鳴海宿(前半) (本宿駅→岡崎公園前駅) <旧東海道32回目>

 2004年3月28日(日)快晴
 岡崎チサンホテルを自家用車で8:30に出発。途中近くの伊賀八幡宮を見学後、岡崎公園の有料駐車場に車を入れ、名古屋から車で来た息子と合流して岡崎城を見学(31回目に記載)。その後は八丁味噌通りなどの旧東海道を見ながら2台の車で知立まで走り、知立駅先国道1号線沿いのレストランで昼食を取る。昼食後一緒に知立神社まで戻って神社を見学後、神社の駐車場で息子と別れる。

 私達は、知立駅そばの駐車場に自家用車を停めて、前回終えた知立駅入口の交差点より旧東海道の続きを歩きました。
  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

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【知立神社】 

 私達は車で事前に見学しましたが、東海道筋からは総持寺手前の道を右折するとすぐです。

【知立神社由緒】

 當神社は近世池鯉鮒大明神とも称え奉り延喜式内の古大社であって第十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊の東国平定の行路この地に於いて皇祖建国の鴻業を仰いで国運の発展を祈願し給い御帰途報賽のため創建あらせられしと云う(後略)

【多宝塔】 国指定重要文化財(建造物)明治40年5月指定 (左の写真)

 社伝によれば、嘉祥三年(850)天台僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立した。後知立神社の別当寺となった。

 現存する多宝塔は、永正六年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建した。

 三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には連子窓、他は嵌板(はめいた)張りである。屋根は杮葺で、塔高は約10mあり、室町時代の建築である。

 明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺にかえ、「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。

     知立市教育委員会

【知立神社石橋】 市指定文化財(建造物)昭和44年4月指定

 この橋は、半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれている。全長6.6.m、幅2.4m、水面より高さ1.7mを測る。石の桁を弧状に通し、その上に橋板である厚さ12cmの石の板19枚が並べられている。

 欄干南側右柱には「享保十七年(1732)十一月吉日敬白」と刻まれている。

 「東海道名所図会」には「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という、片目の魚ありとなん」と書かれている。

 片目の魚は、身代わりとして娘を目の病から救ったためとの言い伝えがある。

     知立市教育委員会


 前回の続き(知立駅北交差点)より、13:10スタート。

【池鯉鮒宿本陣跡・明治天皇行在所跡】 (右側) 13:15

 旧東海道より1本駅寄りの道(知立駅北交差点そば)に本陣跡があります。国道419号線沿いです。

 此処には本陣跡の石柱と案内板、及び二基の燈籠に挟まれて明治天皇行在所聖跡の石柱が建っています。

【池鯉鮒宿本陣跡】

 本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。

 東海道三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣が各一軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文二年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治八年(1875)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。

     知立市教育委員会

 旧東海道に戻るとすぐ突き当たりますから左折して「刈谷道」交差点で右折すると国道419号線です。私達は、「刈谷道」が目と鼻の先なので、旧道に戻らずそのまま行きました。


【一里塚跡】 (左側) 13:47

 「西町」交差点で国道155号線を超えるとすぐ右側に「総持寺」(三河新四国・第一番札所)があり、その手前の道を右折すれば200mで知立神社です。

 逢妻大橋を渡ると「逢妻町」交差点で国道1号線に交差しますので左折して国道を進みます(13:40)。すぐ刈谷市に入り、日本橋から341Kmとなります。

 一里山歩道橋の左側降り口の付け根に一里塚跡の案内板と付近の地図のみあります。気をつけないと見落とします。

【一里塚跡】

 慶長9年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として東海道をはじめとする主要街道に、1里ごとに土を盛ってエノキや松を植えて一里塚を築かせた。この地の一里塚は松であったといわれる。国道1号線の開通によって当時のおもかげはないが、明治18年の地籍図をみると、東海道の両側に塚と記されている。

 ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚(国指定史跡、豊明市)がある。

     平成14年3月 刈谷市教育委員会

 この先も、お寺等の解説には地図が添付されており、旅人には有り難い。

 一里塚跡の案内板に付いていた地図を見ると、旧東海道は、この先から右斜めの道へ少しの間だけ迂回するように描かれていましたが良く分からすそのまま1号線を行きました。帰宅してから詳細地図を見たら、一里山歩道橋の次の道に右へ弧を描くような道があり、「今岡町」交差点手前で、左斜めに入る道に続いていました。

 国道からみれば旧東海道は右から左へ斜めに交差することになります。

 私達は国道から分かれてこの左斜めへ入る道で14:00。


【洞隣寺】 (左側) 14:07

 国道から分かれて200m程です。

 曹洞宗の寺で、天正8年(1580)の開山といわれ、開祖は刈谷城主水野忠重とされる。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいる。寺の入口にある常夜灯は、寛政8年(1796)の年号が刻まれている。

 墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓がある。またその隣りには刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓がある。

     平成14年3月 刈谷市教育委員会

【中津藩士の墓】

 寛保2年(1742)豊前国(大分県)中津藩士の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に切りつけ2人とも亡くなったため2人の遺骸は洞隣寺に埋葬された。ところが2人の生前の恨みからか、いつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓地を整理して改めてあつく葬ってからは墓は傾かなくなったといわれる。

