奈良井宿・藪原宿 (木曽平沢駅 → 宮ノ越駅) <旧中山道19回目>

 

2007年6月2日(土) 晴 

 横浜の自宅を車で6時に出発して木曽平沢まで行き、少し先の楢川小学校に車を置いて、そこを9:45スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「本山宿・贄川宿」 ← 「目次」 → 「宮ノ越宿・福島宿・上松宿」

 

 寒さの中の峠越えは辛いため、しばらく中山道を冬休みにして、その間に「甲州街道」を歩き始めた。ところがなかなか区切りがつかず、また、5月は家内の風邪などで半年も中山道から遠ざかってしまった。

 ここへきて甲州街道歩きが暑くなってきたので、 すこしでも涼しい木曽路(中山道)に戻ることにした。

 木曽平沢の町に着いたら、6月1日から3日まで「第40回木曽漆器祭・奈良井宿場祭」を開催しているため駅の近くに駐車できず、1Km先の楢川小学校まで誘導されてしまった。しかしここは中山道沿いなのでここからスタートし、前回終了した木曽平沢駅前からここまでは帰りにつなぐことにした。 


【楢川小学校】 (左側) 

 国道19号線沿いにあり、平成4年に新しくされた総檜造りの美しい校舎で、特に中央にそびえている時計台がアクセントになっている。

 誰もがカメラを向けたくなるすてきな建物である。

 給食用食器は欅材に鮮やかな朱漆を塗って仕上げたものを使用しており、お盆・茶碗・お椀・皿・箸の木曽漆器5点セットで3万円とのこと。

 


【奈良井川】 

 楢川小学校を過ぎて奈良井川に接した所に「奈良井宿入口」の看板が立っている。ここで国道から分かれて奈良井大橋を渡り、続いてJR中央線の踏み切りを渡れば300m程で奈良井駅に着く。木曽平沢駅から奈良井駅まで2.2Km。

 左の写真は、奈良井大橋を渡った所から奈良井宿に向かって写したもので、川の先に見える山の左側がこれから越える鳥居峠である。

人々の生活や豊かな木曽谷の木々を潤してきた奈良井川は、木曽駒ケ岳の雪解け水を水源に夏でもかなり冷たい。魚も豊富なため釣人達の憧れの川でもある。この奈良井川は松本市で犀川となり千曲川から信濃川となって日本海にたどり着く。


【八幡神社・杉並木・二百地蔵】 (右側上段)  10:05

 奈良井駅前から右に戻るように上り坂があり、これを登るとすぐ「八幡神社」の鳥居が見えてくる。その鳥居の手前右に入る道が杉並木となっており、その奥に「二百地蔵」がある。

 杉並木の道は短いが、両脇に樹齢数百年の杉や欅の大木が生えて鬱蒼としている。

 この杉並木はかつての旧道で奈良井大橋の先から往時の橋を渡りそのまま山に登り二百地蔵に続いていたが現在は途切れてしまっている。

 

 

【八幡神社】

 奈良井宿下町の氏神で、祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)。奈良井宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬されたともいわれる。五月初旬の春祭りには、下町明友会の若い衆が長持行列をくりだす。かつては境内の舞台で芝居を演じたという。

【杉並木と二百地蔵

 この道は江戸時代に定められた中山道で、杉並木が旧街道の面影をよく伝えている。胸高直径50cm以上の杉、17本を数える。

 右手奥の地蔵堂の前には、聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が二百体近く合わせまつられている。明治期の国道開削・鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという。

 

 

二百地蔵


【奈良井宿】 日本橋から64里22町(253.7Km)、京へ71里12町 (280.1Km)

天保14年(1843)で人口2155名、総家数409軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋5軒。

 奈良井は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長七年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられてから中山道六十七宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。

 奈良井宿は木曽11宿中北から2番目の宿場町で木曽路のなかでもっとも標高の高い位置(約940m)にあり、木曽谷中の最大の難所鳥居峠(標高1197m)をひかえて「奈良井千軒」といわれるほど賑わいをみせていた。

 当時を偲ばせる町並みは昭和53年に「楢川村奈良井伝統的建築物群保存地区」として国の重要伝統的建築物群保存地区に選定されている。選定地区は中山道沿いに南北約1Km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。

 奈良井の町並みの多くは江戸時代から明治時代にかけて建てられたもので、比較的低い建物が古いものである。建物は、二階が一階よりも1尺5寸(45cm)ほど前にせり出した「出梁(だしばり)造」という形式で、一階と二階の境に取り付けられた小さな屋根(猿頭・鎧庇)は中山道でも奈良井宿にだけみられるものである。鎧庇(よろいびさし)は猿頭(さるがしら)と呼ばれる木と、鎖で吊っただけの庇で、泥棒がよじ登ると庇ごと落ちるという仕掛がされている。

岐阻街道 奈良井宿 名産店之圖 (英泉)

 鳥居峠へ登り切る手前に数軒の茶屋があって、英泉はこの茶屋の一軒を奈良井の名産「お六櫛」を売る店に仕立て、また、峠から見えた御嵩山も近くに引き寄せて一緒に描いた。

鳥居峠茶屋跡の現在の場所が分からなかったので、

奈良井宿の櫛問屋「中村邸」を現在の風景とした。


 八幡神社から駅前に戻り、いよいよここから中山道一長い宿場町に入る。駅前には「木曽路 奈良井宿」の碑と案内板が建っている。

 宿場内には旅館・民宿、土産物屋、喫茶・食事・そば処、水場などが続く。

奈良井宿北(江戸方)の入口

奈良井宿場祭

 奈良井宿の観光には、「奈良井宿観光協会」のホームページが参考になります。このホームページの「宿場の観光案内」から一分説明文を利用させて頂きました。

【奈良井宿建築様式の特徴】

 二階を少しせり出した出梁造り、入口にはめられた大戸、そして日常の出入りにつかうくぐり戸、入口の横のしとみ戸、二階の手すりの真黒くすすけて落ち着いた格子、その両脇につけられた白漆喰の袖うだつ、各部にさりげなくそえられた彫物、これらはすべて奈良井に残された宿場の建築です。そして、長くのびた軒の小屋根(庇)をおさえた猿頭と呼ばれるサン木は格子やしとみ戸とよく調和して他においてはみられない深い味わいをかもし出している。

