日光例幣使道(4) 太田宿

2021年11月6日(土) 快晴  

 街道歩きの前に世良田駅に降り立ち、駅前の貸自転車店で無料の「観光自転車」(レンタサイクル)を借りて、徳川氏発祥の地の一部を巡る。
 その後、世良田駅から細谷駅へ電車で移動して、細谷駅より前回の続きを太田駅まで歩く。
 従って歩いた距離は極短い足慣らし程度になってしまった。

 世界中に猛威を振るっている新型コロナウイルスの影響で外出もままならなかったが、秋に入って日本の感染者が急激に低下してきたので、2年ぶりにおそるおそる街道歩きを再開した。勿論、マスク着用と携帯用アルコールを持参しているが、乗り物と食事以外の街道歩き中は人との接触が少ないのでツアーよりやや安心感がある。


(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

「木崎宿」 ← 「目次」 → 「八木宿」


【レンタサイクルで徳川氏発祥の地巡り】 
 世良田駅を11:45スタートして、自転車で八坂神社・昼食・長楽寺・世良田東照宮・旧世良田村役場を見学。


【八坂神社】 11:50~12:05
 世良田駅より県道69号線を南下して自転車で5分、左に入ったところに八坂神社があり、歴史と格式のある神社で、御朱印の種類が豊富なことでも有名である。
 私は二軒の食堂の間の脇道を入ったが、正式な参道は県道の左側を平行に延びている。

   【八坂神社】 
 八坂神社の創建は明かではないが、縁起によれば、新田氏代々の崇敬神社であり、織田信長も同社を崇拝し社殿を修造したという。また、尾張匡(愛知県)津島天王社の分霊を移したとも伝える。これは、世良田正義の娘と南朝の王子尹良(ただなが)親王との間に出生した良王が、津島天王社の神主となったという故事によるものであろう。
 「永禄日記」(長楽寺蔵)の永禄八年(1565)六月七日の条に、「天王祭ヲイタス」とあり、古くは「午頭天王」を祀る天王社であった。江戸時代は神宮寺(天正二年(1913)普門寺へ合併)が奉仕し、世良田・女塚・境・三ツ木・粕川村など五ヶ村の鎮守であったが、明治初年さらに平塚・村田村・木崎宿などが加わり、二十四ヶ村の郷社とされ、八坂神社と称した。
 当社は農業・厄除けの神として広く信仰されている。特に夏祭は「世良田祇園」として知られ、かって、十一台の屋台が繰り出して競う祇園ばやしは、夜空にこだまして絢爛幻想の世界を現出し、関東の三大祭の一つに数えられた。近年は交通事情により祭の規模は縮小されているものの、村人により祭り屋台・囃子が良く保存されており、神輿の渡御などに「世良田祇園」の伝統が受け継がれている。

祭礼  春-四月十五日  秋-十月十五日
八坂神社の文化財  源頼義・清原・武則会議絵巻(金井研香 筆)
本殿  宝暦六年造営 棟梁 林兵庫正清(棟札による) 
芭蕉句碑・掲額等
     昭和六十三年三月 


 本殿左側に芭蕉句碑が建っている。

   【芭蕉句碑】 太田市指定重要文化財(平成3年4月25日指定)
        ばせお翁
  しばらくは
   花の色なる
     月夜かな
        春秋三世碓嶺書

 この句碑は、1826(文政九)年建立で仁井田碓嶺(にいたたいれい)の筆になる芭蕉句碑である。碓嶺は1789(安永九)年に上州碓氷郡坂本宿中宿に生まれる。師の常世田長翠の初号、都久裳にちなんで九十九坊といったり、昨日庵とも号した。後年には師長翠の没後、小蓑庵を継いで上毛俳壇に師の俳風を伝えた。
 この八坂神社の句碑に「春秋三世碓嶺書」とあることから碓嶺が加舎白雄(かやしらお)、長翠の後に春秋庵を継いだ事実が証明される点で、俳諧資料としても貴重なものとなっている。  碑陰には、碓嶺の指導を受けた人達であろう造立者(志塩、梅雪、兎月ら)二十名の地元俳人名を列ねて往時当地方の俳諧の盛行を偲ばせている。
     平成四年三月三十一日  太田市教育委員会


