浦和宿・大宮宿 (蕨駅 → 大宮駅) <旧中山道3回目>

2005年10月28日(金) 晴

  蕨駅から西回りのコミュニティバスで市立病院下車、南東へ220mほど行った「和楽備神社」と「蕨城址」に寄ったのち、前回終了した「蕨本陣跡」を10:50スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

 「板橋宿・蕨宿」 ← 「目次」 → 「上尾宿・桶川宿」

2005年10月は、スポーツなどで数十年ぶりの快挙が続いた。

 ◎競馬界では、10月23日の菊花賞で、武豊騎乗の「ディープインパクト」が無敗の三冠馬となった。デビューから7戦全勝しており、無敗の三冠馬は「シンボリルドルフ」以来21年ぶりである。

 ◎プロ野球の日本シリーズでは、10月26日にバレンタイン監督率いる「千葉ロッテマリーンズ」が31年ぶりに日本一となった。パ・リーグのレギュラーシーズンでは2位だったがプレーオフで「福岡ソフトバンクホークス」(王監督)を制してに上がってきた勢いそのままに、セ・リーグの1位「阪神タイガース」(岡田監督)を大差で4タテにした。

 ◎米大リーグのワールドシリーズでは、10月27日にア・リーグの「シカゴ・ホワイトソックス」がナ・リーグの「ヒューストン・アストロズ」をこちらも4タテにして、実に88年ぶりにWSを制覇した。


【和楽備神社(わらびじんじゃ) (右奥) 10:30〜10:35

 蕨宿本陣からは、その先の交差点を右に市役所通りを350m行ったところにある。

 第一鳥居の右奥に宝篋印塔。第二の鳥居をくぐってすぐ左に江戸時代初期に作られた大型の水盤があり、ともに貴重なものである。

 和楽備神社は、戦国時代に足利家一族の渋川氏(蕨城主)が八幡大神を祀ったのが最初。江戸時代には「蕨八幡」と呼ばれていた。

 明治44年(1911)に神社合併推進の国策で近隣の18社を合祀し、神社名に地名をつけようとしたが、「蕨」では一字で重みがないので万葉がなを用いて付けられたとのこと。

【和楽備神社水盤】

 和楽備神社境内の水屋にすえられている安山岩製の大型の水盤で、寛永寺旧在ともいわれている。

 四隅を入隅式(いりすみしき)とし、水穴(現在は埋められて浅くなっている)も外形に合わせて成形しており、その縁に三段の段形を設けている。現正面下部は花頭曲線をえがいて加工し、他の三面下部は繰形を入れて、全体を四脚としている。現背面に四行にわたって銘文が陰刻されていたが、二次的に削られており、一部が判読されるに過ぎない。

 この水盤の特徴は、非常に大型で四隅を入隅式とするところにあり、大型水盤は江戸時代初期にほぼ限られ、大名家墓所や格式ある社寺にみられる程度で、しかも入隅式の作例は、徳川家縁(ゆかり)の場合が多いようである。

 造立の時期は、様式手法などから江戸時代初期と考えられ、同時代の石造遺物として貴重な作例であると思われる。

和楽備神社宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 和楽備神社境内の一隅に遺存する。特異な形式を示す安山岩製の宝篋印塔で、享和元年(1801)に、蕨三社といわれた「上の宮」・「中の宮」・「下の宮」の三社の敷石供養のため、町田岩次郎により造立されたものである。

 地上に切石四枚を組み合わせた下部基壇をすえ、上端に返花座を造り出した上部基壇・敷茄子・蓮台・平面円形の基礎・返花座・敷茄子・蓮台・塔身さらに平面八角形の笠を重ね、上端に八角形の露盤を造り出している。相輪は欠失している。

 基礎には、正面に大きく種子シチリヤ(宝篋印陀羅尼教)を、さらに願文・偈(げ)・紀年銘・造立者銘が陰刻されている。

 この宝篋印塔の特徴は、基礎以上が平面円形または八角形を示し、上部基壇にすぐれた図柄を線刻するなど特異な形式・手法を示しており、歴史資料としても価値が高いと思われる。


