鴻巣宿 (桶川駅 → 吹上駅) <旧中山道5回目>

2005年11月26日(土) 晴

  桶川駅前交差点を9:20スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

 「上尾宿・桶川宿」 ← 「目次」 → 「熊谷宿」

 

 11月10日に、日・韓・台・中プロ野球王者の対決「アジアシリーズ2005」が開幕し、4チームによるリーグ戦でアジアナンバーワンの座を争い、11月13日の決勝で日本代表の千葉ロッテ・マリーンズが韓国サムスン・ライオンズを破り、初代アジア王者となった。

 千葉ロッテは、二軍も優勝したのでこれも含めて5冠達成となった。

 私事では、11月11〜12日に 、溜まったJALのマイルを利用して香川県の栗林公園・丸亀城・琴平・大歩危・かずら橋・祖谷渓に行ってきた。琴平では、金刀比羅宮の本宮まで785段の階段を登ったが、日ごろ街道歩きで鍛えているからなのか、大した疲れもなく翌日にも残らなかった。

 11月24日には、東京国立博物館で開催されている「北斎展」を見てきた。「世界が認めたニッポン 北斎のすべて」と題して、最良の北斎が500点も世界から集結したもので、20歳の画壇デビューから最晩年の肉筆画まで年代順に展示され、北斎ファンとして堪能した。特に肉筆画は100点以上もあり、これまでない規模と質で感激。

 北斎は、83歳を過ぎてから高井鴻山に招かれて小布施へ4回も行っており、岩松院に21畳敷一杯の極彩色の天井絵「八方睨み鳳凰図」、その他滞在中に肉筆画を多数描いている。

 私も2度ほど小布施を訪れているが、車も電車もなく、平均寿命も短い時代の80歳以上の老人が240Kmもの距離を何度も往復したことについては、その体力に驚嘆してしまう。私もできるものなら80歳を過ぎても、どこかの街道を歩き続けたいものである。


【大雲寺】 (左側) 9:25〜9:35

 「女郎買い地蔵」(右の写真)のある寺。

 地蔵は本堂左手にあり、三体のうちで右側のエプロンをかけている地蔵が「女郎買い地蔵」。台座に正徳3年(1713)の銘がある。

 この地蔵は夜な夜な女郎買いに出かけるので、住職が背中にかすがいを打ち込み、鎖で縛ってしまったという。

 背中を見ると、確かににかすがいの後が今も残っている。 


【レンガの蔵】 (右側) 

 桶川北一丁目歩道橋下を右に入ったところにある。

 この歩道橋手前左側に十里目の「一里塚跡」があるはずだが見逃してしまった。

【旧跡木戸跡】  桶川町指定文化財 (右側) 

 

 桶川市役所入口交差点前の「うどん今福屋」の店先にある。

 桶川宿の北側の入口。

 

 

 


【松山道の道しるべ】 (左 奥) 

 桶川市役所入口交差点を左折すると、「桶川北小学校」の白いフェンスが見えてくるので、そのままフェンスが終わるあたりまで進むとフェンスの中(校庭)にある。

 東松山市箭弓(やきゅう)に遷座する稲荷神社は、江戸時代中期ころより招福、除災の神、箭弓稲荷として庶民の信仰が厚かった。各地に稲荷講が組織され、絶えず参拝者でにぎわった。

 この道しるべは、天保7年(1836)2月に、桶川宿の北のはずれより分岐する松山道の入り口、上の木戸近くに建てられたもので、「松山 いなり道 本小田原町」と刻まれ、魚の字が図案化されている。
 当時、江戸の人口は百万を数え、幕府は、その食料流通機構として、神田多町に青物市場、日本橋に魚市場を開設した。本小田原町とは、日本橋のたもと北側、魚市場のあったところで、この市場の人々が稲荷講を組織して、神社参拝のしるべとしたものである。
 松山道は、このあたりから西に折れて、畑や林の間を通り、下石戸村(現北本市)を過ぎ、荒川の渡しを経て松山に通じている。

