塩尻宿・洗馬宿 (下諏訪駅 → 洗馬駅) <旧中山道17回目>

 

2006年11月3日(金) 晴 

 自家用車で下諏訪駅まで行き、駅前の駐車場 (7時間以上で\1000-)に車を置いて、前回終えた下諏訪前交差点を9:30スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「下諏訪宿」 ← 「目次」 → 「本山宿・贄川宿」

 


【史跡 魁塚】 下諏訪町文化財(昭和49年6月指定) (左側) 

 「大社通交差点」から合流した国道20号線も270mで別れ、Y字路を左に入る。

 入ってすぐ左側に小公園風の塚がある。本日は下諏訪町のウォーキング大会があり、駅をはじめここにも幟や大会のテントが準備されていた。

 ここで本日一人目の街道歩き人と出会う。

 ここは赤報隊長相楽総三以下幹部八士その他の墓である。慶応四年正月江戸城総攻撃のために出発した東山道総督軍先鋒嚮導の赤報隊は、租税半減の旗印をたてて進んだが朝議一変その他によって賊視され明治三年同志によって墓がつくられた。

 名を「魁塚」として祭られた。

 爾来地元では祭を絶やさず昭和御大典には御贈位の恩典に浴した草莽として維新史の上に大きく輝く人々である。


【春宮の石灯籠】 

 二つ目の十字路の右角に建っている。

 諏訪大社春宮矢木先大門の是の石灯籠は今を去る文政十二年巨匠山田金衛門の名作にして其の由緒上又雄渾なる形状からも當地方稀有の存在にして當大社の文化財の一なり。

 近時市街地の發展と交通事情の激化に伴い危殆に瀕するを憂い地元融資相倚り相議り浄財を捧げこれが保護の萬全を期し約一米現地に移動し併せて周囲を美化し以って大社の尊厳を永遠に護持せられたり。茲にその工事の完成に際し經緯を述べ併せて各位の篤志を後昆に傳えむとす。

 

その先左側の民家の庭に大きなりんごの木があり、沢山赤い実を付けていた。

やがて砥川に突き当たるが真直ぐの道がないので、右国道の富士見橋へ迂回して渡り、最初の道を左折する。すぐJR共済と民家の間に極細い道があるので右折する。これが中山道なのかと思うが、民家のフェンスに中山道と書かれた小さい矢印テープが逆さまだが挟んであったので間違いない。西から来た人にはここJR共済の所で正面に中山道の案内板が見つかるので分かるが、東から来た人にはなかなか気がつかないと思う。

前にもあったが、これからも分かれ道に手書きで中山道と書かれたこの様な小さな矢印テープに度々お目にかかれるので、民家の塀や生垣の低い位置、特にガードレールには目を凝らしている必要がある。

峠を下ってからは、肝心な曲がり角に標識がないので中山道を歩いている人には不親切な県である。ただし、ボランティアで矢印テープを貼ってくれる方にはお礼を言いたい。


【旧渡辺家住宅】 (左奥) 9:55

 道路の入口に案内柱が立っているので分かる。

 見学料:300円 開館時間:9時〜4時半 旧館日:@月・祝祭日の翌日A12月1日〜2月末

 渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家でした。安政年中(1854〜)の「家中分限帳」(武士の身分や禄高を記録したもの)によると、「郡方下役外様御徒士(こおりがたしたやくとざまおかち)18俵2人扶持」であったことがわかります。住居の規模は、間口7間半(約13.5m)奥行5間(約9m)で、外観は茅葺・寄棟造で内部には土間と炉があり、また居間に中床があります。

 この住宅の創築年代については、記録や墨書などは残されていないが、南側の居間と台所の戸口が袖壁をつけた閉鎖的なものであること、柱の風蝕程度から18世紀中ごろに建てられたと考えられます。その後、天保12年(1841)から嘉永年間(1848〜1854)にかけてのころ改築工事をして現状のような間取りになりました。現存する武士の家が全国的に数が少なくなった現在、この渡辺家はたいへん貴重なものです。

