日光例幣使道(2) 境宿

2019年3月28日(木) 晴  

 本庄駅から国際十王バスで「堀口バス停」まで行き、前回終えた「堀口町信号」を10:00スタートして、現在の「例幣使街道」(県道142号線)を進む。

 昨年の5月以降、娘の出産、隣に引っ越してきたことで毎日の子守り、母の葬儀などで忙しかったので10ヶ月ぶりの街道歩きとなった。


(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

「倉賀野宿・玉村宿・五料宿・柴宿」 ← 「目次」 → 「木崎宿」


昌雲寺】 (左側) 10:05~10:10
 「堀口町信号」から左に3本目の道を350m程行った、「名和幼稚園」手前の畑に那波城本丸跡の石碑が立っているが、左折道を通り越してしまい昌雲寺まで来てしまった。戻るのが面倒になり本丸跡には行かなかった。
 昌雲寺の入口を入ってすぐ右手に萬延元年の道標兼文字庚申塔が立っている。表面に『庚申』、左面に『従是一丁上り 北 伊勢崎道』、右面に『従是南 本庄道』と刻まれている。
 山門を入った所に説明板や庚申塔等が建っている。また、この寺は伊勢崎佐波三十四ケ所の第八番札所である。



【昌雲寺】 
 昌雲寺(曹洞宗)は、山号を天誉山といい、寺伝によれば、応永三十一年(1424)法澄光園禅師の開山で、開基は僧天誉です。本尊は、釈迦牟尼如来です。初めは蓮光寺にありましたが、那波氏在城の頃(1555~1601)、現在地へ移ったといわれています。
 那波城の地図によると、城塁の中に寺があり、境内には、重殿稲荷、えんま堂などがあり、石造物には、青面金剛を刻んだ庚申塔や地蔵菩薩像などがあります。また、墓地には、近くの池の薬師から移された、文和元年(1352)銘の板碑もあります。
     平成十八年三月 例幣使道まちづくり会議

【山門新築落慶記念碑】 
 当山の由来は、『伊勢崎風土記』や、『名和村郷土誌』によると応永三十一年(1424)甲辰の年、天誉妙春大師を開基として本寺武蔵国藤沢村人見(現在深谷市)の昌福寺の六世法澄光園禅師自明慧了大和尚を迎えて開山として山号を天誉山と号し、初めは、村中蓮光寺の処にあったが、那波氏在城(1555~1601)の頃、今の地に移る。末寺には、足利市外大月の密蔵院がある。本堂には、御本尊である釈迦牟尼如来を安置し伊勢崎佐波三十四ケ所の第八番札所として、聖観世音菩薩を堂内に安置し、時世の句で「天与なる 紫むくむ昌雲寺 菩薩の智力浮ぶ堀口」があり境内には閻魔堂、地蔵堂、重殿稲荷堂など石像物は宝永元年(1704)銘の青面金剛像の庚申塔をはじめ正徳二年(1712)建立の地蔵菩薩坐像一対、墓地内には文和元年(1352)銘の板碑があり、これは、堀口の字池薬師にあったものなど長い間庶民の信仰の寺院として隆盛を極めた。今回の山門の瓦には、大江広元の三子正広が源頼朝から那波郡に封ぜられ、那波氏ゆかりの「一引三星」の定紋が使われている。
 以前の山門については、伊勢崎藩の藩士で当山の檀信徒であった木村氏より廃藩置県により伊勢崎藩最後の藩主酒井忠彰公在城の時の勝手門が寄進されたが、昭和の末期には、老朽化激しく倒壊したため、再建の機運が高まり、檀信徒と関係各位の皆様の絶大なるご協力により、約五年間の歳月をかけ念願であった山門が、本格的な建築様式のかたちで見事に「薬医門」として完成した。
     平成二十五年八月吉日

【豊武神社 (左側) 10:30
 韮川を「道満橋」で渡ると左側に「東京福祉大学」があり、前の街道上には『旧日光例幣使道』の案内板が立っている。
  
 
 大学を過ぎると国道462号と交差する「除ケ町
(よげちょう)信号」があり、直ぐ続く「除ケ・大正寺(だいしょうじ)信号」を越えると豊武神社がある。
  

 鳥居をくぐった右手に安永八年(1779)の如意輪観音道標が建ち、台座の左側面にかなり擦れているが『右ちゝぶ 左日光』と刻まれている。

【豊武神社の道標(みちしるべ) 
 豊武神社は、かつて大正寺村の八幡様が祀られていました。境内には、豊受地区で最も古い年号が記された道標が残されています。道標は神仏への功徳になるものという理由から建立される場合が多かったようです。
 この道標は、二十二夜信仰にもとづき、正面に如意輪観音の坐像が美しく彫られ、塔の右に「安永八己亥三月吉日」、左に「二十二夜供養」、そして台石正面に「村中男女」、台石左に「右ちゝぶ」(秩父)、「左日光」と刻まれています。安永八年は西暦一七七九年で、この道標は、以前、例幣使道沿いに建っていたものと思われます。
     平成十八年三月 例幣使道まちづくり会議