【蕨城址】  埼玉県指定史跡(大正14年)・埼玉県指定旧跡(昭和36年) 10:35〜10:45

 和楽備神社隣りの公園が城址で、公園内の和楽備神社寄りに「蕨城址」の大きな石碑(下の写真)がある。

蕨城は、南北朝時代に渋川氏が居を構え、大永4年(1524)に北条氏綱により攻撃され、破壊されたと言われています。

 江戸時代になると、徳川家康が城跡に御殿を置きました。

 蕨城の遺稿は、現在ではわずかに掘跡が残っているだけですが、江戸時代の絵図面によれば東西が沼、深田で囲まれた帯状の微高地上に、幅六間半(約11.8m)の囲堀と、幅四間半(約8.2m)の土塁をめぐらし、堀の内側の面積は一町二反三畝余坪(約12200m2)でした。

 また、南側に堀と土塁をめぐらせた二町一反八畝八坪(約21650m2)の外輪地があり、北側にも堀と土塁の構えが見られます。

 いまわずかに堀跡と御所踊枡形、要害、高山、堀内、防止などの俗命を残すだけです。

 昭和36年11月、本丸跡に文学博士諸橋轍次撰書の「蕨城址碑」が建てられた。

【御殿堀】

 上の写真の「蕨城址碑」の裏側に小さな池があり、「御殿堀」の説明が書かれた石碑が建っている。

 此の池は蕨城を囲む堀の一部で、池の南隣地約一町歩が蕨城址である。徳川初期には度々当地方にて鷹狩が催され、ここに舘を建て御殿と称し、堀は御殿堀と呼ぶようになった。

 現在の城址碑の前に松の大木ありて其のもとに御立殿社という小祠があった。


【鈴木薬局】 (右側)

 「鈴木薬局」と右から書かれた、屋根の上の古い大きな看板がいい味を出している。

【三学院】 (右 奥) 10:55〜11:10

 10代続く老舗の煎餅屋「萬寿屋」の横を入る。

 創立年代は不明であるが、天正19年(1591)に徳川家康から寺領20万石の朱印状を与えられている。

 山門の右脇に「梵字馬頭観音塔」、山門を入って右手立派な屋根の中に「子育地蔵」、「六地蔵石仏」、目に味噌を塗ると目の病が治るという「目疾地蔵(めやみじぞう)」、 その地蔵堂の前に「仏足石」と「常夜燈」2基、二王門を入ると「水舎」、「鐘楼」、「三重塔」、「本殿」になる。

【三学院梵字罵倒観音塔】

 この石塔は、塔身正面に、梵字馬頭観音「ナム・カャグーリバ」(南無・馬頭観世音)を、筆太に陰刻し、左右側面、背後に刻銘を有する。

 木曽正面を小判型に彫りくぼめて、馬の全形を斜めから生きいきと表現され、彫技の冴えを示している。

 銘文から、江戸時代後期、寛政12年(1800)2月に「小宮忠次郎、徳丸馬右ヱ門」両氏が世話役となって、蕨宿の馬持講中によって、宿場の安全息災を祈って造立されたものであろう。

 また、三学院が、地域札所足立坂東二十番であることをこの石塔は示している。

 石塔本尊の馬頭観音を梵字で表現しており、例の少ない貴重な石造物である。

【地蔵石仏(目疾地蔵)】 (左の写真 。目に味噌が塗ってあった。)

  この地蔵尊は、万治元年(1658)に念仏講を結んだ13人の人々が、「この世」と「あの世」の安楽を願って造立したものです。基礎の上に一石から蓮台と地蔵菩薩立像と舟形光背を彫り上げており、高さが約1.9mある大きな地蔵尊です。

