草津宿・大津宿(前半 (手原駅→スーパーホテル大津) <旧東海道 41回目>

2005年2月 18日(金) 曇のち雨

 手原駅9:50。前回終了した「稲荷神社」前を10:00スタート。

 

「石部宿」 ← 「目次」 → 「大津宿 (後半)・三条大橋」



【すずめ茶屋跡】 (右側) 10:07

 稲荷神社からすぐの駐車場前に灯篭と案内板(東海道手原村 田楽茶屋)があります。


【鈎の陣所ゆかりの地】 (左側) 10:12

 足利義尚が佐々木高頼討伐の際本陣を置いたところ。

【鈎の陣のいわれ】

 室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年十月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣二年病を得、延徳元年三月二十五歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西約三百米の永正寺の一帯である。

     平成三年十一月建之


【善性寺】 (左側) 10:26

 正面に大きな土手が見えてきた所にあります。シーボルトが訪れた寺。

【シーボルトと善性寺】

 善性寺第五世僧、恵教のとき、文政九年四月二十五日オランダの医師で博物学者シーボルトが江戸からの帰途善性寺を訪ねている。そのときの見聞が「シーボルト江戸参府紀行」に次のように記されてある。

 「かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍らしい植物を見物せり。」云々とある。

     治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会

 この先、右へ左へと土手に沿って行きます。


【目川一里塚跡】 (左側) 10:35

 民家の門前に石柱と案内板のみあります。正面に「東海道一里塚」、側面に「草津宿まで半里」と刻まれていました。

 東海道には一里ごとに距離標として一里塚が設けられていた。一里塚は道の両側に五間四方の塚の上に椋や松などの木立があった。目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅とその向かいの旧北野家屋敷の西隅にあり、椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったといわれている。

     目川自治会


 再び土手に沿って右カーブしますが、その左側に小さな灯篭があり、田楽の里と彫ってありました(写真参照)

 広重の浮世絵「石部宿」は、前回の石部宿駅の所で載せていますが、広重はこの辺り、石部の西の「立場目川」の名物「菜飯田楽屋」(絵の暖簾には「いせや」と描かれている)を描いている。

 菜飯田楽はここが発祥の地と言われている。

 大田南畝(蜀山人)もこの田楽屋に寄り、『改元紀行』の中で「伊勢やといへる家に入りかの菜飯を求むるに、田楽の豆腐あたたかにものして味よろし」と書いている。

 高い土手は、近江最大の天井川である旧草津川です。

 土手の上に登って見たら、現在は水が流れておらず、重機が沢山入って川底大工事の真最中でした。


【老牛馬養生所跡】 史跡 (右側) 10:55

 生垣の中に石柱が立っており、この村の庄屋が老牛馬を憐れみ、余生を静かに過ごさせる養生所を作った場所。

 栗太郡志等に「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過させる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。

     治田学区心をつなぐふるさと創生事業実行委員会


【イロハモミジ】 草津の名木 (左側) 11:01

 150年以上生きたモミジだったそうであるが、現在は朽ちて土手に株だけ残っているだけです。

    樹   高   9m

    樹幹周囲   200cm

    推定樹齢   150年以上

 旧東海道の草津川を渡り伊勢路に至る堤防を下った現県道草津・六地蔵線との合流点にあり、少なくとも明治、大正、昭和の激動期をじっと見つめてきた木に違いないと思われます。

 百有余年、風雪に鍛えた太い幹、左右に広く伸びた枝張り、それにふさわしい樹高はモミジの王者の風格があります。春の芽ぶきの萌黄、夏の深緑、真っ赤に燃えるような秋の紅葉、冬は裸木に雪化粧の清らかさ四季折々の美しさには道ゆく人も足を留めます。

     「緑いきいき草津」推進会議 1994年11月吉日


 国道1号線を越えて、草津第2小学校の看板を左折し、水の流れていない橋を渡ります。ここにかなり字が薄くなった天井川の解説板立っていました。(11:14)

