鳴海宿(後半)・宮宿 (中京競馬場前駅→神宮前駅) <旧東海道33回目>

2004年5月22日(日)曇

 新幹線で名古屋へ行き、前回終了した名鉄名古屋本線の「中京競馬場前駅」まで戻って、続きを歩きました。10:45スタート。

    (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「鳴海宿(前半)」 ← 「目次」 → 「桑名宿」

 4月上旬に右足の指に重量物を落として、2ヶ月近くも歩くのが痛かったことからウォーキングを中断していたが、やっと再開できました。

 特に距離を稼げるゴールデンウィークに歩けなかったことが辛かった。

 いままで自家用車で目的地まで行っていたが、横浜から遠くなるにつれて帰りの運転がきつくなってきたので、本日より新幹線の利用になった。


【有松】 11:00〜12:30

 「桶狭間古戦場」入口から国道1号線を550m程行った「大将ケ根」交差点を右へ入 り、川を越えると有松の古い町並みになります。

 伝統的建造物が並ぶ美しい町並には感激します。

 初めに、町並の途中(服部家の先右側)にあった、「名古屋市有松町並保存地区」の案内板を載せます。

 有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に、間宿(あいのしゅく)として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田庄九朗により、絞り染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名が知られた。有松は絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)大火が起こり全村ほとんどが焼失した。村の復興に当り、建物は従来の茅葺を瓦葺にし、壁は塗籠造り(ぬりごめづくり)、2階の窓は虫籠窓(むしこまど)に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。商家の建物は、中2階建切妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔は絞の店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。

     平成7年3月31日 名古屋市教育委員会

【有松山車会館】 (右側)

 本日は、たまたま臨時休館日だったため、残念ながら館内に入ることができなかったが、表の大扉が開いていたので山車は見られました。但し、山車は後ろ向きだったので後姿の人形が一体見えただけでした。

【布袋車山車】 市指定有形民俗文化財

 奥に鎮座する大将人形が、七福神の一人・布袋であるところから「布袋車」と呼ばれている。明治二十四年(1891)に玉屋町(現在の中区錦)から有松に譲られた。延宝三年(1675)から若宮祭へ参加している記録は残っているが、いつ製作されたかは明らかではない。

 この山車には、布袋、文字書き唐子、蓮台を廻す唐子とざい振童子の四体のからくり人形が乗っている。大幕四枚(鳳凰、亀、龍、麒麟)の下絵は、山本梅逸であり、猩々緋(しょうじょうひ)に金糸で刺繍されているのは、市指定文化財の山車では唯一である。

 毎年10月第一日曜日の「有松祭」に曳きだされる。

     名古屋市教育委員会


<昼食> 寿限無茶屋】 (右側)

 山車会館の隣りにある、寿限無茶屋」で手打ちうどんの昼食 をとりました。雑誌で紹介された「梅おろし」(¥800-)を頼みましたが、大皿に盛られ、さっぱりとした夏向きの美味しいうどんです。

 ひさしぶりに★★★★。 営業時間11:00〜21:00、定休毎週木曜日。

 当店の建物は、明治中期の物といわれ、築100年以上経過している物です。

 名古屋市の伝統的建築物家屋にも指定されています。

 店の中程にある大黒柱をごらん頂くと、明治後期の濃尾地震、昭和初期の三河地震、二度の大震災のためか、ねじれているのが良く分かります。

 


【有松鳴海絞会館】 (左側)

 一階は数々の絞り製品の販売、二階は歴史的・工芸的に価値のある製品の展示や有松絞りの実演が行われています。

【服部家住宅】 県指定有形文化財(昭和39年) (右側)

 絞会館の向かいで、めずらしい三層の土蔵があり、主屋の両側は立派な卯建(うだつ)で守られていました。

 左下の写真は服部家の倉。右下の写真は卯建。これに続く店の写真は、後述【鳴海宿】の現代の写真「井桁屋」参照。

 店舗並居住部 一棟、

 井戸屋形 一棟、 客室部 一棟、

 土蔵・絞倉・藍倉 六棟

 門並門長屋 二棟

 当住宅は東海道に面する町屋建築の遺稿であり、有松における絞問屋として代表的な建物である。主屋は塗籠造りで卯建を設け、倉は土蔵造りで腰に海鼠壁を用い防火対策を行っている。