 一般に寛文年間(1661〜73)をさかのぼる近世石造物は少なく、一部欠けているところはありますが、古い様式を今に伝える貴重なものです。

 この地蔵尊は、「目疾地蔵」とよばれており、目に味噌を塗ると目の病気がなおる、あるいは目の病気にかからないといわれており、現在でも信仰の対象になっています。

 もとは三学院境内の墓地入口にありましたが、最近になって現在地に移されました。

【六地蔵石仏】 (目疾地蔵の隣りに六体並んでいる)

 この地蔵尊は、江戸時代初期の寛文〜元禄年間(1661〜1704)にかけて造立された石造物です。

 石仏は、いずれも基礎の上に一石から蓮台と地蔵菩薩立像を丸彫りにしており、蕨市内にある六地蔵のうちで最古、最大のものです。

 右から三番目の石仏が始め造られ、のちに他の五体の石仏を造立し、六地蔵にしたものと思われます。

 なお六地蔵とは、地蔵菩薩が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に分身し、人々を救済する姿を表しています。もとは三学院の総門の前にありましたが、最近になって現在地に移されました。

【子育地蔵】 (一番奥にでんと立っている)

 この地蔵尊は、江戸時代初期の元禄7年(1694)ん、三学院の法印秀鑁(しゅうはん)が中心となり、多くの人々の協力を得て造立された石造物です。丸彫りの立造物で、高さは約2.4mあり、江戸浅草橋(東京都台東区)の紀国屋平兵衛により造られた蕨市最大の地蔵尊です。人々に「子育地蔵」とよばれ親しまれており、火伏(火災防止)・開運・子育ての霊仏として、いまなお人々の信仰を集めています。

 むかしは、中山道に面した三学院の参道入口に立っていましたが、何回か移転したのち現在地に移されました。


【中山道ふれあい広場】 (左側)

 「からくり火の見やぐら」(土日は10時〜18時迄の毎時、月−金は8時・10時・12時・15時・18時)や参勤交代のタイル絵がある小さな公園。

 蕨宿は、中山道67宿のうちでも5指に入る大宿場として栄え、埼玉県では最初の宿場。

 蕨宿は中心部のまちなみが南北10町(約1090m)で、宿の周囲を用水路で囲み、外部の攻撃から守れるようにしてあるのが特徴でした。この堀は防火用水の役割も果たしていました。

 「ふれあい広場」のうしろは交番で、国道17号線 が斜めに走っている。この交差点が蕨宿の出口で入口と同じ二本の柱と「中山道蕨宿」の石柱がある。 


【徳丸家のはね板】 (右裏)

  

 「ふれあい広場」の街道から1本右の道へ入った所にある。

 「華屋与兵衛」左脇のコンクリート板で蓋がしてある掘割りをたどって行くと くぐり戸に、上が細引きでつながれ、下が鉄の蝶番で止まっている2mほどの板が見つかる。これが「はね板」(写真 で、外側に立っている幅の狭い板)である。

 昔、蕨宿周囲には堀があり、堀に面した家では掘を渡る為に早朝に板を下し夕刻にはね上げたものである。防備も兼ねており、現在では徳丸家に1枚残っているのみである。

 街道に接している表から裏まで全てが徳丸家だった。この前の家も徳丸家。


 旧街道は、国道17号線を渡って真直ぐ行く。渡ったところの左に蔵のある古い家が2軒。


【辻一里塚跡】 (右側) 11:50

 防音壁(写真でバックの白い壁)のある外環自動車道路が上に見える「辻一里塚公園」の西端にある。

 日本橋から五里目。

 石碑の左隣りには小さな祠(弁才天)がある。

 昔この辻地区は湿地が多く村人達は大変難儀をした。この水難を守る為、水の神弁財天を安置し地区の守り神とすると共に中山道を旅する人々の安泰を願った。

 由来伝記の為、有志相計り保存会を結成し祠を再建してふる里の道しるべとする。


【六辻村道路元標】 (左側)

