長久保・和田宿 (笠取峠 → 和田宿「本停旅館」) <旧中山道15回目>

2006年10月20日(金) 晴 

 長野新幹線・佐久平駅9:35発の千曲バスで「芦田中央」下車、バス停前 にある望月ハイヤー(株)のタクシーで笠取峠まで行き、峠を10:25スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「塩名田宿・八幡宿・望月宿・芦田宿」 ← 「目次」 → 「下諏訪宿」

 


【笠取峠】 

 峠の茶屋を過ぎたところに「笠取峠」の石碑と灯篭が建っている(左上の写真)

 ここから振り返った峠の景色が一番美しい。

 ここから少し下がると、石垣に「笠取峠立場図」のタイル絵がはめ込まれている。

【笠取峠立場図版木】  長門町堅町の釜鳴屋に保存されている版木には、峠の斜面に建てられた江戸期の立場茶屋の様子が写実的に描かれている。当時の峠は、現在の国道142号線の峠より数メートル南に位置し、路面も今より数メートル高所にあった。今では、ぐみの古木以外に面影はない。  

   

 この辺りで左を見ると、「中山道元道」という標識が出ており、人が歩いた細道が見えるが、短い距離でかなり藪の中を入って行くようなので見なかったことにした。

 右側ペットハウスの所で標識に従って右折する。すぐ林の中を下る「中山道元道」という標識が出ているのでそこを下りて行く。車道は蛇行しているが、この元道は何度か道路を横断してほとんど真直ぐ下りて行くのでかなりショートカットできしるし、林の中の気持ちがいい道で、道標も完備している。(左下の写真)

 前回はコスモスが花盛りだったが、今回は紅葉がすばらしい時期だった。


【松尾神社】 長門町指定文化財(建築彫刻として貴重の理由で昭和53年12月指定) (右奥) 10:55

 最後のカーブ手前で右下に神社が見えてきたら、下り階段があるのでそこを下りると神社を裏から入れる。

 この本殿は諏訪の宮大工、三代立川和四郎富重の建築で、万延元年(1860)に再々建したもので総欅で三社の高床造りである。

 本殿の欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ、鶴が舞い遊んでいる姿や、貫の木鼻には象のはななど、実にみごとな彫刻がしてある。

 神社は旧郷社で、祭神は大山昨命(くいのみこと)であり、本社は京都市右京区松尾町の官幣大社松尾神社で、酒造守護の神として往古より酒造家の尊信あつく遠くより参詣する人が多かった。

 以前は長久保の町裏地籍にあり、その当時は大欅の森があったが小学校々庭拡張のため昭和33年5月現在地に移転した、その際略式の四神の祭祀のあることが発見された。


【一福処 濱屋(長久保宿歴史資料館)】  11:05〜11:45

 松尾神社の鳥居を過ぎるとすぐあり、扉が閉まっていても開けて自由に入れる。2階は長久保宿の資料館になっている。休館日:月曜日

 セルフサービスのお茶が置いてあったので、すこし早いが東京駅で買った弁当を食べることにした。しかし、お茶は水のせいか美味しくなかった。

 一福処濱屋は、中山道長久保宿堅町の上位(江戸方)に位置しています。

 現在の建物は、明治時代の初期に旅籠として建てられましたが、中山道の交通量が減ったために開業には至りませんでした。

 間口は九間と広く、総二階建て・延床面積400平方メートル程の宿内でも大きな建物です。また、一階より二階部分を突出させた「出梁造り」が特徴的で、山間部の旅籠建築に多く見られる手法です。

 平成12年に建物の所有者である福永家・黒澤家からご寄付を受けて、地域住民の語らいの場や長久保宿を訪れる旅人の休み処として、また、宿場関連の歴史・民俗資料の展示公開の場として活用を図るよう改修を行いました。

 一福処濱屋を貴重な旅籠建築の歴史的建造物として長久保宿の面影を後世に伝えるものです。


【長久保宿】  日本橋から47里24町(187.2Km)、京へ88里10町 (346.7Km)