 奈良井宿では「奈良井宿場祭」の開催中で、本日(6月2日)は和太鼓の演技が宿内の街道上で行われていた。明3日はメインイベントの「お茶壷道中」を再現した行列があるとのことで、見たかったが一日違いで残念。

 「お茶壷道中」とは、江戸時代徳川御用のお茶を毎年京都宇治から中山道、甲州街道を経由し江戸まで運んだ道中行列で、当時この行列はいかなる大名行列もこれと同宿することが許されなかったほど、ご公儀の行列としては大変大きなスケールをもっていたと言われている。

 往時をしのぶお茶壷道中の行列は、毎年6月の第1日曜日12:30〜16:00(小雨決行)に行われ、奈良井宿中心部の長泉寺を出発し宿場内から木曽の大橋まで一巡する。

 祭開催中は、木曽平沢も奈良井も歩行者天国で駅近くに駐車はできないが、通常なら奈良井駅前に数台と宿場内に 有料駐車場がある。


【木曽の大橋】 

 宿場内に入る手前の道を左に行き、JR線を越えて川に出ると前方に木造の太鼓橋が見える。

 宿入口から橋まで250m位であるが私達は、街道歩きを終えて車に戻ってから訪れた。

 楢川小学校から1.3Kmなので車なら数分で行ける。対岸は、道の駅になっている。

 水辺のふるさとふれあい広場の東側、奈良井川に掛けられている太鼓型の橋。

 樹齢300年以上の天然木を使った総檜造りです。

 橋脚を用いない木橋では幅員が日本一という奈良井の新名所の一つ。

 


【大宝寺】 (右奥)

 宿場の中ほど「杉の森酒造」の先右側に「マリア地蔵庭園」の看板が掲げられた木の鳥居があり、そこを入った所に山門がある。拝観料100円。

 境内右奥には、子育て地蔵の名をかり、頭のない姿は隠れキリシタンたちの悲しい歴史が刻まれているといわれる「マリア地蔵尊」がある。また、寺の裏にある庭園は本堂内から見学できる。

 信州・木曽霊場・七福神めぐりの寺でもあり、知恵と寿命を与える神、寿老人の霊場場としても有名。

 天正10年(1583)に建てられた寺で、江戸時代に現在の本堂を建てて寺名を「広伝山大宝寺」とした。

 信州・木曽霊場・七福神めぐりの寺でもあり、知恵と寿命を与える神−寿老人の霊場寺としても有名。

 境内には、キリシタン禁制の江戸時代に頭部と抱かれた子供も膝も破壊され、わずかに胸に十字架だけが残っている有名なマリア地蔵尊がある。

 また、寺の裏庭は享保年間に造られた嵯峨流の庭園で、毎年6月頃に咲くツツジと秋の紅葉は見事な眺めとなる。

【沿革】

 この寺は広伝山大宝寺といい、臨済宗妙心寺派に属する禅寺である。いまから凡そ四百年前の天正十年(1582)奈良井治部少輔義高公が開山大安和尚のために建てた寺である。義高公は木曽氏の支族で、奈良井の領主であった。天正十年木曽義昌が武田勝頼の軍と鳥居峠で戦ったとき、義高公はおおいに武勲をあげた武将であった。天正十八年(1590)に没し、法名を広伝寺殿ァ翁宗ァ大禅定門といい、墓所は寺内にある。寺名も当時は広伝寺といった。

 江戸時代となり、明暦年中に玉州禅師が中興し、福島の代官山村良豊公が寺門を修造し、万治元年(1658)現在の本堂を建て、寺名を広伝山大宝寺と改めた。なお寺宝として白隠禅師が開眼した子育地蔵尊・墨跡や山岡鉄舟筆の扁額がある。

【庭園】

 木曽名所図会には「寺の庭に臥竜樹あり、長さ五丈許(ばかり)義高の薬園の趾なり」とあるが、作庭されたのは享保年中のことである。東岳和尚が庭園中に鎮守天神祠を造り、梅松桜楓の四樹を植えたという記録を残した。禅の境地を表現したもので、池は心字に作られ、亀島、三尊仏石、蓬莱石、遠山石、拝石等奇岩怪石を用いた嵯峨流の庭園であり、裏山は高野槙、楓、杉の大樹で幽玄であり、自然と人口がマッチしている。さつきの花や秋の紅葉は見事であり、江戸中期における信州の代表的庭園であると専門家はいっている。

【マリア地蔵尊】

 キリシタン禁制の江戸時代、木曽路にも密かにキリシタンを信仰する人がいた。仏教の子育地蔵になぞらえて作られた石像である。役人に発覚し、頭部も抱かれた子供も膝も破壊されて悲惨である。わずかに胸に十字架だけが残っている。石像の背には光背を支えたあともあり、台座もあったであろうから、かなり大きなものであったと想像される。ただ今はキリシタンの悲惨なそのかみを偲ぶのみである。(以上3点パンフレットより)

【マリア地蔵尊】

 この石像は、昭和7年(1932)の夏に、地元の人が薮のなかになかば埋もれているところを掘り出したと伝える。抱かれる嬰児が手にもつ蓮華の先が十字状になっているところから、隠れキリシタンが観音像をよそおってひそかにまつったものではないかと言われている。(現場説明板)


【徳利屋】 (左側)

 江戸時代の旅籠で、現在は郷土館・茶房になっている。

 江戸時代には脇本陣をつとめ旅籠として使われた建物は島崎藤村や正岡子規といった有名な文豪が泊まったこともある。
 現在は、歴史を感じさせる囲炉裏で、あるいは裸電球に照らされながら郷土料理などが味わえる店となっている。

 


【松坂屋】 (左側)

 「徳利屋」の隣にある土産屋。

 勅使河原郁恵さんがてくてく旅でガイドから庇(ひさし)の説明を受けた建物。店の前には「奈良井宿」の説明板が掲げられていた。 

松坂屋

 木曽には11の宿場がある。
 それらの宿場は、日に二千人から通ったといわれる旅人たちを受け入れた町である。参勤交代の大名行列を始めとして、人・馬・荷・駕籠・それら一切が一度に一夜を過した処である。したがって、宿場は食事・什器をはじめとして大がかりな賄いを必要とした。しただの田舎屋にない独特の形態を保ったのが宿場町である。
 奈良井宿はかつて「奈良井千軒」といわれ、木曽11宿中最も栄えた宿場で、昭和五十三年五月国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その規模と町並みの美しさは日本一である。
 