 交差点に戻って9:55。


 この先、県道164号線をひたすら歩く。

 途中、銀杏の巨木がある広い民家の続き塀の中に馬頭観音があった。

 この県道沿いにはかなり先まで、食事処の大型店が沢山並んでおり、あらゆる料理が選り取りである。その中で「モスバーガー」のドライブスルーを発見 した。モスは注文してから出来上がるまで時間がかかるので、相当待たされそう。案の定「エンジンを切ってお待ち下さい」の看板があった。


【北本宿の案内板】 (左側) 10:40

 本宿交差点に案内板と石碑が建っている。

【中山道と本宿】

 今日の北本のもととなる街並みが作られたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりです。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていました。その宿駅も中山道が整備された頃には、現在の鴻巣の地に移されました。宿場のあったところは、その後、本宿(元宿)村とよばれ、これが北本の地名の起こりとなっています。街道沿いに旅籠や店はありませんでしたが、本宿村の下茶屋と、東間村の三軒茶屋のニヶ所には、立場おかれていました。人や馬はそこで喉の渇きや旅の疲れをいやし、次の宿場へと向かいました。


【多門寺・天満宮】 (右側) 10:47〜10:55

 埼玉県指定天然記念物のムクロジの木がある。樹高27mとあったが上部は枯れたか折れたかで修復跡が痛々しい姿になっていた。

【多門寺の無患樹】

 幹回り   3.6m
 根回り  7.6m
 樹の高さ 27m
 枝 張 14.5m
 樹 令 約200年

 地続きで隣りに天満宮がある。天満宮の境内に比較的綺麗なトイレあり。


【原馬室一里塚】  埼玉県指定史跡 (左側奥・JR線路の反対側) 11:10

 原馬室(はらまむろ)一里塚は古道の方にある。かつては多門寺から左斜めへ行く古中山道があったが、今は途切れているので、回り道をして行くことになる。

 北本駅前交差点から二つ目の信号、「ステーキのどん」がある交差点を左折し、JR「東間踏切」を渡ってすぐ右折する。そのまま線路沿いを200mほど行くと左側に白い石塀の民家があるので、その塀が途切れた畑を振り返ると畑道に案内標識が見つかる。

 左下の写真は、南(江戸)方向の上述の石塀を写したもので本当に振り返らないと見逃 してしまうことが分かるでしょう。ここの細道を入るとすぐ一里塚がある。右下の写真は、一里塚を反対側の民家から写したもの。日本橋から十一番目の一里塚。

 

 徳川氏江戸入府以来、諸国と江戸を結ぶ街道の往来は日毎に繁しくなったが、幕府は早くから街道の整備、宿駅の制、伝馬の制を定めてかかる情勢に対処した。慶長6年(1601)には、東海道各駅に、翌7年(1602)には中山道各駅に伝馬の制が発せられ、その後伝馬制の実施に当り便宜をはかるよう、また旅行者通行人に対する通交の目安とも、憩いの場ともなるようにと一里塚を築くに至った。
 60間を1町(約110m)、36町を1里(約4Km)とし、街道1里ごとにその両側に5間(約10m)四方の塚が築かれ、頂上には榎等が植えられた。中山道の一里塚は慶長17年(1612)に構築されている。
 明治維新後、交通事情の変化と発達に伴い、一里塚は、その大部分が取り除かれて現在するものはまことに少ない。

 この一里塚は、当時の中山道をはさみ、両側に築いたもののうち、西側の塚で、東側の塚は明治16年(1883)高崎線敷設の際に取り壊されてしまった。現像する西側の塚は旧中山道の道筋を知るうえで貴重な存在となっている。


【浅間神社】 (左側) 