 辻一里塚で外環自動車道路をくぐり、熊野神社の前を通り、「六辻水辺公園」のT字路に突き当たったら右折する。

 六辻交差点の交番の右端に小さな「六辻村道路元標」がある。


【焼米坂】 12:15

 国道17号線を渡った先のY字路を「中山道」の標識に従って左折する。

 やがて坂が見え、頂上の歩道橋下左側に「焼米坂」の石柱がある。

 ここが江戸時代の記録で有名な焼米坂です。本名は浦和坂ですが、昔、焼米を売る店があったので知られ、それが名物となったので、此の名で呼ばれるようになった。


<昼食> 12:20〜13:00

 スパーライフのうしろにある「華屋与兵衛」でランチメニューの中から『ミニの天丼・ネギトロ丼・ウドン』のセットを選ぶ。手を抜かず丁寧に揚げた天婦羅や貝柱の入った茶碗蒸しも付いて美味しく、しかも1000円未満なので、ファーストフードのチェーン店として★★★★進呈。


【調神社(つきじんじゃ) (右側) 13:10〜13:20

 途中、左側の米屋の店先に古い井戸を発見。最近では街道に面している井戸は非常に珍しい。

 そこから右側にこんもりした樹木が見えてくる、それが調神社である。

 神社であるのに鳥居がなく、狛犬の代わりに一対の狛兎(?)が可愛い、ユニークな神社。

 昔、朝廷に納める調物(みつぎもの)を集める所だったので、調神社と名付けられたとも云われる。また、荷物の出し入れの邪魔にならないように鳥居がないとの説もある。調(つき)の音が月を連想させるところから、月待信仰でも知られる。

 月から兎を連想して、いたるところに兎の絵などがある。

 安政年間に造られた権現造りの本殿の奥には規模が小さいが市指定有形文化財の旧本殿(右の写真)があり、各所にうさぎの彫刻がほどかされている。

 朱印を貰うと「調神社」の文字と可愛いうさぎの印が押されていた。

【調神社の七不思議】

 鳥居がない、境内に松の木がない、御手洗池に住む片目の魚、祭神の使い姫は兎、日蓮上人駒つなぎのケヤキ、ハエがいない、蚊がいない。

【調神社旧本殿】 市指定有形文化財(建造物) 昭和53年3月指定 

 調神社は「延喜式」にみられる古社です。この建物は江戸時代中期の享保18年(1733)に調神社本殿として建立されたものです。

 形式は一間社流造りです。屋根はもとこけら葺きであったと思われます。規模は小さいが木割りは「匠明」という書物に記されているものと一致し、本格的な設計のもと建立された本殿といえます。また、各所にはめ込まれた彫刻も優れており、特にうさぎの彫刻は調神社と月待信仰の関係を知るうえで貴重です。なを、現社殿が建立された安政年間までこの本殿が調神社本殿として使われました。


 浦和駅手前右側に紺色の大きな暖簾を張り出している茶店(写真) と左側に経師屋の古い建物が建っていた。中山道の沿線にはこのような古い建物が結構残っているのが嬉しい。

 

 浦和駅西口交差点すぐ手前に大きな「中山道浦和宿」の石柱が建っている。(右下の写真)

 


【浦和宿】 日本橋から6里6町(24.2Km)、京へ129里28町(509.7Km)
 天保14年(1843)で人口1230名、総家数は273軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋は15軒と小さな宿場であった。

支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望 (英泉)

江戸時代を通して幕府の直轄領であった。

浦和宿入口の石柱


【玉蔵院(ぎょくぞういん) (左側) 13:33〜13:45

 弘法大師空海の創建とされる古刹。

 市指定有形文化財で総ケヤキ造りの山門 (下の写真)を入ると左手に巨木(欅の木か?)がある。

 さらに道路を隔てた本殿 (写真で奥の建物)の左 横に樹齢100年以上と云われる大きなしだれ桜があり見事な枝振りである。桜の咲く時期はライトアップされるそうで、満開時にもう一度訪れたいと思うほどの壮大さである。