「松坂屋」の前から北に向かって写したもの


【旅館ゑちごや】 (左側)

 「奈良井会館」(観光案内所)の道を挟んだ隣にある。

 寛政年間より木曽路を旅する人々に愛されてきた旅籠。玄関口に置いてある「旅籠行燈(はたごあんどん)は、江戸の昔から暖かい光を投げ掛けてきた。多くの名もない旅人達、文豪の島崎藤村・正岡子規、野麦峠を越えて来た飛騨の工女たちもこの灯りを見て心をなごませたことだろう。現在もこの行燈は木曽路を訪れる人々の心に安らぎと旅情を伝えている。

【本陣跡】 (右奥)

 「旅館ゑちごや」の前を右に入るとすぐ、燈篭の後ろに木柱のみ立っている。「神明宮」(直進)と「奈良井公民館」(右手)へ行く二又の所。


【御宿伊勢屋】 (右側)

 「旅館ゑちごや」の斜め前にある。

 江戸時代は下問屋も勤めていた。現在も往時の建物をそのまま保っており、奈良井宿建築の代表的なものになっている。料理は木曽山中で採れる山菜をはじめ、川魚料理など豊富な山の幸を出している。


【上問屋資料館】 村指定有形文化財 (右側)

 「伊勢屋」の二つ隣り。資料館の前には「明治天皇御駐輦所」の碑が建っている。入館料200円(月曜と祝日の翌日は休館)。

左側の石碑が建っている建物が上問屋

写真は、北に向かって写したもの。

 この家は慶長七年(1602)から明治維新に宿場制度が廃止されるまで凡そ二百七十年間継続して奈良井宿の問屋をつとめてきました。天保年間からは庄屋も兼務して明治維新に至りました。

 現在の建物は天保十一年の建築でその当時の記録が残されています。

 明治十三年六月十六日明治天皇が御巡幸の際御在所となったそのお部屋は一番奥の上段の間であった。今もその当時のまゝ保存されております。

 古くからこの家に伝えられた古文書、家具等を陳列したのがこの史料館で、往時を偲ぶよすがとならば幸甚であります。

 昔宿駅には幕府の役人や諸大名その他の旅行者用として、幕府の定めた一定数の伝馬(宿駅用の馬)と歩行役(人足)を定備しておいて、旅行者の需に応じた のであった。木曽11宿には1宿について25人の歩行役と25疋の伝馬を用意していたのである。この伝馬と歩行役を管理運用していたのが問屋である。問屋の下に数人の年寄役があってこれを補佐した のである。(パンフレットより)

上段の間(行在所)

 

 上段の間には、明治天皇と皇后陛下の写真が飾られ、入口には下記の説明文が掲げられていた。

【明治天皇奈良井行在所】

 明治天皇が山梨、三重、京都の各縣御巡幸の節、明治十三年六月十六日、この上段の間で御昼食を召し上がられた。それから以后、この部屋は行在所として手を加えずに保存されていたのである。畳、建具、壁、其の他も皆当時の侭である。たヾ障子の張かへを行ふだけであった。

 四隅の柱の上の方に眞鍮の折釘が打ってあるのは、その時部屋の四方を紫縮緬(ちりめん)の幕を張りめぐらしたときのものである。床の襖にはってある扇面は土佐光孚(みつざね)の筆になったものである。高貴な方の御使用の部屋へ使ふ絵は土佐派のものでなければいけないそうであるので御巡幸に際して張り替へたのだと、いひ伝へられている。尚ほ床柱は、つヽじの木である。

 此の時奈良井宿からは、奈良井川で獲れたぴちぴちしている岩魚を木の香も新しい桶に入れ、生きた雞の大きいものと、ところでできた莢豌豆(さやえんどう)を献上したそうである。

 岩魚は塩焼きにし、雞は笹身だけを豌豆とお吸い物にして差し上げたところ、岩魚は片側を綺麗にお召し上がりになってあったとのことである。御飯の残りは当家へ下された。それを御符として近隣へ配布したとのことである。


<昼食> 11:15〜11:50

 上問屋資料館先の「こころ音」で五平餅定食(¥1,260-)を食べたが、五平餅が甘すぎて山菜天ぷら等と合わず、デザートとメインを同時に食べた感じだった。ミニ蕎麦でもが付いていれば良いが、量もすくなく高いのは観光地なのでしかたがないか。 


【鍵の手】 

 道がクランクになっている所で、左側に「中山道奈良井宿 名所 鍵の手」の石碑が立っている。

 右側に水場もある。

 


【中村邸(櫛問屋)】 村指定有形文化財 (右側)  写真は上記【奈良井宿】参照

 鍵の手を曲がるとすぐある。入館料200円開館時間9:00〜17:00(冬季16:00迄)、4月〜11月は無休(冬季は月曜と祝日の翌日休館)。

 かつて中村邸は、神奈川県川崎市の日本民家園に移築することが決まっていたが、村人の中から奈良井に残したいという希望が出て、移築は取りやめになったという経緯がある。その後、建物は村に寄贈され、改修を経てこの地に保存されることになった。

 このことがきっかけとなり、奈良井宿の町並みを保存しようとする運動が熱を帯び、「伝統的建造物群保存地区」の指定へとつながっていった。

 したがって中村邸は奈良井宿の中でも意味ある建物となっている。

 私も民家園には何度か行ったが、園内に移築された各建物は脈絡も無く転々と建っているだけである。歴史ある建物は本来の場所に残されてこそ価値があるもので、移築されなくて良かった。

