桑名宿 (桑名駅→富田駅) <旧東海道34回目>

 

2004年5月23日(日)曇のち雨

 JR関西本線で名古屋駅から桑名駅へ行き、そこから歩き始めました。桑名駅9:20スタート。

 宮から桑名の間には、木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川と云われる大きな川が流れているため、昔は川渡りの不便さを避けるため、舟で一気に越えていたのだろうが、現在は渡し舟がないので鉄道で渡 ることにした。

 毎年行っている、日本テレビの子供達による「夏休み東海道徒歩の旅」では、宮から桑名の七里をチャーター船で渡っているのが羨ましい。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「鳴海宿(後半)・宮宿」 ← 「目次」 → 「四日市宿」


【海蔵寺】 9:30

 桑名駅の改札を出たら左へ行き、ぶつかった道を東へ真直ぐ行けば九華公園です。その途中(駅から約600m)の左側に海蔵寺があります。

 木曽・長良・揖斐三大川治水工事に際し御手伝普請(おてつだいふしん)当たった薩摩藩士が難関を克服したにもかかわらず、工事費の超過などの責任を負って割腹した24名の墓がある寺です。この実話は、「弧愁の岸」という芝居にもなっています。

【海蔵寺(薩摩義士墓所)】

 薩摩義士とは、当地方に度々水害をもたらした、木曽・揖斐・長良三大河川の治水工事による薩摩藩八十五名の犠牲者を言います。この工事は、宝暦三年江戸幕府より薩摩藩に命じられ、工事奉行平田靭負(ゆきえ)他藩士約950名と予算30万両で始められ約1年半の工期で完成したが、この間八十五名の犠牲者と、270万両の費用を費やしました。これにより長年荒れ狂った大河川も制御されたのです。

 当寺には、工事終了後大幅な予算超過と多数の藩士を失った責任を負い切腹した奉行平田靭負の墓碑を中心に二十四義士の墓があります。

 義士によって築かれた油島(岐阜県海津町)の堤防には数千本の松が植えられ、現在も千本松原と呼ばれて偉大な功績跡を残しています。


【九華公園(桑名城跡)】 9:50〜10:15

 長良川と揖斐川が合流する地点にあり、桑名城跡の本丸・二の丸一帯を整備して公園としたもの。

 写真は、二の丸跡と本丸跡をつなぐ西の丸堀に架かる橋で、橋の真ん中に東屋があります。

【九華公園】

 昭和3年(1928)、楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年祭を記念して、当時の桑名町が桑名城跡の本丸・二之丸一帯を公園として整備しました。

 城にはよく地形や形から別の名前が付くことがありますが、桑名城はその形から「扇城」と呼ばれました。桑名城跡には九華(きゅうか)公園という名前が付いていますが、「九華」は「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていました。これは中国に九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけて付けられたということです。

 現在の九華公園は8.65ヘクタールあり、桜・つつじ・花菖蒲などの名所として、市民の憩いの場所となっています。

 公園内には、櫓跡が二箇所あります。

【辰巳櫓跡】

 桑名城の東南角にあり、三重櫓であった。

 元禄十四年(1701)天守閣が焼失し、再建されなかったので、以後はこの辰巳櫓が桑名城のシンボル的存在であった。このため、明治維新の時、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。

 現在大砲が置かれているが、由来等は不詳。

     平成13年 桑名市教育委員会

【神戸櫓(かんべやぐら)

 戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったが、織田信長の伊勢侵略の時伊藤氏は降伏し、その後城主は度々変わった。

 文禄の頃(1592〜1596)一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、その時、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれている。

 江戸時代、初代藩主本田忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓として残され「神戸櫓」とよばれた。

     平成13年 桑名市教育委員会

 九華公園の北側は「吉之丸コミュニティパーク」、「三之丸」公園、「七里の渡し跡」と続きます。

 「三之丸」公園の突先には、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)を復元した、水門統合管理所があります(下の写真)