 服部家は屋号を井桁屋と言う。

     名古屋市教育委員会 

 

【竹田家住宅】 市指定有形文化財(平成7年) (左側)

 主屋 一棟、 書院棟 一棟、

 茶席 一棟、 宝蔵 一棟、

 一・二番蔵 一棟、 縄蔵 一棟、

 付随棟(西門・長屋門・味噌蔵) 三棟

 当住宅は江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられる。建物は、絞問屋の伝統的形態を踏襲している。とくに主屋は塗籠造、書院、茶席とも建築的に大変優れている。

 竹田家は、屋号を笹加と言う。

     名古屋市教育委員会

 

【岡家住宅】 市指定有形文化財(昭和62年) (左側)

 主屋 一棟、 作業場 一棟、

 東倉 一棟、 西倉 一棟

 当住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態である。

 主屋は旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物である。また勝手の釜場の壁は防火上塗籠であり、このような形式では現存する唯一の例で、意匠的にも優れている。

     名古屋市教育委員会

 

【小塚家住宅】 市指定有形文化財(平成4年) (左側) 

 主屋 一棟、 表倉 一棟、 南倉 一棟

 当住宅は、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめている。主屋の一階は格子窓、二階は塗籠壁、隣家との境に卯建があり、塗籠造のうち最も古いものの一つと思われ、有松らしい家並みの景観上からも貴重な建物である。

 小塚家は屋号を山形屋として明治まで絞問屋を営んでいた。

     名古屋市教育委員会

 

【絞りの店「久田」】 (左奥)

 祇園寺の前を左に150m奥に入った店だが庭が美しいです。

【東海道二代目の松】 (右側)

 有松の町並が終わる祇園寺の傍に元気で若い松が植栽されていました

 この松は東海道が開かれた当時からこの場所にあった樹齢三百年のなごりの大木から採取し育てたものです。

【祇園寺】 (右側) 12:30

 有松の町並みもこのお寺で終りです。

 その先、線路を渡ると道路に東海道のハメ絵が現れます。途中のスーパーでデザートを購入。


【平部町常夜灯】 (左側) 12:55

 鳴海宿の東の入口です。

 東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。

 表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜灯」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。

 文化三年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除などを秋葉社(火防神)に祈願した。

 大きく華麗な常夜灯であり、道中でも有数のものといわれ、往時の面影をしのぶことができる。

     名古屋市教育委員会


【鳴海宿】 江戸から87里(341.7Km)、京へ38里21丁 人口約 3650人 

 有松同様、絞りで知られた宿場。現在でも多くの社寺が残っている。

安藤広重の東海道五拾三次之内・鳴海『名物有松絞 

店の前を通っている旅人は、全て女性である。絞りを求めにきたのであろう。 

現在の「井桁屋」(有松)

「有松鳴海絞会館」の少し先右側にある絞りの店です。 


【中島砦跡】 (左奥) 13:10

 中島橋を渡る手前の道を左折し、次の下中橋の手前をもう一度左折すると、すぐ左側の民家の裏庭(畑)の奥にあります。(伊藤商店の裏側になります)

 裏門は閉まっていますが、地主の好意により自由に開けて入ることが出来ます。

 永禄2年(1559)、織田信長が、今川義元の進攻に備えて築いた砦。

   (石碑は、昭和2年の建立) 