 塗櫛の創始者中村恵吉氏の分家にあたる櫛問屋。天保年代(1830〜43)の建物。

 その造りは奈良井宿にある古い民家の典型といわれ、京都の町屋造りの影響が随所に見られます。現在は市営史料館として公開されています。

【ここは天保の櫛商人 中村屋利兵衛の御屋敷にて候】

 上町に位置する中村邸は、江戸時代の櫛屋中村利兵衛の屋敷です。

 天保八年の奈良井宿大火の後に建てられました。塩尻市指定文化財として一般公開されています。

 中村邸の主屋は、間口が狭く奥行きが深い短冊の敷地に、間口三間二尺、奥行き九間半の規模で、二階建てです。建物正面の猿頭をあしらった鎧庇、一階正面の大戸と蔀(しとみ)、二階の格子と袖壁など、奈良井宿の町屋の意匠を典型的に備えた建物です。入口から中庭まで土間が通り、ミセ・カッテ・ナカノメ・ザシキが続く間取りも奈良井宿の町屋に共通して見られます。中庭の奥には土蔵が配されています。(パンフレットより)


【会津屋】 (右側)

 鳥居峠寄りにあるみやげ・食事処で、2007年にイメージを一新した店。

 焼きたての温かく香ばしい手作りせんべいを約30〜40種類ほど販売しており、観光客が群がっていた。

 この店でお八つ用に朴葉餅(5個で750円)を購入。

 写真は、南側(鳥井峠側)から北に向かって写したもの。


【高札場】 (右側)

 宿場の南の外れ(京方の入口)に復元されて建っている。

 高札場は江戸時代幕府が定めた法律などを人々に周知徹底される目的で、掟、条目、禁制などを板に書き掲げていた場所である。宿場町の高札場には、とくに宿継ぎの駄賃を定めた高札なども掲げられ、また、宿場間の距離を測る起点ともなっていた。
 奈良井宿の高札場は、京方の入り口にあたるこの場所におかれ、明治のはじめごろまで使われていたが、その後街道の廃止にともない撤廃された。この高札場は、当時の絵図にもとづいて昭和四十八年に復元されたものである。


【水場】 

 宿場内に6箇所あり、美味しい水が飲める。

 写真は高札場の隣にある最後の水場である。

 奈良井宿の町並みを特徴づけている水場は生活に欠かせない生活用水の確保や、火災が発生した場合に連なる家々への延焼を防ぐために、山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられた。また、中山道を歩く多くの旅人が難所鳥居峠を越えるために水場で喉を潤した。現在奈良井は六箇所の水場が整備され、それぞれに水場組合を作り、維持・管理を行っている。


【鎮(しずめ)神社】 村指定有形文化財 (右側)

 宿場の南の外れに建っている。

 奈良井・川入の氏神で、祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。寿永から文治(12世紀後期)のころ中原兼遠が鳥居峠に建立、天正年間(1573〜92)にいたり、奈良井氏が現在地に移したとつたえる。また、元和四年(1618)に、疫病流行を鎮めるため、上総国香取神社を勧請したことから鎮神社と呼ばれるという。本殿、寛文四年(1664)建築で、村指定有形文化財。社業は、村指定天然記念物。

 神社の隣は「楢川歴史民族資料館」がある。

【楢川歴史民族資料館】

 神社の隣にあり、漆器製品、道具、花櫛、宿場時代の日用品、大名行列の風俗などが展示されている。

 私達も入らなかったが、人が大勢いるにもかかわらす入る人は少ないようだった。


【鳥居峠入口と登り口】  12:20

 

 「楢川歴史民族資料館」を過ぎるとすぐ右に上がる階段がある(左上の写真)。ここが鳥居峠の入口で、階段の上に案内柱が立っている。少し草道を行くと一旦舗装道路に出る。Uカーブを過ぎた所で左下の「保養センターならい荘」に行かず、真直ぐの細い方の道を進むとすぐ左右に大きな案内板があり、右に上がる石畳道が見えてくる(左下の写真)。ここが本格的な鳥居峠への登り口である。石畳は600m程続いて山道になって行く。

 この日は次から次へと途切れることなくハイカーが降りてきて、これが峠の小屋まで続いていたのには驚いた。今までの峠越えでは考えられなかった現象である。

 途中ですれ違った人に聞いたところ、「奈良井宿場祭・木曽漆器祭」に合わせてJR東海主催の「さわやかウォーキング」に参加した人が薮原駅から峠越えをしてきたとのことであった。後ほど薮原宿に着いたとき 聞いた、「てくてく旅」にも登場したお六櫛店のご主人の話では、名古屋からの特別列車で来た人を含め二千〜三千人のハイカーが通って行ったとのことである。

 奈良井側から登っているのは私達ぐらいで、すれ違う時の「コンニチワ」の挨拶では、相手は1回言えば済むが当方は百回以上も言い、元気を貰ったのか疲れたのか分からなくなってしまった。

 鳥居峠を越えたところでやっと途切れ、下りは静かに歩けたのが正直ほっとした。 

 

 

左下写真の階段に続く石畳

12:30

【木の国の分水嶺を訪ね、霊峰御嶽を仰ぎ見る路】

 かつての鳥居峠は中山道の最大の難所でした。その地形の険しさは現在も雨水を太平洋と日本海に分かつ「分水嶺」となっていることからも伺えます。
 この峠一帯では、美濃の国と信濃の国が境界を争っていたこともあります。元慶元年(879)に、美濃の国に属することでいったんは決着。そのときに両国の境になったのが、当時「県坂」と呼ばれていたこの峠でした。
 その後「奈良井坂」や「藪原坂」と記された時代もありましたが、室町時代に木曽義元が、戦勝のお礼として御嶽神社の鳥居を再建し、以来「鳥居峠」と呼ばれるようになったといわれています。


【くるみ沢展望台】 (左上) 12:3

 木の橋を渡り、少し登った「展望台」の標柱が立っている所を、左に戻るように400m登るとある。木が茂って展望はあまり良くない。

 展望台入口で道は二又になり、峠に行くのだから右の上り道へと思われるがそちらに行ってはいけない。案内標識を見逃がさずに左の下り道を 行く。そのまま道はしばらく下るが、折角ここまで登ったのにこの下りはもったいない。


【中の茶屋跡・葬沢】 12:45

 

 下りが終わった所に休憩できる小屋がある(左上の写真)。トイレ・水場はない。

 ここの左手は「葬沢(ほうむりさわ)」と呼ばれている。

【本沢自然探勝園(葬沢)】

 天正十年(1582)二月、木曽義昌が武田勝頼の二千余名を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。この時、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢と呼ばれる。

