下諏訪宿 (和田宿「本停旅館」 → 下諏訪駅) <旧中山道16回目>

 

2006年10月21日(土) 晴 

 「本 亭旅館」を7:35スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「長久保宿・和田宿」 ← 「目次」 → 「塩尻宿・洗馬宿」

 

 いよいよ中山道最大の難所に挑む日がきた。

 下諏訪宿まで五里半(約22Km)と中山道で最大の長丁場で、五街道の中でも一番高い(標高約1600m)という和田峠越えである。

 途中「東餅屋」で蕎麦と力餅あるが、閉まっていたら大変なので弁当と飲物は持参したほうが良い。

 トイレは和田側の「三十三体観音」「接待茶屋跡」「避難小屋」「キャンプ場(閉鎖時は鍵が掛かっている)」にあるが、大変汚いボットン。男性はいいが女性は覚悟が必要。峠と下諏訪側の下りにはない。携帯電話(DoCoMo)も通じなかった(2006年10月現在の情報)


【一里塚跡】 (左側) 

 国道142号線の鍛冶足交差点を渡った角にある。

 一番左の石碑は「中山道一里塚跡 江戸より五十里」、2番目は「右 諏訪街道、左 松澤歩道」、3番目は「国史跡 歴史の道中山道」、4番目は「中山道」と刻まれている。 

 一番右の国道側に立っている青い標柱は、和田町の管轄に入って目にするもので、「中山道」の道案内である。これからも要所に見られる。

 この交差点で道標に従って、左斜めの道へ入る。

 少し先、藁葺き屋根の大出バス停で更に左斜めの道へ行く。

 再び国道142号線に合流したら、しばらく国道を歩く。

 但し、歩道が無いうえに車が飛ばしているので非常に危険な道である。

 常に前方の車に注意して対向車線を歩き、特に大型車が来たときは必ず路肩に逃げること。

 私も運転するから分かるが、大型車の後ろについている小型車は前方が見えにくい為、時々路肩方向に寄って前を確認することがある。歩いている人には大型車の後ろに隠れている小型車が見えないので突然寄られた場合、接触の恐れがある。また速度が速いので大型車の後ろは真空状態になり、通り過ぎた時に車道側に吸い込まれる恐れもあることから二重に危険である。

 ドライブイン杉の屋、東邦パーライト工場を過ぎ、左側にドライブイン和田峠、右側に「美ヶ原高原 扉峠入口」の標識がある所からは歩道が整備されている。ここで8:30


 

依田川(橋の欄干には和田川と書かれていた)を渡り、右側に大きな石灯籠(写真右側写っている)が見えてきたら、国道から離れて左側の細道を登る(写真で妻が歩いている左の上り道)。ここで8:40。

 4分ほどで青い中山道の道標があるのでここを右折し、小橋を渡って林の中に入って行けば程なく唐沢の一里塚に着く。足元がふわふわして気持ちがいい道である。

 


【唐沢一里塚】 8:53〜9:00

 

 この塚は、江戸より五十一番目の一里塚である。

 (中略)

 和田、下諏訪宿間に一里塚は六ヶ所あったが、これはその一つである。

 この塚は、中山道の一部路線変更により山中にとり残されたもので、天保二年(1831)の絵図面ではすでに路線からはずれている。

 現在樹木は残っていないが、塚は二基ともほぼ原型を留めている。


【男女倉口(おめぐらぐち)  9:15

 一里塚から下るとすぐ国道に合流する。「男女倉口・標高1100m」の標識が見えたら国道142号線は二股に分かれる。左の道は「新和田トンネル」を抜ける新道、右の道は「和田峠トンネル」を抜ける旧道である。旧道方向には「美ヶ原高原」と「霧ヶ峰高原」の案内板が立っている。

 旧中山道は、この二股で横断歩道を渡り右の旧道に行くと、すぐ正面に遊歩道の上り口と中山道の道標(五十里の一里塚で見た2本の石柱と青い道標)が見える。また、 和田宿の解説と地図もある。

 ここから古峠まで約4.7Km、標高差600mの本格的な峠越え道となる。12℃の中9:18登頂開始。


【三十三体観音】 

男女倉口から800mで到着。東屋とトイレがあり、ここから接待茶屋まで800m。

かつて、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石仏である。旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和四十八年(1973)の調査発掘により二十九体が確認されここ旧道ぞいに安置された。内訳は、千手観音十三体、如意輪観音四体、馬頭観音十体、不明二体で四体は未発見である。