 天保14年(1843)で人口721名、総家数187軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋43軒。  

 長久保宿は、慶長七年(1602)の中山道制定に伴い、真田氏の配下で宿場成立後に本陣・問屋を勤めた石合氏、問屋を勤めた小林氏が中核となり、当時は現在の宿より西下の依田川沿いに設けられた 。

 しかし、寛永八年(1631)の大洪水によって流出したため、段丘上のこの地に宿が移 り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」を形成し、後に宿場が賑わうにつれ南北方向に「横町」を形成していき、L字型の町並みになった。  

【長久保宿の賑わい】

 江戸時代末の天保十四年(1843)には、四十三軒もの旅籠屋が長久保宿にはあって、信濃二十六宿では塩尻宿に次ぐ数を誇りました。その要因としては、宿の前後に笠取峠・和田峠の難所が控えていたこと、甲州道や伊那方面への近道となる大門通、武石峠越えに松本方面から佐久方面へ通じる大門道、北国街道へ通じる善光寺道・上田道に接する交通の要衝であったこと、温泉場でもある下諏訪宿に宿泊した場合、日程的に好都合だったことなどが上げられます。

 中山道は、同じく江戸と京・大坂を結ぶ東海道よりも十里(約40Km)程長く、しかも山がちで、峠も多く人々や物の往来には困難が伴いました。しかし、東海道のような大きな河川が少なかったため、大水の際の川留によって何日も逗留することなく、ほぼ予定通りの旅が出来たため利用する人々も多かったようです。

 参勤交代の折りに中山道を通って、長久保宿を通過した大名は尾張(愛知県)・紀伊(和歌山県)の徳川家など三十四家で、これは東海道の四分の一程にあたります。このほか、二条城番・大阪城番・日光例幣使(日光東照宮の大祭に朝廷から派遣される使者)などの公用者も片道は中山道を通りました。
 また、「川留の際に逗留して、『滞る』ことを嫌った。」、「『今切りの渡し』(静岡県浜名湖)や、『薩(去った)峠』(静岡県)などの地名が敬遠された。」などの諸説がありますが、縁起を担いだためか姫宮のお輿入れはほとんど中山道を通って行われました。このことから中山道は別名で、「姫街道」とも呼ばれました。

木曽街道六拾九次之内 長久保 (広重)

 依田川に架かる依田橋を描いている。

 現在の風景はこの先落合で依田川から分かれた大門川に架かる

落合橋に相当するが、間違えてすぐ隣に架かっている和田橋を

写してしまった。しかし雰囲気は変わらないと思う。


【旧本陣(石合家住宅)】  長和町指定文化財(昭和53年12月指定。指定の理由:本陣建築として重要) (右側)

 以下の4軒は、竪町の「一福処」から200m以内に続いてある。

 江戸初期の本陣建築で、大名、公家等の宿泊した御殿の間と呼ばれる上段之間、二之間、三之間、入側等を現存する。書院様式で、大柄欄間意匠には、寛永前後(1624前後)の風格がしのばれな中山道旧本陣中、最古の建築として貴重である。

 嘉永三年(1850)の本陣絵図には、上段之間ほか客室、茶之間、台所等二十二室が主要部分で、ほかに問屋場、代官詰所、高札場を併置し、御入門ほか幾つかの門、御番所二ヶ所、御湯殿四ヶ所、雪隠七ヶ所、土蔵、馬屋等があった。

 旧本陣百合家には、江戸初期よりの古文書、高札等貴重な文書、史料が数多く残されており町文化財に指定されている。


【羽毛田家(古久屋)-旅籠-】  (左側)

 羽毛田家は、竪町中央部に位置し、間口五間、江戸方に土間を設けた片土間二列型の旅籠で、宿を利用する旅人が少なくなってからは雑貨等を扱っていた時期もあったといいます。玄関や下屋を縁側に改築していますが、表二階の格子や屋号看板を釣っていた庇が旅籠の風情を伝えています。

