石部宿 (水口センチュリーホテル→手原駅) <旧東海道 40回目>

2004年12月25日(土)晴

 センチュリーホテル発8:20。まず、水口城を見学してから昨日終了した地点からスタート。

「水口宿」 ← 「目次」 → 「草津宿・大津宿前半」


【水口城跡】別名・碧水城) 滋賀県指定史跡 8:35〜8:45

 現在は櫓を復元した資料館となっている。開館は10:00なのでこの時間では中に入ることができませんでした。


 水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並みが形成されていたが、天正十三年(1585)には、羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せた。関ヶ原合戦後この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定し、甲賀郡の中心都市として基礎が築かれました。家康はしばしばこの地を通行し、宿内か大徳寺に宿泊している。

 寛永十一年(1634)、京都に上洛することになった三代将軍家光は、道中となる水口に専用の宿館を築かせた。これが水口城である。作業奉行は、建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたった。

 城は堀と石垣を巡らした本丸と、北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられた。その建築構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものであった。

 家光上洛後は番城として幕府の管轄に置かれたが、天和二年((1682)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至った。

 維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸敷地のみは保存され、昭和四十七年滋賀県の史跡に指定された。近年整備が行われ、内部に「水口城資料館」がある。

(注)資料館入口にあった上記解説の一部が剥げて読みにくい箇所があり、判別に苦労しました。青色部分は全く見えなかった為、他の資料を基に推測しました。

 水ロ藩は、2万5千石。湧水を利用した薬研堀(やげんぼり)に水をたたえていたことから「碧水城(へきすいじょう)」の別名があったとのことです。

 結局、家光は立派な宿館を作らせたのに泊ったのは1回限りだった。

 人為的に解体された城跡を見る度に思うのだが、このように数寄をこらした城等を壊させた明治政府に憤りを感じるものである。しかし、徳川家に散財させられた地方出身者にとっては、徳川家ゆかりの建築物は見たくもないのだろう。同じように明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈が起きたのも納得が行かないものである。


昨日終了した地点(左水口城、右ショッピングセンターの交差点)を8:50スタート。


【水口石】 (右側) 8:51

 突き当りを左折し、次の角を右折します。その右折の角にあります。

 東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。「力石」とも呼ばれる。江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。

 この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。


【真徳寺】 (右側) 8:54

【真徳寺 表門】

 この門は、もと水口城内に所在した家臣屋敷の長屋門を移したものである。

 石高80〜60石程度の中士の格式をあらわすもので、一部に改造が見られるものの、旧城下に残る数少ない遺構である。


【五十鈴神社】 【林口一里塚跡】 (右側) 8:55

 真徳寺のすぐ先に五十鈴神社があり、その西角に一里塚跡(下の写真)があります。

【一里塚跡】 

 一里塚は街道の両側に一里(約4km)ごとに築かれたもので、東海道では慶長九年(1604)に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。

 塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。

 林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。

 本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。

 五十鈴神社の境内には、樹高40mのヒノキ(ヒノキ科)と同20mのイヌマキ(マキ科)があり、水口町の古木・名木に指定されている。

 街道は一里塚前を左折して、次の道を右折すると、前回(昨日)3本の道が合流した所の踏み切りから真直ぐの道に戻ります。

 水口宿は終り、ここから舞込橋にぶつかるまで約2.5Km、ほぼ直線道路になります。


【北脇縄手と松並木】 (左側) 9:08

北脇縄手の松並木

水路の上にぶら下がっている地蔵

同じく水路の上に出ぱっている地蔵群

 東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。

 江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木蔭に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。

 右側の水路の上には、写真のように縁にかろうじてへばりついている地蔵がありました。


【水口宿モニュメント】 (右側) 9:22〜9:30

 柏木公民館前にあります。公民館でトイレが借りられます。

 モニュメントの前面には広重の「水口宿」の絵、裏面には、五十三次の宿場と広重の辞世の句が書かれています。そして、横の扉を開けると、干瓢作りとそれを描いている広重のジオラマがあります。

【広重辞世の句】

  東路に 筆を残して 旅の空 西の御国(くに)の 名ところを見舞(みん)


