成田街道(6) 海隣寺坂下 ~ 京成成田駅

2017年4月23日(日) 晴  

 自宅から自家用車で「京成佐倉駅」迄行き、駅傍のコインパーキングに車を預けて、前回終えた「海隣坂下」を9:30スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは成田山に向っての左右です)

「志津駅入口信号~海隣寺坂下」← 「目次」 →「京成成田駅~成田山新勝寺」


【海隣寺坂 
 成田街道は、佐倉城址北側入口の「歴史博物館」信号を過ぎ、次の道を左折して直ぐ右折する。少し進んだ三叉路から上りの海隣寺坂になり、三叉路を左折すると京成佐倉駅に至る。
 今回は、この三叉路の海隣寺坂下から
スタートする。
 この場所に、佐倉の名所を巡る『11万石の城下町 佐倉を訪ねる旅へ』と題する現在の地図と『佐倉散歩』と題する江戸時代の古地図が掲げられている。
 古地図には海隣寺坂の説明文が載っていた。

【海隣寺の坂】 
 現在の市役所下で、成田街道が台地上の町へと上る坂です。街道筋の要所として、当時は木戸があり、土手・竹矢来で守られていました。
     佐倉市 都市部

 左の写真は坂の途中左側に建つ古民家から、坂下(三叉路)を写したもの。

【海隣寺 (右側) 9:35~9:55
 短いが急な坂を上ると国道296号線に合流し右折する。
 直ぐ右側に佐倉市役所の入口があり、左側に佐倉市で唯一の味噌醸造所である「ヤマニ味噌」がある。
 市役所の隣に海隣寺がある。

【海隣寺】
 千葉山海隣寺は時宗で、阿弥陀如来を本尊とする千葉氏の菩提寺である。
 建立当初、海隣寺は千葉市馬加にあったが千葉氏が本城を千葉市猪鼻から本佐倉に移すにあたり、酒々井町に移した。その後、千葉親胤が本佐倉から鹿島台に本城を構築するに際し、当寺も現在地に移築された。
 境内には、千葉市歴代(本佐倉城主)の五輪塔や宝篋印塔も移されており、これらは市指定文化財となっている。
 なお、本尊については伝説があり。
 「千葉常胤が家臣をつれ、治承三年七月二十六日海辺で月を観(?)していたが折りしも海上に異光を放つものがあり、網をうってすくわせると、見事な金色の阿弥陀仏を得た。これを海上月越如来と名付け、文治三年千葉市馬加の地に当寺を建立し、本尊として安置した。」
といわれている。
     昭和五十八年三月 佐倉市


 上記文中にある五輪塔等の供養塔は、寺の右奥の飛地にある。
 本堂の左手奥の裏門から出て、散々探してやっと見つけた場所は、市役所の後ろにある墓地だった。
 市役所の後ろには左から、忠霊塔、佐倉霊園碑、顕彰碑が建ち、その右側の墓地内に千葉家の供養塔が沢山並んでいた。
 供養塔の前には、佐倉市教育委員会が立てた説明付標柱(佐倉市指定文化財 海隣寺 千葉家供養塔)が立っていたが、説明文は擦れて全く読めなかった。

  

 また、市役所敷地内の海隣寺側に接する石垣の上には海隣寺於茶屋
(おちゃや)遺跡がある。

【海隣寺於茶屋遺跡】 
 市役所の敷地を中心とする台地は、縄文時代から近世にわたる遺跡で、過去に2度発掘調査されています。
 昭和59年に社会福祉センター(4号館)の建設に伴う調査が行われ、弥生時代から奈良・平安時代(およそ1,400年前から1,000年前)までの竪穴住居跡22棟が発見されました。
 平成5年には2号館の建設に伴う調査が行われ、竪穴住居跡31棟(縄文時代1棟、弥生時代1棟、古墳時代6棟、奈良・平安時代23棟)掘立柱建物跡3棟、近世の溝一条が発見されました。出土した遺物は、土師器(はじき)や須恵器(すえき)の他に刀子(とうす)(小刀)、支脚(かまどにかける土器を支える台座)、紡錘車(糸つむぎの道具)、土玉(漁網につける錘)、玉類(装身具)、鉄製穂摘み具、古銭などです。
 当時の人たちは、印旛沼や鹿島川での漁労や、その脇の低地を利用した水田で稲作などをして生活していたことでしょう。対岸の佐倉城址でも、同じ時期の集落跡が発掘調査されています。
     平成7年3月 佐倉市教育委員会

【佐倉の歴史】 
 市役所内に佐倉市の名所地図が掲げられ、佐倉の歴史が載っていた。
 老中、土井利勝が徳川家康の命により、慶長十五年(1610)佐倉に配され、翌慶長十六年(1611)から7年間をかけて佐倉城を築城し、その周辺に城下町が形成されました。以来、佐倉城は江戸防衛の東の要衝及び西方面より西国大名に江戸が攻撃された際の将軍家の退避処として徳川譜代の有力大名たちが封ぜられ、幕府の老中職についた大名が徳川各藩中最多を数えたことから、俗に『老中の城』とも呼ばれ、それとともに城下町も栄えました。
 258年間に及ぶ佐倉藩の歴史の中でその6割弱の141年間を堀田家が治め、その石高は概ね11万石でした。千葉県における最大の藩でした。
 幕末に筆頭老中としてハリスとの条約交渉に全力を注ぎ、日本を開国へと導いた堀田正睦(ほったまさよし)等を輩出しました。正睦は深刻な財政難に悩む藩を改革により立て直すことに成功し、また洋学を積極的に取り入れ、蘭方医 佐倉泰然を佐倉へ招きます。佐藤は、医学塾兼診療所、佐倉順天堂(順天堂大学の前身)を開きます。
 明治初期には、旧佐倉城内に陸軍の歩兵連隊(歩兵第二連隊、歩兵第五十七連隊等)が設置され、軍都として栄えます。歩兵第五十七連隊は、アジア・太平洋戦争を戦い、やがて昭和十九(1944)年、フィリピンレイテ島において玉砕するという悲劇的な最期をとげました。


【佐倉町道路元標・高札場跡 (右側) 10:02
 成田街道の「並木町通り」を南下し「新町」信号を左折するが、その信号右に佐倉町道路元標が建っている。
 また、脇に立つ説明板には、ここが高札場跡であったことも書かれている。

【旧佐倉町道路元標・旧佐倉藩高札場跡】 
 旧道路法(大正九(1020)年施行)により、各市町村に一個ずつ設置されました。
 市町村を通る主要な道路同士の交差点に設置されるもので、ここが旧佐倉町の中心であったことが分かります。
 なお、江戸時代には、ここに旧佐倉藩の高札場がありました。
 この場所は江戸時代より佐倉の町の要であったことが分かります。
 (高札場は、東側200m市営駐車場入口に復元されています。)
     平成21年12月 佐倉市商工観光課

旧平井家住宅】 (右側) 10:04
 信号を渡った右側に、脇蔵を持つ店舗兼主屋からなる旧平井住宅がある。

 平井家は江戸時代からの商家で、当時は薪炭商を営んでいた。
 明治5年には新制度の郵便取扱い人になり、明治後期以降は酒屋を経営し新町の大商家になった。

 店舗兼主屋は明治中期、脇蔵は大正6年の建築で、平成20年に遺族より市に寄贈された。 

【蔵六餅本舗 木村屋 (右) 10:06
 「新町」信号を左折すると直ぐ右側に、私の好物である蔵六餅を売っている蔵六餅本舗がある。
 お休み処も併設されている。

 明治15年、銀座木村屋の2号店として、佐倉市にパン屋として創業した佐倉木村屋で、現在は和菓子店として、佐倉銘菓「蔵六餅」を代表とする四季折々の和菓子を販売している。
 「蔵六餅」は、佐倉藩堀田家に伝わる家宝の「蔵六石」に因んだ亀の甲の形をした六角形の餡入り最中である。
 「蔵六石」は、上面に亀の甲を晒した様な五色混ざった地肌の奇石だそうだ。