【瑞泉寺】 (右側) 13:17〜13:35 

 中島橋を渡った所にあり、山門がすばらしい寺です。

 山門の横にベンチがあったのでおやつにしました。

 応永十一年(1404)根古屋の城主安原宗範の創建で、大徹禅師を開山とする。始め宗範の法名瑞松居士をとって瑞松寺といった。文亀元年(1501)現在地に移る。

 正徳年中(1711〜16)寺号を瑞泉寺と改め、二十世呑舟は中興の祖とされ、鳴海の豪族下郷弥兵衛の援助により、宝暦五年(1755)堂宇を完成した。

 本寺の山門は、宝暦六年(1756)に建てられた三間一戸重層、四脚門、本瓦で宇治市の黄檗宗万福寺総門を模して造られている。

 昭和三十三年年県の有形文化財に指定された。

     名古屋市教育委員会


【誓願寺】 (右側) 13:40

 瑞泉寺を出て、突き当たったら右へクランク曲がりすると商店街になり、その先の本町交差点の右手にあります。

 この付近には、お寺が密集しており、「東海道鳴海宿十一寺巡り」の看板が立っていました。

【誓願寺】

 天正元年(1573)僧峻空の開山で西山浄土宗。本尊は阿弥陀如来で境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂がある。この供養塔は元禄7七年(1694)十月に芭蕉が亡くなった翌月の命日に建立された。芭蕉の供養塔としては最古のもので、昭和五十二年、名古屋市指定文化財となる。芭蕉堂は、安政年間に永井士前始めての門人が建立。芭蕉手植えの杉の古木で彫刻した芭蕉像が安置されている。

 

 芭蕉堂(左の写真)と、その堂に向かって左側に供養塔(右の写真)があります。

【供養塔】

 誓願寺の芭蕉堂南東側に建てられた高さ60cmほどの青色の自然石で、表面に「芭蕉翁」、背面に没年月日が刻まれている。芭蕉が没した翌月、当時の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられたもので、その後、翁の門下下里知足の菩提寺である当寺に移された。

 昭和五十二年市の史跡に指定。

     名古屋市教育委員会


【根古屋(鳴海)城跡】 (右奥) 13:55

 誓願寺山門前にある「史跡散策路」の案内に従って、庚申坂を少し登ると左へ入ったところにあり、公園になっています。

 応永年間(十四世紀末)に安原備中守源宗範が居城していた。

 永禄年間に、今川の将岡部五郎衛門元信がこの城を守り、桶狭間合戦の際勇名を轟かせたが、信長が勝利するとその家臣佐久間氏の居城となりその後天正末期に廃城した。

 旧東街道に戻ったところに「鳴海宿本陣跡」があるはずだが見逃してしまった。


【丹下町常夜灯】 (右側) 14:10

 作町のT字路を右へ曲がり、しばらく行くと常夜燈が建っています。鳴海宿の西の入口です。

 鳴海の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。

 表に「秋葉大権現」右に「寛政四年一一」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。

 寛政四年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。

 旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。

 平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。

     名古屋市教育委員会


【鉾ノ木貝塚】 (右側) 14:17

 常夜灯の先にあります。杭で囲われた草地で案内板のみ立っています。

 縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主としている。下部貝層や基底面からは、縄文のあるやや厚い土器や、薄手の細線文土器、上部貝層からは、前期中ごろの羽状縄文、爪形文を施した平部の深鉢型土器を主体として出土しており、上層土器の形式をとらえ「鉢ノ木式」と呼称されている。野村三郎氏により発見された。

     名古屋市教育委員会


【笠寺一里塚】 14:42

 山王町交差点(斜めに交差します)に出たら、東海道は左へ行きます。

 ここから右手の山に登ると「千句塚公園」ですが、登りがきつそうなのでパスしました。

 天白川に架かる天白橋を渡った先左側に、「東海道分間延絵図」がありました。

 そのすぐ先の二股に写真の「笠寺一里塚」があります。

 巨木が植っており、立派な一里塚です。

 一里塚は、慶長九年(1604)幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、道程一里(約4km)ごとに道の両側に塚を築き、榎などを植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、荷物その他の運賃計算の基準にもなった。此処は江戸から88里のところにあり、名古屋市内を通る旧東海道唯一の一里塚で、現在、東側だけが残っている。

 