【従是山村天神道碑】 (右側) 9:40

 酒入口バス亭にあります。


【泉福寺】 【日吉神社】 (右側) 9:48〜9:55

 日吉神社と泉福寺は同じ敷地内にあります。

 日吉神社域には樹高30mのケヤキ(ニレ科)、泉福寺域には25mのクスノキ(クスノキ科)と20mのカヤ(イチイ科)の木があり、これも水口町の古木・名木に指定されています。

 朝早く訪れた為、境内は枯山水の庭のように熊手で小砂利が掃き清められていました。

 綺麗な波模様の砂利上を今日始めて私達が歩いてしまい、申し訳ない気分でした。でも気持ち良かった。

 写真はクスノキで、木の右下が日吉神社、左奥が泉福寺です。

【天台宗 泉福寺】

 当寺は、弘仁四年(813)伝教大師最澄の開創によるもので、昔は泉寺とも延命院とも言い、数坊を擁したと伝えられる。

 天正年間の兵火により、堂宇はことごとく焼失したが、地蔵菩薩坐像は災火をまぬがれ、二十余年後の慶長十年(1605)、本堂再建に当たり本尊として安置され、以来泉の祈願寺として現在に至っている。

 本尊・地蔵菩薩坐像は国の重要文化財であり、厨子の中に秘仏して安置され、子安延命地蔵として信仰を集めている。尚、本堂前の水子やすらぎ地蔵尊は、本尊そのままを表したものである。

 本尊の両側に不動明王と毘沙門天が配され、脇壇の四天王は平安期の作、また書院横の庭園は江戸後期の作庭と云われる。

   本尊・木像地蔵菩薩像

 法量四尺(1.2m)の半跏倚像で桧材による寄木造、彫眼で右手に錫杖左手に宝珠を持ち、右足を内に曲げ左足を踏み下げている。丸顔の穏やかな表情、柔らかな肉付きに趣がある。寺伝では定朝作とするが、その様式から鎌倉時代の作と考えられる。

     水口町


【泉一里塚】 (右側) 10:00

 泉福寺を出ると再び左側が松並木となり、野洲川支流の泉川に架かる舞込橋に着きます。

 橋のたもとに東海道の大きな標柱(東方向「水口宿」・西方向「横田渡」)がありますので、左折して舞込橋を渡りますとすぐ復元一里塚があります。この裏(写真の竹やぶの中)は墓地になっていますが、ここの墓は土まんじゅう型で古代の土葬と同じ雰囲気でした。

【東海道泉一里塚】

 東海道を整備した江戸幕府は江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約4km)塚を築いたが、本町域では泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。

 塚上には榎などを植えて旅人の目印とし、道中奉行の管轄下に維持管理がなされた。

 当時のものは現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。

     水口町教育委員会


【横田渡】 (右側) 10:05〜10:15

 一里塚を過ぎるとすぐ、下の写真の冠木門と常夜燈が見えてきます。

【東海道横田渡】

 鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで「横田川」と呼ばれてきました。

 伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。

 江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。

 そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。

 これによると、三月から九月の間は四艘の船による船渡しとし、十月から翌二月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。

 野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。

 「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人でおおいに賑わいました。

【横田渡常夜燈】

 旧東海道筋にあたるこの地は、往年、諸国より江戸参勤交代をはじめ、夜中に及ぶ往来が頻繁で、渡渉中方向を誤り事故を起し、あるいは増水のため危険が多く、四艘の船で旅客を扱ったが交通は困難していた。文化初年より村人が義金を募り文政五年(1806年)、近在の石工にこの燈篭を造らせ燈台の役目をなさしめた。自来、東海道を往来する者も迷うことがなくなった。

 この燈篭は、高さ10.5m、笠石2.7m四方で、周りは7.3mの玉垣を築いており、本群石造品では最大のものとされ、江戸後期に創られたものながら交通工芸、民俗的な価値あるものとして町の文化財に指定された。

【横田橋の歴史】

 横田橋の名は、寛正二年(1461)五月二十四日の室町幕府奉行人文書(山中文書)に、「酒人郷横田河橋」として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。

 江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管理下におかれ、渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。

 明治二十四年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。この石垣は当時の橋台の一部です。(写真参照)