 この一家から三人の大臣が出ており、渡辺千秋(1843〜1921)宮内大臣と、国武(1846殻919)大蔵大臣の兄弟はこの住宅で育ち、千冬(1876〜1940千秋の三男で国武の養嗣子)は司法大臣になりました。


【岡谷市の中山道】 

 岡谷市教育委員会が掲げた付近の絵地図と下記の中山道の説明板があった。

 中山道は、東海道・奥州街道・日光街道・甲州街道とともに、江戸幕府が定めた五街道に一つとして、重要路線であった。

 中山道は、当初、和田峠より東堀・小田井・岡谷を通り三沢から小野峠を越え、さらに牛首峠(上伊那小野)を抜け木曽の桜沢に通じるものであった。

 これは、時の勘定奉行大久保長安(1545−1613)が江戸の町づくりのため多くの用材の必要から木曽の森林資源に着目し、その運搬道路として開発したものである。このうち、東堀から木曽桜沢までが旧中仙道と呼ばれる部分である。

 中山道が塩尻峠越えなったのは、慶長19年(1614)からで、大久保長安没後1年のことである。

 中山道は、物資の輸送に重要な役割を果たすとともに、参勤交代による諸大名の通行、将軍家使用の宇治茶を江戸に送るための御茶壺道中、あるいは、皇族および将軍関係のご婚儀による姫君のご通過、さらに、元冶元年(1864)の水戸浪士の通過、明治13年(1880)民情ご視察のための明治天皇ご巡幸など、いずれもこの中山道にかかわりをもっている。

 明治になって国道七号線となり、明治19年には塩尻峠の大改修が行われ、特に諏訪側は急坂で車馬の通行に不便だったので、旧坂の約3倍の迂回路を開削した。

 昭和27年(1952)に国道20号線となり、市内における主要幹線道路となって現在に至っている。


【追分・道標】 

 「長池交差点」左角に建っており、「右中山道、左いなみち」と彫られている。「いなみち」は飯田へ行く伊那街道のことである。


【一里塚跡】 (右側) 10:15

 国道20号線の「東堀交差点」を真直ぐ方向に横断するとすぐ右側に石碑のみが建っている。

 「中山道 一里塚 江戸より五十六里」と彫られていた。

 岡谷自動車学校のトイレを借り、横河川大橋にさしかかると前方に塩尻峠が見えてくる。 


【今井番所跡】 (左側) 

 国道20号線が左から接してくる。このあたり今井姓が多い。地図を見ても今井ばかりである。 ここで本日二人目の街道歩き人と出会う。

 今井地区は、地勢上住吉より道の存在が想定されるが、史実の上に出てくるのが、鎌倉時代の街道であり、戦国時代武将兵が往来した道であり、江戸時代の中山道である。

 徳川幕府は、関ヶ原戦勝後、全国統治のため街道を制定し、慶長六年に東海道を開削して、慶長七年(1602)本州中部を横断する中山道を開削した。中山道は当初此処から東方の東掘から川岸を経て木曽へ通じる道であったが、諸事情により十二年後の慶長十九年に塩尻峠越えの道を開削した。この碑の前の道がその中山道である。道幅は二間二尺(約4.24m)であったが、昭和に入り交通事情にて拡張されている。

 石の説明柱の前面に上記のように中山道の解説があったが、番所の説明は側面に続いていたらしく、気づかずに写真に撮らなかった為、尻切れトンボになってしまった。


【明治天皇今井御小休所・今井茶屋本陣跡】 (右側) 10:40

 番所のすぐ先にある。

 旧今井家は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって、古交通上の要衝で、江戸時代には、こゝに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残して居る。

 中山道は、江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交代の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。

