高井戸宿・布田五ヶ宿 (明大前駅 → 大国魂神社) <旧甲州街道2回目>

2007年3月4日(日) 晴 

 「明大前駅」から「すずらん通り」を通り、国道20号線(甲州街道)の「京王・井の頭線」陸橋を9:15 スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは 下諏訪に向っての左右です)

「江戸・内藤新宿」 ← 「目次」 → 「府中・日野宿」


【竹清堂】 (右側) 9:40

 右手「明治大学」を過ぎてすぐ、首都高「永福」ICの先一本右の道に入った所にお寺が沢山並んでおり、その中の「栖岸院(せいがんいん)」の境内にある宝篋印塔は、番町皿屋敷で有名なお菊の墓と伝えられるものだが、私達は残念ながら通り過ぎてしまった。

 お菊さんの墓と塚は平塚市にもあるがどちらが本物なのか?旧東海道9回目「平塚宿」の【お菊塚】参照)

 この先国道20号線は緩やかに右カーブして、そこから少し行った「桜上水駅北交差点」手前の右側にひさしに象が乗っている竹細工店の竹清堂がある。店の前に並んでいた品物は比較的安かった。

 1907年創業の店で、かつては八王子までの間にこのような竹細工の店が30軒ほどあったそうだが、現在はこの一軒のみになってしまったとのこと。
  


【覚蔵寺】 (右側)

 「桜上水駅北」交差点から140m程進んだ右側に覚蔵寺がある。

【覚蔵寺】  

 清月(しょうげつ)山覚蔵寺は日蓮宗の寺で、本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮聖人像です。
 当寺はもと真言宗の寺でしたが、慶長年間(1596~1614)に日蓮宗に改宗、中興開山は実成院日相と伝えられています。

当寺に安置されている鬼子母神像は、日蓮聖人の直刻と伝えられています。このことは「江戸名所図絵」にも 記載されているもので、文永八年(1271)聖人が龍ノ口法難にあわれる前、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされて刑場に向かう途中、一老女からごまのぼた餅を供養され、そのお礼として手渡したものであるといわれています。その像は江戸時代の中頃に、鎌倉の妙法寺から当寺に安置され、それ以降開運鬼子母神として、人々の信仰を集めるようになり、寺運も大いに栄えたといわれています。

境内の日蓮聖人五百遠忌塔は、天明元年(1781)頃に建立されたもので、昭和五六年(1981)は聖人七百遠忌の年にあたり、それを記念して銅像を建立しています。

また、開山日相聖人塔は三百五十遠忌の年(昭和四十一年)に建立されたものです。

なお、当寺は大本山池上本門寺の末で、現本堂は昭和三十一年に改築されたものです。
     昭和五十六年二月十五日 杉並区教育委員会


【宗源寺】 (右側)

 「覚蔵寺」の少し先の右側に宗源寺がある。

 宗源寺の左隣が本陣跡、本陣前が高札場跡、向かい側少し新宿寄りが問屋跡だが、現在は何も残っていない。

【宗源寺】  

 叡昌山宗源寺は、十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。  

 当寺の檀家であった有名な地質学者志賀重昻(じゅうこう)が記した「宗源寺開祖碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江江戸遠江守太郎判官重永の孫で甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名「宗源」と称したのにちなみ、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としたと伝えます。そして、その時期は慶長(1596~1614)初年の頃とされています。

 境内の不動堂は、もとこの近くにあった修験道の本覚院(明治五年廃寺)のものでしたが、明治四十四年に現在地に移し、昭和四十二年に改築したものです。

 なお、この不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。

 当寺蔵の文化財としては、南北朝初期の板碑や滝沢救馬(1713没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されています。

     昭和五十五年二月二十日  杉並区教育委員会


【下高井戸宿】 日本橋から四里(15.7Km)、下諏訪へ四十九里十七町十二間(194.3Km)

 天保14年(1843)で人口890名、総家数183軒、本陣1軒、旅籠屋3軒。


【上北沢一里塚跡】 (左側) 9:55

 首都高速道路が右へそれて行く「上北沢駅入口」交差点の少し手前の左側歩道上に甲州街道一里塚跡の説明板のみが立っている。
 説明板の後ろには「20号線・日本橋から16Km」のポストが立っている。


