上尾宿・桶川宿 (大宮駅 → 桶川駅) <旧中山道4回目>

2005年11月5日(土) 快晴

  大宮駅前の高島屋(本陣跡)を10:25スタート 。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

 「浦和宿・大宮宿」 ← 「目次」 → 「鴻巣宿」

 

 前日の11月4日の新聞で次のような記事が踊っていた。

 東京株式市場で日経平均株価が大幅に上昇し、小泉内閣発足時を上回る14,000円台を回復した。国内の企業業績が好調なことに加え、総選挙で大勝したあとの内閣改造によって構造改革がさらに進むという期待感が市場に広がっている。「日本経済の先行きに懸念材料は少なく、年明けに向けて 15,000円台が予想される」(大手証券)との声も聞かれ始めた。

 ネット証券普及で、手数料も安く、簡単に株売買ができるようになった個人投資家が増えたことや、海外投資家の日本買いが盛んになってきた為のようだが、 高くなりすぎて過去のバブル崩壊の様にならないことを願う。


 大栄橋交差点を右折し、次の宮町二丁目交差点を左折するとすぐ左側にある「東光寺」に寄ったが特に見るべきものはなかった。

 東光寺門前の道を東進し氷川神社の参道へ行く。

 氷川神社参道と交わった所に「二の鳥居」があり、その左側に「大宮市氷川神社参道ふるさとの並木道」の説明文と「氷川神社」の 解説がある。 

【氷川神社参道ふるさとの並木道】

 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私たちの手で守り、次代に伝えようとこの並木が「ふるさとの並木道」に指定されました。

 氷川神社は、武蔵一の宮として知られ、古くから人々の厚い崇敬を受けています。並木は、神社の歴史的、文化的遺産と一体となり、本県でも有数のふるさとを象徴する緑です。

 並木の延長は、約2Kmに及び、ケヤキ・スダジイ・エノキ・クス等の多種類の樹種で並木が形成されているところに特徴があります。

【氷川神社】 (右奥) 10:45〜11:00 

 この日は、七五三参りで大混雑だった。

【氷川神社由緒】

 当社は、古くから歴朝や武将の尊崇を集めた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、「大宮」の地名もこの氷川神社に由来することは衆知のとおりである。

 古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また成務天皇のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引き連れてこの地に移住し、氷川神社を奉崇したと伝えられる。その後、聖武天皇(724〜49年)のとき「武蔵国一の宮」と定められ、ついて称徳天皇の天平神護2年(766)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。さらに醍醐天皇の延喜5年(927)の「延期式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。このほか、鎌倉時代には、治承4年(1180)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長9年(1604)には、徳川氏より社領三千石が寄進され、また、文禄5年(1596)と寛文7年(1667)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。

 その後、明治元年(1868)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇みずから親拝になった。同4年に官幣大社となり、同15年に本殿・拝殿などを改造し、さらに、昭和15年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。

 氷川神社の裏参道から中山道へ戻る。

 その裏参道と中山道の交差点に大きな石碑が建っており、表側に官幣大社氷川神社 是ヨリ八丁、裏側に「大正6年10月」と書かれている。

 石碑を右に見ながら東武野田線とJR東北線の下を潜る。 


【安政7年の道しるべ】  東大成町1丁目 (左側) 11:20 

 大宮郵便局斜め前のレストラン「COCO’S」の駐車場出入口(中山道側)にある。

 安政7年(1860)に建てられたこの石碑には「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と彫られ、中山道から西へ分かれる道の存在と行き先を示しています。

 かつては、レストランと魚店との間に古い道があり、その道が大成町2丁目の普門院の東側に通じ、さらに与野の町へと続いていました。

 大山は神奈川県伊勢原市の阿夫利神社、御嶽は東京都青梅市の御嶽山への信仰の道を示しています。

 大山参りは、この辺りでは男子が15〜20歳になると一人前とみなされ村の大人と共に参拝したそうです。

 与野・引又(志木市)・川越は当時の商業や交易の中心地として栄え、大成地区からも毎月の市日には長芋・麦・米を売りにでかけるなど近在から多くの人々が集まってにぎわいをみせました。