道標】 (左側) 10:35~10:40
 豊武神社から直ぐ右カーブした先に「大正寺町公民館」があり、その敷地内に二十二夜供養塔や庚申塔等の石塔群とその手前に道標が建っている。
 道標の四面には『東日光道』、『南本庄道』、『西五料道』、『北(?)いせさき』と刻まれている。
   


【宏洞松本翁頌徳碑 (左側) 10:43
 直ぐ先の信号を渡った右側の「ローソン」の向いに宏洞松本翁頌徳碑が建っている。

【宏洞松本翁頌徳碑】 
 松本宏洞翁は、文政十年(1827)十一月十五日の生まれで、名は訽(まこと)、字は子均(しきん)、宏洞はその号です。学問のために江戸に出て、中澤雪城の門に入り書を学び、渡辺崋山系の福田半香について画を究め、漢詩は大橋訥庵に教えを受けたという多才ぶりでした。
 明治以降は、郷里の文教に尽力するかたわら、数々の名作を遺し、その気品ある書画は現在も珍重されています。頌徳碑は、明治三十五年(1902)に門人達によって建立されました。碑面は、正二位勲一等伯爵・東久世通禧の篆額、西京・江馬天江の欽撰文、東京・学友太田卓之の書によるものです。翁は明治四十四年(1911)三月十三日逝去し、享年八十五才でした。
    平成二十年三月 例幣使道まちづくり会議

【猿田彦大神碑・道標】 (右側) 10:50
 少し進んで、右後ろからの道が合流する点に、万延元年(1860)建立と思われる円柱の猿田彦大神碑と大正四年建立の道標が建っている。
 猿田彦大神碑は、正面に『猿田彦大神 右玉村 左やった』、裏面に『萬延紀元 申歳』(1860年)。
 道標
は、正面に『
東 馬貝塚下蓮沼境町ヲ経テ太田 約五里』、右面に『北 堀口町』、裏面に『西 下道寺八斗島船橋ヲ経本庄町 約一里』、左面に『大典記念 大正四年十一月』と刻まれている。
   


【大絣発祥の地 (右側) 10:55
 直ぐ先右側の「豊受歯科クリニック」の一角に大絣発祥の地碑が建っている。

【大絣発祥の地】 
 伊勢崎織物の主要原料糸は、古くから生糸、玉糸を使用し、その糸は六十キログラムを一俵として白い綿袋に入れ、更にアンペラの袋に梱包され、縄掛して取引された。
 伊勢崎織物の最盛期の昭和の初期には、約六万俵が消費され、この礎石はその俵を擬している。又碑の台座は織物を反物として丸巻した姿を擬した。

【三ツ橋碑 (左側) 11:00~11:05
 直ぐ道は右カーブするがその曲がり口の小川沿いに遺跡三ツ橋の標柱と祠が建っている。
 祠には庚申塔が祀られていて、『三ツ橋伝説と芭蕉句碑』の標柱と説明文が掲げられていたが、欠落していてここでは分からない。
 但し、この先にある『三橋牛打の松と芭蕉句碑』で判明する。



【三ツ橋の伝説】 
 建仁二年(1202)の春、世良田長楽寺を開山した、栄朝禅師が牛に乗って「三ツ橋」に通りかかると、橋のほとりで貧しい身なりの夫婦が、二人の幼い子どもを抱えて途方に暮れていました。
 禅師は「いかがした」と問うと、夫婦は「はい、子どもが急な病気で熱が高く困っております。お坊様、薬でもありましたらお恵みください。」禅師は牛から降りて二人の顔をのぞき「これはハシカじゃ」と言って、経文を唱えました。すると、みるみる熱が下がりました。
 子どもがハシカになったとき、橋の下をくぐると早く治るという俗信は、この三ツ橋伝説がもとになっています。
     平成十七年三月 例幣使道まちづくり会議

【三橋牛打の松と芭蕉句碑 (右側) 11:08
 直ぐ先左側にある「群馬銀行豊受支店」の向いに、三橋牛打の松と芭蕉句碑が民家の一角にブロックで囲われてある。
 敷地内右から、『向松庵創立二百年記念碑』と題した碑文、その左下に牛打松の切り株、文政八年(1825)建立の芭蕉句碑、『三橋牛打の松と芭蕉句碑』と題した碑文、一番左に発起人を記した石板が並んでいる。