【東洛への姿をとどめる天井川】

 市域中心部を西流する草津川は地形的にも特異な形態を呈し、川床が民家の屋根よりも高い天井川である。この天井川化が進んだのは、水源である桐生や金勝山系の土砂が運ばれ川床が高くなり、それに伴って堤防も高くするといった繰り返しによって形成された。記録によれば江戸時代中ごろの元文年間(1736〜41)にはすでに川床が高くなり、流域の人たちは、それらによってもたらされる水害とたたかってきたことがうかがえる。

 草津宿の北端を限り、東海道・中山道の江戸側の出入口でもあった草津川は、平素はほとんど水がなく、安藤広重らの浮世絵にも描かれたように旅人は歩いて渡っていた。明治になると、中山道の川越箇所にはトンネルが掘られ、草津のマンボと称して名物になった。現在でも平野部の中を鉄道や国道がトンネルで抜け、独特の光景を呈している。また、今日では数少なくなったが、明治の末に草津小学校の生徒らによって植えられた桜があり、往時はさくらまつりが催されるなど市民の憩の場となっていた。

 付近には、草津追分に東海。中山両道の分岐を示す道標や、草津宿のシンボルともいえる史跡草津宿本陣、堤防から宿を望むと本堂の屋根並びが続く寺院などがある。


【道標(常夜燈)】 (左側) 11:15

 

 橋を渡って右折すると、すぐ左側に屋根付きの大きな常夜燈になっている道標が見えてきますので、土手を離れて左に下ります。

 この右側には「高野地蔵」のお堂があります。
 ここが草津宿の東の入口です。

【道標の彫刻】

 「文化十三年丙子三月建」、「左東海道いせ道」、「右金勝寺しがらき道」

 この先、古い家並みを通ると追分に当たります。

 


【追分】 11:25〜11:30

 東海道は突き当りを左へ行きます、この曲がり角で右から来る中山道と合流します。

 下の写真では真直ぐ草津川のトンネルをくぐって行くのが中山道、右方向が東海道、手前が京です。

 トンネル入口の右側には、東の入口で見た常夜燈と同じ年に建立された同じ形の常夜灯があります。

 トンネル入口の左側には、草津宿高札場が再現されています。

【道標】 市指定文化財(昭和48年10月15日指定)

 道標 「右東海道いせみち」、「左中仙道美のじ」 一基

 ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へ行けた。しかしこの地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816)江戸大阪をはじめ、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺七寸(4.45m)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残りをとどめている。

     草津市教育委員会 昭和五十一年贈草津ライオンズクラブ

【草津宿の高札場】

 高札場は一般に幕府の禁制や法度などの触書を掲示するところであった。草津宿では東海道と中仙道の分岐を示す道標の前にあり、旅人の目に付きやすい場所に設けられていた。寛政九年(1797)の「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」によると、屋根つきで柵に囲まれた高札場が描かれている。高さ一丈三尺(約3.9m)、幅一丈五尺(約4.5m)で、石垣の上に建てられていた。掲げられていた高札は、親子・兄弟の和親を説いた「親子兄弟札」をはじめ、荷物の賃銭を定めたもの、社会秩序の維持を定めたものなど、多いときには十枚が掲げられていた。この高札の管理は格別に留意することが申し渡されており、強風洪水で草津川の堤防が決壊する恐れのあるときなどは、宿場の南に鎮座する立木神社まで運ぶことなども決められていた。

 この追分の左角(公民館前)には「草津川ずい道(トンネル)の由来」の解説板、京の方へ左折するとすぐ左側に「書状集箱」、「僥孝法師の歌碑」、草津市教育委員会の「草津歴史街道」解説板が並んでいます。

「草津川ずい道(トンネル)の由来」

 草津川トンネルは草津川が天井川であったことから出水に悩みまた通行にも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治17年(1884)8月24日付で中山道筋草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)中井弘あてに提出した。