【笠覆寺(笠寺)】 (右側) 14:50〜15:10

 一里塚を過ぎると前方右手に笠寺の多宝塔が見えてきます。

 境内に入ると展覧会のようにお堂が沢山あります。

 この山門の前は、玉照姫神社になります。

 天林山と号し、真言宗。

 俗に笠寺観音の名で知られ、尾張四観音の一つである。

 天平年中(729〜)禅光上人の開基で、十一面観世音を安置する。

 初め小松寺と称したが、延長年中(923〜)藤原兼平が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。のち再び荒廃したが、嘉禎四年(1238)僧阿願が朝廷に願い出て、宣陽門院庁より田畑の寄進を受け堂塔を建立した。当寺には重要文化財・県指定文化財が多数ある。

     名古屋市教育委員会

【笠寺観音と玉照姫の歴史】

・開基

 呼続(よびつぎ)の浜辺に流れ着いた霊木が、夜な夜な不思議な光を放ち、人々はそれを見て恐れをなした。

 近くに住んでいた僧・善光上人は夢のお告げを受け、その霊木を彫って十一面観世音菩薩の像を作った。

 上人は寺を建て、そこに観音様をおさめ、その寺を「天林山 小松寺」と名付けた。

 天平八年(736)の事である。

・玉照姫と観音様

 その後、約二百年の歳月が流れ、小松寺は荒廃、お堂は崩壊し、観音様は風雨にさらされるようになってしまった。

 ここに一人の美しい娘がいた。彼女は鳴海長者・太郎成高の家に仕えており、その器量を妬まれてか、雨の日も風の日も、ひどくこき使われる日々を送っていた。

 ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音様の姿を見た彼女は、気の毒に感じ、自分がかぶっていた笠をはずして、その観音様にかぶせたのであった。

 その縁か後日、関白・藤原基経公の息子、中将藤原兼平公が下向のおり、長者の家に泊った際にその娘をみそめ、自分の妻として迎えようと決心した。

 兼平公の妻となった娘は、それから「玉照姫」と呼ばれることとなった。

 この観音様の縁によって結ばれた玉照姫・兼平公ご夫妻は、延長八年(930)、この地に大いなる寺を建て、姫が笠をかぶせた観音様を安置した。このとき寺号も小松寺から「笠覆寺(りゅうふくじ)」に改めた。

 これが「笠寺観音」「笠寺」の名の由来である。

 以後、笠覆寺は縁結びや厄除けの寺として、多くの人々の信仰をあつめることとなる。


【富部神社】 (左側) 15:23〜15:30

 笠寺の西門を出ると商店街になり、名鉄の線路を渡ったら右折します。

 曲がった角に道標があり、正面に東海道と記されている左右に「是より北よびつき」、「是より東かさでら」と記されていました。

 ここから350m行った道を左折すると富部神社があります。角に道標が立っています。

 下記写真は、桃山様式の本殿(重文)

 当社は慶長八年(1603)津島神社の牛頭天王を勧請したもので、「戸部天王」とも「毒蛇神天王」とも呼ばれていた。牛頭天王は神道だけでなく、仏教、陰陽道でも奉られる神で、新道では病魔を自在に操る神として、仏教では病魔を操り四季を掌る神として、陰陽道では天体と方位を掌る神として、大切に奉られている。

 主祭神は素盞鳴尊(牛頭天王)で明治十一年(1873)になって田心姫命、瑞津姫命、市杵島命、菊理姫命の四神を合祀した。

 清洲城の城主松平忠吉(徳川家康の第四子)は当社の霊験あらたかなるを知り、病気平癒の祈願をしたところ、快方に向い日ならずして回復したといわれその恩に報いるため慶長十一年(1606)社領として百石を与え、本殿、祭文殿、回廊を建て、神宮寺として天福寺(真言宗智山派)を興した。(天福寺は明治政府の神仏分離令により廃寺この時、神社では牛頭天王を同一神とされる素盞鳴尊の名を借り存続される。)

 回廊は改築されているが、本殿と祭文殿は造立当時ものである。本殿は一間社流造、桧皮葺で、正面の蟇股、破風、懸魚、等桃山時代の建築様式をよく伝えており、昭和三十二年(1957)国の重要文化財に指定された。

