新町宿・倉賀野宿・高崎宿 (新町駅 → 高崎駅前ホテル) <旧中山道9回目>

 

2006年5月1日(月) 晴 (気温30℃)

  2人で続けて風邪をひいたこと、「東大寺の修ニ会(お水取り)」や「語り部と歩く熊野古道」ツアーに参加したこと 、週末の雨などで街道歩きがしばらく途絶えていたが、2ヶ月ぶりに再開。

 今朝は早く家を出ようと思っていたところ急用ができ、新町駅に着いたのは12:30であった。

 行在所公園にて持参のおにぎりで昼食 をとり、ここを12: 50スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「本庄宿」 ← 「目次」 → 「板鼻宿・安中宿・松井田宿」  「番外編」

 

 トリノオリンピックが終わって日本では、荒川静香の「イナバウワー」とチーム青森が頑張った「カーリング」が空前のブームになった。

 足の形でなく、背中を反らすフォームが「イナバウワー」だと勘違いされているが、今年の流行語大賞を取るのではないか。

 もうひとつ、日本中が湧き上がったのが、「2006 WORLD BASEBALL CLASSIC」で日本が優勝したことである。一時はどん底に落ちた日本だが、メキシコがアメリカに勝ったため特別ルール(失点をイニング数で割った失点率の少ないチーム)で準決勝に進むことができ、2連敗だった韓国にも勝ち、日本時間の3月21日(祭日)に決勝でキューバを破り、初代チャンピオンになった。


【行在所(あんざいしょ)公園】 (右側) 

【明治天皇新町行在所】

 明治天皇は、明治11年8月から11月にかけて、北陸・東海地域の御巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。

 当時は木造瓦葺き平屋建の本屋と付属棟の2棟で、旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。

 昭和55年1月に新町の史跡文化財としての指定をうけました。

 

 


【旅籠高瀬屋跡】 史跡 (左側) 

 第二区公民館隣りの駐車場前に石碑 のみがある。

 石碑には、「一茶七番日記」の一節が石に彫られている。

十一 雨  きのふよりの雨に烏川留まる

かかることのおそれを思へばこそ 彼是日を費やして門出はしつれ いまは中々災いの日をよりたるよう也 道急ぐ心も折れて日は斜めならざれど 新町高瀬屋五兵衛に泊 

雨の疲れにすやすや寝たりけるに 夜五更の頃専福寺とふとく染めなしたる提灯てらして枕おどろかしていふやう 爰(ここ)のかんな川に灯篭立て 夜のゆききを介けんことを願ふ 全く少なきをいとはず施主に連れとかたる かく並々ならぬうき旅一人見おとしたらん迚(とて) さのみぼさち(菩薩)のとがめ給ふにもあらじ ゆるし給へとわぶれど せちにせがむ さながら罪ありて閻王の前に蹲る(うずくまる)もかくやあらんと思ふ 十二文寄進す

  手枕や 小言いふても 来る蛍

(あと)へ帰らんとすれば神流川の橋なく 前へ進まんと思へば烏川舟なし 

たゝ篭鳥の空を覗ふばかり也

  とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
  山伏の 気に喰わぬやら 行蛍

                      一茶七番日記より

 俳人小林一茶が文化7年(1810)5月11日に新町宿に着いた時、前日からの雨で烏川が川留めとなったので高瀬屋に泊った。雨に疲れて眠ったところ、午前4時ごろ突然提灯を持った男に起こされて、 「神流川に灯籠を建てて、旅人の夜の往来を助けたいので、少しでも良いから寄付をお願いしたい」言われた。「旅人一人ぐらいを見逃しても菩薩様も咎めないだろうから勘弁してくれ」と詫びたが、ばちが当って閻魔様の前に蹲るように思え、結局十二文払う ことになったという。

 夜更けに寄付を取りに来た男を蛍に見立てて詠んだ句が “手枕や小言いふても来る蛍”


【小林本陣跡】 (左側) 

 宝勝寺の隣で、棕櫚の木が10本程並んでいる民家のブロック塀の前に木柱のみある。


【新町宿】 日本橋から23里30町(93.6Km)、京へ112里4町 (440.3Km)
 天保14年(1843)で人口1437名、総家数407軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋43軒。