【向松庵創立二百年記念碑】 
 向松庵は牛打の松に向かいて建てる庵にして、当村の俳人劔二翁の発起により寛政初期に創建されたものなり。
 劔二翁は幼少より文学に秀で書をよくし、似鳩翁に師事したという。似鳩翁は大坂の人で上蓮沼に住み、栗庵と号した。伊勢崎藩の家老たちに俳句を進講したり、江戸・京都・長野をはじめ、全国各地に俳歴を残した当代随一の宗匠といわれている。
 劔二翁は師に学び、師の執事を務め、師とともに全国各地に蕉風を広め、多くの句集や書を残している。向松庵を訪れる文人墨客とも親交を重ね、門弟を育て例幣使街道随一の興隆を誇る業績を残された。二世茂逸、三世三橋をはじめ、多くの後継者を得、この間幾多の戦乱や困難な時代を乗り越えて来た。現在、初代創建の庵は屋敷跡を残すのみだが、二百年の歳月を経た今日まで連綿と継承され、八世に至っている。
 このことは郷土の誇りであり、その偉業を後世に伝えるべく、ここに創立二百年記念事業として記念碑を建立して一文を刻す。
   平成七年三月発起
    すずしさやすぐに野松の枝の形  芭蕉 (笈日記)
    松の他見る木ももたず時雨けり  劔二 (麓の塵)
    風の手を抑えて松の時雨かな   茂逸 (豊受郷土史)

【三橋牛打の松と芭蕉句碑】 (左下の写真で、右側が芭蕉句碑、左側がこの碑文)
 上野国那波郡馬見塚郷入口例幣使道筋に三橋あり 此の里に用水三筋ならびて流れ ここに石橋架かるが故に三橋という
 建仁二年壬戌春三月(1202年)栄朝禅師という高僧 第八十三代土御門天皇の勅を賜り関東下向の時 この橋を渡ったその折 橋下にて麻疹に悩める旅人のため 小松をかざして祈祷護符を与え かたわらの畑にその松を挿し 牛車にて立去った 旅人の病癒え また不思議にも此の松自然に根付き 枝葉栄えたという
 後世 この松の威容に感動せし当村の俳人劔二翁が俳聖松尾芭蕉の句を石に刻し 更にこの松に向かいて庵を結ぶ これ向松庵なり
 この古蹟も時代の変遷により松も五代を数え 例幣使道の改修が実施されたので町内有志相図りて古蹟保存のための工事を施工した
     平成七年三月
       撰文  三橋町区長  松本市郎
       用地提供者       松本清司

【飯玉(いいだま)神社】 (左側) 11:15
 「馬見塚
(まみづか)町信号」を越えた先に飯玉神社がある。

【由緒】 
 当社の創建は明らかではないが、後小松天皇の御代の応永年間(1394~1412)大江広元の庶子、那波掃部輔によって再興されたと伝えられている。
 当社はもと上社と下社の二社からなり、明治四十二年三月勅令により両社と延命寺境内にあった八雲神社を合祀し、同年八月この地に社殿を移築奉遷した。
 昭和五十五年合祀七十周年記念事業として社務所。水舎を新築した。
 平成八年四月社殿改築奉賛会を結成し、社殿の改築、境内地の拡張と整備を行い平成九年六月一日に竣工し今日に至る。
     平成九年六月一日建立

【延命寺 (左側) 11:17~11:21
 飯玉神社の右隣に延命寺があり、例幣使の小休止所とされていた。
 街道沿いの入口に説明板が、敷地内に入ってすぐ右側に六基の庚申塔等が建っている。
 右から二番目の巳待供養塔には安永七年(1778)、五番目の文字庚申塔には寛政十年(1798)、一番左の如意輪庚申塔には文化十年(1813)と刻まれている。
  

 参道を進むと、門前に仁王像が立つ山門、その後ろに本堂、左手に鐘楼建っている。

【例幣使御小休止所延命寺】 
 延命寺(新義真言宗)は、山号を住吉山、院号を地蔵院といい、伊勢崎・佐波観音霊場めぐり第一番札所となっています。日光例幣使の御小休所とされ、駕籠や荷物を担ぐ助郷人夫や、連絡役の遠見人足が派遣されていました。
 延命寺には、例幣使一行も聞かれたであろう梵鐘がありました。江戸時代馬見塚村寺内(馬見塚三ツ橋町)劔持氏の寄進といわれ、美しい音色は近郷にも知れ渡り、村では「疣(いぼ)なしの鐘」と親しまれていました。梵鐘には「乳」と呼ばれる百八の疣がありますが、この鐘には無かったので、そう呼ばれていました。太平洋戦争中に供出され、今では語り草になっています。
     平成十八年三月 例幣使道まちづくり会議