 【甲州街道一里塚跡】  

 江戸時代、五街道の一つであった甲州道中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、 つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。

 この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もありました。

 この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて四里目(約十六キロメートル)を示す「一里塚」がありました。

 当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。

 塚は五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が増えてありました。

     昭和五十四年二月一日 杉並区教育委員会 


【上高井戸宿】 日本橋から四里十二町四十間(17.1Km)、下諏訪四十九里四町三十二間(192.9Km)

 天保14年(1843)で人口787名、総家数168軒、本陣1軒、旅籠屋2軒。

 「上北沢駅入口」交差点で首都高速が右にそれて行ったので、空が開け圧迫感がなくなる。
 上高井戸宿本陣は、環状八号線(環八)の手前北側の角にあった並木氏の「武蔵屋」だったが、現在は何も残っていない。その並木氏の墓は「長泉寺」にある。


【長泉寺】 (左側)
 旧道は環八を渡った先、「烏山市街」の道標に従って左斜めに入って行く。
 旧道に入って直ぐ右側の長泉寺に、上記並木氏の墓があるとのことだが、由緒だけ読んで境内には入らなかった。
【長泉寺】 

 万年山長泉寺は曹洞宗の寺で、本尊は大日如来像です。
 当寺は慶安元年(1648)、世田谷区の烏山にあった通称「お伊勢の森」に開創しましたが二年後に火災に会い、明暦元年(1655)現在の場所に移ったと伝えられています。
 開山は狛江市の泉竜寺二世欄室関牛
(らんしつかんぎゅう)といわれ、本堂は明治二十六年に改築されたものです。
 本堂前の観音堂は「円通閣」といい、享保十三年(1728)に建立されたもので、西国三十三箇所の観音像を安置しています。また、堂内に納められている観音堂入仏式の行列を描いた額は、狩野派の絵師中田小左衛門が描いたもので、近世の風俗を知る上での貴重な資料です。
 このほか、文化財としては承応三年(1654)・貞享元年(1684)銘の地蔵をはじめ石像や庚申塔も多く、本堂の前には区内でもめずらしい十六羅漢の石仏も保存されています。
 また、境内の老松の下には徳本行者真筆による石塔(文化十四年〈1817〉)や、天保十一年(1840)に造られた釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊仏があり、墓地にはかつて上高井戸宿の本陣であった「武蔵屋」(並木氏)の墓があります。
 なお、かつて当寺の境内では四月に「長泉寺の馬駆」、八月に「長泉寺の相撲」が行われ、近村にも有名でありましたが、明治末から大正の初め頃いずれも廃絶していまいました。
     昭和五十六年二月〉十五日 杉並区教育委員会


【南烏山りんれい広場】 (右側) 10:30
 「烏山下宿」バス停・「南烏山けやき公園」を過ぎ、次の「中宿」バス停前右側に南烏山りんれい広場があり、ここに公衆トイレがある。

 また、広場内にせたがや百景の内甲州街道の道筋についての説明板があった。
【せたがや百景 45 旧甲州街道の道筋】 
 南烏山から給田へとつづくこの道は、かつての甲州街道です。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていませんが、この道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません。道の由来を知れば、その時代、時代の道筋の風景を脳裏に浮かべることもできます。
     昭和59年10月選定
 


【里程標(新一里塚跡)】 (右側) 10:4 

 「千歳烏山駅入口」交差点、「給田(きゅうでん)町」交差点を過ぎた左側に「給田郵便局」バス停があり、その斜め手前の「池亀家」の門前に、新一里塚石碑と説明板が立っている。


【里程標(新一里塚跡)】 
  銘文
(正  面) 内藤新宿より三里 品川県
(左側面) 内藤新宿より三里 品川県
(背  面) 明治三庚午八月  武蔵国多摩郡給田村
(右側面) 内藤新宿より三里 品川県
  年代
明治三年(1870)
  伝来
 甲州道中には、江戸時代日本橋を起点とした一里塚が四キロメートルごとに築かれていた。