 小屋の中に下記の文章が掲げられていた。

【菊池寛「恩讐の彼方に」鳥居峠】

 「恩讐の彼方に」の鳥居峠(華表嶺)での場面は、静かな中に一瞬凄絶を極める。そして、ここから遠く青の洞門へと舞台は移ってゆく。この鳥居峠には、作品として最も重要な動機が設定されているのであるが、思えば、その動機の背景をこれほど見事にふさわしく偲ばせるところもないのである。鳥居峠の貫禄というものであろう。
 鳥居峠、特に奈良井側からの峠の、あの山の背を這うようにしてゆく崖道は、険阻そのものであると同時に、中山道全街道を通じて最も深い趣をもつといっていい。
 兎も角、幾百年の歴史の道は、その風格とも併せて春秋ただ素晴らしいの一語につきる。 (奈良井宿観光協会)

 小屋の先からはきつい登り道になる。

 左下の写真は、峠の小屋まであと4分の場所にある木橋。

 登っている間に写真のような木橋を何回も渡る。一箇所だけコンクリートだったが木橋の殆どが修理中であった。


【中利茶屋跡・鳥居峠】 13: 08〜13:28

 登りきって車道に合流したところに小屋がある。ここが「中利茶屋跡」にあたる。

 案内板、水場(左下の写真)、トイレ(水場の反対側)あり。

 この小屋で休憩して、奈良井宿で買った朴葉餅を食べ、ペットボトルに清水を詰める。

 この先の旧道は、広い道でなく水場の横から左に登る細い山道である(左上の写真の赤矢印)

 本当の峠はこの上にあると思われるが、どの地点 が標高かは分からなかった。

 

【鳥井峠】

 江戸時代中山道木曽路最大の難所とされた峠で、標高は1197m。現在は信濃路自然歩道中山道ルートとして石畳の道も復元され、昔ながらの中山道を堪能することができます。かつては、美濃の国と信濃の国の境であったこともあるこの峠は、およそ1300年前に完成したものと考えられます。古来「県坂(あがたざか)」と呼ばれていましたが、明応年間(1492〜1500)松本の小笠原氏との戦いで、木曽義元がこの頂上に鳥居を建て、御嶽権現に戦勝祈願したことから「鳥居峠」と呼ばれるようになりました。

【御岳講 明覺霊神碑】

 左上の写真の赤矢印の細道を登りきった所の崖上に碑がある。

 御岳を信仰する講社が建てた霊神碑と伝えられている。当時に御岳信仰の威大さが伺えます。

【明治天皇駐蹕所碑】 

 「明覺霊神碑」のすぐ先に碑がある。この辺りに往時は 峰の茶屋があった。ここが峠の最高地点と思われる。

 この地は、明治天皇の駐蹕所跡である。碑の裏面に大正二年、横澤雄次郎木祖村村長建立と記してある。

 道は下りになり、広い道に出たら真直ぐ行くのが本来の旧道だが、途中で道がなくなっているので行くことはできない。しかたがないので右に降りて行く。降りたところは四叉路になっており、右は峠の小屋からの広い道(切り通し)で、左の下りは車道となっている。

 道路標識の「遊歩道・藪原宿」と書かれている方向へUターンするように更に左の平らな道を行く。

【信濃路自然歩道中山道コース】

 信濃路自然歩道は、信州の豊かな自然や、歴史的文化に触れ合いながら散策やウォーキングを楽しむことができる自然歩道で、長野県内に12のルートがあり、総延長は483Km。そのなかで、藪原から鳥居峠を経て奈良井宿、平沢、贄川宿を抜け、桜沢に至るコースが信濃路自然歩道中山道コースとなっています。


【熊除けの鐘】 13:38

 四叉路を左折すると「遊歩道につき車両侵入禁止」の看板と「熊除けの鐘」が 下がっている。

 藪原駅まで3Km。

 この鐘はかなり大きな音がするので、さぞかし熊もビックリする事だろう。何故ここに鐘があるのか道を進むと分かってくる。

 熊も人が怖いのです。鐘で知らせてあげよう。

 熊は歩道に出るのは極まれですが、念には念を。

 互いにゴミ、火気に気配りし、自然を守り育てよう。


【鳥居峠のトチノキ群】 木祖村天然記念物

 熊除けの鐘から明治時代に造られた平らな道に入るとすぐ、太い栃の木が並んでいる場所に出る。

 栃の実が熊の大好物であるため、鐘を鳴らす必要性があることが理由の一つだとここで分かる。

【芭蕉の句】

木曽のとち 浮き世の人の みやげ哉」

松尾芭蕉が鳥居峠の栃の群落を見つけて詠んだ句で『更科紀行』におさめられています。 (鳥居峠の案内板より)


【子産の栃】(右の写真)

 栃の木群の中ほど右に穴のあいた栃の木があり、横に説明板が立っている。

 昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。 


【中山道/明治道路の道標】 

 「鳥居峠のトチノキ群」の石碑が建っている手前左側に道標(石碑)があり、右中山道、左明治道路」と彫られている。

 振り返る(峠方向)と右に極細い登り道が見えるがすぐ藪になってしまう。ここが上述の「明治天皇駐所」から真直ぐで現在通行不能の旧道と思われる。

 現在 通れる道は明治に造られた道で、写真の左側を通っている広い道である。

 トチノキ群が終わった藪原側にも熊除けの鐘があった。


【御嶽遙拝所(おんたけようはいしょ) (右上) 13:47

 熊除けの鐘のすぐ先、石碑と鳥居が見えてきたら御嶽遥拝所入口である。右に登ると神社と裏手に沢山の石碑や石仏がある。 真直ぐ下ると遙拝所を通らずに丸山公園に出る。

 社殿の左横に「御岳山 眺望所」の立て札が立っており、「晴天時は霊峰御岳山(3063m)を眺望できます。」と書かれていたが、不勉強でどの山が御嶽山か分からなかった。

