街道・大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。下花咲宿の本陣であり、幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には25町歩ほどの田畑を所有し、養蚕では百貫ほどの収穫があったと伝えられています。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保六年(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。

 再建の年月を示す資料は未発見ですが、嘉永5年(1852)に記された家相図によると、間取りと規模が現在の母屋と一致しており、天保末からこの間にかけて再建されたと考えられています。

 現在の母屋は、焼失以前のものと比べると、規模は小さくなりましたが、間取りと部屋数は変えず、街道により近づけて建てられました。

 明治13年(1880)6月18日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に御小休所にあてられました。江戸時代から続く荘厳なたたずまいは、由緒ある歴史を今に伝えています。

   パンフレット(大月市教育委員会)より

【重要文化財】

 星野家住宅 附(つけたり) 家相図一枚

 ◇主屋(一棟)居室部及び座敷部

 ◇籾蔵及び味噌蔵

 ◇文庫蔵(一棟)土蔵造


【上花咲宿】 日本橋から二十四里三十二町十九間(97.8Km)、下諏訪へ二十八里ニ十町五十三間(112.2Km)

 天保14年(1843)で人口304名、総家数71軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋13軒。

 大月インター入口を過ぎると「上花咲宿」に入る。インター入口に「デニーズ」がある。

 宿に入って大塚家が「かくし茶屋跡」、井上秀雄宅が本陣とのことだが見つけることはできなかった。


<昼食> 10:10〜12:00

 中央高速道路大月ジャンクションを潜ったすぐ先右側にある「手打ちうどん」。

 セルフの店でとにかく安い。かけうどん350円+トッピングがかき揚げ・肉・わかめ・玉子・おろし等50円〜100円。2つトッピングしても500円で済む。美味しい漬け物はお代わり自由。


 「三軒屋」交差点辺りから往時の甲州街道はJR線の左側を通っていたが、現在は通行不能の為このまま国道を進む。

 山の中腹に見える「NEC山梨」と「大月警察署」前を通過し、「真木橋」を渡った歩道橋の右下に「親鸞聖人」の石碑。

 「初月橋」を渡った右側に「お食事 いなだや」があり、多くの車がとまっていたので繁盛しているようだ。

 国道が大きく左へカーブした先左側に「源氏橋」が見えてくるのでこれを渡る。

 渡った所で左側からくるのが通行不能だった旧道なので右の未舗装の小道へ進む。「甲州砕石梶vへの広い道の方には行かないように注意。

 JR線沿いの道をしばらく歩くと街道は左に折れて会社の中に入って行くようになるが、カーブの所に「旧甲州街道」の案内板が立っているので安心して進む。


【聖護院道興歌碑】 大月市指定有形文化財(史跡)昭和44年8月指定 (右側)

 「甲州砕石梶vへ進むと舗装道路になり、「第七甲州街道踏切」を渡れば初狩の町へ入って行く。

 その踏切を渡ったすぐ右側に説明板と石碑が建っている。

 碑面の「今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかないやはつかりの里」の歌は、京都の聖護院門跡道興の作である。

 道興は、関白近衛房嗣の子で、仏門に入り大僧正となり、天台宗寺門派修験宗(山伏)の総本山聖護院の座主を務めた。諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね、その様子を「回国雑記」に記している。

 それによると文明十九年(1487)この地を通過する際に、帰雁が鳴くのを地名にちなんで詠んだものである。

 この碑は、文化三年(1806)『甲斐国志』の編者、森島基進が自筆したもので、碑高138cm、周囲76cmの六角自然石柱である。

   平成9年11月   大月市教育委員会

 国道に合流した所で「100K1」の標識がある。しばらく前までは「100K2」だったようで、2の上に1の数字が貼り直してあった。甲州街道のホームページを見ていると全て「100.2Km」と記載されていたので、何時から訂正されたのであろうか。この先の標識も全部貼り直してあった。


【下初狩宿】 日本橋から二十五里九町十九間(99.2Km)、下諏訪へ二十八里七町五十三間(110.8Km)

 天保14年(1843)で人口616名、総家数156軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋12軒。


【本陣跡】 (右側) 12:45

 国道に合流してすぐ右側、道路面より低い位置の大きな旧家が奥脇宅であり、正面右手の玄関の上には「みどう」とあり、左手には本陣門が残っている。

【山本周五郎生誕之地】 

 奥脇宅正面道路沿いに山本周五郎の石碑(写真中央)が建っている。周五郎は明治36年(1903)に初狩村(現下初狩)に清水逸太郎の長男として生まれているが、この本陣家の生まれではない。本来の生家は明治40年の山津波で流されて東京に転居しているのでここと違う場所である。

 ちなみに周五郎は、昭和21年(1946)に我が家に近い横浜市中区本牧元町に転居し、昭和42年(1967)仕事場であった旅館間門園別棟(ここも我が家の近所だが今はない)で死去している。墓所は鎌倉霊園にある。


【脇本陣跡】 (左側)