 祭文殿は回脚門形式、回廊は切妻造左右四間の複廊で桧皮型銅板葺である。平成八年(1996)名古屋市文化財に指定される。

 境内の山車蔵には、享保十二年(1727)作といわれる高砂車山車が納められている。この山車は車体が大きく三階の上に更に高くいわゆる高砂車を象徴する大きな松の木を背景にして屋形を据え、その前に尉と姥の人形が置かれている。昭和四十八年(1953)名古屋市文化財に指定される。江戸時代、旧暦六月十二日の例祭日には金繍の幕を巡らし、氏子が挙って曳行したが近年老朽化が著しく、十月の例祭日には蔵の中で組立られ、祭の象徴となっている。


【宿駅制度制定四百年記念碑】 (左側) 15:35

 「富部神社」隣にある清水稲荷神社入口の赤鳥居のそばに平成13年建立の石碑があります。

 今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、わが国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明媚な景勝の地として有名であった。

 現在は繁華な町となるも、長楽寺・富部神社・桜神明社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに思いをはせるものである。


【熊野三社】 (右側) 15:50

 広い道を渡ると、やがて両側に鎌倉街道の道標が見つかります。東海道に対し斜めに鎌倉街道の細道が交差している形になり、ここを左に入ると白毫寺です。私達は行きませんでしたが、万葉集の遺跡「年魚市潟(あゆちがた)景勝」碑があるとのこと。もちろん現在はここから海を見ることはできません。

 ファミリーマートの先、右側に熊野三社があり、その入口にもう一つの「宿駅制度制定四百年」記念碑があります。

 古来、呼続一帯は四方を川と海に囲まれた、巨松の生い茂る陸の浮島として、「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここは東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名の起源になったと言われている。

 芭蕉は「寝覚めの里よびつぎ」と書き記し、この地に足跡を残している。また、山崎の長坂(今より急であった)に接する山崎の立場は、宮の宿への往還の地として賑わい、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついたことから「よびつぎ」の名があるとも言われている。


【山崎橋】 16:00

 左側に「山崎の長坂」の道標があり、この坂を下ると「山崎橋」になります。渡る手前右側に古い道標があり、渡ったらすぐ左折します。

 この道標を撮影しているとき、後から来たグループ(私達よりやや高齢者で、下の写真に写っている人達)に追い越されたが、その元気なこと。相当歩きなれていると見受けられ、ハアハア言いながら歩いているのにもかかわらず、たちまち離れて行ってしまいました。私も足は遅くないと思っていたが、今回は負けました。しかし、私達は沢山の写真を撮ったり、キョロキョロしたりしてかなりの道草をしているので、一日の距離が稼げない旅となっています。熱田神宮で再び遇ったとき、少し話をしましたが、私と同じ横浜から来たグループで、今日は安城から歩いて来たとのこと。


【伝馬町一里塚跡】 (右側) 16:25〜16:33

 「松田橋」の交差点で歩道橋を渡ると、左から来た国道1号線と合流します。

 渡ったところで、東海道は2回も歩いたという元気なお年寄りと少し話をする。宮まであと30分とのこと。

 東海道線の踏み切りを渡ったら三つに分岐した道の真ん中を行きます。名鉄のガードをくぐるとすぐ右側に、左下の写真のように緑地帯があり、この辺りに伝馬町の一里塚があったという。

 

 またこの緑地帯の傍には宮地区の案内板があった。

【宮地区の歴史】

 熱田社の門前町である宮地区は、佐屋・美濃・木曽の諸街道への重要な分岐点になっていたことから、経済情報・文化の中心都市的役割を担い、東海道五十三次の41番目の宿場町「宮宿」として古くから栄えたところでした。また、東海道五十三次のうち唯一の海上路で桑名までの距離が七里だったため「七里の渡し」と呼ばれ熱田社の門前町であることから「宮の渡し」とも呼ばれていました。江戸時代には参勤交代で通行する諸大名の宿泊施設が建ち並び、お伊勢参りの流行によって、さらに人の往来が活発になり東海道一のにぎわいを見せていました。

