府中宿・日野宿 (大国魂神社 → 日野駅) <旧甲州街道3回目>

 

2007年3月17日(土) 曇のち晴 

 JR「府中本町駅」に降りて大国魂神社に戻り、拝殿を10:30スタート。

 

 (注:解説で街道の左側、右側とは 下諏訪に向っての左右です)

「高井戸・布田御ヶ宿」 ← 「目次」 → 「八王子宿」

 


【本町】 

 「JR府中本町駅」の改札口を出た左手に本町の石の説明板が立っている。

 本町(ほんまち)の集落は、現在の本町一・二丁目の一部(府中街道・鎌倉街道沿い)と宮西町二丁目の一部(府中街道沿い)に中心があった宿場です。

 この宿場は、府中宿で一番古いまちです。国府が栄えた頃より府中は、この地域を中心に発展しています。江戸時代には、府中宿の本陣もここに置かれています。

 幕末の地誌には「甲州街道より南にをれり、横道なり、民家東西に並居れり、或は南分陪に散在するもあり、凡百八十三軒(『新編武蔵風土記稿』)とあります。

 地名の起こりは、古くこの地に六と九の六斎市がたち、交易が盛んに行われるなど、この地域の中心としてまちが形成されたことによるようです。この地には妙光院、称名寺、善明寺などの古刹があります。 


【府中宿】 日本橋から七里二十六町十間(30.3Km)、下諏訪へ四十五里二十七町ニ間(179.7Km)

 天保14年(1843)で人口2762名、総家数430軒、本陣 1軒、脇本陣2軒、旅籠屋29軒。

 遠く大化の改新(645)の後、現在の東京都、埼玉県の全域と神奈川県の一部を含む広大な地域に武蔵国が誕生しました。その後造営された武蔵国分寺は、全国に類を見ない大伽藍を誇り、武蔵国が東国の要所としていかに重要視されていたかがわかります。この武蔵国の政治、経済、文化の中心が、国府の置かれていた現在の府中市です。

 鎌倉に幕府が開かれると、鎌倉と北関東を結ぶ鎌倉街道の要衝として、また江戸時代には、甲州街道の重要な宿場の一つとして大いに栄えました。府中には、これら歴史の名残をとどめる行事や史跡が数多くあります。

(大国魂神社鳥居横に掲げられている「府中市観光案内図」より)


【大国魂神社】 

 大国魂神社の大鳥居(前回2回目参照)から参道に入り、随神門をくぐると右手に枝垂れ桜が数輪咲き始めていた。もう一週間遅かったらさぞかし綺麗なことだろう。
 下の写真に写っている門は、拝殿に続く中雀門
  

 枝垂れ桜の右手には鼓楼が建っている。


【大国魂神社鼓楼】
 府中市指定文化財(昭和56年10月指定)  

 鼓楼は太鼓を懸け時報を報ずるための建物で、元来中国で発達し、わが国へは鎌倉時代に移入され、主として寺院に設けられた。そして江戸時代になると鐘楼と相対して作られることが多く、宇治の万福寺や日光東照宮のものがよく知れれている。

 大国魂神社では慶長年間の造営の際に、三重塔と相対して建てられたが、正保三年(1646)の大火で焼失。200年余たった嘉永七年(1854)に再建されたのがこの鼓楼である。この鼓楼は、現存するその再建連社板によると、府中はじめ日野・多摩・町田の各市域の十七名の人々によって寄進されたことがわかる。

 その後、三回程度修理が加えられているが、よく当初の原型を保っており、神社では数少ない貴重な建築物である。

     昭和58年12月 府中市教育委員会


 中雀門をくぐって拝殿に進む。
  


【神戸】 (左側)  10:37

 「大国魂神社」のすぐ先「コナカ」の前に神戸の石の説明板が立っている

 神戸(ごうど)は現在の宮西町一丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場の一部です。

 この集落は番場宿に属しており、幕末の『新編武蔵風土記稿』には、「番場宿」の小名としてその名が見えます。神戸はもともと一つの区域でしたが、甲州街道の創設(慶安頃=1648〜52)によって南北に別れたようです。
 地名の起こりは、この地に郡家(コホド)があったことによるといわれています。神戸は郡家の意味で、「コホド」と転訛して「ゴウド」となり、神戸の字があてられたようです。もともと神戸は、カンベあるいはカウベと読み、神社に属して租税を納入した民家のことです。