【めったいくやしいの墓】

 昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいた。あるとき高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれした。しかし、青年僧は仏法修行の身であり娘には見向きもせず寄せ付けなかった。娘は片思いのため食も進まずついに憤死してしまった。洞隣寺の和尚はこれを聞いて亡骸を引き取って葬ったが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり油の燃えるような音がしたり「めったいくやしい」と声になったりして火玉は医王寺の方へ飛んで行ったといわれる。女の情念の恐ろしさが語り継がれている。


【いもかわうどん発祥地】 (右側)

 洞隣寺の前に案内板が立っています。

 このあたりの街道には、白壁や格子窓など雰囲気のある家が所々で出会います。

【いもかわうどん】

 江戸時代の東海道紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。

     平成14年3月 刈谷市教育委員会


【乗蓮寺】 (右側) 14:25

 洞隣寺から300m程です。

 この写真の門は、解説もなにもないが、かつての吉良邸の門だそうです。

 寺なら末永く保存してくれるだろうとの願いで移築したものとのことです。

 写真に写っている地元の檀家の人が教えてくれました。

【乗蓮寺・シイ】

 真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされる。今川山と号す。

 境内にあるシイは、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定された。幹の根元に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられる。

 昭和34年の伊勢湾台風で、大部分に損害を受けたが、現在は樹勢を回復し、今では実も付き始めている。

     平成14年3月 刈谷市教育委員会


【境川】 14:45

 富士松駅前を通過し、「今川町」交差点で国道1号線を斜めに横断して右の道へ行きます。程なく境川に架かる境橋に着きます。

 ここは、三河と尾張の国境になります。

【境橋】

 慶長六年(1601)東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立会いで橋が架けられた。

 この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。

 やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。


【光廣歌碑】 

 境川を渡った右土手にあります。

   うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継ぎ目なるらん    光廣

 狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文六年(1666)当時の境橋は、尾州側は木橋三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。読み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸殿と称せられた。

     豊明市観光協会


【阿野一里塚】 国指定史跡(昭和11年12月指定) 15:10

 「伊勢湾岸道」をくぐって国道1号線に合流すると、344.5Kmポストがあり、豊明駅を通過して「阿野一里塚200m」の看板出てきたら左斜めの道へ行きます。

 塚は高くないが、左右共残っています。

 

【阿野一里塚】

 慶長九年(1604)二月家康が、永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに築かせたものである。

 往時は東海道交通上の目安となったが、明治維新以後次第にその価値を失った。

 今両塚が現存する例は珍しい。

     豊明市教育委員会

 左側の塚には森市雪の句碑があった。

   春風や坂をのぼりに馬の鈴    市雪

 東海道の阿野一里塚から「前後」に向かって坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。」の意である。

 この句は愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の「名区小景」に載る。

     豊明市観光協会


【名残りの松】 (左側) 15:15

 豊明小学校の前に一本だけ名残りの松がありました。

【東海道の松並木】

 この松は、徳川家康が東海道を開いて植えた松並木の一本で、市内では数少ない名残りの松である。

 次の前後駅前の「パルネスAPITA」でトイレを拝借。


【桶狭間古戦場】 (左側) 15:55〜16:05

 東海道は、名鉄名古屋本線「中京競馬場前駅」の手前で国道1号線に合流し、ガードをくぐりますが、ガード下左側に可愛い地蔵堂があります。

 ガードをくぐり、駅前を過ぎると桶狭間古戦場の大きな案内板がありますので、それに従って左折するとすぐ右手史跡公園内にあります。

 

【古戦場】 国指定史跡(昭和12年12月指定)

 この地は、永禄三年(1560)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。

 今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(1771)七石表が建てられた。文化六年(1809)には、桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。

     豊明市教育委員会

【今川治部大輔義元の墓】

 駿・遠・三の太守今川義元は、西上の途次、永禄三年(1560)五月十九日織田信長の奇襲にあい、ここで倒れた。ここにはその霊が祭られている。

 以前は塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し、明治九年五月この墓を建てた。

     豊明市教育委員会

【桶狭間合戦のあらまし】

 東軍、駿河、近江、三河の領主今川義元(42才)

  東軍所属の城:沓掛、鳴海、大高、兵数:二万五千、義元この地に戦死

 西軍、尾張の領主織田信長(27才)

  西軍所属の砦、丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根、兵数三千、戦闘二時間余、信長の勝利

     解説小冊子高徳院にあり

【七石表の一】

 今川義元の戦死した場所を明示する最も古いものである。

 元来塚のみであったが、明和八年十二月に鳴海下郷家の出資により人見弥右衛門黍、赤林孫七朗信之によって建碑された。

  北面:今川上総介義元戦死所

  東面:桶狭七石表之一

  南面:明和八年辛卯

     十二月十八日造


【高徳院】 

 古戦場のすぐ先、左手にあります。

 門を入り正面左に芭蕉句碑『あかあかと日はつれなくとも秋の風』、正面に「今川義元公本陣跡」の碑と明治39年に当時の皇太子が訪れたときに記念に植えられた大きなタブの樹があります。



 32回目の旅終了(16:45)名鉄名古屋本線中京競馬場前駅。 ◆本日総歩数:19,200歩

 中京競馬場前駅より名鉄で知立駅まで戻り、自家用車で帰宅。

 

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