 


【馬頭観音と地蔵像】 (右側) 11:30

  

 保健センター入口交差点の右側「ロッテリヤ」の手前歩道上に、あいだを置いて2基並んでいる。

 右が「馬頭観音」、左が「地蔵像」

 


<昼食> 11:30〜12:05

 ロッテリヤで昼食。ロッテ優勝記念の「人気商品割引」に引かれてつい入ってしまったが、ポテトのみ半額だった。


【東大成(おおなり)の庚申塔】  東大成町2丁目 (左側) 12:15

 新幹線のガードが見えたら、手前100m位の所に鳥居とともにある。

【東大成の庚申塔】

 高さ142cm、幅45cmの庚申塔で、江戸時代前期の元禄10年(1697)に建てられました。地元の井上・清水・黒須・吉田・坪井・小川など14名と、おまつ、お加めなど22名の女性の名が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋・治兵衛に注文したものです。

 正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻されています。地元では“耳の神さん”“眼の神さん”と大事にされ、耳や眼の病気の時にはダンゴを供えるなどしてお参りしたそうです。

 また、庚申講は春3月と秋の収穫後に行われていました。戦争で一時中断していましたが、戦後に復活、現在も年一回の講を開催し昔からの伝統を受け継いでいます。

【猿田彦大神】

 当庚申社猿田彦大神は、天孫降臨に際して其の道案内をしたとも言い伝えられ、道中往来の無事を見守る神として、地域に生活を営む人々はもとより大勢の方々のご信仰を頂いて居ります。

 此の度館屋の破損著しく上大成神社の氏子の方々の大きな御理解により屋根修復工事を完了しました。

                                                (平成6年2月)


 12:30左側、黄色い家横の溝のそばに橋供養塔」と書かれた石碑のみ立っている。昔は川があり、天神橋が架かっていたのか?

 その先、天神橋バス停そばの生垣の横に、引っ込んで「庚申塔」がある。元禄3年建。


【賀茂神社】 (右側) 12:45〜12:55

 宮原駅入口を過ぎるとまもなくある。

 神社入口の街道絵地図に、この先右手奥にある宮原中学校には「宇宙飛行士の若田光一さんが在校していた」と書かれていた。

 本殿裏側に回ると、下の写真の「くらべ馬」の彫刻がある。

【賀茂神社由緒】

 当神社の創立は、文化7年徳川幕府によって作られた。新篇武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請の年代詳かならず」と記されているが、社前に寶暦三年四月、弘化二年十二月と刻まれたもの又、文政十年八月御迁宮と刻まれた石灯篭もあるので相当古い御鎮座であることがわかります。

 その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから、別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて来ました。

 幕府の参勤交代の時代、加賀の堀丹波の守が仲仙道を往来の砌りその妻女が遽かに産気を催したので当社に立寄り御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰着の後、玉の如き男子の出生を見たと云う。安産御礼の為奉納したという幣帛は現存しています。

 昔から生産、安産、守護の神として信仰が厚く、上加茂宮村、加茂宮村、鍛冶村を始め近郷からの参詣も多い。

 明治41年附近数社を合祀して翌42年神撰、幣帛共進の神社として改めて村社に指定されました。祭神の合祀により衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等が加え祀られ御利益も増えました。大正8年不幸拝殿を焼失しましたが本殿は御神威により御安泰であったので当時の氏子等は力を協せ直ちに拝殿を再建し同時に社務所をも新築しました。以来60年、神楽殿も古びて危険となり、その上社所も手狭で不便となったため昭和の大造営が遂行された。