 これが容れられて明治18年12月4日総工事費7368円14銭9厘を以て着工された。翌明治19年3月20日の突貫工事で完成した。

 構造はアーチ式煉瓦両側石積みで長さ43.6m、幅4.5mのずい道が造られた。

 同年3月22日より旅人通行の事、車は3月25日より、馬車荷車は4月5日より従来左方斜めに堤防にのぼって川を渡り大路井村側で右方へ下った。

 中山道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。

【書状集箱】

 このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業当時使用していたものと同じ型のものです。

 草津宿は、東海道と中山道の分岐・合流点という交通の要衝として、発展してきました。

 また、国史跡に指定されている草津宿本陣は、現存する本陣の中でも最大規模で、当時の面影を今に伝えています。

 なお、このポストは、他のポスト同様に取り集めを行いますので、ご利用ください。

     平成十年九月 草津郵便局

【僥孝法師の歌碑】

   近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ 何處ともなき    覧富士記

 将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ。

 作者紹介  覧富士記  堯孝法師(1390〜1455)

 この歌は『覧富士記』に収められており、堯孝法師の作といわれている。室町時代の歌人で頓阿の曽孫。常光院と号し応永二十一年(1414)には二条派の中心歌人であった。

 正長元年(1428)足利義教が幕府で歌会を開いて以来飛鳥井家の人々の中心メンバーであり、永享四年(1432)の富士見にお供して『覧富士記』を残した。堯孝法師が東常縁に伝えた古今伝授は、後、宗祇(近江出身)に継承された。

【草津歴史街道・東海道】

 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。

 その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と称された。

 草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(草津川)を渡り、11町53間半(約1.3Km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。

 草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を越える旅籠をはじめ500軒以上の町屋があった。

 また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。

     草津市教育委員会


【草津宿本陣】 国指定史跡(昭和24年7月13日指定 指定面積4726.37Km (右側) 11:30〜11:45

 追分を曲がってすぐあります。現存する本陣では日本最大級とのこと。1996年に解体修理が完成した。

本陣門

 

宿札

【草津宿本陣】

 草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。

 史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726平方メートルにのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。

 この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されたものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、弘化三年〜文久三年頃(1846年〜1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。

 敷地内には、正面、向かって左手に、表門・式台・主客の宿泊に当てられた上段の間・家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。

 また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・薮・堀によって、区画されています。

【宿札の掲場(復元)】

 大名や旗本、幕府役人などが本陣に宿泊・休憩するに際しては、本陣の前と宿場の出入り口に、その名前を記した宿札(関札とも言う)を掲げました。三島宿(静岡県)の記録によれば、四方に立てた丸太の上部を、二本の横木で十字に結び、十字の個所に宿札を掲げる青竹を固定するものでした。青竹の長さは三間(約5.5m)にもおよび、かなり高く掲げられていたようですが、ここでは、宿札掲揚の様子を可能な範囲で復元しました。

 宿札に記された「松平出羽守」は、出雲国(島根県)松江藩主です。松江藩はここ田中七左衛門本陣のいわばお得意様であり、田中七左衛門家は同藩の専用継飛脚の御用を務めていました。

 ここ田中七左衛門本陣には、木製の宿札465枚に加え、奉書紙製のものが2,928枚残されており、その一部を館内に展示しています。これらは各宿場の問屋場で作製されたという説もありますが、一般的には大名の家臣である宿札(関札)役人か、それを兼ねた宿割役人が休泊日の前日か数日前ころに持参して本陣に渡したものといわれます。


【草津宿】 江戸から118里32丁(466.9Km)、京へ6里24丁 人口約 2350人 

 広重の東海道五拾三次之内・草津『名物立場』

 かつて下記「瓢泉堂」にあった「うばがちゃや」を描いたものです。

 茶屋で休憩する旅人や人足、京に向かう早駕籠と草津宿へ向かう荷物駕籠が茶屋の前を通っている図。

 現在の風景は下記の「瓢泉堂」参照。


<昼食> 11:45〜12:10

 本陣前のお食事処「脇本陣」で軽く「七福うどん」を食べ、「うばがもち」を購入しました。


【草津宿本陣跡(田中久蔵家)