 本殿の左には格天井(ごうてんじょう)のすばらしい市指定有形文化財の地蔵堂がある。

【玉蔵院地蔵堂】

 <構造・規模> 三間四方、入母屋造り、一間向拝つき、桟瓦葺き、間口・奥行きとも8.34m

 <概要> 軸部は、ケヤキ材を用いた重厚な建築で、柱は円柱、柱上三手先の斗栱で桁を受ける。中備は、十二支の蟇股を配している。軒は、二重繁棰となる。

 内陣は、裏側壁面から半間出して来迎柱を建て、来迎壁に須弥壇をつけている。内陣の天井は、花鳥などを描く格天井となっている。他に、欄間の彫刻、外陣天井の画など装飾が多い。

 内陣蟇股墨書銘により安政9年(1780)の建立であることが知られている。三間仏堂ではるが、本格的な造営を受けた仏堂建築でしかも建立年代が明らかであり、保存価値がきわめて高いと言える。


【浦和宿本陣跡・明治天皇行在所址】  浦和市指定史跡 左奥)  

 市役所通りの仲町交差点を越えるとすぐ左側に見える「浦和幼稚園」の矢印が示す小道を入る。

 本陣跡の説明板と大きな「明治天皇行在所址」の石碑が建っている。

 中山道は江戸と京都を結ぶ街道で、浦和宿は日本橋を出て三番目の宿駅です。

 浦和宿には本陣1・脇本陣3・旅籠15があり(江戸時代後期)、ここは本陣の跡です。本陣は大名などの宿泊や休憩にあてられる家です。浦和宿では星野権兵衛家が代々勤めていました。ここには222坪(732.6m)の母屋をはじめ、表門・土蔵などがありましたが、明治時代になって家は絶え、全ての建物が取り払われました(表門は市内大間木の大熊家に移築され、現存しています)。

 建物などは全く残されていませんが、浦和宿本陣の所在地を正確に伝える土地として貴重です。

 なお、明治元年及び3年の明治天皇氷川神社(大宮)行幸の際は、ここが行在所となりました。


【市場通り・常盤公園】 (左側) 13:57〜14:05

 市場通りを左折すると野菜売りのブロンズ像(写真)があり、その奥が常盤公園。公園内にトイレあり。

【市場通り】

 この通りの北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、昭和の初めまで、毎月ニ・七の日に市が開かれました。そこでは、農作物や各種の生活必需品が取引されました。現在もその名残りとして、市神様と市場定杭があります。これにちなみ、昭和55年9月に当時の歴史をしのぶため「市場通り」の愛称がつけられました。

【常盤公園】

 江戸時代初期、ここは「御殿」と呼ばれ、徳川家康、秀忠が鷹狩りの際の休憩や宿泊所として使用したが、慶長16年取り壊された。廃止後も「御殿跡」「御林」の名で幕府に保護された。
 明治26年、ここに浦和地方裁判所が建設され、赤レンガ堀は当時の名残である。裁判所は昭和48年県庁南の新庁舎に移転し、跡地は「常盤公園」として昭和51年開園した。面積1万u。

キャラの木】 さいたま市指定天然記念物
 このキャラは、明治初年に旧浦和地方裁判所の前庭に植栽されたもので、いい伝えによれば、畠山重忠が父の墓前に植えたとされ、その後転々としてこの地に落ち着いたといわれている。

 昭和44年の指定当時は、高さ4m、幹まわり2.2m、根まわり3.7m、枝張径8mあったが、昭和50年頃から樹勢が衰え、同54年の台風で樹形の崩壊が起こり、現在は幹から裂けて地面に接した枝が根をおろすのみとなっている。


【慈恵稲荷神社・浦和宿ニ・七の市場跡】  市指定史跡 (左側) 