 軽く休憩して先のグループを追い越す。


【裁断橋址・姥堂・都都逸発祥之地】 (左側) 16:34

 これ等はまとまって、一里塚跡のすぐ先、左側にあります。

【裁断橋址】

 宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて現在の姥堂の東側にあった。

 天正十八年(1590)に十八歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架け替えを行った。三十三回忌にあたり、再び架け替えを志したがそれも果たせず亡くなり、養子が母の意思をついで元和八年(1622)に完成させた。この橋を有名にしているのは、その擬宝珠に彫られている銘文である。仮名書きの銘文は、母が子を思う名文として、この橋を渡る旅人に多くの感銘を与えた。

 現在は裁断橋も更に縮小されたが、擬宝珠は市の指定文化財で市博物館に保存されている。

     名古屋市教育委員会

 写真は、裁断橋の擬宝珠。

【姥堂】

 延文三年(1358)九月法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮にあったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所絵図会にも登載されている。

 昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。

 尊容から奪衣姿と見る説もあるが、両手に童顔の御像を棒持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮蔶媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。


【道標(熱田伝馬町西端)】 (左側) 16:47

 やがて道は突き当たり、その左角に「道標」、突き当たりに「ほうろく地蔵」があります。

 ここ熱田伝馬町の西端は、江戸時代、東海道と美濃路(又は佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。

 この道標の位置(T字路の東南隅)は、建立当時(1790年)そのままである。四面には、次のように刻まれている。

   東  北 さやつしま  同 みのち 道

   南  寛政二庚戌年

   西  東 江戸かいとう 北 なこやきそ道

   北  南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社貮丁 道

 なお、この三叉路の東北隅には、これより三十二年前に建立(宝暦八年)された道標があった。標示は、「京いせ七里の渡し」以外はこれと同じである。戦災で破損したが復元され、10mほど東の北側にある。

     名古屋市教育委員会


【ほうろく地蔵】 (突当り)

 ここの突き当りを左に行けば「宮の渡し」、右に行けば「熱田神宮」です。

 「尾張名所絵図会」(天保十二年脱稿)よれば、この石地蔵は、もと三河国重原村(現在知立市)にあったが、野原に倒れ、捨石のようになっていた。

 ところが、三河より焙烙を売りに尾張へ来るものが、荷物の片方の重石としてこの石仏を運んできて、ここで焙烙を売りつくした後、石仏を海辺のあし原に捨てて帰った。地元の人がこれを発見し、安置しようとしたが、動かないので怪しんでその下を掘ってみると、土中にこの仏の台座と思われる角石が深く埋もれていたので、皆が不思議なことだと思い、その台石を掘り出し、この石仏を置いたのが、すなわちこの地蔵である。


【宮宿】 江戸から88里18丁(347.6Km)、京へ36里半2丁 人口約 10340人 

 熱田神宮の門前町。慶長六年(1601)宿駅に制定され、海路七里で桑名に向かう玄関口となった七里の渡し場は、大勢の旅人で賑わった。

 また、佐屋路、美濃路などの陸路の分岐点を控えた交通の要衝として、さらに六十二万石の城下町、名古屋への表口として繁栄を誇った宿であった。

 安藤広重の東海道五拾三次之内・宮『熱田神宮』

 この絵は、熱田神宮で行われた「馬の塔」という馬追いの神事を示している。

 毎年五月五日に、揃いの有松絞りの半纏をまとった村人達が裸馬に薦(こも)を巻きつけて競争しながら熱田神宮へ奉納した。

 この行事は、夕方に行われることが多く、広重もその有様を描いている。


【熱田神宮】 (右奥) 17:00〜17:25

 重要書類を渡すために名古屋に勤めている息子と17:00に落ち合う約束があったので、一旦東海道を離れてこちらを先に訪れました。

 熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座に始まる。第十二代景行天皇の代、日本武尊は神剣を名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)で亡くなった。尊のお妃である宮簀媛命は、神剣をここ熱田の地にお祀りになった。

