本庄宿 (岡部駅 → 新町駅) <旧中山道8回目>

 

2006年2月25日(土) 快晴

 岡部駅入口交差点を10:15スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「深谷宿」 ← 「目次」 → 「新町宿・倉賀野宿・高崎宿」

 

 2006年トリノオリンピックで日本国民が待ち望んだメダルがやっと獲得 。日本時間24日早朝、女子フィギュアスケートで荒川静香が金メダル。 


【百庚申】 (左側) 10:25

 「根岸電業」と「丸矢」の前がY字路になっており、その真ん中に『馬頭尊』の石碑がある。旧中山道はY字路を右に下りていくのだが、『百庚申』に行くには案内板に従って直進し、次の道を右折して坂を下りると八坂神社の下(写真)にある。

 百庚塔は、岡坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。

 百庚申が建立されたのは、幕末、万延元年庚申の年(1860)で、岡の有志13人により計画され、翌年の万延2年にかけて完成をみた。

 このことは、庚申塔群の中に、大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、「田島新兵衛、(以下12名略)」という人々であったことがわかる。

 もともとこの場所には、享保元年(1716)に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。

 万延元年は、徳川幕府の大老井伊直助が江戸城の桜田門外において水戸浪士たちにより、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢をやぶられた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。


 『百庚申』を過ぎるとすぐS字カーブして国道17号線の岡交差点に出る。ここを横断して真直ぐの道を行き、小山川に架かる滝岡橋を渡る。 昔はこの橋の150m上流で渡河したとのこと。

 ビニールハウスが並んでいるところを道なりに行くと、左の写真のように「↑歩道」、「→妻沼・本庄市外」、「この先通り抜けできません」の標識が出てくる。

 「この先通り抜けできません」の標識は車の為のもので、歩行者は「↑歩道」の標識に従って直進する(写真で鉄塔方向で、こちらの細い道が旧中山道)。

 やがて、県道にぶつかると柵状のガードレールに阻まれるが、右に少し迂回するか、ガードレールを乗り越えて真直ぐの道へ行く。私たちは乗り越えた。乗り越えるのに抵抗がある方は、少し手前のY字路を左に行き、道路下のトンネルを潜り、すぐ右へ曲がると良い。


【八幡大神社】 (左側) 11:00

 藤田小学校のすぐ先にあり、反対側は「宝珠寺」。境内には古い神楽殿があり、本庄市指定文化財の「金鑚神楽・宮崎組」が伝えられている。

 当社は、建久年間(1195)児玉党の一族・牧西四郎広末が、武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。

 こえて文明3年(1471)五十子合戦のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長17年(1612)ごろ信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが、八幡大神社再興、ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田五畝二十五歩の寄進があった。明治41年本県より神餞幣帛料共進社の指定があった。

 なお当社奉納の宮崎組神楽は市の指定文化財になっている。

 この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており、神をよろこばせる舞楽(まい音楽)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽、宮崎組の起こりについてはまだ明らかではないが、使われている面は江戸時代正徳年間(1711〜1715)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)はいま二十五座伝えられている。


【長屋門】 (左側) 11:06

 八幡大神社のすぐ先にあるが、ほとんど物置小屋となっていた。


【賽神・子育地蔵・庚申塔群】 (右側) 11:12

 写真のように、左から「賽神の石碑」、「子育地蔵堂」、「庚申塔等」が畑の前の道路沿いに並んでいる。

【長屋門(内野歯科医院) (右側) 11:22

 内野歯科医院の入口が新しく直された長屋門である。

【傍示堂】 (右側) 11:26

 道は左にカーブして新泉橋を渡るが、そのカーブしたところの「傍示堂集落センター」の敷地奥にある。

 このあたりの地名は傍示堂といい、昔は武蔵国と上野国の境に堂を建て傍示としたこから、この地名が付いたとのこと。

 


<昼食> 11:30〜12:10

 傍示堂からすぐの元小山川に架かる新泉橋を渡ったところにある「六助うどん」で『きのこ三昧つけめん』¥840−を注文した。

 かなり太い手打ち麺で腰が強く、なんといってもうどんも付け汁も量が非常に多く、女性はもちろん男性でも食べきれない程であった。余ったうどんはもったいないので犬用にとビニールに入れて持ち帰った。 味・量とも満足で★★★★。