【水門統合管理所の概要】

 管理所周辺は、城壁や名所旧跡跡・レクリエーション施設等が整備された公園として、市民や観光客の憩いの場所となっています。

 揖斐川改修に伴う水門の改築にあたっては、周辺環境を考慮し、陸側及び川側からの眺めを阻害しないよう、堤防上部から突出した建造物をなくして景観に考慮した三つの水門、住吉水門・川口水門・三之丸水門が計画されました。これら三つの水門は高潮警戒時に操作する防潮水門で、安全性・効率性・迅速性を考慮し集中操作できるように統合管理所を設定しました。

 管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計にあたってこの櫓の外観復元を目指すこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史的資料は限られていましたが、絵図等に描かれた櫓の姿や同時代の類例を参考に、往時の姿をなるべく近づけるよう推定復元しました。4間×6間と比較的規模の大きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守が焼失して以降、桑名城と河口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。

【蟠龍櫓について】

 桑名城には、元禄大火災後に再建された時点でも51の櫓があったと記録されています。このなかでも、川口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と詠われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

 蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644〜48)作成の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表れるのは、享和2年(1802)刊の「久波奈名所絵図」で七里の渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。

 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられます。

 文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物「臥龍の瓦は当御城門乾櫓上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつる。ゆへに、海魚住ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。


 この地点から、再び旧東海道の旅を開始。

【七里の渡し跡】 史跡 10:20

 九華公園の北、三之丸堀を挟んで三の丸公園の隣にあります。

 現在は、昭和34年の伊勢湾台風後の高潮対策工事で、街道と舟着場跡との間に防波堤が設けられてしまい、海につながっていません。

 下の写真は、伊勢神宮一の鳥居と鍛冶町常夜灯(後述)。

【史跡 七里の渡し】

 この七里の渡しは室町時代から栄え、慶長六年東海道五十三次の制度が定まると、宮(熱田)からの海上七里が本往還とされ、またのちに脇往還として宮から佐屋を経てくる道筋も認められた。鳥居は伊勢神宮一の鳥居で天明以来建てられている。<昭和33年 県史跡指定>

【七里の渡し跡】

 江戸時代の東海道は桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)との間は、海路七里(約28Km)の舟渡しであった。

 桑名宿の舟着場は伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781〜1789)に建てられた。

 舟着場付近は桑名宿の中心であり舟着場の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が並んでいた。舟着場の南側には舟会所、人馬問屋や丹波本陣があった。

 昭和三十三年(1958)には七里の渡し跡付近は県指定史跡となった。昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風後の高潮対策工事で、街道と舟着場跡との間に防波堤が設けられた。


【桑名宿】 江戸から96里(377Km)、京へ29里半2丁 人口約 8850人 

安藤広重の東海道五拾三次之内・桑名『七里渡口』 

 揖斐川河口に近づくと桑名城が入ってくる舟を見下ろしており、渡し舟は川の入口で帆を下して渡し口まで艪を漕いで進んだ。

現在の船寄せ場、後の石垣は桑名城城壁の一部

 木曽三河川の河口に位置する湊町として江戸時代以前から栄えていた。

 慶長六年(1601)本多忠勝が大規模な築城と城下や七里の渡しの整備を行った。

 渡船場であるため、天候待ちによる旅籠屋が必要で、東海道では宮宿に次いで二番目に多かった。しかし、現在は護岸工事が進んで、昔の面影はない。

【桑名宿】 下記【歴史を語る公園】内に掲げられていた案内板より

 江戸時代の東海道は、慶長六年(1601)正月に定められ、桑名宿も設けられた。江戸から約九十六里(約384Km)、京都から約三十里(約120Km)であった。宮宿(熱田)から海上七里(約28Km)、四日市宿までは陸上三里八丁(約13Km)。七里の渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町までが桑名宿であり、さらに大福、安永を通り町屋橋を渡って、東海道が続いていた。

