平塚宿・大磯宿(前半) (茅ヶ崎駅 → 大磯駅) <旧東海道9回目>

2002年9月22日(日)曇

 二人旅。(JR「茅ヶ崎駅」〜JR「大磯駅」)

2015年5月2日(土) 快晴
 「茅ヶ崎駅」(9:00)から「大磯駅」(15:25)まで2002年と同じ行程を一人で歩く。


  (注:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)

「藤沢宿」 ← 「目次」 → 「大磯宿(後半)」


 旧東海道9回目も、2002年と同じ行程を歩いたので、2015年5月現在に全文改訂した。途中経過時間も新たに記載した。

 2002年の時は南湖の左富士が見られなかったので、2015年は暑さと紫外線を覚悟しても快晴の日を選んで歩いた。
 暑い中の国道歩きには参ったが、おかげで綺麗な左富士を見ることが出来た。


【円蔵寺】 (左側) 9:10〜9:17
 前回終えた「茅ヶ崎駅前交差点」を9:05スタートして、交差点より国道1号線を350m程行った茅ヶ崎警察署の隣円蔵寺がある。街道に面した門は裏門で、正門(山門)は南側の道にある。

 街道うしろの山門を入って正面に本堂、その右手前に日蓮上人像、山門を入った右後方に乃木希典書の護国忠魂碑と乃木将軍像、忠魂碑の右側に水師営のなつめの木、その右に水師營の会見碑、忠魂碑の左側に二〇三高地血染めの岩片、その左に元招魂社鳥居片 山門の左手に当山旧本堂礎石等がある。
 日蓮上人像の前には『同行二人 四国八十八ヶ所 霊場順拝記念』と刻まれた標柱が立っていた
(左上の写真)
【水師營の会見】 
 
旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営
 庭に一本なつめの木 弾丸あともいちじるしく くずれ残れる民屋に いまぞ会見る二将軍
 乃木大将はおごそかに 御恵深き大君の 大詔伝うれば 彼かしこみて謝しまつる
 昨日敵は今日の友 語る言葉もうちとけて 我はたゝへつ彼の防備 彼はたゝへつ我が武勇
 形正して言い出てぬ この方面の戦闘に ニ子を失い給いつる 閣下の心如何にぞと
 二人の我子をそれぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目と 大将答へ力あり
 両将盡餉共にして 尚も盡せぬ物語 我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし
 好意謝するに余りあり 戦の掟に従いて 他日我手に受領せば 永くいたわり養わん
 さらばと握手ねんごろに 別れて行くや右左 つゝ音絶へし砲台に ひらめき立てり日の御旗
     平成十九年十二月建立 
【ニ〇三高地 血染めの岩片】 
 

【第六天神社】 (右側) 9:26〜9:30
 「十間坂二丁目信号」を越えて、「十間坂歩道橋」手前右側に第六天神社がある。
 鳥居をくぐり、正面の一段高い所に社殿があり、その左側には八坂神社の祠がある。

【第六天神・由緒】  

御祭神
   淤母陀琉神、妹阿夜訶志古泥神
 御祭神は天地世界の創造の神、即ち天神七代の神々の内、第六番目の神で、国土生成の大神様であります。神仏混淆の時代には第六天社と呼ばれ、身体壮健、不老長寿、あらゆる喜びを与えてくれる法力を持つ神として崇められていました。近年は生産製造建設に関する守護神として尊崇されております。

創立
 年月日は不詳なれども、新田義貞、鎌倉攻め(元弘年)の際、その兵火の祝融にあったと伝承されております。
社宝
 古刀 一振、山岡鉄舟寄進掛軸一幅
     第六天神社


 社殿の右側には石仏群がある。

【石仏群】
 各地から集められたと思われる石仏群は、右から地蔵像青面金剛像庚申塔六地蔵、三猿庚申塔二基、双体道祖神が並んでいた。
【青面金剛像】 
 
青面金剛は「伝尸(でんし*」という流行病を直す神

     右側面  弘化二乙巳八月建之**
 青面金剛像 六臂
     左側面  上町講中 世話人 浅右ヱ門

   南湖上町最乗寺福稲荷解散に伴い移設


 *  伝尸:肺結核の古称
 ** 弘化二年:1845年
【六地蔵】
 ペンキで面白い顔に描かれてしまっていた。
【三猿 庚申塔】 
 延寶五丁巳季十二月吉祥日**


 ** 延寶五年:1677年

【富士見橋】 (右奥) 
 次の「南湖入口交差点」を右折すると、千の川に架かる富士見橋があり、橋の上から真西(左手)を見ると富士山が綺麗に見えた。
  


間の宿】 
 街道に戻って少し進むと、国道は右カーブして緩い上り坂になる。
 上り始める左側に、かつては稲荷社が建っていて、その前に間の宿の説明板が立っていたが、2015年には稲荷社も説明板も無くなっていた。
 当時の説明文だけ載せておく。
【間の宿】
 東海道の宿場の間には馬を継ぎ立てる立場のある村があり、荷物を運ぶ人足や駕龍かきなどが休息する所でもあったようです。 眺望が利く場所、街道の分岐点、橋のない大きな川の傍などでは、旅人の休憩のために茶屋などが設けられるようになり、本陣や旅龍や商店なども次第に軒を連ねるようになって、旅人の宿泊にも応じる茶屋町へと発展していったようです。このような村を「間の宿」と呼び、この茅ケ崎の南湖もそのような所だったようです。


【南湖(なんご)の左富士】 (石碑:左側)
 緩い坂を上ると千の川に架かる「鳥井戸橋」に出る。
 ここは、東海道を京都に上るとき、左手に富士山が見える二ヶ所の内の一つ、南湖の左富士と呼ばれる場所である。

 2002年の時は曇っていて見ることが出来なかっが、先ほど富士見橋で見えたように、ここからも真西に富士山が良く見えた。ただし、「鳥井戸橋」の左隣に架かる「石原橋」からの方がさえぎるものがなくて見やすい。こちらの橋の方が欄干に富士山の透かし絵が嵌め込まれていて、旧道らしい雰囲気がある(左の写真)


 南湖より吉原の左富士(旧東海道15回目・2002年11月3日)を先に見ているので、13年後にやっと二ヶ所の左富士を見ることが出来、感激もひとしおだった。
 「鳥井戸橋」を渡り始めた左側の欄干に『関東の富士見100景』のプレートが取付られていた。

【関東の富士見100景】
 富士山の見えるまちづくり
 地点名 茅ヶ崎からの富士
     平成16年11月 国土交通省関東地方整備局 寄贈(社)関東建設弘済会


「鳥井戸橋」を渡った左側に南湖の左富士之碑由来が建っている。由来には広重の絵が描かれていた。

【南湖の左富士の由来】 
 
浮世絵師安藤広重は天保三年(1832年)に東海道を旅し、続々と東海道五十三次の風景版画を発表した。その中の一枚に、南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並みの見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。

【鶴嶺八幡宮参道・弁慶塚】 (右側) 9:53
 南湖の左富士之碑の向かいに、鶴嶺神社の赤い大きな鳥居が見える。ここから松並木の長い参道が真直ぐ延び、神社は約900m奥にあるので行ってないが、鳥居をくぐったすぐ先の左側、「トヨタカローラ店」前に弁慶塚と刻まれた石碑が建っている。
 右手の民家の庭先に塚と由来があるとのことだが見つけられなかった。
  