【南方神社】 (右側) 13:15

 国道16号線をくぐり、宮原小学校を過ぎるとまもなくあり、境内は広いが神社自体は小さい。 地元ではお諏訪さまと呼ばれている。

 境内で菊花展が開催されており、この日は一番の見頃だった。


 南方神社すぐ先の右側に椎の巨木の林があり、道路に椎の実が沢山落ちていた。子供の頃、自宅そばにある三渓園の裏山で椎の実を採ってきては炒ってよく食べたものである。懐かしくて林の中に入って拾おうと思ったが、妻が先に行ってしまったのであきらめた。

 このあと、県道164号をひたすら歩き上尾市に入る。

 左側に「魂霊神」の黒い石碑が立っているお堂がある。不動堂か?

 その先右側、下北尾バス停前の「畑医院」は、広大な屋敷内に鬱蒼とした巨木群があり圧倒。


【愛宕神社】 (左側) 13:45

 欅の森が愛宕神社。門前に、享保7年建の庚申塔あり。この辺りから上尾宿に入る。


【上尾宿】 日本橋から9里16町(37.1Km)、京へ126里18町 (496.8Km)

 天保14年(1843)で人口793名、総家数182軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋41軒。

 氷川鍬神社の前の道路に「中山道上尾宿と本陣」の説明文と「中山道分間延絵図」が掲げられている。

 この神社の向かいが本陣跡であるが、今はなにも残っていない。

【中山道上尾宿と本陣】 (下記氷川鍬神社の前に掲げられていた説明文)

 上尾市の市外の中心は、中山道にそった上尾宿をその源にしていますが、その上尾宿はすでに後北条時代に宿駅として成立したようです。

 宿駅として整備したのは、慶長7年(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に、五十人五十匹の人馬を用意させ、主要幹線路としての役割をはたさせました。

 また、各宿に本陣・脇本陣を置いて大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は、加賀藩の前田家をはじめ三十四家ほどでした。

 上尾宿は、中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の家数は182軒、人口は793人、旅籠屋は41軒でした。

(「中山道分間延絵図」の説明前半略)

 鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に脇本陣が二軒あります。その右(大宮方面)近くには問屋場、さらに右へ行くと道をはさんで両側に一里塚があります。 鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣があ描かれています。上尾宿には本陣が一軒(林八郎右衛門)、脇本陣が二軒(本陣の右が白石長左衛門、左が井上五郎右衛門、向かいが細井弥一郎)ありました。これらは主として参勤交代の大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ばれました。脇本陣は副本陣のような性格をもち、本陣の代理もしました。

木曽街道 上尾宿 加茂之社 (英泉)

 手甲脚絆にわらじがけで、道中笠をかぶった武士、文箱のようなものをかついだ飛脚、こもを背負った六部などの旅姿が描かれている。

現在の賀茂神社入口


【氷川鍬神社】 (左側) 13:55〜14:00

 ここも七五三参りの人がいた。

 境内には「上尾郷ニ賢堂跡」(後述)、「聖徳太子像石碑」等があ る。

 氷川鍬神社は「武蔵国足立群御鍬大神宮畧来」によると百九代明正天皇の御代、寛永9年(1632)の御創立と伝えられます。

 御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道真公・木之花咲耶姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべて下さる神であり、疾病除け、招福、豊作の神であります。

 稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表される神であり、菅原道真公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さまの神さまで、大山祇神という尊い神さまの御子神さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。

 氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通稱「お鍬さま」と呼ばれております。

 氷川鍬神社の名稱になったのは明治41年(1908)の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった。


【遍照院】 (右側) 14:10〜14:20

 上尾駅東口交差点の次の信号を右折し、突き当りを左折するとすぐ山門が見える。

 「孝女お玉の墓」、「山崎武兵治の墓」がある。

【孝女お玉の墓】

 越後柏崎出身で美しく気立ての良かった遊女お玉が19歳の時、参勤交代でやってきた加賀前田藩の小姓に見初められ、ともに江戸へ行ったが、2年後悪病をうつされたため戻ってきて、25歳でなくなった。主人達がお玉をここに葬ったという。