木曽街道六拾九次之内 新町 

 温井川(ぬくいがわ)に架かっている弁天橋を上流から見た所で、後ろの山は赤城山 。

 新町宿外れの柳瀬橋から見た烏川(白州が当時舟渡りをした辺りか)

  温井川の写真を撮らなかったので、ここで代用。


【弁財天】 (左側) 

 弁天橋の手前にある小さな社。

 温井川の中の島に祭られた弁財天は治水の都合で昭和48年に現状となったが、七福神中の女神であり音楽弁舌福徳財宝をつかさどる神として信仰をあつめている社は天明3年5月に建立された。(中略)

 境内には芭蕉の句碑があり、この島には清冽な清水が湧き出でて旅人の喉をうるおしたとの句である。 


【川端家住宅】  文化庁指定有形文化財 (右側) 

 弁天橋を渡ってすぐのY字路を 旧中山道の標識に従って右へ行くと、伊勢島神社の隣りに写真のように立派な塀の川端家が見えてくる。家も蔵も立派である。

 昔ながらの造り酒屋とのこと。

 

 今の時期、街道のいたるところで赤白の『ハナミズキ』と黄色い『モッコウバラ』が満開に咲いており、綺麗であった。

 


【お伊勢の森】 (右側) 

 緑があざやかな関越道をくぐり、烏川土手のサイクリングロードを行く。

 土手に上がるとすぐ河原にお伊勢の森(下の写真)が見えてくる。

【中山道お伊勢の森】

 このあたりから烏川右岸に沿い温井川に至る一帯を昔から砂原村と言っている。いつの頃からか年代は詳かではないが、伊勢島村と言うようになり、村の北端に伊勢大神宮を奉斎して神明宮社殿を建立し村の鎮守として崇敬した。寛文(1661−1673)年中の初頭、洪水のため村民が離散し廃村となり立石村に合併となったが、間もなく立石村民が再開発して伊勢島新田村と仮称した。天和(1681−1684)年中正式に分村して立石新田村となり現在に至った。中山道は神明宮境内の北側を通っていたが文化九年(1812)頃から南側を通るようになった。二百坪程の境内には巨大な御神木の欅や榎、杉などがおい茂り、倉賀野宿の東外れ、例弊使街道とのわかれから一里余の位置に當り、道中の目やすともなり、広重筆による中山道六十九次の絵の中の一つは、お伊勢の森付近の風景を描いたともいわれている。

 明治42年(1909)7月神明宮、稲荷神社、琴平宮、諏訪社、菅原社、秋葉社、戸隠社を稲荷神社々殿に合祀して伊勢島神社として尊崇している。

明治のはじめ頃欅の大木は壱阡五圓参銭で買い取られたたことからもその大きさや樹齢を想像することが出来る。お伊勢の森近くに伊勢島、伊勢宮下の小字名が残っている。

 昭和62年春、区内の篤志家によっ檜造り銅葺きの社殿が造営寄進された。


 炎天下のサイクリングロードを20分程歩いていたら、左斜めに下りる道の先に旧中山道の標識を見つけたので、標識に従うことにした。一旦県道に出て柳瀬(やなせ)橋を渡る (上記【新町宿】の現在の風景は、柳瀬橋から東方向を写したもの)。

 土手から下りても何もないし車道なので、そのままサイクリングロードを柳瀬橋まで行ったほうが快適である。

 橋を渡った先の岩鼻町交差点を左折する。その交差点に「観音寺」があったので小休止(14:00〜14:10)した。

 また、この近くに「岩鼻代官所(陣屋)跡」があるはずだが、資料によって場所が異なり見つけることができなかった。 観音寺の裏手のようである。


【例幣使街道と倉賀野常夜燈】  高崎市指定史跡(昭和48年8月指定) 14:40

 「観音寺」を過ぎるたすぐのY字路を左に行き、国道17号線・JR高崎線・JR八高線を越える。

 しばらく行くと、右後方からの道と交わる追分に、写真のように「閻魔堂」「常夜燈」「道しるべ」がある。

 写真は西側から写したもので、右が旧中山道の江戸道、左が日光道となる。

【例弊使街道と倉賀野常夜燈】

 中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例弊使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。