 上述したが、八坂神社には御朱印の種類が沢山ある。金文字の「気」、「季節の花」限定、月限定、月次祭限定など毎回異なったデザインの限定御朱印が出てくる。御朱印にはまっている近隣の人達にはたまらない神社だろう。
 私は、十月二十二日の「猫の日」御朱印を頂いた(初穂料五百円)。
  


【昼食】 12:05~12:50
 八坂神社脇道の県道沿いにある食堂「朝日屋」に入った。隣の店は閉まっていた。
 「朝日屋」は、表に”ととろ”の旗が立っているだけでメニューや店内表示が無く、店に入った途端、女将に「”とろろ”は大丈夫ですか?」と聞かれ「はい!」と答えたら則厨房に入っていった。
 結果、この店は”ととろ飯”一品のみの店だったが、これが大正解。
 最初、すり鉢入りのとゝろ汁、ご飯、小さい掛け蕎麦、一口大の豆腐、漬物が出てきて、後から天ぷらをお持ちしますと言われた。やがて出てきた野菜の天ぷらが大盛りで、ご飯を残してしまうほど満腹
した。前もって値段が分からなかったので恐る恐る聞いたら、なんと850円との事。美味しい上にこのボリュームでこの値段とは二度びっくり。都会だったら1.5倍の金額を取られそうな食事だった。従って★★★★。


【長楽寺 12:55~13:15
 更に数分自転車で南下した右側に長楽寺総門が現れる。この時期、門に掛かるような紅葉が綺麗だった。

   【長楽寺】 (この説明文は、総門の奥に建つ本堂前の山門に掲げられているもの)
 新田氏の祖義重の子徳川�義季を開基とし、日本臨済禅の祖栄西の高弟栄朝を開山として、承久三年(1221)に創建された東日本最初の禅寺(東関最初の禅窟)である。ただし禅の専門道場ではなく、顕教密教を兼修したので、三宗兼学の寺として知られた。
 創建当時は、広大な境内には塔頭子院が軒を並べ、五百を超える学僧が止宿して研学修行にはげんだ。その中には入宋したものも多く、これらを含めて当寺出身者は全国に禅風を挙揚し、日本仏教史に重要な地歩を占めた。聖一国師・神子栄尊・無住一円・月船琛その他枚挙にいとまない。
 新田氏を始め関東武士の崇敬も篤く、周辺の庶民にもその教化は及び、その思想的影響ははかり知ることができない。当寺もその一つに数えられた。
 戦国時代になると寺運は著しく衰退した。
 天正十八年、徳川家康は小田原北条討滅の功により、秀吉より関東の地を与えられた。家康は長楽寺の現況を嘆いて、天海僧正をその住職に任じて、祖先開基の寺の復興にあたらせ、寺領百石を与えた。天海は当寺を臨済宗から天台宗に改め、境内を整備し、伽藍を修復し、末寺七百有余か寺擁する大寺院に成長させた。天海は同時に日光輪王寺の住職でもあったので、日光東照宮が改築されるあたり、元和造営の社殿の一部を長楽寺の境内に移し、東照宮を勘定した。幕府は社領として二百石を与え、長楽寺をその別当寺として管理と祭祀にあたらせた。
 しかし、荒廃の悲運に際会せざるを得なかったが、最近多くの人によってその歴史的価値が認識され、各方面の努力を得て復興の燭光を仰ぐに至った。
 長楽寺の文化財(略)