峠の難所を往来する人馬の無事を祈ってまつったものであろうか。


【接待茶屋跡(永代人馬施行所)】  9:53〜10:00

  国道に出たところにあり、ここの水は美味しい。国道沿いにあるので車で来て多量のポリタンクに水を詰めている人がいた。あまりにも多いので蕎麦屋でも経営している人かもしれない。トイレあり。

 後で後悔したのだが、ここの水場でペットボトルを一杯にしておくべきだった。

 江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に五十両づつ下付し、文政十一年(1828)に設置された施行所の一つである。

 十一月から三月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。

 その後、山抜けにより流失したが嘉永五年(1852)現在地に再建され明治三年までつづけられた。

 この先すぐ山道に入る。


【避難小屋】 10:25

あまり綺麗でない小屋で、トイレはそれ以上汚いが、冬場はこの先のキャンプ場のトイレが施錠されているので絞り出しておくこと。

 このあたりは古い石畳になっていて道幅もせまい。すぐ先に橋があり、紅葉が綺麗だった(左の写真)

 毎回山登りの途中で杖になりそうな枝を拾って使うのだが、今回私が拾った枝は滑らかでなく、掌に数個所棘を刺してしまったので次回はスポーツ店でまともな杖を買おうと思った。やはり山道は杖があると楽である。

 

【広原一里塚】 10:42

 避難小屋から10数分で到着。

 このあたりを広原といった。その名のとおり昔は笹と萱の生い茂る原であった。

 冬の降雪期には山頂より吹きおろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋もれるとき、五間(9m)四方のこの塚は旅人の道しるべとなったであろう。

 この塚は、江戸より五十二番目の一里塚にあたる。


【和田峠遺跡群】

 一里塚から数分で「青少年旅行村キャンプ場」に到着。キャンプ場の後ろの山が全山紅葉しており、手前のススキと合わせて絵になる景色だった。

 トイレがあるが一部鍵が掛かっていたので、冬場は常に使えるか不明である。

 キャンプ場の先すぐ国道に出る。左側に「和田峠遺跡群」の説明板。右方向に「ロッジ和田峠」(冬季休業)がある。

 旧石器時代の石器の材料とされた黒耀石は、和田峠周辺に多く産出されている。

 平成二年〜四年の分布調査により、その黒耀石の露頭は十ヶ所程確認された。さらに、和田川の段丘には数多くの後期旧石器時代の遺跡群が形成されていることが明らかになった。特にキャンプ場から一里塚、そして湿原の周辺に、たくさんの遺跡が集中している。出土した石器は黒耀石石器資料館に保管されている。


【東餅屋】  11:00

 キャンプ場から5分ほどで「東餅屋跡」に到着。昔は5軒の茶屋があったとのことだが、現在はドライブインがある。蕎麦と力餅のメニュー、土産物として黒曜石を売っている。ここの広い駐車場東側にはススキが群生しており先ほどの紅葉山をバックに撮影ポイントとなっている。

 国道を横断してすぐ右へ入る。

 標高1531mの和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり人馬の休息所となっていた。

 この東餅屋では、五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624〜1643)より、一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣もおかれ土屋氏が勤めていた。鉄道が開通するとともに往来も途絶え、五軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外家はなく)石垣を残すのみである。

東餅屋から10分程行った国道下を抜けるトンネル前の広場で紅葉を見ながら昼食。 倒木に座って宿で作ってもらった弁当を食べる。

(11:10〜11:40)

 トンネルを抜けて少し行き、ビーナスラインを横断する。

 途中妻が詠みし歌

  「こもれ日に山のもみじ葉照り映えて 瀬音を友に和田峠ゆく」


【古峠】 12:00〜12:10

 峠直前にススキ原の開けた斜面が現れ実に美しい景色だった。

 丁度正午に峠到着。2基の石碑(写真)と賽の河原があった。

 和田宿から11Km。

 中山道設定以来、江戸時代を通して諸大名の参勤交代や、一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御獄山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。

 明治九年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆んど通る人はなくなり、古峠の名を残すのみである。