【山崎武兵治碩茂(せきも)の墓】 上尾市指定有形文化財(史跡)

 山崎碩茂(通称は武兵治)は、当時高名な学僧の雲室上人を上尾に招いて「聚正義塾」の開設に尽力し、雲室が上尾宿を去ってからは、同塾を主宰した人物である。氷川鍬神社北隣で旅籠屋を営む山崎家は、代々「武兵治・武右衛門」を称しているが、碩茂は四代目である。文政6年(1823)の上尾宿人別帳によると、同家の所有地は一町七反ニ畝歩(約1.7ヘクタール)で、宿内では比較的多い方に属する。碩茂は漢学者の石井永貞の門人で、入門の経緯は明らかでないが、ただ永貞の従弟に上尾宿の山崎仙右衛門がおり、度々永貞は上尾宿に来遊しているので、仙右衛門の紹介で入門したとも考えられる。

 聚正義塾の開設は、天明7年(1787)7月に藤沢(藤沢市)で水害に遭った雲室を永貞が見舞い、江戸へ帰る道すがら上尾の話をしたのが端緒とされる。その後、雲室は江戸の永貞宅で上尾宿の仙右衛門に会い、上尾宿に行くことを約束している。雲室が上尾に来遊したのは天明8年(1788)の春のことで、このとき碩茂は学塾の開設を請願したのである。上尾宿に開いた郷学(一郷の人が学べる場所)のこの学舎は「ニ賢堂」と称し、氷川鍬神社に「上尾郷ニ賢堂碑記」等が残っている。

 碩茂は文政9年(1826)5月20日、63歳で没し、遍照院の山崎家墓所にある墓石の正面に「自然院三徳碩茂ハ覚居士」と戒名が、側面には「名月やひとつに帰る人心 山碩茂」と辞世の句が刻まれている。


 遍照院の隣りの上尾市図書館でトイレを借りる。

 そのまま次の信号まで行き、左折して中山道に戻る。戻る途中に「シャトレーゼ」の工場直売店があったので団子を買い、店前のイスで休憩。

 中山道に戻った地点(図書館西交差点)の田沢たばこ店前に、延喜2年建の「庚申塔」がある。


【彩の国平成の道標】 (右側) 14:55

 交差点の右角に「彩の国平成の道標」と書かれた上尾宿の説明板がある。

 その説明板の瓦屋根の上にミニチュアの鍾馗様が乗っていた。

 この辺りの街道には中山道の標柱が立っているのが親切だ。

【上尾宿の歴史】

 上尾宿は、日本橋から九里十六町のところにあり、中山道の5番目の宿場であります。宿場として発達したのは、江戸時代初期の伝馬制度施行以降で、江戸後期になると紅花の産地として有名になりました。上尾という地名については、歴史的な根拠を持つものはありませんが、鴨川と芝川の間の小高い地形からつけられたといわれています。

【鍾馗様

 鬼屋根瓦の家に対して鍾馗様を以て対峙する意味で置いたものです。これは中山道の他の宿場町では見ることができない上尾特有なものでした。鍾馗様は疫病神を追い払う神といわれています。


【須田家】 (右側) 15:15

 15分ほど行くと老人ホーム桃寿苑の前に、古い塀が続く大きな屋敷がある。

 江戸時代の豪商須田家である。

 須田代八郎。江戸時代後期の久保村(現上尾市)の豪商、南村(現上尾市)須田家の分家で醤油醸造・質屋を営み、本家とともに穀物・紅花の取引を行っていた。

 

 


 15:30桶川市に入る。木戸跡から、短い距離の間に旧跡や古い建物が次から次へと現れるので到着時間は省略。

【旧跡木戸跡】 (右側) 15:35

 衣料店「大塚屋」の向かい側、交差点の角に石碑のみあり、桶川宿の南側入口。


【武村旅館】 (左側) 