 この里程標は、明治三年に内藤新宿(現新宿御苑内にあった高遠藩内藤家下屋敷)を起点とした甲州街道に設立された新一里塚で、記録によれば芝生に覆われた三メートル位の塚の上に建てられてあったという。

 この標石は、上馬一丁目の前田鉄郎氏によって保存されたのち、昭和五十一年十二月、同氏から世田谷区立郷土資料館に寄贈された。その後、同五十九年二月、元位置に近い現在地に復元した。

 銘文にある「品川県」とは明治二年布告された「府県施政順序規則」により荏原郡、豊島郡の半分および多摩郡の一部を含めた地域をいう。なお荏原郡の一部であった現世田谷区の旧井伊領は「彦根県」、後に「長浜県」と名付けられたが同五年には東京府になり品川県はなくなった。

     昭和六十年三月 世田谷区教育委員会


【仙川一里塚跡】 (右側) 11:00
 仙川に架かる「大川橋」を渡ると「仙川三差路」信号で国道20号線に合流する。

 少し進んだ「仙川駅入口」交差点の手前右角、セブンイレブン前に仙川一里塚の説明が掲げられた三角の石碑が置かれている。
【仙川一里塚跡】 市史跡(昭和46年2月10日指定) 

 この地は、仙川一里塚の跡である。江戸に日本橋を起点にして五里(約二〇キロメートル)の距離にあり、甲州街道と三鷹街道の交差点にあたる。この塚は、徳川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度ができ、慶長七年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれたものである。

 一里塚は、街道をゆく旅人が、正確な里程を知る目じるしとして築かれたのである。塚は普通五間(約九メートル)四方、高さ一丈(約三メートル)の規模で、エノキが植えられたが、地方によってはマツやケヤキを植えたところもある。エノキの実は甘く、若芽も食べられることから、旅人にとっては空腹をいやしたり木陰のもとで疲れをとる場所でもあった。

 この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚となる。現在昔のおもかげは全くみられないが、土地の人は今でもこのあたりを塚と呼んでおり、地名に当時の名残をとどめている。

     平成六年三月 調布市教育委員会


【瀧坂旧道石碑】 (右側) 11:05

 手前左に「キユーピー(株)仙川キユーポート」が建っている「仙川二丁目」交差点を渡るとすぐ右斜めに入る道があり、その入口の民家の生け垣に瀧坂旧道の石碑が建っている。
 右側面には『馬宿 川口屋』、裏面に『平成二年建立』と刻まれていた。生け垣が茂っていると見つかりにくいので注意。

  

 旧甲州街道のこの右斜めの道(瀧坂旧道)を行く。道は右に弧を描くように進み程なく20号線に合流する。


<昼食> 11:20~12:00

 「野菊台交番前」交差点の先「調布自動車学校」入口の「マクドナルド」で昼食。 


 この先、野川に架かる「馬橋」を渡り、「旧甲州街道入口」交差点を県道119号線(調布市街)に標識に従って左方向に入る (国道20号線は右カーブするので旧街道は直進する)。
 ここからは、<旧甲州街道>の案内標識が立っている。


【国領宿】 日本橋から五里三十二町十間(23.1Km)、下諏訪へ四十七里二十一町ニ間(186.9Km)

 天保14年(1843)で人口308名、総家数61軒、旅籠屋1軒。

 調布市に入り、最初の宿場が国領宿。国領・下布田・上布田・下石原・上石原宿を布田五ヶ宿といい、五宿合わせて一宿の機能となっていた。これら五宿には本陣・脇本陣はなく旅籠屋も計九軒だけであった。問屋場の人馬継合は、1ヶ月のうち1日~6日迄が上石原宿、7日~12日迄が下石原宿、13日~18日迄が上布田宿、19日~24日迄が下布田宿、25日~30日迄が国領宿となっていた。


【常性寺(調布不動尊)】 (右側) 12:20~12:30

 「布田駅前」交差点手前の右側に常性寺がある。


不動堂(奥が本堂の薬師堂)


