日光例幣使道(5) 八木宿

2021年11月23日(火) 晴  

 太田駅の観光案内所で今回も無料の「観光自転車」を借りて、午前中古墳を巡る。
 午後から太田駅より街道歩きを始める。

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

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【レンタサイクルで二つの古墳巡り】 
 


【天神山古墳】 
 天神山古墳は、太田駅の東方約1Kmの道県313号線と2号線に挟まれた平地にある。
 下の写真は、県道2号線側から写した後円部の先端。

 【天神山古墳】 史跡(昭和16年1月27日指定)
 別名男体山とも呼ばれ、東日本最大、全国でも27.8位の規模を誇る大前方後円墳である。
 墳丘の全長210m、後円部直径120m、同高さ16.8m、前方部前端幅126m、同高さ12mである。
 周囲には二重の周堀が巡らされ、基城は長さ364m、幅288mに及ぶ。また北東と西に陪塚を持つ。
 墳丘は三段築造で、表面を波瀬川系の川原石で葺き上げている。
 主体部は竪穴式であるが、既に盗掘を受けており、後円部南裾付近に大型の長持形石棺の一部が露出している。
 墳丘部及び中堤帯には円筒埴輪が、また後円部墳頂には器材埴輪が樹立していたと考えられている。
 築造時期は5世紀中頃と推定され、被葬者は畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長と考えられている。
     平成元年3月31日 太田市教育委員会

【女体山古墳】 
 女体山古墳は、県道2号線を挟んで天神山古墳の斜め向かいにある。

 【女体山古墳】 国指定史跡(昭和2年4月8日指定)
 隣接する男体山(天神山古墳の別名)に対して女体山と呼ばれる。
 円丘部に方形の造り出し部を付けた形で帆立貝形古墳という形式である。
 墳丘の全長106m、円丘部直径84m、高さ7m、造り出し部は幅18m、長さ16mである。帆立貝形古墳としては奈良県北葛城郡河合町の乙女山古墳(墳丘全長128.6m)に次いで全国2位の規模を有する。周囲に幅11~19mの周堀を持つ。墳丘表面には川原石が葺かれ、円筒埴輪が巡らされている。
 主体部(埋葬施設)は竪穴式のものと推定される。未発掘と伝えられるが、墳丘付近に削平の跡があり盗掘を受けているものと考えられる。
 築造時期は5世紀中頃で、天神山古墳よりやや先行する時期と考えられている。
 天神山古墳と女体山古墳は共に際立った規模を持ち、ほぼ同一時期に、同一方向を向いて建造されている。このことから両古墳の被葬者には密接な関係があると考えられている。
     平成2年3月31日 太田市教育委員会

【例幣使街道歩き】 

 自転車を返却して、太田駅を12:15スタート。


【昼食】 12:20~12:55
 前回終えた「太田駅入口」信号手前の「ガスト」が満員だったので、同信号左側のレストラン「ぴっころもんど」で昼食をとる。 


【追分のみちしるべ・石地蔵 (左側) 13:03
 歩き始めて、次の信号から左手は「(株)SUBARU群馬製作所本工場」の大きな敷地が続く。町の名前も「スバル町」である。
 SUBARUの正門を過ぎ少し進んだ先の道路標識(↑館林 →大泉)の下に追分地蔵堂が建っていて、歩道上に平成4年2月28日設置の「太田市指定重要文化財 追分の道しるべ・石地蔵」と刻まれた石標と説明板が立っている。
 堂内には地蔵尊と並んで道標が納められていて
、その正面に「右 たてはやし こか道  左 日光道 やき さの道」、左側面に「百番供養塔」、右側面に「享和三癸亥八月吉日」、裏面に「ひとすじに 出れ八安き法の旅 今なすそわさそ 後の世の夢」と刻まれている。