 その直ぐ先に県重要文化財の勅使門があるが、修理中で幕が掛かっていて残念ながら美しい赤門を見ることが出来なかった。かつては隣の東照宮の正門だったとのこと。
 勅使門の前には、門の説明文と石柱が立っていて、石柱には「国指定史跡 新田荘遺跡 長楽寺境内」と刻まれていた。
【長楽寺の勅使門】 群馬県指定重要文化財(昭和23年4月23日指定)
 この門は、江戸時代東照宮の正門ともいわれた。勅使または幕府の上使が参拝するときのみ使用され、それ以外は開かれることがなかった。そのため、「あかずの門」ともいい、俗に「赤門」ともいわれる。
 建築年代は、はっきりしていないが、東照宮が遷宮された寛永二十一年(1644)と同時代に造られたものと思われる。東照宮に残っている修理棟札を見ると、この門は、上使門とも呼ばれており、東照宮付属の建物として、徳川幕府の手により修理が行われていた。
 神仏分離政策により明治八年、長楽寺、東照宮が分離された時、長楽寺に所属したものである。
 門の造りは、銅板葺四脚門、本柱・控柱
(ひかえばしら)ともに円柱である。軒は二軒半繁垂木(しげだるき)、正面の控柱には頭貫(かしらぬき)を渡して、その中心に割束(わりづか)をもって丸桁(がきょう)を支えている。側面は頭貫上に割束を立て、虹梁(こうりょう)を支え、その上に大瓶束(たいへいづか)を立てて棟木を支え、また、かぶら懸魚(けぎょ)を用いている。
 昭和四十三年に、解体修理をした時に、保存上から、位置を約二メートル西へ移した。
     昭和五十三年三月  太田市教育委員会

 勅使門から入ることは出来ないので、総門から入り、すぐ左の蓮池を巡り勅使門の裏側へ回った。
 勅使門を背に蓮池に架かる渡月橋を渡る。渡った所に説明文が立っていた。下の写真は橋を渡り、振り向いて写した渡月橋と勅使門である。

   【長楽寺の蓮池と渡月橋】 
 この池は、長楽寺の住持義哲西堂の永禄八年(1565)の日記(永禄日記 県重要文化財)にもある池で、承久三年(1221)長楽寺創建当時の遺構を残す一つである。別名心字池ともいい、心の字をかたどってつくられ、南の池の二つの島は心の字の二点を現しているといわれる。以前は北の池に白、南の池に紅の蓮があり、盛夏の頃には池一面に紅白の花が咲き、さわやかな芳香があたりに漂っていた。
 中央に架かる弧状の橋を渡月橋といい、後鳥羽上皇から下賜されたと伝えられる五面の勅額の一面に「渡月橋」とあるのは、この橋のことと考えられる。元は木橋であったが、寛政八年(1796)石橋に改められた。北側の橋桁の内側に御修復 篠本勝左衛門外十六名と、棟梁 市田吉左衛門、石工 天野源兵衛の氏名が彫刻されている。石橋当時の欄干の擬宝珠は現在の本堂(旧太子堂)勾欄擬宝珠として保存されている。
 昭和五十七年、歴史公園計画事業の一環として池の浚渫】および周辺の整備を行ったが、本格的な学術調査は後日を待つこととなった。
 なお、池の汀にある岩石は昭和四十四年護岸のために据えたもので、元は素掘りの池であった。
   (竜宮伝説)
 北の池は、底が竜宮に通じていて、何か必要なものがあれば、その品名を書いた紙を池に投げ込むと、水面が渦巻いてその紙を吸い込み、やがて忽然としてその品物が浮上するといわれていた。ある時、寺に大行事があって、千畳張りの蚊帳を借りた、それは蓮の糸で織られた精巧な蚊帳だった。寺僧がこれを惜しんで返さなかったため、以来、いくら紙を投げ込んでも、池の水面には何の異変も起こらなくなったという。
     太田市教育委員会


 渡月橋を渡って真っ直ぐ進むと三仏堂に突き当たり、その左側を回ると後ろに道を挟んで太鼓門が現れる。

 
三仏堂

太鼓門
 【長楽寺三仏堂及び太鼓門】 群馬県指定重要文化財(昭和57年(1982)4月20日指定)
 三仏堂は、長楽寺の中心的な建物であり、慶安四年(1651)に三代将軍徳川家光の命により再造され、数回の修復(最終的には昭和五十九年の解体修理)を経て現在に至っている。桁行五間、梁間四間、一間の向背付寄棟造、東向き総丹塗(にぬり)、屋根はもと茅葺きであったが、明治九年瓦葺き、昭和五十九年銅板平葺に改めた。建物の仕様は、外部の正面両隅間を中敷居入りの窓とし、竪連子を組み込み明障子付杉戸引違、中央を四つ折り桟唐戸両開きとし、内・外陣境の両脇間を格子戸違に、両側面の前より第一、第二間を戸板引違とし、明障子を設け、第三間を板壁とする。
 内陣須弥壇上に向かって右より、釈迦如来(像高2.2メートル)・阿弥陀如来(像高2.53メートル)・弥勒菩薩(像高2.24メートル)の三躯を安置する。
 三躯はいずれも木造寄木造の座像で、右から順に、過去・現在・未来をあらわし、三世仏と呼ばれる。釈迦如来座像および弥勒菩薩座像の胎内には次の銘あり(略)