 天保十四年(1843)調べでは、宿内人口は8,848人であり、本陣2軒、脇本陣4軒旅籠屋120軒があった。

     桑名市

 桑名に来たら、「その手は桑名の焼蛤」と言われており、弥次さん・喜多さんもほおばったという名物の焼き蛤が簡単に食べられると思っていたが、そのような屋台も食堂も見付けることはできなかった。今までその土地の名物を味わってきたが、焼き蛤だけは高級料亭でしか味わえないなんて心残りである。佃煮屋は街道筋に沢山あり、しかたがないのでお土産を買ったが、焼き蛤を食べてみたかった。


 七里の渡し跡からは、写真のような東海道の道標が随所に矢印付きで整備されているので、間違えずにたどれます。

 渡し跡から西へ100mほど行った所に「船津屋」という完全予約制の高級料亭があるが、ここは泉鏡花の「歌行燈」にも登場した、かつての本陣跡にあたります。

 東海道に戻ると、案内のみですが「舟会所」、「問屋場跡」、「通り井跡」等が立っています。


【春日神社】 (右側) 10:27

 街道沿いに「青銅の鳥居」と「しるべいし」(下の写真の鳥居左側)が建っています。

 ここは「桑名総社」で、「桑名神社(旧三崎大明神)」と「中臣神社(旧春日大明神)」の両神社があります。朱印を頂く。

【春日神社青銅鳥居】 県重要文化財(昭和40年指定)

 慶長七年(1602)初代桑名藩主本多忠勝によって寄進された鳥居(木造)が大風によって倒壊したため、寛文七年(1667)に桑名藩主松平定重によって、慶長金250両を費やして再建されたのがこの鳥居です。

【しるべいし】

 「しるべいし」は「迷い児石」とも言われ、人の大勢集まるところに建てられました。

 東京浅草観音のしるべいしは有名です。

 自分の子供が迷子になると、左側面の「たずぬるかた」に子供の特徴や服装などを書いて貼ります。この子供に心当たりがある人は右側面の「おしへるかた」へ子供の居た場所などを書いて貼ります。

     桑名市教育委員会


【歴史を語る公園・桑名城城壁】 (左側) 10:38

 やがて道は三之丸堀に接し、護岸に日本橋から三条大橋に至る東海道をモチーフにして造られた公園があります。そこにあった東海道五十三次の宿場絵地図を見るとここまで四十二宿、京都まであと十一宿、やっとゴールが見え始めてきたかな。

 この公園の左側は七里の渡し跡から続く堀で、対岸には桑名城城壁が残っています。

【歴史を語る公園】(左の写真)

 桑名は、東海道四十二番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、また、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町でもあった。その上、桑名は、熱田宮宿に次いで、東海道中第二位の宿数を誇り、一の鳥居を擁す伊勢路の玄関口として、賑わいを見せていた。

 このような史跡に着目し、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られたのがこの公園である。

【桑名城城壁】(上記【桑名宿】の現在の写真参照)

 正面の堀川東岸(三之丸地内)の城壁は、桑名城城壁の一部で、川口町揖斐川に面する川口樋門から南大手門に至る延長500mが現存し、市の文化財に指定されている。

 積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎの二方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多くみかけられる。片町に面したところには出隅、入隅があった。

 各所に堀川に向って狭い通路が設けられているのは、明治以降、廃城になってから便宜上付けられたものであろう。戦前までは南大手町から京橋裏、それに三之丸立教小学校横まで堀川は続いていたが、終戦勅直後またたく間に埋め立てられた。