 本堂の左側に観音堂が建っていて、伊勢崎佐波観音霊場第一番札所になっている。

伊勢崎 佐波 観音霊場めぐり
【第一番 住吉山地蔵院延命寺、観世音】
 
 新義真言宗延命寺は地蔵尊を本尊とし、寺伝では文明元年(1469)法印道尊を開基としている。江戸末期以来文教の中心となる。明治四十一年一月二十七日、馬見塚の大火により全焼、明治四十五年三月再建の工事にかかり大正元年九月本堂及び庫裏、鐘楼完成、昭和五十四年庫裏建替え、昭和六十一年鐘楼建替え梵鐘も新鋳造し、仏足跡も建立す。
 この観音札所は明和三年(1766)に出来たとされる。明治二十九年一番札所延命寺法印蓮見慶秀師により修復、詠歌復刻が行われたものである。
   補陀落や梢の嵐 吹き絶えて
         鐘の響きに 有明の月

第二番、地蔵寺(廃寺)馬頭観音、伊勢崎市上蓮町
                  納経書は一番延命寺

平成元年三月 伊勢崎・佐波観音霊場めぐり協議会 伊勢崎市観光協会

【豊受小学校跡地碑 (右側) 11:25
 少し先の右側にある「豊受公民館」の奥に豊受小学校跡の石碑と二宮金次郎像が建っていて、その後ろは広場になっていた。
  


【庚申塔 (右側) 11:30
 次の十字路の手前に史跡の案内標識が立っていて、右へ550m行った所に『市指定重文 上蓮の阿弥陀・地蔵石仏』、同1km行った所に『市指定史跡 栗庵似鳩の墓』があるとのことだったが行かなかった。
 ネットで調べたら、
似鳩は大阪生まれの俳人で、明和八年(1771)に俳諧行脚の途中、那波郡上蓮沼村(現上蓮町)に立ち寄ったのが縁で、この地に庵を結び、「喰つみは秋もてなさん軒の栗」と詠み、庵を栗庵と名づけたとのこと。
 その十字路の右角に四基の庚申塔が並んでいる。右が寛政三年、中二基は読みとれず、左は天保五年だった。
  


<昼食> 11:35~12:05 
 直ぐ先、左側にあるコンビニで弁当を買い、隣の「子供のもり公園」のベンチで昼食とした。

 この「子供のもり公園」の入口に日光例幣使街道(豊受版)の案内板が立っていた。

【日光例幣使街道の由来】 
 「例幣使」というのは、例年神様に贈り物を持っていく朝廷の使者のことで、本来伊勢神宮のみでしたが、江戸時代に朝廷が、日光の東照宮に徳川家康(東照大権現)の法要のために、たびたび勅使を派遣していました。これが恒例になったのが「日光例幣使」の始まりです。この日光例幣使が、通るために整備された道であることから「日光例幣使街道」と言われました。伊勢崎市では、南部を横断する国道354号と多くの部分で重なっています。例幣使は正保4年(1647)から慶応3年(1867)の221年間、一度も中断することなく派遣されました。

  


【庚申塔】 (左側) 12:06
 「子供のもり公園」の道を挟んだ右隣に、3基の庚申塔と1基の道祖神が建っている。
 一番右が寛政元年(?)、二番目が安政五年だった。
  


【忠治茶屋本舗 (左側) 12:12~12:25
 少し進んだ左側に「焼きまんじゅう」の大きな看板が立っている忠治茶屋本舗がある。
 地元では有名らしく、車が引切り無しに入ってきて、店の中はイート・インする人や持ち帰り客で混んでいた。
 4個のまんじゅうが串刺しになって1串135円。
 私も並んで3串買い、帰宅後焼きなおして食べたが、パンに甘辛ダレを付けて焼いたものと想像すれば良いでしょう。中はふわふわだった。

【忠治茶屋本舗】 
 上州路 赤城の山と 国定忠治 おらが名物 焼まんじゅう


【製法】 
 この店で育てた酒種(酒母)に小麦粉を混ぜこねて、寝かして、蒸し上げたもの。

【右赤城 (右側) 12:26
 忠治茶屋のすぐ先の細道を右に入るのが旧道。入口に案内標識が立っていて、右折すると道路に「日光例幣使道」とペイントされていた。
   

 表示に従って二股を左にとると、すぐ右手に右赤城の説明板が立っている。

【右赤城】 
 毎年旧暦の四月一日に京都を出発した例幣使の一行は、中山道によって倉賀野宿に至り、この宿の分か去れの辻から日光例幣使道に入りました。この道では、行列は日光に向かって東に進むので、常に赤城山は左手に見ました。
 柴宿から馬見塚の村外れにくると、道は西に向きが変ります。すると、行列の右手に赤城山を望むようになりました。
 ここが日光例幣使道でただ一か所、右に赤城山が見える所で、例幣使や上方にも知れ渡った「右赤城」なのです。
 この道の先には道標があり、「東 日光道 右 五りやう 左 ほん志やう」と刻まれています。
     平成十七年三月 例幣使道まちづくり会議