 一里塚から中山道に戻るには、しばらく先の踏切を渡るか、もと来た道を引き返すかになる。

 浅間神社に寄るのと昼食の時間だったので私たちは戻ることにした。

 中山道に戻ってすぐ浅間神社がある。 ここの社は階段の上にあり、かつては大きな社があったようだが、現在本殿は焼失してしまったのか、頂上の台上には民家の庭にあるような新しい小さな社が置かれていた。


<昼食> 11:30〜12:15

 浅間神社前の「和食夢庵」でランチ(¥680)を食べる。


【鴻巣人形店】 

 12:35鴻巣市に入る。

 しばらく行くと CMで有名な大型の「広田屋」や「吉見屋」(左の写真)など人形店が沢山現れてくる。

 吉見屋には『雛屋歴史資料館』が併設されているが入館料が500円と高かったので入らなかった。

 また、右側にあった「おおとり煎餅店」(右の写真)は、屋根が曲がっているほどの古い商家である。


【勝願寺】 (左側) 12:55〜13:15

 「鴻巣公園」の標識を左に入ると正面に見えてくる。

 古い王門(左下の写真)。本堂の左に信州小諸の城主で秀吉の家臣でもあった仙石秀久の墓、信州真田藩祖夫人小松姫の墓、真田信重 夫妻の墓。墓地内に埼玉県指定史跡の「伊奈忠次・政治墓」(右下の写真)がある。

【伊奈忠次・忠治墓】 埼玉県指定史跡(大正11年3月)

 伊奈忠次は、三河国幡豆郡小島の城主伊奈忠家の嫡子として生まれた。はじめ徳川家康の近習となり、後に関東郡代に任じられ、武蔵国鴻巣・小室で1万石を賜った。関東各地を検知し桑・麻・楮の栽培や水利の便を開く等、関八州は彼によって富むと言われた。茨城県結城地方特産の紬織(柳条紬)もその奨励によるものである。
 彼の功績は江戸幕府財政の基礎を定めたことで、その検知徴税の方法、すなわち、地方の方式は伊奈流といって江戸幕府地方の基本となった。

 慶長4年(1599)従五位下に叙せられ備前守に任じられた(のち大正元年正五位を追贈)。慶長15年(1610)61歳(57歳とも)で没した。

 伊奈忠治は、忠次の次子。元和4年(1618)関東郡代を嗣ぎ、、武蔵国赤山(現埼玉県川口市)に陣屋を構え七千石を領し、父忠次と同じく新田の開拓、河川の付け替え、港湾の開さく等に努めた。その在任は35年の長きに及び、幕府の統治体制確立の重要な時期に郡代兼勘定奉行として民政に尽くした功績は極めて大きい。承応2(元年とも)年(1653)6月、62歳で没した。

【仙石秀久の墓】

 秀久は信州小諸(長野県小諸市)の城主。初め羽柴筑前守秀吉の家臣で淡路国須本城主であったが天正18年(1590)小田原征伐の武功により、小諸を賜った。のちに徳川家康に仕え慶長19年(1614)出府して帰途発病同年5月6日当地で没した。当山にて殯し同年11月8日小諸の歓喜院に葬る遺命により当山に分骨建墓。

真田信重の墓 信重の室の墓】

 信重は真田信之(幸村の兄で信州松代藩の祖)の三男。慶安元年(1648)2月23日鴻巣で病没した。

 母小松姫の縁で当山に葬る。また、信重の室は鳥居左京亮の第六女。慶安2年(1649)12月9日に没した。

 長野市、松代町の西岳寺には、夫妻の霊屋があって位牌が安置されている。

【真田小松姫の墓】

 小松姫は本多忠勝の女(むすめ)で、家康の養女となり、真田信之に嫁し、元和6年(1620)2月24日没した。

 生前当山中興二世の貫主円誉不残上人に深く帰依した。

 そのような縁で元和7年(1621)1周忌に際し信之のニ女松姫(見樹院)が当山に分骨造塔した。


【仲町会館建設記念碑(番屋跡・本陣跡)】 (左奥)

