成田街道(7) 成田駅入口 ~ 成田山新勝寺

2017年4月25日(火) 晴  

 自宅から自家用車で京成成田駅東口前のコインパーキング迄行き、車を預けて西口に回り、前回終えた成田駅入口を10:05スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは成田山に向っての左右です)

「海隣寺坂~京成成田駅」← 「目次」


【権現神社 (左奥) 10:06
 JR成田駅東口の右手に権現神社がある。
 説明板等は無く、入口も鉄製の柵でガードされて「聖地につき関係者以外立入禁止 地主」の看板が立っている。
 敷地内には、湯殿山権現神社、祠、講が建てた大きな石碑、石塔等が並んでいるが詳細は不明。
   


【長命泉 (右) 10:15
 JR成田駅を背にして、ロータリー前の「JR成田駅」信号左角に『表参道』と刻まれた仏塔みたいな塔が建っている。
  

 ここを左折していよいよ成田山の長い参道に入ってゆく。
 参道途中で大きく左カーブする手前の右側に長命泉の名を掲げた表参道唯一の酒造「滝沢本店」がある。
 お酒は帰りに購入することにして、品定めだけして、店の前を左折する。
  


【成田山薬師堂 (左) 10:21
 左に羊羹で有名な「米屋総本店」、右に同「柳屋本店」を見て、三叉路の左側に薬師堂がある。

【成田山旧本堂 薬師堂】 成田市指定有形文化財(昭和44年11月3日指定)
御本尊 薬師如来 脇侍 日光菩薩 月光菩薩
御祈願 健康長寿 病気平癒

 薬師堂は明暦元年(1655)に建立された旧本堂で徳川光圀公や初代市川團十郎が参詣した成田山現存最古の御堂です。
 元禄十四年(1701)の本堂「現光明堂」再建の折、この御堂は新本堂の後方に移築され、約一五〇年にわたり伽藍の一端を担いました。
 安政二年(1855)の本堂「現釈迦堂」建立を機に明暦の旧本堂を薬師堂と改称、この地に移築し現在に至ります。


   


成田町道路元標 (左) 10:24
 薬師堂右側面のバス停の前に成田町道路元標が建っている。
  


【三橋鷹女の像 (右) 10:25
 成田山新勝寺へは薬師堂前の三叉路を右に進む。
 曲がった直ぐの左側に三橋鷹女の像が建っている。

【三橋鷹女の像】 (1998年12月19日建立)
 女流俳人鷹女は、明治三十二年(1899)に成田町成田(現在の成田市田町)で、父三橋重郎兵衛・母みつの三女として生れました。本名はたかです。成田幼稚園、成田小学校をへて、成田高等女学校(現在の成田高等学校)を卒業しました。
 大正五年(1916)に上京、同十一年(1922)に歯科医師の東謙三(号剣三)と婚姻し、夫と共に俳句にいそしみました。
 初めは「鹿火屋」、次に「鶏頭陣」などに属しましたが、のちには永く結社に拠らず、独自の句境を築きました。
   夏痩せて嫌いなものは嫌ひなり
   白露や死んでゆく日も帯締めて
   口中一顆の雹を啄み 火の鳥や
 などの句はよく知られています。
 昭和四十七年(1972)、七十三歳で永眠しましたが、生家に近い田町の、通称白髪毛にある三橋家墓所に葬られました。
   千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作)
 このブロンズ像は鷹女の生誕百年を迎えるに際し、市民ならびに多くの賛助者の協力によって、彼女の姿をふるさとの地成田によみがえられたものです。
     鷹女の像をつくる会 