【三谷屋呉服店 (右) 10:10
 隣が、創業が寛政年間という三谷屋呉服店。着物やお祭り衣装を扱っている。
  


【山口家住宅 (右奥) 10:12
 直ぐ先、「市立美術館」手前の道を右折した突当り右側に山口家住宅がある。

【山口家住宅】 佐倉市登録有形文化財(平成12年2月16日登録)
 袖蔵  木造、2階建て
 店蔵  木造、2階建て
 
 袖蔵の創建は、明治29年10月で、店蔵は後の増築と考えられる。袖蔵は意匠に優れており、正面に水切りが4段つき、入口の格子の引き戸には、敷居の傾斜により自動的に閉まるくぐり戸があるなど、当時の大工の創意工夫がかいまみられる。両蔵とも土蔵造、屋根桟瓦葺で、防災に配慮して造られている。袖蔵と店蔵とが並ぶかたちは佐倉の町屋の例では貴重である。
※内部は非公開です
     佐倉市 

【佐倉市立美術館 (右) 10:15
 街道に戻って、右側に佐倉市立美術館がある。
 この時は、エントランスホールの工事中で、脇の入口から入るようになっていたが、展示品は見なかった。
開館時間 午前10時~午後6時まで(ただし、入館は午後5時30分まで)
休 館 日  月曜日(祝日に当るときは、その翌日)
観 覧 料  入館は、無料(特別企画展示は、有料)

  


【復元高札場 (左) 10:19
 美術館の斜め向かいの市営駐車場入口に復元された高札場が建っている。
  


 高札に、佐倉七福神の案内が掲げられていた。
  布袋尊〔大聖院〕
  寿老人〔宗圓寺〕
  福禄寿〔麻賀多神社〕
  弁財天〔嶺南寺〕
  毘沙門天〔甚大寺・松林寺〕
  大黒天〔妙隆寺・大聖院〕
  恵比寿〔麻賀多神社〕


【今井家住宅・街並み情報館 (左) 10:21
 直ぐ先、「ローソン」の一軒置いた隣に今井家住宅がある。

 また、ここは佐倉一里塚・町並み情報館となっており、家の前には灯籠が建ち、内部も見学できる。
 但し、毎週 月・火・金曜日は休館となっている。



【明治の呉服商「駿河屋」(今井家住宅)】 
 現在の建物は、今井氏が「駿河屋」の屋号で呉服商を営んだ古民家です。主屋は、明治二十二(1889)~明治二十五(1892)年前後に建てられたと推定されます。奥の蔵は明治二十五(1892)年に建てられたことが棟札により判明しています。
 また、ここは江戸時代の郷宿(旅籠)「油屋」の跡地でもあります。この「油屋」には、桂小五郎(長洲藩士)、山本覚馬(会津藩士)、清河八郎(庄内藩士)などが宿泊したことが宿帳により分かっています。
     平成26年3月 公益社団法人 佐倉市観光協会

【おはやし館 (右) 10:27~10:38
 右側「佐倉図書館」の直ぐ先におはやし館がある。
 館内でお祭りの写真を見たら、豪華で、祭りの時期にもう佐倉を一度訪れたいと思った。

【佐倉新町おはやし館とは】 
 平成3年(1991)7月に開館した「佐倉新町おはやし館」は、郷土の伝統文化の伝承や物産等の紹介、佐倉市内の観光情報の提供などを行い、学校の郷土学習の場や城下町めぐりの休憩所としても利用されています。また、佐倉囃子の指導、育成が行われ、貴重な民俗芸能の伝承の場ともなっています。当館には、各町内が所有する山車人形6体のうち、2体が展示され、佐倉の古式豊かな伝統や文化に根ざした秋祭りやお囃子の音が紹介されています。

 「佐倉新町」のおこりは、元和2年(1616)、佐倉城を築いた土井利勝が家臣たちの日常の生活物資をまかなうため、商人や多くの職人を計画的に配置したことに始まりました。その後、堀田家11万石の城下町として繁栄し、明治初年(1868)頃には、この新町通りに200軒ほどの商人、職人が軒を連ねており、「佐倉新町、江戸まさり」と言われるほどの繁栄ぶりでした。
 代々の佐倉城主の崇敬が篤かった麻賀多神社の祭礼には、同神社の江戸時代から伝わる大神輿が今もこの新町通りを練り歩き、各町内からは、佐倉囃子にのって山車や御神酒所(屋台)が曳き出され、旧城下町佐倉の伝統ある祭りが繰り広げられています。


 おはやし館前の広場には高札場が建っている。

【『高札場』について】
 高札場とは、法令や禁令などを墨書きした高札を、町の辻や橋のたもとなどの、 人通の多く目につきやすいところに掲示した場所です。高札として掲げられたものは、幕府の法が主なものでした。高札は一般庶民に法を公示する手段として用いられたため、わかりやすいように、文面は仮名まじり文が多く使われました。
 また、高札は領主の権威の象徴であったことから、その保護のために柵矢来や屋根を設けるなどして、高札場の管理は厳重になされていました。
 明治政府も、当初は「五傍の掲示」で高札の形式を踏襲しましたが、法令交付の手段として時勢に合わないことから、明治6年(1873)に廃止しました。
 佐倉城下における高札場は、新町(横町)と田町の辻にありました。その場所は「札の辻」として、江戸時代中期の佐倉の様子を記した文献である「古今佐倉真佐子」に記載されています。
     2006年3月 佐倉商工会議所 佐倉TMO


 おはやし館の入口の両側には山車人形のうち2体(玉井・竹生島)が展示されている。

【玉井(たまのい(二番町所有)】 佐倉市指定有形文化財(昭和59年11月26日指定)
 この人形は、 二番町に伝わる祭礼用山車の上部に置く山車人形である。
 山車は、御神酒所(踊り屋台のことで人形を載せない)に改造され現在でも祭礼時に引き回されている。
 山車と人形の沿革について定かではないが、地元の伝によると明治12年に東京より入手したとされている。制作年については、御神酒所の欄干羽目板に、「文化八 」 (1811年)の墨書があり様式を見てもこの頃と推定される。
 玉井については、古事記に載る「海幸・山幸」伝説を能にしたものであり、ここに出てくる海神を人形にしている。この話の筋は、弟の山幸が兄の海幸の釣り糸を魚に取られ、釣り糸を捜すために海神の宮に行き、海神とその姫の助で釣り糸を探し出すというものである。 
【竹生島(肴町所有)】 佐倉市指定有形文化財(昭和59年11月26日指定)
 この人形は、中間街に伝わる体位でいよう山車の上部に置く山車人形である。
 山車は、御神酒所(踊り屋台のことで人形を載せない)に改造され現在でも祭礼時に引き回されている。
 山車および人形の沿革について、地元では東京日本橋の魚河岸から入手したという伝えがあり、また別に江戸牛込の肴町(現在の新宿区神楽坂五丁目)のもので、あったとする説もあり、はっきりしない。制作年については、山車の波模様の様式から江戸末期と推定され、また佐倉に移ってきた年については町名額の裏に「明治12年9月」の墨書があり、この年に入手したと推定される。 山車の水引幕は、豪華なものでかつて国立歴史民俗博物館に展示されたほどの逸品である。
 竹生島については能の曲目であり、筋書きは琵琶湖にある竹福島明神に天皇の命令で参拝に来た朝臣が、その縁起を聞いているところへ龍神が現れ、天皇の賜物を授けるという筋であり、この龍神を人形にしたものである。 