 本町交差点を越え、高野薬局の手前の道を左折するとある。

 ここ仲町なる名称は、旧地名仲市場より出づ、その昔、鴻巣宿のうち上市場、仲市場、下市場の3ヶ所を定めて、毎月四・九の日に変わるがわる市を立つ。これをこれを六斎市という。

 今そのところは変われど、春秋の候四・九の市日に植木・花市等の立ちてにぎわいを見せるは、その名残なり。

 またこの地を「ばんや」と称するは、鴻巣宿の番屋のありし所にして、宿内の夜警、見廻り等に従う役人の詰所なりしなり。

 明治以後、この地は町内有志の寄付により仲町の所有となり、今日に至りしが、町内会長、町会の諸氏と相はかり、これを市の所有となす。

 たまたま隣接する本陣跡なりし、旧中村病院敷地を譲り受け、なお市議会の承認を得て現在地と交換し仲町会館を建て市民の便利に供す。

 鴻巣駅前交差点を13:25通過。


【鴻巣宿】 日本橋から12里8町(48.0Km)、京へ123里26町 (485.9Km)
 天保14年(1843)で人口2274名、総家数566軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋58軒。    

岐岨街道 鴻巣 吹上富士遠望 (英泉)
 

 現在の風景として、吹上駅手前の前砂交差点で夕日を撮影したもの。 

 富士山は見えないが、広々とした場所で浮世絵の雰囲気があった。


【鴻神社】 (右側) 13:30

 境内に鴻巣の由来となった「こうのとり伝説」の説明板がある。

 また、なんじゃもんじゃの木(学名モクセイ科ヒトツバタゴ)もあった。

          鴻神社入口

【こうのとり伝説】

 その昔、この地に“木の神”といわれる大樹があって、人々は供え物をして木の神の難を避けていました。ある時、こうのとりがやって来てこの樹の枝に巣を作りました。すると大蛇が現れてその卵を飲み込もうとしたのでこうのとりは大蛇と戦い、これを退散させました。それ以後、木の神が、人々を害することがなくなったので、人々はこの木のそばに社を造り、この社を鴻の宮と呼び、この地を鴻巣というようになりました。

【なんじゃもんじゃの木】

 江戸時代、青山の六道の辻にあったというヒトツバタゴは、その花の美しさから非常に有名になりましたが、本当の名前のわからなかったので「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったそうです。この木は、その六道の辻にあった木の3代目で、当市の文化財保護議員が昭和56年に明治神宮より下賜されたものを当社に奉納されたものです。毎年5月の連休頃に雪が積もったように白い花をたくさんつけます。

【鴻神社】

 鴻神社は明治6年にこの地ならびに近くにあった三ヶ所の神社を合祀したもので、もとは鴻三社といった。三社とは、氷川神社・熊野神社・竹の森雷電神社である。

 現在の鴻神社社地は竹の森雷電神社の社地だったもので、合祀決定後、社殿の造営が行われ、明治6年9月24日に社号を鴻三社と定めた。

 明治35年から40年にかけてはさらに鴻巣町内に所在した日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して明治40年4月8日、社号を鴻神社と改めて現在に至っている。
 ここは鴻巣市の文化財に指定されている『香具拾三組御定免』『議定書』『商人講中連名帳並焼印』など貴重な資料が残されている。
 またここ鴻氏神社では、10月14日の例大祭のほか、ゑんぎ市や酉の市、夏祭りなど様々な行事が行われている。

【香具拾三組御定免・議定書・商人講中連名帳並焼印】 鴻巣市指定古文書(昭和34年9月指定)

 香具仲間は露天商、大道呼び売り商人、見世物等を行う仲間を云い、江戸時代には町奉行の支配のもとに行われ、従って奉行よりその定め書きが出されている。香具拾三組御定免は大岡越前守の名を以って発せられた定め書であり、この定めに従って鴻巣商人仲間は、仲間規約即ち議定書を作成して、加入者の自主的統制を計っている。議定書の末尾には享保20年卯ノ冬の記年がある。