【下町屋 神明神社】 (左側) 10:00
 街道に戻って、「下町屋交差点」を過ぎてすぐ、街道が左カーブになっている所に神明神社がある。
 鳥居右横には清明井戸の石碑が建っていた。

【神明大神・由緒沿革】 
 往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大庭、渭堤、河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。
 当地の古老が伝えるところによると神明大神の境内には平安時代の陰陽師、阿部清明(921〜1005)が東国へ下行のおり、喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。
 亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のあり出土したものである。
 さらに、同時代鎌倉権五郎景正の曾孫、大庭平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。
 景能の死後息子の景廉は、和田の乱建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後新規の地頭に山城四郎兵衛尉(二階堂元行)が所領す。
 康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃大神宮を勧請したものと考えられる。
 大神宮は寛政年間(1460〜1466)創立と伝えられるが詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文。徳川家康江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。
 亦、加々爪氏知行目録によれば、古波家の知行なり、土佐守直清の時、天和元年(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。
 東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を抱いたと伝えられている。
 「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。
 「高座郡神社界誌」には、天照大神、大山咋命、由緒不詳、明治元年(1868)村社に列す。
 境内坪数 一一七坪 氏子四七戸
 神明大神 山王大神 明治四十五年 合併合祀。
     氏子中
【清明井戸】 
 当地の古老が伝えるところによると神明大神の境内には平安時代の陰陽師、阿部清明(921〜1005)が東国へ下行のおり、喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。
     平成二十三年十月吉日 建之

【でかまん菓子舗】 (左側) 10:06
 南北に走っている「新湘南バイパス」の高架下にある橋の手前左側に、東海道一大きい饅頭屋「でかまん菓子舗」(10時〜19時・月曜定休)がある。
 この店には、手の平から顔くらいの大きさまでの屋号と同じ名前の大きな饅頭を1個150円(19cm×13cm)〜3500円(32cm×22cm)で6種類売っている。
  


【旧相模川橋脚】 (左側)
 高速道路の下を流れているのが小出川で、架かる橋が「下町屋橋」。
 
この川を渡る手前左側に、国指定史跡旧相模川橋脚の標柱が建っていて、ここを左に入った所に、杭が立っている池(プール)が見える。
 池の中に保存されている杭が関東大震災で現れてという旧相模川橋脚である。
 また、池の手前の草地には耕地整理記念碑が建っている。

【耕地整理記念碑】  

 小出川と千ノ川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑です。事業は湘東耕地整理組合が組織され、大正十四年(1925)から開始され昭和十五年(1940)に竣工したと記されています。現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものです。


 2002年に訪れた時は保存方法を検討中で、橋杭部が池の中にブルーシート等で包まれていた。
 実物の一部しか見ることが出来ずに全体は写真で見るしかなかったが、一部でも今となっては貴重な写真となった
(下記2枚が2002年に撮影したもの)



【旧相模川橋脚】 文部省指定史跡(大正15年10月20日指定) (2002年当時の説明板より)
 小出川に沿うこの一帯は、永らく水田であったが、大正十二年(1923)九月および十三年一月の大地震によって七本の橋脚が地上に出てきた。その後、地下に埋もれたもの三本が発見された。
 相模川は、鎌倉時代にはこの辺を流れていたが、川すじの変化によって西方へ移ったもので、橋脚は土中に埋まったまま七百年をへて再び地上に露出したものである。

 橋の幅はすくなくとも七メートル(四間)くらいと推定され、全国でも数少ない大橋であったと考えられている。
     昭和四十六年三月十三日 神奈川県教育委員会


 今回(2015年)は綺麗に整備されていたが、実物は水の中で上部はレプリカなので、またしても本物の全体は見られなかった。


2015年

出現時の写真
【旧相模川橋脚】 国指定史跡(大正15年10月20史跡指定・平成19年2月6日追加指定) (2015年の説明板より)
1.指定と保存整備
■指定内容 
(略)
■指定理由
(1)指定基準 (略)
(2)説明
 小出川ニ沿ヒタル水田中ニ存ス大正十二年九月及翌十三年一月ノ両度ノ地震ニ依リ地上ニ露出セルモノニシテソノ數七本アリソノ後地下ニ隠ルヽモノ尚三本ヲ發見セリ蓋シ鎌倉時代ニ於ケル相模川橋梁ノ脚柱ナラン
  追加指定説明
 関東大震災(大正12年)の液状化現象によって水田から出現した中世期前半の橋脚跡。発掘調査によって、建設当時の護岸を目的としたと考えられる土留め遺構の一部や、指定当時(大正15年)の保存工事跡が指定地外で確認されたため、これらの部分を追加指定する。
■その他文化遺産としての特色
 ・地震により、遺跡が判明したことや関東大震災の様子を物語る記念物として珍しい事例です。
 ・出現後の早い段階から地元が文化財保護に取り組んできた歩みを残す貴重な遺跡です。
■橋脚の保存と整備の方法
 出現より約80年が経過した橋脚の一部に傷みが観察されたことから、発掘調査や関連調査の結果を基に、以下の方法で2001(平成13)年度から2007(平成19)年度まで保存整備を行いました。
1.橋脚(橋杭)の保存については、個別にコンクリート製の保護ピットを設置し、その中に橋脚の湿潤状態を保つため充填材として荒木田土を入れて密閉しています。
2.地震によって出現した状態を正確に再現するために精巧なレプリカ(模型)を製作し、平面位置、角度、長さなどを実物同様に設置(実物はレプリカの真下に保存)しました。
3.レプリカを取り囲む保存池の形は、発掘調査の結果を基に大正期に整備された初期保存池の形を復元しました。
■源頼朝が渡った橋の跡
 当遺跡は、沼田頼輔により建久(1198)年源頼朝の家臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋と考証されています。鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、頼朝がこの橋の渡り初めをしたこと、帰途落馬し、その後まもなく亡くなったことなどが記録されています。旧相模川橋脚はこうした歴史をもった遺跡であると考えられています。
2.発掘調査の成果
■橋の大きさと川の流れ
 橋脚の本数は、調査によって10本であることが確認されました。これらは南北方向4列、東西方向3列に規則的に配置されています。橋全体の規模を推定すると、橋幅約9m、長さ40m以上の橋がおよそ南北方向に架けられていたことが推測でき、流路は東西方向であったと思われます。
■橋脚(橋杭)の詳細
 橋脚は断面が丸く径は、最小で48cm、最大で69cm、長さは確認できたもので3m65cmでした。この中には、上部が、ほぞ穴状に加工されているものもあり、この部分に梁などが組まれていたことが窺がえます。さらに、株になるほど細くなり先端は面取りされて尖っています。なお、樹種はすべて檜と同定されています。
(以降略)

【馬入橋】 10:28〜10:38
 街道に戻って小出川に架かる「下町屋橋」を渡り、「産業道路」を横断する。
 やがて「新田入口信号」からは平塚市に入り、相模川に架かる「馬入橋」を渡る

 「馬入橋」からは、右手に大山と丹沢山塊が、正面右寄りには富士山が大きく見えるようになってきた。すぐ左側にはJR東海道線の鉄橋、奥に国道134号線の「トラスコ湘南大橋」、更にその先に相模湾が広がる。
 橋の真中に、日本橋から62Kmのキロポストが立っていた。
    


