水口宿 (土山西口バス停→水口センチュリーホテル) <旧東海道39回目>

2004年12月24日(金)曇時々晴一時雨

 今日は、後にも先にも一番多くの乗り物を乗り継ついで土山宿まで行きました。

 6:00に自宅を出て、『横浜市営バス→JR根岸線→JR横浜線→東海道新幹線→JR関西本線→JR草津線→土山町あいくるバス』と7種類も乗り継いで、土山西口バス停に着いたのが11:45。

 また、名古屋へ向かう新幹線で初めて左富士を見ました。安倍川を渡ってすぐ左カーブした所で左側後方に見えます。

 関西本線で名古屋から奈良まで乗換なしで行けるただ1本の電車「急行かすが」に乗るために朝早く出ました。関駅を過ぎて山の中に入ってゆくと、やっと旅をしている雰囲気になってきたが、手前までは晴れていたのに、鈴鹿のトンネルを過ぎたら雨。前回と同様に『坂は照る照る、鈴鹿は曇る、相の土山雨が降る』の馬子唄通りになってしまった。朝早かったので持参のサンドイッチを10:00には食べてしまった。

 柘植で草津線に乗り換え、貴生川駅から『土山町あいくるバス』に乗ったが、運転手が愛想が良いのか、本数が少ないバスなので皆顔見知りなのか、乗ってくる人それぞれ「おかえりなさい」とか「おつかれさま」とか「こんにちは」と挨拶していたのには 感心しました。

 前回終了した、南土山交差点を11:50スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「坂下宿・土山宿」 ← 「目次」 → 「石部宿」


 土山宿から国道1号線に出たら、南土山の信号で右へ入ります。

 入るとまもなく右側に「ご注意」の看板が現れます。

 この案内板は往時の道を示しています。現在は野洲川を渡ることができませんので、これより西へ歩かれる方は下記(地図が添付されていました)のとおり国道1号へ迂回し、右歌声橋を渡ってください。

 案内通りに行ったら、何のことはない先ほどバスを降りた所に出ました。

 JAの前を少し東に戻って横断歩道を渡り、441.5Kmポストを斜め左に入り、歌声橋を渡ります。

 「滝樹(たきぎ)神社」の鳥居を過ぎると、このあたりから赤いベンガラ格子造りの家が目立つようになります。

(左の写真)


【垂水頓宮御殿跡】 (左側) 12:30

 石柱と案内板があります。

 伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。

 土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。

     平成十六年三月 土山の町並を愛する会


【一里塚跡】 (右側) 12:40

 石柱と案内板があります。前回「土山宿」内で紹介した一里塚と全く同じ文章でした。

(前略:一里塚の解説)

 土山町内設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが現在その後はほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は土山町北土山大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。

     平成七年三月 土山町教育委員会


【大日川(掘切川)掘割】 12:43

 大日川橋渡った左側に解説があり、ここから松並木になります。写真は、西側から写しています。

 従古頓宮山より流れでる水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れが広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚しかった。大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。

 元禄十二年(1699)市場村は排水路を掘割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長五〇四間、川幅四間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄十六年(1703)に完成した。

      平成七年三月 土山町教育委員会


【従是東淀領】 【東海道反野畷】 (左側) 12:51

 ベンチが置いてある草地に「従是東淀領」と「東海道反野畷」(写真)の石碑が立っていました。

 この先から再び旅籠屋跡の石碑が左右に沢山現れます。

 前回でも述べましたが土山宿はかなり大きい宿場と実感できます。

 大日川からこの先しばらく松並木が続きます。


【漢詩の碑】 (左側) 13:06

 大野公民館前に建っています。このあたりは、土山茶の一大生産地ですので、これを詠った詩です。

    過土山即興        土山を過ぎて即興する。

 採茶時節事匁忙      採茶の時節 事匁忙(そうぼう)す。

 緑髄青芽壮僻郷      緑髄(りょくづい)の青芽壮(せいがさかん)なり。僻郷(へきごう)

 清風一瀹君知否      清風あり。一瀹(れん)、君知るや否や、

 遠到紅洋黒漠香      遠きに到る。紅洋黒漠として香し。

      眞風軒

          〔意 訳〕

 茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙しく働いておられた。

 茶園を見ますと、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。

 この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。

 お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。

 尚、眞風軒という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、江戸時代後期から明治時代にかけての人であります。

 (注)一瀹は、「いちれん」とも「いちやく」ともよむ。

     土山の町並を愛する会


【明治天皇聖跡】 (右側) 13:13

 毎度おなじみの大きな石柱です。


【三好赤甫(せきほ)旧跡】 (右側) 13:17

 国道1号線に出合った角に「大日如来」の祠と、会席料理の店「みよし・赤甫亭」があります。

 赤甫は待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれ、生家は代々魚商であったが、少壮の頃より俳諧の道に入り、当初、嵯峨上田村の宍戸霞洲に就き、教えを請うたが、晩年、家業を子に譲り、京都に上り、東福寺の虚白につき、十年余り修業され、その間、京都大阪の諸大家と交わった。その後、郷里に帰り、後進の指導をなし、この地方の俳諧の基礎をきずかれている。俳著に「窓あかり」がある。