 ここには、甲州街道に沿って老舗が多くあります。


【府中高札場】  (左側) 10:40
 
府中市役所前」交差点を渡った左角に屋根付きの大きな高札が建っている。


【府中高札場】
 東京都指定旧跡(昭和4年10月指定)
 法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治三年(1870)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前など目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など六箇所の大高札場をはじめ三十五箇所に高札場があったという。

 府中の高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交差する所、大国魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに六枚ぐらいの高札が掛けられていた。

     昭和六十に年三月二十日建設 東京都教育委員会


 この府中市役所前」交差点を左折した「大国魂神社西」交差点付近に「大庄屋」という本陣があった。現在本陣の建物は無くなっているが、当時の表門が美好町に移築されている現存する(後述)。


【番場宿碑】 (右側) 10:43

 「番場公園」前に番場宿の石の説明板が立っている。

 番場宿(ばんばじゅく)は、現在の宮西町二・四・五丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場は、もとの名を茂右衛門宿といいます。これがこの土地が名主茂右衛門によって開設されたことによります。番場宿と称するようになったのは嘉永十三年(1636)のことといわれています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「家数百三軒(甲州)街道の左右に簷を連ね」とあります。もともと番場宿は、ハケ沿いの甲州古街道筋にありましたが新街道の設置(慶安頃=1648〜52)に伴って移転したものです。

 地面の起こりは、不明ですが、馬場の転訛などの古刹があります。


【鹿島坂】 (左側) 10:45
 次の信号を左右に横断している2本の道があり、樹木が植えられている方は「下河原緑道」と言い、その交差点左側に鹿島坂石の説明板が立っている。

【鹿島坂(かしまざか)】 
 坂の名は、大国魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれます。五月の例大祭に「国造代奉弊式(ほうべいしき)」という古式があります。これは国造代(奉幣使)が神馬に乗って坪の宮におも向き、神輿渡御(みこしとぎょ)の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉弊を行うというものです。この式は、古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に、名前の一部をとって、「鹿島坂」となったようです。
     昭和六十年三月 府中市


【高安寺】 (左奥) 10:47

  その次の信号の左側に高安寺の入口がある。

 由緒ある寺で、立派な山門や「弁慶硯の井」などもあるとのことで是非寄りたいと思っていたが、寺の縁起等を撮影しているうちに、妻がかなり先に歩を進めてしまい残念ながら寄ることはできなかった。
 下の写真の門は総門で、山門や本堂はこの奥を右に入った所に建っている。従って街道からは見えない。

【高安寺縁起】

 當山は、正しく龍門山高安護国禅寺と称し、総門に「武野禅林」の扁額をかかげ、本堂正面「等持院」の扁額は、開基足利尊氏公の法名「等持院殿仁山鈔儀大居士」の院号である。境内は古く、田原藤太秀郷公の館跡といわれ、後に市川山見性寺が建立されたと伝えられる。建武の中興後、足利尊氏公、鎮護国家に衆生救済を祈って、諸国に安国寺、利生塔の建立を発願したという。即ち當山は、武蔵国の安国寺であり、臨済宗建長寺派として、廣大な寺領と七十有余の末寺を擁していた。

 然るに、長期間幾多の戦国武将の政争の渦中にもまれ、さしもの寺勢も、小田原北条氏の庇護を最後に急速に衰えていった。

 時に慶長年中、青梅二俣尾海禅寺七世関州徳光禅師これを憂いて、再中興開山となり、徳川家より御朱印一五石を拝領し、爾来曹土州洞の禅林として今日に至る。総門・山門・本堂の庫裏、鐘楼、観音堂等を境内に配して、禅宗七伽藍の面影を今にとどめている。

     昭和五十三年三月吉日 府中市観光協会


【片町】 (右側) 
 「高安寺」の直ぐ先の民家の生け垣の前に片町石の説明板が立っている。
【片町】
  片町(かたまち)は、現在の片町一、二丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。

 この集落は、番場宿に属しており、幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「番場宿」の小名として、その名が見えます。