 鷹女像の左壁には、日本遺産門前町成田の説明板が観光地図と共に掲げられていた。
【日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」】 
 「日本遺産」とは、各地の有形無形の文化財を一つのストーリーにまとめ、地域の魅力を国内外へ発信していこうと、文化庁が認定するものです。平成28年4月、佐倉市、成田市、香取市、銚子市を含む「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」が千葉県初の日本遺産に認定されました。
 今からおよそ400年前、将軍 徳川家康は江戸に本拠を構え、戦乱の時代が終わりを告げました。以降265年にわたり、江戸(東京)が武家政治の中心となり、日本らしい魅力的な文化が花開き、世界でも類例のない百万都市へと成長しました。そのような中、佐倉、成田、佐原、銚子の北総四都市は、利根川の水運と街道によって江戸と結ばれ、政治・経済・軍事・文化の面で江戸を支えました。これらの四都市は、江戸文化の影響のもと、発展しました。今も江戸を感じる町並みや風景が残り、江戸情緒を体感することができます。成田空港からも近いこれらの都市は、世界から一番近い「江戸」といえるのです。
【門前町「成田」】
 成田は、江戸庶民から篤い信仰を受けた成田山新勝寺や宗吾霊堂の門前町として発展しました。その背景には、成田山新勝寺による江戸での秘仏公開の出開帳(布教活動)をはじめ、初代市川團十郎(屋号:成田屋)の深い帰依、成田不動尊(成田山新勝寺)や義民佐倉惣五郎(宗吾霊堂)にまつわる歌舞伎の大ヒットがあり、江戸での旅行ブームも相まって、多く参詣客をもてなす門前町として栄えました。
 また、成田の夏の風物詩として300年以上の歴史を誇る伝統行事「成田祇園祭」(7月上旬の金・土・日)をはじめ、千葉県無形文化財の「おどり花見」(4月3日)や義民佐倉惣五郎の例祭「御待夜祭」などの成田の伝統文化・祭礼文化は脈々と受け継がれています。


【川豊・菊屋 (右) 10:27
 坂道を下って行く途中右側に、数々のグルメ番組や旅番組で紹介された鰻の川豊、その左隣にトム・クルーズが訪れたという鰻の菊屋など老舗店が並ぶ中を更に下って行く。
 川豊では店の前で鰻をさばいたり、焼いたりしている。
   


【大野屋旅館 (左) 10:29
 その先、右カーブする手前左側に老舗旅館大野屋がある。
 創業は江戸時代中期。現在の建物は昭和10年(1935)に建築したもので、国登録有形文化財(建造物)になっている。
  


成田山新勝寺】 10:32~11:40
 右カーブして坂を下り切った左側に成田山新勝寺がある。
寺号  成田山金剛院新勝寺
宗派  真言宗智山派 大本山
宗祖  弘法大師
開山  寛朝大僧正 天慶3年(西暦940年)
本尊  大日大聖不動明王

当山では、開山以来今日まで一千有余年 真言密教の教えにもとづき御本尊不動明王の御霊徳を弘めるため日々護摩秘法を修しています。全国に別院・末寺・末教会および講社・奉賛会があり、多数の信徒の尊信を集めています。

重要文化財  仁王門、三重塔、釈迦堂、光明堂、額堂
成田山公園  回遊式庭園 広さ165,000㎡ 入園自由

【総門】 
 表参道の入口に建つ総門の形式は五間三戸の十二脚の楼門。高さ15m、幅14mの総けやき造。
 総門の左手には大師堂及び総受付がある。
  


【仁王門】 
 総門をくぐって正面の石段を上ると仁王門が建っている。

【仁王門】 重要文化財
 文政13年(1830)に建立された八脚門で、正面向かって左側には密迹(みっしゃく)金剛、右側には那羅延(ならえん)金剛が安置され、境内の入口である山門にあって、諸堂伽藍を守っております。特にこの二尊は昔から「朱振りの仁王尊」といわれ信仰されています。また裏仏には、左側に人々の福徳をさずける多聞天を、右側には仏心を起こさせる廣目天を安置しております。
 屋根は入母屋造銅板葺で、正面に大きな千鳥破風、背面に軒唐破風を付けています。組物は三手先の詰組とし、軒を二軒の扇垂木としているところなど、八脚門としては類例が少なく、材料工法ともに極めて優秀で江戸時代末期の特色をいかんなく発揮した建物といえます。頭貫上の各柱間には、後藤亀之介作の竹林の七賢人や司馬温公瓶割り等の彫刻が施されています。なお正面に掲げられている「成田山」の大額は東大寺の別当道如上人の筆になります。

 中央に釣り下がる大提燈は「東京・魚河岸」が奉納したもの。
  

【大本堂】 
 仁王門をくぐり、更に石段を上ると正面に大本堂が建っている。
 昭和43年(1968)建立で、御護摩祈祷を行う中心道場。堂内には誰でも入ることが出来、御本尊は不動明王。
  