 文久元年十一月五日、皇女和宮が徳川将軍家に御降嫁の時、明治十三年六月二十四日、明治天皇が山梨、三重、京都方面巡幸の時御小休になられた。

 平成十一年七月十六日、「江戸時代の姿をほゞ継承して居る点が貴重である」として、主屋等十一件が国の登録有形文化財に指定された。

 本陣跡の隣りに中山道の石碑が建っており、「右しもすは、左しほじり峠」と彫られていた。


【石船観音】 (右側) 10:55〜11:05

 茶屋本陣を過ぎると、国道20号線が左から接してきて道は登り坂となる。長野高速道路岡谷IC道に沿って国道20号線を陸橋で渡り左折する。すぐ右へ登る道があるのでそちらに行と、まもなく観音堂の階段に着く。

 トイレと水場あり。ここで本日三人目の街道歩き人と出会う。

 本尊馬頭観音が船の形をした台石の上に祀られているところから石船観音と呼ばれ、とくに足腰の弱い人に対して霊験あらたかであるといわれている。境内を鳴沢清水といって豊富な清らかな水が流れていて、参拝者の咽をうるおしている。例祭は五月の八十八夜ごろである。


 塩尻峠へは、この階段の前を(右へ曲がらず)真直ぐ行く。すぐ峠の登り坂になる。

 

【大石】 

 登り始めるとすぐ写真のように大きな石が 見えてくる。

 この巨石は昔から「大石」と呼ばれている。「木曽路名所図絵」にも「大石、塩尻峠東坂東側にあり。高さ二丈(約6m)ばかり、横幅二間余(約3.6m)」と記されている。

 伝承によれば、昔この大石にはよく盗人が隠れていて、旅人を襲ったと言われている。ある時のこと、この大石の近くで旅人が追いはぎに殺され、大石のたもとに埋められた。雨の降る夜に下の村から峠を見ると、大石の所で青い炎がチロチロと燃えていたという。またこの辺は昔よくムジナが出て、夜歩きの旅人を驚かし、そのすきに旅人の持っている提灯のロウソクを奪ったという。(ムジナはロウソクの油が大好物という)。

 塩尻峠の登り坂は急でかなりこたえる。


【塩尻峠】 11:23〜12:00

 頂上右手に展望台があり諏訪湖が綺麗に見える所だが、この日は良く晴れているのに遠くが霞み、諏訪湖がやっと見える程度で後ろの山並みは勿論楽しみにしていた富士山は見ることができなかった。展望台に掲げられていた綺麗な写真で我慢する。

 諏訪湖の写真は、下記の【塩尻宿】参照。

 展望台下のベンチで昼食(下諏訪駅売店で買った弁当)とする。車で登ってきた人が沢山いた。トイレあり。

〔塩嶺御野立(えんれいおのだち)公園 展望台〕

 岡谷市中心部より北方5Kmに位置するこの公園は、八ヶ岳中信高原国立公園内にあり、信濃の国信州でも美しい自然に恵まれた公園とされている。ここからは南方に脚下の諏訪湖を隔てて遠く富士の霊峰、南西側に南アルプス、南東側に八ヶ岳連峰、北西側には日本アルプスの山々を見渡すことができる。日本一の富士山(3776m)、第二峰の北岳(3192m)、第三峰の奥穂高(3190m)といった我が国の三高峰が望める唯一の場所でもある。また、四季折々のすぐれた自然に恵まれ「小鳥の森」に指定され、「小鳥の楽園」として毎年5・6月の毎日曜日には早朝小鳥バスも運行され人気を呼んでいる。春は桜に始まり、レンゲツツジ、唐松の芽ぶき、夏はニッコウキスゲの群生、秋は紅葉と、県内外を問わず多くの観光客が訪れている。尚、右手にある明治天皇巡幸記念碑の前では日本一短いと言われている「御野立記念祭」が塩尻市と当市の間で毎年催されている。