 片町は、徳川家康が江戸に入城後、新しく整備した甲州街道の開通(慶安頃=1648〜52)に伴い、街道に沿ってできた町です。

 地名の起こりやは、街道の南側に名刹高安寺があり、町場が北側の片方だけに発達したことによります。

 この辺りには、国府に関連する片町・高倉遺跡などがあり、発掘調査の結果、住居跡が数多く発見されており、古代にはかなりの規模の集落が存在していたようです。


【弁慶坂】 (左側) 10:52
 「片町説明板」の少し先左側、防火水そう
標識の下に弁慶坂石の説明板が立っている。
【弁慶坂(べんけいざか)】

 『江戸名勝図会』(江戸時代の地誌)に、「甲州街道に架する所の橋をも弁慶橋と号(なず)け、東の坂を弁慶坂と呼べり」とあります。

 この坂は、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。これは、高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、大般若経を書き写したと伝えられるものです。高安寺は、往古建長寺の末寺で、足利尊氏が武蔵国の安国寺として中興した名刹です。この地は、武蔵守藤原秀郷の館跡ともいわれています。

     昭和六十一年五月 府中市


【弁慶橋・石橋供養塔・棒屋の坂】 
 「片町二丁目」信号を越えた直ぐ先の、右へのT字路の右角に弁慶橋石の説明板が立っている。

 「弁慶坂」と「弁慶橋」の説明板を読んだら、ますます高安寺の「弁慶硯の井」が見たくなった。


【べんけいばし】 
 
ここに、野川に架かる弁慶橋がありました。橋の名は、高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。高安寺には、弁慶が写経の硯の水にしたといわれる「弁慶の井」などが現存します。


 「弁慶橋説明板」の後ろに石橋供養塔が建っている。
  


 
また、この「石橋供養塔」がある道の向かいには棒屋の坂の石の説明板がある。

【棒屋の坂(ぼうやのさか)】

 坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通商「棒屋」と呼ばれたためといわれています。

 この道は、徳川家康が江戸幕府を開いてから開設された甲州街道です。江戸幕府にとっては軍事的・経済的に重要な街道でしたが、府中にとっても一宿場として往古の繁栄をとりもどす役割を果たした道です。この街道が開設される以前の甲州方面への道は、もっと南寄りの狭いハケ道で、今でも所どころに残っており、往時の面影を伝えています。

     昭和六十年三月 府中市


【本陣表門(移築)】 (左側) 11:05

 京王線の踏切を渡って、「美好町三丁目西」信号を越えた先の左側、豪邸の立派な弊に続いて府中本陣表門が移築されている。

 ガイドブックで分かっただけで、説明板等も全くなく、この家の表札もない。
  


【本宿碑】 11:10

 国道20号線に合流した「本宿町」信号の三角点に、本宿の石の説明板が立っていた。

 本宿(ほんしゅく)は、現在の西府町二丁目・本宿町二丁目・美好町三丁目のそれぞれ一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。

 幕末の地誌には「今戸数百六十九煙、大抵街道(甲州街道)の左右に簷を連ね、或は田畝の間に位するもあり」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。ハケ下の「小野宮」と「間嶋」は本宿に属した集落です。

 地名の起こりは、甲州街道がハケ下を通っていた頃に、この集落が宿場であったことによります。

 古い甲州街道は品川道から大国魂神社随身門を通り高安寺の南辺を抜け、水田をぬって四谷に向かい、多摩川を渡って日野の万願寺へと続いていた道です。

 本宿はもと車戸村と呼ばれたという説があります。


【秋葉常夜燈】 (左側) 11:15
 次の「本宿交番前」交差点を渡ったホームセンターの左壁に秋葉常夜灯が建っている。 

 東海道を歩いているときは、いたる所で見かけた「秋葉常夜燈」だが、久しぶりに出会った感がある。

 以後、この街道で度々お目にかかれることになる。


【由来書】

 甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され現在の街道と家並が出来たのは十七世紀中ば、慶安から寛文の頃であった。しかし大地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだと云う。

 ついに本宿村では「講」を作り近江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政四年(1792)この地に常夜燈を設けた。

 村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し毎夕刻受領者は必ずこの燈籠に火を点じて無事を祈り隣へと引きついだ。

 爾来一世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。

 このたび都道新設等により旧地隣接の場所に移転したものである。

     平成二年二月


【熊野神社】 (右側) 11:17〜11:27 

 次ぎの「西府町二丁目」交差点手前左側に熊野神社があり、入口に「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳」の標柱が立っている。
  