【宗圓寺 (左奥) 10:41~10:52
 突当りの一本手前の道を左折すると、右側に宗円寺がある。佐倉七福神のうち寿老人。
 入口、寺の標柱の後ろに『重要文化財 佐藤泰然之墓』の石柱が立っている門を入ると正面に本堂が建っている。
  

 本堂の手前左側にはが建っている。

 土佐ノ国八葉山禅師峰寺
 第三十二番 下総国最上町宗圓寺
 静かなる
  我がみなもとの
   禅師峰寺(ぜんじぶじ)
 浮かぶ心は
  法の早船
     平成十二年七月十一日 宗秀代


 祠の右後ろに、佐藤尚中の招魂碑が建っている(上の写真の丸い石碑)
【贈従五位笠翁佐藤先生招魂之碑】
 佐藤先生とは、佐藤尚中(たかなか)(舜海)のことです。号を笠翁と言います。
 尚中は、文政十年(1827)に小見川藩医山口甫僊の次子として生まれ、始め山口舜海と称していました。後、天保十三年(1842)、十六歳の時に江戸に出て佐藤泰然の和田塾に入門し、後にその逸材を見込まれ二十七歳の時に泰然の養嗣子となっています。安政六年(1859)、泰然の隠居に伴い家督を継ぎ、順天堂も受け継ぎました。万延元年(1860)十一月、幕命により長崎に遊学し、当地にいたオランダ海軍軍医ポンペから体系的な西洋医学を学んでいます。舜海の遊学後は佐倉の西洋医学は更に発展を遂げる結果となりました。明治維新後は新政府に招かれ、大学東校(今の東京大学医学部)教授となり、更に天皇の侍医である大典医にもなりました。後年、東京湯島に順天堂病院を開きました。現在の順天堂大学につながるものです。
 佐倉順天堂は、弟子の岡本道庵が尚中の養嗣子となって同じく舜海を名乗り、受け継ぎました。また、同様に尚中の養子となった弟子の高和東之助は佐藤進として東京の順天堂を発展させています。進は後に陸軍軍医総監になっています。更に、長女の佐藤静子は女子美術学校(後の女子美術大学)を創立したことで知られます。


 招魂碑の右隣には、萬霊等二十三夜塔、更に石仏が多数並んでいた(下の写真の左端が二十三夜塔)

【二十三夜塔】 
 二十三夜というのは月待の一つで、旧暦の二十三日の夜に集まる講を言います。三夜様とか、三夜供養とも呼ばれます。この日の夜に、部落の人達が集まり共同して飲食をすることがありました。太陽の出現を拝む日待と並んで農村では大切な行事です。十年に一度とか五十回目、百回目とか、又は何か特別の祈願のある時などに、記念の大祭を挙行して、石の塔を一定の場所に建てることがあります。この塔の右横には「元治二乙丑年二月吉日」と書かれています。元治二年二月は、西暦では一八六五年に当ります。この年の一月には佐倉地方で天然痘の大流行があったと記録されていますので、その病魔を追い払う祈願であったかも知れません。


 本堂の右横を入ると本堂の裏側に佐藤泰然の墓がある。
 下の写真で、向かって中央手前の墓が
『従五位佐藤舜海之墓』、その右後ろが『贈従四位佐藤泰然之墓』、その右隣が『物外 佐藤恒二之墓』、その右隣が『佐藤幸子之墓』、舜海之墓の左後ろは『佐藤家の墓』

【史跡 佐藤泰然の墓】 
 佐藤泰然(父、佐藤信隆〔藤佐(とうすけ)〕は山形の人)は文化元年(1804)に武蔵国川崎在稲毛(現在の川崎市)生まれ、天保元年(1829)高野長英に(医学)を学び天保六年から々、九年まで長崎で蘭方医学を学んだのち、江戸で開業したが、天保十四年(1843)佐倉藩主堀田正睦(まさよし)の招きにより佐倉本町に移り住み、私立病院の元祖である順天堂を開き、治療の傍ら、塾として多くの近代医学を担った医学生を育てると共に、藩主堀田正睦の顧問各として、外交問題の意見を聞かれる等藩政に与えた力は大きく、佐倉藩の洋学熱心と合まって「西の長崎 東の佐倉」とうたわれた時代であった。安政六年(1859)順天堂を養子佐藤尚中(山口舜海)に譲り横浜、東京と居を移し、明治五年(1872)東京下谷茅町において六十九才で没した。
     宗教法人 宗円寺


 宗円寺の向かいにある嶺南寺は、佐倉七福神のうち弁才天  


【堀田家墓所 (左奥) 10:53~11:03
 宗円寺に向かって左隣の敷地入口に『重要史跡 堀田正睦之墓』の石標が立っていて、奥に入って行くと堀田家墓所がある。
   

 上の写真の道を入って行くと、まず、堀田政睦公追遠之碑(下の写真)が建っていて、その左後ろに正睦等の説明板が立っている。

【堀田正俊(まさとし)・正睦(まさよし)・正倫(まさとも)墓】 千葉県指定史跡(昭和53年2月28日指定)
 堀田正俊は後の堀田の祖で・正盛の三男として寛永十一年(1634)に生れ、将軍家光の命により春日局の養子となり、安中城主・若年寄・老中・古河城主を経て大老に栄進した。
 正睦は後の堀田第九代・文化七年(1810)に生れ、佐倉城主にして寺社奉行・大坂城代・老中を経て老中首席・外国事務総裁となり、日米修好通商条約締結の基礎を築いた。
 正倫は正睦の四男として嘉永四年(1851)に生れ、最後の佐倉城主となり、廃藩後は士族授産に努力し、さらに堀田農事試験場を開設、地方産業発展に貢献した。
     昭和五十六年二月四日 千葉県教育委員会 佐倉市教育委員会


 説明板の右手に堀田家墓所案内図が掲げられていて、その奥が塀で囲われていた墓所になっている。
  

 下の写真は、墓所に入った右側で、手水舎の後ろが幾千子の墓
  


 幾千子の右に
正俊の墓

【初代 堀田正俊】 
   寛永十一(1634)十一、十二生
   貞享元  (1684)八、二十八没
 十三代将軍家光の老中として活躍した佐倉十一万石の城主堀田加賀守正盛の三男。母は大老酒井忠勝の女阿栗(むすめあぐり)
 幼い頃春日局の養子となり、その遺領三千石、また慶安四年(1651)父殉死後、その遺領一万石を継ぎ、合わせて一万三千石の大名となる。その後、安中城主(四万石)で老中の時、綱吉擁立に大功を顕し、天和元年(1681)大老に進み、古河藩十三万石を領した。
 正俊の政治は世に「天和の治」と称された。しかし、その剛直な性格が禍いし、貞享元年(1684)江戸城内で春日局の義孫若年寄稲葉正休によった刺殺された。
 その子二代正仲は、古河から山形、さらに福島、三代正虎は再び山形へと幾度も移封され財政に窮した。延享三年(1746)五代の正亮は老中となり再び佐倉に入封、その後幕末まで百二十二年間佐倉は堀氏が治める所となった。
     平成六年三月 佐倉市教育委員会