【歴史と武蔵野の緑・常性寺】

 歴史と武蔵野の緑の道は、ちょうふ八景の常性寺の不動尊、国領神社の千年藤そして深大寺や不多天神社などの野川や甲州街道沿いの古社の森を見てまわる散歩道です。周辺には屋敷林や田園風景が広がり、今では残り少ない武蔵野の面影がしのばれます。
 常性寺は鎌倉時代の創建になるもので、もとは多摩川沿い、現在の調布第三中学校あたりにありましたが、慶長年間(1596~1614)に移築されたものです。本堂のほか、境内には不動堂、薬師堂があり、特に不動堂には成田山不動尊の分身をまつり、布田のお不動さんとして近在の人々に信仰され、毎月28日の不動尊縁日には護摩たきを行っています。


 境内右手には文政七年(1824)建立の馬頭観音が建っている。

 


【小橋馬頭観音】
 市郷土資料(民族資料) 昭和44年11月指定

 馬頭観音は六観音の一つで、破邪顕正、人々の煩悩を断つなどの功徳をもつ仏とされるが、頭上に馬頭をいただくことから、民間では馬の守護神として江戸時代中期以降広く信仰されるようになった。
 馬頭観音塔は、念仏供養、道供養として建立されるが、馬の供養のため建てられることが多い。この塔は、甲州街道の小橋(現馬橋から西50m)の「すてば」にあったものを、甲州街道の拡張で再度にわたり移動し現在地に安置された。「すてばとは、馬などの埋葬地である」。
 この塔は、文政七年(1824)市域および近隣の十九か村のほか、八王子の嶌(縞)買中などが協力して造立したものである。
 馬頭観音の象を彫った供養塔は市内でも珍しく、また商人を含む多数の村民が造立したことも知られる貴重な像塔である。

     平成七年三月三十日 調布市教育委員会


 常性寺の門前に「近藤勇と新撰組ゆかりの道」という説明板が立っていて、この先も所々に「新撰組ゆかり」と題する説明板と出会う。
【近藤勇と新撰組ゆかりの道】
原田忠司盛重の墓
 
 原田忠司は、天然理心流三代近藤周助の弟子である。近藤勇の兄弟子にあたり、国領宿の名主谷戸市兵衛に見込まれて谷戸家の分家を継ぎ原田道場を開いた。
 一説には、原田が勇の才能を見抜き師匠周助に引き合わせたと言われている。
     調布市観光協会


【下布田宿】 日本橋から五里三十五町十間(23.5Km)、下諏訪へ四十七里十八町ニ間(186.5Km)

 天保14年(1843)で人口429名、総家数95軒、旅籠屋3軒。


【上布田宿】 日本橋から六里一町十間(23.7Km)、下諏訪へ四十七里十六町ニ間(186.3Km)

 天保14年(1843)で人口314名、総家数68軒、旅籠屋1軒。


 「調布駅北口」交差点の少し手前右側に近藤勇と新撰組ゆかりの人(上布田宿)の説明板が立っていた。
【近藤勇と新撰組ゆかりの人】
(上布田宿)
伊東玄朴(寛政十二年~明治四年)
 伊東玄朴は蘭方医でシーボルトの弟子。のちに幕府奥医師となる。
 勇が近藤周助の養子になってのち病にかかり、病状が次第に悪化して上石原に帰ったことがあったという。玄朴が上布田宿に来たときに診断、投薬したところ本復し事無きをえたという。
 玄朴は多摩郡小野路村(現町田市小野路町)の名主で勇と義兄弟の契りをかわした小島鹿之助宅にも往診した記録が残る。
     調布市観光協会

 次いで、「調布駅北口」交差点の一つ手前の道を右へ入った所に布多天神の石柱が建っており、近藤勇と新撰組ゆかりの道 布多天神社参道という説明板が立っていた。

 布多天神社は、ここから350m程奥にある為、行かなかった。
【近藤勇と新撰組ゆかりの道】 
布田天神社参道

 かつてこの参道には梅の並木があり、江戸の地まで聞こえた名所だった。
 毎月二十五日の縁日は二百年ほど前から開かれており、暮れの市はことに賑やかで世田谷の「ぼろ市」と並び称されたという。