【道標 (左側) 12:31
 上記説明板にあった道標は、その先を左折して県道296号線に突当った左角に円柱状で建っている。
 下の写真で、電柱と青い石の間に建っているのが道標。上下の道がいま来た旧道で、左右の道が県道296号。
 何故、右赤城になるように迂回するのは、かつて「広瀬川」が現在より南の方へ蛇行していて真直ぐ道が造れなかった為である。
  


【竹石(たけし)の渡し】 (左側) 12:47
 上記道標で左折し、直ぐの「下蓮町信号」を渡ると現在の例幣使街道(県道142号)に戻る。
 右側の「セイコーレジン」の工場を過ぎると142号線は右カーブして行くが、真直ぐ方向の旧道に進む
(下記写真)
  


 程なく「広瀬川」にぶつかり、右カーブして「武士橋
(たけしばし)西詰信号」で県道142号に合流する。
 その信号の手前川側に竹石の渡し日光例幣使道(境版)の説明板が立っている。

【竹石の渡し】 
 上野国の日光例幣使道の渡し場は、利根川の五料の渡し場と、広瀬川の竹石の渡し場の二箇所でした。この竹石の渡し場の渡船役は、主に下武士村(しもたけしむら)名主がつとめ、渡船や川止めなどを管理していました。
 記録によると、舟賃は一人銭三文、荷物一駄が十二文と決められており、村が所有する舟一艘で渡しを行っていましたが、日光例幣使通行の際は、隣村から二艘の舟を借受け三艘、荷駄積み下ろし人足二〇〇人を出して渡船役をつとめました。明和二年(1865)、勅使である梶井宮が通行した際には、さらに多くの舟や人足が必要でした。明治に架橋され、渡し場は廃止されました。
     平成十九年三月 例幣使道まちづくり会議


 往時は「武士橋西詰」から50m程上流より「武士橋の東詰」左付根附近へ舟渡しをしていた。


武士橋
【日光例幣使街道の由来】 
 伊勢崎市南部を東西に横断する国道354号は、江戸時代には「日光例幣使道」といわれました。この道は、徳川家康をまつる日光東照宮の春の大祭に、京都の朝廷が幣帛(へいはく)(贈り物)を奉納する使者「日光例幣使」が通るために整備されました。倉賀野(くらがの)(高崎市)から楡木(にれぎ)(栃木県鹿沼市)までの間に13の宿場がおかれていました。例幣使の一行は50人~60人で構成され、毎年4月1日に京都を出発し、中山道の倉賀野から例幣使道を通って4月15日に日光に到着しました。帰路は、江戸に寄り東海道を経由して京都に戻りました。全工程29泊30日で、一日平均40km歩いたことになります。例幣使は正保4年(1647)から慶応3年(1867)の221年間、一度も中断することなく派遣されました。

【乳母の懐 (右側) 12:57
 「武士橋」を渡って、次の信号を左折し、すぐ右折して再び旧道に入る。
 程なく、右側の白いフェンスの中に乳母の懐と題する説明板が立っている。向いは「岩崎商店」。

【日光例幣使道「乳母の懐」】 
 広瀬川にあった「竹石の渡し」の東詰から境宿に至る間で、境下武士(さかいしもたけし)の五百メートルは一間幅の狭い道ですが、日光例幣使道の面影を今に良く伝えています。
 江戸時代の絵図に描かれた武士村の稲荷社には、村の高札場がありました。現在は大きな松が植えられていることで「一本松稲荷」と呼ばれ、地元で親しまれています。
 例幣使が武士村を通過するのは旧暦四月十二日頃でした。武士の古老の言い伝えに、お輿に揺られ居眠りをしていた勅使が、武士村との境まで迎えに出ていた境宿の町役人に起こされて「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」といった場所は境萩原の付近でした。
     平成二十年三月 例幣使道まちづくり会議

【八海山・一本松稲荷神社・高札場跡 (左側) 13:02
 約200m進んだ左側、大きな松の木と鳥居が建っている所に、八海山と呼ばれる築山と一本松稲荷神社が建っていて、板と石の説明板が置かれている。



