四日市宿 (富田駅→内部駅) <旧東海道35回目>

2004年10月23日(土)晴

 名古屋液から1時間に1本しか運行していないJR関西本線で富田駅へ向かう。

 今年の夏は、異常気象と言える年で、梅雨が5月、6月中旬からは猛暑で連続真夏日の記録更新、各地に大きな被害を出しながら日本を縦断した台風が10個でこれも新記録。

 猛暑と台風でしばらくウォーキングできなかなかったが、5ヶ月ぶりに前回終了した富田駅を11:05スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「桑名宿」 ← 「目次」 → 「石薬師・庄野宿」


【道標(津市元標へ拾里)】 (右側) 11:02

 富田一里塚から富田駅入口を過ぎ、「右東海道」の道標に従って右折すると右側に「津市元標へ拾里」と書かれた道標が立っています。道標の先、右へ行くと近鉄富田駅です。

 こらからは、東海道の道しるべが随所に掲げられています。高すぎて分かりにくかったり、肝心な曲がり角に無かったりもしますが大いに助かります。しかし、私達は高い所にあった道しるべを見逃し、とんでもない方向に行ってしまった為、かなりの時間をロスしました。


【東海道総合案内図】 (右側) 11:15 

 市民センター前に大きな東海道総合案内図が立っており、四日市市の東海道路線図と名所案内、全宿場名が載っていました。

 また、案内図の下には板に書かれた道標が掲げられていました。

四日市 一里 ← 東海道 間の宿 富田 → 桑名 三里


【明治天皇御駐跡】 (右側) 11:15

 富田小学校前に明治天皇御駐輦跡の大きな石碑と、聖蹟 明治天皇富田御小憩所阯の石柱が建っています。

 維新の偉業もようやく成って、明治天皇は江戸を東京と改称された。

 明治元年(1868)九月二十日、車駕(しゃが)にて京都を出発し東京へと向かわれた。二十四日には四日市に御駐輦、翌二十五日富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を御賞味になられ、十月十三日東京に入られた。

 その年の十二月八日、京都へ帰られる途中、十九日に再度五郎兵衛方に御少憩になられた。

 翌明治二年三月七日、京都をお発ちになり、神器を奉じていよいよ東京に遷都されるとき、三月十五日、またもや五郎兵衛方に御少憩になられた。

 明治十三年陸軍大演習をご覧になるために県下に行幸になると、七月三日、五郎兵衛方に四度目の御少憩になられた。

 広瀬五郎兵衛方の敷地は東海道に沿い、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてであった。

 明治天皇御駐輦跡の碑は、公爵近衛文麿の筆である。

     富田地区文化財保存会


【常夜燈】 (右側) 11:21

 「明治天皇御駐輦跡」の碑に続いて常夜灯と案内板が建っています。

 常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味を持っている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導光であろうと思われる。

 碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十己亥年」(1839)とあり昔を伝えている。

 この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて、淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、

風の夜、絶え間なくこの灯を守りした人々の心意気を感じて、この灯篭を見つめてほしい。

 今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。

     富田地区文化財保存会


【薬師寺】 (右側)

 これから街道筋のお寺や神社には全て解説板が掲げられています。 

 五十一代平城天皇の大同年間(806〜810)の頃、このあたりに百薬に手をつくしてもなお治らない疾病が流行し諸人は大変苦しんでいた。このことを東国の旅の途中に知った弘法大師は、ここに足を止め、薬師如来を彫り、開眼した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。

 諸人は弘法大師に感謝するとともに、城山にお堂を建てて、この薬師如来を祀ったという。

 その後、茂福(もちふく)城主朝倉下総守盈盛(みつもり)は、ここを菩提寺として、大伽藍を建立し、報乳山洪恩寺と号したが、永禄10年(2576)に、滝川一益の兵火にかかって焼失した。このとき本尊は自ら火中を逃れて、門前の松に避難され光明を放っていたのである。諸人は再度の奇跡に深く感じて、翌年現在地に草庵を結び本尊を祀った。