 この城壁には老松が並木を作り、枝は堀へ垂れ、川水は満々と美しく、行き交う荷舟で賑わった。


【道標】 (左側) 10:47

 「歴史を語る公園」が終わった突き当りを右折、「城下町指筋」信号を直進したらすぐ左折します。

 その「城下町指筋」信号で左の道を見るとすぐ、写真の道標が立っているのが見つかります。

 「右京いせ道」「左江戸道」

 江戸時代旧東海道筋(場所不詳)に建てられていたものを移設しました。

     桑名市博物館


【吉津屋見附跡】 (右側) 10:54

 鍛冶町に入って、左の写真の場所に吉津屋見附跡がありますので、ここで右折しすぐ左折、次もすぐ左折します。

 写真で左ブロックの三辺を左回りして行くことになります。二回目の曲がりで佃煮屋があり、蛤が安かったので、思わずもう一度買ってしましました。海蔵寺近くの佃煮屋でも買ったのだが、そこは美味しかったがかなり高かったので、あせって買うことはなかったと思いました。

 慶長六年、江戸と京都との間に東海道の制度が設置された後に、桑名城下を通る東海道の見附として吉津屋門が建てられ、門の南側に桑名藩の役人が詰めている番所が建てられました。この付近は江戸時代以前は七っ屋と称されていましたが、江戸時代初期には吉津屋町に属することになりました。しかし、鍛冶を業とする人が多く住むようになったため、吉津屋町から分離して鍛冶町と称するようになりました。そのため吉津屋門は、別名を七っ屋門とも鍛冶町門とも呼ばれます。東海道はこの門をめぐり、四角形の三辺をまわり、いわゆる升形道路となっていました。諸大名の行列は、この門の前後から本行列に整えて、桑名城下を通りました。

     桑名市教育委員会


【鍛冶町常夜燈跡】 (右側) 10:59

 上記ブロックを三回曲がった右側にあります。

 鍛冶町の七ッ屋橋の近く、東海道北側にあり、天保4年(1833)に、江戸、名古屋、桑名の人たち241名が寄進して建立された多度神社常夜燈である。しかし、戦後に道路拡張のため、七里の渡し跡に移転されて、一部補修されて現存している。なお七ッ屋橋は外郭堀にかかっていたが、現在は掘りも橋もない。


【泡洲崎八幡社】 (右側) 11:04

 常夜灯から3本目の道を左折すると、社寺が連なっている道に入ります。

【泡洲崎八幡神社の由来】

 江戸時代以前、桑野の町中は、町屋川の流れにより自凝(おのころ)洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、この付近一帯を泡洲崎と称し當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。慶長年中(1596〜1614)町割の時、旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守を神主として奉仕されていた。

 明治四十一年に合祀令が下り桑名総社に合祀されていたが、昭和二十五年十月十日、新町の産土神として現在地に分祀遷御された。

 境内に天保十三年(1842)新町北端に建立された導石(しるべいし)「右きゃういせみち」「左ふなばみち」がある。


【光徳時】 (右側) 11:05

 古くは泡洲崎念仏道場と称した。明治7年(1874)進善学校(日進小学校の前身)が当寺で開かれた。県指定史跡の沼波弄山墓がある。沼波弄山(1718〜77)は桑名船馬町の商人で、万古焼の創始者である。また、大阪の市岡新田を開発した市岡宗栄(1644〜1714)や、万古焼継承者加賀月華(1888〜1937)の墓がある。


【十念寺】 (右側) 11:07

 古くは朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあったが、室町時代に桑名に移り、慶長町割の際に現在地に移る。県指定文化財として祭礼図屏風(江戸時代初期の作と思われる)市指定文化財として当麻曼茶羅図、仏涅槃図、森陳明之墓がある。森陳明(1826〜69)は明治維新の際に、桑名藩が敗北した責任をとり、藩を代表して切腹した。


【寿量寺】 (右側) 11:08

 元は今一色付近にあったが、慶長町割の際に現在地に移る。市指定文化財として狩野光信墓、銅磬、日蓮聖人御本尊がある。狩野光信は江戸城の障壁画を描いて、京都へ帰る途中、慶長13年(1608)6月桑名で没した。参道入口すぐ南側の小さな五輪塔が狩野光信の墓である。境内には明治2年(1869)銘の仏足石がある。