 道しるべには左日光道、右江戸道とある。ここから日光例弊使街道は始まる。

 日光例弊使街道は十三宿中、上州五宿(玉村・五科・芝・木崎・大田)野州八宿となっている。正保四年(1647)に第一回の日光例弊使の派遣があって以来、慶応三年(1867)の最後の例弊使派遣まで、二百二十一年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格を持っており、文化十年(1814)に建てられ、道標の役割も果たしていた。

【例弊使街道の常夜燈及び道しるべ】

 江戸時代、日光東照宮には毎年四月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例弊使と言う。

 例弊使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道を取り、下野国楡木で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例弊使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされている。

 この辻には、常夜燈と道しるべ及び閻魔堂がある。常夜燈の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人三百十二名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関を務めた雷電為右兵衛門や鬼面山与五衛門など三十八名も含まれている。

 権化簿という資料によれば、上野国那波郡五科(玉村町)の高橋光賢という人が若き頃の生活を反省し、常夜燈建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し。その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとあるをお。


【大山邸】 (左側) 

 追分のすぐ先で、大山小児科医院。

 

 中町交差点を左折し250mほどで共栄橋に出るが、その橋の左下に「倉賀野河岸跡」「倉賀野河岸由来」の碑がある。私達は暑さの中、飲料水が切れたのでパスしてしまった。


【勅使河原本陣跡】 (左側) 14:55

 中町交差点を過ぎるとすぐ、スーパー丸幸の大きな駐車場前に本陣跡の石碑が ある。

 但し、このスーパーはつぶれた様子なので、将来なにができるか不明である。


【御伝馬人足継立場跡】 (左側) 

 本陣跡すぐ先の倉賀野駅入口左側に「倉賀野仲町山車倉」があり、その前に大きな石碑のみ建っている。


【須賀(喜太郎)脇本陣跡】 (右側) 【須賀(庄兵衛)脇本陣跡】 (左側) 

 「御伝馬人足継立場跡」の斜め前にある のが「須賀(喜太郎)脇本陣跡」(写真)。

 その斜め前が「須賀(庄兵衛)脇本陣跡」で、こちらは民家のブロック塀前に石碑のみある。

 共に説明文などはなかった。


【高札場跡】 (右側) 

 脇本陣すぐ先の「健康会館」前にある。 


【倉賀野宿】 日本橋から25里12町(99.5Km)、京へ110里22町 (434.4Km)
 天保14年(1843)で人口2032名、総家数297軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋32軒。

木曽街道 倉賀野宿 烏川之圖  (英泉)

倉賀野城址から見た現在の烏川(川はこの手前で湾曲している)


【倉賀野城址】 (左奥) 15:10

 上町交差点を左折して烏川に突き当るまで300m程行くと、右手の公園の中に写真の碑が建っている。

 治承年間武州児玉党の余流秩父三郎俊この地に来り居舘を構え以来倉賀野を氏となす応永年中に至り室町幕府漸し衰え戦雲諸国を俺ふ為に倉賀野三郎光行防禦急なる迫られこれを改修し要害となす斯くして高祖三郎高俊より四百年倉賀野氏の旗風兵どもの雄叫び関八州に轟く然るに時移って戦国動乱の世を迎えるや時の城主金井淡路守景秀よく攻守の軍略怠りなしといへとも噫々武運は空し天正十八年相州小田原に討死城も亦ともに興亡の歴史を閉ず今先人の足跡まさに消えなんととするに当り懐旧の情禁じ得ぬ人々心寄せ合ひ是の碑を建つ

天日よここを照らせ台地よここを抱け 

     昭和四十五年庚戌年四月 前沢辰雄撰文


【倉賀野神社】 (左奥) 15:25〜15:35

 上町交差点次の交差点に倉賀野神社の入口がある。

【常夜燈、玉垣と倉賀野宿】

 中町下町境にある太鼓橋は享和ニ年(1802)宿内の旅籠屋、飯盛女たちが、二百両も出し合って石橋にかけ替えたものである。

 その飯盛女たちの信仰を集めたのが横町の三光寺稲荷(=冠稲荷)であるが、社寺廃合令により明治四十二年(1909)倉賀野神社に合祀された。
 社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られて行き、常夜燈と玉垣は、倉賀野神社と養報寺に移されて残っている。