 その隣(右奥)が正睦の墓

【九代 堀田正睦】 
   文化七(1810)八、一   生
   元治元(1864)三、二十一没
   (前名 正篤)
 父は七代政時、生母は源田芳(芳妙院)。文政八年(1825)八代兄正愛(まさちか)の跡を嗣ぐ。
 天保四年(1833)渡邊弥一兵衛を年寄役に抜擢し、潮田監物の献策をいれ、藩士の借財を一掃するとともに、厳しく質素倹約の制を課して藩風を一新した。
 また、西洋の文化を積極的に受け入れ、藩校の成徳書院を拡充し、蘭方医の佐藤泰然や英学の手塚律蔵を佐倉に招くなどして、佐倉藩の近代化を遂げ、佐倉をして西の長崎と比肩する文化の地とした。
 安政二年(1855)老中主座となり、諸外国からの開国要求という難局に当って、日本を開国へ導く大役を果たした。しかし、十三代将軍家定の継嗣問題で、大老の井伊直弼と対立し、安政六年(1859)隠居を命ぜられ、更に開国を罪として蟄居の刑のまま、佐倉城内で卒した。大正四年(1915)従三位を追贈された。
     平成六年三月 佐倉市教育委員会


 下の写真は、墓所の左側で、
 左下の写真は、手前から秀子・正恒夫妻の墓、正恒夫人和子の墓堀田家累代之墓、正倫の正室吉子の墓
 右下の写真は、吉子の墓、正倫夫人伴子の墓、最後の佐倉城主正倫の墓が並んでいる。
  
 


【甚大寺 (左奥) 11:04
 堀田家墓所の隣に甚大寺がある。佐倉七福神のうち毘沙門天。

【甚大寺】 
 安城山不矜院甚大寺は、元和元年(1615)慈眼大師天海大僧正が、天台宗比叡山延暦寺の末寺として山形城下に建立された寺である。
 元禄十四年(1701)に山形城主であった伊豆守正虎公(佐倉堀田家三代)が開基となり、当山十二世秀鏡法印が中興した。しかし、延享三年(1746)堀田相模守正亮公(五代)が、佐倉城主として転封されるに際し、同年八月、現在の地に移したものである。
 安置されている本尊、十一面観世音菩薩(市指定文化財)は、堀田正倫公(十代)の御念持仏で、わが国彫金界の泰斗である佐倉出身の津田信夫の作である。
 また、金毘羅尊は、堀田相模守正順公(六代)が天下泰平、万民豊楽を祈り、城内の守護仏として、四国象頭山より勧請したものである。現在、毎月十日は金毘羅尊の縁日として近隣町村からの参詣者を迎えている。
 大伽藍を容した旧本堂は、明治初期の大火で焼失したが、現在の本堂は坂東二十八番札所滑川龍正院建物を昭和三十六年に移築したもので、享保十一年(1726)六月、当時下総の国を挙げて建立されたものである。
 境内奥には、堀田家累代の廟が静かにたたずんでいる。
     昭和六十年三月 佐倉市

【肴町山車飾の家 (右) 11:10
 街道に戻って、突当りを右折すると、右側に『肴町山車飾 江戸時代後期製作』と書かれた看板が掲げられている家が建っていて、格子内の白壁に山車飾りが嵌め込まれていた。
  


石渡家住宅】 (左) 11:15
 街道は、次の突当りを左折する。
 左側「松林寺入口」に石渡家住宅がある。

【石渡家住宅】 佐倉市登録有形文化財(平成13年5月16日登録)
 主 屋  木造、一部2階建
  蔵    木造、2階建

 主屋は「みせ」と「すまい」からなり、「みせ」は大正5年、「すまい」は明治40年に建てられたことが分かっている。蔵は、明治38年以前に建てられたと推定されるが、詳細は不明である。「みせ」の外観については一部改装されているが、出桁造とし、隣家に面する東西の壁を漆喰塗にするなど、佐倉の町屋の特徴を良く残している。
 蔵は屋根のつうじ棟(瓦を一定の隙間をとって積み上げ、その隙間に漆喰を塗り込め、重厚に見せる棟)や軒先に優れた意匠が見られる。
 いずれも佐倉における伝統的な町屋の景観を残した貴重な建造物である。
      佐倉市教育委員会

【三谷家住宅 (右) 11:19
 下り坂の手前右側に三谷家住宅、向かいに三谷屋綿店がある。

【三谷家住宅】 佐倉市登録有形文化財(平成13年5月16日登録)
 主  屋  木造、一部2階建
 袖  屋  木造、2階建
 奥座敷  木造、2階建
 
 袖蔵は明治17年に建てられたことが棟札より確認され、主屋もその頃には建っていたと考えられる。また、奥座敷は昭和10年位頃に建てられている。いずれも近代の佐倉における有力商家にふさわしく造形的に優れた建物であり、出桁造の主屋と並んで袖蔵が建つ当時の商家の構えをよく残している。佐倉の伝統的な商家として貴重な建物である。
※内部は非公開です。
     佐倉市教育委員会

【城下町佐倉てくてくマップ (左) 11:23
 三谷屋綿店の隣に、『城下町佐倉てくてくマップ』が立っている。
 


佐倉順天堂記念館】 (右) 11:30
 坂を軽く下り、次いで軽く上った先、「本町」信号の手前右角に佐倉順天堂記念館がある。
 この記念館は、前回紹介した『佐倉城址周辺の名所』と同じ2014年6月3日に佐倉を訪れた時に寄っているので、館内には入らなかった。



【佐倉順天堂記念館】
 開館時間  午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
 休 館 日   月曜日(祝日の場合は火曜)、年末年始
 入館料金  100円


【旧佐倉順天堂】 千葉県指定史跡(昭和50年3月28日指定)
 順天堂は、長崎に遊学後江戸に蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が佐倉に移り住み、天保十四年(1843)に開いたオランダ医学の塾です。
 ここではオランダ医学書を基礎としながら、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が参集しました。
 泰然の養子佐藤尚中(山口舜海)は、長崎でオランダ軍医ポンペに学んだ後、系統的な医学教育をとり入れ、ここで学んだ塾生の多くが明治医学界において活躍しました。
 明治時代になると佐藤尚中は新政府から大学東校(現東京大学医学部)最高責任者として招かれた後、御茶ノ水に順天堂医院を開業しました。
 一方、佐倉の順天堂は養子佐藤舜海(岡本道庵)が受け継ぎ、佐倉順天堂として医療活動を続けました。
 現在残っている建物は、安政五年(1858)に建てられたものと、その後拡充された施設の一部です。
     平成五年十二月二十日 千葉県教育委員会 佐倉市教育委員会

【昌柏寺】 (右) 11:39
 少し進んだ右側に昌柏寺がある。
 境内には入らなかったが、この寺は寛文年中(1661~1672)に四代将軍家綱の養母である昌柏院殿により再興された寺で、その墓があるとのこと。
  


【藤沢の地蔵尊 (右) 11:45
 直ぐ先、コンビニ「SAVE ON」の手前を右斜めに入る道があり、その右角に藤沢の地蔵尊が二躰並んでいる。
 右の地蔵尊には『奉行歩従成田山至八幡 夜日参 中十方施主白』、左の地蔵尊には『延享五戌辰年七月二十五日及至法界下総国武射郡牛尾村常念』と刻まれている。
   


<昼食> 11:47~12:32
 左上の写真で、真直ぐ進んだコンビニの後ろにある「長寿庵」で蕎麦の昼食。


【妙胤寺(みょういんじ) (左) 12:41
 成田街道は、左上の写真を右に入り、次の三叉路を左折するが、直ぐ真直ぐの道に合流する。合流する手前で佐倉市から酒々井市に入る。
 合流した信号のある二股を左の道に進む。坂を上ると直ぐ左側に妙胤寺がある。