 木曽御嶽山は、長野県と岐阜県にまたがってそびえる独立峰の活火山である。

【頂上神社前】

 北から木曽路へ入り、始めて御嶽山標高(3063m)を望むことのできる場所として御嶽神社の遥拝所がある。

 神社の境内には、御嶽講社の建立した石碑、石佛、石塔等がある。

【御嶽遥拝所】

 遥拝所とは、御嶽の眺望のよいところに御嶽神社を勧請したもの。鳥居峠の遥拝所は鎌倉時代に創設されたと伝えられ、「御嶽の四門」の一つに数えられるほど由緒があります。(鳥居峠登り口の案内板より)

【御嶽信仰】

 御嶽信仰の発祥は、古代人の山そのものを神とあがめる山岳崇拝から始まり、役の小角行者を開祖とする修験道へと続いていった。

 江戸時代になると民間信仰の風習の一つとして講と呼ばれる団体が結成され、集団で各地を詣で始めた。いわゆる平和な江戸時代の旅行ブームが台頭してきたわけである。具体的には、神社参宮を目的とする伊勢講や金比羅講を始めとして、登拝を目的とする富士講・大山講・熊野講・月山講・彦山講などが続々と誕生し、それぞれの山は一般登拝者に早くから開放されていった。

 当時のそうした流れの中にあっても、木曽御嶽だけは、一部道者のみによる登拝の古いしきたりに守られていた。

 しかし、富士山に次ぐ名山と言われて崇拝されてきた山なので、地元民をはじめ全国の一般庶民からの登山解禁を願う声が高まり、ついに江戸末期の天明・寛政の時代、二大行者(尾張出身の覚明と武蔵出身の普寛)によって、難行苦行の末ようやく万民の前に開かれ、御嶽山信仰は全国的に急激に広まった。

 その聖なる山を遠くから拝む場所が御嶽山遥拝所であり、木曽谷に入り、初めて御嶽山の神容に接することができる場所として御嶽四門があった。

【発心門(東)】 神戸峠

 京都から中山道をたどり、初めて御嶽山を仰ぐことができたところ。岩郷村(木曽福島町神戸)にあたり、古くは鳥居が立てられていたと記録されている。付近には鳥居という地籍も残っている。現在は神戸地区のはずれ旧中山道筋に石の華表が残っている。

【菩提門(西)】 長峰峠

 飛騨日和田から信州開田村へ通じる街道(飛騨街道・木曽街道)。信州と飛騨の国境にあたるこの峠の頂上に、遥拝所があり御嶽大権現の碑が御嶽山に向かって建てられていたという。今は、数基の石仏・石碑が残るだけだが、霊峰の雄姿はかわらない。

【修行門(南)】 三浦山

 王滝村から県境を越え、岐阜県側にそびえる拝殿山を指す。古くは裏木曽と呼ばれたこの一帯は、美濃から木曽へと結ぶ要所でもあった。

【涅槃門(北)】 鳥居峠

 江戸から中山道をたどり、初めて御嶽山を仰ぐことができたところ。木祖村藪原宿と楢川村奈良井宿の間に位置するこの峠は、古来木曽街道随一の難所として知られていた。


【義仲硯水】 (右上) 13:55

 上記「御岳山 眺望所」の立て札の所から下り階段があり、降りると神社入口からの道に合流する。

 合流する寸前に右へ降りると古い井戸がある。これが「木曽義仲の硯水」である。

 下まで降りてしまっても右手に案内板があるので分かる。

【硯水の伝説】

 むかし木曽義仲が、木曽の宮ノ越で平家討伐の旗挙げをして、北国へ攻め上がるとき、鳥居峠の頂上で、戦勝祈願の願書と認(したた)めさせて御嶽山へ奉納したときの硯の水と云い伝えられている。


【御岳手洗水鉢】 

 説明板が立っていて、綺麗な水が流れている。

 写真は、下記【藪原宿】の項の「現在の風景」を参照。

 この水は500m先の峠山からの湧水である。 この上 義仲硯水


【丸山公園】 

 御嶽山遥拝所から降りてきた場所が丸山公園で、写真のように道は三本に別れている。

 真直ぐ行くと句碑などが沢山建っている広場になっている。

 中山道は、左の道を降りて行く。その降り口に「JR藪原駅2.5Km」標識が立っている。

 この写真を写した場所から振り返って見たのが、下記【藪原宿】の項の「現在の風景」である。

【鳥居峠の句碑と古戦場】

【芭蕉の句碑】

○木曽の栃うき世の人の土産かな(木曽の栃 浮世の人の みやげがかな)

 俳句の書は、木曽の第十代代官山村良喬(たかてる)(俳号風兆)。碑の裏面に「雲雀の句はこの峠で詠まれたものではないので、この栃の句に建て替えた」ということが刻まれている。天保十三年(1842)に藪原の俳人桃暁(とうぎょう)らによって建立された。

○雲雀よ里うへにやすらふ嶺かな(雲雀より 上にやすろう 峠かな)

 いつ誰が建立したものかは不明。句の上部に「はせを翁」(芭蕉翁)とある。句は大和の臍峠(ほそとうげ)で読んだものである。

【法眼護物(ほうげんごぶつ)の句碑】

○嶺は今朝ことしの雪や木曽の秋(峠は今朝 ことしの雪や 木曽の秋)

護物は伊勢の人。僧侶(法眼)で俳諧の研究者。

【月雪花(げつせっか)の句碑】

 碑の頭部は欠けているが、建立時の記念句集から次の三句であることは明白である。

○雲ならば動きもせふに山桜(雲ならば 動きもしように 山桜)  道元居

○染上し山を見よとか二度の月(染め上げし 山を見よとか 二度の月)  以雪庵

○雪白し夜はほのほのとあけの山(雪しろし 夜はほのぼのと 明けの山)  雪香園

 華表嶺眺望

 いずれも木曽の俳人仲間の師。「月雪花」は、四季折々のよい眺めという意味であり、「華表嶺」と鳥居峠のことである。いずれも鳥居峠の眺めの良さを読んだものである。

【鳥居峠古戦場の碑】

 明治三十二年八月木祖村の有志によって建立されたもの。戦国時代の終わりごろ、天文十八年(1549)と天正十年(1582)に、木曽氏の軍勢が甲斐の武田軍を、この峠で迎え討ったことや、峠の様子などが書かれている。藪原の「青木原」、奈良井の「葬り沢」など、時代をしのぶ地名が記されている。