 江戸末期に至って鴻巣宿の商業は隆盛をきわめたものと見え、豪商・紳商の話が伝えられている。商人仲間の数も大変多くなり、鴻巣講中連盟帳に名を連ねれたもの280名の多数に及び、仲間鑑札を発行して年行事がこれを監督した。
 鉄製焼印は木製仲間鑑札に使用したもので三箇ある。


 「加美追分」を左(県道365号、吹上方面)に行き、「第三中山道踏切」を渡る。

 踏み切りを渡った右側に立派な門の家があり、表札を見たら「宮田邸」と書かれていた。

 自分の家に邸と書くとは、サマーズの三村でないが、「宮様かーッ!」と突っ込んでみたくなった。


【箕田(みだ)観音堂】 (右側) 14:10〜14:25

 観音堂に納められている観音様は、源頼光四天王の一人である渡辺綱の守り本尊と伝えられる。

 箕田は、嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地である。

 境内のベンチで休憩。

 その先のスーパー「ベルク」でトイレと飲料水購入する。500ml入りペットボトルが全て98円均一でお徳。


【氷川八幡神社・箕田碑】 (右側) 14:45

 「箕田碑」(写真)は本殿右側にあり、箕田源氏の由来を書いたものである。

【氷川神社と箕田源氏】

 氷川八幡社は明治6年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。

 八幡社は源仕(つこう)が藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神を戴いて帰り箕田の地に鎮祀したものであり、宇八幡田は源任の孫、渡辺綱が八幡社のために奉納した神田の地とされている。また氷川社は承平元年(966)六孫王源経基が勧請したものだと言われる。

 ここ箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、源任、源宛(あつる)、渡辺綱三代がこの地を拠点として活発な活動を展開した土地であった。 

【箕田碑】 鴻巣市指定金石文(昭和36年7月指定)

 箕田は、武蔵武士発祥の地で、先年年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営した。
 源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方納治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県指定)。源仕(嵯峨源氏)は箕田にすんだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡)。

 箕田碑はの歴史を長く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維硯の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年((1778)に刻まれた和文草体の碑文である。

 初めに渡辺綱の辞世
世を経ても わけこし草のゆかりあらば

        あとをたづねよ むさしのはら

を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して、源経基・源仕・渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
 鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を訪ねて滞在した折りに刻んだものと思われる。

【箕田館跡】

 これら源家三代の住居跡は氷川八幡社北辺にあったと伝えられ、その地を殿山と称し、付近にはサシシ塚と呼ばれる古墳が存在しているが、館跡の面影をとどめるものはない。


宝持寺 (右 奥) 14:55

 氷川神社の裏手にあり、箕田源氏の流れをくむ渡辺綱が開いた寺で、綱の位牌が残されている。


【武蔵水路】 15:00

 中宿橋が架かっている水路で、水量は多かった。


【箕田追分と地蔵堂】 

 中宿橋を渡り、左側に崩れた道標等を見ながら行くと、二つ目の信号に「江戸時代の箕田追分周辺」の説明板とその左側に地蔵堂がある。

 中山道は、この追分を左に行く。 

 上の写真が箕田追分の「説明板」で、中山道の石碑や石の椅子もある。地蔵堂はこの左側。

【箕田源氏ゆかりの地】

 平安時代も9世期後半頃になると地方の政治が乱れ始め、武蔵国では群盗がはびこり、治安が悪化してきました。

 西暦919年、前の武蔵権介の任に当たった。源仕(任)は、官物を奪って官舎を焼きはらい、国府(国ごとに置かれた役所)を襲う事件を起こしました。

 源仕は昇(嵯峨天皇の孫)の子で、任期終了後も帰京せずに、箕田に土着して豪族となり、その充(宛)は箕田源氏の祖といわれています。著名な説話集『今昔物語集』には、箕田に居をかまえていた源充と、村岡(熊谷市)に居を構えていた平良文とが、合戦におよんだことが述べられています。源頼光の四天王として知られている渡辺綱は充の子にあたります。