【陸軍架橋記念碑】 (左側) 10:40
 「馬入橋」を渡り終えた所で左下の道を下がって行く。
 下がり終わって振り返えると陸軍架橋記念碑が説明板と共に建っている。

【陸軍架橋記念碑】 
 大正十二年(1923年)九月一日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶しました。地元の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されましたが、数日後の豪雨で流失し、しばしば中断してしまいました。
 九月十七日、陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と第十六師団(京都)所属工兵大隊が急きょ派遣され、架橋工事が開始されました。
 橋の全長四五〇メートルのうち、馬入側の三〇〇メートルを第十六師団、茅ヶ崎側を第十五師団が担当して、同年十月三日に完成しました。この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事績をたたえるものです。

 碑文
 陸軍架橋記念碑
 大正十二年九月大震 ノ際京都工兵第十六
 大隊ハ馬入橋架設ノ 為メ同月十七日起工
 汗血ノ労ヲ費ヤスコト 一旬餘十月三日竣工
 橋ノ長サ四百五十米 突中三百米突
 大正十二年十月 工兵第十六大隊長

     平成十八年(2006年)三月 平塚市

【馬入一里塚跡】 (左側) 10:47
 少し進んだ「馬入交差点」で国道1号線は右の方へそれて行き、旧東海道は真直ぐ進む。
 旧道に入った直ぐ左側の歩道上に東海道馬入一里塚跡の石碑が説明板と共に建っている。
 石碑の真中に『東海道馬入一里塚跡』、右側に『江戸十五里』、左側に『京百十一里・大阪百二十二里』と刻まれていた。

【東海道 馬入の一里塚】 
 
慶長九年(1604年)、徳川幕府は東海道など五街道を整備し、江戸日本橋からの距離が分かるように一里塚を整備しました。一里塚は街道に一里(約四キロメートル)ごとに造られ、築造時の資料によれば、五間(約九メートル)四方の塚でした。塚の上には、目印として主に榎が植えられました。旅人にとって一里塚は、旅の進み具合を知らせる目印であるとともに、木陰は休憩場所にもなりました。
 馬入の一里塚は、この付近にありました。江戸日本橋から数えて十五番目の一里塚で、旧東海道をはさんで南北に一つずつの塚がありました。 文化三年(1806年)に出版された「東海道分間延絵図」には、 北側の一里塚の前に井戸が、馬入の渡しに向かう東側に川会所や川高札が描かれています。
     平成十六年(2004年)三月 平塚市

【馬入の大銀杏と神明さん】 (右側) 10:51
 次の交差点を渡った右側に馬入の大銀杏と神明さんと題する説明板が立っていた。

【馬入と大銀杏と神明さん】
 馬入村の鎮守であった神明社は、以前東海道に面したこの地にありました。 この境内から道路に面して、幹周り五抱え(直径3m)もの大銀杏がありました。江戸時代からこの地域を見守ってきたこの巨樹は、沖から須賀の浜に帰る船の目印ともなっていました。
 昭和二十年七月十六日の平塚空襲で、黒焦げになりながらも、幹周りから枝を伸ばし生き残っていましたが、戦災復興に伴う国道号線の拡幅工事のために、切り倒されてしまいました。
 この写真右手の狛犬と御影石の鳥居は当時の神明社のもので、現在は中堂の緑道外に移され、神明神社となっています。大樹の下には消防小屋があり、今その跡に消防団第五分団の庁舎が建っています。
     平成十七年(2005年)三月 平塚市

<昼食> 11:08〜11:30
 暫く歩いた「平塚駅前交差点」を渡った先で二本程平塚駅よりの道に移動し、「ケンタッキーフライドチキン」で昼食とした。


【お菊塚】 (左奥) 11:34
 「平塚駅前交差点」を渡って三本目の道を左折、二本目を右折、一本目を左折すると「紅谷町公園」があり、その中に番町皿屋敷のお菊塚がある。

【番町皿屋敷 お菊塚】 
 
伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって菊女を切り殺したという。一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見初めたが、菊女がいうことをきかないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。
 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。また他の話による菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、 二十四才のとき江戸で殺されたといわれている。屍骸は長持ち詰めとなって馬入の渡し場で父親に引き渡された。この時父親真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。
  昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
     平塚市教育委員会

【平塚江戸見附跡】 (右側) 11:42
 街道に戻り、「市民プラザ前交差点」を渡った次の信号右角(市民センター手前)に平塚江戸見附跡があり、石垣と竹矢来が復元されている。
 また、ここには『平塚宿(旧東海道)史跡絵地図』も立っている。

【平塚宿の江戸見附】 
 
平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
 
平塚宿の見附は二箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約一・五キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町の五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える町並みが続きました。
 一般に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が組まれていました。
 
平塚宿江戸見附は、長さ約三・六メートル、幅約一・五メートル、高さ約一・六メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見つけは東西に少しずれた形で設置されていました。
     平成十三年(2001年)十月 平塚市


    


【平塚宿】 江戸から15里30丁(62.2Km) 京へ109里半8丁 人口約2150人 

安藤広重の東海道五拾三次之内・平塚『縄手道』

 浮世絵に描かれている棒示杭は、京方見附を出たところの路傍に関札と共に立ててあったもの、正面の丸い山が高麗山、右は大山、真中の白い山が富士山、高麗山ふもとの橋が花水橋。

 飛脚と駕籠をかついでいる駕籠かきが描かれているが、駕籠は竹製で軽いため、空車時は一人でもかつげるものである。
 女性や足の弱い者は、江戸からの第二夜を平塚泊まりとした。

現在の花水橋と高麗山

(下記【花水橋】の項参照)



【平塚の里歌碑】 (右側) 11:45
 平塚江戸見附跡の西隣にある「市民センター」入口横を通り、中庭に出ると平塚の里碑が建っている。石と隣の井戸は江戸城のものとのこと。

【平塚の里歌碑】 (説明板)
 文明十二年(1480)六月、「平安紀行」の作者は、東海道を京都に上る道すがら、平塚の地で、この地に隠遁していて没した三浦遠江入道定可を思い起し、里人にその遺跡、墓所などを尋ねたところ、誰ひとり知る者がなかったので、「哀れてふたが世のしるし朽ちはててかたみもみえぬ平塚の里」と詠じた。
 昭和三十二年、市制施行二十五周年にあたり、江戸城の石垣と井戸枠を東京都からもらい受け、見附台体育館入口の東側に据えたが、昭和三十七年、平塚市民センターが建設された際、現在地に移設された。
     平塚市観光協会
【碑文】 
 平塚にて
   あはれてふ たが世のしるし 朽ちはてて 
   かたみもみえぬ 平塚の里
  この ひらつかのかたへにて そのかみ 三浦遠に入道定可 世を遁れてみまかりし と いひつたふばかりにて しれるもの なかりけり 

 太田道灌の作と言われる平安紀行の一節である。戦乱うちつづいた當時の平塚の里のあったさまがしのばれるとともに 今日の平塚市の繁栄を目の前にして まことに感慨の深いものがある。
  昭和三十二年四月 市制施工二十五周年記念として建つ、石と井戸枠とは江戸城のもの このたび 特に東京より贈らる。
     石川真雄

【平塚小学校跡のくすのき】 (右側) 11:54
 「市民センター」西隣の通りを渡った右奥に平塚小学校跡のくすのきが聳えている。
 この”くすのき”は平塚市指定保全樹(昭和51年7月1日指定)である。
 また”くすのき”の傍らに、水準点No.1(標高五米五八八)の標柱が立っていた。

