野田尻・犬目・下鳥沢・上鳥沢・猿橋・駒橋宿 (野田尻宿 → 大月駅) <旧甲州街道7回目>

 

2007年4月29日(日) 快晴

  上野原駅より富士急山梨バス9:46発「不老下」行きで「甲東小学校前」10:10下車。前方に少し歩き「甲東コミュニティーセンター」前を左折して急坂を登り、野田尻宿の前回終了した所から100mほど西の場所に到着。ここを10:20スタート。

 
(注:解説で街道の左側、右側とは 下諏訪に向っての左右です)

 

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 本日のルートは、国道や県道をショートカットしたり、山道に入ったりする旧道が至る所にあるので、その入口に注意が必要である。

 原則として往時の街道は、急坂でも迂回することなく直線的に作られているためである。

 今回もショートカットが多くあり、旧街道歩を歩いていると実感できる楽しい行程となっている。

 また桃太郎の家来になった動物達の名がついた宿場が続くのも面白い。


【野田尻宿】 日本橋から二十里十二町五十六間(80.0Km)、下諏訪へ三十三里四町十六間(130.0Km)  

 天保14年(1843)で人口 607名、総家数118軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋9軒。

 野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の形態で宿を構成した。天保14年(1842)には本陣1、脇本陣1、旅篭は大2、中3、小4計9の小さな宿場であった。蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も昔の屋号が残っている。もちろん職業は違っている。

 お玉ヶ池にまつわる伝説は、その昔、旅篭「恵比寿屋」で働く美しい女中「お玉」にまつわる恋物語で、念願の恋が実ったお礼にと、水不足に悩む野田尻宿の一角に澄んだ水をこんこんと湧き出させたと言う。何とお玉の正体は「竜」で、長峰の池の主「竜神」と結ばれたと言われている。

 熊埜山西光寺は、天長元年(824)真言宗として創立した歴史ある寺院である。鎌倉時代に建長寺第9世管長知覚禅師を勧進開山として、臨済宗に転宗した由緒ある寺院である。


【本陣跡・明治天皇御小休所址碑】  (右側)  【旅籠(大黒屋)跡】 (左側) 

 左の写真は、犬嶋神社手前の「野田尻宿本陣跡」と「明治天皇御小休所址碑」。

 右の写真は、その向かいにある野田尻宿の石碑と案内板。

 後ろの家は元旅籠(大黒屋)だった家で、明治天皇にお茶を献上したとのこと。現在の家は明治の大火の後に建てられたもので、たまたま御当主と出会って、話を聞くことができた。また、5月4日にNHK「てくてく旅」のロケが予定されており、その裏話も話してくれたが内容は秘密 にしておく。


【西光寺】  10:30  【庚申塔群】  (右側) 

 左の写真は、犬嶋神社の先を左右にカーブした突き当たりにある西光寺。境内には可愛い石像が沢山建っている。解説は上記「野田尻宿」参照。

 甲州街道は、標識に従ってこの右側の道を登って行く。

 右の写真は、西光寺のすぐ先、上り坂途中の右側に整然と並んでいる庚申塔群。

 登り切って中央高速道路を渡ると、急に森林道に入る。

 舗装道路に出て右折すると、すぐ左手に富士山の山頂が見えてくる。

 ここまでの道筋に、西光寺の住職が書いたと思われる教訓が数本立っている。


【荻野の一里塚跡】  (右側) 10:45

 一里塚跡は舗装道路に出るとすぐ先にある。

 この一里塚は、五街道の一つである甲州街道に築かれた塚の一つです。日本橋から二十里(78.5Km)・十九番目のものです。

 五街道とは、徳川家康によって制定された東海道・中仙道・奥州街道・日光街道・甲州街道のことです。

 二代将軍秀忠は一里塚の制を定め、永井白元・本白光重の二人を一里塚の奉行に任命して、全国の果てから果てまで一里塚を築かせました。

 一里塚は街道の両側に五間四方(82.5m)の大きさで築かれた塚です。その上にエノキ・ケヤキ・松・モミなどの木を植え目印としました。植えられた木はエノキが多かったが、この塚に植えられていた木は松だったようです。

 一里塚は、明治三十四年、中央線が開通して交通機関が汽車に代わるまで、旅人が江戸からの距離を知って、もう一里、もう一里と塚を楽しみに旅をしたり、人夫や馬を借りるときの駄賃をきめる基準にしました。また、暑いときはひと休みする木陰に利用したり、にわか雨には雨宿りの場ともなりました。