【広瀬鋳物工場跡】 (右側) 11:15

 日進小学校前の広い道に出たら、次の信号を右折します。

 右折するとすぐ、立派な塀の豪邸があり、鋳物工場跡の案内板がありました。

 江戸時代の初め、城の建設のため、桑名城主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いて、ここに工場を与えた。そのためこの付近を鍋屋町と称するようになった。この工場では梵鐘や日用品も造り、鋳物製品は桑野の特産品となった。東海道に面しており、文政9年(1826)にはシーボルトも見学している。現在は個人の住宅となっている。


【天武天皇社】 (右側) 11:17

 天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。

【天武天皇社由緒】

 御祭神  天武天皇・持統天皇・高市皇子

 当社ハ壬申ノ乱ニ天武天皇皇后ト共ニ吉野ヨリ潜幸 桑名郡家ニ御宿泊アリシ深キ由緒ニヨリ創立セラル

 明治天皇御東幸ノ際当社ノコトヲ聞召サレ特別ノ思召ヲ以テ明治二年六月十四日左ノ如キ御沙汰アリ

 伊勢国桑名郡本願寺村地内鎮座天武天皇社ハ御旧跡ノ義ニツキ永世湮滅無之様ナサレタキ思召ニ付同所取締中其藩ニ於テ取計ルベキ旨御沙汰候事

      行政官


【本願寺】 (左側) 11:21

 当寺の由来は不詳ですが、江戸時代は本願寺村があり、古くからの古刹であったと思われます。境内に松尾芭蕉の門人である各務支考(俳号東華坊など)の分骨供養塔である「梅花佛鏡塔」があります。

 支考は蕉門十哲の一人で美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていましたが、支考が享保十六年(1731)美濃国で亡くなると、桑名の美濃派俳諧の指導的立場にあった雲裡坊杉夫は支考の墓に参詣しやすいよう分骨を受けこの地に鏡塔を建立しました。

 他に松尾芭蕉の「今日斗り人も年より初時雨」や雲裡坊から続く桑名の俳句結社「間遠社」の歴代社長句碑十基があります。

 左の写真は、梅花佛鑑塔です。境内に入って左側にあります。建物の影に隠れていますから注意して下さい。

【梅花佛鏡塔】 桑名市教育委員会指定史跡

 梅花佛鏡塔は俳人の各務支考の分骨墓であり、本願寺境内にある。享保16年(1731)に支考は美濃北野で亡くなったが不便な土地であるため、支考の門人であった雲裡坊杉夫(当時本願寺に住んでいた)が分骨を貰い受けて、東海道筋の本願寺に分骨墓を建てた。各務(かがみ)の名にちなんで、墓は丸い鏡(かがみ)の形をしている。


【矢田立場・福江町】 (右側) 11:35

 途中、右側に釣鐘が置いてある中川梵鐘店の前を通り、国道1号線を越えた突き当たりに立場跡があります。

 江戸時代の矢田町は、東海道の立場(宿場と宿場の中間にあった、旅人が休息する茶店などが集まっている所)であった。「久波奈名所図会」には、「比立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とある。福江町八曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成三年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。

 福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、宿屋の人たちが集まっている宿引き小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内した。

     桑名市・桑名市教育委員会

 街道は、ここを左折して、しばらく国道に平行して員弁川まで行きます。


【江場松原跡】 (右側) 11:47

 案内板のみがあり、松原は残っていません。

 七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が建ち並び、一本の松も残っていない。


【安永ふじの里】 (左側 ) 12:00

 大きな藤棚があり、食事処の雰囲気があったが、今は店らしい建物がないため、昼食はおあずけとなる。

 ここ安永の里玉喜亭のふじは樹齢約二百十数年を経ており、春は近在の人々の花見で賑わい、根の張ったふじの幹は地震の時、住民の集結場所であったと伝えられる。この地は東海道の往還にあるので、人馬の休息所とされていた。当時使用された「御馬口御洗水」の高札が向かいの母屋に残されている(江戸時代の東海道筋の地面は現在より低い位置にあり、この母屋を見れば推測できる)母屋は文政元年(1818)戌寅年の建物で、玉田屋喜輔による墨跡も保存されており、昭和十八年頃まで使用され「名物安永餅」を作った「かまど」と「看板」が今も唯一現存する。