 常盤公園の隣りの道にある。

 浦和に市場が開設されたのは戦国時代頃と思われ、天正18年には浅野長政から禁制が出されている。浦和市(いち)は毎月ニと七の日に開かれろ市を六斎市という。

 江戸時代にも盛況をみせ、十返舎一九が狂歌に「代ものを積み重ねしは商人(あきうど)のおもてうらわの宿のにぎわい」と歌ったほどである。

 市場では、農産物や各種の生活必需品が取引されており、その形態は昭和初年まで続いた。なお、蕨(一・六)、鳩ヶ谷(三・八)、原市(三・八)、与野(四・九)、大宮(五・十)など近在でもそれぞれ異なる日に市が開かれていた。

 本史跡は中世から近世、近代にかけての浦和の商業の発展を知るうえで貴重な文化財である。


【郭信寺・サツマイモの女王 紅赤の発祥地】 (左側) 14:33

 北浦和駅東口交差点手前左側に浦和レッツの「レディア像」と手形・足型があった。

 元治元年創業の「梅林堂」のすぐ先に郭信寺がある。入口に「紅赤の発祥地」の説明板があったが、郭信寺の山門は修理中で境内に入るには迂回しなけらばならないのでやめた。

 江戸時代以来、関東でサツマイモといえば川越で、「アカズル」、「アオズル」といういい品種を持っていた。

 ところが明治31年(1898)秋、浦和市北浦和(当時の木崎村針ヶ谷)で、それ以上のいもが発見された。

 発見者はここの農家の主婦、山田いち(1863〜1938)だった。いちは皮が薄紅色の「八ッ房」を作っていた。それを掘っていると皮の紅色がびっくりするほど濃く、あざやかで美しいいもが出てきた。八ッ房が突然変異したもので、形も味もすばらしかったため大評判になった。

 いちの家の近くに、いちの甥で篤農家の吉岡三喜蔵(1885〜1938)がいた。この新しいいもいに惚れ込み、「紅赤」と命名、それを広めることを使命とし、懸命に働いた。

 そのため紅赤(俗称、金時)はたちまち関東一円に普及、「サツマイモの女王」とうたわれるようになった。川越いももむろん紅赤になり、その名声はますます上がった。

 昭和6年(1931)、山田いちは財団法人、富民協会から「富民賞」を贈られた。それはわが国の農業の発展に貢献した人に贈られるもので、農業関係では最高の賞だった。

 今年、平成10年(1998)は紅赤発見から百年になる。さいもの紅赤も最近は新興の「ベニアズマ」に押されて振るわなくなったが、このいもほど寿命の長かったものはない。そこで山田、吉岡両家の菩提寺で、紅赤発祥のちにある郭信寺の一角に、この功績案内板を設置することになった。


【一本杉】 (左側) 

 左側コンビニ「MINI STOP」の先に見える一本の杉の下に道路に面して石碑がある。 前のビルに第一生命の看板。

 文久4年(1864)1月、この付近で仇討ちがあったところで、水戸藩士が父の仇として讃岐丸亀藩の浪人を討った。討たれた浪人は近くの郭信寺に葬られた。


【半里塚の跡】 14:55  

 

 与野駅東口交差点 の右側に大きなケヤキの古木がある。

 ここが一里塚と一里塚の間に作られた半里塚の跡と云われている。


【ケヤキ並木・さいたま新都心】

 昭和42年(1967)の埼玉国体の際に植えられたケヤキ並木が500mほど続く。

 やがて、JR線の向こう側には「さいたま新都心合同庁舎」、「さいたまスーパーアリーナ」等がそびえているのが見え、圧倒されるような町である。

【さいたま市の概要】

 さいたま市は、埼玉県の南東部に位置する県庁所在地です。
 古くは中山道の宿場町として発達してきた歴史を持ち、現在は東北・上越など新幹線5路線を始め、JR各線や私鉄線が結節する東日本の交通の要衝となっています。
 本市は、平成13年5月1日に旧浦和・大宮・与野の3市合併により誕生し、平成15年4月1日には全国で13番目の政令指定都市へと移行しました。
 さらに平成17年4月1日の旧岩槻市との合併を経て、関東圏域を牽引する中核都市として、さらなる発展を目指して行きます。 