 構築年代は詳らかではありませんが、「江戸時代に画家の東道さんが建てた。」と伝えられています。また、江戸時代の天保年間(1830〜1843)に制作したと思われる、長久保宿内の旅籠等の間取りを記した絵図には、現在と全く同じ間取りが記されていますので、おそらく絵図と同じ時期に構築されたと思われます。

 長久保宿には天保期とみられる建物は幾つか残っていますが、標準的な規模の旅籠としては羽毛田家が唯一の建物と思われます。


【竹内家(釜鳴屋)】  長和町指定文化財(昭和53年12月指定。指定の理由:江戸時代建築物、町屋造り) (左側)

 釜鳴屋は、寛永時代より昭和初期まで酒造業を営む。この住宅の建立年代は江戸時代前期といわれているが不詳である。大きさは間口九間半(17.27m)奥行十間半(19.08m)の正方形に近い形で、建坪約百坪(330m)、片側住宅二列型の典型である。「通りにわ」(土間)は幅三間半(6.36m)で奥まで通し、その中に細長く板敷をとっている。土間の上は、巨大な小屋組が現れている。屋根は当初板葺。昭和50年葺かえる。屋根には「本うだつ」が上げられている。

 「うだつ」については、多くの論考があるが機能については、防火のためと格式の表示のための二論がある。「うだつ」には、ここに見るような「本うだつ」と二階の軒下部分の「軒うだつ」の二種類がある。

 竹内家には、笠取峠立場図版木と、宿場札(長久保宿のみ通用の札)の版木も、町文化財として指定されている。


【小林家(問屋)】  (左側)

 小林家は、長久保宿が成立した当時から問屋を勤め、当主は代代「九右衛門」を襲名しています。

 母屋は明治三年(1870)の大火で焼失し、再建されたものです。長久保宿では珍しく母屋が、通りから引っ込んだ位置に建てられていますが、天保年間の制作と推定される「宿絵図」には、現在と同じ位置に母屋があって、通り沿いには長屋門や人足溜りなどの付属屋が見られます。現在の母屋は「みせのま」や土間部分が改修されていますが、客座敷の部分を大切にした中廊下型で、再建にあたってその独創性をいっそう高めたように思われます。総二階建ての切妻造りの妻入、出桁造りで、出格子を付けた二階部分はよく旧状を伝え、鬼瓦には真田家の家紋である「六文銭」が見られます。

 また、後方の土蔵には、「亨和三年(1803)、小林九右衛門墨済/棟梁佐久郡柳沢(国)蔵」と記した棟札が残っていて、その内壁には、谷文晁が描いた「恵比寿・大黒」の壁絵があります。


【竹重家(辰野屋)-旅籠-】  (左側)

 左角に浜田屋旅館がある十字路を左折して200m程の左側にある(横町)。

 竹重家は、横町の長安寺参道南側にあって旅籠を営み、宿場の役職も勤めててきました。

 通りに沿った母屋は、間口11間、出梁造りの総二階建てです。主屋の後方京方には、客座敷が接続し、江戸方には付属屋が接続して、庭を囲むようにコの字型の建物配置になっています。
 母屋の江戸方には通り土間を設け、入口にはくぐり戸が付いた両開きの板扉が入っていて、京方には通りから直接賓客を客座敷に迎える敷台(板の間)が設けられています。一階中央部では持ち送りに彫刻を付けた出格子が張り出して、腰壁は鎧下見張りです。
 通り土間に面した広い「帳場」は天井吹き抜けで、二階家の階段が設けられています。二階も客座敷で、通りに面して、幅一間の廊下があって、出格子を付けています。
 構築年代は詳らかでありませんが、出梁造りの総二階建てとし、彫りものを付けていることなどから、江戸時代末期の建物と推定されるます。ダイナミックな建築構成と伴に、厳選された材料とその精緻な加工性がこの建物の特徴で、長久保宿のかつての繁栄を偲ばせる建物です。