 太鼓門は、鼓楼ともいわれ、三仏堂の西に隣接して立ち、様式手法等により江戸時代初期のもので、その後、三仏堂同様に修理を経て現在に至っている。
 桁行三間、梁間三間、袴腰付、入母屋造、銅瓦葺、東向き、中央一間扉構、上部は四周に縁をめぐらし、高欄が付く。正・背面の中央間に火灯窓、嵌板に華麗な彩色透彫文様を施す。楼上に太鼓をかけ、寺の諸行事の合図に使用した。
    平成十九年(2007)三月  太田市教育委員会


 太鼓門をくぐらずに右手に進んで本堂に向かう。
 山門をくぐって正面に本堂(太子堂)、その右手に鐘楼堂が建っている。

   【長楽寺本堂(太子堂)】 
 古くは、この寺の表玄関であったが、明治九年に慈恵、慈眼両大師の像を安置してから、大師堂と呼ぶようになった。
 現在の建物は平成十七年に再建されたもの。
 三代将軍徳川家光の寄進によるこの寺の本尊、釈迦・文殊・普賢の三尊仏もここに安置されている。


 本堂から左手(太鼓門の左後ろ)へ進むと、新田一族供養塔(石灯籠と十三重石塔)が建っている。

   【新田公並一族従臣忠霊供養塔】 
 昭和十六年に建立されたこの塔は、当時の世良田村有志十数名からなる発起人により、新田一族並従臣忠霊供養塔建設会が組織され、その呼びかけに応じた県内外数百名に及ぶ篤志家と、世良田国民学校児童をはじめ各種団体の賛同により、その浄財が寄せられ完成された。
 その建立の趣旨は、新田義貞公戦没して六百余年、公の事跡は国民の広く知るところであり、国や県等においても神として奉斎されているが、新田一族のそれはあまり世に現れず、従臣に至ってはほとんど顧みられない現状を遺憾とするものである。
 太平記により、堀口貞満の言を借りれば「義を重んじ節に殉じて死屍を戦場に曝した者は、一族百三十二人、郎党士卒八千余人」とある。その後の転戦を合わせれば、万余に及ぶ将兵が、二度と再びふるさとの地を踏むことなく、異郷の土と化したのである。
 ここに義貞公と並んで新田一族従臣の忠霊を供養のため造塔の佛事をなさんとするものであった。
 開眼法要は十月五日、男爵新田義美、群馬県知事代理尾崎喜佐雄をはじめ郡内官民多数の列席を得て営まれた。
 以後毎年五月八日、五十年を経た今日も、関係者によって供養の法要が営まれている。
     太田市商業観光課 


 この供養塔の後ろには、開山堂・開山 栄朝禅師の墓・牛石・宝塔などがある。

 更に左へ、東照宮との境まで進むと、一段高いところに徳川義季公累代の墳墓があり、石標が立っている脇の石段を上ると、多数の墓と国重文の宝塔が並んでいる。
 宝塔は正面左側にあり、後ろに標柱と説明文が立っている。