【平塚小学校蹟の樟樹】
 平塚小学校では明治二十八年三月、校庭の一隅へ樟の種子を蒔いたところ、六月十五日大地をわって双葉が萌えいでいた。種子は明治二十七・八年戦没講和記念として神奈川県知事中野健明が県下各学校へ配布したもののひとつである。この地は明治十三年十一月崇善館を移築して平塚小学校と稱してから昭和二十年七月の戦争罹災まで日本一を誇った平塚小学校(現在崇善小学校)の旧地でここに学んだ児童たちはひとしくこの樟樹の傍らで遊びたわむれた記憶をもっている。樹令八十余年記念すべき名木と言うべきだろう。
     
平塚市観光協会

【平塚市立崇善公民館】 (右奥) 11:55
 くすのきの後に見える古い建物は昭和25年(1950)建築の旧平塚市議事堂で現在は崇善公民館になっている。
 前述の通り、戦前は日本一のマンモス校と言われた平塚小学校があった所である。

  


【松風庵観音堂之故地】 (右奥) 12:05
 崇善公民館の北隣に「見附台公園」がある。その公園前を左折し十字路を一本越えた次の広い道の手前右側の「小澤畳店」入口に松風庵観音堂之故地と刻まれた石柱が建っている。他に上部に『相模拾四番』 左側に『遷座之事 昭和五十四年○○己未 薬師院内』の文字も刻まれている
 道中行き倒れになった人を埋葬した場所が松風庵観音堂で、戦後、「薬師院」に観音堂を遷座したとのこと。
  


【平塚宿脇本陣跡】 (右側) 12:10
 街道に戻って、大通りの交差点を渡った直ぐ右側「茅沼酒店」前の歩行上に平塚宿脇本陣跡の石柱と説明板が立っている。



【平塚宿脇本陣】
 江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。
 平塚宿の脇本陣は、享和年間(1801〜03)頃の宿場の様子を画いた「東海道文間延絵図」には、西組問屋場より西に画かれていますが、天保年間(1830〜44)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
     平成十三年(2001)三月 平塚市

【平塚宿高札場跡】 (右側) 12:14
 脇本陣跡のすぐ先「平塚本宿郵便局」を過ぎた「山口屋茶舗」前の歩行上に平塚宿高札場跡の石柱と説明板が立っている。

【平塚宿高札場】
 高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で、各宿場や村々に設けられていました。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで、高札が掲げられる部分には屋根がついていたといいます。
 平塚宿の高札場は、二十四軒町のこの地にあり、規模は長さ二間半(約五メートル)、横一間(約一・八メートル)、高さ一丈一尺(約三メートル)でした。
 平塚宿には、平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃を定めたものの高札なども掲げられていました。
     平成十三年(2001)三月 平塚市

【平塚宿東組問屋場跡】 (左側) 12:16
 高札場跡の向かいにある「魚喜代」前の歩行上に平塚宿東組問屋場跡の石柱と説明板が立っている。

【平塚宿東組問屋場】
 平塚宿は、東海道五十三次の一つの宿場として慶長六年(1601)に成立しました。
 宿場は、旅人が休憩するための茶屋や宿泊するための旅籠といった施設が整っているばかりではなく、諸荷物の継立(人夫や馬を取替える)といったことも重要な役割でした。
 こうした人馬の継立や御用旅館の手配をはじめとする宿駅の業務を取り扱う場所を問屋場といいました。
 平塚宿では、問屋場が二か所あり、西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。
     平成十三年(2001)三月 平塚市

【平塚宿本陣旧蹟】 (右側) 12:19
 再び右側に渡って、直ぐ先の「神奈川銀行平塚支店」前に平塚宿本陣旧蹟碑が建ち、歩道上に説明付標柱が立っている。



【平塚宿本陣旧蹟碑】
 海道宿駅の高級旅館で 徳川幕府の許可と補助を受けて設備を充実していたものを本陣といい これに次ぐものを脇本陣と呼んだ
 東海道平塚宿の本陣は 代々加藤七郎兵衛と称し 現在の平塚ニ一〇四番地神奈川相互銀行支店所在地に南面して建っていた 総槻造 間口約三十米 奥行約六十八米 東に寄って門と玄関があり 天皇や将軍・大名などの御座所は上段の間であったという
  記録によると 徳川十四代将軍家茂は文久三年二月 元治二年五月の二回ここに休憩している また明治元年十月と同二年三月の両度 明治天皇は東京行幸と遷都に際してここに小休された
 このたび 平塚支店改築にあたり 
 旧跡碑を建てて永く記念とする
      神奈川相互銀行取締役社長 半田剛撰
【平塚宿本陣旧跡】
 平塚宿は東海道五十三次の一つの宿場として慶長六年(1601)に成立しました。幕府公用人や諸大名が宿泊する宿を本陣といい、平塚宿の本陣は、東仲町北側のこの地にありました。
     平成十三年(2001)三月 平塚市

【平塚宿問屋場跡】 (右側) 12:25
 次の交差点を渡り、その先の道が二股になる右側の「平塚市消防団第一分団」の右角に平塚宿問屋場跡の石柱と説明板が立っている。
 石柱には『東海道 平塚宿西組問屋場の蹟』と刻まれ、建物のシャッターには安藤広重の浮世絵が描かれていた。

【平塚宿問屋場跡】
 慶長六年(1601)東海道の交通を円滑にするため伝馬の制度が布かれた。この伝馬の継立する所を問屋場といい、問屋場には、 問屋主人・名主・年寄・年寄見習・帳附・帳附見習・問屋代迎番・人足指・馬指などの宿役人等が一〇余人以上勤務していた。
 平塚宿では初め、ここに問屋場が置かれたが、寛永一二年(1635)参勤交代が行われるようになってから、東海道の交通量は激増した、伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出て、慶安四年(1651)その目的を達した。
 八幡新宿は平塚宿の加宿となり、新たに平塚宿に問屋場を新設した。これにより従来からの問屋場を「西組問屋場」といい、八幡新宿の経営する問屋場を「東組問屋場」といった。この両問屋場は十日目交替で執務したという。

【要法寺】 (右奥) 12:29
 平塚宿問屋場跡の横を右折すると突当りに要法寺がある。
 山門をくぐって境内に入ると本堂までの道両側に睡蓮の鉢が並び、左手に浄行菩薩が祀られている祠があり、右手には多数の石仏等が集められていた。