  碑銘  「ほととぎす 早苗に影を のこし行く」

     平成三年三月ニ十五日 土山町教育委員会

 国道を渡って斜め右の道を行きますが、そこから右奥に若王寺の巨木が見えます。


【水口宿入口】 (左側) 13:42

 再び国道1号線に合流する三角点に「東海道土山・今宿」の石碑、「常夜灯」、「あいの土山観光案内図」があります。(左の写真)

 国道1号線を渡ると水口宿の大看板(右の写真)がありますので、そちらの方(県道549号線)へ行きますが、すぐ斜め右へ上る道が旧東海道です。


【今在家一里塚跡】 (左側) 13:55〜14:10

 復元された一里塚です。石のベンチで休憩しました。

 一里塚とは、江戸時代、街道の両側に、一里(約4キロ)ごとの築かれた塚で、江戸日本橋を起点として整備され、本町域では泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。

 塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。行程の目安となり、又日陰を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去されてしまいました。

 

 一里塚のすぐ先の竹やぶの前に、小さな石地蔵が並んでいました。

 四角い石に彫ってあり、前掛けが掛けられた可愛い地蔵です。 

 


【司馬遼太郎「街道をゆく」碑】 (左側) 14:15

 県道549号線に合流する角にあります。旧東海道はすぐ右の道に入ります。

 古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。

 あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。

 東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。


【岩神社・岩神不動尊】 (右側) 14:25〜14:35

 再び県道に合流して右に曲がるとすぐ岩神社の案内板と階段があります。

 

【岩神のいわれ】

 かつてこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政九年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所絵図』には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。

 それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣があったことを記しています。

 約80段の階段を登ったところに小さな祠(写真)があるだけで、うしろは岩石でした。

 近くに弁慶岩があるとのことで、手前にそれらしい入口があったが確信が持てず登りませんでした。それとも中腹に見える岩がそれなのか?

 旧東海道は、岩神社の前をまた右へ入ります。


<休憩>  14:50〜15:20 街道左側にある、喫茶と軽食の「ちょっと」で焼うどんを注文。10:00にサンドイッチを軽く食べただけだったので美味しかった。


【東海道の松並木】 (右側) 15:2

 喫茶店のすぐ先で道は二股に分かれますが、案内板に従って右の道へ行きますと、やがてアパートの前に小さな松並木があり、正面に古城山が見えます。

 江戸時代、東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒したのです。

 街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くが失われました。

 水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます。


【東見付(江戸口)跡】 (右側) 15:3

 国道307号線と山川橋を渡ると水口宿の入口になります。渡った右側に「東海道水口宿・田町」の石柱が立っていました。

【東見付跡】 

 見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。

 この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。

 特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716〜36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。

 なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった。


【水口宿】 江戸から112里31丁(443.2Km)、京へ12里25丁 人口約 2690人 

 東海道50番目の宿で、城下町です。

 広重の東海道五拾三次之内・水口『名物干瓢』

 下野の加藤嘉矩が水口城主に転封なったおり、干瓢の製法を水口に伝えてから周辺の村落で栽培が盛んになり、それが名物となった。

 その他の名物として、葛細工・煙管・泥鰌汁などがあった。


【水口宿本陣跡】 【明治天皇聖跡】 (左側) 

 信号を渡って松原町。続いて左側に作坂町の石柱を見たら、左へ入る細道に「水口宿の解説」、奥に「本陣跡」の石碑と「明治天皇聖跡」の碑が新旧2本建っています。

【東海道水口宿】

 水口は道によって開け、道のよって発展した所です。

 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。

 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(1585)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。

 関が原合戦翌年の慶長六年(1601)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。

 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西二キロ余りに及びました。このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。

 水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保十四年(1843)の記録によれば、家屋692、(内旅籠屋41)を数え、この地に小規模ながら水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。

 このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。

 なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。

     水口町

【水口宿本陣跡】

 この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。

 本陣とは、大名・旗本・宮家・公家・・幕府役人などが休泊するための施設でこれを補佐するものとしては脇本陣があり、水口宿はその両方が宿の東部の作坂町にありました。本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。

 この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。


 本陣跡を過ぎると突き当たりに「高札場跡」があり、道は二股に分かれています(左の写真)

 左の道へ行くとすぐ道は再び二股に分かれ(右の写真)、宿内はこの3ルートになります。真ん中の道(妻が歩いて行く方向)が本道と言われており、最もにぎやかな商店街ですが、昔の雰囲気を味わうには右ルートが良いです(左ルートは見ていないので不明)。