 太閤秀吉の小田原攻めの際に出された制札(お触書」など歴史を語るものが多いが、近藤勇の孫久太郎者が刻まれている日露戦争記念碑は意外と知られていない。
     調布市観光協会


【小島一里塚】 (右側) 12:45 
 「調布駅北口」交差点の西友から200m程行った、「えの木駐車場」の前に小島一里塚の石碑が建っている。


【小島一里塚】
 市旧跡(昭和46年2月10日指定) 
 
ここは江戸時代の初めごろ、甲州街道に築かれた一里塚のあったところである。江戸日本橋を起点として、およそ六里(二四キロメートル)の距離にある。
 一里塚は街道の一里ごとに、その目じるとして道の両側に築かれたものである。たいていは塚の上にエノキが植えられ、遠くからでも望見できるようにして旅行者の便がはかられた。

 ここにも樹齢二〇〇年余と推定されるエノキの大樹があって、その昔がしばれたが危険防止のため昭和四〇年頃に伐られた。
     昭和五十五年三月一日建設 調布市教育委員会


【下石原宿】 日本橋から六里九町十間(24.6Km)、下諏訪へ四十七里八町ニ間(185.4Km)

 天保14年(1843)で人口448名、総家数91軒。


【上石原宿】 日本橋から六里十六町十間(25.3Km)、下諏訪へ四十七里一町ニ間(184.7Km)

 天保14年(1843)で人口411名、総家数73軒、旅籠屋4軒。


【西光寺】 (左側) 13:05

 県道119号線は、右後ろから来る県道229号線に合流して終わる。
 合流して直ぐの「西調布駅入口」交差点を渡った先、中央道の高架手前に西光寺がある。
  

 山門の左手に近藤勇座像が建っている。


【新撰組組長 近藤勇】 
 近藤勇は天保五年(1834)武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水1-6)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼いころより武芸に親しみ、嘉永元年天然 理心流宗家近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で、襲名披露の野試合を行った。

 文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士隊が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。

 然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。

 その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遙か氏神様の上石原若宮八幡に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出発し村境まで歩いた。

 天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることができたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに破れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時にわずか三十五歳波瀾万丈の生涯を閉じた。

 会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠義大居士」の法号も贈りその功績をたたえている。

 調布市「近藤勇と新撰組の会」は、没後百三十年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所縁の地西光寺に座像を建立することとした。

 奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の 招魂碑がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。

     平成13年10月8日 近藤勇座像建立委員会


 近藤勇の他の史跡として、旧東海道29回目【法蔵寺】の「近藤勇首塚」、旧中山道1回目【近藤勇墓所】(胴体の墓)を参照。


【飛田給(とびたきゅう)薬師堂】 (左側)  13:20

 「飛田給駅入口」交差点を渡って直ぐ左側に飛田給薬師堂がある。


 【飛田給薬師堂由来】 
 今から三百年の昔貞享(1684~88)のころに仙台伊達家の忠臣松前意仙行重なる人が諸国行脚のおりこの地に足をとどめ庵をむすび医業のかたわら仏道に志し衆生を済度し慈悲深き日々を送られた その後自ら瑠璃光薬師如来の石像を刻み完成したのち入寂された 意仙師の感化は里人はもとより近郷にもおよびその慈悲の深さに人々は碑を建てて信仰にはげんだと伝えられている
 上石原西光寺過去帳の十二日の忌日に元禄十五年松前意仙庵正月医師と記されている 今日なお毎月十二日の命日には尊像の前で祝讃が詠唱され多くの参拝者で賑わい薬師尊奉賛会が組織されその保全にあたっている
 昭和四十七年七月薬師堂と行人塚改修のおり土中にねむる遺骨が発見されたが伝説の意仙氏の遺骨と思われた よって調布市文化専門委員会に視察を仰ぐとおもに専門的調査を実施した結果遺骨の状況から土中入段の伝説とほぼ一致していることが確認された 松前家は北海道松前城主蠣崎伊豆守慶広の七男安広が初代で元和年中(1615~23)白石城主片倉家に倚り伊達政宗公に仕えて忠勤を現し 伊達家準一家に列せられ安広の長男景長は片倉家の養嗣子となり第三代白石城主となった 二男広目が松前家を継ぎ仙台騒動の除は綱村公の博であった意仙氏はこの兄弟に列するのではなかろうかと推察される
 なお 昭和四十八年五月十二日~十三日にかけ飛田給自治会の代表が宮城県白石市におもむき同市文化財保護委員会長片倉信光氏(白石城主片倉十郎十五代当主)を訪ねた
 ここに松前意仙師の遺徳を伝えるためその由来の大要を記す
     昭和六十一年九月十二日