 なさけないことに食べているうちに、うどんの重さで手首がつかれ、硬さであごが痛くなってきた。それほど麺が太く腰が強いということである。

 頑張って食べた為満腹で苦しくなり、ゆっくりしたかったが、先を急ぐため早々に出発。ところがこの先夕方まで腹がもたれ、胃腸薬のご厄介になってしまった。


【御堂坂の庚申塔】 (左側) 12:17

 諏訪町交差点で国道17号線を渡り、ゆるやかな御堂(みどう)坂を登ると、途中左側にやや引っ込んである。

【本庄城跡】 (右奥) 12:35〜12:50

 「中山道交差点」から2つ先の道を右折して300mほど行くと、神社の鳥居が見えてくる。このあたり一帯が城跡、奥に稲荷神社がある。

 

 本庄城は、弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。

 本庄市は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。

 徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が1万石を賜って新城主となったが、慶長17年(1612)その嗣子信之の代に古河城に移封され、本庄城は廃された。

 元禄13年(1700)の城跡検地帳には、三町四反五畝二十九歩(約3.4ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は九城堀で切断された自然の要害であった。

 なお小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は、昭和33年本庄市指定の文化財となっている。

【城山稲荷神社】

【城山稲荷神社】 所在地:本庄市本庄3−5

 当社は、弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠が、本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斎したといわれている。天正18年(1590)小笠原氏が社殿を再興し、慶長3年9月(1598)上州赤城山麓より松樹百本を取り寄せて社内に植え、深く尊崇したと言われる。現在の社殿は天保15年(1844)6月再建したものである。

 社殿近くにあるケヤキは、本庄城築城のおり献木されたと伝えられる。現在(昭和61年3月)、目通り周囲6.35m、高さ約30mで県指定の天然記念物となっている。

 また境内に祀られている八幡神社は、応永年間(1394〜1428)村民が勧請したのを、慶長10年(1605)小笠原家の家老脇屋金左衛門が信仰して社殿を再興したものであるといわれており、その後明治41年この地に移転された。

【城山稲荷神社のケヤキ】 埼玉県指定天然記念物 昭和44年3月指定 

 このケヤキは目通り6.3m、根回り13.3m、枝張りは30m四方に及び、姿態もみごとな樹で、この1本で神社の森を作っているくらいである。樹令およそ400年と推定される。ケヤキは戦時中特別のものを除きほとんど強制的に供出され、このような大木は、県下でも数少ない貴重なものである。弘治2年(1556)本庄実忠によって本庄城築城のとき献木されたと伝えられている。

 写真の木であるが、現在上部は枯れてしまったのか切られていた。


【円心寺】 12:55

 城下公園を出て、西隣り に建っている立派な「本庄市役所」の前を左折すると円心寺がある。

 現在本堂は新築中であった。

 写真の山門は、天明年間(18世紀後半)の建立といわれる。三間一戸(柱間が3つで真ん中があいている)の重層建物。

 昭和53年(1978)に解体修理が行われ、朱塗りの鮮やかな外観に復元された。木割を縦横に駆使し、構造的にも安定した美観を表現するように工夫されているため、建築技術が最も発達した時期の建築とされている。修復の翌年には市の文化財に指定された。


【田村本陣跡・内田本陣跡】 13:00

  本庄駅入口交差点を越えた右側の「りそな銀行」あたりが「田村本陣跡」。その先左側の「足利銀行」あたりが「内田本陣跡」であるが、案内板等は何もない。ここまで歩いて きたなかで、埼玉県や本庄市は 文化財や旧跡等の保存・整備に対して関心が薄いように感じられる。


【田村本陣の門】  本庄市指定文化財 (左奥) 13:08〜13:20

 「埼玉県信用金庫」前の道を右折すると突き当たりに 田村本陣門と資料館がある。

 この門は本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の正門です。

 本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣があったのは現在の中央1丁目6の区域で、寛永19年(1642)から宿泊記録が残されています。

 この田村本陣の門は皇女和宮が御降嫁の際にくぐったといわれる。

【歴史民族資料館(旧本庄警察署)】  埼玉県指定有形文化財(建築物)