【三重塔】
 本堂手前右手に三重塔が建っている。



【三重塔】 重要文化財
 正徳2年(1712)に建立され、宝暦7年(1757)、享和元年(1801)、安政5年(1858)に大修理が行われています。又昭和58年現在の姿に復元されました。
 塔の初層内陣には金剛界大日如来の「五つの知慧」をあらわす五智如来(大日如来・阿閦如来・宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来)が安置されています。
 塔の高さは相輪頂上まで約25メートルで初重の柱、長押、台輪等に地紋彫りを、各重の尾垂木の先端部は竜の丸彫で飾り、脇間板壁には十六羅漢の彫刻をめぐらしています。また板軒には雲文を浮き彫りにして極彩色を施すなど、江戸時代中期の極めて華麗な塔であります。
 昭和56年から58年にわたり漆塗・彩色工事を主体とした保存修理工事を行いましたが、この工事は享和3年(1803)の古文書に書きとめられていた漆塗、彩色の仕様を元に復元されました。


【一切経堂】
 三重塔の右手には一切経堂が建っている。

【一切経堂】 (成田市指定文化財)
 一切経堂は、享保七年(1722)当山中興第一世照範上人によって建立された。
 中央の転輪経蔵に収まる一切教約二千冊は、仏教の集大成である。
 彩色あざやかな輪蔵周囲の桟唐戸には、四天王と十二神将の彫刻が施され、この輪蔵を八体の鬼神が支えている。
 入り口上部の扁額は白河楽翁の筆。経堂周囲の八つの火頭窓は、中国の故事説話を題材と見事な木彫刻で飾られている。
 堂内には、中国南北朝時代に輪蔵を創案された傅大士と普建・普成が祀られている。 


【鐘楼】
 一切経堂の右隣には鐘楼が建っている。

【鐘楼】 
 元禄十四年(1701)に当山中興第一世照範上人によって建立された。
 楼上の梵鐘は大本堂建立を記念して鋳造したものである。香取正彦氏の設計鋳作になり、重量一〇六八キロ。


【釈迦堂】

 大本堂に戻り、左手に進むと、前本堂だった釈迦堂が建っている。



【釈迦堂】 重要文化財
 安政5年(1858)に建立された前本堂であり、大本堂の建立にあたって昭和39年現在位置に移築されました。
 ご本尊には仏教を開かれた釈迦如来が安置されています。
 周囲の板壁には、修行僧として最高位に到達し、功徳をそなえた五百羅漢像を見事な浮彫り彫刻で8面、また扉には、中国の代表的な孔子物語である二十四孝12面を付けるなど堂内の華麗な欄間彫刻とともに、時代の特徴をよくあらわしています。板壁の五百羅漢は、絵師狩野法眼一信の下絵をもとに、仏師松法橋良山(通称不動金兵衛)が10年の歳月を費やして彫刻したものです。また扉の二十四孝は、無関堂島村俊表の作です。
 建物は5間堂で、中央の柱間が広くとられています。屋根は入母屋造りの瓦棒銅板葺で、正面には千鳥破風や軒唐破風付の向拝を設け、荘重さを加えています。組物は、三手先を詰組とし、軒は二軒の繁垂木で総欅木を用いています。


【額堂】
 釈迦堂の先、石段を登った左手に額堂が建っている。



【額堂】 重要文化財
 額堂とは、奉納額や絵馬を掲げる建築物であり、このお堂は文久元年(1861)に当山で2番目の額堂として建立されました。
 建物は、桁行正面が3間(約5.5メートル)背面が6間(約11メートル)で、屋根は入母屋桟瓦葺です。現在は四方が開放されていますが当初は背面が板壁でした。組物は平三斗、中備蟇股、二軒の半繁垂木です。額堂としては虹梁や木鼻など細部まで本格的な建物で、近世における庶民信仰をあらわす代表建築の一つであります。建物の各部に見られる竜や獅子などの彫刻は後藤勇次郎経慶の作です。
 なお当山には、江戸歌舞伎界の名優成田屋こと七代目市川団十郎丈により寄進された額堂(第1額堂)が三重塔脇にありましたが、昭和40年に焼失しました。中央部にある石像はその七代目団十郎像であります。
 これらの額堂には絵馬類がたくさん掲げられていましたが、貴重な文化財として、現在は成田山霊光館に保存されています。
【成田屋七代目 市川團十郎の石像】
 江戸歌舞伎の名門市川団十郎家は代々成田山新勝寺を篤く信仰し、初代団十郎は自らの屋号を「成田屋」と称して不動尊を崇敬しました。
 なかでも七代目団十郎は、江戸時代末に活躍した名優として知られますが、それまで大名や武士の芸能であった能を歌舞伎の中に取り入れ「安宅」の題材を「勧進帳」に芝居化して初演したり、荒事を中心とした歌舞伎十八番を制定するなど、それまでとは違った斬新な発想で江戸歌舞伎界に新風を吹き込みました。
 その一方で一千両をもって成田山に額堂(昭和四十年焼失)を寄進し、天保の改革の折には成田山内の延命院に身を寄せ、成田の人々に芝居や俳句を広め、成田山参詣の隆盛に寄与し、この地方の文化向上にも大きく貢献しました。