【茶屋本陣跡】 

 峠からは上ってきた真直ぐ方向の道を下る。

 峠から少し下るとすぐ「明治天皇塩尻嶺御膳水」の案内板があり、右側に井戸と左側に民家が建っているが、昔は茶屋本陣だった。

 宝暦14年(1764)に峠の通行に難儀したため本陣が建てられた。本陣は柿沢村名主の弟吉次郎が始めたもので、平素は茶屋を営んでいた。

 現在の建物は寛政八年(1796)の建築で、現在も当主の上条氏が管理しているとのこと。


【親子地蔵】  【夜通道(よとうみち) (右側) 

 そのすぐ先右側に享和元年(1801)建立の親子の地蔵があり、そばに「伝説 夜通道」の木柱があった。

 いつの頃か片丘辺のある美しい娘が岡谷の男と親しい仲になり男に会うため毎夜この道を通ったという。 


【東山一里塚】  市史跡(平成元年3月塩尻市史跡指定) (左側) 12:15

 下りはじめて15分で五十七里目の一里塚に到着。

 東山一里塚は東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり古図には道を挟んで2基描かれているが、南側のみが現存している。この塚の大きさは幅12m、奥行13m、高さ3mの塚である。

 元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、中山道は牛首峠経由(桜沢口−牛首峠−小野−三沢峠−諏訪)から塩尻峠経由(本山−洗馬−塩尻−下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃つくられたものと推定される。

 市内には東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五か所に築かれたが、現在はここと平出の一里塚が形を残しているだけである。 

 この先の道端左側に「大名行列も皇女降嫁も 野仏は黙し迎えむ中山道に」という看板があった。


 道は佐藤工業資材置場前で右後ろから合流するY字路があり、すぐ次のY字路があるのでここを左におりる。

 京都方面から来た人は、資材置場前のY字路を右に行く

 再びY字路になったら右の真直ぐ方向へ行く。左は太い道で道端に道祖神か庚申塔があるのでそちらに行きたくなるが、中山道は右の細い道である。


【犬飼の清水】 (右側) 

 国道20号線に接したらそのまま並行している右の道を行くと、右の道端に案内柱と小さな石碑があるが清水は出ていない。

 京都方面から来た人は、左手「犬飼の清水」の案内柱を過ぎたら国道に出ずに歩道橋の袂で左の細い道に入る。

 江戸時代中山道を道交中の公家の愛犬が病気になり、この水を飲ませたら直ったと伝えられる。

 「木曽路名所図絵」にも載っており、この水で病犬が治ったという伝説や、殿様の愛犬がこの清水を飲んだといわれたりしているが、その名前の由来ははっきりとは分からない。現在は位置も移動している。


 やがて国道に合流して国道を少し行くが、国道が左に大きくカーブする所で右の細道を上る(写真で妻が登っている道)。ガードレールに例の小さな矢印テープが貼ってある。ここで12:35。

 再び国道にぶつかったら、地下歩道があるのでそれを利用して反対側に出る。

 京都方面から来た人は、この国道に着いたら坂を上がらずに、そのまま右のトンネルを入る。

 国道を渡るとすぐ長野高速道に架かる柿沢陸橋を渡る。下を見れば両サイドは長野道のみどり湖PAである。右を見れば山が綺麗に見える場所だが、本日はなにも見えず。

「下柿沢交差点」を横断したら火の見櫓が立っているY字路を左に行く。ここで13:10。

川に接して国道153号線にぶつかったら、右折して国道を行く。

 「仲町交差点」の右角に塩尻宿の石碑あり。塩尻宿の東の入口である。


【十王堂跡】 (右側) 13:20

 右側(上町公会所横)十王堂跡の標柱と庚申塔や道祖神等の石碑が建っている。

 石碑は元文五年(1741)の庚申碑等が3基、双体道祖神が1体、文化十三年の名号碑が1基ある。


【五千石街道道標】 (右側) 