食事処「脇本陣」のすぐ先の町名表示板(草津二丁目8)に、印刷物のみ掲げられていました。

 草津宿にあった二軒の本陣のうちの一軒で、文禄年間(1592〜96)に伝馬に関る業務に携わっていた。

     草津市ボランティアガイド


【草津宿街道交流館】 (左側) 

 覗いただけで入りませんでしたが、お土産と何点かの資料が展示されているようです。


【草津政所跡】 (左側) 12:16

 造り酒屋「道灌」に案内板がありました。

 太田家は江戸幕府の命をうけ草津問屋場を預かり、また隠し目付を勤めるなど当宿場の権現をまかされていたので政所(まんどころ)とよばれていた。


【立木神社】 (右側) 12:21

 草津宿の氏神。立寄りませんでした。


【瓢泉堂】 (右側) 12:30

 旧姥が餅屋があったところ。広重もこの場所を描いている。現在は国道1号線沿いに移転しています。

 「うばがもち」は、乳母の乳房を思わせ、上に白あんがポツンと乗っている可愛いあん餅で、とても美味しいものです。

 道標には「右やばせ道 是より廿五丁 大津へ船渡し」と書かれています。

 ここから二十五丁(2.7Km)入ると「矢橋舟着場」で、大津まで湖上一里の近道だが、「もののふの矢ばせの船は早くとも急がばまはれ瀬田の長橋」と云われた通り、西風が吹いて危険だったらしい。


 この辺りから、写真のようなかわいい道祖神が幾つか現れます。


【野路一里塚跡】 (左側) 12:41

 国道1号線を横断して斜め左の道を行くと上北池公園内に突き当たり、この公園内に一里塚の石柱があります。

 野路一里塚は、この石碑より北西に約三十米の所と道路(旧東海道)を挟んだ北東約二十米の所の二ヶ所あった。明治十四年頃に官地が私有地に払い下げられ、消滅するにいたった。

 ここに野路一里塚の旧地を証するため、この石碑を建立する。

 公園の西出口から真直ぐ方面が旧東海道ですが、ここでは道路を横断できませんので、右の信号を迂回します。迂回して戻ると角に東海道の標柱が建っています。(野路玉川石碑まで南東へ約800m)


【清宗塚】 (右側) 12:46

 平清宗の供養塔が民家の庭奥にあります。遠藤家のご好意で見ることができます。記帳書の箱内に解説書が入っています。

 門の横には榎とd(あべまき)の大木があります。

【清宗塚】

 文治元年三月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、安徳天皇(八歳)は入水。

 平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京へ上る途中、野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。

 清宗は父宗盛(三十九歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。同年六月二十一日の事、清宗時に十七歳であった。首は京都六条河原にて晒される。

 平清盛は義経三歳の時、あまりにも幼いという事で命を許した。時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、奥州衣川にて三十一歳で殺される。

 夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、歴史は我々に何を教えてくれるのか。

【平清宗】(1170〜1185)

 平安時代の公卿、平宗盛の長男、母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。

 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。

 「吾妻鏡」に「至る野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。

     遠藤権兵衛家  当主  遠藤 勉


【野路萩の玉川】 (右側) 13:02〜13:10

 3m程の小川が流れている小公園です。ここの東屋で休憩。

【野路萩の玉川】

 「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて東海道の宿駅として栄えた所である。源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。

 ここ玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、都から公卿・貴族・詩人等、しばしばこの地を訪ね景勝をめでて多くの詩歌を咏んだ。中でも千載集(1188年)所載の源俊頼の作

   「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり」

は名歌として世に広くしられている。又十六夜日記(阿仏尼作)には

   「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」

と咏んだ。

 十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、あたり一面咲き匂う萩とあいまって、その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、江戸時代の名所図絵によく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。その後野路宿が草津宿に移り次第に玉川も亦さびれる運命となった。

 近年は泉も涸れ形も小さくなり、風情は一変した。かつては天下の名勝萩の玉川もわずかに残る沼地となり人々から忘れ去られようとしている時、我等地元住民は、野路の象徴であるこの由緒深い玉川を放置するにしのびず永く後世に伝え残すため、住民の總意により復元を行ない幾分なりとも往時の面影をとどめることとした次第である。

     昭和五十一年十一月二十八日 草津市野路町

「近年は泉も涸れ・・・」とあるが、写真の井戸から少し少しずつ水があふれていた。人工的な細工をしているのか?