     上野原市教育委員会


<昼食> 11:00〜12:00

 中央高速道路に架かる「矢坪橋」を渡って右へ行くのが甲州街道。

 この先、食事するところが無いと思われるので、談合坂SA(上り)のレストランで昼食とした。

 「矢坪橋」を渡らずに真っ直ぐ行くと公園の前に 一般車両進入禁止の門がある。車でなく歩きなのでここからレストランまで入っていった。


【矢坪坂の古戦場跡】 上野原町指定文化財(昭和52年12月指定)

 「矢坪橋」を渡ってすぐ右の坂を登る。

 その登り口に、「古戦場跡」の説明板と「座頭ころばし」を抜ける旧甲州街道の絵地図(下図)が掲げられている。

 長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。

 この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い昔戦場となったところである。

 享禄三年(1530)四月二十三日相模国の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻めこみ矢坪坂に進んだ。一方、小山田越中守の手勢が坂の上で待ちかまえ、両者は坂をはさんで対峙し、やがて激戦が展開された。

 同所一帯は南西に切り立った崖と北面に山腹を臨み道が入り組んでいる要害の地である。この戦いは多勢に無勢、ついに小山田氏は敗退となり、富士吉田方面に逃げた。

 現在、つわものどもが夢の跡をしのぶ影もない。ただ、たまに矢じりなどが掘り出されることがあったという。また付近に五輪塔四基、宝篋印塔一基があるが、この戦の関係のものかどうか定かでない。      (上野原町教育委員会)


【座頭ころばし】 

 急な小道を登って「武甕槌(たけみかづち)神社」の鳥居前を通り、最後の民家には鉄の檻に入っている大きな白い犬がいて、ぐるぐる回りながら大声で吠えていた。その民家の庭先のような道を進むと林の中に入って行く。

 やがて道は分岐して真っ直ぐ行くと県道に降りてしまうので、まだ降りずに右の草道をさらに登る。

 写真のように手すりはあるが県道30号線がかなり下の方に見える怖いくらいの崖っぷちを通過する。往時は手すりなどないので、座頭がころげ落ちたのではないかと想像がつく。

 一番張り出した所(写真の左崖上)に「座頭ころばし」と「この上天神様」の立て札が立っており、見上げると小さな祠があった。

 この山道の途中から談合坂SAの建物が良く見える。


【新田宿尾張の殿様定宿家】  12:20

 程なく舗装道路になり民家が並ぶ。

 その途中右側に「旧甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」の看板が掲げられている民家(左の写真)がある。

 山日YBSの紅白の鉄塔の所で県道30号線に合流する。

 合流したところに「これより犬目宿」の看板がある。


【犬目宿】 日本橋から二十一里七町五十六間(83.3Km)、下諏訪へ三十二里九町十六間(126.7Km)  

天保14年(1843)で人口255名、総家数56軒、本陣2軒、旅籠屋15軒。 

 犬目宿は、一つの村が「宿」そのものになった形と考えられます。言い伝えによれば、聖徳2年(1712)、現在の集落より600mばかり下方の斜面(元土橋)にあった部落が、急遽そのまま現在の場所に移住し、その翌年、宿駅起立の際に、統一的意思により「一村一宿」の宿場として創設されたということです。

 天保14年(1843)においては、戸数56戸、人口255名、本陣2、脇本陣0、旅籠15(大3、中3、小7)を数えた山峡の小さな宿場です。


【犬目兵助の墓】  (左側)

 犬目宿に入って、左側の民家の角に「犬目の兵助の墓」と書かれた案内標識があり、そこを少し登ると石碑のような墓がある。


【犬目兵助の生家】  (左側) 12:35

 火の見櫓の手前左側に「犬目宿」の石碑と地元の野菜などを売っている「犬目宿直売所」がある

 火の見櫓の左側に「犬目兵助生家」説明板が立っている。

 天保四年(1833)の飢饉から立ち直ることができないのに、天保七年(1836)の大飢饉がやって来ました。

 その年は、春からの天候不順に加え、台風の襲来などにより、穀物はほとんど実らず、餓死者が続出する悲惨な状況となりました。

 各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出ました。称して、『甲州一揆』と言われています。

 このとき兵助は四十歳で、妻や幼児を残して参加しましたが、この一揆の首謀者は、当然死罪です。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されています。

 一揆後、兵助は逃亡の旅に出ますが、その『逃亡日誌』を見ると、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢を経ていますが、人々の善意の宿や、野宿を重ねた一年余りの苦しい旅のようすが伺えます。

 晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没しています。

 (平成十一年十一月吉日 上野原町教育委員会)


【明治天皇御小休所址・脇本陣(笹屋)跡】  (右側)  