 続いて中山道と五千石街道の分岐点に建っている。


【塩尻宿】 日本橋から58里3町(228.1Km)、京へ77里31町 (305.8Km)
 天保14年(1843)で人口794名、総家数166軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋75軒。

木曽街道 塩尻峠 諏訪ノ湖水眺望 (英泉)

 厳冬の晴れた日に峠へ登る途中から、諏訪湖越しの富士山を描いている。

塩尻峠展望台から諏訪湖を望む(富士山は霞んで見えず)
 


【小野家住宅二棟 附文庫】 重要文化財 (右側) 13:25

 中山道塩尻宿の中心部の本陣・脇本陣、上・下問屋に隣接する屋号「いてうや(銀杏屋)」という大旅籠であった。

 正面総二階造の部分が旅籠の主要部で、北に接する平屋部分は台所や内向きの部屋として使われていたらしい。

 二階は客室が五つあり、便所が設けられている。間仕切の帯戸は砂摺りが加工され東北隅の客室は西壁から天井にかけて満開の桜の大木が描かれ、家名にあやかったイチョウの床柱が床の間にしつらえてある。

 嘉永三年(1850)頃の二階建町屋造と推定されている。

【構造】

 主屋主部    桁行14.6m 梁行9.1m 切妻造 二階建 南面庇付 桟瓦葺

 北側突出部  桁行7.3m 梁行8.2m 桟瓦葺 北面庇付亜鉛引鉄板葺

 文庫       土蔵造 桁行5.5m 梁行3.6m 二階建 切妻造妻入り 切妻造 


 「塩尻町交差点」に左「アルプスワイン」の看板があったので280mほど入っていたが工場だった。

 丁度トイレにも行きたくなっていたので向かいの「市立図書館分館」のトイレを借りた。13:30〜13:45。


【明治天皇塩尻行在所】 (左側)

 上問屋跡の標柱の横、消防小屋の敷地の前に建っている。


【高札場跡・下問屋跡】 (右側) 

 共に石柱のみ建っている。


【本陣跡】 (左側) 【脇本陣跡】 (左側) 

 写真のように「本陣跡」は跡地だけで、解説等は何もなかった。

  仲町南側に間口24間、門構、玄関付、367坪で中山道最大の本陣(川上家)であった。

  明治15年に建物は焼失した。

 そのすぐ先に、本陣跡と同じように「中山道」の石柱と「塩尻宿脇本陣跡」の石柱が並んであった。         

  本陣西に隣接し、間口16間、門構、玄関付、170坪あったが明治15年に建物は焼失した。

  現在も川上家が住んでいる。

 


【塩尻陣屋跡】 (左側) 

 酒造所の門の杉玉の下に石柱のみが建っている。

 脇本陣西隣の笑亀酒造の南裏に当たる場所に、享保十九年(1734)建てられ、寛保三年(1743)まで10年信濃国内幕府領五万三千石を支配したが、延享二年に廃止された。現在遺構は残っていない。


【中山道鉤の手跡】 (左側) 

 歩道橋がある所を右に入る(妻が指している方向)。

 「鉤の手跡」の石柱が歩道橋の降り口に建っている(写真でガードレールの右端に建っている白い石)

 

【阿礼神社】 (右側) 

 「鉤の手跡」右側の道に入るとすぐある。

 平安朝時代醍醐天皇の延長五年(927)に撰進された延喜格式神名帳登載の由緒ある古社。

 往古東の塩尻峠西麓を流れる四沢川流域に諏訪族神氏(みわし)を祖とする氏族が集落生活をしていた。彼らは四沢川上流の五百砥山に山祗神分ノ神を祀り、大神信仰の下に神の霊力を有つ山そのものを御神体として阿礼ノ神を祀った。阿礼ノ神は御生れノ神・御邑ノ神の意で一族の守護神である。やがて彼等は放牧農耕の生活にも慣れ古代国家が整った頃には、他の集族も容れ、農耕文化を取り入れた地域集団になっていた。