【古き宿駅 野路駅の名残り】

 野路の地名はすでに平安時代末期にみえ、「平家物語」をはじめ多くの紀行文にもその名をみせている。鎌倉時代には、源頼朝が上洛に際し、野路の地での逗留がみえるなど、宿駅として武将の戦略拠点ともなり、また瀬田川沿いを宇治方面へ抜ける迂回路の分岐点にもあたり、交通の要衝として重視されていた。さらに、ここ野路の地に、十禅寺川と東海道が交わるあたりには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。『千載和歌集』の中の源俊頼の歌に、

   「あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり」

と詠まれた野路の玉川である。萩の名勝として近世には『近江名所図会』や安藤広重の浮世絵にも紹介されている。しかし、この野路も、草津が宿駅としてクローズアップされてくるとともに交通上の位置は次第に低下していくのである。

 付近には陣所となった新宮神社をはじめ、小野山製鉄遺跡など多くの遺跡も発見されている。


【弁天池と弁財天】 (右側) 13:17

 池の中島に弁財天があり、石橋が架かっていますが鎖が掛けられ通行禁止になっています。石柱に「浄財弁財天参道橋」と書いてあった。


【月輪寺】 (左側) 13:35

 月輪寺の少し手前、月輪自治会館の角に「名勝 月輪大池 南約一粁」と刻まれた石柱が立っており、その石柱に月輪の解説がありました。

【月輪】

 月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれます。付近は荒野でしたが、江戸時代にはいって開墾がすすめられ、延宝四年(1676)大萱新田となり、明治七年(1874)月輪村と改称されました。

 続いて月輪寺門前に「月輪寺」、「明治天皇御東遷御駐在之所」碑、「新田開発発祥之地」碑、「東海道」石柱が建っていました。(写真参照)


【月輪池】 (左側) 13:40

 月輪寺のすぐ先にあり、この池に映った月が美しかったというが、今はとても綺麗とはいえない溜池です。


【一里塚跡】 (右側) 13:52

 一里山一丁目交差点のリーニング屋前に大きな石碑と案内板があります。

 一里塚は徳川家康が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。

 ここにあった一里塚は、東海道大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。

 現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。

     昭和六十一年三月 大津市教育委員会


 点滅信号を左折(道路右上の案内板に注意)。

 道が二手に分かれたら塀沿いに右へ行きます(道路正面上の案内板に注意)。

 T字路を左折して商店街入る。

 高橋川に架かる和田一号橋を渡った所にある公園に公衆トイレがあります。


【瀬田唐橋】 14:35〜14:50

 「近江八景」のうち「瀬田の夕照」で有名な唐橋は、中島によって橋が二分されています。東側大橋は九十七間、西側小橋は27二十七間。

 京の宇治橋、山崎橋とともに日本三古橋と呼ばれている。琵琶湖から唯一流れ出ている瀬田川に架かる橋で、右に湖水、左に石山を望む。


 大橋の入口左側に、「常夜燈」、「歌碑」、「祠」、「勢田橋龍宮秀郷社」の案内板などがありました。

【伝説 俵藤太ムカデ退治の勢田橋龍宮秀郷社】

 祭神  瀬田川龍神 俵藤太秀郷

 神代の古から此の大川に鎮り座す龍神で瀬田川と唐橋の守り神です。

 俵藤太が龍神の頼みにより大ムカデを平げた伝説は廣く知られています。

 江戸時代には殿上人の信仰が厚く霊験あらたかな龍神であります。

   むかで射し 昔語りと 旅人のいいつき渡る 瀬田の長橋   大江匡房

 左手公園に碑銘(写真)があり、裏側に百足退治の解説がありました。
【俵藤太 百足退治伝承の地】

 この地は平安時代の武将で有名な俵藤太(藤原秀郷)が、百足を退治したというところです。

 藤太は承平年間(931〜38)、瀬田橋を渡ろうとしたとき、百足の害で困っていた老翁(竜神)の願いを聞き入れ、瀬田橋から三上山に住む大百足を、弓で見事に退治した伝承はよく知られています。