 以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別の取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれてきた。

 二千年にわたる篤い信仰の歴史を物語るものとして、皇室を初め庶民に至る多くの崇敬者からの奉納品四千余点が、宝物館に収蔵展示されている。樹齢千年を越える楠をはじめとする六万坪の境内は、古来「蓬莱島(ほうらいじま)」の名で知られ、大都会の中心にありながら、静寂で四季の装いあふれる市民のオアシスとして親しまれている。

 境内外には本宮・別宮外四十三社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間七十余度、昔ながらの尊い手振りのまま今日に伝えられている。

【大楠】

 境内には楠の木が多く、特に大きな楠七本を七本楠と呼び古くから有名である。

 この楠は弘法大師お手植えとも言われ樹齢は千年以上と伝えられている。


 ほうろく地蔵から、左へ行くとすぐ国道247号線になります。旧東海道はこの247号線を斜めに突きっていますが、反対側には歩道橋を渡って行きます。渡った所にウナギで有名な「蓬莱陣屋」、そのまま真直ぐ行けば「宮の渡し公園」に突き当たります。

<夕食> この「蓬莱陣屋」で息子と3人で「ひつまぶし」を注文。味、量とも大満足。 ★★★★


【丹波家住宅】 (右側)

 宮の渡し公園前にあります。

 丹波家は幕末の頃、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各藩の名のある堤灯箱などが遺されている。

 正面の破風付玄関は、かつての格式の高さを残している。

 創建は不明であるが、天保十二年(1841)森高雅画の「尾張名所図会・七里渡船着」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。

 昭和五十九年、市の有形文化財に指定された。

     名古屋市教育委員会

 写真は、「尾張名所図会」で、公園内に掲げられていました。

【七里の渡船着(尾張名所図絵)

 この絵は、七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた舟、道を行きかう人の多さから当時のにぎわいがわかります。この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、そのため尾張藩は東・西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、船の出入りや旅人の姓名などを記録していました。

     名古屋市


【宮の渡し公園(七里の渡し跡)】 18:40〜19:00

 桑名に向かう旅人が集まった七里の渡し場は、現在復元された常夜灯と時の鐘(下の写真)のある公園となっています。

 現在の七里の海は大部分が埋め立てられてしまっており、現在、桑名まで行く定期船はありません。

 従って、陸路を国道1号線か23号線を歩くしかないが、桑名まで約30Kmあります。

手前が時の鐘で、奥が常夜灯

【七里の渡し舟着場跡】 

 江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場としても栄えていた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが、現在は復元されて往時の名残をとどめている。

 安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。

     名古屋市

【時の鐘】

 延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。

 昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。

 熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を思い起こすよすがとして、この公園に建設したものである。

      昭和58年3月 名古屋市

【熱田常夜灯】

 この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船つき場跡である。

 常夜灯は寛永二年(1625)藩の家老犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を受けて熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に常夜灯を建立した。その後風害で破損したために承応三年(1654)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。寛政三年(1791)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃していたものを昭和三十年ほぼ現位置に復元された。

     名古屋市教育委員会

【宮の宿とシーボルト】

 ここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、東西の人々の行き交いが盛んであった。

 文政九年(1826)オランダ使節に随従して江戸へ参府するドイツ人医師シーボルトと名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、大河内存真らと会見し、教えを受けた。

 後の名古屋の医学・植物学の研究に多大な影響を与えた。

     名古屋市教育委員会



 33回目の旅終了(19:00)宮の渡し公園内「七里の渡し舟着場跡」。  ◆本日総歩数:36,000歩

 息子のスポーツカーは2人乗りなので、私達はしかたなく再び熱田神宮まで歩き、名鉄「神宮駅前」より電車で「新名古屋」まで行き、「スーパーホテル名古屋駅前」に宿泊しました。ここは、安くて清潔で朝食無料サービスが付いておまけにキーレスなので、出張等で最近便利に利用しているチェーンホテルの一つです。

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