 酒々井市に入ると名所・旧旧跡に、携帯電話観光案内『酒々井観光ナビ』という名称でQRコードが掲げられ、現地で簡単に情報をチェックすることが出来るようになっている。
 妙胤寺には説明板が無いが、携帯で次の様な情報を得た。

【本佐倉妙胤寺】 
 
常勝山妙胤寺、日蓮宗中山法華経寺末寺、本尊は釈迦牟陀仏、山号・寺号は本佐倉城主千葉勝胤から一字づつ付けられたもの、勝胤家臣鈴木伊賀守が建立と伝わり、本寺は別名清正公とも呼ばれ加藤清正公の木造・手形があります。


 本堂までは行かなかったが、参道右手に平手造酒
(ひらてみき)寄りかかりの松がある。

【平手造酒 寄りかかりの松】 
 「天保水滸伝」は、天保年間(江戸時代後期1830年~1848年)に利根川下流の笹川河岸で起った事件を基に作られた講談や浪曲の名作である。
 この天保水滸伝の登場人物の一人が、剣客平手造酒であり、当時下総一帯で勢力を握っていた、笹川の繁蔵と飯岡の助五郎との対立で、笹川の繁蔵に助勢をして活躍している。
 戦いの前、平手造酒はこの地に立ち寄り、妙胤寺参道右側にあった〈さくら家〉という茶屋でお酒を飲み、当所にあった松の木(直径1.5m位)に寄りかかって身体を休めたといわれている。
 その後、当山の本堂に必勝を祈願して、戦いの地 利根川に向かったと言われています。現在の松の木はその2代目です。

 道成りに進むと、「山道バス停」で左に入る道があり、ここから案内に従って1.3Km北に行くと本佐倉城跡がある。
 かなりの寄り道になるので、今回は寄らずに、次回、成田街道歩きを終えてから車で行くことにする。


【酒々井宿 
 やがて、旧道は「上本佐倉」信号で国道296号線に合流する。この周りには食事処が沢山ある。
 国道に合流した信号を左折し、次の同じ名前の「上本佐倉」信号を左折して、県道137号線を北上する。

 戦国時代は本佐倉城の城下町、江戸時代は佐倉藩の城下町として発展してきた酒々井宿は、成田詣が盛んになると更に栄えて行く。
 江戸時代、宿内には幕府直轄の野馬牧場があり、それを管理する野馬会所と野馬払い場が置かれた。
 酒々井宿は、「上本佐倉」信号から「麻賀多神社」辺り迄で、江戸側から新宿、上宿、中宿、下宿と、中宿と下宿の境(「酒々井町役場入口」信号)から東へ分岐した多古街道沿いにあった横町の五町からなる。
 宿場の中心は中宿で、問屋が置かれ、野馬会所等もここにあった。
 酒々井の地名は、後述する「酒の井」が起源と言われる。


【旧米屋前道標 (右) 12:59
 県道137号に入った直ぐ右側の駐車場前の歩道上に、旧米屋前道標が建っている。
 道標の正面には『東京へ十三里 東京道』、左側面に『此方成田山道』、右側面に『芝山へ五里 芝山仁王尊』、背面に『明治七年申戌八月』と刻まれていた。
 「芝山仁王尊」は、ここから東南東へ直線距離で15Kmの観音教寺を指す。成田空港南の柴山町にある。

 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「上本佐倉旧米屋前道標」という名称で下記の様に紹介されている。

 酒々井宿の入り口で成田不動と芝山仁王への分岐点に位置します。建立者は大阪の在住者です。
 東京道と彫られています

大鷲神社】 (左) 13:04
 上記道標の向かいに、酒々井宿江戸側入口(新宿)に鎮座する大鷲神社がある。

 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。

【酒々井大鷲神社】
 酒々井上宿(通称新宿)の鎮守、酒々井宿の入口にある神社、詳細は不明です。新宿は一番新しい宿であり、宿の繁栄を祈願した神社と考えられます。祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。

蔵造りの家】 (右) 13:08
 直ぐ先、左側にある「鶴岡歯科医院」の向かいに一里塚があったとの事だが、今は痕跡も何も無い。ここから成田まで二里八丁(8.7Km)。
 上宿に入り、右側「莇
(あざみ)商店」の向かいに蔵造りの旧家がある。
 但し、私達が訪れた時は修復工事中だった。
  
  


【八坂神社 (右) 13:13
 一軒置いた隣に上宿と中宿の境に鎮座する八坂神社がある。

 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。

【酒々井八坂神社】
 酒々井宿四町(上宿、中宿、下宿、横町)の鎮守、「天王様」とも言います。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、市姫神も祀っています。8月16日・17日に例祭が行なわれ、例祭は「飾り神輿」と「揉神輿」が町内を練り歩くもので勇壮な行事でありました。 

【島田家 (右) 13:16
 中宿に入り、「酒々井町役場入口」信号手前右側に、江戸時代に幕府の野馬御用を勤めていた立派な島田家がある。

【島田長右衛門家・島田政五郎家】 酒々井町登録有形文化財(平成24年12月21日登録)
 酒々井町酒々井地区は、戦国時代には本佐倉城の城下町として、また江戸時代には佐倉藩の城下町、旧成田街道の宿場町、佐倉七牧(ななまき)(徳川幕府直轄の野馬牧場)の野馬会所(管理事務所)・野馬払い場の所在する地として栄えた場所です。
 島田長右衛門家は江戸時代に幕府野馬御用を勤めたていた家で広い敷地を有し、かつては宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていました。隣接する島田政五郎家は島田長右衛門家の分家であり、やはり宅地裏に野馬払い場が続いていました。
 現在の建物は明治10~20年頃に建てられた店舗兼住宅で、道路に面する店舗は南北棟、住宅棟は店舗と直行する町屋づくりになっています。当時の商家の邸宅として『日本博覧図千葉県編』(明治27年刊行)にも掲載されていました。
 両家は現在においても歴史ある酒々井地区の中核的な建物として歴史的景観を形成しています。
     酒々井町教育委員会


『日本博覧図千葉県編』(第九編・明治27年刊行)

  

 『酒々井観光ナビ』のQRコード情報。
【酒々井野馬会所跡】
 江戸時代に幕府の牧場である佐倉七牧を管理していた野馬会所跡。野馬会所は牧士と呼ばれる、千葉氏の旧臣で馬奉行をしていた家系の人々が江戸幕府に仕えて運営していました。馬は軍事、運搬、農耕に欠かせないものであり、ここでは毎年100頭を越える馬が数千両で取引されていました。


酒々井町道路元標】 (左) 13:19
 「酒々井町役場入口」の左側信号機の電柱下に、酒々井町道路元標が建っている。

 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「酒々井仲宿酒々井町元標」という名称で下記の様に紹介されている。

 道標ではなく酒々井町の道路元標です。
 明治初期まで、この向かい左右に道標と高札があり、酒々井町の中心でした。

【酒の井の碑 (左奥) 13:25~13:32
 その先、左に入る道の入口に『酒の井の碑』の案内板が立っているので、ここを左折すると直ぐ右側に、再現された井戸と碑が建つ広場がある。

