宮ノ越 宿・福島宿・上松宿 (宮ノ越駅 → 上松宿「田政旅館」) <旧中山道20回目>

 

2007年10月6日(土) 晴

 自家用車で宮ノ越まで行き、車で「南宮神社」「旗挙八幡宮」「徳音寺」「義仲館」を見学した後、駅前に駐車して、ここ を9:50スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「奈良井宿・藪原宿」 ← 「目次」 → 「須原宿・野尻宿」

 

 今年の8月16日に埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市の二ヶ所で観測史上最高気温40.9℃が記録された。これまでの日本最高気温は、昭和33年に山形県山形市で記録された40.8℃で、今回49年ぶりに更新されたことになる。

 幸い私達は猛暑のこの週に、涼しい中国の九塞溝・黄龍のツアーに行っていたので良かったが、とても街道歩きなどできない夏であった。


 9月の中旬にやっと猛暑が収まったので、今回の行程を9月15日・16日で歩く予定をしていところ、娘が突然「歩くのはいやだが、古い宿場を見てみたい」と言いだした為、 この両日は木曽路をドライブすることなってしまった。

 そのとき見学した場所は下記の通りで、この先中山道歩きで訪れる為、その都度このHPに載せることとする。

 1.木曽漆器の平沢の町並み:車の車窓から見学(18回目参照)。

 2.奈良井宿:「道の駅・木曽の大橋」に駐車して奈良井宿内を見学(19回目参照)。

 3.宮ノ越宿:巴ヶ渕を見学(19回目参照)。

 4.福島宿:関所の無料駐車場に車を停め、関所跡を見学。但し、資料館には入館しなかった。 宿場内は車窓見学。

 5.木曽の桟:対岸に渡り見学。

 6.寝覚の床:入口の国道19号線沿いにある「越後屋」で美味しい手打ち蕎麦の昼食後、ここに車を置かせてもらって寝覚の床を見学。

 7.小野の滝:見学用駐車場あり。

 8.妻籠宿:有料駐車場(¥500)に車を停めて宿内を見学。 妻籠・馬籠・恵那・大湫・細久手は4年前に息子ともドライブした。

 9.馬籠宿:入口の無料駐車場に運良く駐車できた。宿内を見学。

10.柿野温泉:土岐市の南10Km強に位置する温泉で、「八勝園・湯元館」に宿泊する。インターネットの「利用者の声」で料理と温泉が良いとのことで決めたが、男の私でも食べきれない程の量と美味しい料理 、湯はぬるぬるだが肌がつるつるになるジャングル風呂など大満足の宿だった。建物は古いが家族経営で隅々まで掃除が行き届いているのも良かった。特にこの日の一般客は3組だけ で残りは団体客だった。団体が宴会中に温泉に入ったら誰もいなく独り占め出来たのは最高。妻娘も独占だったとのこと。

11.世界一の美濃焼き狛犬:国道363号線を中津川に向かう途中の大川にある。現場で焼いた本当に大きな狛犬だった。 ただし大雨。

12.明智町(大正村):363号線沿いで明智光秀の出身地。町のいたる所に大正時代の建物が保存されているテーマパークの様な町である。町に着いたら雨もあがり陽が出てきたので車を駐車場に入れて町を散策。わらぶきの 移築古民家では竹細工の籠が材料代だけで手間賃も無いほど安かったから早速購入。また、煤竹で作った耳かきが珍しかったので友達の土産と10本ほど買ったら更に2〜3本サービスしてくれた。その時丁度竹細工の製作者が 実演していたので話を聞くことができた。その後その竹細工人がコーヒーをおごるからついてきなさいと言われ、近くの喫茶店でモーニングサービス付きのコーヒーをご馳走になってしまった。 名古屋に近いためかカステラ・サラダ・ゆで卵が付いてサービス満点 。450円でやっていけるかと思える程で昼食前にお腹が一杯になってしまった。沢山買ってくれる人には毎日の様におごっているらしく、これでは赤字ではないかと恐縮してしまった。天皇家にも多くの有名人にも作ってあげたそうである。

13.岩村町:363号線沿いで国指定重要建造物保存地区に指定されている古い町並みが美しい。雨のため車窓からの見学となってしまった。

14.恵那峡:奇岩の「きのこ岩」と恵那峡大橋の展望台から恵那峡を見学。

15:大湫宿:車窓見学。

16.琵琶峠:登り口と下り口のさわりだけ歩く。

17:細久手宿:車窓見学。

 土岐ICより東名高速周りで帰宅したが、3連休のため途中大渋滞だった。


【南宮神社】 (国道19号線・左奥)

 中山道は山吹橋を渡った所から右折するが、そのまま直進して200〜250m行った左の小道を入る。木曽義仲の戦勝祈願所。

南宮神社の前身は、村の鎮守として古代には南西約一キロメートルの『古宮平』にあり、宮ノ越の地名はこの宮の腰(中腹)を意味するといわれています。

 後に木曽義仲が美濃関ヶ原の南宮大社を分祀勧進し現地に移したものといわれ、義仲の戦勝祈願所となった場所でもあります。

 祭神は天照大神の兄神、金山彦命で、武運、富致、厄除、安産、養蚕の神として近在の参拝者が多く訪れます。

 社殿、拝殿ともに総桧造りで、江戸元禄時代に再建され、その後も風水害のため度々改築補修されています。 

 蒼く茂る桧林の中、山陰にそそり立つ岩壁の下に清流がせせらぎ、夏の涼しさは格別の神域となっています。


【旗挙八幡宮】 (国道19号線・ 右奥)