 この旧本庄警察署は、明治16年に建てられた洋風建築物として、県内に残る遺稿の白眉であります。
 木造ニ階建て、瓦葺、漆喰塗大壁造りのこの建物は、吹き抜けのベランダや石造りを模した木彫りの列柱、手摺金物、出入り口の半円形窓、左右対称の上下げ窓など、壁面の隅飾などに明治初期の洋風建築の特徴がみられ、大変モダンな警察署として市民の間に長く親しまれてきました。
 昭和54年、歴史民俗資料館として活用するため、国と県の補助をうけ、復元工事が行われ、創建当時の外観によみがえりました。

開館時間:9時〜16時30分   休館日:月曜日、祝日、毎月末、年末年始

入館料:無料(駐車場あり)


【本庄宿】 日本橋から21里30町(85.7Km)、京へ114里4町 (448.1Km)
 天保14年(1843)で人口4554名、総家数1212軒、本陣2軒、脇本陣2軒、 旅籠屋70軒。
 本庄宿は中山道でも一、ニを争う賑わいを見せた宿であり、武州路では最大の宿であった。

支蘇路ノ驛  本庄宿 神流川渡場 (英泉)

  英泉描く本庄宿の浮世絵は、宿内でなく武蔵と上野の国境である神流川で、現在の埼玉・勅使河原から橋を渡り上州新町宿まで向かう参勤交代の大名行列を描いている。橋は川の中央の中州までで、その先は舟で渡っている。

 

 

現在の神流川橋(場所は後述) 

 左の浮世絵に描かれている渡河地点は、この橋の上流50mとのこと。現在のJR線の鉄橋付近か。


【ローヤル洋菓子店】  文化庁登録有形文化財  (左側) 13:28

 旧道に戻るとすぐある。 本庄市の「まちなみハーモニー賞(アーバンデザイン部門)」受賞の建物。

 出かける前は食後のデザート はここでと決めていたが、昼食のウドンがもたれていたので、残念ながらパスした。従って、コーヒーがセルフサービスで無料らしいことは確認できなかった。

 旧中山道に赤レンガ造りの建物、明治27年12月資本金30万円で創立された、本庄商業銀行の建物です。のち大正9年12月武州銀行(現在のあさひ銀行)と合併、同行の本庄支店となり、昭和51年ローヤル洋菓子店が譲り受け本社工場売店として現在に至っております。

ローヤル洋菓子店々主


【安養院】  本庄市中央3-3-6 (右奥) 13:33

 安養院には「ローヤル」のすぐ前の道を右に入る。

 その道の途中に「纏(まとい)屋」という今時珍しい店があり、店内に纏が 飾ってあった。

 寺伝によると、創立は文明7年(1475)という。武蔵七党の一党である児玉党の一族本庄信明の弟の籐太郎雪茂が仏門に帰依して、当時の富田村に安入庵を営んだが、水不足に悩まされたため、土地を探したところ、現在の地を発見し、安養院を開基したと伝えられる。以後付近は水不足に悩まされることもなく、周辺の人々から“若泉の荘”と呼ばれるようになったという。

 なお慶安2年(1649)には、徳川幕府より25万石の朱印地を受けている。


【普寛(ふかん)霊場】 (右奥) 13:3 7〜13:45

 「安養院」の左手墓地を抜けて「安養院」の裏手に出ると行ける。

 境内に「木食普寛上人の墓」。

 普寛霊場に埋葬された本明院木食普寛行者は、享保16年(1731)秩父郡大滝村落合に生まれ、本名を浅見好八という。青年時代秩父直神陰流の達人として剣術に優れていたという。

 34歳のとき、人心救済を決し修験の道に入り、名を本明院普寛と改める。その後の厳しい修業を経て、神仏感応の独特な妙法を会得し、神仏両道の奥義を究めた。また行者として各地に登山道を開く。なかでも木曽の御岳、沼田の武尊山は有名で、とくに寛政4年(1792)普寛62歳の折に開いた木曽御岳の登山口は有名で、王滝口と命名されて、その功績を今に伝えている。

 享和元年(1801)9月10日本庄宿泉町の信者である米屋弥兵衛方で亡くなった。時に享年71歳、「亡きがらは何処の里に埋まるとも心は御岳の有明の月」と晩年の心境を詠んでいる。死後、若泉山安養院文竜上人のはからいにより当所に埋葬された。