 その後、桑名船場町の十念寺の芳誉上人によって、再建されたと伝えられている。

 現在、本尊薬師如来は秘仏として扉は閉ざされている。当地唯一の尼寺である。


【新設用水道碑と力石】 (突き当り) 11:28

 常照寺前で道は突き当たり、証円寺に沿って街道は左、右へとクランク曲がりします。

 その突き当たりに左の写真の新設用水道碑力石が置かれています。

 また、新設用水道碑の右側面に「水源地是ヨリ七町」と書かれていました。

【力石の由来】

 明治の中頃、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。

 その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。

 その後、茂福地区の青年若衆が大正の終り頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。

 およそ三十二貫(約120Kg)を肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もいなかったといわれる。茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。石に三十二メと刻まれている。下にある小さな石は重さ五貫(約19Kg)で子供用であろうか。

     平成五年七月吉日建立 茂福地区自治会 茂福地区白寿会


【證圓寺】 (右側) 11:30

 「力石」の先を右折した所にあります。

 当寺は、天台宗であったが、天文(1532〜55)のころ住職が浄土真宗本願寺の第十世證如上人に帰依して改宗したと伝えられている。

 その後、永禄十年(1567)、茂福掃部輔盈豊が滝川一益に謀殺され、茂福城が落城するや、臣林玄證は盈豊の遺子(当時二歳)を敵より隠しひそかに鍋坂の村中に逃れて養育し、成人の後、我が娘と娶わせて家督を譲った。遺子すなわち林三郎左衛門盈景およびその末葉は茂福證圓寺住職になる。

 境内には、開法蔵があり、一切経を初め多くの経文が収蔵されている。

 また、仏足跡や親鸞上人像が見られる。

 境内には古木多く、緑の松、黄色の銀杏、紅の紅葉と秋の彩りはみごとである。

     富田地区文化財保存会


【道標(右いかるが道)】 (右側)  11:33

 證圓寺山門の先の右角にあります。

 「右いかるが」、「左四日市」と刻印されていました。

 


【常夜灯・米洗川】 (右側) 11:45

 町屋川、朝明川、米洗川、海蔵川と伊勢湾に注ぐ4つの川の三本目を渡ります。

 渡る手前に写真の大きな常夜灯があります。

 このあたりには、陶器工場が並んでいます。


 11:55、左側に一本だけ残っている「名残の松」を通り過ぎ、丁度12:00に「志氐神社の鳥居」と「常夜灯」2基が右側にありました。神社は遠いので行きませんでした。

 やがて道は左カーブして国道1号線に合流します。合流したところが392.9Kmポストで、もうすぐ400Km突破だ!

 三ツ谷町信号の右側に『なが餅』で有名な老舗「笹井屋」の支店があります。本店はまだ先なのでここは通り過ぎました。

 街道は海蔵橋の手前を左に入ります。

 海蔵川の土手が見えた左側の「多度神社」境内で休憩(12:20〜12:30)にしました。


【三ツ谷一里塚】 (左側) 12:30

 海蔵川の土手を登る途中の左側に写真の石碑があります。

(前略:一里塚の説明)

 東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。しかし、その場所は昭和二十年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之図」(元禄三年<1690>)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されている。

 そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。

     平成十三年<2001>三月吉日 海蔵地区地域社会づくり推進委員会

 現在は、一里塚の所に橋がない為、右手の海蔵橋を迂回する。即ち、海蔵橋を渡ったら左折し、土手道をすぐ右折して、一里塚から真直ぐ方向の道を進みます。650m程で三滝橋を渡ります。


【四日市宿】 江戸から99里8丁(389.7Km)、京へ26里12丁 人口約 7100人 

安藤広重の東海道五拾三次之内・四日市『三重川 

 三重川は三滝川ともいう。この橋を渡った先に四日市宿があった。

 町の名前は、毎月四のつく日に市が立っていたためについた。

 帆柱と屋根が見る箇所は、四日市湊です。

 