 南宮神社より更に250mの右の道に入り、150m入った所にある。 

 義仲が平家打倒の旗挙げをした神社。

【旗挙八幡宮の由来】

 幼名を駒王丸と名付けられ養父中原兼遠によって育てられた。

 義仲公は、このあたりの平地に城をかまえ八幡宮を祭ったと伝えられている。十三歳にして元服。

 木曽次郎源義仲と改め、治承四年(1180)一千余騎を従え、ここに平家打倒の旗挙をした。時に義仲二十七歳であった。以後旗挙八幡宮と呼ばれている。

 社殿傍の大欅は樹齢約八百年と伝えられ、公の時代より生きつづけ、落雷により傷ついたその姿は、悲劇の武将を語ってくれるかのようである。

【木曽義仲公ゆかりの大欅(けやき) (下の写真)

 この御神木である大欅は、かつては胸高周囲約十二メートル、樹高約三十メートル、樹齢約八百年とされる古木(支柱のある部分、農学博士であり樹医である浜武人氏の平成十四年の調査による)でした。当地、日義村内には古くから、『義仲の七本欅』とよばれるケヤキの巨木があり、現存するのは当旗挙八幡宮のこのケヤキのみです。

 旗挙八幡宮の所在するこのあたりは源木曽義仲公が館を構えたところであり、この地において高倉富(以仁王)の令旨を賜り平氏打倒に挙兵したものであります。今から約八百年前の治承四年(1180)のことです。このケヤキはその樹齢が約八百年といわれていますので、この頃に植えられたものと推定され、また義仲公の元服を祝って植栽されたものともいわれています。

 しかし平安時代末期から生育する木曽義仲公ゆかりのこの大欅は、落雷・台風の被害により手前の幹は折れ、近年その樹勢が衰え、残りの幹もその姿をとどめておくことが困難であることがわかり、より永い延命と保存のためにその生命力を枝一本にかけることになり、現在の御姿にかわることとなりました。平成十四年三月のことでした。

     平成十四年六月吉日  旗挙八幡宮


【徳音寺】 (宮ノ越駅前右奥)

 中山道の「巴が渕」に戻り、巴橋を渡って木曽川の右岸を行くと「葵橋」に出る。中山道はこの葵橋を渡って左岸に戻るのであるが、「徳音寺」と「義仲館」に行くには橋を渡らずに直進すると良い。程なく右側に徳音寺、左側に義仲館がある。

 徳音寺は、義仲の菩提寺で、義仲・母・巴御前の墓があるが、社殿廻りを修理中で通行止めになっていた。

【日照山徳音寺】

 仁安三年(1168)義仲公の御母小枝御前の菩提所と平家追討の祈願所として木曽殿が建立した柏原寺が前身であり、寿永三年公の討死の後、大夫坊覚明上人が朝日将軍の名を後世に伝えん為山号を日照とし法名により寺名を徳音と改め義仲公の菩提寺といたしました。天正七年(1579)大安和尚中興し臨済宗妙心寺派に属しました。二度の水害に埋没し正徳四年(1716)現在地に建立され古来木曽八景徳音の晩鐘として往来の人々にしたしまれてきました。

 四十二年秋、宝物殿、宣公郷土館ができ義仲公の遺品や郷土の文化財を集収展示してあります。

【徳音寺山門】 日義村指定文化財(昭和57年3月指定)

 この鐘楼門は、木曽義仲二十四代の孫木曽玄蕃尉義陳の発願により、尾張藩の犬山城主成瀬隼人正藤原正幸の母堂が施主となって、享保八年(1723)に巾番匠棟梁藤原朝臣大和流狩戸弥兵衛久正の手によって建立されたものです。

 この門は、桁行三間梁行二間の重層楼門で、軸部の構成、組物は唐様(禅宗様式)であり、全体に調和がとれ安定した楼門です。しかも、装飾的な無駄がなく簡素の美を構成している点が賞せられます。

 弘化二年(1845)と、平成八年(1996)に修理はされているが、木曽における江戸時代中期の楼門建築を代表するものとして、よくその姿をとどめています。

     日義村教育委員会


【義仲館】 (宮ノ越駅前右奥 )

 入口に義仲と巴御前の銅像が建っている。資料館には入らなかった。

 「義仲館」は、平成四年に開館した木曽義仲の生涯に関する歴史資料館です。

 建物は全体が武士の館を模して造られており、資料館と舞台を備えています。

 日義村出身の画家田屋幸男による義仲の一生を描いた大作や、古文書の写し、絵画、当時の生活用具、義仲公や木曽氏にまつわる資料が数多く展示されています。

  開館時間・・・午前九時〜午後五時

  休館日・・・・・月曜日(月曜が休日の場合は火曜日)

  入館料・・・・・大人三百円・中学生以下は無料

 義仲館から義仲橋を渡って真っ直ぐ行くと突き当たりが宮ノ越駅。

 駅入口の信号を右折すれば中山道に戻る。 


【宮ノ越宿】 日本橋から67里32町(266.6Km)、京へ68里2町 (267.3Km)
 天保14年(1843)で人口585名、総家数137軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋21軒。

木曽海道六十九次之内 宮ノ越 (広重)

 宿場のどこであるかは特定できないが、満月の夜家路を急ぐ親子か。

巴橋と義仲橋の中間にある「葵橋」。中山道はこの橋を渡る。

この橋を渡って真っ直ぐ線路を越えれば「旗挙八幡」に行ける。


【本陣跡】 (左側)  9:52

 宮ノ越駅を過ぎるとすぐの所に「本陣跡」の説明板、「明治天皇御小休所址」の石碑と正面に「中山道宮ノ越宿」・側面に「江戸より六十六里三十五丁」と書かれた木柱が立っている。

 宮越宿は中山道のちょうど中間地に位置し、脇街道の伊那へぬける権兵衛街道との追分ともなっていました。

 宮越宿本陣は、徳川幕府による中山道六十九次の宿駅制度確立とともに整備され、明治三年(1870)宿駅制度廃止まで続きました。

 天保十四年(1843)の本陣絵図では、往還に沿って、間口九間奥行十八間、十六坪の中庭と裏に庭園と土蔵一棟があって、敷地面積一九四坪となっていました。表構えは、西に表口、中央式台を上がった処に十五坪の板の間を置き、左に門玄関、北側に仮門を構え、その正面奥に、式台玄関があって、十八畳の大広間の奥が上段の間という本陣の基本形を備えた規模の堂々たる屋敷を構えていました。