 天保時代(1830〜1843)倉賀野宿は旅籠屋が三十二軒もあり、高崎宿の十五軒を上回るにぎわいを見せていた。
 本社前の常夜燈は文久三年(1863)「三国屋つね」が寄進したもの、玉垣にも「金沢屋内りつ、ひろ、ぎん」「升屋内はま、やす、ふじ」「新屋奈美」など数多く刻まれている。

 また元紺屋町の「糀屋藤治郎」、田町の「桐屋三右兵衛門」ほか高崎宿の名ある商家、職人も見える。
 倉賀野河岸と共に宿場の繁栄を支えてきた旅籠屋、飯盛女たちの深い信仰とやるせない哀愁を物語る貴重な石造り文化財である。

 (狂歌)「乗りこころよさそふにこそ見ゆるなれ 馬のくらがのしゅくのめしもり」  〜十返舎一九〜


【安楽寺】 (右側) 15:45

 倉賀野神社から230m先にある寺。写真は、境内にある異型板碑。また、境内の裏には古墳もある。

 

【安楽寺の異型板碑】 高崎市指定史跡(昭和48年1月指定)

 この二基の板碑は、将棋の駒型をした天引石に梵字で阿弥陀三尊に天蓋、花瓶二つが付けられている。銘文や年号もあったのだが、残念なことに石の風化剥落があって、正確な年代は不明であるが全体のつくりや梵字の彫り方などから南北朝時代(1300年代)をくだるものではないと思われる。

 「板碑」は「板仏」または「平仏」ともいい、正しくは「板石卒塔婆」と呼ぶもので、板状の石で造った卒塔婆のことである。板碑は鎌倉時代中ごろから室町時代にかけて多く作られた。緑泥変岩による板碑の多い当地方において特殊な板碑と言える。砂岩製のこの種の板碑は、県下に約九基あるが、この安楽寺の異型板碑は中でも大きく立派なものである。

 

【安楽寺古墳】 群馬県指定史跡

 西暦600年代(7世紀)の後半に作られた古墳です。この頃は、各地の豪族が大きな古墳を作る「古墳時代」もそろそろ終わりをつげ、大和朝廷が飛鳥(奈良県)に都をおいていました。

 南半分は寺の本堂建築によって形が変わっていますが、もともと直径30m近い円墳です。この時期の円墳としては大きい方に入るでしょう。塚の表面には石を葺いて、周りには濠もめぐっていたようです。遺体を収める石室は横穴式です。切り取った大きな凝灰岩で組まれていて、室全体が家の形をした石棺のようにつくられています。

 石室の壁には鎌倉時代の仏像が七体彫られていて、信仰の対象として大切にされています。


【浅間山古墳】 (左奥) 16:05

 安楽寺から400m左側に「フレッセイ」があり、その先「クスリのマルエ」の左横の道を入ると正面に写真の古墳が現れる。

 旧中山道に戻り、高崎に向けてひたすら歩く。高崎駅前まで1時間ほど見るべきものは何もない。

 途中、国道17号線の高架下を真直ぐ進み、上越新幹線をくぐり、上信電鉄の踏み切りを渡りあら町交差点まで進む。

 番外編で述べた通り、3月18日に高崎宿内を車で訪れているので、本日は あら町交差点で終了とした。


 下記3箇所は、3月18日に訪れた時の写真です。

 新町交差点を左折し、高崎市のランドマーク的な高崎市役所前が「高崎城址公園」。ここを南に行けば「三の丸堀」と「高崎公園」、北に行けば復元されている「乾櫓と高崎城 東門」になる。


【高崎公園・頼政神社・内村鑑三記念碑】 (左奥) 

 写真は頼政神社の拝殿。

【高崎公園】 

 高崎公園は、明治9年(1876)、旧高崎城南西の頼政神社に隣接した大染寺の跡地に造られ、当時は頼政公園とも呼ばれていたようです。明治33年(1900)に市制が施行され高崎市となり、高崎公園と呼ばれるようになりました。現在も園内に残る。県指定天然記念物「はなもくれん」は、元和5年(1619)高崎城主となった安藤重信がこの地に良善寺を建立した時、境内に植えられたものと伝えられています。

