深谷宿 (籠原駅 → 岡部駅) <旧中山道7回目>

2006年2月15日(水) 快晴

 年が明けても猛烈な寒さが続き、とても歩く気になれず 2月も半ばになってしまったが、今日は気温が上がるとの予報で急遽出かけることにした。

 家を出発したときは暖かくて良いと思っていたところ、歩き始めたら20℃を越える気温で、暑さに強く寒さに弱い私でもセーターも脱ぎ、ジャンパーも脱いで歩いたくらいである。いままで一桁台だった気温だったので12℃以上も暑くては久しぶりに歩いたこともあって後半には参ってしまった。

 籠原駅入口交差点を10:15スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

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 2006年1月27日はモーツアルト生誕250周年(1756年誕生)にあたり、また、2006年はスポーツのビッグイベントが目白押しの年でもある。

  2月10日〜26日イタリアのトリノで「第20回冬季オリンピック」開催。しかし、今日まで日本は一つもメダルが取れていない。

  3月3日〜20日「2006 WORLD BASEBALL CLASSIC」開催(3日日本が東京ドームで開幕・20日USAのサンディエゴで決勝)。

  6月7日〜7月9日ドイツで「サッカーワールドカップ」開催。

 国内のニュースとして、1月5日新潟県で約4mの積雪。1月25日ライブドアの堀江社長が粉飾決裁で逮捕された。

 2005年のヒット商品は、★iPod(アップルのミュ−ジックプレイヤー) ★ニンテンドーDS(「脳年齢」ソフトで有名になったゲーム器) ★シュレッダー(個人情報保護法で前年の8倍の売り上げ) ★寒天(ダイエットブームで売り切れ続出)等。

 2006年ヒット予想は、★江東区豊洲に10月オープン予定のキッザニア東京(子供と大人が別行動で完全セキュリティの子供用本格的職業・社会体験テーマパーク 。約50のパビリオンの中からおしごと、社会体験選び。店員もこども、お客もこども!) ★板上アイス(冷やされた台の上でトッピングと練り合わせてくれるアイスクリーム) ★おたまはん(生卵用醤油) ★HDDナビ(10m単位の詳細標示ができるカーナビでCD4000曲以上入れられる機能もあり) ★ポタビ(携帯電話ポータビリティのことで番号を変えずに他社製に買い換えられる) ★チルドレンジ(生のチルド食品を直接電子レンジでできる商品)などがTVで紹介されていたがはたして?


【明治天皇御小休所址】 (左側) 

 籠原駅入口に通じる交差点を過ぎるとすぐある。


 この先、3Kmほど見るべきものは何もなく、歩道もない道をただひたすら歩く。

 中山道を歩いていると、屋敷内の北西の角に小さな祠が祀られている家が多く見受けられる。特にこのあたりは必ずといっていいほど目に付いた。

【霊場開基盛心行者百年祭記念碑】 (左側) 11:00

 右側に熊野神社の鳥居を見て10分程のところにあり、石板等が沢山建っている。


【庁鼻和城址と国済寺】 (左奥) 11:10〜11:30

 右側に愛宕神社、左側にスーパー「ヤオコー」が見えたら、そのスーパーの西側を左折し国道17号線近くまで行くと脇の入口がある。愛宕神社の前の道を入ると行き止まりなので注意。

 深谷上杉氏の祖、上杉憲英(のりふさ)創建の寺で、黒門(写真左側)・三門(写真 右側)・上杉氏歴代の墓は深谷市指定文化財である。

 本堂の裏手に回ると、上杉憲英と上杉氏歴代の墓が隣りあってある。竹林が盛り上がっているので、これが土塁かも知れない。

 

 関東管領上杉憲顕(のりあき)が、十三世紀末、新田氏をおさえるため、この地庁鼻和(こばなわ)に六男の上杉蔵人憲英をつかわし館を築かせました。憲英はのち奥州管領に任じられ、以来憲光・憲長と三代この地に居住しました。館は一辺170mの正方形で、外郭を含めると、28ヘクタールあります。慶応 2年(1390)高僧峻翁令山禅師を招いて、館内に国済寺を開きました。本堂裏に当時の築山と土塁が残っています。天正18年(1590)に徳川家康から寺領三十石の朱印状を下付されています。文化財に令山禅師と法灯国師の頂相(ちんそう)、黒門、三門、上杉氏歴代の墓などが指定されています。