 拝殿の裏手に古墳 があるが、訪れた時は古墳全面に布カバーが掛けられ、周囲は網シートで囲われている為、説明板の写真でしか伺い知れなかった。
 2022年の再編集時にGoogle Earthで確認したら。フェンスが取り払われて視界が良く、古墳は砂利石で固められていた。

【武蔵府中熊野神社古墳】 国史跡


神社裏手の道路から写した古墳

墳丘】 

 墳丘は、版築工法(はんちくこうほう)と呼ばれるローム土や黒土を薄く交互に突き硬め、山のようにしています。さらに、段となるところでは、石垣のように大きな河原石を積み上げ、その他の部分では小さめの河原石を葺いています。一段目の一辺は約32m、墳丘は約5mの高さを測ります。

 東京都内で、これだけ保存状態の良い古墳は他にあまり例がありません。
石室】 

 遺体が収められていた場所は、玄室と呼ばれる石室の一部で、本古墳では玄室の前に後室、さらに前室と全部で3室から成ります。石室は、多摩川流域に見られる“ナメ石”とか“ナメ土”と呼ばれるシルト岩を、切り出し積み上げています。また、石に切り込みを付けるなど加工していることから、切石組横穴式石室と呼ばれています。石室は現在埋め戻されているため、中を見ることはできません。

【上円下方墳】 国史跡(平成17年7月14日指定) 

  四角い墳丘の上に丸い墳丘を重ねた形の古墳を上円下方墳と呼びます。日本には15万基以上の古墳があると言われていますが、発掘調査で確認されたものは、本古墳を含めて3基しかありません。また、この3基のうちで最も大きく、古いものが本古墳です。

【掘り込み地業】

 石室の地下からは、掘り込み地業という基礎工事の跡が見つかっています。石室の真下に幅約8m、奥行き14m以上の大きな穴を掘り、そこにローム土や粘土を版築工法により埋め戻しています。このようは工事を行っている古墳は大変珍しいものです。

【鞘尻金具(さやじりかなぐ)

 玄室からは、太刀の鞘の一端に付けられていた鞘尻金具が出土しています。鉄製の地金の表面には、銀象嵌(ぞうがん)が施されています。S字状の文様や“七曜文”と呼ばれる7つの円文から構成される文様がみられます。特に七曜文は、日本最古の貨幣といわれる“富本銭(ふほんせん)”と共通する文様です。

【出土品と古墳の年代】

 石室からは鞘尻金具のほかにガラス玉や多数の鉄釘、刀子(とうす)と呼ばれる小刀などが出土しています。これらの出土品は、一括して市重宝として指定されました。

 憤丘や石室の構造と鞘尻金具などの推定年代から、古墳が造られた時期は、7世紀の中頃以降と考えられます(今から約1350年前)。


 この神社のお守り(写真)には、“鞘尻七曜文様”がデザインされている。

 当古墳から出土した鞘尻の七曜文様は、大変縁起の良い文様としてその昔大和朝廷や貴族等が好んで身に付けていたと言われている。
  


【秋葉常夜燈】 (右側) 

  「JR南部線」を跨線橋で渡って国立市に入り、二つ目の歩道橋である「国立市谷保(やぼ)」歩道橋の手前右側、民家の塀が窪んだ所に常夜灯(秋葉燈)が建っている。
 説明柱が立っていたが反対側に渡るのが大変だったので傍までは行かなかった。
  


【関家かなどこ跡】 (左側) 11:45

 「国立市谷保」歩道橋の直ぐ先左側の「ドリーミーホール国立」前に関家かなどこ跡の説明板のみ立っている。

 関家は、鋳物三家(矢澤、森窪、関氏)一家と言われ。江戸時代から明治初期まで鋳物を業としておりました。
 梵鐘、仏像等の他に、鍋釜などの日用品を製造しており、鋳物三家の銘のある梵鐘には、立川普済寺、府中高安寺、日野牛頭天王(現八坂神社)等があり、保谷山南養寺のものには、安永六年(1777)関氏の銘が刻まれています。(下記「南養寺」参照)

 また、関家には、観世音菩薩座像の鋳型が保存されており、この原型をもとにした仏像は、所沢の薬王寺にありましたが、戦争中の供出により失われてしまいました。
 昭和三十七年の作業場等の発掘調査により面積約150平方メートルの中に、鉄滓(てっし)、鉄片、陶片、煉瓦等が発見されております。