【開山堂】
 額堂の向かいに開山堂が建っている。

【開山堂】
 當山の開山上人寛朝大僧正の御姿を安置する堂である。
 この堂は昭和十三年に奉修された成田山開基一千年記念事業の一つとして新築されたものである。


【光明堂】
 額堂の奥に光明堂が建っている。

【光明堂】 重要文化財
 元禄14年(1701)に建立された旧本堂で、寛保2年(1742)と明和5年(1768)の改修を経て、安政年間新本堂(現釈迦堂)の建立にあたり、本堂の後方に移築、さらに昭和39年大本堂建立のとき現在地へ移されました。
 本尊には真言密教の教主である大日如来が安置されています。
 建物は桁行5間(約9メートル)梁間5間で、屋根は入母屋造桟瓦葺です。組物は三手先を詰組とし、軒は二軒の繁垂木としています。安政年間の移築の際に回り縁と外陣部の床を撤去して吹放しの土間とし、珍しい形になっています。また彫刻装飾(島村円徹の作)には、創建当初の構造がよく残され、江戸時代中期における密教寺院の遺構の一つとして貴重な建物です。また「明王堂」の掲額は東大寺の別当道如上人の筆、柱の聯(現在成田山霊光館保存)は三井親和の筆になります。


【清瀧権現堂】
 光明堂の右手に清瀧権現堂が建っている。

【清瀧権現堂・妙見宮】
 享保十七年(1733)建立天明八年(1788)安政五年(1858)修理
 清瀧権現と地主妙見を合祀した当山の鎮守である。 


【醫王殿】
 更にその奥の一番高い所に改修中の醫王殿が建っている。

【成田山醫王殿概要】
御 本 尊   薬師瑠璃光如来(大醫王如来) 成田市指定文化財
脇   侍  日光菩薩 月光菩薩
眷   属  十二神将
構造形式  木造総檜、一重宝形造 向拝・軒唐破風付 本瓦葺
規   模  桁 行十二・一六m
        梁 間十二・一六m
        棟 高十二・一九m
        平面績一四七・八七㎡
工   期  自平成二十七年三月
        至平成二十九年十一月


【平和の大塔】
 醫王殿の右隣に平和の大塔が建っている。
  


【成田山公園】

 ここ迄巡ってきた各お堂の右手一帯には成田山公園が広がっている。
 平和の大塔からは眼下に噴水のある西洋庭園が見える。
   

 広い公園内には、美術館三つの池等が配置され、静かな環境となっている。

【成田山公園】
 成田山公園は明治時代から次第に拡張され昭和三年に施行、さらに平成十年に大改修を行いました。
 成田山境内の北東半分を占めるこの公園には雄飛の滝、文殊の池、竜樹の池、竜智の池があり、一五六、〇〇〇平方メートルの自然の景観に富んだ広大な園内には、書道美術館、茶室、浮御堂などがあります。


 光明堂方向に進むと洗心堂が建ちその前に雄飛の滝がある。



【御滝不動尊・洗心堂】
 この浄域には洗心堂(修行道場)を中心に雄飛の滝(右奥)と雌滝(左手前)が配され、滝の上部は御滝不動尊が奉安されています。
 二つの滝は深山幽谷より里への流れを表す公園の源流にあたり、自然の木々に包まれ、静寂の中、不動明王の大威神力とともに滝の音に心が洗われる霊地です。