 その後、昭和四年には下流に橋が移され、同二十七年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。

【金刀比羅宮】

 冠木門から見て右端に小さな祠があります。

 旧幕時代、横田川の渡しは年中橋を架けることは許されなかった。そこで、川水の少ない十月から二月までは水の流れている所に土橋をかけ、三月から九月までの七ヶ月は四艘の小舟で通行していた。しかし暗夜には方向が定まらず危険であった。

 当社は渡しの安全のために村人が文政二年「常夜燈」の建立を発揮し義金を募り文政五年八月に竣工すると同時に水上交通安全の神様である金刀比羅宮をこの場所に勧請し、渡しの安全を祈念したものと推察される。

     平成七年三月吉日 大字 泉

 旧東海道は上写真から真直ぐ対岸に行くルートですが、現在この付近に橋がないため、川の右遠くに見える国道1号線の横田橋を迂回するしかありません。川に沿った道を行くと1号線に当りますので、この大きな橋を渡り、甲西(こうせい)町に入ります。道にあった温度計は9を示していましたが、今日は風も無く、うしろから射す太陽で実に快適であった。橋上で457Kmポストを見て、三雲駅前が10:30でした。

 本来なら横田橋を渡り終えた所で、右上写真から真直ぐの対岸に戻るべきだが、三雲駅まで少し戻るのみでお茶を濁しました。その三雲駅の東側の伝法山中腹に巨大な「天保義民之碑」があるとのことです。


【微妙大師万里小路藤房卿墓所 【明治天皇聖跡】 (右側) 10:33 〜10:37

 三雲駅前の十字路に微妙大師万里小路藤房卿墓所の道標。そのすぐ先民家の前に明治天皇聖跡の立派な石碑があります。


【道標群】 (左側) 10:45

 荒川橋を渡った左の道に、「田川ふどう道」「万里小路藤房卿 古跡」(妙感寺)「立志神社」の三つの道標が並んでいます。

 やがてJR草津線の踏切を渡ると右側に旧東海道の標識があり、右方向の板に「水口宿場」、左方向の板に「石部宿場」とあり、手前方向に「信楽 妙感寺」の板が付いていたのだろうが、今は折れて下においてありました。

 街道は線路に沿って行きます。


【大沙(おおすな)川トンネル】 11:03

 この石組みのトンネルは天井川です。

 写真の裏側から上に登って見ましたが水は流れておらず、カラカラでした。


【弘法杉・弘法大師錫杖跡】 (左側) 

 大沙川トンネルを抜けた左側に弘法大師錫杖跡 お手植えの杉の石碑と弘法杉の解説が立っています。

 振り返ってトンネルの上を見上げると大きな杉の木があり、傍まで登って行かれます。

【弘法杉】 甲西町指定文化財(史跡名勝天然記念物) 指定第一号(昭和52年10月指定)

 旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹令約750年の杉がある。この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。

 伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れたといわれている。昔からこの地方の子どもが左手に箸を持って食事をするものは、この木の枝で箸を作って使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。

 一節によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽を出したとの説がある。その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永二年(1773)の台風でそのうち1本が倒れたともいわれている。


【八丈岩・三雲城址】 (左側) 

 弘法杉のすぐ先、左側の金網に何の解説も案内も無く八丈岩、三雲城址、六体地蔵(市指定文化財)の看板がありました。

 この辺りから左手の山を望むと、頂上近くに白い巨岩が見えます。これが八丈岩(八畳岩)で、三雲氏の砦の跡とのことです。

 「道標群」で述べた通り、東海道はJR草津線の踏切を渡って右方向へ行くが、そこを真直ぐ行った所に三雲城址と立志神社があるらしい。


【由良谷川トンネル】 11:36

 ここも天井川で、上記大沙川トンネルと同じ構造をしていました。

 トンネル手前の右角に「新田道」の道標が立っていました。


【北島酒造】 (左側) 11:47

 トンネルから10分ほどで、造り酒屋である北島酒造があります。

 食いしん坊公家といわれる京都の土御門泰邦卿の紀行文『東行話説』に、駕籠の中から鼻をひくつかせたという夏見の銘酒の話があるが、その流れを汲む酒店です。現在は地酒『御代栄』を造っている。