     平成五年三月 国立市教育委員会


【谷保天満宮】 (左側) 11:45〜11:55

 直ぐ先左側、森に囲まれた谷保天満宮がある。この神社の像の出来が良くないので、泥臭いという意味の「野暮天」はこの天神から起こった言葉と言われる。

 神社の前を右折するとすぐJR南武線の「谷保駅」である。


【谷保天満宮 由緒】
 
 昌泰四年菅原太宰府に遷らせ給う所、第三子道武朝臣この地に配流され給う。父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、天神島(現府中市本宿)に鎮座す。
 養和元年十一月三日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に鎮座す。天暦元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、関左第一の天満宮と称せられ、明治十八年府社に列せられる。
     北多摩神道青年會   


 鳥居をくぐって社殿へは神社としては珍しく下へ降りて行く。


 【谷保天満宮(本殿・拝殿)】  

谷保天満宮は「醍醐天皇延喜三年(903)二月、管公筑紫に葬去された折、道武朝臣(みちたけあそん)は思慕の情に堪えず、手づから父君の尊容を刻んで廟殿に鎮祀し、旦暮如在の礼を盡された。

 延喜二十一年(1921)十一月、道武朝臣が此地で逝去されるに及んで、神霊を相殿に配祀して三郎殿と称した」と伝えられている。(天満宮略縁記・谷保天満宮所蔵)

 江戸時代には、朱印十三石を寄せられ、明治十八年(1885)には「府社」となった。
 谷保天満宮の主な社宝には、国指定重要文化財工芸品の木造扇額、建治元(1275)年藤原経朝筆の額文「天満宮」があり、同じく国指定重要文化財彫刻、鎌倉時代後期の作と見られる木造狛犬一対がある。社叢は、都指定文化財天然記念物の指定を受けている。
 主な行事としては、一月一日の元旦祭を始めとして、一月の筆供養、九月秋分の日の例大祭、十一月三日の庭燎祭(おかがら火)等がある。例大祭には、市無形(技芸)文化財指定の獅子舞が奉納される。

 本殿は流造(ながれづくり)、六坪で寛永年間(1624〜1643)の造営と伝えられる。
 この流造とは、今日の日本の神社本殿の大部分を占める形式である。桁行三間(五・四メートル)梁間二間(三・六メートル)の母屋の前に一間(一・八メートル)通りの庇をつけたもので、庇は角柱で、土台上に床板が張られ、そこから階段を上って母屋床に達する。屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長くゆるやかに流れるような曲線となる。流造の名は、ここから起こったのである。中世以降の流造は、たいてい三間とも扉口にしている。谷保天満宮の本殿もこの形式をもったものである。

 拝殿は、入母屋造り二二坪(約七三平方メートル)で、江戸末期の造営とみられる。

 谷保天満宮の境内は、梅林(香雪園)を含めて約六千三百坪(約二〇、七九〇平方メートル)である。

 甲州街道(国道20号線)から表参道を降りると本殿、拝殿等がある。普通、神社は高台に鎮座しているものであるが、下へ降りる神社は珍しい。拝殿等が街道に背を向けているのは、かつて甲州街道が境内の南側を通っていたためである。
     平成元年三月 国立市教育委員会


 「谷保天満宮」の先はゆるやかな下り坂(天神坂)になり、下ったところが「清水の立場」だったところで、右手に茶屋跡の標識があるとのことだが見つからなかった。


【元上谷保村の常夜燈】 (左側) 12:15
 天神坂を下り、暫く進んだ「矢川駅入口」交差点手前の左側に常夜灯が建っていて、胴に『榛名大権現』と刻まれていた。
 奥に小さく見える総門は、名庭と云われる庭のある南養寺


【元上谷保村の常夜灯】 

 
常夜燈は江戸時代に、村を火難から守るために、火伏せの神を祀った秋葉神社の常夜燈を各村の油屋付近に建てたもので、「秋葉燈」とも呼ばれています。

 この常夜燈には、「秋葉大権現」「寛政六甲寅年四月上谷保村」「天満宮」「榛名大権現」などの文字が刻まれていることから、西暦1794年に建てられたことがうかがい知れます。当時谷保は、上谷保村、下谷保村に分かれており、この常夜燈は、上谷保村の屋油(屋号、今の甲州街道北側の原田幸治氏宅)の東隣に置かれていたものです。その後、道路改修のときに現在地に移されました。