【鳥居峠】

 木曽郡の北東鉢盛山と、木曽山脈の主峰駒ケ岳との間を連立する山脈が中山道によって横断されるところが鳥居峠で木曽路の北端楢川村木祖村の境にある。

 海抜1197mの峻嶺で、木曽川と信濃川の上流の奈良井川の分水嶺をなしている。峠の東麓が楢川村奈良井で西麓は木祖村藪原であり、頂上は木祖村に属し藪原駅から約3Km奈良井駅から約3.6Kmある。そこの眺望は非常によく、西に霊峰御嶽山、南に駒ケ岳の雄峰が目の前にながめられる。

 旧中山道筋に当る峠路は、新緑・紅葉ともに美しく、ハイキングコースとしては最適で、昭和四十六年信濃路自然歩道として長野県より指定されている。

 峠路の開通は歴史が古く、和銅年間に開かれたという「吉蘇路」をこれに当てている。はじめ県坂といい、中世においては、ならい坂、あるいは藪原峠と呼ばれ、明應年間になって木曽領主木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時、この頂上から西方はるかに御嶽権現を遥拝して、戦勝を祈願、霊夢によって勝つことができたのでこゝに鳥居を建立、それよりは鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている。  (木祖村


【石畳】 14:20

 丸山公園からは、急坂ではあるが奈良井側より広めの歩きやすい道を下るとやがてU字になっている車道と合流する。

 合流したところに三つ目の「熊除けの鐘」がある。勅使河原郁恵さんが鳴らした鐘である。

 車道をまたいで石畳の道が少し続く。

 赤い「原町稲荷社」が左側に見えてきたら、そのすぐ先に鳥居峠の大きな看板が立っている場所に出る。ここで鳥居峠越えは終わりである。

 


【天降社】 (左側) 14:35

 鳥居峠の看板から舗装道路を下りてゆくと右側に消防署がある広い道路にでるので、これを横断して六角形の家の方に向かって行く。

 消防署の向かいにトイレがある。

 程なく鳥居の後ろに大モミジがある天降社に着く。紅葉の時期に見たいものだ。

【天降社の大モミジ(カエデ科)】

 モミジは紅葉が美しいので名づけられ、その葉がカエルの手のようだというので古くは「かえるで」と呼んでいた。

 県内にはかえでの巨木はあまり多く見られないが、この木は樹幹の美しい村内唯一の木である。

 


【尾張藩藪原御鷹匠役所跡】 (右上) 14:40

 JR中央線が見えてくると、右に登る道があって、眺めの良いところに出る。ここがかつてお鷹城と呼ばれた場所である。

 ここは尾張藩が鷹狩り用の鷹のひなを確保するために設けた薮原御鷹匠役所(俗にお鷹城と呼んだ)跡である。享保十五年1730)に設置され明治四年(1871)に廃止された。毎年五〜六月になると尾張藩鷹匠方の役人が出張し捕らえてきた鷹のひなを飼育した。木曽谷のうちでも味噌川からおろす子鷹は特に優秀であったと言われる。ここを今でもお鷹城と呼んでいる。

(木祖村教育委員会)

 写真の左端に立っている説明板は「眺望案内」であるが、さびのため判別不明の箇所があるのでここには載せないが、正面の山は三沢山(1318m)とのこと。


【飛騨街道追分】 (左側)

JR線に沿って下る途中の左側に標柱のみ立っている。

ここは、中山道と飛騨街道が分岐していた場所である。

この坂道は中山道で京と江戸を結び、左手の細道は飛騨街道で奈川道とも呼ばれ、境峠、野麦峠を経て高山に通じている。道ははなはだ険岨で馬の通行は困難であった。(これ以降の文書はかすれて解読困難だった)


【藪原宿】 日本橋から65里35町(259.1Km)、京へ69里35町 (274.8Km)
 天保14年(1843)で人口1,493名、総家数266軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋10軒。

木曽街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水 (英泉)

  鳥居峠周辺の風景を一つにまとめて描いている。

左に副題の「硯ノ清水」、その上に芭蕉の句碑(雲雀より〜)

そして遠方の山は、もちろん御嶽山である。

現在の風景は、南から峠方向を写したもの。

左端が「御岳手洗水鉢」、そのすぐ右横の細道が「硯水」への登り口、

二本立っている右側の松の根元に見える階段が「遥拝所」への上り口、

一番右の太い道が「御嶽遥拝所」を通らずに鳥居峠へ登る道。

京側(藪原方面)から登ってきた人は、「硯水」への細道を登り、

「硯水」横の階段から「遥拝所」に行くと良い。


【藪原宿本陣跡・旅館米屋】 

 「飛騨街道分岐点」を右折(鋭角に後方に下がる)してJRの線路上の歩道橋を渡り、下りた道を少し進むと左手に本陣跡の標柱のみ立っていて、その先に旅館米屋があるとのこと。これをインターネットで事前に調べていたが、メモを見忘れて私たちは行かなかった。

 前方右側に見える道に真直ぐ行きたいがJR中央線の線路で分断されているので、線路沿いを下り、右折して線路下をくぐると藪原の町に入る。ガードをくぐらずそのまま真直ぐ行くと「藪原神社」であるがこちらも行かなかった。本陣跡を含め次回車で寄ってみようと思っている。

 「本陣跡」へは、ガードをくぐって右折しても近い。


【防火高堀跡】 (左側) 14:4

 ガードを くぐって左折すると、まもなくある。

 元禄八年(1695)薮原宿大火の後、防火を目的に各戸の間口を一間に付き一寸の割合で出し合い、寄せ合わして路地を生み出し広小路を設けた。後年そこに石垣を築いて基礎とし、その上に土塀を設けて防火に備えたもので、この石垣は当時のままのものである。

 


【宮川漆器店】 (左側)

 町の中ほど左側に「宮川漆器店」がある。

 宮川家は140年続いた医家で、江戸時代から明治時代にかけての医師の道具等が、奥の土蔵で公開されている。

 