【うつくしまつ自生地】 

 旧東海道から左へ900m行かねばならない為、今回は行きませんでしたが、家に帰ってからインターネットで検索した所、太い幹がなく根元から何本も枝が出ている珍しい松です。ここにしか自生していないとのことで、もう少し近かったらと残念であった。


【あけぼの公園】 (左側) 12:22〜12:36

 11時前からトイレを我慢していたので、やっと丘の上にトイレを見つけた時は急な坂なのに一気に登ってしまいました。

 今冬は暖冬でもうボケの花が咲いていました。公園のベンチで休憩。

 この公園は、かつての東海道「石部宿」の街道から少し南に入った、後背に遺跡「宮の森古墳(五世紀前)跡」を含んだ丘陵地にある。

 日の出とともに大地の息吹が伝わる園内の高台から、近隣の町の輝きが眺望できる。来園者には心のやすらぎとほのぼのとした心のいやしを与えてくれる。

 吉姫神社(1743年鎮座)の境内地に接していることから吉姫の里と総称し、二十一世紀初頭に開園できたので「あけぼの公園」と銘し後世に伝える。


【見付跡】 (左側) 12:38

 公園の下に、立て札と簡単な解説がありました。こちらは東側見付跡です。

 見付は、枡形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見付」といった。

 宿場の街頭の出入口にも見付が構築されたが、それは土手状のもので、石部宿の場合、東西二ヶ所にあった。

 見付の西側には、目見改場(めみえあらためば)がそれぞれ設けられた。


【高札場跡】 (左側) 12:47

 石部中央交差点の左角にある小公園の前に高札場跡の立て札がありました。

 また、公園内の白壁には、3枚の絵が描かれており、石部町の案内碑もありました。

 左側は、広重の絵『東海道五十三次「石部」田楽茶屋にて』で、脇に芭蕉の句「都つじいけてその陰に 干鱈さく女」が書かれています。

 真ん中は、『東寺 長壽寺』の絵で、「僧良弁によって建立されたといわれ、聖武天皇の御子誕生により子安地蔵尊を安置する国宝寺院です」と書かれています。

 右側は、『西寺 常楽寺』の絵で、「千手観音菩薩を本尊とする常楽寺は、金粛菩薩の開基といわれ、本堂と三重塔が国宝建造物です」と書かれています。

【石部町】

 石部町は、古くは東海道五十三次の五十一番目の宿場町として栄えた。

 明治22年4月1日に石部村、東寺村、西寺村の三ヵ村連合区域の統合によって「石部村」として誕生、明治36年6月1日には、県下で12番目、甲賀郡では2番目の町制施行によって「石部町」となり、今日まで永い歴史が刻まれています。

     2000年(平成12年)3月吉日


【問屋場跡】 (右側)12:50

 石部中央交差点を渡った右角に、立て札と簡単な解説があります。


【石部宿駅】 (左側) 12:55

 お休み処ですが、12/20〜1/10まで休み中で閉まっていました。

 

 石部の町に入ると、街灯に「いしべどん」という漫画絵と東海道の案内板が現れますので、これをたどれば間違わずに行けます。


【石部宿】 江戸から116里7丁(456.3Km)、京へ9里13丁 人口約 1600人 

 五十一番目の宿として、軒の本陣、62軒の旅籠、200余軒の商家でさかえた所。

 広重の東海道五拾三次之内・石部『目川ノ里

  「目川ノ里」はこの先、草津宿に近い所にあった。名物『目川菜飯田楽』を茶屋を描いている。

  手前で踊っているのは、当時流行った『伊勢踊り』を踊りながら伊勢参りに向かう一行らしい。

 


【小島本陣跡】 【明治天皇聖跡】 (左側) 12:56

 石部宿駅のすぐ先にあります。

【石部宿 小島本陣跡】

 小島本陣は、慶安三年(1650)吉川代官の屋敷あとに創建され、承応元年(1652)に膳所藩主本多俊次公、康将公に忠勤の功により本陣職を拝命された。

 この本陣は、間口四十五間、奥行三十一間、敷地二八四五坪、建坪七七五坪、表門、裏門二、番所等があり、鉤、刺股、突替、道具を飾り立てその奥に玄明、大広間等二十六部屋がみられた。