【伝説 酒の井碑】 
 ある親孝行の息子が、毎日酒を買って年老いた父親に飲ませ喜ばせていました。ところが、ある日酒を買うお金に困ってしまいました。「父に酒を買うことができないとは、なんて親不孝なんだ。」と、孝行息子はひどく心を痛めながら歩いていると、道ばたの井戸から酒のにおいがしてきました。井戸水をくみ上げ飲んでみると、それはなんと酒だったのです。孝行息子はたいそう喜び、それからは毎日この井戸から酒をくんで帰り父親を喜ばせました。他の人がくんで飲んでもただの水でした。酒の井戸があることから村の名も「酒々井」と呼ばれるようになり、この碑が記念として建てられたと伝えられています。
    注
 この碑は下総式板碑といわれ、鎌倉時代から室町時代に盛行した供養碑であります。
 碑面をよくみると、蓮花と梵字キリーク(阿弥陀如来種子)があります。
     昭和六十年四月 酒々井町教育委員会


 門の脇に掲げられていた『酒々井観光ナビ』のQRコード情報。

【酒の井の碑】
 酒々井の地名の起源となったと伝わり、孔子養老伝説として有名である「酒の井」を記念した酒の井の碑があります。この地は円福院神宮寺の境内であり、碑は下総地方に特徴的な室町時代前期の「供養碑(下総形板碑)」であり梵字「キリーク(阿弥陀如来)」が彫られています。いつのころからか親孝行伝説と酒の井伝説を伝承する碑として伝わっています。

 左の写真で、手前が酒の井碑、奥が『伝説酒の井碑』と刻まれた標柱。


 石碑の左手に復元された井戸があり、井戸の柵に青いスイッチが付いていて、押すと『酒の井の碑跡由来』を音声案内をしてくれる。
   


【酒々井駅古松(こしょう)碑】 (左奥) 13:37
 街道に戻って、次の左に入る道の入口に『酒々井駅古松碑・本佐倉城跡』の案内柱が立っている。
 ここを左折し、右側「酒々井小学校」の脇門前を過ぎると、左側に波型屋根の「学校給食センター」があるので、その手前を左折すると、給食センターの後ろに酒々井駅古松碑が建っている。
 古松碑の左に建つ古い碑文は、右手前の新しい説明文とほぼ同文だった。

【酒々井駅古松碑 一基】 酒々井町指定名勝(昭和52年3月29日指定)
 この古松碑は、この地にあった名木、通称「八抱(やかか)えの松」の枯れた翌年にあたる明治三年(1870)十月、これを惜しんだ人たちの発起で、佐倉藩大参事平野重久の撰文、書学教師平林辰協の書によって建立された高さ二・一メートル、巾〇・九メートルの碑である。「八抱えの松」とは樹齢七、八〇〇年の古松であったといわれ、『成田名所図会』にもその偉容が描かれている。
 天保年中(1830~1844)、落雷にあって樹勢が衰えたところへ、明治二年(1869)、再び大風にあって枯死してしまったものという。
     平成三年三月 酒々井町教育委員会

【麻賀多(まかた)神社】 (左) 13:43~13:48
 街道に戻った左角に麻賀多神社鳥居が建っている。

【酒々井麻賀多神社】 
 酒々井の鎮守、麻賀多神社は印旛郡総鎮守と伝わる神社で近隣に19社あります。この麻賀多神社は千年以上前に建立されたと伝わります。祭神は稚産霊命(わかむすびのみこと)。例祭は10月14日・15日で以前は山車(だし)巡行があり酒々井地区中を引廻し、山車人形は名人三代目仲秀英(なかしゅうえい)の作で安政六(1859)年、江戸で作られた貴重な人形(町指定文化財)です。


 鳥居をくぐり、鬱蒼とした森の中を右に進むと拝殿
(下の写真)が、その後ろに本殿が建っている。

【下宿麻賀多神社】 
一、祭神
 稚産霊命を主神とす
一、由緒
 社伝に曰く酒々井の地は後冷泉天皇の天喜年間(1053)発祥せし部落にして、麻賀多神社はこのとき創祀され、長禄元年(1457)千葉輔胤この地に城を築きしより、その滅亡の天正十八年(1590)迄本佐倉城主千葉介、城地鎮護の神として崇敬厚く深く信仰せりしたり
 云々  (千葉県神社庁宗法台帳)
一、合祀社
 妙見 粟島 愛宕 水神 古峯 御嶽 大杉 山王 白旗 天神の十社
一、鎮座地
 酒々井町酒々井二〇四番地境内四七五坪先に東南七四坪国道に提供、また明治後期東北面六〇〇坪を尋常小学校開設の為に提供
一、建造物
 本殿、銅板葺流造二坪 拝殿、同葺入母屋造六坪、丹塗粟島神社 丹塗両部鳥居
一、樹林
 鎮守の森として、代々の氏子大樹を守れり
 樹齢三〇〇余年の欅、椎、杉等の他多くの樹を擁し、以って善く静閑を保つ
 古代の地麻の産地にして麻県(まのあがた)が転化し麻賀多の名となりしという、印波(印旛)国造りの氏神として印旛沼東南部に廿二社在り、祭神全て稚産霊命なり。


 社殿の右奥には合祀社が並んでいる。下の写真で奥の赤い祠が粟島神社

 此 麻賀多神社の境内は 街道を迂回させしめ許多(あまた)の古木を擁し鎮守の森にして厳島と称し酒々井湧水の基趾(きし)となる小高き丘陵の地なり
 亦 古へ本佐倉城主千葉氏鎮護の地として崇敬せる処なり
 然るに 明治後期 子弟教育を急務とする町は尋常小学校の開設に際し 新堀古道まで境内半減を懇願す
 受けて氏子一同後世の為挙って清虚賛同す 伐木 土砂をして平坦の資源とす 時移りいまや本殿後 背地の標高に往時昔日の面影を残すのみ 目して北東を望まん
 有徳の先人を讃えここに銘記す
     平成二十七年十月吉日 氏子中  

【酒々井下り松三山碑 (左) 13:53
 「酒々井小学校」の正門前を過ぎ、始め軽い上り坂の後、坂を下って行く。
 その下り坂の途中、右カーブしている左側に下り松三山碑が建っている。「成田空港15Km」の案内板の手前のカーブ。

 『酒々井観光ナビ』QRコード情報

【酒々井下り松三山碑】
 
 奥州出羽三山参詣した記念碑、道路拡幅に伴いここに移転されました。この地域では壮年になると講をつくり出羽三山に参詣することになっていました。

築山】 (左) 14:00~14:07
 その先、左手(印旛沼・筑波山方面)が開けて、眺望の良い所に出る。
  

 その直ぐ先の三叉路が「宗吾入口」。成田街道は真直ぐ進むが、ここを左折して県道137号を3.5Km程行くと、義民・佐倉惣吾郎を祀る宗吾霊堂がある。
 この霊堂も、次回車で訪問する予定にして真直ぐ進む。
 
 「宗吾入口」信号を渡った左角に、築山と呼ばれる小高い所がある。
   

 階段入口に『酒々井観光ナビ』QRコードが立ち、階段を登って行くと頂上は広場になっていて東屋が建っている。

【築山】 
 通称「桜山」、この地は資産家であった旧家の邸内でした。明治天皇が巡行の折に2回訪れたことを記念した碑が建っています。印旛沼、筑波山を眺望できる名勝地です。


 東屋の所からも、印旛沼・筑波山の眺望が素晴らしい。右下の写真に筑波山がうっすら見える。
   

 また、明治天皇は、築山からの眺望が気に入り、ここを4回も訪れている。
 広場にはそれを記念した明治天皇御駐蹕記念碑が建っていて、背面に碑文が刻まれている。

【御休憩四回】 
 明治十四年六月二十九日  七月一日
 仝  十五年六月六日     仝月八日
     中川村
       木内常右衛門邸内之築庭
   昭和三年六月一日 鶴岡縫之助建設