     平成九年四月二十六日建之

 大橋の東左岸には、橋守神社と雲住寺があります。その解説が大橋の入口右側にありました。

【橋守神社と雲住寺】

 橋守神社は正しくは、龍王宮秀郷社と言い、竜宮の主に見込まれた藤原秀郷(俵藤太)が、三上山の百足を退治して竜宮乙姫と結ばれ、後に乙姫と同じく各々が本社に祀られたと言われている。

 また、雲住寺は、藤原秀郷の子孫によって建立され、秀郷の遺品と伝えられる太刀や槍の鉾先、系図、橋守神社の縁起等が保存されている。


【明治天皇鳥居川御小休所碑】 (左側) 14:56

 唐橋を渡り、すぐ左折して瀬田川沿いを1Km程行くと石山寺です。

 橋を渡った先左側に竜宮城風の建物がありました。昔の料亭らしいですが現在は営業していません(右の写真)

 東海道は、京阪石山坂本線の踏切を渡って右折して、煉瓦色の歩道がある商店街を行きます。

 曲がるとすぐ左側に明治天皇鳥居川御小休所碑があります(左の写真)


 国道1号線、京阪石山坂本線、JR東海道線をくぐり、NECの工場に沿って進みます。

 JR線をくぐった先左側に「瀬田・石山の道(5-7)」の案内板があり、石山寺(2.7Km)、義中寺(4.15Km)と「栗津の春嵐」の解説が書かれていました。

 ここを左折してJR石山駅の前を通り、京阪石山坂本線に沿って行く道が「瀬田・石山の道」で、途中に「今井兼平の墓」がありますが、私たちは寄らずに真直ぐ旧東海道を行きました。

 今井兼平は木曽義仲四天王の一人で、巴御前の兄。木曽義仲とは乳兄弟でもあり、源頼朝との宇治川の戦いで最後まで義仲と共に戦い共に戦死した人物です。

【栗津の春嵐】

 江戸時代、旧東海道のこの辺り、膳所(ぜぜ)城下町の南総門から鳥居川の間は、美しい松並木が続いており、近江八景の一つ「栗津の春嵐」として知られた名勝であった。歌川広重の浮世絵などにも、湖辺に城と松並木が続く風情のある景色として描かれている。


【膳所城勢多口総門跡】 (右側) 15:21

 左へ大きくカーブする角に小さな石柱が立っています。

 うしろの古い建物は、現存する個人所有の瀬田口総門番所(東海道を旅する人を監視した番所)で、二重屋根の上には鯱が乗っていました。脇にあった総門は大阪市泉大津市に移築されているとのこと。

 膳所城跡はここから約1Km北上した湖畔にあります。


【若宮八幡神社】 (右側) 15:25〜15:40

 京阪石山坂本線を越えたすぐ右側にあります。ここで休憩して「うばが」をたべていたら、雨が落ちてきました。

【由緒】

 当神社は壬申の乱(672)があって三年後の白鳳四年(675)に天武天皇が、宇佐八幡の御神託「近江の湖水辺り粟津に、わが子仁徳を祀り崇敬すべし」によりここに当神社社殿を造営されることになり、この浦(湖辺)上下八丁(約八百米)での殺生を禁じられ、以後漁夫は恐れてここを特別の浦(別浦)と云い、のちに別保と呼び、現在もこの地域の地名として残り翌年(676)八月(九月)十五日放生会が行われました。

 当神社の社殿等が完成したのは、四年後の白鳳八年(679)で九州の宇佐八幡宮の次に古い八幡宮で、当初は粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治からは若宮八幡神社となりました。