 建物は、明治十六年(1883)大火で全焼し、以後のものですが、中山道木曽街道に於いて、江戸時代のままの遺構が現存するのみです。

     日義村 宮の越宿保存会


【宮ノ越宿民家田中家】 (右側)

 本陣跡のすぐ先にある。元旅籠屋であるが明治16年の火災で再建されたもの。 

 田中家は宮ノ越宿の旅籠であったが、明治十六年(1883)の火事で母屋は焼失した。この建物は火事の際運び出した建具をもとに再建したものである。

 間口四間、二階出梁造りで、一階の格子と二階の障子戸の対比が美しい。入口の大戸を入ると土間が中の間まで続き、裏へ抜けるようになっている。

 表から十畳のミセノマ、ナカノマ、ザシキと続き、ナカノマに囲炉裏が切ってあり、箱階段で戸棚があるのは宿場民家の典型的な間取りである。ナカノマは吹抜きで煙出しと採光を兼ね、太い梁や二階の障子が美しい空間を作っている。

 日義村の原野宮ノ越からは江戸時代に大工集団が遠く甲斐(山梨)三河(愛知)駿府(静岡)まで出かけ、なかには諏訪の立川流の流れをくむものもあって、各地の神社や民家の建築に携わりその技術は高い評価を得ている。この民家の入口の彫刻は宮ノ越大工の民家建築の水準を表すものであり、この地区にはまだ他に二階出梁の持送りなどに彫刻を施したものが見られる。これらの彫刻は、大工棟梁が施主(建築主)への祝儀とする習わしがあった。

     平成十年弥生吉日  日義村教育委員会


【明治天皇宮ノ越御膳水】 (左側)

 田中家のすぐ先に井戸が復元されている。

【井戸の由来】

 この井戸は、江戸末期(1866年頃)町内の飲用水を得るために掘られ昭和初期まで近郷随一の名水として永く人々の生活をささえてきました。その後水道の普及により廃止されました。

 井戸の石積は当時のままの姿を残しております(道径11m、深さ80m)。明治十三年六月(1880)明治天皇中山道ご巡幸のみぎり、旧本陣にお小休みされた際この井戸水をもってお茶を献上されました。以来明治天皇御膳水と呼ばれるようになりました。

 現在の建物は町内の旧跡保存の熱意と村の援助により復元されたものです。

     平成七年四月  下町組

 


【一里塚跡】 (左側)

 やがて建物にSHOWAの文字が書かれている「昭和産業木曽生コン」工場が見えてきたら、その工場入口の左側草むらに文字が殆どかすれてしまった木の標柱が立っているだけで、一里塚の雰囲気は何もない。

 JR中央線の踏切を越えると、間の宿「原野」へ入って行く。原野駅入口を過ぎると左側に「墓地守護石人像」が並んでおり、韓国風の石像が面白かった。


【中山道中間点】 (左側)

 原野駅から500mの地点で左側にビニールハウスが見えてくると、その前の街道沿いに『中山道中間点』の案内板が見つかる。

 まず半分が目標だったのでホッとしたのと、新たな闘志が湧くものだ。

 ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方から六十七里三十八町(約268Km)に位置しています。

 中山道は、東海道とともに江戸と京都を結ぶ二大街道として幕府の重要路線であったことはいうまでもありません。

 木曽路というと深山幽谷の難所と思われがちですが、木曽十一宿が中山道六十九次の宿場として指定された慶長六年(1601)ころからは整備も行き届き、和宮などの姫宮の通行や、日光弊使・茶壷道中などの通行に利用されていました。

 栄泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数多くの名作を残していることからも変化に富むこの街道は旅人の目を楽しませてくれたに違いありません。

 また、江戸時代に木曽一円を治めていた代官山村氏は、中央との結びつきを深め、代々向学の士を輩出して政治、経済はもとより、文学にもその才を発揮し、木曽をして中山道のいう東西文化の接点ならしめたのです。

     日義村


 

中山道中間点から5分程の右側にトイレのある小公園があり、ここで休憩(10:35〜10:45)。

 やがて、スーパーIZUMIA(イズミヤ)が見えたら、手前130m程の所で右の細道に入る。イズミヤの横を通り、小沢センターの前の細い竹藪の道を左に下りる(上の写真)

下りる所に設置したばかりと思われる『中山道・この下の橋を渡り木曽福島へ』の案内板が立っているので分かりやすい。こんな超細い道でもれっきとした中山道である。これからもこのような道に何度も出会うようになる。

 下りきった草むらの真ん中で左方向に行く。真っ直ぐ右方向に上がると、上の写真の舗装路に戻ってしまう。

 やがて川にぶつかり前方の鉄の橋を渡る(下の写真)。この橋の支柱は大きな岩に固定されており、歩くところは網製で下が透けて見える。

渡ったら右に行くと草道が終わり舗装路になるが、そこから他人の庭に入って行くような道になる(下の写真で赤い屋根の家の左側)。民家の横の細い坂道を登ると左上に見えるガードレールの道に出られるので右へ進む。

 


【薬師堂・手習天神】 (左側) 11:15

 数分で「中原兼遠屋敷跡」と「木曽義仲元服の松」の看板が出てくる。共に550m奥なので行かなかったが、兼遠の妻が木曽義仲の乳母であった縁から幼い義仲をかくまい養った屋敷である。