【大師堂 (左) 14:14
 成田街道は、次の信号を左折し、直ぐコンビニの角を右折する。
 左カーブしながら進むと突当りに出るが、その手前左側に大師堂が建っている。
 また、祠の左隣には『富士登山参拾三度大願成就』と刻まれた石碑も建っていた。

 第六十五番札所
 伊予の国愛媛県
 由霊山 三角寺より分霊

 ご詠歌
 おそろしや
  三つの角にも
   入るならば
  心をまろく
   慈悲を念ぜよ

 弘法大師のご宝号
  南無大師遍照金剛
     お唱えしますと功徳あり

【中川石仏 (左) 
 その隣の火の見櫓の下に中川石仏が数躰集められている。

 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。

【中川石仏】
 
 地蔵菩薩が数体あります。中央にある像の銘文には元禄二(1689)年に泉州境(堺)に在住の人が建立したと書かれています。この時期、成田山参詣はほとんどありません。下総中川にどのような縁があったのでしょうか。

【岩名仁王道標・酒々井停車場道道標 (突当り) 14:15
 突当りには、岩名仁王道標酒々井停車場道の道標が並んで建っている。
 左側の岩名仁王道標の正面には『二王
(いわな)ミち』と刻まれているが、他の三面は殆ど読めない。

 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。
【中川岩名仁王道標】
 佐倉市岩名にある岩名仁王尊(玉泉寺、岩名仁王尊、室町時代初期)への道標、印旛沼沿いの平坦な道を約4kmほど歩くと立派な仁王門があります。文政七(1824)年の「鹿島参詣記」に、「左に岩名村ニ王道の石標有、太田南畝(蜀山人)(おおたなんぽ(しょくさんじん))の銘にて」という文があります。傍らに明治44(1911)年に設置された「酒々井停車場道」と刻まれた道標があります。


 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田・岩名道蜀山人道標」という名称で下記の様に紹介されている。
 
中川の三叉路にあり、「二王ミち」と彫ってあります。
 側面は磨耗がひどく判読が困難です。
 銘は太田南畝(号:蜀山人)、脇に北川真顔の歌ありと、相馬日記(文化十四・1817年)に記載があります。


 右側の酒々井停車場道道標の正面には『此方 酒々井停車場道』、右側面に『此方 成田宗吾道』、背面に『此方 内郷道』、左側面に『明治四拾四年十月 木内儀之助建』と刻まれている。
 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田道中川苗代場道標」という名称で下記の様に紹介されている。
 内郷道は江戸時代には岩名道と呼ばれ、岩名仁王尊の参詣路でもありました。


【上岩橋岩崎道標 (突当り) 14:22
 上記道標が建つ三叉路を右折し、用水路を渡って次の突当りに上岩橋岩崎道標が建っている。
 道標の正面には『成田佐原道 宗吾安喰道』、右側面に『酒々井停車場佐倉千葉道』、左側面に『酒々井停車場佐倉東京道』、背面に『上岩橋青年分團 木内常松』と刻まれている。

 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田道上岩橋岩崎道標」という名称で下記の様に紹介されている。

 
成田・佐原方面と宗吾・安喰分岐点にあり、現JR酒々井駅が設置された1897年以後に、地元青年団により建立されました。

【上岩橋大谷津道標 (右) 14:24
 二つ目の三叉路を右折し、次の三叉路の右角に上岩橋大谷津道標が建っている。
 道標の正面には『佐倉千葉 成田佐原 道』、右面は刻銘無し、背面に『七榮三里塚道』、左側面に『上岩橋青年分團 鈴木金兵ヱ』と刻まれている。

 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田道上岩橋岩崎道標」という名称で下記の様に紹介されている。

 主要道路に設置された道標らしい記載内容です。
 七栄三里塚道と彫られている唯一の道標です。
 地元青年団による建立です。

大崎坂下道標】 (左) 14:30
 三つ目の三叉路を左折し、国道51号に合流したら左折して国道を進む。
 次の信号左角の電柱下に、電柱に倒れ掛かっている大崎坂下道標が建っている。
 かなり擦れているが、道標の正面には『南さくら□□道 奉納仁王尊□□□ 木村十右衛門』、右側面に『東 なりた 道』、左側面に『寛政二戌十一月吉日 大嵜』と刻まれている。

 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田道大崎坂下道標」という名称で下記の様に紹介されている。

 地元の住人が建立した道標です。
 仁王尊とありますが、いずれの仁王尊かは不明です。
 大(崎)は地名です。

【大崎成田山道標 (左) 14:35
 坂下道標が建つこの信号を右折する。
 直ぐ旧道は大きく左カーブするが、曲がった直ぐ左の笹竹が茂る中に大崎成田山道標が倒れ掛かって建っている。
 道標の正面には『成田山 信集講社内 岩田長兵衛』、右側面に『酒々井迄三拾町 上岩橋村』、左側面に『宗吾道迄壹里 上岩瀬』、背面に『明治廿七年申午五月』と刻まれている。

 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。
【大崎成田山道標】
 大崎の大坂を少し上ったところにあります。この道標は明治二十七(1894)年に成田山信集講の岩田長兵衛が建てた案内道標5基のうちの一つです。あと4か所は船橋市滝台、八千代市萱田町、佐倉市井野・佐倉市上座にあります。


 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田道上岩橋萩山岩田長兵衛道標」という名称で下記の様に紹介されている。
 
宗吾道と刻まれ、酒々井町まで三十町とあることから、以前は北方向の成田より数百メートルのY字路に建てられていたと思われます。

【大崎馬頭観音と道標 (左) 14:39
 竹林の間の急な大坂を上って行く。
  

 坂の途中、竹林が終わった左側の階段上に、注連縄の張られた大小の祠と沢山の馬頭観世音(文字が刻まれた石碑)が建っている。
 大きい方の祠は大崎馬頭観音堂、小さい方は如意輪観音堂
 また、如意輪観音堂の下
(下の写真で一番左下の石碑)には、歌碑が刻まれた道標がある。

 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。

【大崎馬頭観音と道標】
 崖の上に馬頭観音堂があります。この馬頭観音は江戸時代に馬を使った運送業者たちによって祀られていました。また天保十(1839)年の銘がある成田山への道標が1基あります。この道標には石質が良く、佐倉市井野にある鈴木金兵衛の道標と似て俳句が彫られています。


 歌碑道標は上下が欠けており、正面の読める所は『成田山へ一里二十三町 あゝ楽・・ 御利益・・ 帰・・』と刻まれている。
 背面は『天保十一年正月』(1840)と刻まれているとの事。


【伊篠(いじの)の松並木跡・宗吾道道標】 (左) 14:46
 大坂を上りきって、国道51号に接した所に、伊篠の松並木跡の碑が建っている。
 木製の碑の正面は国道側で、正面には『千葉県指定 成田道伊篠松並木』、右側面に『指定 昭和四十三年四月九日』と刻まれている。

【成田道伊篠の松並木跡】 史跡
〔面積〕 三、三七一・九平方メートル
 伊篠の松並木は、国道五一号線に沿った旧成田街道約八〇〇メートルの地域の松並木あった。通称杢之進(もくのしん)並木といわれ、享保年中(1716~35)佐倉七牧を支配した代官小宮山杢之進が植樹樹齢三〇〇~三五〇年であることから、年代が合わず、おそらくこれより早い時期に道中者の便を図って植えられたものと思われる。昭和四十三年四月に県の史跡として指定された当時は、巨松三十六本が松並木を形成して、街道の美観を誇っていたが、昭和五十年代になって、松喰虫の被害を受けて次々と枯れ、昭和五十七年七月には県の指定が解除となり、昭和五十九年七月に町史跡指定に変更された。
 昭和六十年十一月、最後まで残った二本も枯損し、その後町史跡指定も解除され、今は史跡としての名称だけが残されている。
    平成三年三月 酒々井町教育委員会
 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。