【日蓮大聖人御一泊御説法霊場 松雲山要法寺縁起】
当山は鎌倉時代、幕府の執権北条泰時の次男、北条泰知の屋敷でありました。
泰知は日蓮大聖人に帰依し、平塚左衛門尉泰知と呼ばれ、人々に尊敬され、この地において地頭をしていました。弘安五年九月八日未明、泰知は夢枕に「日蓮聖人が十六日平塚にご来臨される」という七面天女のお告げを受け、平塚の主だった人々百六十余名と共に日蓮聖人を出迎え、この地にご宿泊をいただきました。
その夜日蓮聖人が法華経神力品「四句要法」の一節を御説法したところ、邸内になった平真砂子の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に紫雲がたなびくという瑞相があらわれました。
それを見た一座の面々は、お題目を唱和し法華経の信者になったのでした。
わけても泰知は深く感動し、自らの館を献上して寺とし、日蓮大聖人より「紫雲の瑞相」にちなみ「松雲山」、一夜説法「四句要法」にちなみ「要法寺」との山号と寺号をいただき、当山は開山されました。時に弘安五年(1282)九月十六日。
日蓮大聖人御入滅二十数日前の事でした。
  開祖 日蓮大聖人
  二祖 九老僧 形善院日澄上人
  三世 開基 松雲院日慈上人(平塚左衛門泰知)
【浄行菩薩】
 浄行菩薩は法華経の教えを末法の人々に伝える役目をもった菩薩様です。
  この仏様の身体を洗い清めることにより、自分の身体の病いや痛みを取り除く事が出来ると言い伝えられています。
 御自身の身体の悪い所を洗ってください。
     当山第十世日慶上人代(寛延年代 約二百六十年前)建立

【平塚の碑・平塚の塚】 (右奥) 12:35〜12:42
 要法寺の左隣に「平塚の塚緑地」と刻まれた石柱が建っている公園があり、門をくぐった正面に平塚の碑が建っていて、その右側に平塚の塚がある。
 この公園で
暫し休憩。


平塚の塚緑地入口

平塚の碑

〔平塚の塚由来〕

 江戸時代の天保十一年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、「昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向う旅をした折、天安元年(857)二月この地で逝去した。棺はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。この事から平塚の歴史の古さが伝わります。

     平塚市


【鏡山お初の墓】 (右奥) 12:44
 平塚の碑の前を左に行き、裏の出口から公園を出ると、右斜め向かいに墓地がある。その墓地に入った所に鏡山お初の墓がある。

【鏡山お初の墓】 
 
「安室貞心信女、明和六年(1769)十月九日」と彫られている浮彫の観世音の墓石が加賀見山旧錦絵という歌舞伎で活躍する「鏡山お初」のモデル、本名「たつ」の墓であると伝えられている。
 おたつは、平塚宿の松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中(ちゅうろう)岡本みつ女の許に奉公にあがっていた、主人みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害したため、ただちに、沢野を訪ねて、主の自殺した小脇差しで仇を討ったという烈女で、後に賞せられて年寄りとなったと伝えられている。
 この墓の傍には、昭和十年に「義女松田多津顕影碑鏡山お初」の碑が建立された。
      平塚市観光協会

【平塚京方見付跡】 (左側) 12:52
 街道に戻って、平塚宿問屋場跡前の二股を左の広い道に進むと程なく「古花水橋信号」で国道1号線に合流する。その合流した左側の歩道上に平塚宿京方見附がある。
 大磯側から見て、石垣で囲われた塚の上に『従是東 東海道平塚宿』の石碑が置かれ、塚の傍らには『東海道五十三次 平塚宿京方見附之跡』と書かれた標柱が立っている。
 説明板は平塚側に掲げられている。


平塚側(後は高麗山)

大磯側
【平塚宿京方見附】
 
東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。
 宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等によりこの辺りにあったと思われます。
 初代広重によって描かれた東海道五十三次平塚宿の錦絵もこの付近からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま)の姿に往時の風情が偲ばれます。
 建設省等による東海道ルネッサンス事業の一環として、既設の碑石周辺を再整備しました。
     平成十三年(2001)三月 平塚市

【花水橋】 12:59〜13:04
 京方見附を過ぎると大磯町に入り、「花水川東交差点」で花水川に架かる「花水橋」を渡る。ここから右前方に高麗山が大きく見える。
 安藤広重が上述の【平塚宿】で載せた浮世絵を描いた場所である。
 橋を渡る手前左側に大磯八景碑『花水橋夕照』が建っている。
 また、右側には平成の一里塚がある。

【大磯八景の一 花水川夕照】
  高麗山に入るかと見えし夕日影 花水橋にはえて残れり   敬之

 
鎌倉時代に源頼朝が桜の花を見るために高麗山まで来たが、前夜の嵐で桜が散ってしまい花を見ることが出来なかった。このことから花見ず川と呼ぶようになったと云われる。
【平成の一里塚】
 江戸時代、旅人たちの道しるべとなった「一里塚」。街道に一里(三・九キロメートル)ごとに築かれた塚には、大木が植えられ、その木陰は、旅人たちの格好の休憩場所になっていました。そんな「一里塚」を現代に蘇らせようとつくられたのが「平成の一里塚」です。東海道の新しい道しるべとして、また、歩行者の休憩場所として、この地に整備されました。広重の絵にも描かれた、高麗山をバックにした東海道と花水川。「平成の一里塚」で、東海道の歴史・文化に思いをはせてみてください。

【善福寺】 (左側) 13:09
 花水橋を渡って「花水橋交差点」を過ぎた「高麗信号」手前左側に善福寺がある。
 境内に入って本堂左側の岩山に縄文時代の遺跡である横穴式古墳がある。7世紀後半から8世紀初め頃に造られたと推定される横穴が、現在8個残っている。
 善福寺は、親鸞聖人が国府津を訪れた時に教化を受けた平塚入道によって開基された寺。
 平塚入道とは、曽我十郎と虎御前の子で、父が仇討ちの本懐を遂げたあとに生まれた幼名・祐若
(すけわか)である。
 成長後、源実朝より平塚の庄を賜って河津三郎信之と名のったが、父祖いずれも天寿を全うせずに悲運の最期を遂げたことから世の無常を感じて出家し、平塚入道法求禅門と名のった。
    


 善福寺の正門を出て「高麗信号」の左手に茅葺き屋根の民家が旧街道の雰囲気を醸し出している。
 ここで、日本橋より66Kmポストが立っていた。

  


【高来(たかく)神社】 (右側) 13:17〜13:39
 次の「高来神社入口信号」を右に入った所が高来神社で、後の高麗山が御神体である。

 一の鳥居に「頭上注意」の看板。2002年の時にも思ったが、高い鳥居の貫(ぬき)にぶつかる人(車)がいるのだろうかと、つっこみたくなる。
 二の鳥居をくぐった所に立派な狛犬。じゃれついている子犬が可愛い。


 その先、数段の石段を登った左手に、明治神宮崇敬会大磯支部が植えた『天皇陛下御在位六十年 記念植樹』の木
(下の写真で左の木)が、その右隣に大磯八景碑『高麗寺晩鐘』(下の写真で右の石碑)が建っている。更にその右には二個の力石が置かれていた。

【大磯八景の一 高麗寺晩鐘】
  さらぬたに物思はるる夕間暮 きくぞ悲しき 山寺の鐘   敬之

 かつて高麗山の山頂に鐘楼があって、弘安十一年の銘をもつ大鐘が時を告げると、伊勢原や厚木方面まで聞こえたと云われている。 


 進んで、社殿前の石段手前の右手石段を登った所に忠魂碑が建ち、その右側に天然記念物のシイニッケイが聳えている。

【高来神社のシイニッケイ】 大磯町指定史跡名勝天然記念物(昭和48年7月20日指定)
 町の天然記念物に指定されている高来神社のシイ・ニッケイは、スダジイとヤブニッケイの二種が一体化した樹木です。幹の心材が腐朽し、頂上部が凹状になったスダジイの古木にヤブニッケイが根付き生長した結果、現在のような樹形になったと考えられています。樹齢は幹下部のスダジイが三〇〇年以上、幹上部のヤブニッケイが一五〇年前後と推定されています。
 全国各地で様々な合体木が見られますが、違和感無く一本化したものは珍しく、貴重なものといえます。
     平成二十二年三月 大磯町教育委員会