【瑠璃光薬師如来立像】 市郷土資料(民族資料) 昭和49年7月12日指定

 この石仏は飛田の源の石薬師といわれ、庶民信仰の的となっているものである。

 江戸時代の初期貞享(1684~1687)年中、仙台の人、松前意仙、諸国を遍歴し、やがて、ここを生涯の地と定めて庵を結び、医業のかたわら深く仏道に志して、帰依する薬師如来の功徳をもって衆生を済度しようと発願、自ら刻んで安置したものと伝えられる。

 像身は百四十センチメートルの正立像で、左掌に薬壷を捧げ、右手は施無畏印を結び慈悲に充ちた相好をしている。背面に「施主為松前意仙行重二世安楽貞享三丙寅年四月十六日」の刻銘がある。

 初め露仏であったが、弘化四年堂宇が創建されて堂内に安置されるようになった。
     昭和六十年三月三十日建設 調布市教育委員会


 境内入口右側には行人塚が建っている。


【行人塚】 市史跡(昭和49年7月12日指定) 

 この塚は、仙台の人松前意仙の入定塚である。伊達藩主にして医師であった意仙は、薬師如来に帰依礼拝の心があつく、各地の仏閣廻拝の末ここに足をとどめた。その後、意仙は石仏説明のとおり、薬師如来像をつくり、大願成就後、自ら墓穴を掘り、村人に「鉦のやんだときは、わが命のつきたときである・・・。」と言い残してその中に入り、端座叩鉦誦結三昧の末、元禄十五年(1702)一月十二日に入定したという。

 その死後、村人によって塚が築かれて「行人塚」と呼ばれている。

 意仙の感化は、里人はもとより近郷にもおよび、その慈悲の深さに人々は敬拝し、碑を建てて信仰に励んだといわれている。郷土の民間信仰史上三百年の長い間にわたり、今日なお大きな宗教的感化を残している。

 現在の塚は、昭和四十七年に改築されたもので、この工事の際に専門家が発掘し、遺骨の存在が確認された。

     昭和六十三年三月二十四日 調布市教育委員会


 「飛田給駅入口」交差点を右折すると300m程の所に「味の素スタジアム」(旧東京スタジアム)があり、そのそばに「東京オリンピックのマラソン折り返し点記念碑」があるが、私たちは行かなかった。


【下染屋】 

 府中市に入って、「車返団地入口」交差点の手前右側に「観音院」があり、その交差点角に下染屋の石の説明板が建っている。

 下染屋(しもぞめや)は現在の白糸台三丁目(旧甲州街道沿い)に集落の中心かあった村落です。

 幕末の地誌には「民戸三十七軒、甲州街道の左右に並居」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。もともとは多摩川のほとりに集落があったそうです。

 地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所であったとか、鎌倉時代に染殿があった所とか言われており、現在も神明社の秋祭りには「染殿神社御祭礼」の提灯が掲げられています。いずれにしても、布染めに関係のある地名のようです。古く、染屋は一つの村落で、上下二村に分かれた時期は不明ですが、寛永十二年(1635)の検地帳には下染屋と記録されています。染屋の名は、南北朝時代の資料に見えます。