 元霊場は、大正11年に安養院より、元霊場に移されたものである。

 なお、当霊場では毎年4月10日、10月10日に修行行事のほか、諸々の大祭行事を行っている。

【普寛上人の墓】 本庄市指定史跡

 御岳講(おんたけこう)とあがめられている上人は、本名は浅見好八。享保16年(1731)秩父大滝村に生まれた。のち剣道をもって、江戸で酒井候に仕えたが、明和元年(1764)武士をやめて天台の修験となり、名も本明院普寛と改めて、修業生活に入った。上人は広く各地をめぐって山を開いたが、その中で木曽の御岳山、沼田の武尊山、越後の八海山は名だかい。御岳を開いたのは寛政4年(1792)62歳のときであった。また木の実その他を常食としたと伝えられ、木食普寛上人とも言われている。
 享和元年(1801)特に緑を求め本庄宿にとどまり、同年9月10日泉町米屋弥兵衛宅でなくなられ安養院に葬られたが、大正11年(1922)道路改修により霊堂と墓は現在地に移された。


【金鑚(かなさな)神社】 (右側) 13:55

 県道462号線の手前にある。 

 本殿には写真のようなクスノキの巨木があり、埼玉県指定天然記念物の神木となっている。

金鑚神社】 

 社伝によると、創立は欽明天皇の2年(547)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の嵩信が厚かった。

 境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)幣殿は嘉永3年(1850)の再建で、細部に見事な獄彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井画がある。

 当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り5.1m、高さ約20m、樹齢約300年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信綱の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。

 このほか、当社には市指定文化財となっているカヤ、モミ、大門、神楽、小笠原忠貴筆建立祈願文がある。

【金鑚神社のクスノキ】 昭和44年指定天然記念物

 クスノキは、元来温暖地方に自生し、わが国では主に九州地方、近畿地方南部及び東海道関東地方の太平洋沿岸地方に生育する植物で北関東でこのような巨木になったのは珍しい。

 目通り5.1m、根回り9.8m、枝張りは東へ14.2m、西へ15.6m、南へ15m、北へ13.8mと四方へ平均して伸び樹齢およそ350年と推定され、樹勢盛んである。


【浅間山古墳】  上里町指定文化財(昭和37年指定) (左側) 14:38

 県道462号線を千代田3丁目交差点で右折し、左側の中山道各宿場の名前のタイル画を見ながら行く。「草津宿」のところ(歩道橋の手前)を左折する。左折すると植木の立派な民家が左右に続いており、どの家の木もよく手入れが行き届いてすばらしい。

 左折して30分ほど歩くと、左側 の畑の奥に赤い鳥居と小高い山が現れる。 

 七世紀前半につくられた古墳で、階段を登ると浅間神社と鉄の扉にしめ縄でふさがれた洞穴がある。


【泪橋の由来碑】 (右側) 

 「浅間山古墳」の斜め前にある。

【泪橋の由来】

 この地武蔵国賀美郡石神村浅間山地先中山道に 泪橋なる橋ありき

 昔徳川幕府は六名諸役等通行の砌(みぎり)街道筋住民に伝馬なる苦役を課したり

 農繁のさ中に又酷寒風雪の日にも伝馬の人々此の橋に憩い家族を偲び身のはかなさを嘆じてか泪しきりなりと


 途中「神保原駅」入口を通っているが、案内板等がないため気がつかず通り過ぎてしまった。ここで終了する方は注意が必要。左側を良く見て「ジャスコ」が見つかったらそこが駅への道である。

 やがて道は、神保原1丁目交差点で突き当たるので、ここを右折して国道17号線を渡る。この交差点で15:00。

【薬師堂・庚申塔群】 (左側) 15:05

 写真のように庚申塔が並び、奥に薬師像が祀られていた。 

 


【金窪館阯入口碑】 【金窪城跡】 (右奥) 15:18〜15:40

 10月に行われる雨乞いの獅子舞で知られる金久保八幡神社が右側にあり、そこから最初に右へ入る道に「金窪館阯入口」の石柱がある。

 「金窪城跡」に行くには、この道を右折して300m弱行くと「萌美保育園」の角に『舘入口』の小さな石柱があるのでここを左折する。次いで『庚申塔』と小さな『南雲稲荷大明神』 の所を右折すると、金窪城跡公園の前に「金窪城跡」がある。(下の写真)