【一里塚跡】
 長久保横丁で国道142号線に合流。合流したところで左に上がる道があり、その入口に「中部北陸自然歩道」の標識が立っているが、こちらは中山道でない為、今回は標識に従わずに国道142号線をそのまま行く。

 国道152号線が右斜めから合流する長久保交差点で横断信号を渡って更に国道の右側を行くと「ドライブイン中山道」が見えてくる。

 ドライブインを過ぎるとまもなく「四泊(よどまり)落合 標高680m」の標識があるところで右の小道に下りる。下りたところに一里塚の説明板が あるが、国道側からでないと下の道からは読めない。コンビニ(デイリーヤマザキ)の裏側を回り込む短い道が旧中山道となる。

一里塚跡】 長和町指定文化財(昭和53年指定。指定の理由:交通路の遺跡) 12:18

 中山道の一里塚がここにあった。昭和35年(1960)道路改修以前は、榎の大木が植えられていた。町民は「エノミの木のある所」といって親しんでいた。江戸初期正保年(1647)信濃国絵図(長野県だから)にも、この場所に一里塚のあったことが明記されている。こより北東へ一里旧中山道笠取峠地籍や、南西へおよそ三里の和田村唐沢地籍には、一里塚が現存している。

 再び国道142号線に合流するとまもなく142号線から152号線が分岐する大和橋交差点に至る。

 ここ大和橋から142号線の前方に「中山道これより和田の里」と書かれた大きな石碑が見える。そちらに行きたくなるが、旧中山道は大和橋を渡らずに一旦152号線の方へ左折する。すぐ右側に落合橋が見えるので右折してこれを渡る。落合橋に続いて和田橋を渡るとすぐまた142号線に合流する。

 広重が描いた長久保の浮世絵の依田橋は現在の落合橋らしい(上記【長久保宿】で載せた現在の写真参照)

 大和橋から左折している国道152号線は大門街道といい、白樺湖を抜けて茅野市で甲州街道に合流する。(「旧甲州街道道草ハイク」15回目参照)


【水明の里(小公園)  12:45

 清原の信号で右に入る道に中山道の青色の道標があり、国道との間が小公園になっている。その入口に「水明の里」と書かれた大石があり、左カーブしたところに、和田宿の解説と馬頭観音群が 建っている。この先しばらくは依田川に沿って左側が国道、右側が中山道と3本が平行している道を行くようになる。

和田宿は、江戸板橋宿から、28番目の宿場である。宿成立以前から人家のあった中町・下町を中心に、上町が、さらに周辺の雨原・細尾・鍛冶足・久保などから人を集めて宿を構成し。さらに正徳三年(1713)には下町に続く追川越えの橋場・新田を宿場に組み入れている。
 宿場は、幕府の公用旅行者の継ぎ立て業務を取り扱う所であったが、参勤交代で中山道を通行する34家の大名や、一般旅行者が休泊する場所でもあった。

天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると宿の長さ7町58間(約870m)、人数522人、家数126軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠屋28(大12、中4、小12)となっている。問屋、本陣、脇本陣、木問屋等は中町付近に集中し、それらを中心に上町や下町まで旅籠屋や伝馬役、歩行役を務める家、茶店、商家などが並んでいた。それらのその多くの家が農業を兼ねていた。

和田宿は下諏訪宿まで中山道随一の長丁場であるうえ、上り2里半、下り2里半という和田峠の難所をひかえ、継ぎ立てにあたる伝馬役、歩行役の苦労は並大抵ではなかった。天保3年(1832)に和田宿で動員した人足は延17,759人、馬は延7,744匹にのぼっている。文久元年(1861)11月の和宮通行の際は、4日間に延8万人が通っている。その後も幕末まで大通行がしばしばあった。