(後略)


【是より東塩尻宿碑】 (右側) 

 阿礼神社隣りの「塩尻東小学校」前に建っている。塩尻宿西の入口である。


【堀内家住宅】 国重要文化財 (右側) 14:05

 小学校前で左カーブするとまもなく屋根に立派な雀踊りのある屋敷が見えてくる。

堀内家は江戸時代、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農である。

建築の年代については十九世紀初頃、下西条の川上家(当時は造酒家)からの家を移築したとの言い伝えがある。また、構造手法から十八世紀後半(約二百年前)の建築とみられる。

建物は南に面し桁行、梁間とも約十間で、切妻造、板葺になり妻を正面に見せる。現状における間取りの大略は表、中、裏の三列に区切り表の列は上手(東)から二室続きの座敷(「かみざしき」「げんかん」)と土間、中列は三間に四間の「おえ」と土間、裏側は「うらざしき」他数室からなる。数次にわたる改築の結果、当初の姿が不明なところも多いが、「おえ」まわりは縦横にかかる梁組をあらわし軸部をよく残している。

表側の座敷と正面の外観は明治時代の改造になる。構造は梁を格子状に組む一般的な手法によっており桁行の梁が梁桁梁の上に来る。

堀内家住宅はいわゆる「本棟造」のなかで、大型上質の家であり改造の結果であるが、正面の外観意匠は力強くこの系統民家の一頂点を示すものとして価値が高い。


【秋葉大神・庚申塔・道祖神】 (左側) 

 国道153号線の「大小屋交差点」左角に5基建っている。

 この交差点を渡り、「飯田犬猫病院」の看板がある左斜めの極細い道を行くのが中山道であるが、200m弱で国道に戻る。


【大門神社】 (右側) 14:25

 塩尻橋を渡り、前方の道が3本に分かれている「下大門交差点」を左折すると200m先左側にある。

 大門は塩尻峠入口に位置し北国街道並びに三州、遠州筋への脇道にあり、交通の要衝として栄え、農耕文化の地更に銅鐸文化の地として栄えた。大門神社は上野山の裾にある姥池の畔に水分の神として祀られたもので、今も湧出す清水は御神水として若宮八幡社の御神徳と共に深く尊崇されている。又柴宮八幡社は桔梗ヶ原に於いて南北朝の戦いの際南朝の指揮所としての由緒ある地に両社共に建立された。柴宮は交通の要衝の地にあったので旅行者の参拝多く、両社とも明治五年村社の社格に列し、幣帛供進神社に指定され拓け進み行く大門区の産土神として崇敬され、昭和二十七年に両社合併の儀起り氏子総会に於いて柴宮の地に若宮を奉遷して大門神社とすることと決した。

(後略)


【耳塚神社】 (右側) 

 大門神社の隣にこぢんまりとある。

【伝説】耳塚様と呼ばれ昔は耳の病気の直ることを祈った。桔梗ヶ原の戦いとか安〇〇族王に関係ありとも言われる。

 明治二十九年先祖が野ざらしになっていた塚にほこらを建て二本の剣を御神体としてしまった。

 耳の形に似た素焼きの皿やおわんに穴を開けて奉納すると、耳の聞えが良くなると評判になり、伊那地方からなど、多方面から話を聞きつけて参拝した。ほこらは二度建て替えられ現存するほこらは昭和53年建立。