 社殿にお参りして、社殿の後ろに進むと高麗山への登山道がある。左右に分かれていて左が男坂、右が女坂となっていた。

【高来神社(高麗寺)略縁起】
古代 大磯の東に聳える高麗山は昔より神宿る山として住民から信仰されて来ました。
創始 神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(高麗権現)を遷し祀り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並び伊豆山神社に遷祀されております。
若光渡来 天智七年(668)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀二年(716)大磯を初め各地に渡来した高句麗人が若光を郡長」として武蔵国高麗郡に移され開発を命ぜられました。
高麗寺の創建 養老元年(717)僧行基がこの地を尋ね大磯の照ケ崎の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地佛と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山高麗寺を別当寺として長く信仰されて来ました。
中世 鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊が置かれましたが、室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。
江戸期 天正十九年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(1634)東照権現(徳川家康)が勧請されました。そして天海僧上より寺十三条掟書を授かりました。参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。
近代 明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治三十年に高来神社と改称されました。現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院(二の鳥居の右手にある)に安置されました。高来神社は古来より高麗・大磯の鎮守神として地域住民の平和と安全を御守護されています。


 社殿の右へ進むと説明板が立ち、更に進んで、細道に入ると高麗山霊水『御供水
(ごっくすい)が湧き出ている。

【高麗山の霊水】
 ここに湧き出づる高麗山の霊水は 御供水として 神さまに捧げるお水です
 水神様・龍神様に御供水をかけて差し上げますと ツキをいただけます
 ツキを呼び込み 願い事を成就させましょう

【虚空蔵堂】 (右側) 13:42
 街道に戻って少し進んだ右に建つ小さなお堂が虚空蔵堂で、傍らに立つ『此辺大磯宿の史跡』と題する絵図兼説明板に、お堂と寺領傍示杭が描かれている。

【虚空蔵】
 
虚空蔵と熊野権現を祀ったお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていた。大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼して静かに寺領内を通った。
【御料傍示杭】
 高麗寺村と大磯宿との境を示す。高さは三米程であった。
     大磯町

【化粧井戸】 (左側) 13:48
 次の「化粧
(けわい)坂信号」の二股で国道と分かれ、右の松並木の緩い坂道へ進む。
 旧道に入ってすぐ左側の青い家の前に化粧井戸がある。この家は最近青く塗り替えたらしく以前は黄色だった。



【化粧井戸】

 「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている。
 (「虎御前」については、この後の延台寺で説明)


【化粧坂の一里塚】 (右側 13:52
 化粧井戸より2分ほど進んだ右側に、化粧坂の一里塚の絵図兼説明板が立っているが、塚は殆ど無くなっている。



【化粧坂の一里塚】 
 旅人の旅程の目安となり江戸日本橋より十六里の所に日陰げ風よけなどで小休息の場となる。高さ約三米程の上に海側に榎を山側にせんだんを植えた。
     大磯町

 化粧坂の一里塚のすぐ先に右に曲がる坂道があり、入口に『釜口古墳 0.3Km』の標識があったので、5分ほど坂道を登って行ったが見つからなかった。あとで調べたら少し行ったところから右に入った「水道山公園」にあるのだが、途中、案内板等が無く見つけられなかった。帰り道にも注意して見たが、やはり無かった。ここで10分ほどロス。


【広重の浮世絵】 (右側) 14:07
 化粧坂の一里塚の直ぐ先に、大きな安藤広重の浮世絵が掲げられている。

【解説】
 
本図は、初代歌川広重が天保四年(1883)頃に製作した浮世絵『東海道五拾三次之内大磯虎ヶ雨』です。
 空は鼠色に曇って秋雨が降る中、大磯宿境の傍示杭が建つ入口近くを合羽を被って馬で行く旅人や野良仕事帰りのお百姓さん、傘を差した町人など、街道も濡れてなにか寂しげです。
 画面左の稲作を杭掛けして干している田んぼの先は海岸と磯の松、その向こうに広がる相模灘。
 水平線近くの沖合いが白く明るく見えるのも、海岸で良く見る風景です。
 大磯の海岸は、万葉集に詠われた「よろぎの浜」、古今集でも「こゆるぎの磯」とも呼ばれる枕歌の景勝地です。また、この辺りは鴫立澤とも呼ばれ、西行法師の歌『心無き身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮』は「三夕の和歌」の一つとして有名です。
 また、大磯は歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曽我十郎と大磯の郭の遊女・虎(虎御前)が仇討のため二人が別れ、仇討の果てに陰暦五月二十八日、曽我十郎が命を落とした悲恋物語の曽我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったという故事から梅雨時のしとしと降る雨を「虎ヶ雨」とも呼ばれます。このお話の真偽は不明ですが、この土地に由来する伝説の情趣でしょう。
 画題横に『虎ヶ雨」とあるように、そぼ降る雨を涙雨に見立てています。

【大磯八景碑 化粧坂の夜雨】 (右側) 14:09
 広重の浮世絵のすぐ先右側、二本の大木の間に大磯八景碑が建っている。

【大磯八景の一 化粧坂の夜雨】 
 雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松の雫の音はかりして   敬之

 大磯八景は、明治四十年頃、大磯町第五代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書を出版したのが始まりです。
 その後、大正十二年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立しました。
 現在は、「小淘綾の晴嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」、「花水橋の夕照」、「唐ケ原の落雁」、「化粧坂の夜雨」、「鴫立沢の秋月」、「照ヶ崎の帰帆」、「富士山の暮雪」の七基が残っています。
     〔歴史と味の散歩路パンフレットより〕

 大磯八景碑の直ぐ先で旧東海道はJR東海道線と斜めに交差しているが、線路に分断されて真直ぐ進めない。
 しかし、歩行者は地下歩道を通って線路の反対側に出られる。
  


【大磯宿・江戸見付跡】 (右側) 14:15
 上記地下歩道をくぐって東海道線の反対側に出ると、再び旧道につながる。
 その少し先右側に江戸見附の絵図入り説明板が立っている。ここから大磯宿に入る。



【此辺大磯宿の史跡 江戸見附〕
 宿場の出入り口につくられた構造物で、本来は簡易な防御施設として設置されたと考えられている。また、宿場の範囲を示しており、宿場の京側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいた。
 なお、宿境には傍示杭と呼ばれる木製の標柱が建てられていた。
     大磯町

【大磯宿】 江戸から16里20丁(65Km) 京へ109里 人口約3000人


安藤広重の東海道五拾三次之内・大磯『虎ケ雨』

 東海道が家康によって整備されるにつれて、それまで御嶽神社の前の官道(鎌倉道・古東海道)を通っていた人々も東海道を通るようになり、官道沿いの人家も次第に東海道沿いに移転するようになった。元和六年(1620)には、尾上本陣の祖先市右衛門が大名宿として宿を始めており、これが大磯宿の始まりとされている。

 さらに寛永十二年(1635)に参勤交代の制度が実施されると、大名行列をはじめ東海道の往来が一層はげしくなり、大磯宿も品川から八番目の宿場町として大いに賑わいをみせた。