【篠原商店(お六櫛問屋)】  (左側) 14:53

 漆器店のすぐ先にある。藪原にきてやっと浮世絵に出てくるような雰囲気のいいお六櫛店に出会った。

 「鳥居峠入口」の項でも述べたが、「てくてく旅」にも登場したご夫妻が表に出ていたので、「さわやかウォーキング」などの話を聞くことができた。

 しかし、過去にお土産で頂いたお六櫛を沢山持っているので、申し訳ないが話だけ聞いて櫛は購入しなかった。


【高札場跡】  (右側)

 藪原駅の少し手前に標柱のみ立っているが、説明文はかすれて読み取りにくかった。

 江戸時代、宿場の入口などに設け、駄賃、法度、掟書など板札に書いて高く掲示した場所である。藪原宿ではこのあたりに高さ二間三尺巾二間四尺のものが建てられていた。この高札場は「御判形」とも呼んでいた。左坂下の町名を出口といい、京方からは宿場の入口にあたり、枡形(鍵の手)の形をなしていた。


【藪原駅前】  15:00

 宿場のはずれ(藪原駅手前)で線路の反対側に行くのだが、ここの地下歩道はユニークな山小屋風で、小屋の中に入って行きトンネルをくぐる(左の写真)

 藪原駅前にはトイレとベンチがある。

 駅前を過ぎて下の道ではなく、井筒屋旅館・勇屋旅館前の上の道を行き、国道19号線に合流する。ここで名古屋まで151Kmの標識が出てくる。


 旧道は「獅子岩橋」の手前で左の道(廃道になった旧国道)を行くのだが、すぐ「鷲鳥橋」で国道と合流する。この辺りの国道の歩道は右側だけにあり前後に横断歩道がない為、私のように旧道にこだわらない人は大変危険なので、国道横断はやめた方がいいと思う。

 やがて見えてくる「吉田洞門」では、右側(川沿い)の歩道を行く。ここはトンネルの外なので充満した排気ガスを吸わないで済むのは有難い。

 右側、山小屋風の吉田停留所内のベンチで小休止。2回目の朴葉餅を食べる。(15:40〜15:50)

 鉄橋(吉田橋)が見えてきたら、その手前の横断歩道を渡り、左側に架かっている歩行者用の橋を渡る。川を渡ったらすぐ左折して川沿いの歩道を行く。国道19号線に出たら注意して国道を横断し、山吹トンネルの手前を右に入る。こちらも今は使われなくなった旧国道である。川沿いの静かな道で(左の写真)、トンネル内を通らずに迂回できるのは嬉しい。

 山吹トンネルの宮ノ越側口で現在の国道に合流。

 山吹橋を渡ったら、 「宮ノ越宿」の大きな看板が立っているところを右折する。この十字路を直進すると木曽氏の氏神「南宮神社」。次回車で寄ることにして、今日はこのまま「巴が渕」に向かう。

【余談】

山吹橋手前の左側歩道を歩いているとき、車道との境に立っているポールが無残になぎ倒されていた箇所があった。丁度通りかかった人の話では、2〜3日前、宮ノ越方向に向かっている車がカーブで曲がりきれずに一段高い歩道に乗り上げ、石の壁にぶつかった反動で反対車線に行き、そのまま山吹橋右手前のガードレールを突き破って川へ転落したとのことであった。

そのガードレールを修理している最中で、反対側から見たら、国道(橋)から川底までかなりの高さがあり、これではとても助からなかっただろうと思った。スピードの出し過ぎは怖いと改めて実感 する。


【巴が渕】 (右側) 16:30

 JRのガードをくぐると程なく巴橋に到着。橋手前右側に石碑と展望台があり、左手にトイレがある。

 

【木曽三川三十六景の一 伝説の残る巴が渕】

歴史が漂うこの渕は、巴状にうずまき、巴が渕と名づけられた。

伝説には、この渕に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前と云った。義仲と戦場にはせた麗将巴御前の武勇は、痛ましくも切切と燃えた愛の証しでもあった。巴御前の尊霊は再びこの渕に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。

絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いては武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと、乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。岩をかみ蒼くうずまく巴が渕、四季の風情が魅する巴が渕。木曽川の悠久の流れ共に、この巴が渕の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。

蒼蒼と巴が渕は岩をかみ 黒髪愛しほととぎす啼く

(日義村 日義村観光協会)

【日義八景巴ケ渕の春風】

美人何地去 千載水悠々

中有盤渦処 猶作巴字流

木曽の代官山村良由公の詩にあるように、この渕に水流が巴を作ってうずまいていた。義仲公の養父権之守、仲原兼遠の娘である巴御前は美人であり、女傑であったことは、あまりにも有名であるが、この渕に住んだ龍神が化身して公の義勇を助けたという伝説の中に、天下の風雲児義仲公に対する私達の祖先が、いかに味方したかが偲ばれて面白い。清水のこんこんと湧く泉があり、木曽殿が産土南宮神社を拝するときの手洗水としたと云われ、今も石舟が残されている。これより西に通づる道は、中仙道である。大名行列がとおり、馬や篭が片端(徳音寺区)をへて宮越宿にゆるゆると進んだ面影があり懐かしい。春の梅花の期、特に美しい。  (日義村観光協会)


【南宮神社 手洗水】 

 巴橋を渡った突き当たりにあり、石垣から清水が湧き出している。

 往昔木曽義仲公鎮守南宮神社手洗水也 唱來發年歴事歎今新石船造立仕者也  (願主 村中)


 今日は原野駅まで歩く予定だったが、巴が渕で予定時間をオーバーしたので宮ノ越駅で終了することにした。事前に印刷してきた時刻表を見ると、次の16:47発を逃すと1時間以上待たなければならず、巴が渕で16:30だが、賭け覚悟で大急ぎ駅に向かうことにした。疲れた足に鞭打って驚異的な速さで歩いたので何とか間に合ったが、後で調べたら1.5Kmを15分で歩いたことになる。時速6Kmであった。結局電車は3分遅れで来た。



 19回目の旅は、16:45に宮ノ越駅で一旦終了し、電車で木曽平沢に戻り、楢川小学校までの抜かした道をつなぎ17:30に正式終了とする。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、15.0Km(木曽平沢駅入口〜宮ノ越駅入口交差点)

          日本橋から六十七里三十五町(266.9Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.8Km(木曽平沢駅〜宮ノ越駅) 累計326.0Km

          7時間15分 28,500歩。

 

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