 木戸跡のすぐ先にある。

【中山道 旅籠】

 桶川宿には、大名や公家などの宿泊施設である本陣、脇本陣のほかに、中山道を往来する一般庶民の宿である旅籠が数多くあった。その数は、江戸時代末期の天保年間(1840年ころ)には、36軒を数えたという。

 この武村旅館は、宿場町当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物である。

 皇女和宮が中山道を下向した文久元年(1861)には、ここで紙屋半次郎が旅籠を営んでいた。当時の間取りは現在もほぼ引き継がれている。


【浄念寺】 (左側) 

 武村旅館の次の道の奥に赤い鐘楼門が見える。

 境内には、板石塔婆や供養塔が沢山並んでおり、太子堂などもある。

【仁王門(山門)・梵鐘・仁王像】

 浄念寺のシンボルというべきこの朱塗りの門は、『新編武蔵風土記稿』に「仁王門ハ鐘楼ナリ楼下ニ仁王ヲ安シ、上ニ鐘ヲ懸ク、元禄十四年ノ銘文アリ」と記されてあるように、元禄14年(1701)に再建されたものであります。

 この仁王門の上には梵鐘が懸かっています。浄念寺のかっての梵鐘は寛保元年(1741)に鋳造されたもので、浄念寺のご詠歌に「浄念寺 鐘の響きや法の音 子安の誓い深き桶川」と謡われているように、その美しい音色は、人々に時を知らせるために桶川宿の隅々まで鳴り響いたといわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次大戦の際、求めに応じて供出され現存しておりません。現在、仁王門に懸かっている梵鐘は、昭和40年に鋳造されたものであります。

 仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。明和5年(1768)に開眼されました。口を開けてるほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい外から進入をしようとする法敵から仏法を守護しております。


【島村家住宅土蔵】  国登録有形文化財 (右側) 

 桶川駅前交差点を過ぎたすぐの島村ビルの脇の細い道を入ると木造三階建ての土蔵がある。入口に案内が出ているが、少し引っ込んだところにあるので注意が必要。私たちも初めは見逃してしまい、後で 資料等で気がついて駅に戻るときに立ち寄ったくらいである。ところが、これが幸いして 思いがけず内部を見ることができたのである。

 本来は、毎月第一土曜日の午後1時〜4時しか内部見学ができないのだが、夕方(16:40)訪れたとき、この家の御主人が仕事から帰ってきたところに出合い、軽く会釈したら「どちらからいらしたのですか?」と聞かれたので「横浜から・・・」と答えたところ、「横浜からですか、それなら特別にお見せしましょう」と言って、御好意で内部を見せてもらえた。

 江戸時代の百科事典や天保時代の雛人形など貴重な展示物が沢山あり、すばらしかった。

 しかも、天保7年(1836)創建当時の松の梁から、今でも 松ヤニが出ていたことには驚いた。170年経っても生きているようであった。

 この蔵は、天保大飢饉の時に建てたもので、近隣農民に仕事を与えたことから「お助け蔵」と言われ、殿様から褒章に貰った長持も展示されている。

 御主人の話の中で、最近瓦が痛んできた為、修理をしたところ屋根の下に厚さ30cmもの土があったとのこと。瓦と合わせればかなりの重量が乗っていた訳であるが、内部の梁などは城で見るような太い材木を使用していたので、今まで耐えてきたのに納得した。

 今回の修理で1千万円ほど掛かったそうだが、国や地方自治体から一銭も補助が出なかったそうである。文化財に指定しながらなんとも無責任なことだと思った。日本は文化財や景観保護に関して、まだまだ遅れていると常々思っていた のがここでも実感した。