 火の見櫓の右側に 「明治天皇御小休所址碑」が建っている。ここは本陣でなく脇本陣だった上条氏宅だが、家は新しくなっている。

 犬目宿の本陣家は岡部氏宿の外れの右カーブする手前の家らしいが宿場内のほとんどの家が岡部姓だったので特定は出来なかった。

 カーブしたところに ケヤキの大木があり、右側に「宝勝寺」がある。宝勝寺入口を左に曲がると犬目宿の出口(西の入口)である。


【君恋温泉】  13:00

 「白馬不動尊」の赤い鳥居と「史跡案内図」を過ぎて、右に上がる山道(左の写真)が旧道である。

 登る途中に 、富士山が本日一番綺麗に見える場所がある。
 
登りきって「君恋温泉」。宿前に休憩用ベンチがあり、ここからの富士山も最高である(右の写真)

 そのまま真直ぐの道は通行止めの棒が渡してあるので、左へ下りて県道30号線に合流。


【君恋一里塚(恋塚)】  (左側) 13:05

 県道に下りて程なく正面に一里塚が見えてくる。

 この一里塚は、五街道の一つである甲州街道に築かれた塚の一つです。日本橋から二十一里(82.4Km)・二十番目のものです。

(以下「荻野の一里塚跡」と同文)


【石畳の道】  13:15

 

 右側「山神社」の赤い鳥居の所を右斜めに入る(左の写真)

 入るとすぐ立派な屋根を持つ民家の庭先に入ってしまうようになるが、かまわず行くとすぐ石畳(右の写真)の下り坂になる。短い小道だが雰囲気は出ている。

 すぐ県道に合流し、そこに「至鳥沢」・「旧甲州街道石畳」の標識が立っている。

 合流したところからの富士山も綺麗である。

 


【ショートカットの旧道】

 

 道路の右上にある馬頭観音や庚申塔群を見て「山谷」バス停を左に大きくカーブ。

 やがて右側にフェンスがある道(左の写真)を下る。原田旧道 と言うらしい。旧道は直線で下りるが県道をそのまま行くと大きなU字カーブとなっているのでかなりのショートカットである。

 「坂下橋」を渡って左折し、中央高速道路が見えてきたら、左へ下りる道(右の写真)を行く。中野旧道と言うらしい。

 中央高速道路を潜り、国道20号線に合流したら右折する。ここから下鳥沢宿である。


【下鳥沢宿】 日本橋から二十二里十四町十間(87.9Km)、下諏訪へ三十一里ニ町ニ間(122.1Km)

 天保14年(1843)で人口699名、総家数144軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋11軒。


【上鳥沢宿】 日本橋から二十二里十九町四十間(88.5Km)、下諏訪へ三十里三十三町三十ニ間(121.5Km)

 天保14年(1843)で人口650名、総家数151軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋13軒。 

 鳥沢宿は、国道20号線沿いにあるのにもかかわらず、所々に古い民家が残っている。往時から広い道であったのだろう。

 トイレに行きたくなっ たので鳥沢駅に寄ったが、駅舎の外にはトイレがないためホームのを拝借した。


【明治天皇駐蹕地碑・本陣跡】  (右側) 14:18

 下鳥沢を過ぎ、「上鳥沢バス停」前に「明治天皇駐蹕地碑」の石碑が建っている(左の写真)。ここが井上本陣跡である。 現在の家は別人である。

 日本橋から88Kmの標識を過ぎた「三栄工業梶vの看板の所を右斜めへ入るのが旧道であるが、小川を渡って左折すると程なく国道20号線に合流する。

 次の89Km標識にある「前田商店」を右へ入るのが旧道である(左下の写真)。入ってすぐY字路になるが左の道を行く。

 民家が2軒ある先の薪が積んである小屋の所(右下の写真)を左に降りるのであるが、これが石ころだらけのすべる道で、転げたらそのまま下の川に転落してしまいそうな超急斜面である。怖い人は短い旧道なので国道を歩いたほうが賢明である。

    


【名勝 猿橋】 昭和7年3月指定  15:00〜15:30

 右小菅(県道505号線)の標識が現れたら、ここを右折するとすぐ左側に「日本三奇矯・猿橋」の案内板が見つかるので、そこの階段を左に下りると板の橋が現れる。案内板を見逃すと新猿橋に行ってしまうので注意。 



 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、志耆麻呂(しきまろ)と様々であるが、これ以外の伝説は見あたらない。

 史実の中では、文明十九年(1486)二月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを称して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。