【染屋不動尊】 (左側) 13:45

 西武多摩川線の踏切を渡って、少し進んだ「不動尊前」交差点を越えた所に染屋不動尊があり、本尊の阿弥陀如来像は国の重要文化財。


 手前の石碑に彫られている文中で、像の高さは別の説明板に書かれていたものである。

【上染屋八幡神社寶物殿】
 

   重要文化財

 金銅阿弥陀如来立像 一体 (身丈48.8cm 台座とも59cm)

   背面銘文

 上州八幡庄 檀主友澄入道 縁友伴氏

 弘長元年辛酉十二月 日敬白 

 社傳に元弘三年鎌倉攻めのとき新田義貞軍の持來つたものと言う

 
 境内入口に上染屋の石の説明板が建っていた。
【上染屋】

 上染屋(かみぞめや)の集落はもともと多摩川のほとり、小字でいえば、龍ヶ島・亀沢・鶴代の辺りにありましたが、度重なる洪水を避けて、現在の甲州街道沿いの白糸台一丁目の一部に移ったものといわれています。

 地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか、鎌倉時代に染殿があった所とかいわれ、染屋の名は南北朝時代の資料にも見えます。

 古くは、染屋という一つの村落であったものが、時期は不明ですが上染屋と下染屋に分かれたものです。嘉永十二年(1635)の地検帳には、上染屋の名が記録されています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「甲州街道の村にて、民戸五十三軒、往還の左右に並居」とあります。


【常久 (右側) 1 3:57

 「白糸台一丁目」交差点を過ぎて、次の信号右側に「常久公園」があり、その入口に常久の石の説明板が建っている。

 常久(つねひさ)は、現在の若松町一丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。
 幕末の地誌には「民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水によって流され万治年間(1658~61)に、ハケ上に移動したと伝えられています。

 地名の起こりは、人名によるようで、古くは常久(恒久あるいは経久とも)という人を名主とする名田であったようです。『新編武蔵風土記稿』には「村名の起こりを尋ぬるに、むかし常久と云いし人居住せしによりて唱えしと云、今村内の農民嘉右兵衛門なるものはその子孫なりと云」とあります。


【常久一里塚跡】 (左奥) 1 4:05

  「常久公園」(信号)の手前の道を左に入り、突き当りを右折した直ぐの民家の一角に常久一里塚が建っている。この道筋(旧甲州街道の一本左の道)は江戸初期の甲州道で品川道である。


【常久一里塚】
 府中市指定文化財(昭和59年1月27日指定) 
 一里塚は旅人に里程を知らせるため、街道の両側に一里ごとに築かれた塚で、我が国では江戸時代になり制度として確立した。すなわち、慶長九年(1604)徳川家康は江戸日本橋を起点として東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かせ、それを全国に普及させた。

 塚上には塚を固めるため榎をはじめ松や欅などが植えられ、これが旅人にとっては日ざしをさける木かげの休所となった。

 この常久一里塚は、江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から七里のところに設けられた一里塚の後と伝えられているものである。府中市内では、このほか日新町一丁目の日本電気株式会社府中事業所内にある一里塚が「市史跡 甲州街道本宿一里塚跡」として府中市指定文化財となっている。

     平成十五三3月 府中市教育委員会


 この先すぐ「東府中駅」で元の旧甲州街道(国道229号線)に合流するのでこのまま品川道を行く。229号は合流地点で左右に二つに分かれ、右の道は直ぐ20号線に合流して終わる。

 旧甲州街道は、左の229号線を進み京王線の踏切を渡る。


【八幡宿】 14:20

 左側の「八幡町二丁目」バス停前に八幡宿の石の説明板が建っている。

 八幡宿(はちまんしゅく)は現在の八幡町一・二丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。この村落は六所宮(大国魂神社)の社領に属しており、『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「六所社領」の小名としてその名が見えます。

 もともと八幡宿は、国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、甲州街道が開設(慶安頃=1648~52)されたのに伴って街道筋に移動したものです。宿場町のような村名ですが、八幡宿は農業を中心とした村落です。