和田宿側からの登りは、急な坂は少なく、幅も比較的広い手入れの良い芝生状態で歩きやすい山道であるが、諏訪宿側はうって変わり、傾斜のきびしい細道で登るにはきつい道である。特に峠直前は道筋が良く分からない急なガレ場で滑りやすく、「歴史の道中山道」の白い道標がなければ迷ってしまうような状態であった。下りでも道標が頼りの怖い道だった。

和宮もここを越えたのかと思うと、お付の人たちの苦労は並大抵のことではなかっただろう。細い山道では反対向きに背負われたと聞いているが、背負われた和宮も恐怖の登りであったと想像できる場所である。

妻詠みし歌

 「古峠ガレ場の道のあやうさに いにしえ人の苦労しのばん」


【石小屋跡】 12:20

 峠から10分で石垣が一部残っている場所に着く。

 中山道の古峠は、標高1,600mの峠で難路で知られていた。下諏訪側の峠近くは急坂で風雪の時は旅人も人馬も難渋した。大雪の時には雪割り人足も出勤した。下原村の名主勝五郎は、安政二年(1855)に避難場所と荷置場を造ろうと、郡御奉行所に口上書を差出し、馬士の出金、旅人等の援助を乞うて、五十両ほどで石小屋を築いた。

 石小屋は、山腹を欠いて高さ約2mの石積みをし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので、石垣からひさしの雨落ちまで2.3m、長さ55mという大きいものであった。

 人馬の避難所や荷置場には絶好の施設であった。

 その後、慶応三年に修理したが、現在は石垣の一部を残すのみである。

 12:45に最初の国道横断。遊歩道の道標に「和田峠0.9Km」、「諏訪下社(秋宮)11.1Km」とあった。

 12:55に2回目の国道横断。遊歩道の道標に「和田峠1.2Km」、「諏訪下社10.9Km」とあった。

 トータル距離が合わないのは私のメモ間違えか?道標の間違えか?


【西餅屋茶屋跡】 下諏訪町文化財(昭和45年9月指定) 13:05

 現在は広場になっており説明板のみある。西餅屋のすぐ下が最後の国道(左下の写真)横断だが、和田峠越え最後の難関が待っている。

 西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の五里十八丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。

 中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手(まきのて)」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。

 国道を横断して、写真の矢印で示した「旧中山道入口」を下りることになる。想像通りの道で、この先、ガレ場あり、谷間道ありで覚悟がいる道となる。

 

 写真では分かりにくいが、左に白く見えるのが川で、かなり深い谷底を流れている。山道と書かれているところが中山道で、巾50〜60cmしかない道である。

このようなガレ場もある。

    

 最後の国道横断なので雨や暗くなってきたらやめた方がいいと思います。そんな時は無理しないで国道を下りてください。


【一里塚跡】 13:10

 五十三里目。石碑のみ立っている。この先が上の写真で示したとんでもない道になる。 


 13:30国道に合流して峠道は終了し、しばらく国道を歩く。気温は20℃になっていた。

 合流した所にまだ新しい案内板が立っていて、次のように書かれていた。

 「これより右、下諏訪宿方面、中山道は国道の拡幅等により、道筋が確定しておりません。是より先は国道を歩きます。車に注意して下さい。」

【史跡 浪人塚】  下諏訪町文化財 (右側) 14:05〜14:15

 ラブホテルを過ぎ、14:00「新和田トンネル有料道路起点より8K700m」の標識と「水戸浪士の墓0.3Km」の案内板があるところを左下に入る。

 国道を潜り、左カーブした突き当たりの公園内にある。

 ここでわずかばかり残っていた飲料を飲んだがとても足りない。接待茶屋跡でお茶が薄まってもペットボトルを満タンにしておけば良かったと後悔する。 説明板は2ヶ所あった。

1.和田嶺砥澤合戦跡。

 元治元年(1846)十一月二十日水戸浪士の一行千余人勤皇の志をとげようと和田峠を越えてきた。それを高島、松本両藩が防いだ激戦地あとで、塚には討死した浪士を葬り櫻を植え墓碑が建てられている。

2.ここは浪人塚といい、今から120年前、元治元年(1846)十一月二十日に、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち千余人と松本、諏訪の連合軍千余人が戦った古戦場でもある。