現在の三滝川と三滝橋 

 広重の絵には土橋として描かれていますが、現在は平成6年に架け替えられた立派な橋です。


【三滝橋】 12:45(右上の写真参照)

 橋の欄干に三滝橋の案内が掲げられていました。

 四日市市の中央部を東流する三滝川に架かる橋。江戸期は東海道を往還する人馬で賑わう土橋でしたが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5〜3間)に架け替え、更に大正13年6月、鉄橋橋(長さ72m、幅6.3m)に改めました。近世までに何世紀にもわたって市の文化や生活の中心地でした。

     平成13年3月


【笹井屋本店】 (左側)

  本日は休みで、残念ながら『なが餅』は買うことができませんでした。倉の形をした店です。

 創業天文19年(1550)という老舗。津藩主の藤堂高虎が足軽の時、「吾れ武運の長き餅」を食うは幸先よし」と喜んで食べたという。後に大名となり参勤交代の旅には必ず立寄ったという。

 名前の通り、細長い餅の中に小豆の餡を入れて焼いたもので白ザラメを使用しているから甘みは淡い。 


【道標(すぐ江戸道・すぐ京いせ道)】 12:55

  

 

 丸三商会の角に道標(石柱)と旧町名 南町」の標柱が建っています。

 石柱の表側に「すぐ江戸道」(写真左面)、裏側に「すぐ京いせ道」、横面に「文化七庚牛冬十二月建」(写真右面)。

 旧道はこの角から諏訪神社まで斜めへ続いていたが、現在は区画整理でなくなってしまっているので、次の道を右折して国道1号線を渡り、諏訪神社の前を斜め西へ行きます。

 東海道と港へ通じる東西道路の交差する四つ辻の南に位置した市場であることから弘治・永禄年間(1555〜1570)に南市場と称された。江戸時代には宿場町として栄え、寛文三年(1663)には町名が南町と改められた。問屋や脇本陣、飛脚などとともに多くの旅籠が集中し旅籠町とも呼ばれた。その後、東西に新開地として広がった。

 

 


 <昼食>13:05〜13:30 国道1号線交差点角の「喜多方ラーメン」で昼食にしました。


【諏訪神社】 (右側) 13:32

 国道を渡った所にあります。境内入口に広重の錦絵(上記参照)が掲げられていました。


 街道は屋根付の商店街の中を通り、四日市駅前通りに出ます。

 ここで、本日泊まることにしている「スーパーホテル四日市駅前」に荷物を預けようとしたが、セキュリティ問題で15:00からでないと入ることができないため、近鉄四日市駅のコインロッカーに預けてウォーキングを続けることにしました。(13:45〜14:10)

 荷物が軽くなり楽に歩けるので、スタート近くの街道途中に宿を取って荷物を預け、そこへ戻ってくる方法が賢明と思いました。

 近鉄名古屋線のガードをくぐるあたりから古い町並みになります。また、かなり先まで東海道の小さい木札を掲げている店や民家が多く、旅人には有り難いです。


【鈴木薬局(旧鈴木製薬所)】 (右側)  14:30

 赤堀駅前を過ぎ、鹿化橋を渡るとすぐあります。 

 竹の切り口を示す「丸二つの組合せ」の登録商標に、「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」・「真妙円」などの軟膏の名前が書かれた古い看板を掲げる鈴木薬局は、200年以上も製薬業を営む旧家である。

 当家は、代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在の当主鈴木友造氏で第十一代を数えるが、同家に伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛延三年(1750)二月に蘭学勃興の地長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれている。

 当家の建物は、東海道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたものである。これは、第六代勘三郎高光が、嘉永五年(1852)に建てたものであることが、家系図によってわかる。玄関には、約60Kgの重い木製の上げ下げ戸があり、東海道に面した家の表には連格子がはめられ、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちのひとつの欄間には、厚い檜の近江八景を形どった一枚彫りがある、また、土蔵とともに軟膏をつくった作業場があり、薬研などの貴重な道具が保存されている。