  【追分の道しるべ・石地蔵】 太田市指定重要文化財(昭和51年11月16日指定)
 この道しるべは日光例幣使道と古河道との分岐点、新島の追分(例幣使道側は工場敷地となっている)にある。享和3年(1803)に太田宿の永竹幸助義信により百番供養をかねて建立されたものである。百番供養は西国三十三番と坂東三十三番に秩父三十四番の札所を加えた百番信仰によるものである。裏面には次の和歌がある。
 ひとすしに 出れ八安き法の旅 今なすわさそ 後の世の夢
 道しるべの左側には追分地蔵と呼ばれる地蔵菩薩があり、今でも子供を庇護する地蔵として厚い信仰の対象となっている。
 日光例幣使道は、日光東照宮の大祭(4月15日から17日)に際し、幣帛(神前に奉納するもの)を供するため例年京都の朝廷から派遣された例幣使が通過したことから呼称された街道である。日光例幣使道の派遣は正保3年(1646)から慶応3年(1867)まで絶えることなく続いた。奉幣使は原則として、往路は中山道・日光例幣使道、復路は日光道・東海道を通過した。
 例幣使道中は中山道倉賀野宿(高崎市)から分かれ、玉村・五料・柴・木崎・太田・八木・梁田・天明・犬伏・富田・栃木・合戦場を経て金崎宿(栃木県上都賀郡西方村)に至る13宿、23里11町(92Km)ほどの道程である。金崎宿の次の楡木宿で壬生道に入り、今市宿で日光道に合流した。明和元年(1764)には道中奉行管轄となり五街道に準ずるようになった。
     平成2年(1990)3月31日 太田市教育委員会 

 説明板には、太田宿付近の例幣使道の地図が載せられており、それによると、往時の街道はこの地蔵堂から左斜めに工場内を横切り、この先の「南盛寺」辺りで現在の道に復活していた。
 現在は工場のため道は消滅しているのでここを真っ直ぐ進み、この先を左折することになる。
 


地蔵堂】 (左側) 13:17
 直ぐ先の「SUBARU南門」を通過して東武伊勢崎線のガードをくぐり、「新島町」信号を左折する。
 左折して少し進み、水路のような鶴巻川に架かる長岡橋を渡ると、直ぐ左側に小さい地蔵堂が建っている。
 


【馬洗場跡 (左側) 13:26
 やがて街道はやや右カーブして、左奥に「南盛寺」がある。上述の追分から消滅した左斜めの道がこの右カーブで復活したと思われる。
 続いて道は左カーブして小さな水路を渡った五差路の左側に馬洗場跡の石標が立っている。
 標柱正面に「日光例幣使道 馬洗場跡」、左面に「平成十年九月吉日 竣工」、裏面に「市政五十周年記念事業韮川実行委員会」と刻まれていた。

 


【地蔵堂 (左側) 13:29
 数分進んだ左側の敷地に大きな地蔵堂が建っていて、中に祀られている地蔵尊は少し前かがみで座っていた。
 地蔵堂の左手には沢山の地蔵と石塔が並んでいた。奥は墓地になっていてその一角にも近隣から集められたと思われる石仏・石塔がぎっしり並んでいた。
   


【石原賀茂神社 (左側) 13:35~13:40
 やがて道は国道122号線の太田バイパスを渡り(二股は左の真っ直ぐ方向)、直ぐの県道128号線を渡ると救命犬伝説と鳥居が無いことで有名な石原賀茂神社がある。
 入口右手の神社の標識(社標)には「村社 賀茂神社」と刻まれ、その左下には「日光例幣使道 鳥居のない神社」と刻まれた新しい石柱が立っている。
 入口左の石柱で囲まれた所に碑文が書かれた石碑と救命犬之像が建っている(犬の写真は撮り忘れた)。
 下の県道から写した写真で、入口右から道路標識・社標・石柱・注連縄を張り渡した鳥居代わりの柱(「奉」と「納」の2本)。正面が五穀豊穣と掲げられた社殿。境内左側手前から犬の像・石塔群・神輿蔵。