    旅人を茶屋の暖簾に招かせて

    のぼりくだりをまち屋川かな

 桑名七里の渡しより、ここ安永の里へ至る旅人の憩いの場所として十返舎一九の著本「東海道中膝栗毛」にもこの街道が紹介されており、往時の面影が忍ばれる。

     平成三年四月吉日 安永ふじの里 玉喜亭亭主敬白


【安永の常夜灯】 (右側) 12:03

 員弁川(町屋川)に突き当たるすぐ手前に大きな常夜燈が建っています(左の写真)

 常夜灯前に「東海道入口」と書かれた木橋の絵と東海道の道標が建っており、その道標の矢印が直進になっていますが、現在この先には橋がない(昭和8年に廃止)ため、真直ぐ対岸に渡れません。

 左側にある国道1号線の町屋橋を迂回して反対側正面の道に行くことになります。

 この安永常夜灯前の道路は旧東海道筋にあたり七里の渡しから約一里弱、戦災まで堤から町屋橋(木橋)が架かり川向う縄生には「一里塚」があった。このところは町屋川の清流に臨み上流からの舟運や筏と旅人の小憩する茶店などで賑わったという。常夜灯は昔の灯標であり、伊勢神宮への祈願を兼ねたもので寄進人は材木商の連名になっている。


【町屋橋跡】 

 江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集まっているところ)であり、また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑わい茶店では街道名物の安永餅を売っていた。

 この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた、寛永十二年(1635)にはじめて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本の板橋であったりしばしば変わっている。下図(現地で確認して下さい)の橋は江戸時代中期のもので、中央は馬が退避できるように橋がやや広くなっていた。

 昭和八年(1933)、国道1号線の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。


【一里塚跡】 (左側)

 町屋川を渡った先の朝日町を数分行くと、左側に一里塚跡の石柱のみ建っています。


【朝日町】 (古萬古発祥の地) 12:26

 朝日町に入り「三重歴史街道」の標識が出てきます。途中一里塚跡の標柱を見て、近畿鉄道の「伊勢朝日」駅へ到着。

 お腹が空いたので駅前の食堂を探したが、一軒あった店は残念ながら閉まっていた。今日はここまでにして帰ろうかと時刻表を見たりしてしばらくうろうろしましたが、電車もすぐ来ないため観念してもう少し歩を進めることにしました。

 踏み切りを渡った右側に朝日町の史跡案内板が建っていました。

 三重県でも北部に位置する朝日町は、北は町屋川(員弁川)を挟んで桑名市へ、南は朝明川を隔てて四日市市へ、東は川越町を経て伊勢湾に達します。西には標高50m前後の朝日丘陵があり、その東麓には旧東海道がほぼ南北にはしり、それを境に丘陵地帯と田園地帯に分かれる5.99Kmの小さな町です。

 朝日町には弥生時代以降の遺跡が西部丘陵を中心に点在しています。なかでも、昭和61年の発掘調査によってその塔跡が明らかになった縄生廃寺跡は、白鳳時代創建と考えられる寺院跡で、全国的に注目を集めました。塔心礎から一括出土した舎利容器は、平成元年に国重要文化財に指定されました。