 その隣に「二十三夜」の石碑、「薬師堂」、「手習天神(てならいてんじん)」が並んでいる。

【手習天神】

 このお宮は、古くは山下天神とよび、木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられています。

 源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っています。

 境内の「一位(イチイ)」の古木は名木として知られ、中山道を往来する旅人は必ずここに杖をとめ参詣したものといわれます。

 このお宮の祭りは、毎年八月二十四日、二十五日の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が大正の初期より行われています。

     木曽福島町


【経塚】 (左側)

 国道19号線に合流してしばらく行くと、右側の蕎麦「くるまや」の国道反対側に「経塚」の碑が見える。

 この経塚は、初代木曽代官山村良候が、慶長年中に家臣の川崎又右衛門(祖要坊)を伴って、全国の霊場を廻って大乗経を納め、記念として塚を築いて松を植えた。年を経て知る人もなくなったので、第五代の山村良忠が曾祖父良候(号道祐)の百年忌にあたって、碑文を刻み建立したもので、「○の中に一」は山村氏の家紋である。文は長男の山村良林で後の第六代代官山村良景の書である。

 建立は元禄十四年(1701)十一月二十日

 さらに左の大日如来座像は、元禄十五年に造立したものである。

     木曽福島町


<昼食> 11:45〜12:25

 丁度昼時になったので蕎麦処「くるまや」に入る。蕎麦は極端に程腰が強く、柔らかめが好きな私には硬すぎた。 


【福島宿】 日本橋から69里24町(273.6Km)、京へ66里10町 (260.3Km)
 天保14年(1843)で人口972名、総家数158軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋14軒。

木曽海道六拾九次之内 福し満 (広重)

 関所の西門から中を覗いたところを描いている。

関所跡を東門から中を覗いたところ。

後ろの建物は「福島関所資料館」。


【福島関所跡】 国史跡(昭和54年3月13日指定) (左側) 12:40〜12:55

 街道は、「くるまや」を斜め右に入り「木曽大橋」の下を潜る。すぐ国道に出るが、福島トンネルの方に行かず再び国道と別れて真直ぐ行くと大きな冠木門が見えてくる。

 左側に渡り、冠木門をくぐって行けばそのまま真直ぐ関所跡に入って行く。

 隣が史料館で入館料は300円だが、「高瀬家史料館」「興禅寺」「山村代官屋敷跡」との4館共通券が1000円で購入でき、全部入館すると300円お得である(特に興禅寺は500円取られるので共通券を勧める)。

 下の写真は西門と資料館。

[4月〜11月]営業時間/8:00〜17:30  定休日/なし(11月は16:30閉館)

[12月〜3月]営業時間/8:00〜16:30  定休日/毎週木曜日、年末年始

 福島関所の創設された年代は明らかではないが、中山道の開かれた慶長七年(1602)をあまりくだらない頃のことと考えられ、中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居とともに当時天下の四大関所と称していたものである。

 当初から木曽地方の代官山村氏が代々その守備に任じ、明治二年六月までその機能を果たしてきた。

 この関所は、各藩境等に見られる番所の類と機能を異にし、特に「女改め」と「鉄砲改め」とに重点が置かれていた。

 中山道が東海道と共に当時江戸と京都を結ぶ幹線の道路とされていたことや、「女改め」の手形の本紙はこの関所に留め下り(江戸へ向かうもの)のものについては、ここから碓氷関所へ「書替手形」を発行する、とされていたことなどからみて、この関所が、徳川幕府による交通政策上、いかに重大視されていたかがうかがわれる。廃関後、関所の諸施設は、全部取り壊されてしまったので、当時の面影はほとんどとどめていなかったが、昭和50年夏に行われた発掘調査の結果、寛文年間(1661)〜(1670)頃のものと推定される。

 関所古絵地図にみられる

  一.御関所敷地   弐拾五間三尺

  一.敷地是より大道北の柵迄拾六間

  一.御関所間口五間  奥行五間

  一.下番所間口三間  奥行六間

  一.東門外に駒寄   拾五間一尺五寸

  一.捨門(西門)外に柵七間五尺その先端駒寄四間四尺

  一.南側根の井山迄東門のつづき柵を三拾九間四尺

の規模にわたる、関所遺構の全容を確認することができた。これを史跡公園として整備保存する計画がたてられ、史跡公園に隣接して、昭和52年4月27日、当時の御番所建物を再現、関所資料館が完成し、昭和54年3月13日、文部省より国史跡として指定された。

 平成2年敷地内の民地の公有化にともない第二次発掘調査を実施し史跡保存、環境整備の一環 として平成4年度に東西両門と木柵および武家屋敷跡の公園化復元修景整備をしたものである。

     木曽福島町教育委員会

【福島関所の最高責任者】

 最高責任者は代官山村甚兵衛です。家老職がこれを補佐しました。山村代官は江戸時代に尾張藩主から木曽谷一円の行政上の支配権を託されましたが、関所破り等罪人の裁決権はありませんでした。

【福島関所の人員】

 およそ60名です。

 上番20名、下番40名、番所へは上番2名、下番4名を一組として当番勤務をしました。当番以外の役人は警護、見回り、使い(使者)などに出ました。

【通行手形や証文の手配】

 手形等は村の庄屋(村長)又はお寺で発行してもらいました。他領へ行く場合は本人申請→庄屋→代官所→その国の領主(殿様)の手順。江戸から出る時は幕府の家老、京都から出る時は京都所司代が発行しました。

【手形発行の費用】

 手数料などの決まりはありませんでしたが、その時代の慣習でお礼をしたと思われます。一説では0.5両とも言われており、当時の下級武士は3両もあれば遊んでいても一年間暮らすことが出来たとも言われます。

【最も多かった行列】

 かの有名な皇女和宮が京都から江戸の徳川家に嫁いだ時の御通行は人足だけで二万人余り、馬三千頭ともいわれ十日間くらい、引っ切り無しに通ったそうです。行列の先頭から最後尾まで30Kmもあったそうです。