 この滝から石段を上り光明堂前の御滝権現堂横に出て、大本堂前に戻る。
 大本堂から鐘楼前の石段を下り総門へと向かう。

【二宮尊徳翁開眼之地碑】
 石段を下り切った所に二宮尊徳翁開眼之地碑が建っている。

【二宮尊徳翁開眼の地】
 代表的日本人の一人、二宮尊徳翁 天明七年~安政三年(1787-1856)は、不世出の才と堅忍不抜の行いとをもって小田原藩主大久保忠眞候に抜擢され野洲桜町(栃木県二宮町)の復興に一身をささげた。内外の妨害に進退きわまり行方不明数十日の後、「過を転じて福となし」にはじまる七大誓願を胸に成田山に参籠、断食水行二十一日、霊験感応あり、心願開けて大悟した、ここぞ誠に二宮哲学開眼の地である。
  身をすててここをせんどとつとむれば
    月日の数も知らぬなりけり
  心あらば成田の山にこもりなん
    石の上にも岩の上にも
この二首は満願の日の翁の歌であり、「予が今日に至るは不動心の堅固一つにあり」とは後世にくり返し口にしたところである。 

<昼食> 11:50~12:35
 新勝寺の総門を出て、左手の電車道を歩いて駅まで帰る予定であったが、昼時になった為、参道を戻り、「川豊」にて昼食(うな重)をとった。


【米屋総本店・羊羹資料館】 12:40
 昼食後も参道を戻り、「米屋総本店」の裏にある羊羹資料館を見学し、米屋で土産の羊羹を購入。


【電車道・成宗電車のトンネル 13:10
 更に参道を戻り、朝寄った酒造「滝沢本店」にて土産の酒(長命泉)を購入。
 ここで参道を離れ、「長命泉」横の細道(北東)に入り、階段を電車道に下りる。
 下りた道の前後に二つのレンガ造りのトンネルがあり、成田山側の第一トンネル入口に成宗
(せいそう)電車のトンネルと題する説明付標柱が立っていた。

【成宗電車のトンネル】
 このレンガ造りのトンネルは成宗電車という千葉県内で一番古い電車が通っていたトンネルです。成宗電車は通称チンチン電車と呼ばれ、明治四十三年に成田駅前から成田山山門前まで、翌明治四十四年に駅前から宗吾霊堂まで開通し、昭和十九年に廃止になりました。門前側が第一トンネル(長さ約十二メートル、幅約九メートル)、成田駅側が第二トンネル(長さ約四十一メートル)です。


 成田駅側の第二トンネルには、成宗電車とトンネルの説明板が掲げられている。

【成宗電車と第一トンネル・第二トンネル】 土木遺産(2914年11月12日指定)
 市道新葉石門前線、通称「電車道」にある、約100年前に造られた2つのレンガ造りの「成宗電車第一トンネル、第二トンネル」が千葉県では10ヶ所目となる土木遺産として認定されました。

名    称 成宗電車第一トンネル、第二トンネル
完 成 年 1910(明治43)年
形式・構造 煉瓦造(イギリス積)アーチ環6枚巻
  第一トンネル(開削工法)/全長=12.2m、幅7.3m
                  アーチ環半径3.5m、アーチ環腰高1.5m
  第二トンネル(トンネル工法)/全長=40.8m、幅7.3m
                  アーチ環半径3.6m、アーチ環腰高1.3m

【成宗電車の歴史】
 成宗電車は、千葉県で初めての電気鉄道として明治43年12月に成田山山門前から成田駅間を、翌44年1月に成田駅前から宗吾霊堂間を結ぶ形で、全線複線により開通しました。車両の運行は5~15分間隔で行われ、利用客数などの状況に応じて弾力的に運用されていたようです。
 この電車は、当初参道に軌道を敷設する計画でしたが、町内会等の意向を踏まえ参道を迂回して門前に至るルートとなったため、2つのトンネルが築造されました。電車は地域に欠かせない乗り物となりましたが、戦争の激化により、遊覧的色彩が強いこと等を理由として、政府の命令により営業廃止となりました。これにより昭和19年に業務を停止し、35年間に渡って成田の街を走り続けた成宗電車は幕を閉じました。
【電車道の由来】
 かつての軌道敷は市道となり、成宗電車が走行していたため親しみを込めて通称「電車道」と呼ばれています。明治・大正・昭和という激動の時代を経たレンガ造りのトンネルは、平成の現代まで姿を変えず人々の交通を支え続けています。
 このトンネルは、成田の交通史を感じさせるところであり、この姿を見ながら多くの人が子供から大人へと成長し、その心に変らぬ印象を残し続けています。
     成田市役所