【八海山】 
 この場所は、江戸幕府の公式記録である『中山道例幣使道分間延絵図』に、禁令などを人々に掲示する下武士村の高札場が示されており、また稲荷社はその頃からありました。
 また、遠方まで出掛けなくとも信仰ができるようにと、越後三山や木曽御嶽山の修験者の霊場を分祀した築山が築かれ、八海山と呼ばれるようになりました。
 その築山に松が植えられていることから、日光例幣使道の一里塚であったという説もありますが、正式な記録は無いため、真実は定かではありません。
 現在、この場所は、稲荷社もあることから通称を一本松稲荷とも言われています。
     平成十九年三月 例幣使道まちづくり会議


【御嶽山(八海山)の由来】 
 高さ六メートル程のこの築山は 地元の人々から「御岳山」(おんたけさん)あるいは「八海山」(はっかいさん)と呼ばれ親しまれています。それは庶民の山岳信仰が盛んになった江戸時代の終わりころ、地元の信者が「講」を作りかつて能円寺(明治時代の終わりに現在の法光寺と合寺)があったこの地に 信仰の聖地であった御岳山・八海山を招講し 山を築いて祀ったことからそのように呼称されています
 それらの霊場は いずれもここ下武士の地からはるか遠隔の地 木曽・越後にあって 現地へお参りするには大変な困難を伴いました そこで近い所でも参詣が出来るようにとの願いから 地元をはじめ近郷近在の多くの信者が浄財を集めてここに信仰の山=霊山を築いたのです
 築山の左側には 京都神祇官領長上家公文所から「一本松稲荷大明神」も招講され祀られています 以前は二月に稲荷様の例祭八月に御岳山の例祭が行われ大勢の参拝客で賑わったそうです
 この築山のすぐ前には江戸時代に開かれた日光例幣使街道(正確には例幣使道)が通り この場所が柴宿から一里(約四キロメートル)程の所にあることから「一里塚」とよばれることもありましたがその確かな証拠はありません しかし例幣使街道を通る旅人が旅の安全を祈り 旅の疲れを癒した場所であったことは確かなようです
 築山が築かれてから一七〇年程を経て 山の崩れが目立ち 鳥居も老朽化したため 多くの有志の方の温かいご理解とご協力をいただき ここに長年の念願であった史蹟の保存と整備の事業を執り行いました
     平成十九年十一月吉日 市田武士村例幣使街道史蹟保存会


 この旧道も程なく、県道142号に合流する。合流した右角に新しい『旧例幣使街道』の標柱が立っている。
  

 合流して「社会体育館入口信号」を渡ると、直ぐ左側に『右 旧例幣使道』の白い標柱が立っているので、右に弧を描くような旧道へ入る。
  


【上丁切跡 (左側) 13:18
 旧道は短く、「境荻原信号」で県道に合流しこの信号を右折する。
 この信号辺りが上丁切
(かみちょうぎり)と呼ばれる境宿の入口になる。境宿の上の木戸はこの様な珍しい呼び方をしていた。

 信号に突き当った正面の「境整骨接骨院」の敷地内に例幣使道 境宿と書かれた標識が立っている。
  


【境宿 倉賀野宿から五里三十四町(23.3km) 柴宿より二里十六町(9.6Km) 木崎宿へ一里十二町(5.2Km) 今市へ二十五里三十町(101.5Km)
 境宿は、当初は柴宿と木崎宿の間宿扱いだったが、文久三年(1863)に正式に宿場町として格上げになった。
 宿の全長は463m。本陣一軒、旅籠屋十二軒。例幣使道・世良田道・江戸道が集まる交通の要衝であった。
 毎月二と七の付く日は「六斎市」と呼ばれ、生糸の取引を中心として大いに賑わった。


【境宿問屋場跡 (左側) 13:20
 「境荻原信号」を左折した先の「荻原諏訪神社」の境内に伊勢崎道との追分にあった道標が置かれているとの事だが、行かなかった。
 「境荻原信号」を右折して直ぐ先の駐車場に境宿問屋場跡の標識が立っている。

   


【織間本陣跡 (右側) 13:21~13:29
 その向いのスーパー「FRESSAY」入口左端に織間本陣跡の標柱、石碑、説明板が立っている。

【織間本陣跡】 
 旧例幣使街道、境宿織間本陣は寛文二年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫氏の家を当地に移築したものである。茅葺平屋建ての主屋と片袖付き門構えは古い建築様式をそのまま残しており、本陣として旧境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上ると九部屋を配し、広い土間(ダイドコロ)や貴賓の上段の間を有した。
 上段の間から見る中庭には見事な松樹があり、来遊した江戸の学者古賀侗庵は織間本陣を蒼松軒と命名した。また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭候は、ここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松軒の軒記を書き与えたのである。
 本陣は例幣使街道を上下する諸大名をはじめ、とくに毎年四月京都より下向する例幣使や公卿門跡衆の休憩を主とした。そのとき関札と呼ばれた休憩時の札が下賜され、門前に掲げられた。
 寛政三年(1791)四月十二日、小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
―時鳥 我が身ばかりに 降る雨か―
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。
     伊勢崎市