【違反者の扱い】

 江戸時代前期は重罪でした。貼り付け獄門、死罪、遠島(島流し)、追放など罪の軽重によって違いました。関所では裁決できないので、道中奉行に罪状を報告し、幕府の人間が裁決しました。


【高瀬家資料館】 (左側) 12:55〜13:08

 関所史料館の隣にある。藤村の「家」のモデル。

【高瀬家について】

 当、高瀬家は藤原氏の出であり菊池肥後守則澄を祖として菊池家没落後、高瀬と姓を改め則澄より4代目高瀬四郎兵衛武浄が大阪冬の陣のころ、この福島に来てその子、八右兵衛門武声が代官、山村氏に仕えたのが木曽での初代であり、以来御側役、砲術指南役、勘定役等として幕末まで仕えたのである。

 資料館には藤村の手紙、軸、遺品類及び、当家に伝わった兵法書類他、江戸時代の木曽谷の諸資料を展示してあります。

【島崎藤村との関係】

 高瀬家14代薫に明治の文豪、島崎藤村の深く敬愛した、だた一人の姉、園が嫁いだのであり、小説「家」のモデルともなっている。

 園は小説「家」のお種。「夜明け前」のお粂であり「ある女の生涯」のモデルともなっている。

 又、藤村は当家に在宅の折、誌「夏草」をつくり出している。

     パンフレットより


【関所橋】 ( 関所跡の前)

 『吉蘇古今沿革志』に「関門下の橋を筏橋と言う。福島上味(うわみ)の橋、先年筏越にて満水の時分通路ならず、承応ニ巳年(1653)橋懸けりても筏橋の名存せり」とある。筏橋は、筏を連ねて浮橋としたものである。明治四十四年、昭和八年、昭和四十一年に架け替えられ「関所橋」と改められた。

 その昔福島祭の御輿がこの付近の川を渡ったことから、欄干はそのぎぼしをかたどっている。


【胡桃の実】

 この時期、胡桃の実が熟してきて街道のいたるところでいくらでも拾うことができた。

 私達も拾ったが、歩きでは多く持てないのでその場で外皮を剥いて50個ほど持ち帰った。

 この先、何十キロも拾っている人や庭先に沢山置いてあるのが各地で見かけられた。

 胡桃は良く洗って、2日程天日で干す。生でも食べられるが、煎り網で口先に亀裂が入るまで煎ると香ばしくて美味しくなる。割れたところを包丁等でこじれば簡単に実を取り出すことができる。 美味しかったので重たくなければ沢山拾いたかった。


【興禅寺】 ( 街道から右奥) 13:15〜13:50

 関所跡の前に架かっている「関所橋」を渡り、突き当りを右折すればすぐ門前に着く。

 庭園と枝垂れ桜がすばらしい。石庭は昭和37年作で枯山水の庭としては東洋一の広さと言われるが、池泉水の庭は江戸時代中期の作ですばらしい。義仲公御手植二代目の「時雨桜」は満開の時に是非見たい一本である (例年4月20日ころ見頃)。裏手には、木曽氏代々の墓と義仲の墓(分霊)がある。

 左の写真は、山門を入ってすぐの「昇龍の庭」、右の写真は看雲庭(石庭)。

 木曽義仲公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家代々の菩提寺で、木曽三大寺の一つである。

 当寺は永享六年(1434)木曽義仲追善供養のため、木曽家十二代信道公が荒廃していた寺を修復再建し、開山には鎌倉建長寺開山蘭渓道隆五世の孫、圓覚太華和尚を迎えた。よって、信道公を開基。太華和尚を開山としている。

 明応五年(1496)叔雅和尚の代に木曽家十六代義元公(叔雅和尚の父)の庇護を受けて大いに発展した。これにより、義元公を中興開基。叔雅和尚を中興開山としている。

 本堂をはじめ講堂宇は、昭和二年の福島大火によって全焼し、後に復興したものである。

【昇龍の庭(登竜門)】

 中国の黄河の上流に、三級岩という険しい滝があり、龍門瀑と呼ばれ、下流から泳いできた鯉は、この滝を登り、勢いよく昇った鯉は、そのまま龍と化して昇天するという。そのことから、元気の良い男子は龍となって天に昇るように「鯉のぼり」の風習が江戸時代に定着したのである。

 龍門瀑は、天竜寺庭園(京都市)、常栄寺庭園(山口県)、金閣寺庭園(京都市)、光前寺庭園(駒ヶ根市)、東光寺庭園(山梨県)などが知られている。

 この庭の場合は、親子三体の龍が昇天する姿を滝上部に表現し、下部には、これから龍とならんとする鯉魚石を表現している。

     設計小口基寛

【看雲庭】

 枯山水の庭としてしては東洋一の広さである。禅宗庭園として昭和三十七年に現代作庭家の巨匠重森三玲氏によって造られた。

【万松庭】

 池泉水の庭園で江戸時代中期金森宗和の作である。

【木曽踊り発祥の地】

 木曽信道公が先祖義仲公供養のために始められた。

 甲冑に身を固めた行列が、倶利伽藍谷の戦勝にちなんでたいまつに火を灯し、鉦や太鼓を打ち鳴らして向かいの山から本寺に至り、義仲公の墓前に詣で、風流踊り(木曽踊り)を踊って霊を慰めた故事によって木曽踊りの発祥の地という。


【山村代官屋敷東門跡】 (街道から右奥)

 中山道は関所前の道であるが代官屋敷跡に向かうため関所橋に戻らず、そのまま西へ向かうと「山村代官屋敷東門跡」がある。 

 享保二年(1745)四月に尾張藩主徳川宗勝が江戸を発って尾張へ帰る途中、山村邸に一泊しました。その時、藩主に従ってきた重臣であり、学者でもあった横井也有(やゆう)の紀行文「岐岨路紀行」の一節が石垣の石に刻まれています。