 下記2種類の説明板があった。

【金窪城跡】 児玉郡上里町金久保 

 金窪城跡は、神流川に臨む崖上に残る平城の跡で、別名汰瑯(たや)城とも呼ばれた。
 平安末期の治承年間(1177〜81)に武蔵七党の一党である丹波から出た加治家春の構築と伝えられ、元弘年間(1331〜34)に新田義貞が改築して家臣の畑時能に守らせたという。

 室町中期の寛政年間(1460〜66)には斎藤実盛の子孫と言われる斎藤盛光が居城した。天正10年(1582)6月、滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦において、一族ことごとく討死し、城も兵火にかかって焼失し斉藤家は没落した。その後、徳川家康の関東入国にともない、川窪氏の所領となり陣屋が置かれたという。川窪氏は元禄1年(1618)丹波国(兵庫県)に転封となり、陣屋も廃されたという。

 現在、城跡の大部分が畑地や雑木林に変わっているが、所々に遺存する堀や土塁の一部に戦国の昔を偲ぶことができる。

【金窪城跡】 埼玉県指定史跡(昭和10年3月指定)

 館跡は西と北に清水が流れ、東に小溝があり東から南へは平らな地つづきである。今でも土塁が三ヵ所残がっており、中央の一区域を太瑯城あるいは金窪城といい上野と武蔵国境にあり要害の地であった。治承年間(約780年前)に加治家季が築城したと伝え、元弘年間(約630年前)新田義貞が築城してその武将畑時能が城主だったとも伝えられている。後寛正の頃(約500年前)斎藤実盛の子孫盛光の居城となり、その曽孫定利のとき天正10年6月(約400年前)滝川氏、北条氏の神流川合戦の際、兵火にかかって焼失し、北条方の城主斉藤家が没落した。 


【陽雲寺】  児玉郡上里町金久保701 (左奥) 15:47〜16:05

 旧中山道へ戻るとすぐ、左側に「陽雲寺」の入口の案内がある。

 武田信玄夫人の墓(下の写真)と新田義貞の家臣である畑時能(ときよし)の供養塔がある。

 曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久2年(1205)の創建と伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来、“新田勝軍不動堂”などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文9年(1540)斉藤定盛が講堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正10年(1582)の神流川合戦の兵火で焼失した。

 天正19年、金窪の領主となった金窪信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当寺の境内に居住したが、元和4年(16182)にと没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。元和5年には徳川幕府から御朱印五石が寄せられている。

 なお、境内には県指定文化財となってる元禄名のある銅鐘や、県指定旧跡となってる新田義貞の家臣であった畑時能の供養塔などがある。

【畑時能供養祠】 埼玉県指定旧跡(昭和38年8月指定)

 参道際にある石の祠は、新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが、歴応2年(1339)越前国で足利方に討たれた。
 従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて適地を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られニ石祠が建立されて、両者の姓を取り「畑児塚(はたこづか)」と呼ばれている。


 陽雲寺から5分ほど行った左側に「中山道」と題する説明板があり、金窪村の絵図と付近の説明が書かれている。

 中山道は、江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。

 金窪村(現上里町大字金久保)は江戸からニ十三里余。文政期(1818から)の家数は162軒。絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(県群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この道は、三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応2年(1653)頃です。

 勅使河原村(現上郷町大字勅使河原)家数は280軒。絵図では、武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで国道17号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透(みとうし)灯籠が移築されている大光寺が見えます。


【勝場一里塚跡】 (右側) 16:18

 

 

 説明板から7分で右側に大きめの畑が現れ、その西側に庚申塔が4基立っていた。そのすぐ先、国道17号線の手前に一里塚の石碑とお堂がある(左の写真で、お堂左下の黒い石に「一里塚跡」と彫られている)。

 日本橋から二十に番目の一里塚。

 


【大光寺】  児玉郡上里町勅使河原1846 (左奥) 16:25

 17号線に合流して、橋が見えてきたらその手前の道を左折し、JR高崎線のガードを潜るとすぐ右手に見えてくる。

 この本堂の左手にかつて神流川の本庄側にあった「見透灯籠」が現存している。

 大光寺は、臨済宗円覚寺派の寺で、山号を勅使山という。建保3年(1215)に武蔵七党の一党である丹党の、勅使河原権三郎有直が創建したもので、勧請開山は日本へ初めて禅宗を伝えた栄西禅師である。
 その後、応永18年(1411)に現伊勢崎市の泉龍寺白崖宝生禅師より再興された。しかし、天正10年(1582)の神流川合戦により総門のみ残し焼失した。