 大正時代までは、村人が順番に毎日夕方灯を点していたと伝えられています。

     平成二年三月 国立市教育委員会


【南養寺】 (左側) 
 常夜灯から参道を進み南洋寺の総門へ進む。

 
【総門】 
 安永九(1780)年大工佐伯源太の手による。形式は、薬医門である。屋根は切妻造り、銅葺きであり。
 前南禅僧録司大川崇達の書による「谷保山」の扁額を掲げている。
 当門の建立は、江戸期における南洋寺伽藍整備の一環を示すものである。


 境内に入って直ぐ左手の建物が本堂。その向かいに大悲殿が建っている。


【本堂】
 
 南養寺は谷保山と号し、禅宗、臨済宗建長寺派の寺である。開山は建長寺三十七世物外可什(もつがいかじゅう)禅師(勅諡真照大定禅師・貞治二年・1363年没)。開基は、立川入道宗威と伝えられる。
 本尊は釈迦如来座像である。
 現在の本堂は、文化元(1804)年に大工佐伯源右衛門等によって建築された。
 昭和五十六年の修理時、茅葺から銅葺に変えられたが、禅宗の客殿型本堂として、当市における貴重な建物である。


 大悲殿の左側には鐘楼が建っている。


【鐘楼】

 天明八(1788)年建立された。四本柱形式で屋根は入母屋造り、銅葺きである。

 大正十二(1923)年大震災による被害の修復時、それまでの茅葺きがトタン葺きに変えられ、さらに昭和五十六(1981)年の修理の際、銅葺きに変えられた。

 梵鐘は、当市の鋳物師三家(関、森窪、矢澤氏)のうち関家の鋳造によるものである。


 庭園は境内に入ってすぐ左手にあり、外側からは全体が見えないが、草木が枯れているためか手入れがそれほど良くないためか、名園に見えなかった。
【庭園】

 本堂の北側にある1000平方メートル余の庭園で、生垣をもって背景を区切り、西側に築山を築き、植栽を主とした庭である。使われている石はすべて小ぶりである。

 禅宗の自然観の所産といわれる枯山水様式で、その景観をよく現在に残している。

 作庭年代は、天保七(1836)年から天保十(1839)年頃と推定される。

     昭和六十三年三月 国立市教育委員会


【五智如来】 (右側)  12:30

  「矢川駅入口」交差点を渡り、次の「矢川三丁目」交差点手前の右側に五智如来が祀られたお堂ある。

 
【五智如来】
  

五智如来の由来は、江戸時代に八王子在住の越後の人数人が、この地(四軒在家)に移住してきて、郷土で信仰していた五智如来を祀ったのが始まりと伝えられています。

 五智如来は、仏教でいう五種類の智(大円鏡智、妙観察智、平等性智、成所作智、法界体性智)を備えた仏様のことで、大日如来の別名とも言われています。

 昭和時代の前期までは、夕方になると五智如来の前に灯明や線香、供花が絶えませんでした。そして現在でも十月十一日には「おこもり」といって、地元の人たちが集まって念仏をあげ、五智如来を供養しています。

     平成二年三月 国立市教育委員会


【元青柳村の常夜灯】 (左側) 12:40
 「青柳福祉センター前」信号の左角に常夜灯が建っており、その裏側には馬頭観音の石碑がある。


【元青柳村の常夜灯】
 
 常夜燈は、江戸時代に村を火難から守るために、火伏せの神を祀った秋葉神社の常夜燈を各村の油屋付近に建てたもので、「秋葉燈」とも呼ばれています。

 この常夜燈には、東側に「榛名大権現」、北側に「正一位稲荷大明神」、西側に「秋葉大権現」、南側に、「寛政十一年九月 施主村中」などの文字が刻まれていることから、西暦1799年に青柳村の人々が建てたことがうかがい知れます。

 古老が語るところによると、昭和初期ごろまでは村の人たちが毎晩当番で、ローソクを1本ずつともす習慣があったということです。

     平成2年3月 国立市教育委員会


<昼食> 12:55〜14:00

 「保谷天満宮」を過ぎた辺りから食事ができるところを探したがなかなか見つからなかった。歩いていて良くあることだが、食べたいときに食事処が見つからないというマーフィーの法則がまた成立したようだ。国道沿いのレストランは相乗効果をねらってか一箇所に何軒も連なっていることが多いが、もう少し分散してもらいたいものだ。