【大宮神明社】 (右側) 14:40

 当社は永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。

 昔は現在の南高校のある岡山の麓まで海があって、その海辺に舟付明神があった。垂仁天皇の時代に倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもある。その舟付明神が四百年ほど前に炎上し、当時出来つつあった道路(東海道)に遷ってきたのがこのお社である。

 例祭は十月の体育の日である。この日には獅子舞があり、現在では八幡獅子が家々を回って獅子を舞わしている。

 本殿の右横には大己貴命、少彦名命を祀る摂社ニ柱大神社(センキさんとも言う)があり、病気を直す神様として有名である。

 六月三十日には那護志大祓(なごしのおおはらい)があり、一般には「輪くぐり」といって茅の輪をくぐると夏負けしないという言い伝えがあり、近在近郷から老若男女が大勢参拝し、夜店がぎっしり並んで大変な賑わいで、有名な祭りとなっている。


【興正寺】 (右側) 14:48

 天白(てんぱく)橋の手前にあります。左手には四日市のコンビナートが続きます。

 当山は浄土真宗高田派で、創建は貞観六年(864)と言われている。登城山にあったときは天台宗であったが、文暦元年(1234)親鸞聖人が当寺に立寄られたとき浄土真宗に改宗した。

 その後二百年くらいして、本山の第十世真慧上人が津の一身田に本山を定められ、高田派となった。天文十三年(1544)本山第十二世堯慧上人は当寺で「日永千部」という本寺の復興勧進法要を勤められ、興正寺は有名な末寺となった。

 天正二年(1574)現在地に移る。

 堯慧上人は織田信長にも治安維持を願い、滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などを有している。また、徳川家康もこの寺を保護するように配慮した。

 天白川がこの寺を囲むように曲がっているのも滝川一益が堀の役目をするようにしたと言うことで、この堤を昔の人は滝川堤と言った。


【両聖寺】 (右側) 14:52

 天白橋を渡った先にあり、お盆には境内で無形文化財の「つんつく踊り」が催されます。

【つんつくおどり】 市指定無形民族文化財(芸能) 昭和31年2月指定

 司馬江漢が「誠に田舎の踊りなり」(文化十二年〔1815〕刊行「西遊旅談」)と評したつんつくおどりは、大勢の人々が手をつなぎながら太鼓や笛などの囃子に合わせて円陣をつくってくという所作を持つ、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。

 その起源は、昔、同地区を流れる天白川の堤防を固めるときに村人が踊ったのが始まりとも、また、織田信長の武将である勢州長島城主滝川一益の母が実連寺境内に居住した隠居所を造る際に唄った地築唄に振付けたものといわれているが、定かでない。

 大正時代末頃までは、八月十四日から十七日にわたり、大瀬古・天白・中之瀬古・南市場の四町それぞれの東海道筋で長い輪となって踊られており、四日とも唄う唄が異なる上、日によって決まっていたというが、現在は中之瀬古町によって八月十五日・十六日に両聖寺の境内で催されるのみとなり、両日共に同じ唄が唄われている。

 なお、同寺には、江戸末期の庭園を代表する「心月池」がある。

     平成十四年三月〕四日市市教育委員会


【日永一里塚】 (右側) 15:05

 家と家の隙間にあり、かなり気をつけないと見つからないと思います。私達も道路工事のガードマンに聞いて分かった位で、少し前にすれ違ったウォーキングの団体(30人位)も誰一人気づかなかったと言っていました。

 ポストのある角の雑貨屋と稲垣製茶工場の前にあります。

 

 


【名残の松】 (左側) 15:12

 かってこのあたりの道の両側には、立派な松並木が続いていた。

 この松は、その当時の面影をとどめる唯一のものである。

 