 13:30、「京成成田駅」前のコインパークに戻り、車で「宗吾霊堂」と「本佐倉城跡」を巡ってから帰宅。


【宗吾霊堂 
 「京成成田駅」から国道51号線を南下し、途中から国道464号線に入り宗吾霊堂に向かう。
 土産物店がある参道を進むとまず大山門が迎える。

【大山門】 宗吾霊堂三百二十五年祭記念事業
一、規模   下層間口  九・七二〇メートル
         奥行き   五・四〇〇メートル
         高さ   十四・六五三メートル
一、面積    下層   五二・四八平方メートル
         上層   四ニ・二〇平方メートル
一、意匠    高層屋根入母屋造り本瓦棒形銅板葺き
一、安置仏  金剛仏阿吽両尊像 身丈二・六六メートル
    製作者 人間国宝 香取正彦氏
一、楼上安置仏 聖観世音菩薩像
    製作者 高村光雲氏
一、施主    宗吾霊三百二十五年祭奉賛会
一、施行    昭和五十三年十一月十一日 


 山門をくぐると右手に鐘楼が建ち、石灯籠脇の間を更に進むと正面に本堂が建っている。

【別格本山 宗吾霊堂】
 宗吾霊堂は真言宗豊山派東勝寺の管理する佛堂であります。
 今より三百六十年余年前承応年間下総佐倉藩の悪政により生活に苦しむ人々を救う為、公津村名主(木内惣五郎)は徳川四代将軍家綱公に直訴し十万の人々の命を救われました。
 しかしその罪により承応二年(1653年)に本人と四人のお子様は刑に処され、その遺骸を当山住職等が現在のお墓の地(当時の刑場跡)に埋葬しました。
 その後、百年祭の時(1752年)に佐倉藩主堀田政亮(まさすけ)公により「宗吾」の法名を贈られ立派な佛位を得られてより宗吾様を祀るお堂を宗吾霊堂と称するのであります。
 即ちお墓では偉大な宗吾精神(大慈大悲の広い心)を敬慕し、お堂では信徒の方々が諸願成就を御祈祷し、現世のご利益を授かるのであります。
 毎月三日は宗吾様の命日。九月三日は祥月命日
   鳴鐘山 東勝寺   

【根古谷の双体道祖神・石仏 
 宗吾霊堂から県道137号線を南下し、前回訪れた「築山」のある「宗吾入口」信号に戻る。この信号から成田街道を佐倉方向へ逆戻りし、「上本佐倉」信号を過ぎた「山道バス停」から北への細道に入る
(前回行程・【酒々井宿】の前項参照)
 道成りに暫く北上して、4つ目の三叉路右手の山裾に双体道祖神石仏が五体並んでいる。
  

 道祖神と石仏群の間に、前回で述べた携帯電話観光案内『酒々井観光ナビ』のQRコードが立っていた。

【根古屋の双体道祖神】
 子孫の長生きを願って造られた双体道祖神です。子孫長命祈願と彫られています。高さ38cm、幅21cm。年代は不詳。
【根古屋石仏】
 道祖神、月待講碑が祀られています。また、かつて中池の中ノ島にあった弁天様は根古谷の館入口付近に祀られています。

【向根古屋城跡】 
 道祖神のある辺りから、「本佐倉城跡」の案内矢印が電柱等に掲げられているので、それに従って車を進める。
 道祖神から、左折・右折・右折すると、左手「妙見神社」の入口に本佐倉城跡・根古屋の館・中池の説明板が立っている。
 そこから見える、右手の森は向根古屋城があった所である。今は町営の新しい根古屋の館が建っていて、傍に行ったが柵が施錠されて近寄れず、何の施設かは分からなかった。
 向根古屋は本佐倉城の外郭だった。
 また、館の手前の田圃はかつて中池があって、中島に弁天社が建っていたとの事。現在の弁天社は根古屋の館の脇にあるらしい。
  