 この町は、日本書紀に「朝明駅」(縄生付近と考えられている)と記述され、壬申の乱(672年)の時には、大海人皇子らが美濃国へたどった道筋にあたります。

 また、江戸時代には東海道筋として栄えたところでもあります。

 この町からは、著名な国語学者橘守部、萬古焼を再興した森有節、日本画家栗田真秀・水谷立仙らが生まれました。

     三重県三重郡朝日町 昭和29年10月17日町制施行


【旧東海道の道標と榎】 (左側) 12:37

 公園入口に道標、及び当時の朝日町の解説と焼き蛤売りの絵があり、ますます焼き蛤が食べたくなってしまった。お腹が空いて、念願が叶えられないことを思うと殺生な絵と解説である。

 『打興じてなを村おぶけ村にたどりつく。此あたりも蛤の名物、旅人をみかけて、火鉢の灰を仰立て仰立て女「おはいりなさいませ。諸白もおめしもございまアす。おしたくなさりまアせ」・・・』とは十返舎一九の東海道中膝栗毛の一節です。

 ここ朝日は東海道に沿ってできた町です。昔は多くの旅人がひっきりなしに往来していました。「膝栗毛」に登場する弥次さん、喜多さんもそのひとりでした。

 道筋には、わらぶき茅ぶきの農家がならび、村はずれには見事な松の並木が見られました。桑名の宿から一里の地点に位置する縄生村には一里塚もありました。

 また、小向村には桑名や富田とならんで焼き蛤を名物として商う茶屋がありました。火鉢に松かさを燃やして蛤を焼き、店先では大声で客を呼び込んでいました。旅籠も数軒あり男達は、「往還かせぎ」といって、駕籠かきや馬方などをしていました。

 今は、どこにでもある町並みですが、往時は、たいへんにぎやかな街道風景がありました。ちょっと立ち止まって、昔をしのんでみませんか。

 

 公園隣りの街道筋には、榎の古木が1本ありました。

【榎】 推定樹齢約300余

 この木は東海道の並木として植えられていたものです。並木には、松の木がおなじみです。この朝日町地内も同様でした。ところが、こうした雑木に類するものも混ざっていました。

 松は、太平洋戦争末期、松根油をとるために痛めつけられたり、その後の松くい虫の被害などによって、あとかたもなくなってしましました。

 もしこの木が話せたならば、私たちに、この街道や村で起こったことをたくさん語ってくれるでしょう。


【橘守部誕生地遺跡】 三重県指定史跡 (左側) 12:45

 橘守部(1781〜1849)は、江戸時代後期に活躍した国学者です。守部は、伊勢国朝日郡小向村(現朝日町小向)の大庄屋格であった飯田長十郎元親の長男として生まれ、十七歳で江戸へ下り学問を志しました。

 二十九歳の時、武蔵国葛飾郡内国府間村(現埼玉県幸手市)へ転属し、四十九歳で再び江戸へ戻り、地庵と号しています。当時、国学者の多くが本居宣長の門下生であった中で、ほとんど独学で国学を学び、独自の学説を展開した守部は異色の存在であり、平田篤胤、香川景樹、伴信友とともに天保の国学四大家に数えられています。『梭威道別(いつのちわき)』『梭威言別(いつのことわき)』など多数の著書があり、嘉永二年(1849)六十九歳で没しました。お墓は、東京都台東区向島の長命寺にあります。


【浄泉坊】 (右側) 12:47

 

 徳川家ゆかりの寺で、門前に三ツ葉葵の紋が入っている鬼瓦(旧本堂の瓦)が飾られていました(左の写真参照)。また、山門と屋根の天辺にも、三ツ葉葵の紋が入っていました。

 浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。慶長八年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正冶寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまる。嘉永十五年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。

 徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。

 


【西光寺】 (右側) 12:54

 松並木の面影を留める緑が多い寺です。トイレを借りる。

 真宗大谷派。朝明山と号す。当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に、「明應五年丙辰年六月二日 願主釋念正 本願寺釋実如(第九世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享二年(1685)大谷派に転じ現在に至る。