   俎板(まないた)のなる日はきかずかんこ鳥   也有

                    延享二年卯月十二日

「けふは福島にて山村氏が亭に入らせたまふ家居つきづきしくのしめ裃にてもてさわぎて何くれともてなしたてまつる。鯛鰤などの膳にひろごりたるけふは山家めきたる心地せず」

 石垣は延享四年に改修されました。その時石に刻まれ、後世たびたび改修されましたが、この石は当時のままにのこされています。

     木曽福島町


【山村代官下屋敷】 木曽福島町指定文化財(平成8年3月指定) ( 街道から右奥) 14:00〜14:15

 「東門跡」から「長福寺」の前を通り案内板に従って行くと程なく屋敷前に出る。

饗応料理(おもてなし料理)のレプリカが展示されていたが、その豪華さにA型の私は目が点になってしまった。

 山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江匡衡一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことにはじまり、木曽氏の重臣として活躍しました。後に、関が原に向かう徳川秀忠の先人を承って活躍し、勝利を得たことから木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となり、以後明治二年に至る二百七十四年間木曽谷を支配し関所を守ってきました。

 木曽の山林と四大関所の一つ福島関所の関守を兼ねていたその権力は強大で、その屋敷は豪壮を極めたものでした。文政十一年の絵図によると福島小学校を含む敷地に庭園が二十あり、そのうち築山泉水の庭が五つ、その一つが現存する下屋敷と庭です。

     木曽福島町

営業時間/福島関所と同じ


【本陣跡】 (左奥)

 代官屋敷跡から南へ「大手橋」を渡った先の「木曽」信号が中山道である。その信号を真直ぐ行くと「木曽町木曽福島支所」に突き当たり、その玄関前に「本陣跡」の説明板が立っている。

 福島宿は木曽谷の中心地として栄え、宿泊客で賑わっておりました。福島宿本陣は、徳川幕府による中山道六十九次の宿駅制度確立とともに整備され、明治三年(1870)の宿駅制度廃止まで続きました。

 大名など高貴なお方の宿泊のために設けられた宿を本陣といい、現在の役場及び役場前広場がその敷地で、一五〇坪の大きな旅館でした。敷地の入口に門があり番所もあって警護され、玄関から左奥に四つの部屋がつながってあり、その奥に殿様が泊まる上段の間がありました。上段の間には、専用の広い便所や六畳ほどの御湯殿もありました。中央に勝手と廊下があり両側にそれぞれ二通りの部屋が並んでいる堂々たる旅館でした。

 諸大名が泊まるときには、門前に「誰様御本陣」と立札を掲げ、玄関に幕を張りました。また夜になると高張提灯を立てたといいます。

 本陣は明治半ばに壊され、明治三十九年に役場庁舎が建てられましたが、昭和二年の福島大火で焼失し、その後現在の庁舎が建てられております。


【高札場】 (右側)

 「木曽」信号に戻り西へ行き、旅館「つたや」を過ぎ、隣の旅館「岩屋本店」前を左折する。坂を上りきった所に「高札場」がある。

 江戸時代、御条目やお触れは制札として一定の場所に掲げられていました。これが高札で、高札場の事を「御判形(おはんぎょう)」ともいいました。高札場は柵を結って近寄ることが出来ないようにして、中には栗石が敷き詰められていました。

 高札場は、宿村間の里程(距離)を測る基準として用いられましたので、容易には移設のできない場所でした。高札の文字の不明になった場合でも勝手に墨入れすることが禁じられ、領主の権限によって行われました。

 この高札場は、天保九年(1838)に八枚の札が掲げられている様子を再現したもので、上より「福島より上松への駄賃銭」「親子兄弟人の道」「駄賃荷物の定め」「きりしたん禁制」「徒党強訴の禁止」「毒薬売買にせ金禁止」「火付け盗賊五ヶ条の定め」です。

 この高札は、実際の三分の二の大きさに縮小してあります。

     木曽福島町


【上の段の町並み】 

 高札場から突き当たりまでの短い間が雰囲気のある町並みとなっている。

【古い町並みが残る上の段】

 古い町並みが残るこの地区を上の段という。

 宿場は江戸幕府の命により防塞の施設としても作られており、敵の侵入を阻むため道を「鍵の手」に折り曲げたり、急な坂道や道の両側に石垣を作ったり、いわゆる「桝形」を設けており、この地区にはその地形がそのまま残っている。

 また上の段には、木曽義仲から十九代目の木曽義昌の居城「上之段城」があったところで、その郭内として多くの道筋が通っており、由緒ある小路名が残っている。


【水場】 (左側)

 町並みの中ほどにあるが、飲めない。

 この先で左・右とクランクの下り坂になり、「中八沢橋」に出る。

 


【崖家造りの家並み】 (右奥)

 「崖家造りの家並み」を見学する為、中八沢橋の手前から一旦中山道から離れて川沿いの細道を行き「行人橋」に出る。左 の写真は、この行人橋の上から見た景観である。

【行人橋】

 この橋は戦国時代からあったといわれ、当時これより下流には橋がなく御嶽街道を往来する人々の出発点として「行人橋」と呼ばれてきた。

 現在地より百メートル程上流にあったこの橋は、享保二十年(1715)に架け替えられている。更に明治十三年・十七年に架け替えられ、大正元年(1912)木製トラス橋が架けられた。

 昭和十年に鉄筋コンクリート橋が現在地に架けられた。


 行人橋からは「八沢橋」を渡り突き当りの中山道に戻ったら右折して、木曽福島駅に向かう。

 八沢橋を渡った左側に木曽漆器発祥の地と言われる創業万延元年の「よし彦」、右側には木曽福島入口にあった蕎麦屋「くるまや」の本店(外まで並んでいるほどの盛況だった)、右折したところに旅館「むらちや」がある。  福島宿出口で14:45。