 途中ソバ屋が一つあったが、店頭の見本がホコリだらけで食欲が無くなってしまうほど黒ずんでいたのでパスした。

 五叉路になっている「日野橋」交差点角の「チャイニーズガーデン」で やっと昼食がとれた。食べ放題の飲茶バイキング(1,029円)を注文して満腹になるまで食べたので、思いがけず時間が掛かってしまった。


【旧甲州街道・道標跡】 (右側)  

 「日野橋」交差点で、真っ直ぐ延びている奥多摩街道(県道29号線)が旧甲州街道になる。国道20号線は左にカーブしている。

 交差点を過ぎるとすぐ錦町五丁目で、『旧甲州街道」の道標に従って左折する。
 少し進んだ右側の「立川市柴崎体育館」前に旧甲州街道と道標跡の説明板のみ立っている。
【旧甲州街道】 
 この体育館の脇を通っているのが昔の甲州街道です。江戸時代に幕府が主要な街道として整備した五街道の一つで、江戸と甲州を結び、甲州道中とも呼ばれました。

 街道はここで多摩川を渡り、日野の宿場へ続きます。当時は多摩川に橋がなかったので、旅人たちは舟や人力で川を渡っていました。この渡し場は「日野の渡し」とも呼ばれ、現在下水処理場脇に記念碑があります。

 また、体育館北側の道は、拝島方面へ通じる道で、分岐点には昭和三十年代まで道標がありました。現在、この道標は富士見町の歴史民族資料館に移設されています。

     平成9年3月 立川市教育委員会


【日野の渡し碑】 【馬頭観音】 14:15

 体育館を過ぎ、県道29号線(新奥多摩街道)を横断して突き当たりに馬頭観音が建っている。
  

 突き当り左側には日野の渡し場の石標が建っている。
  
 

 同じ所に日野の渡し碑も建っている。


【日野の渡し碑】  

 日野の渡しの出来たのはいつの頃だが誰も知らない 江戸時代中期貞享年間 この地に渡しが移されたことは確かであろう

 かつて信濃甲斐相模への人々は この渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い 江戸に向かう人々は江戸に着いたと思ったという


【地蔵堂馬頭観世音(東の地蔵堂)】 (左側) 
 実際の船渡しは、この碑から真っ直ぐ川に出るのでは無く、工場内を右に斜めに突っ切って現在の「立日(たっぴ)橋」の少し手前で船に乗った様だ。
 工場内は通れないので碑のある所を右折し、直ぐ左折して多摩川に土手に出て右手の上に「多摩モノレール」の高架軌道が架かっている立日橋を渡る。
  

 対岸の日野側にも「日野渡場跡」があるらしいが、碑が建っている水辺までは遠いと思い込み行かなかった。
 *後日調べたら、立日橋を渡りきった土手道を下ると直ぐ近くに説明板が立っている様だ。

 橋を渡った先のY字路を右へ進む(モノレールは左に分かれて行く)。
 突き当りの「新奥多摩街道入口」信号
の手前左側に墓地があり、その右端に「東の地蔵堂」が建っている。
 突き当りの信号を右折する。ここが日野宿の東の入口である。


【日野宿】 日本橋から九里二十六町十間(38.2Km)、下諏訪へ四十三里二十七町ニ間(171.8Km)

 天保14年(1843)で人口1556名、総家数 423軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋20軒。

 日野宿は決して大きな宿場ではないが、多摩川の渡し場を管理するなど、甲州道中の重要拠点であった。そのため幕府の支配はゆるやかで、二人の名主と、配下の組頭たちによる農民自治の伝統が長く続いた。

 日野は新撰組のふるさとで有名である。市内には、それぞれ離れているが「新撰組ふるさと歴史観」「土方歳三資料館」「井上源三郎資料館」「佐藤彦五郎新撰組資料館」「高幡不動尊(土方歳三の菩提寺)」などがある。


【日野宿本陣】 (左側) 14:45〜15:25

 「新奥多摩街道入口」信号を右折して、「川崎街道入口」信号を渡るとすぐ左側に日野宿本陣が見えてくる。

 東京都で五街道の本陣が現存しているのは、ここ日野宿本陣のみである。

開館時間 : 9:30〜17:00(最終入館16:30)

休館日   : 月曜日(休日の場合は翌日)

入館料   : 大人200円(ボランティアによる説明あり)