【飯島本陣跡 (左側) 13:30
 斜め向い、「ぐんまみらい信用組合」の左角の生垣に飯島本陣跡の白い標柱が立っているが、説明板等はなかった。
 飯島家は、境宿の最初の本陣だったが、文政十二年(1829)に建物が破損して織間家が本陣となった。
 ここから、かつての中町に入る。
  


【境町道路元標 (左側) 13:35
 「境町駅入口」信号を渡った「群馬銀行境支店」の左角、電柱下に境町道路元標の白い標柱と石碑が建っている。
  


 また、写真には写っていないが、電柱の左側には「旧繭の保管所赤レンガ倉庫 駅方面200米」の標柱が立っていた。
 次回、訪れる予定である。
 


【瑳珂比(さかい)神社】 (右奥) 13:40
 
「境町駅入口」信号を右折して250m行った突き当りに瑳珂比神社がある。

【瑳珂比神社由緒】 
 当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521~27)とされている。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀三年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。御陽成天皇天正八年(1590)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めた。
 後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり後光明天皇の正保四年に例幣使街道が開設され宿場町となると次第に町並みも形成され慶安年間(1648~51)には境町となった。
 桃園天皇の宝暦十一年(1761)拝殿が造営され後桜町天皇の明和三年には石鳥居が建立された。後桃園天皇の安永二年社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され光格天皇の享和元年(1801)には氏子の発起により現在の社殿が建築されている。その後も神域は整備され明治七年には村社に列された。明治四十年九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社、八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社、神明宮、琴平宮、秋葉神社を合祀し現在に瑳珂比神社と改称し今に至る


 鳥居を二つくぐった右に拝殿本殿(下の写真)があり、本殿の後ろのお堂の左横に例幣使街道と六斎市の説明板が立っていた。

【例幣使街道と六斎市】 
 境宿は、柴宿と木崎宿の間の宿でした。文久三年(1863)幕府から日光例幣使道の宿場に取り上げられました。
 当時の町並みは四百六十三メートル余り、道幅は十四メートル余りあったようです。
 境宿ではニと七の付く日の月六回糸市が開かれ「六斎市」と呼ばれていました。
 この市では「さかいさげ」と賞された生糸の取引が盛んでした。その様子は、境島村の画家金井研香の『境街糸市繁盛図』(市指定重要文化財)に描かれています。江戸の学者寺門静軒は「外貨は地にあふれて限りない水のようだ」と讃しています。
 高札場にはこの市の守護神として天王宮が祀られていました。この宮の祭りは盛大で、近郷の村々から見物客が多く訪れたとろいうことです。祭りは、現在の「境ふるさとまつり」に引き継がれています。
     平成二十年三月 例幣使道まちづくり会議

【長光寺 (右奥) 13:45
 瑳珂比神社入口を左に進んだ先、左側に長光寺があり、入口を入った所に伊勢崎 佐波 観音霊場めぐりの説明板が立っている。

【第三十二番 小柴山長光寺、 十一面観音】 
 この寺は、応永年間僧元高が開基創建したが、一度火災によって全焼した。大坂夏の陣後の元和年間に僧晃海によって再建されたと伝えられているが、旧記がなく明らかではない。伊勢崎風土記に「長光寺、境町に在り天台宗にて小柴左衛門長光の開基なり、因て小柴山と号せり。また稲荷山自性院とも曰へり。村中の稲荷祠を掌際す。自性院とは即ち是れ長光の法号成り」と記録されている。
 長光寺懸仏(二十三夜本尊)は群馬県重要文化財に指定されている。

   暁の星写る柴戸と 永遠なえ 
          光も伝う 寺のそのかみ

第三十二番、小柴山大悲院観音寺(廃寺)
佐波郡境町小柴木  納経所は三十四番福寿院

     平成元年五月 伊勢崎・佐波観音霊場めぐり協議会 伊勢崎市観光教会


 山門をくぐりと、正面の本堂の左手に芭蕉句碑が建っている。

 春の漸(やや) けしき調う 月とむめ   芭蕉翁

【板倉屋薬局 (右側) 13:53
 長光寺入口から街道に戻ってすぐ右側に建つ板倉屋薬局。和の建物に洋館が増築されたもので面白い。
  


【桐屋跡 (左側) 13:54
 斜め向いの「そば処 阿原」は、島村伊三郎が三ツ木の文蔵に殺された桐屋跡との事。
 ここで、かつての中町は終わる。
  


【下丁切 13:57
 「境」信号を越えた右側の「マスヤマケンネル」の隣に、『ここより例幣使道境宿』と書かれた白い標柱が立っている。
 この辺りが下丁切と呼ばれた宿場の出口である。
 下の写真は、日光側から写している。
  