 主要武器はきわめて初歩の大砲十門くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日戦に浪士軍十余、松本勢に四、諏訪勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに生めっていったが、高島藩は塚を作って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た六柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。

 もう一度国道下を潜り、「フヨーライト工業」の間を通り、右カーブの道を行く。「信州ペット霊園」の前を過ぎれば再び国道142号線に合流する。


【樋橋茶屋本陣跡】 下諏訪文化財(昭和45年6月指定) (左側) 14:30

 合流してすぐ左に茶屋本陣跡(写真)がある。国道の右側には可愛い地蔵群がある。

 江戸時代の初め中山道は五街道の一つに指定されて幹道になり宿駅の整備が行われ その時、下諏訪・和田両宿間、五里十八丁(約22Km)の峠路に立場茶屋としてつくられた一つがこの樋橋で、茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に何軒か茶屋が出来た。本陣には御殿とよぶ小建築があって、文久元年十一月六日には和宮様のお小休みがあった。

 元治元年十一月には和田嶺合戦の戦場になるなど交通の要地なるがゆえの事件はたくさんあった。


 ここから少し先の右側にあった伊藤石材の展示場に中山道の碑があり、日本橋54里・京都78里と彫られていた。

 資材問屋を過ぎた右側にやっと自販機を見つけ生き返った。

 「六峰温泉・食亭六峰」あたりの「木落し坂300m」の看板を過ぎると、国道142号線が二股に分かれている所に着く。右「岡谷」、左「諏訪」と書かれているので、左の諏訪方面(道は直進)へ行く。

 すぐ「木落し坂」方面の看板があるので、左の坂を登って行くと諏訪神社の大祭で有名な木落し坂に着く。


【木落し坂】 15:15〜15:25

 坂の頂上に「天下の木落し坂」と書かれた大きな石碑が建っている。

 右の写真のように飛び出している御柱の先端に立つと、これにまたがって草の坂を滑り落ちるには結構度胸と覚悟が必要だと実感した。

 

【諏訪大社 御柱木落し坂】

 諏訪大社の御柱祭は、七年毎申・寅年に行います。規模の大きさ、勇壮・豪快なことは比類なく、天下の大祭として知られています。

 樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に建てるのですが、山から切り出す「山出し祭」が御柱年の四月、町内を曳行し建立する「里引き祭」を五月に行います。

 曳行途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ場「木落し」です。男意気に駆られる若者たちが、群がりうちまたがった御柱を、100m余り・傾斜度45度近い崖のようなこの木落し坂頂上から、一気に引き落とします。落下の反動で、若者たちの大半は放り出され御柱とともに転がり落ちる、一帯を埋めつくす大観衆は一瞬息をのみ、驚声と大喚声が沸き上り、その豪壮さは筆舌に尽くせません。

  「男見るなら七年一度 諏訪の木落し坂落し」

と唄われてきました。この木落し坂での木落しは、下社春宮・秋宮の御柱八本を三日にわたって行います。


【芭蕉句碑】 【 諏訪地方の電力発祥の地】 (左側)

 頂上の広場から右に下りて、国道に出会ったところに「芭蕉の句碑」、「道祖神」、「中部電力落合発電所」がある。この発電所の敷地内に「諏訪地方の電気発祥の地」の説明板があった。

〔諏訪地方の電力発祥の地〕

 明治十一年(1878)日本で、初めて電気の灯りがともり、明治二十年代に、白熱灯の実用化とともに、電気の灯りは日本国内に広まり始め、諏訪の域に水力発電所建設の機運が生まれました。

 和田峠周辺の水系を調査し、諏訪地方で最も安定した水量がある、東俣川および砥沢川を選び、明治三十年六月、長野県知事から河水引用の発電所設置を許可され、明治三十年十一月、上諏訪町・下諏訪町・長地村・平野村を供給区域として、諏訪電気株式会社が設立されました。

 (後略)

 再び国道を歩き、橋を渡った右下の川を覗くと国道の崖と対岸の崖が大きく崩れていた。その先の川べりに建っている民家の土地も崩れそうで、最近の災害をテレビ等で見ると崖の下とか川べりに住むのは怖いとあらためて感じた。


【下社春宮】 (右下)