県道から撮影

庚申塔等の石塔
 【鳥居のない由来の碑】 
徳川のむかし 京都を出発した日光御礼参の例幣使の行列が道中の安全祈願をかねてしばらく賀茂神社の境内で休んでいる時 にわかに一匹の犬が激しく吠えはじめた 不審に思った共侍が吠えたてる犬を追い払おうとして何度も何度も制したけれど犬はなお激しく訴えるように吠えたてて逃げようともしなかった 怒った共侍はとうとうこの犬を切り捨ててしまった すると意外なことに胴を離れた犬の首は空に飛び上がった あれよと人々が見上げると犬の首は鳥居の上の大蛇に噛みついた たまたま鳥居下に休んでいた例幣使に犬は大蛇のいる危険を知らせる為に盛んに吠えたのだった 例幣使は自分を助けようとして吠えたことがわかった このため日光から帰ってくるまでに犬の供養をして塚をこしらえておくようにいってこの神社を去った (帰ってくるまで三か月かかったという)
そこで犬を供養しその上に石尊様をまつった この為村では鳥居があったので蛇がそこにあがったということで神社の鳥居をはずしていまい今もないのだという また はたし(機織機)にも鳥居がついているため正月には鳥居を出さないということで正月中は機(はた)を織ってはいけないといわれている

台之郷の辻】 (右側) 13:51
 賀茂神社に沿った道を進み、右カーブした先の変則十字路に出たら右手を見ると正面に台之郷の辻標柱道標が立っている。
 右側の標柱正面に「日光例幣使道 台之郷の辻」、左面に「平成十年九月吉日 竣工」、左面に「市政五十周年記念事業韮川実行委員会」と刻まれている。
 左側の道標正面に「北 丸山桐生道」、左面に「東 福居佐野道」、裏面に「南 龍舞小泉道」、左面に「西 太田道」と刻まれている。
 街道は、下の写真の左側に見えている道を進む。
 


【桜山跡 (左側) 14:24
 直ぐ県道128号線に合流して、ここを左折する。左折すると直ぐ左にコンビニ(セブンイレブン)がある。 少し進んで「韮川用水路」を渡ったら直ぐの「矢場」信号を左折する。
 最初の十字路を右折する。左角に「(株)プリントフジ」がある十字路。やや右カーブした先の二股は右の道に進む。 次の十字路の左角に桜山跡の標柱が立っている。
 標柱正面に「日光例幣使道 この先「桜山」跡」、左面に「平成十年九月吉日 竣工」、左面に「市政五十周年記念事業韮川実行委員会」と刻まれている。
 街道は、下の写真に見えている真っ直ぐの道を進む。
 


【八坂神社 (左側) 14:32
 次の変則十字路を渡ると、上野国(群馬県)から下野国(栃木県)に入る。
 左側「矢場川郵便局」からの右カーブが終わった十字路の左角に八坂神社がある。
 鳥居手前の「村社 八坂神社」刻まれた標柱(下の写真)の台座は道標になっていて、正面に「東 佐野 福居道  西 太田 伊勢崎道」、左面に「北 足利道」と刻まれている。
 


【長浜観音堂 (左側) 14:40~14:45
 程なく街道は「新宿
(あらじゅく)町」信号で再び県道128号線に合流し、ここを左折する。
 ここが「新宿の辻」で木札が立っていたと言うが、何も見つからなかった。
 その直ぐ先左側に長浜観音堂が建っている。

   【長浜観音堂】 矢場川地区史跡
 長浜観音堂は長浜伝九郎重峰(ナガハマデンクロウシゲミネ)が三年にわたる一二八社寺の廻国巡礼後、新宿に居住し、宝永八年(1711)願主となって国土安全・万民平和を祈願し建立したといわれています。
 御本尊は木造五〇センチメートルほどの厨子入り観音菩薩で、今も当時を偲ぶ遺品と共に堂内に納置されています。
 またこの観音堂は、その後新田秩父観音巡礼の十九番札所となり、そのとき堂の正面に掲げられていた巡礼歌がやはり保存されています。
「巡礼は三宝帰依の志留しり いのる人こそ寿命長浜」
 なおこの観音堂は、以前は八坂神社附近にありました。
     平成三十一年二月 矢場川地区文化財協会


 観音堂の左側には石仏・石塔等が建っており、歩道側の地蔵尊の後ろに建つ如意輪観音像の台座は道標になっている。
 そこには、「念佛供養塔 右たてばやし 左さの道」と」刻まれている。
  


【宝性寺 (左側) 14:57
 観音堂から直ぐの矢場川に架かる「新宿橋」を渡って、二つ目の「堀込町南」信号手前の左に宝性寺があり、その交差点角に昭和六十三年七月建立の「八木節元祖 堀込源太翁之碑」が建っている。石碑の裏側に碑文が刻まれていた。
 この石碑の裏側で、寺の参道上に「八木節元祖 堀込源太郎翁之墓所」の標柱と共に墓が建っている。