    【宝塔】 国指定重要文化財(昭和36年3月23日指定)
 ここは長楽寺の開祖徳川次郎義季を初め、徳川氏累代の墓所と伝えられ、前方後円墳の後円部にあたり、古くから文殊山と呼ばれている。
 この宝塔は凝灰岩製で、相輪は失われているが、現存部の高さ一メートル六十五センチである。屋蓋、軒口の切り方、軒反り、瓶型の塔身等に鎌倉時代の特色を良く現している優秀な石造宝塔である。
 昭和六年、周囲の石垣を築造し塔を整備したさい宝塔の基礎底面に
    敬白
    奉造立多宝石塔
    右所造如件
    建治二年丙子十二月廿五日(1276)
    第三代住持比丘院豪
と銘文が刻まれているのが発見された。
 塔の造立者院豪は寛元年中(1243~1246)に宋に渡った。正嘉二年(1258)長楽寺第三世となり、以来二十四年間住職であった。
 弘安四年(1281)長楽寺で没し、その後「円明仏演禅師」と朝廷よりおくり名をされた高僧である。
     昭和五十三年三月  太田市教育委員会 


 墓所の左面に並んでいる下の写真で、左から四番目の白い墓が徳川義季の墓とのこと。
 


【東照宮】 13:15~13:45
 長楽寺に接した隣に東照宮がある。
 入口の門は御黑門と呼ばれ門前に東照宮の由緒と門の説明文が立っている。

   【御黒門(縁結門)】 
 東照宮創建時、幕府により建てられた門で、左右には八十メートルの白壁の塀がありました。
 江戸時代は平時閉ざされ、門前での参拝。正月、四月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の階段前までの参拝が許されました。
 この門の蹴放(けはな)し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると云われ、縁結びもんとも言われています。


 黒門をくぐると直ぐ左に上番所が復元されている。

   【上番所】 
 江戸時代、徳川幕府は東照宮を護る為、上・下の二ヵ所に番所を設け、昼夜警備に当たらせた。
 この番所は二間と一間半の建物で、ここに川南(埼玉県深谷市)の中瀬・横瀬・北阿賀野・南阿賀野・町田・血洗島・上手計・下手計・大塚・成塚・新戒・高島の村々、川北(群馬県太田市・伊勢崎市)の世良田・粕川・出塚・大館・堀口・上田中・下田中・上江田・中江田・下江田・高尾・八木沼・平塚・中嶋・高尾・境・女塚の村々から二~四へ出仕していた。
 出仕の村々には、助郷とは異なる優遇を受けた。

  番所にあった道具
一、三ッ道具(突棒、刺股、袖搦)
一、棒十本
一、鳶口三本

 火災時には、縦横三尺の大団扇を以て火消しを行った。


 黒門から真っ直ぐ進めば石の鳥居が立ち、右手に授与所と宝物館が建っている。

   【東照宮】 
 元和二年(1616)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改装された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。
 幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当たらせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることとなった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
 東照宮の鎮座により、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。
    東照宮の文化財
(国指定重要文化財)
建造物-本殿・唐門・拝殿・附鉄燈籠
工芸品-太刀銘了戒・附拵銀造沃懸地太刀
(県指定重要文化財)
絵画-傷めん板面著色三十六歌仙図
(県指定史跡)
法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡
真言院井戸
     昭和六十二年三月


 鳥居をくぐって拝殿前に進む。拝殿・本殿・宝物館は柵に囲まれ、見学には別途拝観料が必要となる。
 私は入らずに、外から下の写真を撮った。
  
拝殿


【旧世良田村役場庁舎・正門】 13:55
 世良田駅から南下する時には見つけられなかった旧世良田村役場東照宮から駅に戻る途中ですぐ見つかった。県道69号線の「世良田郵便局」を入った所。
 八坂神社の鳥居を出て真っ直ぐ南下した次の十字路左角にある。

   【旧世良田村役場庁舎・正門】 国登録有形文化財(平成17年11月10日指定)
 昭和三年(1928)に世良田村役場として建設されたもので、正面が南向き。玄関ポーチが突き出ている形になっている。
 外部、内部共に改造は少なく、建設当時の姿を良くとどめている。全体的に装飾を控えた簡素な造りで、昭和初期の地方庁舎建築の好例となっているそうだ。
 昭和三十二年(1957)に世良田村が尾島町、境町と合併して以降は、変遷を重ね現在でも使用されているとのこと。


【例幣使道歩き】
 
 世良田駅14:09の電車で細谷駅に移動し、細谷駅を14:20にスタート。


【威光寺 (左側) 14:40~14:45
 前回時間の都合で訪問出来なかった、新田義興の菩提寺である威光寺を参詣。
 街道から少し入った所に山門があり、門の脇に「新田義貞ゆかりの地 太平記の里 案内図」と共に寺の由緒が掲げられている。