 右前方に「慈雲禅寺」が見えるたら、右の小道に入る。諏訪大社下社春宮の森の脇を通り、左カーブする所で諏訪湖が見えてくる。角に春宮の石柱があり、右に入る小道を 下っても神社に行けるが、カーブを曲がった広い道を右折するのが正規の道である。

 私達は、以前に訪れているので春宮には行かなかった。岡本太郎が絶賛した「万治の石仏」があるので行ってみると良い。 春宮を右に見て、砥川の橋を渡ったら右折して川沿いに100mほで行くとある。


【龍の口】 (左側) 16:10

 慈雲寺に登る階段の脇に、口から水が出ている龍の像がある。

 この付近は通称“龍の口”と呼ばれています。

 竜頭水口は旧横川村(現在の岡谷市)の山田金右エ門の作として見事であり、江戸時代中期のものであります。

 竜の口から出る水は、慈雲寺へ参拝される人々のためにつくられ、また江戸時代この中山道を往来した旅人ののどを潤したことでもありました。この長い石段を登ると名刹の慈雲寺があり、梵鐘(県指定文化財)、天柱の松(町指定文化財)など、貴重な文化財があります。更に慈雲寺の脇道をを登ると桜の名所で諏訪湖を一望できる水月公園があり、公園内には、赤彦、蕪村、曽良、子規をはじめとする歌碑や句碑が立ち並び文学散歩道を形成しています。


【一里塚跡】 (右側)

 「龍の口」から少し行った右側に石碑がある。

 中山道五十五里 塚跡。


【御作田社】 (左側) 16:20

 「一里塚」から少し行った左側に小さな神社があり、境内にミニ田圃があった。

 ここは、諏訪大社の末社、御作田社であります。

 下社の御作田祭(御田植神事)は、毎年六月三十日この境内で行われます。

この日植えられた稲は一ヶ月後の八月一日には、諏訪大神の神供として捧げられた伝えられ、御作田の早稲として諏訪七不思議の一つにあげられています。(他の七不思議は最下段参照)

 なお同日(六月三十日)には、諏訪大社春宮横の浮き島社において、夏越しの安穏を祈る茅の輪くぐりが行われます。


【番屋跡】 (右側)

 道の両側に木製の常夜燈が立っている右側に石碑がある。ここから本来の下諏訪宿となる。


【茶屋(松屋)跡・今井邦子文学館】 (右側)

 国道に合流する前に石碑と文学館がある。


【本陣(岩波家)】 下諏訪町文化財 (右側)16:30〜16:55

   

 国道142号線に合流したらすぐ右側にあり、見学時間は日が明るい内とのことである。解説してくれる。

 和宮が宿泊した部屋はホテル側だが、当時のものは残っていないとのこと。残っているのは、現在の本陣だけである。

 

 かつての本陣の敷地は広大で、元の土地は2000坪、建物は300坪あったが、ご他聞にもれず、ここの本陣も晩年は台所事情が苦しくなり、敷地の半分をホテルに売却した。また屋敷の周りには水路があって砦のようであったが、現在は道路改修でなくなってしまったとのこと。

 庭園は中山道一と言われ、当時のまま保存されている。池の上に社があり、手前の縁には拝み石という大きな石がある(右上の写真)。

 玄関に並んでいる関札や裏の土蔵も当時のものである。現在も28代目の当主が住んでいる。

 門を入った左側の家のトイレ(シャワー式)は使わせて貰える。

〔史跡 本陣遺構〕 下諏訪文化財(昭和47年2月指定)

 江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年(1861)十一月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治十三年六月二十四日明治天皇ご巡幸のときにはお休所になった。

〔中山道本陣〕

 岩波家は中山道下諏訪宿の問屋兼本陣で問屋としては街道の交通運輸を司り、本陣としては日光例幣使はじめ公卿また参勤交代その他公用で通る諸大名たちの休泊所になった。文久元年十一月五日には御降嫁の和宮様のお泊りがあり、明治十三年六月二十四日にはご巡幸のお休所になった。


【下諏訪宿】 日本橋から55里6町(216.7Km)、京へ80里28町 (317.2Km)
 天保14年(1843)で人口1345名、総家数315軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋40軒。

 下諏訪宿は中山道と甲州街道が合流する交通の要所で、大いに栄えた。また、街道で唯一温泉のある宿場である。

木曽街道六拾九次之内 下諏訪 (広重)