 明治42年2月に高崎線の灰煙を被り全焼したため、本堂等を再建し現在に至っている。

 なお、当寺には栄西禅師直筆の徧額と総門、忠臣直重父子の冥福を祈った不背碑(親子地蔵)、六角のガン部を持った石憧、神流川の渡しの標準と旅の安全を祈った見透灯籠が現存し、貴重な文化財として知られている。

 毎年4月23日に勅使河原氏の慰霊祭でもある蚕影山(こかげさん)が行われ、養蚕の道具に加え、最近では植木市等がたち、大変なに賑わいを見せている。


【神流川橋】 16:32

 上述の本庄宿の浮世絵で英泉が描いた場所である。

 橋の東側と西側に見透灯籠のミニチュアが置かれている。(左の写真では灯籠が見にくくなったので編集で消してしまったが本来は灯籠のうしろに柱がある)

 上武ニ州の国境を流れる神流川は、往古より荒れ、川で出水毎に川瀬道筋を変えて旅人や伝馬、人足の悩みの種であった。
 文化12年(1815)本庄宿の戸谷半兵衛が、川の両岸に灯籠を建立し、夜になると火を燈し夜道を往来する旅人の標準とした。

 この常夜燈のモチーフとなった武州側の常夜燈は、見透灯籠とも呼ばれ大光寺に移築されている。

 


【神流川古戦場跡】 (右側)  16:43

 橋の中央で埼玉県に別れを告げ、群馬県高崎市新町に入る。

 橋を渡りきった右側に「古戦場跡」がある。

 

 天正10年(1582)6月19日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対して好機至れりと北条氏は五万の大軍を神流川流域に進めた。瀧川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍一万六千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、瀧川軍は戦死三千七百六十級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。

 この合戦で、一益の勢力下にあった金窪城も落とされ、厩橋に撤退した。


【見透常夜灯(復元)】 (左側)  16:48

  群馬県に入ったとたん、各種案内板が増えた。旧中山道の案内板も出てきたし、道路にも名所の案内が画かれている。不親切な埼玉県と違って、旅人には期待が持てそうな県である。

 道はすぐY字路になり、旧中山道の案内に従い17号線と分かれて右側の道を行く。その三角点にライオンズクラブが立てた実物大に復元された新町側の「見透灯籠」が建っている。本物は高崎市大八木の諏訪神社あるとのこと。


【柳茶屋の芭蕉句碑・八坂神社】 (右側) 16:50

 Y字路から2分ほどで右側に見えてくる。句碑のうしろの滑り台には、大きなトカゲが飾られていた。

 この句碑のすぐ隣りには、珍しい土蔵造りの八坂神社が建っている。

 昔このあたりに柳の大木があり、側の茶屋を柳茶屋と言った。新町宿の俳人、小渕湛水・笛木白水らが柳にちなむ芭蕉の句碑を撰して天保10年頃句碑を建てた。

  

  傘におしわけ見たる柳かな

 


【諏訪神社】 (右奥) 16:55〜17:05

 句碑から4分ほどで、右奥に神社が見えてくる。

 本殿の三方には、楠木正成・正行、新田義貞、小島高徳など南朝方の主要人物の彫刻が施されている。


【高札場】 【行在所公園】 (右側) 

 郵便局から200m行った右側に「高札場」があるはずだが見逃してしまった。そのすぐ先に御在所公園がある。新町駅は次の大通りを左折する。

 諏訪神社でデジカメの電池が切れて予備も忘れてきたことや、湘南新宿ラインの発車がまじかなことから、 これらは次回訪れることにして早々に駅に向かった。



 8回目の旅終了(17:15) 新町駅入口交差点。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、14.8Km(島護産泰神社前〜新町駅入口交差点)

          日本橋から二十四里十九町(96.3Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、22.3Km(岡部駅〜新町駅) 累計:127.5Km

          7時間 31,400歩。(岡部駅から32,900歩)。

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