   【威光寺】 
 威光寺は、元徳二年(1330)六月一日、新田義興公の開基、吽海(うんかい)法印の開山した寺院で古くは正永山醫光寺と称されました。
 応永年間(1394~1427)横瀬貞氏は新田義興公の追善をするため殿堂房舎を修築して法具を整え、義興公の諡(おくりな)(死後にその徳をたたえておくる名)「威光寺殿従四位下前武衛傑傳正英大居士」にちなんで、正英山威光寺と改め以来、威光寺は新田家累代の祈願寺として栄えてまいりました。横瀬(後の由良)氏との関係も深く、中興の祖、第九世長圓は、金山城主由良成繁の一族であります。
 元禄八年(1695)十一月の大火によって堂宇を消失しましたが、宝永年間(1704~1710)第十八世義海法印の代に再建されました。
 境内の不動堂は明治四十二年(1909)に消失し、大正四年(1925)に改築されましたが、安置されている不動明王像は新田義貞公が上洛の折に入手して、由良の郷造営の際に当寺に寄進されたもので、奈良東大寺の開山良弁僧正の作と伝えられております。
 なお、本堂西北の小高い所にたたずむ中央の宝篋印塔が新田義興公の墓であります。


 その新田義興の墓が下の写真。
  


【庚申塔】 (右側) 14:50
 威光寺の直ぐ先で二股道が現れ、その手前右側のガードレールと塀の間に庚申塔が建っている。下半分は埋もれていた。

 


 威光寺を後に街道を進み、聖川を「聖橋」で、次いで蛇川を「椿森橋」で渡る。
 金吾氏の地図には蛇川の手前に道標が描かれていたが現在は何も残っていなかった。また、渡った右側に木柱が立っていたが、何も書かれていなかった。
 15:15 左斜め後ろからくる県道2号線と合流し、東武桐生線のガードをくぐる。
 15:20 「西本町」信号を越えた左側、「亀甲堂カナヰ薬局」前の歩道上に「左 京都」と刻まれた新しい石柱が立っていた。


【旧日光例幣使道碑】 (右側) 15:25
 八瀬川を渡った右側に小公園があり、そこの公衆トイレ前に旧日光例幣使道の碑が建っている。

 太田宿は、この八瀬川を渡ったところから始まり、渡った所に宿入口の木戸があったと云う。

   【旧日光例幣使道】 
 江戸時代正保三年から慶応三年まで日光東照宮の四月の例祭に朝廷が例年差遣した奉弊使を日光例幣使といいその通行路を日光例幣使道と呼んだ 永盛橋を東西に走る道が旧日光例幣使道でこの道は中山道上州倉賀野宿で分岐し玉村宿から太田宿を通り野州八木宿より金崎宿に至る十三宿を結ぶ街道で壬生道日光道中を経て日光に通じた 日光例幣使道は明和元年五街道に準ずる主要街道にもなり歴史に永くその名をとどめている
     昭和六十三年三月吉日 太田市長 戸澤久夫

【太田宿 倉賀野宿から九里四町(35.8Km) 木崎宿から一里三十町(7.2km) 八木宿へ二里十町(8.9km) 今市へ二十二里二十四町(89.0Km)

 太田という地名は、推古天皇のころ開かれた新田が非常に大きかったから名付けられたと云う。
 慶長十八年(1613)、新田義重を祖とする徳川家康が義重ゆかりのこの地に義重山大光院新田寺を建立すると、近村からの移住者がしだいに増えていった。
 寛永二十年(1643)には、往還を中心に町並みが形成され、その二年後の正保元年(1645)に太田宿が制定された。
 例幣使が家光の要請で正式に日光東照宮に派遣されたのは更に二年後の正保四年なので、例幣使が派遣される前から宿場の機能を持っていたことになる。
 また、橋本家が務めた本陣は、太田が宿駅となる前の元和八年(1622)とのこと。
 その後の太田宿は、遊女が許されないほど規制が厳しかった為、大きな発展は見られなかった。
 現在の太田宿は、街道が拡幅されて往時の面影は殆ど無い。