50人・50匹の宿常備の伝馬ではまかないきれない分は、元禄7年(1694)に定められた助郷制によって、近隣の村々から動員された。幕末はとくに出勤回数が多く助郷村の負担は大変なものであった。


【ユニークなバス停】 

 ここから和田宿までのバス停が写真で分かるとおり、茅葺屋根や神社風造りだったりトンガリ帽子が乗っていたりして実にユニークで楽しい。

上深山口 12:55

下和田中組(左は馬頭観音) 13:02 

芦沢  13:40


【みみずの道祖神と水場】  (共に左側) 13:04と13:06

 下和田中組バス停を過ぎて2分ほどで、左の写真のような不思議な道祖神と出会える。なんでみみずの道祖神なのか、どんな謂れがあるのか知りたいものである。

 更に2分ほど行くと、右の写真の水場に着く。

 「のみ水」と書かれているとおりおいしく飲める。

 


【三千僧接待碑】  (左側) 13:08

 信定寺別院慈眼寺境内に建立されていたものだが、寛政七年(1795)この地にうつされた。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やした三千僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。

 碑をみれば誰の目にもわかるように一千僧の一の字を三千僧の三の字に改刻した後が歴然としている。当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い。更に天保難関」の六年に亘る凶作続きの際にじゃが芋の粥などで賄ったことがあると言われる。


 13:15下和田上組バス停右側に倉付きの大きな屋敷があり、その塀の前に可愛い獅子舞の道祖神があった。


【若宮八幡神社】  長和町指定文化財 (左側) 13:25

 みみず道祖神に引き続いて不可思議なものに出合った。それは若宮八幡神社前のほとんど車が通っていない広くもない道で学校などもないのに左から右へ数メートルの地下横断歩道が設置されていることである。何の為に建設されたのか聞いてみたいものである。

 更に不思議なことに中山道の標識はここを潜れと示していることである。潜っても3m程の道路を左から右へ横断するだけなので???

 右へ出るとそのまま右に入って行く細い道があるのでこちらが中山道なのかとしばらく考えてしまった。しかし神社の前を真直ぐ行くとすぐ一里塚の石碑があるので右の道ではない ことが分かる。

【若宮八幡神社本殿・和田城主大井定信父子の墓】

 祭神は仁徳天皇である。
 本殿は、一間流造の間口1.5m、奥行1.7mの大きさで棟札には享保六年(1721)建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪違に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。
 天文二十三年(1555)和田城主大井定信と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、定信親子を始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。

 元禄六年(1613)その回向の為定信寺第六世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立した。


【一里塚跡】  (左側)

 若宮八幡神社のすぐ先に石碑のみ建っている。

 江戸ヨリ四十九里。


【和田宿碑(東入口)】  13:53

 トンガリ帽子の芦沢バス停を過ぎて、国道に接するあたりから道は上り坂になる。

 やがて写真の「是より和田宿」の石碑が見えてくる。

 宿に入って、和田小学校前の和田山バス停で小休止(おやつ休憩)。13:55〜14:05

 バス停隣の和田中学校前に水のみ場があり飲める。


【八幡社本殿】  長和町指定文化財  (右側) 14:13

 右へ曲がる道の角にある。

 祭神は応神天皇で、かつて和田城主大井氏の鬼門除けに作られたとの、伝承がある。
 本殿は、一間流造で蟇股に巳紋を入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっているのが特徴である。全体にすっきりした建築で、江戸時代中期の作と推定されている。
 拝殿と覆屋を併合した入母屋造の建物も珍しい建築である。


【歴史の道資料館かわちや(旅籠)】  国史跡 (右側) 14:25〜14:40

八幡社に沿って右折して、橋を渡った所にある。

 5館(かわちや・石器資料館・大黒屋・本陣・羽田野)共通券300円。

 文久元年(1861)3月10日の大火で焼失したが、その年の11月、本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。