【見返りの松】 11:35 

 国道17号線が斜めに交差した交差点を振り返るとある。

 写真で、左の道が熊谷方面からの旧中山道、右の道は国道17号線。

 17号線の道標には「東京77Km」と書かれていた。

 遊郭の遊女と別れた旅人が江戸に向う途中、振り返って別れを惜しんだからという。

 旧道は、そのまま直進方向(本庄に向かって左の道)に進む。

 


【旧深谷宿常夜燈】 (右側) 

 見返りの松から300mほど行ったところに写真の常夜燈が建っている。

 深谷宿東の入口。

 ここから西の常夜燈までの1.7Kmが深谷宿である。

 

 常夜燈のすぐ先にある「亀井篭店」では店先で竹箒を手造りしていた。

 さぞかし丈夫だろうと思い買いたかったが、車でない為あきらめる。

 


【大谷邸】 (右側) 

 「亀井篭店」の隣りに豪邸。

 外門と大きな車庫は深谷名物の煉瓦造り、内門は和風、建物は文字通りのお屋敷でしばし目をうばわれてしまった。

 豪商が、昭和の大恐慌時に失業者救済のために建てたとのことで、桶川宿で紹介した天保大飢饉の時に建てた三階建ての土蔵と同様で、昔の豪商は偉いものだ。

 その先、左側に江戸時代から営業しているという米屋「大政」がある。


【行人橋】 

 唐沢川に架かる橋で、左側たもとに橋を架けた謂われの碑がある。


<昼食> 12:00〜12:45

 本住町交差点先の食事処「ひさご」で食事。多種類のランチ重箱があり¥650−で満足の量。


【煉瓦製巨大うだつの家】 (左側)

 本住交差手を右に7分ほど行くと「深谷城址公園」があり、当時を復元した建造物があるようだが、何故か行くことをやめてしまった。

 その先、仲町交差点の少し手前左側に、写真のように、側面がそのまま煉瓦製の巨大な卯建(うだつ)になっている家があった。

 1階から2階の軒まで達しており、さすが煉瓦の町、深谷である。


【深谷駅】 (左奥) 12:45〜13:00

 仲町交差点右側に「深谷市道路元標」がある。

 この交差点を左折し、深谷駅(下の写真)を見学。明治調の煉瓦造りの立派な駅舎で一見の価値あり。

 深谷には、渋沢栄一らにより明治20年(1887)に創業した日本煉瓦製造鰍ェあり、東京駅など明治・大正の近代建築物がこの会社の煉瓦を用いて建設された。

 駅前ロータリーには、大正期の大実業家である「渋沢栄一像」が建っている。

 正二位勲一等子爵澁澤栄一は、天保11年(1840)2月13日深谷市大字血洗島に生まれました。幼いときから読書を好み、家業を助け、少荘の頃は国事に奔放、慶応3年第 十五代将軍慶喜の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。明治6年富国の道を求めての野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労働協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じた。


【三階建ての蔵】 (右側) 

  人形店が並んでいる先を右折すると、茶店の前に一階が煉瓦造りの三階建ての蔵があり、扉は閉まっていたが「深谷れんがホール」と掲げられてた。

【本陣跡】 (右側) 

 本町の飯島印刷所の前に説明板だけがある。

 参勤交代制を定めた江戸幕府は、権力者の休泊施設の運営を民間人に申し付け本陣と名付けた。

 現今本陣跡は江戸時代の交通制度を物語る記念の場所として扱われる場合が多い。

 飯島家は宝暦2年(1752)より明治3年まで本陣職を務めた。

 上段の間、次の間、入側が古色を帯びてこの奥に現存している。


【深谷宿】 日本橋から19里5町(75.2Km)、京へ116里29町 (458.7Km)