 大磯宿には、尾上、小島、石井の三つの本陣があった。三つの本陣とも建坪は230〜250坪で、南本町東側にあった石井本陣は早く幕をおろすが、尾上、小島本陣は幕末まで続いた。尾上本陣は南本町地福寺入口の中南信用金庫本店敷地付近一帯に、小島本陣は北本町のNTT西側付近一帯にあり、現在それぞれに記念碑がたっている。


現在の大磯宿入口(江戸見附付近)

 大磯宿に入って旧道を進んで行くと、左側日本料理店前に、宿場の雰囲気が出る常夜燈が置かれていた。他の店にもあったかは記憶に残っていない。
  


【神明神社】 (左側) 14:25
 やがて国道1号線に斜めに合流して、「三沢橋」を渡ると直ぐ先左側に神明神社がある。

【神明神社 御由緒】
 神明神社は法光院(廃寺)持ちで、古来紅葉山の明神台(現在の北の方)に祀られていたが、江戸時代中期享保年間(1716〜35)に明神台から明神森(ふれあい会館付近)に一時遷座され、更に現在地に遷座された。神明町の地名発祥となり、神明町の氏神として信仰が厚い。
     御祭神    天照大神
 例祭は正月、五月、九月の二十一日で、元は神楽も奉納していた。現在の社殿は神明造で、昭和五年(1903)五月総工費弐千壱百六拾壱円(現在の約壱億円)で再建。
 境内には明治元年(1869)九月二十日、明治天皇は初めて京都を出発、東京に行幸途中、十月九日小田原宿をたち、昼には大磯宿の小島本陣へお着きになりました。昼食後、時間もあり、江戸も近くなりましたので、天皇の長い旅路をお慰めしようと、北浜海岸(海水浴場)で、からすに向かって一斉に射撃をさせましたが、一瞬呼吸があわず、全部逃げ去られてしまいました。始めてのことなのでとてもお喜びになられました。その後、角打(大砲)がはじめられ轟音をとどろかせました。そのころ漁師が地引網を入れ、角打が終った時、地引網を引き揚げはじめましたが、網が海底の岩に引っかかったので、漁師がわれも、われもと飛びこんで引き揚げました。この網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来ました。前代未聞のことなので、一同びっくりしましたが、天皇は人々の有のままの姿をご覧になりたいと思っていたので、非常にお喜びになられました。
 この日、天皇は小島本陣に御宿泊になり、内侍所御羽車(賢所 天照大神の御霊台のヤタノカガミを祭ってある腰輿)は神明神社に奉安された。昭和三年、大磯研究会(会長 鈴木梅四郎)が建立した記念碑がある。朝倉 敬之書。
 大磯を発ち十三日には江戸城に入り、その日東京城と改められた。ちなみに東幸の費用は七七萬両(現在の約五十億円)に上がったという。
 神明町在住で大磯八景の石碑を建てられた大磯小学校二代目校長 朝倉敬之先生は小島本陣に明治天皇がご宿泊時、十九歳であった。小野懐之(初代大磯小学校校長)、中川良知(初代大磯町長)に推挙され、「明治天皇行在所」と墨書し、天皇の御誉めに預かった。
 その朝倉先生直筆の「高来神社由来」の屏風が社宝としてある。
     平成十五年三月吉日


 鳥居をくぐった正面の社殿手前右手に御羽車奉安所の石碑が建っていて、次のように刻まれていた。

  明治元年十月九日御東幸之途次
 内待所御羽根車奉安之所
  明治元年十二月九日御還幸之途次

【穐葉神社】 (左側) 14:30
 神明神社の直ぐ先の歩道橋のある交差点を右折すると大磯駅だが、そのまま少し進んだ左側に小さな穐葉神社がある。
 木製の説明板はかなり擦れて、判読が非常に困難だった。

【秋葉神社略縁起】
 宝暦十二年(1761)一月十九日、大磯宿に大火があり、宿場の殆どを焼失したため、當時の町役が願主となり、遠州秋葉山より秋葉大権現を勧請し、同十三年大運寺境内に秋葉社を建立、宿場の安全を祈願した。
 明治五年(1872)神仏分離令により社を大磯駅前の梅浦家別荘(現アクサ生命)敷地内に遷し秋葉神社と改称した。更に大正七年(1918)現在地に遷された。
 御祭神は火之迦具土大神と申し上げ、火防の神である。
  例祭日 一月十九日・五月十八日

【延台寺】 (左側) 14:30〜14:36
 穐葉神社の横の細道を入った奥に、虎御前ゆかりの「虎御石」が安置されている延台寺がある。
 まず、細道を左折するとすぐ、穐葉神社の塀傍に『此辺大磯宿の史跡 虎御石』の絵図入り説明板が立っている。

【此辺大磯宿の史跡 虎御石】
 蘇我十郎の剣難を救った身代石。また虎御前の成長につれて大きくなったと言われる生石である。
 江戸時代の東海道名所記に「虎が石とて丸き石あり、よき男のあぐればあがり、あしき男の持つにあがらずという色好みの石なり」とある。
 この場所におかれていた。
     大磯町


 奥に進むと、山門前に大きな石柱が建ち、『曽我兄弟霊像 十郎祐成身代り 虎御石』と刻まれていた。
 その後ろに、ここも掠れた木製の説明板が立っていた。

【宮経山 延台寺】
 当山は日本三大仇討の一、曾我兄弟の仇討にゆかりの深い、鎌倉時代の舞の名手、伝説の美女虎御前(虎女)が兄弟を偲んで庵を結んだ跡とも伝えられ、慶長四年(1599)身延山代十九代法主法雲院日道上人によって開かれ、以来日蓮宗の寺院として今日に及んでいます。
 しかしながら、江戸から明治にかけて三度におよぶ大火にみまわれ、堂宇をことごとく焼失しました。明治三十五年以来の仮堂を、八十数軒の檀家信徒、多数の有志が住職を支え、秀れた宮大工、職人、業者が結集して復興事業を推進しました。
 昭和五十七年(1982)五月には本堂、書院、庫裡が完成、続いて山門、水屋が、平成十六年(2004)七月には曾我兄弟身代りの御雲石「虎御石」、虎池弁財天座像、虎御前および曾我兄弟像等をご奉安する法虎庵蘇我堂が完成しました。
 境内には当山の初祖法虎庵妙恵尼(虎御前)供養塔、開基川崎次郎右衛門の墓、 池弁財天御神石、子授け祈願の石佛、大磯宿遊女の墓等があり、 虎女が十郎との恋の成就を祈願したと伝えられる竜神様をおまつりしてあります。


 山門をくぐると、虎御石の新しい説明板が立っている。
【虎御石】
 
安元元年(1175)、大磯の山下長者に一人の娘が生れた。長者は四十才を過ぎても子宝に恵れず、虎池弁財天に願をかけて授かったので、虎と名づけた。この時弁財天のお告げの印として小さな石が枕元にあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石と名づけて大切におまつりしていた。
 思議なことにこの石は虎女の成長とともに大きくなっていった。虎女も舞の名手として広く天下に知られる程に成長し、いつしか曾我兄弟の兄の十郎と恋仲になった。十郎が虎女の家で敵方の刺客におそわれた時、この石のおかげで命が助かったので、一名身替りの石ともいう。
 兄弟は富士の裾野で父の仇、工藤祐経を打ち本懐をとげて死んだ。虎女は兄弟の最後の地をたずね、「露とのみ消えにしあとを来て見れば 尾花がすえに秋風ぞ吹く」とよんで 庵をむすんで兄弟の菩提をとむらったのが当山である。