 ところで当神社の社殿等は延喜十七年(917)雷のために全焼。その後、寿永三年(1184)源頼朝と木曽義仲の粟津の合戦でまたも全焼。勝った源頼朝が社殿等を再建。更にこの社殿等も、応仁の乱(1467)の兵火で焼滅しました。

 しかしその後、立派に復興され、膳所城の築城後は歴代城主、本多公が寄進し、社殿を始め境内建物の修繕等を行ってこられました。

 境内には皇大神宮を始め沢山の摂社・末社が奉祀されておりますが、これは当神社の歴史が古く、この間に多数の氏子が奉仕崇敬され、極めて霊験あらたかな氏神さまであることを示しています。

 鳥居の内側に膳所城から移築された犬走り門(写真)があります。

【若宮八幡神社表門 一棟】 大津市指定文化財(建築物)

 この表門は、膳所城の犬走り門で明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。大棟の背面に切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、正面向かって右側に脇門を設けています。門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。屋根は本瓦葺で、大棟の両端に鯱と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられます。

 後世の補修はかなりみられますが、膳所城の数少ない建物であるとともに、江戸時代初期の城門建築として貴重なものです。 昭和五十三年(1978)二月に市の指定文化財となりました。

     大津市教育委員会

 この先、右折して踏み切りを渡ります。


晴好雨竒亭址 (左奥) 15:47

 突き当たりの民家の前に石碑が立っています。

 奥村菅次寿景(1788〜1840) 膳所の名金工師初代菅次は湖東目川出身。湖を一眸する景勝のこの地に居を構え、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作した。頼山陽、貫名海屋なども屡々来遊し、山陽は晴好雨竒亭と名付け額を揮毫して与えた。五十三歳で病歿し唯伝寺に葬らる。墓誌は海屋の筆。

 ここを左折して、篠津神社(左側)の前を通り、「中の庄駅」踏み切り前の「音羽軒」を」右折します。

 この時、この篠津神社には寄らなかったが、ここにも「旧膳所城の北大手門」(国指定文化財)を移築した表門があることが、後で分かり、引き返すのは遠すぎたのであきらめました。


【膳所城跡】 

 膳所城公園前交差点の左奥に「膳所神社」が見え、ここを右折するとすぐ、現在は「膳所城跡公園」となっている膳所城跡があります。

 但し、跡だけということで行きませんでした。

 また、この交差点に「東海道(4-32)」の案内板があり、札の辻(3.45Km)、瀬田の唐橋(3.2Km)と「膳所城址」の解説が書かれていました。

 ここから東方の膳所城跡は、徳川家康が関ヶ原の合戦の翌、慶長6年(1601)に大津城を移築させ、本多氏六万石の居城としたが明治に廃城となったもので、現在は本丸跡が公園として整備され桜の名所となっている。また、城門が膳所神社や篠津神社に重要文化財として残されている。


【膳所神社】 (左奥) 16:00〜16:10


【膳所神社由緒】

 社伝によると天智天皇が大津の宮に遷都の際、この地を御厨所と定められた。天武天皇六年に大和の国から御食津神を奉遷して大善職の御厨神とされた。

 慶長年間に至り大政所豊臣秀頼、徳川家康などが当社を厚く尊信されて種々の神器の寄進があり、東山天皇は膳所大明神の宣下をされました。

 また、慶長六年膳所城創始以来、歴代の藩主本多候は崇敬が厚く、社領の寄進や社殿の造営がたびたび行われました。

 現在の当社表門は、旧膳所城の城門で重要文化財に指定されています。

     平成十二年五月吉日

 膳所神社の表門は「旧本丸大手門」、北門は「旧膳所城城門」、南門は「旧水門」です。

【膳所神社表門 一棟】 国指定重要文化財(建造物)

 この表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入口にあった城門で、明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。