 右ルートの中ほどには「鴨長明発心所」碑と「大岡寺」、左ルートには「善福寺」「蓮花寺」、中央ルートには元禄十三年創業で街道最古の「桝又旅館」があります。私達は、中央ルートから右ルートへ入り「鴨長明発心所」碑と「大岡寺」を見学して再び中央ルートに戻り、「桝又旅館」を探したけれど見つかりませんでした。


【鴨長明発心所】 (右側) 15:52

 右ルートの中ほどに石碑だけがあります。大岡寺への曲がり角です。


【大岡寺】 (右奥) 15:55〜16:05

 下の写真で、突き当りが大岡寺です。手前の石柱には「國寶本尊観世音 大岡寺」と書かれています。

【龍王山 大岡寺の由緒】

 寺伝によれば、白鳳十四年(686)僧行基が諸国行脚に際し、大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置し創建したという。

 その後寺勢盛大を極め、十六の坊舎を擁していたと伝えられるが、天正二年(1574)の兵火で、堂宇はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。

 天正十三年(1585)に、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転し、大岡山山頂に城郭を構築したが、落城後享保元年(1716)に至り、時の住職寂堂法印が再び現在の地に堂宇を再建した。以後、水口藩主加藤氏歴代の祈願所となった。

 本尊十一面千手観世音菩薩は、家内安全・商売繁盛・進学・就職・厄除等諸願成就の守護佛で、近江西国三十三ヵ所第二十六番霊場として多数の参詣者がある。また、恵心僧都の作で、阿弥陀如来立像は、ともに国の重要文化財に指定されている。

 当寺には、史跡が多く、鴨長明発心所であり、巌谷一六の記念碑や、芭蕉の「命二つ 中に活きたる 桜かな」の句碑等がある。この句に詠まれた桜は、「大岡寺の桜」として水口八景の一つに数えられている。

     水口町


【水口曳山のからくり時計】 16:07

 中央ルートに戻り、武家屋敷風の本水口バス停角に「曳山のからくり時計」が建っています。この先中央ルートはアーケードになります。

【曳山の由来】

 江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。

 曳山の登場は享保二十年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し、藩邸にもぐりこんで賑いました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。

 当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。

 「ダシ」は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみとなっています。


【3ルートの合流点 16:25

 やがて踏み切りが見えてきますが、その踏み切り手前で3ルートが合流します。

 合流したところにも曳山の「からくり時計」がありました。

 左の写真は西側から写した合流点とからくり時計です。

【宿場町の水口】

 天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し「命二つのなかに生たる桜かな」の句を残しています。

 庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。

 宿場名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。


【商家風コミニュケーションセンター・武家屋敷風公園】 (右側) 16:25〜16:35

 近江鉄道本線「水口石橋駅」の踏み切りを渡ってすぐ右側に公園があり、広重の絵がありました。

 公園の奥にトイレがあります。

 旧東海道は、湖東信金の前(イシオカ楽器店の手前)を案内に従って右折します。その先左折して天神町に入ります。

 城下町なので、例によって道は鉤の手になっています。


【水口城天王口跡】 

 右折する所に東海道案内図が立っており、それに水口城天王口跡の解説がありました。

 江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南で再び当初の道に戻りました。「天王口」の名は、天王町の名の起源である八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家地がひろがり、ふだん藩士以外一般の通行は制限されていましたが、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が曳き入れられました。


【水口祭りと曳山巡行】 

 「水口城天王口跡」案内板の反対側に城の絵が描かれている大きな解説板があります。

 水口祭は、水口の産土社である式台水口神社の春祭りとして、長い歴史を持っています。

 江戸時代の地方都市では、祭礼に山や鉾が登場する祭りが発展しましたが、ここ水口でも江戸時代の半ばになると、東海道の宿場町として、あるいは水口藩の小城下として町場の繁栄を背景に、祭りを賑やかにする動きが起こり、仮装行列や山鉾の作り物、あるいは踊りといったものを主体とした「練り物」が見られるようになりました(現在もみられる田楽や近頃復活したほい幟はその名残りです)。

 「練り物」の行列はやがて、曳山を中心に整備されてきましたが、その大きな画期となったのは享保20年(1735)で、この年は神幸に九基の山が正式に登場し、この地にあった天王口御門から城内にくりこんで、藩主や家臣に披露したと伝えられています。

 水口祭は郡内唯一の曳山祭であり、曳山をだす町人はもちろん、藩主や藩士も楽しみにした祭礼だったのです。



 39回目の旅終了(16:45) ここを左折すると水口城、右折するとショッピングセンター(アルプラザ)へ行ける交差点。 本日の歩数:27,000歩

 ここから右折してショッピングセンター隣の水口センチュリーホテル泊。

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