岐岨街道 深谷之驛 (英泉)

 左の浮世絵には、客をいざなう深谷宿の旅籠屋の飯盛女たちを艶やかに描かれている。

 天保14年(1843)で人口1928人、総家数525軒、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠屋80軒。 

 


【酒造所】 (左右) 

 左右に酒造所があり、共に大きな煙突が建っている。

 写真は、左側にある、「菊泉」を造っている滝沢酒造梶B 


【旧深谷宿常夜燈】 (右側) 13:25

 S字カーブが始まるところにあり、その左側に呑龍院。深谷宿西の入口。

 江戸時代中山道深谷宿の東と西の入り口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。

 天保11年(1840)4月建立。高さ約4mで、中山道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「○の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明、田、三反が講の所有となっていた。

 天保14年には、深谷宿は約1.7Kmの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。


【清心寺】 (左奥) 

 入口に案内板があり、JRの線路を越えたところ。

 平清盛の弟である平忠度の供養塔が山門を入ってすぐ左にある。

 この地は荒川扇状地の末端で湧水が豊富で、古代より人が住み、六〜七世紀古墳が多く築かれました。十二世紀源平一の谷の戦いで、岡部六弥太忠澄(ただすみ)が、平氏きっての知勇にすぐれた平薩摩守忠度(ただのり)を打ち、その菩提を弔うため忠澄の領地の中でいちばん景色のよいこの地に五輪塔を建てました。忠度ゆかりの菊の前が墓前でさした桜が紅白のニ花相重なる夫婦咲きとなり、忠度桜として有名です。

 戦国期深谷上杉氏の三宿老、皿沼城主岡谷清英は、天文18年(1549)萬誉玄仙和尚を招いて清心寺を開きました。江戸幕府から寺領八石の朱印状が下付されました。境内に忠度供養塔、腕塚、千姫供養塔、秋蚕の碑、岡谷繁実の墓がある。


 清心寺から10分ほど行った右側の民家の前に面白い街路樹があった。

 写真のように2本の木が、トタンのひさしに穴があけられて伸びていた。

 このあたりでよく見かける街路樹だが、葉が落ちているので何の木か不明だった。


【瀧宮(たきのみや)神社】 (右側) 

 宿根交差点で国道17号線を渡ったところにある。旧道は渡って真直ぐ行く。

 瀧宮神社は室町時代、後土御門天皇の御代、明応7年(1498)この地に鎮座された。

 当社の裏手には昭和61年まで百坪ほどの湧水を利用した溜池があり、御手洗池あるいは、ひょうたん池と呼ばれていました。この湧水は、地内に点在する湧水池と共に当地一帯に広がる十八町歩の水田を潤す水源でありました。

 社伝によると当地は応永23年(1416)関東管領上杉憲房の所領となり、後にその重親岡谷加賀守源香丹の納めるところとなりました。

 明応5年(1416)6月、当地一帯が大干ばつに襲われ、領民は大変苦しんだのでした。香丹は直ちに水利の向上を督励し、その水源地として当社の辺りを選定し、広さ百余坪 、深さ一丈余りにわたって掘ったところ、水が殊のほか湧きだし、耕地をう潤したのでした。領民は歓喜し、これを神様のお恵み・導きとして、この湧水池に社殿を建て、瀧宮神社と奉 称してお祀りしたのでした。

「風土記稿」に「瀧宮命明神社 村の鎮守にて 伝々」と記されるように、古くから当社は宿根地区の鎮守として信仰されてきました。


【源勝院】 (右奥) 14:20

 すぐ国道17号線に合流するのでしばらく国道を行くと、岡部北交差点の手前にある。

 岡部の地を領地とした安部家の菩提寺。

 下の写真は、寺の裏に南から北へ世代順に十二基並んでいる、阿部家の屋根付位牌形の墓碑。

 源勝院は、岡部の地を領地とした安倍家の菩提寺としてつくられた寺で、境内墓地の一角に二代信盛から十三代信寶(のぶたか)まで十二基の屋根付位牌形の墓碑が東向きに南から北へ世代順に並んでいる。