  本尊阿弥陀如来立像 寛永十五年(1638)下附

  絹本宗祖聖人御影 寛永十七年(1640)下附

  半鐘 桑名、広瀬九朗兵衛道次作 安永六年(1777)

 現在の建物は、明治十年〜二十三年にかけて建立され、街道に面する松も風雪に耐え、松並木の面影をとどめている。


【常夜灯】 (右側) 13:25

 途中、JR朝日駅に寄ったが無人駅で、またも食堂なし。上りの電車は行ったばかりなのでホームのベンチで休憩。次の駅で今度こそ食事にありつけるかと思い再び出発。

 その先の三叉路を左方向へ行きます。

 朝日川(あさけがわ)手前の堤の右手に大きな常夜燈が建っています。


【伊勢の国 松寺の立場跡】 (左側) 13:35

 朝日橋を渡って、松寺町へ入りしばらくすると立場跡の石碑が建っています。

 この辺りが旧東海道の松寺の立場跡です。昔はこの街道を往来する旅人が籠や背に負った荷を降ろし一休みした所です。

 今は昔の面影はありません。先年まで大きな榎がありました。近くに幕末嘉永年間の庄屋として活躍した佐藤庄九郎が娘輝子の頌徳碑があります。

     平成十六年三月 大矢知歴史研究会

 その先、JR関西本線と三岐鉄道が交差している踏切を渡って、次の十字路を左折します。


【富田の一里塚跡】 県指定史跡(昭和12年11月) (右側) 14:00

 近鉄名古屋線のガードをくぐると右手に一里塚跡の石碑が建っています。

 昔、街道の両側に一里ごとに土を盛り上げ、えのき等の樹木を植えて旅人の目印にしたものが一里塚である。すでに戦国末期に存在していたが、江戸の初めごろから江戸日本橋を起点として五街道を中心に設けられていた。

 しかし明治以降は、交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市においても、その面影をみることができなくなった。古地図や文献によると四日市には、富田・三ツ谷・日永・采女の四ヶ所にその跡が判明されており、これはそのうちの一つで日永の一里塚とともに県の史跡に指定されている。


【八幡神社】 (左側) 14:03

 一里塚跡の反対側にあります。

 「富田六郷氏神記」に「八幡大菩薩は弘安二年(1279)二月十五日、富田地頭佐原豊前守政盛によって、東富田に勧請される」と記されている。これが、富田西町の八幡神社の起こりである。更に「氏神記」には「社地東西十六間二尺、南北八間、面積百四十五坪、本村の元標より北の方、字茶屋町に鎮座す」とあり、かつてはこのあたりの地を八幡と呼んだと伝えられている。

 明治四十二年(1909)鳥出神社に合祀され、社殿址に「八幡神社址」の石碑が建立された。昭和四十年(1965)頃現在の社殿が再建され西町の産土神(うぶすながみ)として戻された。

 昔は、東海道五十三次富田立場の西端が八幡の森で、昼でも暗く鬱蒼と樹木が繁っていたと伝えられている。

 現在では当時をしのぶ面影はないが、社殿西に数百年を経た椋木(むくのき)の古木が名残をとどめている。また、境内には力石も残されている。

     冨田地区文化保存会

【八幡神社の力石】

 「力石」は、鎌倉の頃より、江戸、明治、大正と時代を超えて若者たちに愛され継承されてきた。

 「力石」は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力、そこに集まった人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったろうと思われる。

 「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を深めたのであろう。

 しかし、この「力石」も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に放置される存在となってしまった。

 昔日の人々のこの思を引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。

 重量 およそ百キログラム

 「力石」は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。

     冨田地区文化保存会



 34回目の旅終了(14:10)JR 東海「富田駅」  ◆本日総歩数:26,900歩

 結局ここまで食事ができるところが見つからなかったため、昼食を取ったのが名古屋駅で15:00でした。

 

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