 このほかにも、任が勧請したと伝えられる八幡社、綱ゆかりの寺院など、箕田には源氏にちなむ伝承が数多く残されています。

 やがて江戸時代になると、五街道の一つである中山道が、現在の鴻巣市域をほぼ南北に通り、中山道は東海道と共に江戸と京都・大阪とを結ぶ重要な幹線路であったことから、整備も行き届いていました。中山道を往来する主な通行は、参勤交代のために隊列を組んだ大名行列や公用の武士、荷物を運ぶ人足や馬、神社参詣の旅人などがありました。

【箕田追分周辺】

 朝、江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ1里ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは、北に向かって、三ツ木・川面を経て、忍(行田市)や館林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。
 鴻巣宿から、熊谷宿までは、4里6丁40間(約16km)の長い距離があり、途中の箕田、吹上、久下村の3ヶ所には、立場と称されられる休憩所がありました。立場とは立場茶屋ともいい、宿場と宿場との間にあって、そこで旅人がワラジを買い替えたり、お茶を飲みダンゴを食べるなど、休息するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人の休息はもちろん、近村から神社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです 。

 『中山道分間延絵図』は19世紀初頭、幕府によって作成された中山道絵図のうち、宮前、箕田、中井村あたりの部分図です。道に面する家並みや寺院、中山道から分かれる道などが描かれ、当時の中山道とその沿道のようすを窺い知ることができます。

 下の図は江戸時代の後期、根元山(群馬県桐生市)に参詣する人々のために発行された旅行案内の一場面で、箕田の追分が描写されています。そこには中山道と館林道の道しるべ(道標)や富士家という立場、さらに追分に造立されている地蔵菩薩などを見ることができます。


【前砂一里塚跡】  吹上町指定文化財 (左側) 15:25

 トタン張りの車庫状物置の前に碑と案内板がある。

 日本橋より十三番目の一里塚。

 江戸初期の慶長9年(1604)将軍家康の命によって、江戸日本橋を起点とする1里ごとの塚が、諸街道に設置された。

 塚は約9m四方に3m余りの土を盛り、上部を平らにして榎を植えるというもので、吹上地内ではこの場所の両側に造られていたことが、文化年間(1810年)幕府奉行所によって作成された「中山道分間延絵図」によっても確認される。

 江戸時代を通し人馬往来の目安とともに永く旅人達の憩いの場ともなった処である。


 次の信号(前砂交差点)のY字路を右(県道365号・吹上駅方面)に行くのであるが、右方向の道路は真直ぐである。 上記鴻巣宿で英泉の浮世絵と並べて載せた現在の風景はこの交差点を撮影したもの。

 信号手前の歩道に中山道案内板がある。

 その先の電柱に「中山道、歩道なし 左側に渡れ」の貼り紙があるので素直に渡ること。本当に歩道がなくなり危険である。

 線路に沿った道をNTT前の「第四中山道踏切」で渡り、すぐ左の道を行く。


【妙徳地蔵尊】 (左側) 

 正面に地蔵堂が見えてくるので右側の道を行き、旧国道17号線に合流する。



 5回目の旅終了(15:55) 吹上駅前交差点。

 吹上駅前交差点に着いたのが15:55、上り電車の発車が15:58(時刻表の該当部分を持ち歩いているため分かった)。二人とも「Suica」を持っていて切符を買わずに改札口を通れるので、交差点から200mを駆け足で滑り込みセーフ。鴻巣駅で吹上駅には止まらない後からきた湘南新宿ラインの特別快速に5分待ちで乗り換えられ、思ったより早く横浜駅に着くことが出来た。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、15.6Km(桶川駅前交差点〜吹上駅前交差点) 

          日本橋から十四里十九町(57.1Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、19.1Km(桶川駅〜吹上駅) 累計:72.0Km

          6時間35分 30,000歩。

 

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