 駅前を過ぎた所の二又を左に上がり、すぐ右の車道の下に潜って行くような細い道を下りる(案内標識は無い)。

 「木曽町役場」に突き当たったら右回りの細道を下る。役場の壁に『中山道→』の小さな文字を見つけるのに手間取ったくらいここが中山道かと思う細道(左の写真)である。


【塩渕】 (左側)

 細道を下りて左に曲がったところに塩渕の説明板が立っている。

【ここは塩渕です】

 天正十二年(1584)の木曽義昌朱印状には、「上塩渕」、「塩渕中屋」、「塩渕彦三郎」の名がでてくる。享保九年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には、「家数拾四軒塩渕」とある。

 シオという地名は川の曲流部につけられることが多く、塩渕も木曽川の曲流部にできた渕とすると地形的にあっている。

 又、塩渕には次のような言い伝えが残っている。

 昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところ、その馬が、木曽川の渕に転落し塩をまいてしまったところから塩渕という地名がついたと伝えられている。

     木曽福島町史より


【塩渕一里塚】 (左側) 15:00〜15:10

 塩渕の説明板すぐ先の「塩渕くらぶ」の建物前に石碑が建っている。江戸より 七十里。

 御休処と書いてあったがベンチが一つだけあるのみだった。そのベンチで休憩。

 


【中平(なかだいら) (左側) 15:30

 一里塚を過ぎ広い道に出たら左折し、更に「県立木曽病院入口」信号で左に上がる道を行く。

 上の道に出たところに中平の説明板が立っている。

【ここは中平です】

 元禄七年(1694)の「岩郷村御役木惣百姓中ヨリ出ス高之覚」には中平は「長吉・長兵衛」の二人の名がでているが、享保九年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には中平の部落名はでてこない。明治十一年の「福島村誌」には「(川渕橋)同上、中平里に在り、里中の用水の下流に在り川渕一名中平と云う。長四尺幅二間二尺」とあり中平が川渕の一部であったと考えられる。天保九年(1838)の「木曽巡行記」には「中平は木櫛挽き売る」とありここには立場茶屋がおかれ木櫛を売っていた。

【川渕】

 現在の中平から塩渕までの木曽川べり(関西電力塩渕えん堤付近)に集落があったことが考えられる。享保九年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には「家数五軒川渕」とあり寛保二年(1742)の「福島村・岩郷村地図」には田沢の対岸に川渕とあるが、明治七年(1874)の岩郷村地図」には川渕はっていない。  

     木曽福島町史より


 国道19号線の赤い橋が見えたらその橋の方向に左へ上がって行き、橋の下を潜る(左の写真)

 すぐ古いトンネルが見えてくるので、その薄暗い中に入る(右の写真。ここで15:35)

 かつてはJR中央線のトンネルだったことが真ん中に待避所があることから分かる。

 小さな電球のみで暗くなったら一人では入りたくないトンネルである。

 10分ほどで国道に合流するが、「本橋」の信号を過ぎたらすぐ左折してJR中央線のガードを潜り、神戸(ごうど)の集落に入る。 

 いつもお世話になっている中山道を歩く人の嬉しい目印である赤いテープの矢印を見逃さないように。


【御嶽山遙拝所】 (右側) 15:55

 現在、遥拝所からは御嶽山が拝めないが少し先の開けたところから振り返ると良く見える。

 木曽の道筋の内、御嶽山の仰がれるのは鳥居峠の外は此の地だけで有る。遥かに王滝川の渓谷を通して仰ぐ御嶽の勇姿は其の信仰心をそそった事で有ろう。遥拝のため、鳥居が建設された此の鳥居は嘉永九年壬申毀損の記録が有るから相当古くから有ったものと思われる。此の遥拝所は御嶽山四方遥拝所の一つで、北は長峰峠、西は三浦山、東は鳥居峠、此の神戸のものが南方からの遥拝所で有る。嘉永二年山村良忠再建したが、それも亦朽損した。文政四年七月金剛院順明によって石の華表に建替えられた。石柱周囲五尺五寸、高さ三間で有る。境内二畝二十六歩である。(木曽福島町史より抜粋)

 木曽福島町町制百周年記念事業の助成を得て、石段、案内板、ベンチ、鳥居額縁を整備したものである。

     木曽福島町下条区

 JRの線路より低くなった所で「木曽の桟1Km」の標識があり、JRのガードを潜って国道に合流する。

 国道に出たところで名古屋迄133Kmの標識があるが、すぐ先で左の道を上がる。


【沓掛馬頭観音堂】 (左上)

 左の道に入ってすぐY字路になるが直線方向の右の道を進む。程なく2本の松が見えてきたら右へ行かずに線路沿いの草道を行く。

 舗装された道に出たらそのまま右へ下りて行くが、正面の林の方に登ってゆくと「沓掛馬頭観音」がある。

 霊験あらたかで有名なこの馬頭観音の縁起によれば、昔、木曽義仲公の名馬は人の言葉が分かりました。義仲が木曽の桟の絶壁に通りかかり目算で「七十三間とべ」と号令をかけました。馬は命ぜられるまま正確に七十三間とびましたが、実際には七十四間あったので、人馬ともに河中へ転落してしまいました。義仲は九死に一生を得て助かりましたが、かわいそうに名馬はなくなりました。そこで義仲は金の観音像を作らせて一堂を立てて馬の菩提を弔ったといいます。それがこの観音堂のいわれです。以前はもう少し南の観音坂にありましたが、明治四十三年の鉄道工事の折りに現在地一里塚の上に移築されました。


【沓掛一里塚】 (左側) 16:20

 観音堂入口から右へ下りて、国道に合流するすぐ手前の左側に一里塚の石碑がある。

 写真説明:上松側から写したもので、左が国道19号線、右の下りが中山道。電信柱のこちら側の白い案内板が立っているところに一里塚の石碑がある。

 この一里塚は上松の北の入口である沓掛にあります。昔は中山道の両側にありましたが、明治四十三年(1910)中央本線の鉄道敷設工事の折に、山側(西側)の一基は取り壊され川側(東側)の一基が残っています。上松で原型をとどめているのは、この一基だけで貴重な存在です。