 旅籠屋の内部を描いている。

本陣(岩波家)の庭から上段の間を撮影


中山道は、本陣の先「御宿まるや」を右折する。「まるや」の左側広場に問屋場跡碑甲州道中・中山道合流之地碑が建っている。

「まるや」の先で再度国道142号線に合流する。その 合流点に御柱モニュメントと高札場跡があるのでここで右折する。

次の「大社通り交差点」で国道142号線は終点となり、左から来る国道20号線と合流する。

その次の交差点が「下諏訪駅前交差点」。


【新鶴本店】 

 「御宿まるや」の次の角、左側にある。元祖塩羊羹の老舗で支店は出していないのでここでしか買えない。


【諏訪大社下社秋宮】 17:00〜17:15

 

 「新鶴本店」の前を行くと、宝物館の所から入れる。

〔諏訪大社下社秋宮弊拝殿〕 国重要文化財(昭和58年12月指定)

 この弊拝殿は安永六年((1777)に起工同十年に落成した。工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、彫刻は中沢五兵衛につき、いくつかの名建築を残した。軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、それがすべて素木の生地を生かして清楚である。彫刻には独特のおおらかさがあり拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。

〔諏訪大社下社秋宮神楽殿〕 国重要文化財(昭和58年12月指定)

神楽殿は御神前に神楽を奉納する建物。

三方切妻造りと呼ばれる様式で幣拝殿のような彫刻は見られません。正面の大注連縄は御柱大祭毎に奉製され、重量は約1トンあります。

 この神楽殿は二代立川和四郎富昌の作である。

 彼は技をすべて父にうけ、天稟(てんびん)の才能と異常な努力で立川流の最高をきわめ、幕府から内匠(たくみ)の称号を許されたほどの名匠である。この神楽殿は天保六年(1835)富昌五十四歳の作で、父の建てた華麗な幣拝殿の前に荘重なものをつくってよく調和させ、幣拝殿をひき立たせているところが賞賛される。

〔左、右、片拝殿(さゆうかたはいでん) 国重要文化財

 安永十年(1781)初代立川和四郎富棟により造営された。

 幣拝殿と比べ彫刻などは見られず、江戸時代の記録には帝屋(御門戸屋)拝殿は(回廊)と記されております。

〔御柱〕

 御柱は寅年と申年の七年毎に御宝殿の造営と共に建替えられる御神木で社殿の四隅に建立されています。この秋宮一之御柱は長さ十七米余直径一米余の樅の木で霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、数千人の氏子の奉仕により曳行されました。

 御柱祭は天下の奇祭として有名であり次回は平成二十二年庚寅年に行われます。

〔根入りの杉〕

 この杉は樹齢凡六〜七百年、丑三つ時になると枝先を下げて寝入り、いびきが聞こえ、子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれております。

【下社の七不思議】

1.寝入りの杉(秋宮)

   上記(真夜中にいびきが聞こえる)

2.湯口の清濁(秋宮)

   神の湯と言われた綿の湯は不浄の者が入るとたちまち湯口が濁ると言われた。

3.御作田の早稲(御作田社)

   上述(一ヶ月で稲の穂がでる)

4.筒粥神事(春宮)

   小正月の年占いの行事。筒に入った粥の状態で作物の豊凶と世の中の吉凶を占う神事。このご神託がよく当たるとのこと。

5.浮島(春宮)

   神威により砥川が大洪水の時も決して水没しない島。

6.御射山(みさやま)の三光

   御柱が運ばれてくる山奥に御射山社があり、御射山祭の行われる旧暦7月22日の正午に日・月・星の三光が同時に見られると言われている。

7.御神渡り(諏訪湖)

   上社におわす男神様が下社の女神様に会いに冬の凍った諏訪湖の上を歩いたときにできると言われている。



 16回目の旅終了(17:20) 下諏訪駅前交差点

  下諏訪駅より電車で帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、22.3Km(和田宿「本亭旅館」〜下諏訪駅前交差点)

          日本橋から五十五里二十八町(219.1Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、25.0Km(本亭旅館〜下諏訪駅) 累計:269.6Km

          9時間45分 40,700歩(過去最長記録)。

 

「長久保宿・和田宿」 ← 「目次」 → 「塩尻宿・洗馬宿」