 天正18円(1590)徳川家康の関東入国とともに、初代安倍弥一郎信勝に岡部領が与えられた。信勝は、亡父大蔵元真(もとざね)追福のため、人見村(現深川市)昌福寺八世賢達和尚を招き、源勝院の開基とした。初代の信勝は、当時徳川家康と石田三成との対立が激しくなったので、家康に従い大阪城に詰めていた。慶長5年(1600)に大阪城詰所で死亡し、大阪の鳳林寺に葬られた。安倍家は初代以降岡部の地を領し、大字岡部の一角に陣屋を置いた。

 源勝院表門を入ってすぐ左手に安倍家の祖、安倍大蔵元真(信勝の父)の碑がある。安倍氏は信州諏訪の出で、駿河国(静岡県)安倍川の上流、安倍谷に移り住み、元真の時はじめて安倍氏を名乗った。元真は、はじめ今川義元に仕えたが、後に徳川家康に仕え、甲斐の武田信玄、勝頼親子と戦い、おおいに戦功をあげた。

 安倍家歴代の墓及び、安倍大蔵元真の碑は、町指定文化財となっている。


【高島秋帆幽囚の地】 ( 左奥) 14:20〜14:30

  岡部北交差点の左側に「高島秋帆幽囚地入口」の石柱が建ってる所を左折して170m行き、再び右側に石柱が建っている所を右折すればすぐ畑の中にある。

 高島秋帆は、寛政10年(1798)長崎の町年寄の家に生まれる。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の後を継ぎ、町年寄を務めたが、傍らに広く蘭学を収め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言した。天保12年(1841)秋帆44歳の時、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術、砲術を紹介した。

 その結果、幕府は、幕臣にも西洋式の兵術、砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし翌13年(1843)秋帆は、中傷により獄に投ぜられ、弘化3年(1846)より許される寛永6年(1853)まで岡部藩預りの身となった。
 現在地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑の立つ場所に幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6年(1853)ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性から急きょ秋帆を赦免した。
 この後、秋帆は幕府に使え砲術方教授となり、慶応2年(1866)69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。


【普済寺】 (右奥) 14:40

 国道17号線に戻り10分ほどの右側にあり、入口に馬頭観音や庚申塔が並んでいる。

 岡部六弥太忠澄が開いた寺。


【岡部六弥太忠澄の墓】 (右奥) 14:50〜15:10

 普済寺の200m北方にあり、行き方は、山門前を左折し、比較的新しい県道を右折して180mほど行くと左側畑の奥に小公園が見え、その公園内にある。

 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。

 忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人して勇名をはせた。その後、源氏の没落により、岡部にいたが治承4年(1180)頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曾義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヵ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人313人の中にも、六弥太の名が見える。忠澄や武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色の良い清心寺(県深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。

 現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ1.8m)向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。

 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在六弥太の五輪塔は削られ変形している。


 700mほどで国道は二股に分かれるので右側の道を行く。「島護産泰神社」があるところがJR岡部駅につながる交差点である。

 本日は本庄駅まで歩くつもりだったが、冒頭でも述べたように暑すぎて疲れたためこの交差点で本日は終了とした。

 但し、ここから岡部駅までは1Km強あり、よりによって高崎線の中では街道から一番遠い地点となってしまった。

 時刻表を確かめたところ少し余裕があったので休みたいと思っていたところ、途中のスーパー店内にテーブルと椅子が置かれた休憩スペースを見つけ、マンゴープリンだけ買って休憩した。ところが気がついたら発車5分前なのであわてて店を飛び出し た。前々回の吹上駅と同様に今回も飛び乗りセーフだった。



 7回目の旅終了(15:25) 旧道岡部駅入口交差点(島護産泰神社前)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、9.9Km(旧道籠原駅入口交差点〜島護産泰神社前)

          日本橋から二十里二十七町(81.5Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、16.0Km(籠原駅〜岡部駅) 累計:105.2Km

          5時間 19,500歩。

 

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