【平出の一里塚】 塩尻市史跡(昭和46年3月指定) (左右) 15:50

 JRのガードを潜り、昭和電工の大きな工場脇を歩いているとやがて前方右側に松の木が見えてくる。

 それが五十九番目の一里塚である。両側の2基とも良く保存されている。

 一里塚は慶長九年(1604)より徳川秀忠の命により、各街道に築かれ、同十二年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中山道筋の幕府領、私領をとわず人足を徴発して道を整備し、江戸日本橋を起点として三十六町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜をはかった。その道路幅は五間(9m)塚は五間四方、高さ一丈(3,3m)と定められたが明治以後はその必要もなく、いうとはなく次々に消滅し、県下でも平出のように元気を保つのはごくわずかとなった。

 江戸時代当塩尻市内は、三つの街道に沿って、八ヶ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのは、この平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点により、五十九番目のもの、また、宝暦六年(1756)頃には、この付近に茶屋二軒のあることが分かっている。 


【平出遺跡】  国史跡 (左奥) 14:55〜15:05

 一里塚すぐ先の案内板に従い、ブドウ畑の脇を左へ150m入る。トイレあり。

 平出の泉に育まれた平出遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての大集落です。

 昭和25年から現在までの発掘調査により、縄文時代では中期60、後期2、古代では古墳時代79、平安時代28、時期不明30の計199軒の住居が発見され緑釉水瓶(りょくゆうすいびょう)をはじめとする土器・石器などが大量に出土しました。

 これらの発掘成果は、当地における縄文時代から平安時代までの村落のあり方を解明するうえで極めて重要な遺跡であることから昭和27年に国史跡に指定されました。

 現在、塩尻市では史跡一帯を「縄文の村」・「古代農村」の復元や体験地区、ガイダンス地区を設け、史跡公園として整備するための事業に着手しています。

 出土品は平出博物館(徒歩5分、車2分)に展示しています。博物館の休館日:月曜・祝日の翌日


【てくてく旅で紹介されたワインの店】 (左側) 

 JRの踏切を渡り、右手「農業大学校」を過ぎると、ブドウ畑の前に「Kidoワイナリー・小さなワイン工房」がある。

 NHKの「てくてく旅(中山道)」で勅使河原さんが訪れた小さなワイン工場である。寄りたかったが、歩きでは重いワインを買えないのであきらめる。

 国道19号線の「中仙道一里塚交差点」を左折して国道を行くと名古屋まで177Kmポストに出会う。

 左右に沢山農園があり、国道沿いに果物を売る店も立ち並んでいる。りんごを買いたかったがこれも重いので断念する。

 気温12℃の表示だが、風がまったく吹いていないので薄着でも寒さは感じなかった。

 左側にガソリンスタンドが見えたら、その裏の砂利道を行く。

 すぐ「平出歴史公園交差点」に着くので、国道を横断して真直ぐ(国道からは右折になる)県道304号線を行く。

 中山道洗馬宿0.2Kmの標識があり、『洗馬宿の北の岐路碑に残す北国往還善光寺道』と書かれていた。


【肱懸松(ひじかけまつ) (右側) 15:50

 碑と松が植わっている。本来の場所は、少し先の下がった所にあったとのこと。

 「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の名木。細川幽玄が「肱掛けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う河風」と詠んだと伝えられている。また、二代将軍秀忠上洛の時、肱をかけて休んだとの説明もある。左方標柱辺りにあった。