〈上述の大光院は、創建した呑龍上人にちなみ「呑龍様」と呼ばれている。また、街道から1Kmもあるので今回は行かなかったが、更にその北にある金山城と併せて後日訪問したいと思っている。〉


【太田宿本陣跡地碑】 (左側) 15:35
 旧日光例幣使道碑から三つ目の信号手前左の「太田行政センター」の看板下の草地に太田本陣跡地の石碑が建っている。

   【日光例幣使道 太田宿本陣跡】 
 太田宿は 日光例幣使道十三宿の一宿駅である 日光例幣使道は 徳川家康の忌日に合わせて日光東照宮で行われる御法会に奉幣する例幣使が通行する道中で 太田宿通行は毎年四月十二日であり小休であった その太田宿の本陣職を務めたのが橋本家であった
     平成十七年三月 題字 太田市長 

旧金山図書館】  (左奥)
 本陣跡がある信号を左折し、次の十字路を左折すると右側に太田公民館が建っていて、これが旧金山図書館
 敷地の右角に標柱と説明文が立っている。

   【旧金山図書館】 市指定重要文化財(昭和57年3月31日指定)
 木造平屋建て入母屋造り桟瓦葺。閲覧室四十坪(132㎡)と玄関三坪(約10㎡)からなる。閲覧室は床南側に張り出している。天井は床より十四尺(約4.6m)と高く、湿気を防ぎ建物の耐久化が図られている。窓は開閉自在の回転窓で通風・採光が十分配慮され、図書館機能が建築構造の中によく生かされている。
 この建物は明治・大正時代、太田の実業・政治・教育家として活躍した葉住利蔵(1866~1926)が私財を投じて建設、太田地方の文化発展のため、私立の図書館として大正十一年(1922)五月一日に開館したものである。建築当時は閲覧室のほか、二階建て土蔵造りの書庫、管理者用の和風住宅が敷設されたが現在は残っていない。
 その後、図書館は太田町に寄付され、現在は太田公民館の別館として使用されている。市内に現存する明治・大正時代を通じて公共洋風建築としては唯一のもので、建物の保存状態は良好である。県内に現存する草創期の図書館建築遺構として重要なものである。 

【新田義貞銅像 15:50
 街道に戻って、次の「東本町十字路」信号辺りに高札場があったとのこと。
 その次の「太田駅入口」信号で今回の旅を終了し、ここを右折して太田駅より帰宅。
 太田駅北口前のロータリーに新田義貞の銅像が建っている。

   【新田義貞公は清和源氏新田氏直系の郷土出身の武将である】 
 元弘3年(1333)5月8日卯刻生品明神の社前に義旗を挙げ坂東諸国・越後・信濃・甲斐の源氏を糾合して鎌倉を攻め 同月22日執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼした この功により建武新政が成り後醍醐天皇より越後守・播磨守・上野介に任ぜられ武者所頭人・左近衛中将となる その後北条時行の乱を契機に南北朝の戦乱が起こり義貞公は南朝方の忠臣として各地に転戦した
 延元元年(1336)吉野に移った後醍醐天皇は恒良親王・尊良親王と義貞公を越前に下がらせて再起を図った 義貞公は越前平野を支配下に置いたが南風競わず 延元3年(1338)閏7月2日越前藤島燈明寺畷で斯波高経の軍勢との遭遇戦において壮絶な最期を遂げた 御年38歳であった
 御遺骸は福井県丸岡町の称稔侍に葬られた 公の御霊は太田市新田神社 福井市藤島神社にまつられている 太田市金龍寺には供養塔と顕彰碑がある
     昭和63年5月 新田義貞公銅像建設委員会


第4回目終了(15:45) 太田駅入口」信号

本日の記録】
 江戸時代の街道での距離(威光寺~太田駅入口信号) : ニ九町(3.2Km)。
 江戸時代の街道で、太田駅入口交差点迄の累計:倉賀野駅入口交差点から、九里四町(35.8Km)。
 寄り道を含めた実歩行距離 : 5.6Km(細谷駅~太田駅) 累計:45.5Km
 1時間30分 8,400歩

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