 本陣門(冠木門)より入場。
 この本陣門は大正15年に焼失し再建されたもの。また、この門に向って左側に天然理心流佐藤道場があったが、これも大正の火事で焼け、現在は駐車場になっている。


 甲州道中に現存する本陣建物は日野宿本陣を含めて、小原宿本陣(神奈川県相模湖町)と下花咲宿本陣(山梨県大月市)の三箇所です。とりわけ、日野宿には大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っており、建物の規模や内容においてはるかにそれらを凌駕する偉容を誇っていました。時代の推移を経て、今ではこの本陣建物だけが残されています。

 日野宿本陣には、佐藤彦五郎が佐藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。ここでは、後の新鮮組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだのです。

 長屋門は大正十五年の大火で類焼し、現在はありません。

 また明治二十六年に五十四軒を焼いた日野大火に因って有山家(佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先)が焼失したため、「上段の間」と続きの一間は有山家に移されています。(有山家は非公開です)。


 門を入ると直ぐ本陣建物があり、内部を見学出来る。
 ボランティアの説明によると、玄関先の式台では病気の沖田総司が元気なところを見せるために四股(しこ)を踏んだり、玄関の間では土方歳三が昼寝をしたとのことである。


【日野宿本陣】 日野市指定有形文化財(建造物) 
 日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を務めていた下佐藤家の住宅として建てられたものである。下佐藤家は政保年間(1644〜48)頃に名主に取り立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に交代で名主を務めてきたといわれる。また正徳六年(1716)に上左藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永二年(1849)正月の火事で焼失した後再建されたもので、文久三年(1863)四月には、上棟し、元治元年(1864)末に完成したものである。

 日野宿本陣は瓦葺きの建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に残る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。
     日野市教育委員会

 完成年   : 文久三年(1863年)

 敷地面積 : 約七百坪          床面積   : 約百坪(主屋のみ)

 最高高さ  : 約八・五米         大黒柱   : ケヤキ一尺五寸角

 現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が十年に及ぶ歳月を費やして準備をすすめ文久三年四月に上棟し、翌元治元年十二月から住み始めたものです。


【問屋場・高札場跡】 (右側) 

 「日野本陣」の斜め向かいの「日野図書館」の前に石碑が建っていて『甲州街道日野宿 問屋場・高札場 跡』と刻まれている。
  


【坂下地蔵尊(西の地蔵堂)】 (右側) 15:30

 「日野市役所入口」信号を過ぎ、「八坂神社」の所で右斜めの細い道があって、こちらが旧甲州街道との説もあるので、私達はそちらに進んでみた。すぐ突き当たり左折する僅かな道である。
 「八坂神社」前を真っ直ぐ進んだ場合、直ぐ先の「日野駅前東」交差点を左折する。

 次の「日野駅東」交差点を渡ると左側に「宝泉禅寺」があり、そのまま進むと線路に接する所に日野宿の西の入口である坂下地蔵がある。東西の地蔵堂間が日野宿内になる。


【銅造 地蔵菩薩座像(坂下地蔵)】
 市指定有形文化財(彫刻) 
 正徳3年(1713)に、江戸小舟町の井田八左衛門が釈宗威信士菩提のため造ったものである。日野をはじめ、八王子・青梅・立川・大神・福生・由木にわたり、232人の合力を得て奉造したと蓮座に彫りつけてある。作者は、大昌寺の釣鐘・灯籠、谷戸の念仏鉦等を鋳造した江戸神田鍛治町の田川民部藤原見歳である。

 永く甲州道中日野宿西の出入り口に鎮座して、ここを通行する旅人を見守り、彼らからは坂下地蔵サマと親しみ敬われた。近来は、地元自治会の婦人達によって仏縁の日、念仏供養が行われる。

     昭和55年2月1日、日野市教育委員会 


 現在、旧甲州街道はここでJR線によって寸断されているので、「日野駅東」交差点に戻って左折し、日野駅ガード下をくぐって反対側に出る。
 日野駅より帰宅。



 3回目の旅終了(15:40) 坂下地蔵(日野駅)。 日本橋から十里 三丁(39.6Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、9.2Km(大国魂神社鳥居〜坂下地蔵) 

          寄り道を含めた実歩行距離は、12.0Km (府中本町〜日野駅)

          5時間10分 18,400歩(大国魂神社本殿〜日野駅)

 

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