 門は、棟筋と扉筋とが同一の垂直面にない薬医門で城門として多く用いられています。

 屋根瓦には旧膳所城主本多氏の立葵紋がみられ、桃山時代の建築として貴重なものです。

 脇には潜り戸を付け、頑丈な造りで、城門としての貫禄を持っています。

 大正十三年(1924)四月に重要文化財に指定されました。

     平成五年三月 大津市教育委員会

 門の脇には「国寶表門」の小さな石柱がありました。写真の右端に半分写っている案内板の左下にある石柱です。


【縁心寺】 (左側) 16:12

 膳所城主本多家御菩寺。

 慶長七年(1602)本多康俊が父忠次の菩提を弔うため創立した寺。はじめは三河国西尾にあったが、元和三年(1617)本多家が膳所に転封になった際、同じく膳所に移ってきた。


【和田神社】 (左側) 16:16〜16:25

 和田神社の角に「東海道(4-32)」の案内板があり、瀬田の唐橋(3.6Km)、札の辻(3.05Km)と「和田神社」の解説が書かれていました。

【和田神社本殿 一棟】 国指定重要文化財(建築物)

 本殿は、一間社流造の小さな社殿で、東面として建てられ、屋根は桧皮葺です。また正面には軒唐破風を付けるという、県内では珍しい建築様式をもっています。

 この建物には、後世の補修のあとも多く認められますが、側面にあるすっきりとした美しい蟇股(かえるまた)などの細部については、鎌倉時代の様式をよく残しています。

 桧皮葺の屋根の、棟から前後の軒先へ流れるような線は、檜皮のもつ柔らかさと相まって美しく、建物の特色となっています。

 明治三十五年七月三十一日に国の指定文化財となりました。

     昭和六十三年十一月 大津市教育委員会

【和田神社】

 かつては、八大竜神社と称したが、明治元年(1868)に付近の和田浜の名を取って改称された。本殿は、一間社流造という小型なものだが、鎌倉時代の建築で重要文化財。また、表門は膳所藩校尊義堂の表門を移築したものである。

 この先、街道は、左へ右へと何度も曲がります。

 和田神社の先一つ目、琵琶湖が見えたら左折、寺に突き当たったら右折。駐車場のある角を左折(角の電柱脇に案内板があります)。小さな橋を渡ったら、左カーブしている道の方へ真直ぐ道なりに行きます。

 最後のクランク曲がりしている道の角に「膳所城北総門跡」の石標がありました。膳所の城下町の北の入口です。


【義仲寺】 国指定史跡 (右側) 16:44〜17:07

 ご存知の松尾芭蕉と木曽義仲の墓が並んである寺です。入場料200円。

 妻は、昔一緒に来たことがあると言っているが、私はあまり記憶がなかった。どちらにしても、芭蕉好きの私にとっては、感激の場所です。

 境内には、墓・句碑・塚などが多数並んでいます。

義仲寺入口(山門)

芭蕉の墓

木曽義仲の墓

【義仲寺境内】

 義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。

 門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。

 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。

 昭和四十二年(1967)十一月に国指定の史跡となりました。

     平成四年三月 大津市教育委員会

【巴塚(供養塔)】

 木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死を覚悟で此処粟津野に来たが義仲が強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり、各地を廻り当地に暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。


 京阪石山坂本線の踏切を渡って、Y字路を左方向に行き、そのまま直進します。

 途中、ロシア皇太子が警備の巡査に切りつけられたという大津事件の碑「此附近露国皇太子遭難之地」があったはずだが、見逃してしまった。

 大津駅に続く、中央分離帯のある大通りで本日の行程を終了(17:30)としました。

 左折すればJR大津駅、右折すれば琵琶湖畔にある豪華な琵琶湖ホテルです。

 この交差点を左折したすぐ左側に華階寺があり、その門前に「俵藤太」と刻まれた石柱があり、藤太の下に「月見の石 矢根地蔵」とありました。

 どのような謂われがあるのかは不明でした。

 そのまま駅方向に行き、京町3丁目交差点角にあるスーパーホテル大津に宿泊しました。



 41回目の旅終了(17:40)スーパーホテル大津  本日の歩数:39,000歩

 

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