  この一里塚の位置は 

     京へ六十六里

     江戸より七十一里です。

 国道に出たところに「ここから上松まで60分」の道標(写真右端)が立っている。


【木曽の桟(かけはし) 16:30

 沓掛一里塚から5分程で、赤い鉄橋のすぐ手前に桟が見えてくる(左の写真)

 鉄橋で対岸に渡ると全貌が良く分かり、説明板が立っているが、上記9月15日に訪れているので今回は渡らなかった(右の写真は9月15日に対岸から写したもの)。 芭蕉の句碑もある。

 また、対岸には桟温泉があり宿泊できる。

 木曽の桟というのは、対岸に見える断崖絶壁に木曽川に沿って作られた木の桟道のことをあらわしています。(対岸にかけられた橋ではありません。)

 これが火災で焼失したので、尾張藩により慶安元年(1648)ぬ、当時八百七十五両という大金をかけ、中央部を木橋とした長さ五十六間(102m)に及ぶ石垣をつくりあげました。

 寛保元年(1741)には、木橋の部分も石垣にしました。(中央部分の石積みが異なっています。)昭和四十一年国道19号線の改修工事で、史跡として石垣の一分が保存されることとなりました。上部断崖には明治四十三年のトンネル工法、平成十一年に完成した落石崩壊防止の最新工法の擁壁が見られます。

【芭蕉句碑】

  桟や 命をからむ 蔦かづら

 「更級紀行」より。桟には蔦が何重にも巻きついている。まるで自分の命を惜しむように桟にすがり付いているようだ。


 桟からしばらく国道を歩くが、右手に古い吊り橋が出てきた所から歩道が無くなり、非常に危険な歩行となる。かつてはこのあたりの木曽路は崖道の難所だったが、平成の時代でもトラックが間近に擦れ違うため歩行者には難所である。

 やがてJRのガードを潜ると難所も終わり、上松第3トンネルの手前を右に曲がると緊張が解けホッとする瞬間となる。古い国道に入ると静かになり、やがて上松の町が見えてくる。


【上松宿】  日本橋から72里3町(283.1Km)、京へ63里31町 (250.8Km)
 天保14年(1843)で人口2482名、総家数362軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋35軒。

木曽海道六拾九次之内 上ヶ松 (広重)

  有名な「寝覚の床」でなく木曽八景の一つ「小野の滝」を描いている。

明日訪れる予定の「小野の滝」

「寝覚の床」の先、上松駅より3Kmの所。


【玉林禅院】 (左側) 17:20

 「十王橋交差点」で左に曲がるとすぐ「中山道上松宿入口」の木柱が立っている。十王沢川に架かる十王橋を渡ると上松宿の古い町並みに入って行く。

 木曽家十六代目、木曽義元の二男にあたる玉林が創建したと伝えられる寺。推定樹齢二百年の黒松と山門が美しい調和を見せ、天神堂横のシダレザクラは毎年美しい花をつける。

【山門鐘楼】(写真)

 明治二十六年十二月に玉林院は火災にあい、本堂、庫裏は焼失したが土蔵とこの山門は幸いにも火災をまぬがれました。

 この山門鐘楼は、玉林八世凉潭・九世渇山両和尚の頃に再建されました。棟札によれば、明和三年十一月(1766)に落成しています。建立にかかわった人は多く、上松宿では庄屋、問屋の藤田治郎兵衛、原金右衛門他六名、東西在郷では田口庄右ヱ門他五名、建築大工は薮原の川村弥平治他三名、上松の留久六ほか三名、屋根葺は松本の高木弥兵他一名により宗派を超え、村中で協力完成しました。凉潭和尚の感慨の詩も書かれています。

【天神山 木曽氏館跡】 (左奥)

玉林院の裏手の崖に、説明板と木柱が立っている。

 木曽氏十九代、木曽義昌の弟義豊は上松蔵人と称し、上松の天神山の地に居館を構えていたと伝えられています。

 玉林和尚は、木曽氏十七代、義在の弟で蔵人の大叔父にあたるので、この地を与えたといいます。地名は殿上と呼び、急な斜面の土手は中世の居館の面影を残しています。また、蔵人はこの天神山より小脇まで剛弓で矢を放ったともいわれています。


【塚本本陣】 (左側) 17:30

 塚本歯科医院が本陣跡。


【原脇本陣】 (右側)

 塚本歯科医院の向い。 


【一里塚跡】 (左側)

 ここ鉤の手で右、左に曲がるが、最初の右 に曲がる左側民家前の手すりがある階段に石碑が建っている。写真では石碑が見にくいが、民家の塀に白く見える案内板の左下に建っている。

 江戸時代には、本町(桝形の町並み)の角を曲がり、中町に入った所の左右に二基の一里塚がありました(碑より三十メートル下方)。

 一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向かって右側を下の山と呼び、左側を上の山と呼んでいました。この一里塚の位置は

     京へ六十五里

     江戸より七十二里です

 残念ながら現存しません。



 20回目の旅終了(17:30) 上松駅入口の「田政旅館」泊。

  本日の宿泊者は4組で、私たちは改装されたばかりでシャワートイレ付の快適な部屋に通された。

  2007年10月現在、一泊二食付き10,500円。 定員50名。 部屋数12室。 営業期間1月4日〜12月30日。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、16.5Km(宮ノ越駅入口〜上松宿「田政旅館」)

          日本橋から七十二里六町(283.4Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、19.0Km(宮ノ越〜「田政旅館」) 累計345.0Km

          7時間40分 31,000歩。

 中間点を過ぎて、ここまでの総経費¥323,832-(写真印刷・アルバム代¥22,000-

 

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