 本陣斜め向かいの大野宅が脇本陣跡。


【宮川橋の一目富士】 

 「初狩駅前」信号を越え、宮川橋に出て南を向くと2つの山の間に富士山山頂が見える。


【芭蕉句碑 (右側)

 「初狩小学校」に接した歩道橋の下に句碑が建っている。

 明治二十九年(1896)十月建立

  山賊の 願とつる 葎哉  (やまがつの おとがいとずる むぐらかな)

 貞亨2年、43歳。『野ざらし紀行』の帰途、甲州谷村への道筋での句。

 甲州の山は何処も険しく、夏草が生い茂る山道では、さすがに山人もおとがい(下あご)を閉じて歩かなくては、口の中に草の穂先が入ってしまう。山道で会った木こりか猟師が無口で通り過ぎたのを、夏草が口を塞いで喋れないためとしたもの。


【中初狩宿】 日本橋から二十五里三十三町十九間(101.8Km)、下諏訪へ二十七里十九町五十三間(108.2Km)

 天保14年(1843)で人口459名、総家数108軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋25軒。


【本陣跡・明治天皇御小休遺跡】 (右側) 13:10

 初狩小学校を過ぎ、ゆるいS字カーブの手前に石碑の建っている小林茂氏宅が本陣跡である。

 隣近所の殆どが小林姓だっただけでなく、笹子駅まで「小林」と「大野」の姓ばかりという地域だった。

 


【御船石所在地】 (左側)

 次のカーブを曲がると小さな「唐沢橋」を渡るが、橋手前左に「首塚」の案内板が立っていた。

 誰の首塚であるか分からないし、左へどの位入るのか分からないので行かなかった。

 小林電装椛Oを過ぎると視界が開けて、正面に「峰の山」が綺麗に見えてくる。国道左側には「笹一酒造・これより5分」の看板が立っている。(左の写真)

 「船石橋」を渡った左側草地に「御船石」の石碑が建っている。(写真で右カーブしたすぐ先)

 その先、笹子川沿いの歩道のない国道はやや上り坂になり、JRの高い橋の下を潜り、右カーブすると「甲府」の道標が見えてくる。

 ここで甲府方面の国道でなく、歩道では真直ぐ方向の右の道へ入って行くとここから「白野宿」になる。


【白野(しらの)宿】 日本橋から二十六里三十五町十九間(106.0Km)、下諏訪へ二十六里十七町五十三間(104.1Km)

 天保14年(1843)で人口318名、総家数84軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋4軒。

 現在宿内には案内板等は一切ない為、往時の様子を探ることが難しい。


【宝林寺】 (右奥)13:50

 突然静かになった町並みを入って行くと正面に大きなイチョウの木が見えてくる。

 宝林寺の門前にそびえている大銀杏である。門は締め切りになって入れなかった。


【天野脇本陣跡】 

 雑貨屋天野屋が脇本陣跡とのことだったが、この地でも天野姓が沢山あり分からなかった。

 後で調べて、宝林寺参道の右側にある天野宅で今は商売もやめて改築されてしまったとのこと。

【今泉本陣跡】  (右側)

 宝林寺参道入口にある家が本陣跡とのこと。

 左の写真は京側から写したもの。

 家の後ろ(屋根の上)に見える巨木が「宝林寺の大銀杏」である。


【子神社】 (右側) 14:00〜14:10

 宿外れの改修中の子神社境内で休憩。

 「ヤマザキショップ」で国道に合流し、短かった白野宿は終わる。


【立石坂】 

 国道に合流してすぐ、「原入口」バス停で右折してJRのガードを潜ったら左折する。

 ガード下左側に「立石坂の立石」という木柱が立っていたが何処に立石があるのか不明。


【親鸞上人念仏塚・毒蛇済度奮蹟】 (左側)

 原の集落に入り、右側民家の石垣に建つ「萬霊塔」を見て、公民館の前を過ぎると「稲村神社」が見えてくる。その神社前に沢山の石碑が建っており、左端が「親鸞上人念仏塚」、右端が「毒蛇済度奮蹟」である。

親鸞上人念佛塚の旧跡】(分かり ずらい説明だ)

 去る程にこの前方の低地が昔時、甲斐沼地としられた葦ヶ池なりしと伝へる。其の池の總面積は最大時は三丁歩余り葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。鎌倉時代、西暦一二二五年代浄土眞宗の開祖親鸞上人が甲州等々力の積舎萬福寺に参詣の帰路、此地の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ葦ヶ池にまつはる毒蛇済度の祈願をこんせいされる。

 葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄には「よし」なる娘有り、たまたま京より来りし半僧修業僧、晋挺奈良興福寺法性宗の高僧行基が造った、阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて断食修業中その晋挺に心をよせしが僧業の身には女性のその意を深く説得され其の意の通ぜさるを嘆き悲しみこの池に投身若き生涯を果てしときく。