 応永三十三年(1426)武田信長と足利持氏、大永四年(1524)武田信虎と上杉憲房との合戦の場となった猿橋は、戦略上の要地でもありました。

 江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて九回の架け替えと、十数回に及ぶ修理が行われてきました。

 この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。

 昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け今に至っています。昭和九年、西方にある新猿橋の完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、その後も名勝として生き続けています。

 今回の架け替えは、嘉永四年(1851)の出来形帳により架けられており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。

 昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成、総工費三億八千三百万円であります。

 橋の長さ、30.9m、橋の幅、3.3m、橋より水際まで30mです。

【猿橋の工法】

両側の断崖に3列4層にせりだした「はね木」を垂直に埋め込み、「はね木」と「はね木」の間には枕木を入れて支えている。さらに、最上層の「はね木」に橋桁を架け渡して、高欄を取り付け、人が渡れるようにしている。このような工法を「」肘木けた式橋』と呼ぶ。

両側絶壁の渓谷に橋脚をつけることは当時の工法ではできず、吊り橋では距離が長いため、このような創意工夫が考え出されたのだという。

 「猿橋」は日本三大奇矯の一つで、もう一つは「岩国の錦帯橋」で問題ないが、最後の一つとして「徳島のかずら橋」、「日光の神橋」、「木曽の桟」 が争っている。更に、現在は新しい橋になってしまい候補から落ちた「宇奈月の愛本刎橋」を入れると、共に三大奇矯と呼んでいるところ(いたところ)が五つもあることになる。

 橋を渡った休憩所にて談合坂SAで買ったアンパンを食べる。綺麗なトイレあり。 下の写真は「猿橋」から「新猿橋」を写したもの。

 そのまま国道20号線に出て、しばらく国道を行く。

 私達は行かなかったが、「猿橋公園」や「大月市郷土資料館」に寄るには、猿橋と平行して架かっている新猿橋から右へはいる裏道を行くと良い。


【猿橋宿】 日本橋から二十三里十町十間(91.4Km)、下諏訪へ三十里七町ニ間(118.6Km)

猿橋を渡り終えた直後、桂川の南岸に旧甲州街道の猿橋宿がありました。

幕末時点(天保14年)で人口542名、家数138軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠10軒という規模をもった宿場で、これは現在の大月市内に存在した宿場町の中では最大のものでした。

このあたりの地盤は、約6千年前に噴火した富士山の溶岩流によって構成されており、当時の旅人は「地盤が岩石なので、礎石を用いなくても家が建つ」と評しています。

明治以後の大火の影響で、江戸時代当時の町並みは薄れており、解説標識も設置されていません。


 猿橋駅入口で15:50。右側に「三嶋神社」がある。

 その先、左カーブしてJR線を越える手前の「山梨中央自動車梶vの前を右に下る。左側には「宮田どうぶつ病院」の看板が立っている。

 750mほどで「東電駒橋発電所」の導水管が見えたらその脇の道を左に登る(家内が登っている道)。「第五甲州街道踏切」を渡り、一旦国道に出るが、すぐ右の道を行く。

 右に入った所が駒橋宿であるが、現在は往時の面影はなにも残っていない。

 400m弱で国道に合流する。


【駒橋宿】 日本橋から二十三里三十二町十間(93.8Km)、下諏訪へ二十九里ニ十一町ニ間(116.2Km)

天保14年(1843)で人口267名、総家数85軒、旅籠屋4軒。

甲州街道沿いの宿場町における特色に短い距離に複数の宿場町があることが挙げられ、中には片継ぎ(往路と復路で使用できる宿場が違うこと)の宿場や定期交替で営業する宿場が存在していました。

この駒橋から上花咲までの4つの宿場もこういった例の一つで、駒橋宿の東端から上花咲宿の西端までは約3.4kmの距離しかありません。


【岩殿山】 

 「札幌ラーメン・満北亭」の所を右折する。まもなく右側に「岩殿山」が間近に迫ってくる。JR線を越え国道139号線を行くと、中央高速道路のトンネル上が登山道入口となる。頂上からの富士山は絶景(猿橋に写真が掲げられていた)だが、登山道を少し登っただけでも十分堪能できるそうである。

 標高634m。山頂からの眺めは雄大で素晴らしく、ここからの富士の眺めは「秀麗富嶽十二景」にも選ばれている。中腹には丸山公園があり市民に親しまれている。

 「さつき商店街」に入るとすぐ大月駅である。



 7回目の旅終了(16:35) 大月駅。 日本橋から二十四里四町(94.7Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、15.8Km(野田尻宿〜大月駅入口交差点)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.7Km(甲東小学校バス停〜大月駅)

           6時間15分  30,000歩

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