 

 【堀込源太師一代記】 
 郷土民謡八木節の元祖堀込源太師こと渡部源太郎は明治五年一月二十九日梁田郡堀込(現足利市堀込町)六十二番農源五郎の長男として生まれた。
 はじめ家業に従事したがのち荷馬車輓に転じた。生来の美声に加え芸能に対する関心ふかく、その稟質は年少期から郷関に知られた。就中盆踊り唄における名声は二十代にしてすでに四隣を圧した。この地方(足利市南部)には江戸末期より越後くどき(神保広大寺くづし)を源流とする盆踊り唄がうたいつがれていたが源太師はこれが緩慢な曲調を、ハイテンポの活気あるものに改変。源太節なるものを案出した。しかし大正三年七月、日本蓄音機商会におけるレコード吹き込みに際しては、自説を一歩ゆずり「八木節」なる呼称のもとに吹き込みを受諾した。
 八木節なる名称は、日光例幣使道の名宿「八木」を用いたもので、これが八木節の全国風靡の端緒をなした。大正五年東京に出て浅草興業街に進出するや、色物名人としての声明をほしいままにし、またノンプロに転じ即里に定住するや両毛地方における八木節振興に寄与してついに八木節をして日本三大音頭(伊勢音頭、木崎音頭、八木節音頭)のひとつに格付けせしめるところとなったが、昭和十八年十二月八日享年七十二をもって永眠した。しかし芸能一筋に賭けたその生涯と業績は、民謡八木節とともに、常に蘇りそして光を放つのであろう。   合掌
     昭和六十二年十一月 足利文林会長 三田忠夫織

 チャッポコ チャカポコ と威勢のよいおはやしは馬の蹄の音が鼓に、首の鈴が鐘に、かいば桶が樽に変化したもので、語り文句の語尾に唄われるオーイサネは青(馬の名)勇めが訛ったものである。

 宝性寺を出て15分ほど歩いた左側、御厨地区自治会が立てた「ようこそ 八木節のふるさとへ」と書かれた大きな立て看板が現れる。
 

 その直ぐ先左側にある「福居郵便局」辺りから東武鉄道「福居駅」の踏切辺りまでが八木宿
 


【八木宿】 倉賀野宿から十一里十四町(44.7Km) 太田宿から二里十町(8.9km) 梁田宿へ三十町(3.3km) 今市へ二十里十四町(80.1Km)
 往時、合計八本の松が宿にあったので八木と呼ばれるようになった。文化・文政時代(1804~1829)には繁盛して、旅籠総数95軒中32軒は飯盛女をおいていたとのこと。木崎宿同様越後から来た女性が多かったので、上述のように越後の口説き唄が
八木節の源流だったようだ。
 明治に入ると、両毛線や東武鉄道の開通で足利の方が繁盛するようになった。一時は、八木と梁田
(やなだ)の遊女屋が八木の北の栄町に集められて賑わったがそれも昭和10年代までで、現在は昔の面影は殆ど残っていない。


八木本陣跡】 (左側) 15:19
 郵便局から直ぐの「八木宿」信号を渡った左角の建材屋「寺山商店」が往時の八木本陣跡
 


【八木宿碑 (右側) 15:23
 直ぐ先の右手、櫓が建っている「八木節会館」の敷地左角に八木宿の石柱が立っている。開館は10:00~15:00(入場無料・水曜休館)なので会館内は見学出来なかった。
 石柱の正面に「旧日光例幣使街道八木宿」、右面に「平成二十二年五月 御厨郷土文化研究会五十周年記念」、左面に「(財)足利市民文化財団」と刻まれていた。
 
 


母衣輪神社 (左側) 15:29
 4分ほど進むと左側に母衣輪神社の大きなイチョウの木が見えてくる。

   【母衣輪神社のイチョウ 一本】 足利市重要文化財(天然記念物)(平成7年3月17日指定)
 大きさ目通り(胸高幹井)四・二m、高さ約一三m。地上五m以上で四本に分かれほぼ直上、枝張りは東及び北に各々七m、西及び南に四~五mで、遠方からみるとホウキを逆さに立てたような樹形である。
 南西側根もとに焼損跡があるが、地上三m以上は樹皮も回復し樹勢さかんである。なお成長し続けているものと考えられ、永く保存したい。
     足利市教育委員会