 その先、山門から真正面で、石段を登った所に法虎庵が建っている。
 ガラス戸から中を覗けたが、虎御石は赤い布に覆われていた。



【法虎庵曽我堂】
 法虎庵(ほうこあん)曽我堂は曽我兄弟の兄十郎祐成の想い人、舞の名手「虎御前」が、兄弟が親の仇を討ち、自らも生命を落とした後、十九歳で尼僧となり、兄弟の菩提をとむらい庵を結んだ場所と伝えられております。
 現在の建物は約二百年ぶりの再建で、平成十六年(2004年)七月に完成したものですが、総木造銅板葺入母屋造唐破風入となっております。
 堂内には次の寺宝が開○ご奉安されております。
一、十郎身代り厄除御霊石「虎御石」
一、虎池弁財天坐像
一、曽我兄弟坐像
一、虎御 剃髪坐像
一、広重作「曽我物語画図」
一、国芳作「夜討曽我」他兄石、虎御前
    堂内のご拝観は二百円です


 山門を入って左奥に本堂、その手前左側には、虎御前祈願の竜神
大磯宿遊女の墓虎池弁財天御神石虎女供養塔当山開基・川崎次郎石ェ門の墓などが並んでいる。

  本堂  石碑群(詳細下記)


【虎御前祈願の龍神】

 虎御前が十郎祐成との恋の成就を祈願した龍神と伝えられている 元来は山下長者の家敷内にまつられていたものを 尼となった虎御前がこの地に移したと伝えられる
     昭和二十八年 住職

【大磯宿遊女の墓】 
 
江戸時代 宿場の遊女は人知れず無縁塚に葬られる者も多かったといいます しかし当山檀徒に縁ある遊女は当山墓地に丁寧に埋葬されました
【子授け祈願の石佛】
 向って右奥に虎御石の子授け祈願のため造られた石佛があります 「宝暦六年」とあり お腹が大きな佛さまです
      住職日眞

【虎池弁財天御神石】

 石に当山第十六世日登上人(天明年間)の筆になる宝塔を拝し供養する御神石は 江戸時代には当山の寺領弁天池の中の島の社に虎池弁財天御神石として祀られていたご霊石であります
     昭和五十八年廿八日日眞代

【虎女供養塔】

 当山開山の法雲院日道聖人が鎌倉の昔に当山の基を開いた虎御前の菩提をとむらうため建てた供養塔と伝えられています
     延宝時廿八世日眞

【当山開基 川崎次郎石ェ門の墓】
 当山が法雲院日道聖人によって身延山久遠寺直末の寺として開かれた時護持の心厚き次郎右ェ門は延山の発展を願ってこの土地を寄進し開基となりました 故あって江戸時代直系の家は衰退しましたが ここに墓を定めます
     昭和五十八年 当山二十八世日眞

【北組問屋場】 (右側) 14:40
 延台寺・穐葉神社の斜め向かいにある駐車場と「冨久寿司」の間に北組問屋場絵図入り説明板が立っている。



【此辺大磯宿北組問屋場の史跡】
 全国各地からの書状や荷物の継ぎ立てを行う場所で、新しい人足や馬が準備されていた。大名行列などの際には大磯周辺の助郷村々から人足や馬を動員する差配を取り仕切っていた。そして宿場の運営にたずさわっていた重要な場所である。

大磯、小田原間お定賃金
            正徳元年
一、番掛荷人共(人と荷貳拾貫迄) 壱百八拾三文
一、軽尻馬壱匹(人と荷五貫迄) 壱百貳拾四文
一、人足壱人  (荷五貫迄) 九拾文
     大磯町

【小島本陣跡】 (右側) 14:45
 北組問屋場跡の直ぐ先「そば処 古伊勢屋」の前に小島本陣跡絵図入り説明板が立っている。



【本陣】
 宿場で参勤交代の大小名や公用の幕府役人、勅使、公家、宮門跡などが旅の宿泊に用いる大旅館を本陣という。
 本来本陣とは、軍陣における総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて此の名称が用いられた。
 享和三年(1803)大磯宿には小嶋、尾上、石井の三箇所に本陣があり、その建坪は夫々246、238、235坪であった。
 本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる床の間と違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前に庭園がある。大名と側近は本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。大行列の場合は隣の宿まで使用しなければならなかった。
 尾上本陣は、小嶋本陣の西隣に置かれていた。石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向かいの現在の大内館(旅館)の場所にあった。
 これ等の本陣は天保七年(1836)の大磯の大火で焼失した。再建されたが建坪は縮小している。後慶応元年(1865)の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の並々ならぬ努力が偲ばれる。
     大磯町経済観光課

【尾上本陣跡】【大磯小学校発祥之地】 (右側) 14:50
 「大磯消防署前交差点」を渡った所の「中南信用金庫」前左端に、正面に大磯小学校発祥之地、右面に尾上本陣跡と刻まれた石碑が建っている。
 こちらには説明文等は無かった。信金のシャッターには広重の大磯の浮世絵が描かれていた。
    


【地福寺】 (右奥) 14:56
 「大磯消防署前交差点」を右折した突当りに、地福寺があり、境内左手には島崎藤村夫妻の墓がある。
    藤村墓  妻静子墓


 地福寺の右脇を通って坂道を上って行くとJR東海道線の大磯駅に着く。
 駅の右手前には観光案内所がある。


【妙大寺】 (右奥) 15:17
 大磯駅前広場を左(小田原方面)にJRの線路に沿って進むと、ガードをくぐって、線路の右側に出られる道がある。
 そのガードをくぐって真直ぐ進むと、すぐ右側に妙大寺の石段が見えてくる。
 山門をくぐって本堂の左手の墓地に入って行くと松本順の墓がある。

 【松本 順先生の墓誌】
 松本 順先生は天保三年(1832)東京は芝の生まれ もと徳川将軍家の御殿医 後 明治新政府に請われて 初代陸軍医総監となる程の医学界の第一人者であった
 明治十八年(1885)一切の公職を退いて閑地に就かれ緑ありて大磯に来たり 「この地の湖水は病を治し 空気は保生の効あり」と唱え照ヶ崎海岸こそ海水浴の好適地と認定 町の有識者と相はかり ここに日本最古の海水浴場が誕生しました 折りしも交通革命とも申すべき鉄道の開通により東海道五十三次の宿場であった大磯の町が衰微を免れた上に日本国中の各界の名士が競って当地に別荘を設け その殷盛は旧に倍するものとなった
 これ偏に先生の先見の明によるものである その繁栄を町民と共に楽しみながら明治四十年(1907)三月先生は当地にてご他界 御年七十六才 この大恩に報ゆるため 時の有志者挙って先生遺愛の当山に墓碑を建立したものである
     往見 駅前ロータリー内記念碑 及 照ヶ崎海水浴場謝恩碑


 9回目の旅終了(15:25) JR東日本「大磯駅」より帰宅

 今回の記録:街道のみの距離は、9.4Km(茅ヶ崎駅前交差点〜大磯消防署前交差点)
         日本橋から十六里三十町(66.1Km)。
         寄り道を含めた実歩行距離は、 15.4Km(茅ヶ崎駅〜大磯駅)  総計116.7Km
         歩数:23,200歩(2015年)
 

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