 このすぐ先右側にストーンヘッジ状態の石仏群があったのは面白かった。


【中山道と善光寺道のわかされ】 

 右後ろからの道が合流したところ。

 写真は西から写したもので、左が善光寺道、右が中山道。

 左側の道をおよそ50m行くと石造りの「常夜灯」のある枡形にいたる。

 ここが中山道と善光寺道のわかされであった。道標は昭和7年(1932)4月6日の「洗馬の大火」以降右側の新道が開通したおりに枡形からここへ移されたものである。


【あふた(太田)の清水】 (右奥) 15:55〜16:10

 すぐ右側の細道入口に「あふたの清水」と書かれた案内柱が立っているので、そこを下りて行く。

 私は飲んでも大丈夫だったが、上部にある民家の下を通って流れ出ているので、飲まないほうがいいかも知れない。 

 邂逅(あふた)の清水として、木曽義仲にまつわるいわれもあり、住民の生活用水にもなっている。

 治承4年平氏追討の令が出され、木曽義仲もこれに挙兵した。小県の依田城を目指す途中、義仲の忠臣今井四郎兼平がこの地で合流した。義仲の馬は強行軍に疲れて一歩も進むことができなくなってしまったので、兼平は、この馬を北の村はずれにうっそうと茂る欅の根もとに湧く清水に引いて行き、脚を洗ってやった。すると馬はたちまち元気をとりもどしたという。
 それ以来この清水を「あふたの清水」と当時の言葉で呼び、馬を洗ったことから洗馬というようになったと伝えられる。


 ここを見学後、広重の浮世絵ポイントを撮影するために奈良井川まで降りる(右下がその写真)。


【洗馬学校跡】 (左側) 

 「あふたの清水」入口からすぐ先が洗馬駅入口になる。

 駅入口を通りすぎたすぐ左側に説明板のみある。 

 洗馬学校は、明治六年民家に開設され、開智学校(重文)を建てた立石清重を棟梁に、明治十一年ここに新築移転した。近隣に例を見ない、廻り階段やバルコニーの付いた、洋風3層の校舎は、その偉容からバビロン城と呼ばれ、屋上には今井兼平洗馬の像が飾られた。


【洗馬宿】 日本橋から59里33町(235.3Km)、京へ76里1町 (298.6Km)

 天保14年(1843)で人口661名、総家数163軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋29軒。

 洗馬宿は、昭和7年の大火で、宿のほとんどが消失し旧宿場時代の遺構は残されていない。

木曽街道六拾九次之内 洗馬 (広重)  

 奈良井川の夕景。

場所は特定できないが一説には太田の清水から望んだといわれる。

「あふたの清水」から下りた場所より写した奈良井川


【洗馬宿本陣跡】 (左側)

 木柱のみある。

 洗馬駅の前に建っていた。敷地930坪、建坪157坪で大きな庭園を有していた。「善光寺名所図会」の「百瀬氏林泉之図」にみられる庭園は、明治42年の洗馬駅開設に伴い消失し、昭和7年の大火によって建物も焼失した。


【荷物貫目改所跡】 (左側)

 荷物の目方を検査する役所で、問屋場と併設されていた。中山道では、洗馬・板橋・追分の3宿に置かれた。規定の重量を超えた荷物に増賃金を徴収するなど、伝馬役に過重な負担がかからないようにした。この建物は、明治の一時期、洗馬学校に利用された。


【脇本陣跡・明治天皇御駐輦之碑 (左側)

 街道脇に「脇本陣跡」の木柱が、「明治天皇」の石碑は脇本陣の百瀬氏宅敷地の生け垣の内側に建っている。

 脇本陣は、敷地1050坪で建物は昭和7年の大火で焼失した。「善光寺名所図会」にある「志村氏林泉之図」の一部が裏庭にわずかに残っている。明治天皇の碑は、明治13年の明治天皇御巡幸の折りに、この脇本陣に宿泊されたのを記念して建てられた。


【萬福寺】 (右側) 

 赤門のお寺。裏の墓地に行ったら、「熊出没注意」の看板が掲げられていた。

 赤門の前の道を左折すると線路に出て、左方の駅へ行ける。



 17回目の旅終了(16:20) 洗馬宿・万福寺。

  洗馬駅17:19発の電車で下諏訪駅に戻り車で帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、17.7Km(下諏訪駅前交差点〜洗馬宿・万福寺)

          日本橋から六十里十一町(236.8m)

          寄り道を含めた実歩行距離は、20.9Km(下諏訪駅〜洗馬駅) 累計:290.5Km

          6時間50分 30,000歩。

 

「下諏訪宿」 ← 「目次」 → 「本山宿・贄川宿」