【日永の追分】 三重県史跡 15:30〜15:35

 左から迫ってくる国道1号線と合流してから5分ほどではっきり分かる追分に着きます。

 三角点の敷地内には、伊勢神宮逢拝鳥居、常夜灯、「左いせ参宮道・右京大坂道」の道標、井戸があります。この井戸からは常時水が湧き出しており沢山の人が水汲みに来ていました。その傍には水質検査表が貼ってありそのまま飲むことができます。地元の人に聞きましたが、定期的な水質検査や掃除等で管理が大変とのことです。地元の努力で誰でも安心して飲むことができることを感謝しつつ飲んでみました。当然だがカルキ臭くない自然の味です。

 道が左右に別れているところを追分という。「日永の追分」は東海道と伊勢街道の別れ道である。

 道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで伊勢神宮の二の鳥居が立ってた。この鳥居は安永三年(1774)久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、二十年ごとに建て替えられることとなっていた。今の鳥居は昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。

 また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にあって「間の宿」と言われ、神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶店も多かった。そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されていた。

 「日永の追分」は昭和十三年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。

 東海道はこの追分で右の道を行き、追分駅で近鉄の踏切を渡り、小古曽(おごそ)の町に入りますが、踏切を渡ったらすぐ斜め左の道に入ります。


【観音寺】 (右側) 16:00

 黄檗宗の末寺で、山門の屋根の両端に黄檗宗特有の「マカラ 」(獅子の像)を上げている。

 

 

 禅宗の一派の黄檗宗の末寺であるが、歴史的に明らかなのは、江戸時代に黄檗宗の寺院となってからである。

 戦国時代、信長の寺院破壊の時に焼失し、その後、元文二年(1737)の上梁札(棟札)によると、四日市浜町の森元長八忠雅の喜捨により建立されたことが知られる。

 また、村人たちによって兵火から守られた「本尊・千手観音像」は、文化三年(1806)の再建とみられる本堂内に今も安置され、頭体幹部は十一世紀頃の製作であろうと思われている。

 山門は、四脚門方式で、屋根の両端に異国風の「マカラ」を上げる点などは、黄檗山宇治万福寺の諸堂にみられ、黄檗宗特有のもので、棟札より寛政十二年(1800)の二月と判明し、細部絵様は本堂のものと一致している。


【小古曽(おごそ)神社 (小許曽神社)】 (右奥)

 観音寺の横の道を少し入った所にあります。石柱には「小古曽神社」、解説板には「小許曽神社」とありました。

 昔より産土神として地元民に崇拝されており、醍醐天皇の代延喜五年(905)式内神社と、神名帳に記載されているとこrから、伊勢の国の二百三十五の大・中・小社の一小社として110年ほどの歴史を有する神社と言えよう。

 特に明治元年(1868)九月二十四日、明治天皇東巡の節、沿道の式内社というところで幣神祗官判事正四位下右近近衛少将、植松雅信氏により幣帛料金帛壱千疋の奉納を賜る栄光に浴したと「東巡日誌」(『明治文化全集第十七巻皇室編』)に記されている。

 その他、当神社の特殊神事として粥試(筒粥)、奉賛、当渡しがあり、これらは正月の中旬に行われ、粥試(かゆだめし)は小豆粥と細い女竹五本を使い、竹筒内に入っている米粒の数で早期・早生・中生・晩生の稲作と畑作の豊凶を占う神事である。


 観音寺の先、案内に従って右折すると突き当たりに願誓寺があり、その前を左カーブするとまもなく近鉄内部線終点の内部駅前に出ます。



 35回目の旅終了(16:20)近鉄「内部駅」  ◆本日総歩数:27,500歩

 まだ明るかったが、足の便を考えて本日はこの駅で終了。

 近鉄四日市駅に戻り駅前のスーパーホテルに宿泊。

 笹井屋が休みで買えなかった『なが餅』を駅ビルの食品街で購入しました。

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