【火の玉地蔵・お女郎地蔵】 (右側) 15:10

 一旦、ケヤキ並木が途切れた右側歩道上に写真の小さなお堂が建っている。

 後ろに見えるビルあたりが「さいたま新都心駅」である。

― 伝説と巷説 ―  

 【高台橋のお女郎地蔵】

 昔、大宮宿に柳屋という旅籠を兼ねた女郎部屋があり、この柳家に千鳥、都鳥という姉妹がいて、旅人の相手をしていた。この姉妹は親に捨てられ、宿の人に拾われて育てられたのだった。

 その養い親が長い患いで、先に立った後に借金だけが残っていた。そしてこの借金のために姉妹は柳家に身を沈めたのであった。美しい姉妹は街道筋の評判となり、男冥利には、一夜なりとも仮寝の床を共にしたいと思わぬ男はいなかった。そんな数ある男の中で、宿場の材木屋の若旦那と姉の千鳥が恋仲になり、末は夫婦と固い約束を交わしていたが、どこまで運が悪いのか、当時、悪名大泥棒の神道徳次郎が千鳥を見染め、何が何でも見受けすると言う話になってしまった。

 柳屋の主人も千鳥と材木屋の若旦那との話を知っているので、徳次郎への返事を一日延ばし、二日延ばしにしていたが、業を煮やした徳次郎は、石の閻魔様を担ぎ込んだり、客に喧嘩を吹っかけたり、果ては店に火をつけるのと凄んできた。

 千鳥は自分のために主家に迷惑がかかってはと思い、と言って徳次郎の言いなりにもなれず、進退極まった果てに店を抜け出し、高台橋から身を投じてしまった。この時から高台橋のあたりに千鳥の人魂が浮き沈みつ飛ぶようになった。

 これを見たり聞いたりした付近の人達が哀れな千鳥の霊魂を慰めるために地蔵像を建てたが、これを「お女郎地蔵」だと言う。

【火の玉不動】

 その頃、高台橋の付近をふわふわと飛ぶ火の玉を人々は見たが、それは神道徳次郎に見染められ、進退極まって高台橋から身投げして果てた遊女千鳥の霊魂だと言う人もあったが、とかく人の噂はまちまちで実は傍にあった石の不動明王の仕業だったという話もある。毎夜のように高台橋付近に火の玉が飛ぶので、何とか正体をつきとめて見たいものだと、力自慢や腕ききが出かけてはみたものの、どうも気味が悪くて近づけなかった。ある夜のこと、一人の男が、小雨の降る中を松に隠れて潜んでいると、深い谷合いからあたりから火の玉がふわりふわりと尾を引いて流れるように飛んできた。男はその火の玉に無茶苦茶に斬りつけると「キャーッ」と声がして消えてしまった。火の玉が消えた暗がりをじっと見すえる、物凄い面体の男が立っていた。おそるおそる何者だと尋ねると「俺は不動明王」だと言うので、「それなら剣を持っている筈だ」と言えば、「剣は今おまえが切り落としたじゃないか」と言って消えてしまった。

 翌日、この話を聞いた人達が、高台橋に行って見たら、なるほど石の不動様が怖い顔をしていたが、剣は持っていなかった。そのことがあってこの不動様を誰言うことなく「火の玉不動」と呼んだと言う。

 この高台橋の傍に刑場があり、大盗神道徳次郎も御用となった末、この刑場の露と消えたと伝えられている。


【氷川神社一の鳥居・武蔵国一宮の石柱】 (右側) 14:25

 さいたま新都心駅前の交差点を渡ったところに「氷川参道歩こうMAP」がある。

 そこを過ぎ、再びケヤキ並木が続く先に、赤い鳥居と「武蔵国一宮」の石碑(写真左端の石柱)が見えてくる。この鳥居が氷川神社参道の入口である一の鳥居で、この参道は中山道の古道になる。