 和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方であり、出桁造りで格子戸のついた宿場建築の代表的な遺構である。江戸末期の建築様式をよく伝えている。

 昭和56年度、歴史の道整備事業の一環として「歴史の道資料館」として復元したものである。

 職員の説明によると、30〜40名泊れた そうである。

 2階の窓際は天井が一段低くなっている。これは街道に面していることから大名達に向かって弓や槍が使えないように配慮されたものとのこと。


【黒曜石石器資料館】  14:40〜14:50

 「かわちや」の裏にある。

〔黒耀石の原産地〕

 火山の溶岩が固まってできた天然のガラスを黒耀石(黒曜石)といいます。割れ口が鋭く、割れやすいため、およそ3万年前から切れ味のよい石器の材料として、全国各地で利用されていました。

 火山の多い日本列島には、100ヶ所以上の黒耀石の産地があるといわれています。しかし、石器の材料として利用された産地は40ヶ所くらいで、さらに長い間にわたって利用され続けた質の良い黒耀石の産地は、その場所が限られています。その中でも和田峠に代表される長野県産の黒耀石は人気が高く、関東地方をはじめ、東北地方から関西方面へと広範囲に持ち運ばれていました。


【大黒屋(旅籠)】  (左側)

 「かわちや」の斜め前に問屋跡と並んである。

 この建物も文久元年の大火の後、建てられた旅籠で「大黒屋」といった。6間×7間の出桁造りで問屋の隣に並ぶ大型の建築物である。

 安政年間以降昭和初年まで穀物商を営み、戦後、奥座敷の床の間と勝手奥の小座敷壁面の帳箪笥等は採光の為に取り払われ改造が加えられている。また、明治時代に道路が掘り下げられとき道路に合わせ町並みより奥へ移動したという。


【羽田野】  (右側)

 十字路右側にある。

 文久の大火の後、和田宿町並みの中心部に建てられた平入出桁の門付旅籠型の伝統的な遺稿である。明和2年(1765)以降同族の名主退役により明治維新までを勤めた定名主羽田家の役宅である。

 門・鬼瓦の六文銭の掘りはかつての真田氏の給人であった証か。勝手の側も表から裏へ9間半の通り抜け土間は宿場建築の特徴である。


【和田宿本陣】  15:00〜15:25 (左側)

 十字路左側にある。

 

 和田宿本陣は和宮降嫁の年にあたる文久元年(1861)の三月十日に、宿内の出火により他の多数の旅籠と共に焼失した。しかし、十一月の和宮の宿泊のために、幕府よりの拝借金を得て、急ぎ再建された。

 本陣建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と、本陣の所有者などが使用する「主屋」にわかれており、この建物は「主屋」当たる。明治維新まで本陣長井家が居住していた。明治十二年に戸長役場にあてられ、その後和田村役場となり、昭和五十九年四月まで使用された。

 建物の規模は、間口十二間(約21.6m)、奥行九間(約16.2m)の切妻平入り板葺きの建物で、正面外観は中二階を幅一間(約1.8m)出桁によって持ち出した出桁造りで、中山道本陣としての特徴をよく示している。

〔和田宿本陣御入門〕 (上の写真)

 中山道和田宿本陣は、文久元年三月の大火で焼失したが、同年十一月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町龍願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度、「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行100年記念事業の一環として日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。

 居住棟・冠木門は旧位置に復元したが、御入門は、既に整備された道路の関係から、旧位置とは異なるこの場所に再建された。

 また、座敷棟については同じく敷地等の関係から復元することはできなかった。

〔和宮御下向一行総人数〕

 京都方      約一萬人

 江戸方      約一萬五千人

 通し人足     約   四千人

 警護の各藩    一萬人

 助郷人足     約一萬三千人

 遠国雇人足        七千人

 馬士             二千人

 馬              二千頭

   総人数  約八萬人  

 和宮嫁入り荷物などは東海道経由で十月十二日京都発二十九日江戸到着。  


【和田宿】  日本橋から49里24町(195.1Km)、京へ86里10町 (338.8Km)
 天保14年(1843)で人口522名、総家数126軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋28軒。