 地頭のこん願に依り上人供養三七二十一日間小石に大字の名号を墨書きし、池中に投入するや、「よし」の霊は成佛済度され池中に異様な轟き有りて「よし」の霊は観世音大士の姿となり、上人の池中に投入れた小石が白虎を帯びて先達となり郷人の驚き騒ぐ中東南の空高く消え去りて遠く、伊豆の手石浜に落ちしと伝へる。今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。

 池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源と伝へられる。葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄は後に、親鸞上人の徳を慕って出家僧行を積僧唯念と稱し真木菩福寺一世開山となる。又此の時期、太布乃名号で知られる、龍泉寺 寺の下の作太郎も上人の徳を慕って僧業し、永讃坊乗信として、真木福正寺三世住職となる。両寺共教行信證浄土真宗なり。          合掌


 街道は真直ぐ行くとJR線に突き当たって行き止まりになってしまうので、写真のように左折してJRのガードを潜って国道に出たら右折する。

 ガードを潜る手前、一段高い畑の片隅に「葦ヶ池」の説明板と石碑が建っている。

 この黄色い矢印を曲がった所が、下の写真の左側の道になる。

【葦ヶ池】 (左側)

【葦ヶ池の由来】(これも分かり ずらい説明だ)

 往古、此の地を葦ヶ窪郷、池を葦ヶ池と稱名せりと伝える。

 此の池の創造の時期については詳でないが、古代期洪積三世期、其の后沖積世期原平台地が沖積層群扇状地高地として形成された時期、昔篠子川と言ひ現在笹子川の本流が流出した土石流に遮断され、低地に泥土と湛水によって沼湖となったと古記に述べられている。

 此の池の總面積は五丁歩有余で池の中には葦草の群生が池面の多くを占めてゐたとの説有り池の名稱の因なりともいう。

 去る程に南部六宗、奈良興福寺法性宗の僧行基菩薩大化年間此の地に来たりて阿弥陀海と稱名。峠は篠子峠、川は篠子川、郷は篠子郷と呼びしかや。又池の北側斜面、山裾に阿弥陀海道なる迂廻路を葦ヶ窪東部へ拓くと共に木像阿弥陀佛を阿弥陀堂に収め信心流布につとめる。阿弥陀堂は修行僧の修行の場として此の地に永代有りといふ。

 伝えられる処に依れば、鎌倉時代、御堀河天皇嘉禄の頃北面の武士此の地頭、小俣左衛門尉重澄在住せりその子に「よし」なる娘有りしが、京より若年の晋挺なる修業半僧坊来たりて、阿弥陀堂に修業為籠れり、よし其の僧に意の通じざるをなげき悲しみ、池に生涯を果てる。その霊恨毒蛇に化身し人々を苦しめたと、浄土眞宗の開祖、親鸞上人が等々力の精舎参詣の帰途、重澄のこん願に教行信証の教義に依り毒蛇消度せりと伝える。詳細の記は稲村神社前の念佛塚に記述有り。

 往古より甲斐の沼橋と名を残す其の名地名東来見坂西橋詰の自稱名の地名あるを証とする葦ヶ池由来記

   筆者合掌


【阿弥陀海道宿】 日本橋から二十七里十七町十九間(107.9Km)、下諏訪へ二十五里三十五町五十三間(102.1Km)

 天保14年(1843)で人口272名、総家数65軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋4軒。

 宿の入口に阿弥陀堂があったことから此の宿名が付いたと言われている。現在何も残っていない。


【笹一酒造】 (左側)

 国道の「笹子川橋」を渡ると、大きな太鼓が飾ってある「笹一酒造」に着く。

 太鼓は、世界一大きな「世界平和太鼓」で、醸造所手前はドライブインとなっている。

 施設の見学は30分おきにできるとあるが、私たちは観光バスツアーと一緒に入ったら精米施設のみの見学で醸造施設は見せてもらえなかった。誰でも精米施設だけかは分からない 。見学後ドライブインで大吟醸酒・濁り酒・原酒・ワインの試飲をしただけで申し訳ないが電車の時刻の関係で何も買わずに出てしまった。普段日本酒だけは飲まない私でも大吟醸酒は美味 しいと思った。

 醸造所入口には御膳水と呼ばれる水が常時出ていて誰でも飲めるようになっている。

【世界一の大太鼓】 ギネスブック登録

 名称      「世界平和太鼓」

 種類      桶胴太鼓

 原木名     杉

 革        牛

 太鼓口径   15尺8寸(4m80cm)

 胴全長     16尺3寸(4m95cm)

 胴仕上げ   漆(朱塗り)

 台車      鉄製

 重量      約2t

 分割式     胴体6分割

これから峠越えする人は、笹子駅にも売店は無く、峠入口のコンビニも閉店したとのことで、この先食物の購入が不可能なのでここで補充しておくと良いだろう。

 笹一酒造から笹子駅までは350mである。



 8回目の旅終了(15:25) 笹子駅。  日本橋から二十七里 七町(106.8Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、12.1Km(大月駅入口交差点〜笹子駅前)

          寄り道を含めた実歩行距離は、 12.7Km(大月駅〜笹子駅)

          4時間45分  22,600歩

 

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