 イチョウの右側が入口で、玉垣の主柱に「例幣使街道 八木宿鎮守 母衣輪神社」と刻まれている。その入口から黄色い落ち葉を踏みしめて境内に入ると下の写真の鳥居が建ち、その奥の大きな木がこれも天然記念物のクスノキ、更に奥に建っているのが社殿である。
   

   【母衣輪神社のクスノキ 一本】 足利市重要文化財(天然記念物)(平成7年3月17日指定)
 大きさ目通り(胸高幹井)三・一六m、根まわり九・〇m、高さ約一三m。地上二m以上で多数の枝を分ける。枝張りは西に八・五m、北及び東に各七m、南に五m。北側の根もとに、約三〇Cm四方ほどで樹皮が剥げ、材は露出しているが、空洞化には至っていない。樹齢は約二〇〇年ほどと思われる。北側根もとに枯損部があるが全体として樹勢さかんで、適切に保護すればなお成長し続けるものと思われる。平成六年までに調査された中では、市内最大のものであり、長く保存したい木である。
     足利市教育委員会

【古民家 (右側) 15:35
 母衣輪神社の先右側、松井歯科の隣に古民家が残っている。往時の庄屋だった大黒屋か??
 


トチセン工場 (左奥) 15:40
 その直ぐ先、「福居町」信号の手前「国井肉店」前で今回の旅を終了して、ここを左折して福居駅へ向かう。
 この道の突き当たりが福居駅で、そこを左折すると(株)トチセンのレンガ造りの建物が見える。


赤レンガ捺染工場


赤レンガサラン工場
 【トチセン(旧足利織物)】 国登録有形文化財
赤レンガ捺染(なっせん)工場・赤レンガサラン工場・汽罐室(きかんしつ)(ボイラー2基付)
 トチセンは、足利が織物産業で隆盛していた大正2年(1913)に足利織物株式会社として創業。同8年(1919)に明治紡織株式会社となり「明紡」として知られました。
 6連の鋸(のこぎり)屋根が特徴の赤レンガ捺染工場は、イギリス積みのレンガ造平屋建で、鋸屋根破風(はふ)部分の軒蛇腹(のきじゃばら)や外壁側へ突き出した付柱(つけばしら)、出入口や窓等の開口部マグサ上に走る横材などに外観上の特徴があります。
 赤レンガサラン工場は、捺染工場同様レンガ造平屋建て、半円のドーマ-窓が付いた切妻洋瓦葺の建物です。
 汽罐室(ボイラー室)は捺染工場の西に位置し、イギリス積みのレンガ積平屋切妻スレート波板葺の建物です。内部には4基の蒸気ボイラー(汽罐)が設置されており、中央にある石炭を燃料とするランカシャボイラーは、昭和16年に設置された創業期と同様のボイラーです。
 これらの建物に使用されているレンガは『上敷免製』の刻印が見られることから、渋沢栄一が中心となって創設した埼玉県深谷市の日本煉瓦製造の工場で製造されたものであり、東京駅や迎賓館に使われているレンガと同じものであることが分かります。
 また、建物の壁面全体に塗られた黒い迷彩柄は、終戦直後に空襲を避けるためのカモフラージュとして施されたものです。
 これらは、織物産業発展期に輸出織物の大量生産を目的として建てられた近代工場で、大規模な赤レンガ造工場建築としては唯一現在まで残されている貴重な建物です。
     足利市教育委員会


 「福居駅」で今回の旅は終了。



第5回目終了(15:45) 福居駅」

本日の記録】
 江戸時代の街道での距離(太田駅入口交差点~福居駅入口) : ニ里十町(8.9Km)。
 江戸時代の街道で、福居駅迄の累計:倉賀野駅入口交差点から、十一里十四町(44.7Km)。
 寄り道を含めた実歩行距離 : 9.0Km(細谷駅~太田駅) 累計:54.5Km
 3時間30分 15,400歩

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