 もくれんは横浜では咲き始めたが、ここ高崎ではまだつぼみで開花しておらず大きな木なので満開時にはさぞかし綺麗であろうと思うと残念であった。

【ハナモクレン】 群馬県指定天然記念物(昭和27年11月指定)

 元和五年(1619)十月、安藤重信は下総国小見川から高崎城へ国替えされてきた。以来、重信・重長・重博の三代の七十七年間にわたり、安藤氏が高崎城主となり、井伊・酒井両氏の後をうけて城下町の整備をはじめ、領内総検地の実施、領内支配の確立など高崎藩発展の基礎を築いた。

 このハナモクレンは安藤重信が高崎藩主となり菩提寺川島山良善寺を建立した元和五年に庭に植えられたと伝えられている。根元近くで四本の支幹に分かれている。樹高14m、根本周囲は4m、枝張りは東西13m、南北14mにおよび、樹齢は375年と推定されている。

 4月上旬の開花期には、葉に先立ち白い花を枝いっぱいに咲かせて、見事な眺めとなる。

【頼政神社】

 元禄八年(1695)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同十一年(1698)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺境内(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。宝永七年(1710)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保ニ年(1717)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。

 頼政公は、平安末期に、源家の正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功ををたてた。後に剃髪して世に源三位入道と称す。

 後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承四年(1180)宇治平等院で自刃した。家集「源三位頼政卿集」がある。又、宮中で鵺を退治した話は有名である。

 当社の祭礼は例年、頼政公自刃の日5月26日に行われ旧藩時代は上野随一の祭りであったと云われている。

【内村鑑三記念碑】

 頼政神社の入口横にある。

 生誕100年 を記念して建立されたもの。

 内村鑑三は、高崎藩士内村宜之の長男として、文久元年(1861)江戸藩邸で生まれ、キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者で、福音主義信仰に基づく日本独自の無教会主義を唱えた。


【高崎城址(高崎城三の丸外囲の土居と堀)】  高崎市指定史跡 (左奥) 

 箕輪城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長三年(1598)に中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩のおこりです。直政は箕輪から町屋や寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるのみですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をきました。また、遠構えと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁も築かれていました。明治四年(1871)の廃藩までのニ七三年間の高崎の近世の歴史は高崎藩政を中心に展開されたといっても過言ではないでしょう。

 都市化が進み、昔日のおもかげを残す個所は少なくなってしまいましたが、「乾櫓」や「東門」は復元整備されており、また明治初年の三層櫓の写真や「高崎城大意」等の資料が残されているため、当時の姿を知ることができます。


【高崎城東門(復元)】 (左奥) 

 写真は、復元された乾櫓と高崎城東門。

【高崎城東門の由来】

 高崎城十六の城門中、本丸門(萑門)刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。

 この門は寛政十年正月(1798)と天保十四年十二月(1843)のニ度火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当時のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治の初め、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、市内下小島町の梅山大作氏方の門となっていた。

 高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏よりうずりうけ、復元移築し、昭和55年2月市に寄贈したものである。


【高崎宿】 日本橋から26里31町(105.5Km)、京へ109里3町 (428.4Km)


木曽海道六拾九次之内 高崎

 左の浮世絵で、正面の川は烏川、左は碓氷川、後ろの山は榛名山。

 天保14年(1843)で人口3235名、 総家数837件、本陣・脇本陣なし、旅籠屋15軒。



 9回目の旅終了(17:00) (高崎駅前)あら町交差点。

  本日は真夏日で本当に暑かったため、半日だけになったのがかえって良かった。

 中山道(あら町交差点)から高崎駅寄りに1本入ったところにある「ビジネスホテル寿々屋」に宿泊。

 このホテルは古いが、街道沿いにあること、部屋が広いこと、宿泊費が安い(楽天トラベル経由ツインで¥7,890-)ことで満足。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、11.0Km(新町駅入口交差点〜あら町交差点)

          日本橋から二十七里十二町(107.3Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、14.0Km(新町駅〜高崎駅前ホテル) 累計:141.5Km

          4時間15分 20,750歩。(新町駅〜ホテルまで21,900歩)。

 

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