 小島本陣は、東海道にあった豪壮鮮麗な建物であったと道中記事に記されている。こうした壮麗な本陣も老朽化により昭和四十三年に取り壊され、現在に至っている。

 その間、天皇、皇族、大名、幕府の高官が宿泊し、その記録も宿帳に残されており、明治元年京(京都)より江戸(東京)に都が遷されるにあたり、明治天皇が御宿泊され、それらの貴重な資料も現存している。

 小島本陣古文書一式  石部町

     平成九年三月 石部町教育委員会


【真明寺】 (左側)  13:02

 寺は少し奥まったところにあります。街道筋には案内板等はありませんでしたので注意してないと、通り過ぎてしまいます。

 境内に芭蕉句碑があります(左の写真)

 『野ざらし紀行』の旅中に当地で詠んだ句。

   つゝじいけて その陰に 干鱈さく女


【立場跡】 (正面)  13:07

 立場跡に新築された休憩所の「田楽茶屋」。ここも休みでした。

 東海道は、この前を右折します。

 江戸時代の茶屋は旅人の休憩の場としてまた人足や駕籠かきの休憩所は立場が設けられた。

 寛永九年に始まった御茶壷道中で毎年多くの人々が出てにぎわったところである。


【一里塚跡】 (右側) 13:12

 左折した所に、立て札と簡単な解説があります。


【見付跡】 (右側) 13:14

 西側見付跡。石部西交差点の公園前に、立て札と簡単な解説があります。解説の文章は、東側見付跡と同じでした。

 ここを右折すれば石部駅です。街道は真直ぐ進みます。


<昼食> 13:20〜13:55

 此処まで食事する所がなかったのと、石部宿内のお休み処等が閉まっていた為、こんな時間まで昼食を取る事ができなかった。

 石部駅なら売店があるだろうと寄ってみたところ、駅の隣にあったコミュニティハウスで菓子パンを売っていたので助かった。但し、少ししか置いていなかったので残っていたのを全て買占めハウス内のベンチで昼食にしました。


 駅前に石部宿ゆかりの公園があり、復元された冠木門と石部宿の浮世絵や解説が掲げられていました。

【歴史のまち いしべ】

 いしべは、古くから伊勢までの街道として栄え、江戸時代には「京立ち、石部泊まり」として賑わった東海道五十三次の五十一番目の宿場町でした。

 町の北側には野洲川が西流、南側には阿星山がそびえ、山麓には国宝長寿寺、国宝常楽寺(共に天台宗)があります。


【西縄手】 (左側)  13:58

 石部西交差点のすぐ先にあります。

【西縄手】

 江戸時代、ここは宿内に入る前に整列した場所で、西縄手と呼び長い松並木がありました。

 この先、街道は2ルートに別れ、左折すると「五軒茶屋へ」と書かれている本道、真直ぐが「古道から伊勢路へ」と書かれている近道になりますのが、駅の案内図で、本道(左ルート)は道が途切れているとの情報があったので真直ぐ行きました。


【近江富士(三上山)】 (右側)

 宮川橋を渡ると右手に近江富士が見えてきます。

 上記の分かれ道で、左方向に行くと出会う山は金山跡で、「きわめて物堅い人」、「融通のきかない人」を表す『石部金吉』は、ここから出た言葉と言われています。

 左の写真は名神高速道路をくぐって栗東市に入ってから見える景色です。


【薬師如来堂】 【従是東膳所領】 (右側) 14:46

 長徳寺前に「薬師如来堂」があり、その角に「従是東膳所領」の石柱が立っています。


【新善光寺道(道標)】 (右側) 14:53

 新善光寺の道標は三ヶ所あり(民家の角に埋もれかけているものもある)、2番目が一番立派です。新善光寺は右へJR草津線を越えて250mほど先にありますが、私たちは行っていません。

 立派な山門と本堂、牛の臥像(牛にひかれて善光寺参り)もあるとのこと。


【福正寺(法界寺)】 (右側) 14:56

 六地蔵町に入り、左カーブした右側にあります。蓮如上人ゆかりの寺。

【木造地蔵菩薩立像】 重要文化財(明治33年4月7日指定)