木曽街道六拾九次之内 和田 (広重)

 和田峠の雪景色を描いている。

和田峠・西側へ下り始める所
 


【信定寺】 (右奥) 15:30

 大黒屋の前の道を右に入って行くか、本陣の所を右折すればある。

 釈迦如来(鎌倉時代)を本尊とし、戦国時代武田信玄が信濃を攻め、城主大井定信討死、その菩提を弔う為天文二十二年に建立。

 徳川時代、例弊使日光参詣の途中、和田宿に泊まり京都二条殿祈願寺となり、諸大名参詣す。

 江戸時代十四代住職活紋禅師(上田の竜洞院住職後隠居)は幕末の士、佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕い来るもの千余人、象山と一対一で世界情勢を語る。

 寺の裏山は昔の和田城跡。

〔鐘楼〕 (上の写真)

 旧鐘楼は元禄三年の作で、江戸時代までは山門の右側にあり、明治十九年現在の場所に設置、昭和十七年戦時中供出するまで、朝夕鳴り響く鐘の音は村の人々の心のよりどころとしてきた。

 新しい鐘のできるまで鐘楼の保存のため昭和四十四年に大改修を行い、昭和五十三年に新しい鐘を吊るす。

 山門を兼ねた二層の鐘楼は柱が細身、やや腰高でなんとなくおぼつかに形におもしろみがあり、又鯱が逆立ちしているのが趣がある。

 平成十二年大改修する。


【脇本陣】  (右側)

 「本亭旅館」前にある。

 本陣に次ぐ格式をそなえ、本陣差し合いの際、一方の大名が休泊した。平素は上級武士などの宿泊所にあてられた。和田宿には翠川氏と羽田氏の二軒あった。

 文久元年(1861)三月十日の大火で和田宿内一〇九戸を全焼した際、脇本陣も類焼した。

 同年十一月、皇女和宮降嫁の際和田宿宿泊のため、昼夜兼行で宿内復旧工事がなされた。この脇本陣もその時の建築である。

 現存の建物は翠川家の御殿部分のみであるが、上段の間、二の間、脇上段、次上段の間のほか風呂場、厠等江戸末期の姿をよく伝えており、上田、小県地方における脇本陣唯一の遺構である。


【旅館 本亭】

 2006年10月現在、一泊二食付で7,000円/人、翌日の弁当(大きめのおにぎり2個と漬物)300円

 TEL:0268-88-2515

 写真は、山の中腹にある「新海神社」より和田宿の町並みを写したもの。


 和田宿に宿泊するが時間的余裕があり「男女倉」まで歩いてバスで戻ろうとする場合(2006年10月現在の情報)。

 「和田本陣」から「男女倉」まで歩いて1時間45分。「男女倉」最終バスは15:35なので和田宿を13:50までに出発できれば間に合う。

 「扉峠口」までは歩いて1時間弱。「扉峠口」は15:43発なので和田宿を14:45までに出発できれば間に合う。

 翌日「和田ステーション」8:00発の回送バスに乗せてもらえるとのことで、「扉峠口」や「男女倉」までバスで行けます。

 ちなみに、2006年10月現在の最終バス時刻は下記の通り(和田宿内のバス停に掲示されている)。

 男女倉15:35→唐沢15:41→扉峠口15:43→牛宿15:44→大出15:46→鍛冶足15:47→上和田15:49→和田ステーション15:52 



 15回目の旅終了(16:00) 和田宿「本亭旅館」(宿泊)

 本日の記録 : 街道のみの距離は、10.0Km(笠取峠〜和田宿「本亭旅館」)

          日本橋から五十里四町(196.8Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、11.0Km(笠取峠〜本亭旅館) 累計:244.6Km

          5時間30分 20,900歩。

 

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