 明治時代の城取り壊し、廃仏毀釈、貴重な美術品の海外流失などから始まり、今日まで充分な保護が取られているとは思えないのである。古都などの町並み景観を破壊する大きな建物しかり。現在残っている城や重要建築物群などのほとんどは、地元民間人が保存の声を上げ、大きな努力をしてはじめて成し遂げたものばかりである。古来の日本文化の良さが外国人から言われて、気がついている状態ではなさけない。

 登録年月日 平成12年12月4日

 登録基準   再建することが容易でないもの

 概要

  構造等  木造三階建て 瓦葺 建築面積71m

  場所    桶川市寿2−1−4

  所有者  島村栄一氏

 桁行六間、梁間三間の木造三階建ての土蔵で、江戸時代後期の天保7年(1836)の建築と伝えられています。島村家は中山道桶川宿の本陣近くに店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家で、土蔵の屋根の両端にある鬼板には当時の屋号の一字をとった「木」の字が刻まれています。

 また、この土蔵の建築工事は、天保の大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くの民が飢えから救われたことから、「お助け蔵」といわれたとの伝承も残されています。

 現在は、黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、建築当時の島村家(木嶋屋)の勢いを感じさせる堂々とした土蔵です。

 この土蔵の反対側には、樹齢170年といわれる珍しい銀木犀の大きな木がある。花が咲く時期に訪れたいものである。


【御茶処(島村茶舗)】 (右側)

島村家のすぐ隣りにある、嘉永7年創業の店。

【土蔵造りの家 (矢部家)】 (右側)

米や麦の集荷問屋だった。

【旅籠跡(小林家)】 (左側) 

元旅籠屋、現在材木商と喫茶店を営んでいる。


【府川本陣跡・明治天皇行在所】 (右側) 

 冠木門の奥に「明治天皇行在所」の石柱が建っている。

 以前は本陣の遺構を見ることができたそうであるが、現在は一般民家の敷地となっており、無断で入ることはできない。

 本陣は度々焼失したにもかかわらず、その都度再建され、埼玉県に残る唯一の本陣として指定文化財になっている。現在は「上段の間」、「次の間」、「湯殿」などが残るのみとのこと。


【桶川宿】 日本橋から10里14町(40.8Km)、京へ125里20町 (493.1Km)


岐阻街道 桶川宿 曠原之景 (英泉)

   天保14年(1843)で 人口1444名、総家数347軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋36軒。

 


【中山道宿場館(お休み処・観光案内)】 (左側) 

 開館時間は、9:00〜16:00。休館日は、毎週月曜日(祝日と重なる場合は翌日)。

 中山道の全宿場を描いた浮世絵「木曽街道六十九次」の展示や街道の資料があり、版画摺り体験もできる。

 上の『桶川宿 曠原之景』の浮世絵を三色別々に摺って仕上げる楽しいものである。

 閉館準備をしていたところに入ったのだがこころよく対応して頂いた上に、特別に大宮国道事務所製作の「中山道ウォーキングマップ」(5冊セット)まで貰うことができた。

 


 中山道宿場館のすぐ先左側の小公園に石柱が立っており、正面に「中山道 桶川宿」、左面に「左 上尾宿 三十四町」、右面に「右 鴻巣宿 一里三十町」と刻まれていた。また、「中山道桶川宿」の絵図と「桶川宿はこんなところ」という説明板がある。

【桶川宿戸はこんなところ】

どこに

 桶川宿は、日本橋から10里余り、江戸から6番目の宿として開かれました。この距離は、現代のマラソンの距離とほぼ同じで、健脚であった江戸時代の人々のはぼ1日の行程にあたります。

街のおいたち

 中山道は、徳川家康が天正18年(1590)に江戸の本拠を置いた後、五街道の一つとして整備が進められました。やがて、関ヶ原の合戦を経て、江戸幕府による全国支配の確立の中で街道と伝馬制度が整えられ、三代将軍家光によって参勤交代の制度が確立した寛永12年(1635)ころには、ここ桶川宿もすでに成立していたと考えられます。