 しかし、街道が神域を通るのは不敬であると、寛永5年(1628)に現在の直進する中山道が造られ、それにともない宿民を移動させて新しい大宮宿を作ったとのこと。

 右側常夜燈の足下に「是より宮まで十八丁」の石碑。ここから2Kmあるということ。

【氷川参道】 

 新都心に近い一の鳥居から三の鳥居まで、約2Kmの並木道です。

 明治期には鬱蒼とした杉並木でしたが、その後、環境の変化や第ニ次大戦中に燃料として伐採されたことなどにより、現在ではケヤキが中心となっています。

 全部で約30種、680本の樹木があり、うち25本の古木が市の天然記念物に指定されたいます。


【武家屋敷門】 (左側) 

 参道に行かずに真直ぐ行き、吉敷町交差点を越えた左にある(有)西橋商事の門が加賀前田家の江戸屋敷から貰い受けたという門である。

【塩地蔵・子育地蔵】 (右側) 

 タカラビルと郵便ポストの間の道を入るとすぐある。

 いつの頃、建てられたか詳らかでないが、おそらく江戸時代ではないかと思われるこの地蔵尊は、「塩地蔵尊」(写真の左側)「三休子育地蔵尊」(同右側)の二つが祀られている。

 この地蔵様は、明治の頃までは吉敷町4丁目の鉄道路線敷地内にまつられていましたが、線路敷の拡張のため移転し、大正10年(1921)に当地に移されました。

【塩地蔵尊の由来】

 いつの頃か(江戸時代?)、妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が大宮宿で病にたおれ、日一日と重くなってゆきます。ある晩、夢枕に地蔵様が現れ二人の娘に塩だちをするように告げて消えました。娘達は早速塩だちをし、近くの地蔵堂に祈ったところ父の病が全快しました。そこで、たくさんの塩をこの地蔵様に奉納し、幸せに暮らしたとのことです。


【涙橋】 史跡 (右側) 

 ヤマト運輸と第四銀行大宮支店の間の道を入るとすぐある。

 往時大宮宿の辺の中山道を横切って溝川の流れがあり、「中の橋」と呼ばれる橋が架かっていた。当時吉敷町の街外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が、「中の橋」で、この世の別れを惜しみ涙を流したことでいつしか、「涙橋」と呼ばれるようになったと言われている。

 この碑は、昭和42年3月、第四銀行大宮支店が、この地に開業するにあたり敷地造成の折、国道に架けられた橋桁の枠石が発見されたのを機に遺跡として顕彰したものである。

 涙橋に関しては、「旧東海道 3回目」で紹介した品川宿外れの「浜川橋」にも同じ話がある。その先の「鈴ヶ森刑場」で処刑される罪人を、親族がひそかに見送りに来て、この浜川橋で共に涙を流しながら別れたということから、そこも「涙橋」と呼ばれるようになった。


【大宮宿】 日本橋から7里16町(29.2Km)、京へ128里18町(504.7Km)
 天保14年(1843)で 人口1508名、総家数は319軒、本陣1軒、脇本陣9軒、旅籠屋は25軒。(本陣が2軒だった時期もあった)

木曽街道 大宮宿 富士遠景 (英泉)

本陣跡の高島屋と奥が大宮駅



 3回目の旅終了(15:50) 大宮駅前高島屋(本陣跡)。

 大宮駅16:00発の湘南新宿ラインで横浜駅到着16:59。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、10.6Km(蕨本陣跡〜大宮駅前高島屋)

          日本橋から七里十九町(29.6Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、14.2Km(蕨市立病院〜大宮駅) 累計:36.4Km

          5時間20分 20,500歩。

 

「板橋宿・蕨宿」 ← 「目次」 → 「上尾宿・桶川宿」