【水戸屋 (右側) 14:01
 直ぐ先、創業1895年の和菓子店「菓庵 水戸屋」の店先に『日光例幣使道 かりやど宿』の石碑と双体道祖神が建っている。
 


【福島家文書 (左側) 14:03
 「水戸屋」の斜め向いの福島家の門内に福島家文書と書かれた白い標柱が立っている。

 堺町指定重要文化財 福島家文書
     昭和四十二年二月十日指定 境町教育委員会

  江戸時代、新田郡境村の名主であった福島家に残された古文書で、江戸時代初期から幕末までの当時の状況を知る上で貴重な1600点に及ぶ史料との事。

【高札場跡 (右側) 14:08
 「境東」信号を越えた次の道を右折する。ここで旧道は枡形になっている。
 右折した突当りの現「植竹畳店」辺りに往時高札場があった。
 


【道標 (右側) 14:09
 突当りを左折した次の道の右角に天明七年(1786)建立の道標と『例幣使道 東町の道しるべ』と書かれた白い標柱が立っている
(上の写真で、畳店左角)


北面

西面
【東町の道しるべ】 
 この石像物は、境町の人三名が、西国、四国、秩父、坂東の観音霊場巡拝の供養塔と道しるべをかねて、天明七(1787)年に建てたものです。東面「此方世良田 たてはやし道」、西面「右 江戸なかせ 左 日光きさき道」、北面「右 こくりゃう いせさき」と刻まれていることから、この場所が、日光例幣使道と世良田道(館林方面)、江戸道(深谷方面)が交差するところでした。当時、例幣使道が中毛、東毛地域をつなぐ幹線道路であり、境町から四方に広がる交通網の様子がわかります。
     平成十二(2000)年八月設置 境町教育委員会


 ちなみに南面には『奉納 西國四國 秩父坂東 供養塔』と刻まれている。

【境稲荷神社 (左側) 14:15~14:23
 上の西面の写真、奥の「止まれ」の標識が立っている十字路を左折する。
 「稲荷神社前」交差点の正面に境稲荷神社が建っている。

【稲荷神社】 
 境東町(さかいあずまちょう)の稲荷神社は、創建の時期はわかりませんが、江戸時代中頃には社殿が建てられたようです。五穀豊穣神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祭神として奉られています。
 この境内には、元治元年(1864)に大行満願海という僧が奉納した手水石があります。願海は、比叡山の中で七年かけて千日間もの修行を行い、大行満という偉業を成遂げた高僧です。峻険な山中を修行で歩いた距離は、地球一周と同じ約四万キロメートルに相当します。また、江戸時代には、境地域は俳諧が盛んに行われ、寛政年間(1792~1800)に、この地域の俳人十六人で建てた「時鳥招くや麦のむら尾花」の芭蕉句碑があります。
     平成九九年三月 例幣使道まちづくり会議


 境内左角に芭蕉句碑が建っている。
  


 往時の例幣使道は、この稲荷神社の脇を真直ぐ北に向かって行く道があったが、現在は存在していないので、境駅方面に戻って、次の角を右折して北に向かう(現例幣使街道を境駅方面から来たら左折)。
 その角に南面「北 旧例幣使道木崎宿方面」、西面「左 旧例幣使道木崎宿方面」と書かれた白い標識が立っているのですぐ分かる。

  

 左側にある「さかい保育園」を過ぎたら、その次の十字路を右折する。
 すぐ左側に「伊勢崎市境風の子公園」があるのでその東側で左折する。

 稲荷神社辺りから突然足が痛くなり、世良田駅迄行く予定を変更して、この公園で本日の行程を終了して、公園左方向の境町駅に向かった。



第2回目終了(14:30) 境風の子公園(群馬県伊勢崎市境栄)。

本日の記録】
 江戸時代の街道での距離(堀口町交差点~境風の子公園) : ニ里十二町(9.2Km)。
 江戸時代の街道で、「風の子公園」迄の累計:倉賀野駅入口交差点から、六里五町(24.1Km)。
 寄り道を含めた実歩行距離 :11.1 Km(堀口町バス停~境町駅) 累計:27.9Km
 4時間15分 15,650歩

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