 宿場の開設当初に近い寛永14年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が取り引きされるようになった寛政12年(1800)には247軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようです。

 その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や、紅花の集散地として栄え、幕末に近い天保年間(1840年ころ)には、家数347軒に達しています。中山道桶川宿は、明治に至り、明治18年(1885)の高崎線桶川駅の開通とともに、宿場としての役割を終えますが、以降、近代をとおして、埼玉県中央部における麦の集散地として、その繁栄は続きます。

出来事 〜皇女和宮のお泊り〜

 桶川宿は、加賀百万石前田家をはじめとする参勤交代の大名を迎え、15代将軍徳川慶喜の父君である水戸列公徳川斉昭もこの地に足跡を残しています。

 文久元年(1861)には、近世中山道の最後を飾る大通行として知られる皇女和宮の江戸下向のときに、ここ桶川宿は、一行のの宿泊と人馬の継ぎ立てに大きな役割を果たしています。11月13日、和宮を迎える桶川宿には、3万人を超える人々が行列の通行のために集められたと記録されています。

中山道67次

 東海道をはじめとする五街道の一つとして、江戸幕府によってその道筋が整えられた中山道。その道程は、近江国(滋賀県)草津宿で東海道から分かれ、守山宿から板橋宿までの67次の宿場を経て、江戸日本橋に至ります。また京までの草津宿と大津宿を加え木曽街道69次とも呼びならわされてもいました。

 山岳地帯を通るこの道は、和田峠、碓氷峠などの難所をもちます。しかし、夏には涼しく、大きな川を渡ることもなかったため、多くの旅人に利用されました。

●中山道データ

 草津宿〜日本橋の距離/129里8町(約507Km)

 桶川宿〜日本橋の距離/10里14町(約41Km)


【稲荷神社】 (右奥)

 宿場館先の東和銀行のある交差点を右折し、しばらく行った寿司屋の前を右折するとある。

【稲荷神社と文化財】

 この地は、昔、芝川の水源地帯てあり、高崎線の線路の近くにあった涌水が中山道を横切って、この付近を流れていたと言う。境内は約4千m。建物は本殿、幣殿、拝殿、社務所、手水舎、神楽殿、合祀した社、倉庫などからなる。氏子は旧町内(寿・東、南、西、北、末広、泉、若宮鴨川)の人々にひろがり、町の鎮守さまとして祀られている。

【沿革】

 創建は長承3年(1134)とも嘉禄年間(1225〜7)ともいう。元禄6年(1693)桶川宿の鎮守となり、明治6年(1873)郷社となる。

 写真の石燈籠は、「紅花商人寄進の石燈籠一対」である。

【紅花商人の石灯籠】 市指定文化財(歴史資料)

 拝殿の前面に立ち並ぶ灯籠で、安政4年(1857)、桶川宿を拠点に活躍した紅花商人24名が寄進したもの。

 当時、桶川地方は、口紅や食紅の原料となる紅花をさかんに栽培しており、その紅花は、「桶川臙脂(えんし)」として全国的に知られていた。

【力石】

 「大盤石(だいばんじゃく)」と刻まれた力石は、拝殿に向かって右手前にある。長さ1.25m、下幅0.75mあり、重量はおよそ700Kgと推定される。表面に嘉永5年(1852)2月、三ノ宮卯之助がこれを持ち上げたと刻まれている。併せて、世話人の名前12名と石主・石工の名前も刻まれている。力石とは、一般の祭礼などに若者が、力くらべに持ち上げる石をいう。



 4回目の旅終了(17:10) 桶川駅前交差点。

  桶川駅17:19の湘南新宿ラインで横浜駅到着18:37。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、11.9Km(大宮駅前高島屋〜桶川駅前交差点)

          日本橋から十里二十町(41.5Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、16.5Km(大宮駅〜桶川駅) 累計:52.9Km

          6時間45分 26,000歩。

 

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