 地名の起こりは、この地に国府八幡宮が鎮座していることによります。国府八幡宮は、由緒深いお宮で聖武天皇(在位724~749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。

 この直ぐ先左側に「武蔵国府八幡宮」の石標と鳥居が建っている。社は参道を175m程進んだ奥にある。


【大国魂神社】 (左側) 14:35

 「八幡宿」交差点を過ぎ、「大国魂神社」の鳥居手前に「府中観光情報センター」があり、その裏手に綺麗なトイレがある。

 「大国魂神社」前の道(甲州街道からは右折)はケヤキ並木で、250m行くと京王府中駅。次の交差点を左折すると350mで南武線府中本町駅となる。

 また、神社前の街道沿い右側には脇本陣があったが、今は何もない。

 大国魂神社は昨年訪れているので境内には入らなかった。


(大国魂神社HPより)

 当社のご祭神は、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。

 この大神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えられこの国土を経営されたが、天孫降臨に際してその国土を、天孫瓊々杵(ににぎの)尊にたてまつり、出雲の杵築の大社に鎮座されました神であることは、世に知られるところである。

 当社の起源は、人皇第十二代景行天皇四十一年(111)五月五日大神の託宣に依って創立されたものである。出雲臣天穂日命(のおみあめのほひのみこと)の後裔が初めて武蔵国造(くにのみやつこ)に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれ、その後、孝徳天皇(645~654)の御代に至り、大化の改新(645)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である。後に本殿の両側に国内著名の神、六所(ろくしょ)(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して、六所宮とも称せられるようになった。

 寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、その室、政子の安産の祈願が行われた。

 文治二年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年 (1232)二月、将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。

 又、天正十八年(1590)八月、徳川家康が江戸へ入城してからは、武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、社殿及びその他の造営に心力をつくされた。

 正保三年(1646)十月、類焼により社殿は焼失したが、寛文七年(1667)将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。 形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであるが、慶応年間に檜皮葺(ひわだぶき)が銅葺に改められた。又、本殿は都文化財に指定されている。

 明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、 同十八年官幣小社に列せられた。

 本社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、又国内著名の神六所を配祀したので、「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。

 当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は、武蔵はもちろん、関東一円に亘っている。

 五月五日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、当夜八基の神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜に御旅所に神幸するので、俗に「闇夜(くらやみ)祭」といわれている。現在では昭和三十六年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。


 大国魂神社前西側の街道筋車道側にくらやみ祭りの説明板が立っていた。
【くらやみ祭り】

 毎年五月五日を中心に行われる大国魂神社の例大祭は、別名「くらやみ祭り」と呼ばれ。その起源は古代の国府祭にまでさかのぼるといわれる。府中は、武蔵国の国府が置かれていた場所で、当時国府では年に一度、国中の主な神社の神職が集まり、国土安泰穏と五穀豊饒を祈る祭礼が行われていた。この国府祭に時代と共に様々な要素が加わり、また削られ、江戸時代にはほぼ現在の姿になったものと思われる。

 江戸時代の記録によれば、祭りの夜、当時この近在で最も賑やかであった「府中宿」の灯火をすべて消し、その闇の中を八基の神輿が静かに進んだという。これに対し、翌朝未明、太鼓を合図にすべての灯ろうに火がともると、勇ましく「エイサエイサ」とかけ声を響かせながら神社へ戻ったそうである。おそらくこの明暗の鮮やかなコントラストが、人々の脳裏に「くらやみ」の印象を強く焼き付け、いつのまにか「くらやみ祭り」の名が生じたものと思われる。

 社会の変化とともに「くらやみ」での神輿渡御は昭和34年で中止となり、昼間の祭りへと移行したが、勇壮で熱気に満ちたこの祭りは、人々の心を引き付けてやまない。



 2回目の旅終了(14:40) 大国魂神社。 日本橋から七里二十 七町(30.4Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離16.8Km(「京王井の頭線」の陸橋~大国魂神社鳥居) 

          寄り道を含めた距離 17.2Km(明大前駅~大国魂神社鳥居)

          5時間25分 26,400歩。

 府中本町駅より南武線で帰宅。

 

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