 法界寺の本尊である当像は、僧形の丸い顔で、半眼、閉口し、衲衣(のうえ)の端を右肩に懸け、偏衫(へんさん)と裳を着けて直立する。現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。像高96.5cmヒノキの一木造。平安時代(10世紀)ころの作とみられる。

 ここ六地蔵の地名となった六躯の地蔵像の一躯であると伝わる。

     平成16年3月 栗東市教育委員会


【旧和中散本舗】 【大角弥右衛門氏宅】 【大角家住宅隠居所】 (左右) 15:05〜15:13

 街道左側にある大角弥右衛門宅は、今まで見てきた旧商家の中で一番大きく立派な家だと思います。反対側の隠居所も立派な家です。

 腹痛に効くという漢方薬の「和中散」を売っていた旧和中散本舗です。

 徳川家康が腹痛をおこした際、この薬を服用したところたちまち治ったことから一躍有名となり、江戸時代には多くの有名人や旅人が訪れ、ケンペルやシーボルトも「和中散」を買い求めたと言われる。

 現在の建物は、寛永年間(1624〜44)の建物をそのまま残したもので、大きな白壁、贅を尽くした玄関や欄間などが目を引き、仕事場には明治中頃まで使われていたという製薬機械の石臼なども残されています。

 見学が可能です。年中無休(10〜17時、冬季は16時迄)で、見学料は400円。 問合せ先:077−552−0971(要予約)

大角氏庭園】 国指定名勝(平成13年1月29日指定)

 書院の南庭(離れ家の西庭)である。正面に芝生張りの大小の築山を配し、背後にツバキ、カエデ、ヒサカキ、カナメモチ、アオキ、マキ、ネズミモチ等の混植の生垣を仕立て外部との仕切りとしている。背後の日向山を借景とし、築山上からは三上山が眺望できる。築山の西部に滝石組があり、山裾の東西に細長い池に注ぐ。水は、葉山川から取水していた。池の護岸は石組でめぐらし、池中には中島と平天の浮石があり、東部には切石橋を設け、築山へ渡れるようになっている。ただし、中島は明治の後設とされる。建物に沿って大小の飛石を打ち、沓脱石から池畔や石橋へとたどることができる。

     平成十六年三月 滋賀県教育委員会

【備考】

 国指定史跡 旧和中散本舗 昭和二十四年七月十三日指定

 重要文化財 大角家住宅 昭和二十九年三月二十日指定

【大角家住宅隠居所】  重要文化財

桁行12.9m、梁間7.0m、入母屋造、四面庇付、

南面突出部 桁行5.9m、 梁間6.9m、入母屋造、南面、東面及び西面庇付、

東面玄関、南面押入附属、玄関千鳥破風付、本瓦葺         江戸時代中期 

 隠居所は、真向いの本屋が本陣として使用されている間、家族の住居に当てられた建物で、江戸時代中期に主屋に引き続いて建てられたと考えられる。
 その後、所蔵文書より十数回にわたり小修理が行われたことが明らかで、昭和四十六年には半解体修理が行われ、玄関屋根や台所部分等が復原整備された。

 建物は床と付け書院を備えた六畳の座敷の南に四畳間を並べ、その奥に仏間と奥の間の四室を配した東西棟に、式台付玄関、台所、土間を配した南北棟がT字形に接続している。

 この建物は、屋根が二重で、入母屋破風が多く、本瓦葺のため、重厚な外観を呈しており、玄関及び座敷廻りには彫刻欄間を入れる等、江戸時代の豪華な住宅建築の好例であり、貴重である

     平成七年三月 滋賀県教育委員会

 上の写真が庭園のある「主屋」、下の写真が現在も子孫が住んでいる「隠居所」です。

 この前後で大角という苗字が至る所で見受けられますが、親戚なのか、この地方に多い名前なのか?


【稲荷神社】 【明治天皇手原御小休所】 (左側) 15:37

 手原駅へ曲がる(右折)角にあり、真赤な柵が目立ちます。神社前の街道筋に「明治天皇手原御小休所」の石柱が立っています。



 40回目の旅終了(15:40)JR草津線「手原駅」  本日の歩数:39,000歩

 草津経由で米原より1時間に1本の「ひかり」で帰宅。

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