本佐倉城跡 
 「妙見神社」裏手の山が本佐倉城跡だが、入口は山裾を左に廻った所にある。
 まず「妙見神社」入口に案内図と説明板が立っている。

【本佐倉城跡】 国指定史跡
 本城跡は文明年間(1470年代)、千葉輔胤が築き天正十八年(1590)豊臣秀吉により千葉氏が滅ぼされるまで九代、百有余年間にわたる下総守護千葉氏の戦国時代の居城であった。
 城は印旛沼を望む標高約三十mの半島状台地に占地し、南西面を除く三方は水田に囲まれる要害の地である。
 総面積は約三十五万平㎡、内郭群と外郭群に大きく分かれる。内郭群は城主の館「城山、倉跡」、妙見神社を祭る「奥ノ山」を中心に倉、馬場「東山馬場」などで構成されている。外郭群は「荒山」「向根古屋」「佐倉根古屋」で広大な敷地を有し家臣団の屋敷地や軍団の駐屯地であった。
 土塁空堀には雄大な「折れ」、「出枡形」「隅枡形」が明瞭に残り戦国時代の城郭の特徴が見ることができる。
 重要な中世城郭として平成十年九月十一日に国史跡として指定された。
     酒々井町 酒々井町教育委員会


 案内に従って、左に廻って行くと「東山馬場」の駐車場に着く。
 ここに、『本佐倉城跡』と刻まれた標石と説明板が立っている。下の写真で後ろは東山である。

【本佐倉城跡】 国指定史跡
 本佐倉城は、下総守護千葉氏が天文年間(1469~1486年)に築城し、天正18年(1590年)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。当時水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。
 県内最大級である面積約35万㎡の規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群は城主のための郭、広大な外郭群は家臣の屋敷地と考えられ、さらにその周囲には城下町が形成されていました。
 本佐倉城は「土の城」です。すべて土の造成によって構築された大規模な空堀や土塁、櫓台に守られた郭群や虎口は、現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城の迫力と息吹を感じさせます。
     平成28年3月 酒々井町教育委員会 


 東山の下は東山馬場と呼ばれ、QRコードが立っていた。
 また、上記入口から左へ進んだ所には矢盾が並んでいた。

【東山馬場】
 本佐倉城の裏門内側にあたる場所、城主のため馬場があったとされ、ここには馬小屋、馬場のほか城を警備する武士達の詰め所もあったとされます。


 上の写真の堀底道を上って行くと、Ⅳ郭に出る。

【Ⅳ郭虎口】
 ここはⅣ郭虎口です。現道となっている堀底道を登って行くと、上りきった所に堀跡と、堀跡の先には門跡が見つかりました。


 更に、この道を登って左カーブすると、大堀切の急坂が現れる。

【大堀切】
 大堀切は城山と奥ノ山を分ける堀切です。
 Ⅳ郭虎口から続く通路は、大堀切の手前で左に折れ、高低差2m程のスロープを登ります。登りきった所が平坦面になっていて、木戸跡が見つかっています。

 左の写真で、登り切った所が木戸跡、右の山が奥ノ山、左が城山


 大堀切を登り切った広い平坦地の右奥が倉跡で、QRコードが立っていた。

【倉跡】
 江戸時代に炭になった米が発見され倉跡と呼ばれるようになったと伝えられます。この郭は中心にある郭のなかでは一番広い郭(くるわ)で、御殿や台所、倉などが立ち並ぶ、城の公的な場所とされています。


 真中が奥ノ山で、QRコードが立っていた。

【奥ノ山】
 千葉氏の守護神である妙見菩薩を祀る妙見宮のあった場所。妙見宮は千葉(現、千葉神社)に祀られていましたが、戦乱に巻き込まれ祭礼が出来ない状況が多年にわたったため、千葉勝胤(ちばかつたね)の代に城内にも造営したといわれています。この場所で元服式、出陣式など多くの儀式が行われたことでしょう。


 左奥が城山。(写真は失敗した為、無し)
【城山】
 
本佐倉城で一番重要な場所、城主の私的な館があった場所。入り口の門は二重、二ヶ所の矢倉と土塁に守られた空間に御殿、会所、台所などが並んでいたほか庭園もあったとされています。



全行程終了。

【本日の記録】
 現代の街道のみの距離は、1.0Km(成田駅前~成田山新勝寺総門)。
 累計:水戸街道と成田街道の追分(「中川大橋東」信号)から、52.9Km。
 寄り道を含めた実歩行距離は、5.0Km (京成成田駅前駐車場~京成成田駅前駐車場) 累計:86.5Km

 

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