 伊篠の松並木とは国道51号線に沿った旧成田道にあり、約800mにわたり松並木が存在していました。通称杢之進並木(もくのしんなみき)といわれ、享保年中(1716~35)に天領代官小宮山杢之進が植樹したと伝えられています。江戸中期以降、成田山の参詣者に木陰を提供していました。昭和末期にはすべて枯れてしまいましたが。現在でも道標・石碑が残り旧成田道を伝えています。


 松並木跡碑の後ろには宗吾道道標が建っている。
 道標の正面には『左の方向を指さし(手先)している絵 宗吾道』と刻まれている。他の面に刻銘は無い。

 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田・宗吾伊篠向山道標」という名称で下記の様に紹介されている。

 大坂の急勾配の坂を上がりきった所に設置されています。かつて、ここから松並木がありました。
宝形の囲みに宗吾道の文字のみが彫られています。

【護摩木山供養碑・丸万講道標】 (左) 14:54
 旧道は一旦国道から離れ、再び接近した右側にある「農業共済組合」を過ぎた直ぐ左側に、三基の護摩木山供養碑が建っている。

 『酒々井観光ナビ』QRコードには次の様に書かれている。

【成田山 護摩木山供養碑】
 
成田不動尊の護摩を焚くための材木を用立てるため、信者が寄附した土地を記念した石碑です。


 二つ目と三つ目の供養碑の間に丸万講道標
(下の写真で真中の碑)が建っている。
 道標の正面には『東 成田山 宗吾社 道』、右面に『西 酒々井 佐くら 道』、左面に『左 しすゐ 停車場 道』、背面に『元禄元年起立丸万講 明治三十二年三月建立』と刻まれている。

 酒々井町のHP(酒々井町の街道と道しるべ)によると、「成田道丸万講道標」という名称で下記の様に紹介されている。

 元は酒々井下り松の築山の下に設置されていましたが、道路工事により現在地に移転しました。
宗吾霊堂でなく宗吾社と記されています。酒々井の停車場が開業して2年後に設置されています。


 一番右端に『成田まで一里』と刻まれた成田山伊篠大日笠木道標が建っているとの事だが、こちらは見逃してしまった。


【伊篠の松並木碑 (左) 15:00
 旧道は左カーブして、国道51号に鋭角で合流する。その合流点左側に大きな伊篠の松並木碑が建っている。
 碑の正面には『千葉県指定 成田道伊篠の松並木』と刻まれている。
  


【成田山護摩木山碑・不動尊碑 (左) 15:04
 国道51号を反対側(左側)に渡って直ぐ、左斜めの旧道に入る。
 旧道は下り坂になり、その坂の途中左側に二基の石碑があり、左側の碑には『奉納 成田山永代護摩木山』、右側の碑には『川越本行院 不動尊 願主 中仙道鴻巣宿 萬屋清兵衛』と刻まれていた。
 川越本行院は、「成田山川越別院本行院」の事で、通称川越不動と呼ばれている。
  


【地蔵菩薩立像 (左) 15:09
 坂を下り切った先、小さい用水路脇に、文政四年(1821)の地蔵菩薩が建っている。
  


【不動塚 (右奥) 15:38~15:41
 国道51号に合流したら左折して国道を進むと、「公津
(こうづ)の杜入口」信号の手前で成田市に入る。
 次の信号で国道51号と分かれて右斜め(東金方面)の道に進む。その次の信号で国道409号に合流して下り坂。
 その次の信号から上り坂になり、上り詰めた「並木坂上」信号を右折して不動塚に寄り道。
 信号を右折し、右カーブして300m強行くと、左手にJR成田線が近づいてくる。
 その左手に金刀比羅神社
(下の写真)が建ち、同じ敷地内に成田山発祥之地である成田山舊跡(きゅうせき)不動塚之碑不動塚(祠)、三十三夜様十九夜様(子安観音)が建っている。
   

 訪れた時は敷地内全てが改修整備中(最終段階)で、不動塚等の祠は新しく建て直され、不動塚之碑は綺麗に磨かれていた。整備中なのか、四月時点では説明文等は無かった。
 その後ネットで調べたら、5月には整備も終わり、説明板も立てられた様だ。後日調べた説明文を載せる。



【成田山御本尊舊蹟地不動塚】 
  成田山は、天慶三年(940)寛朝大僧正が御本尊不動明王を棒持し、難波(大坂)の津より海路を東上、横芝光町尾垂ケ浜に上陸(御本尊上陸聖地)され、陸路を進み公津が原(成田市市南部)に置いて平将門乱を鎮めるため不動護摩供を修し、平定後この地に堂宇を建立したと御縁起に記され、この不動塚周辺が御本尊不動明王を最初に奉祀した場所と伝えられ、成田山の舊蹟地といわれる所以であります。新勝寺が明暦元年(1655)に新本堂(現薬師堂)建立の折り、御本尊入仏落慶供養の行列が行われ、この古事に倣い、吉例行事として舊蹟地において法楽が執り行われます。明治十七年(1884)十二月建立の「成田山舊蹟不動塚之碑」があり、不動塚内は、宝坐を表す蓮台が刻まれた平安舊蹟を示す御本尊御座石が残されています。これを顕彰するため、不動尊像が昭和初年に奉安され、台座に「元不動再興」とあり、東京、中国上海の奉納者が刻まれ、信仰圏の広さをうかがわせるものです。
 平成三十年(2018)成田山開基一〇八〇年祭記念事業として不動塚の整備が行われ、この地は、地元並木町の方々より祀守され、琴平宮様(金毘羅大権現)、二十三夜様、十九夜様(子育観音)が併祀され鎮守の杜となっております。
     平成二十九年五月吉日 大本山成田山新勝寺


 三十三夜様の祠は建設中だった。
  

 十九夜様には子安観音が祀られていた。
   


【和算家飯嶋武雄の墓 (右) 15:59
 街道(国道409号)に戻り、国道51号線を斜めに横断する。
 直ぐ先、「デニーズ」の斜め向かいの小さな墓地に、飯嶋武雄の墓がある。

【和算家飯嶋武雄の墓】 
 飯嶋武雄は、下総国金江津村(現茨城県稲敷郡河内町)の出身で、通称武左衛門。雅号を桃廼家(もものや)といい、幼少の頃から神童と呼ばれ、十二歳の時既に算法(和算)の奥義を究めたといわれています。後に江戸で私塾を開設して算法を教授。その名声は広まりましたが、不幸にして失明し帰国しました。盲目となって後も近郷を巡回し口授により算法を教え、門下生は千余名に達したといいます。
 並木町の大坂家では、その昔寺子屋を開いており、師として飯嶋武雄を迎えたとうことで、その門弟である神山周助らが没後まもなく墓碑を建立したものです。

【一本松跡・馬頭観音】 (左) 16:05
 国道464号線を横断して、次の「一本松跡」信号の手前左角に一本松跡の碑が建っている。
 また、その碑の左下には安政五年(1858)の道標兼馬頭観音も建っている。道標の右側面には『宗吾霊堂道』と刻まれていた。
  


【不動尊旧跡 (左) 16:16
 「一本松通り」を進み、JR成田線の踏切を渡る。
 次いで、京成本線の跨線橋を渡った左に不動尊旧跡がある。

【不動明王にまつわるお話と不動ヶ岡】
 この場所を不動尊旧跡という 由来は即ち、天慶3年(940)寛朝大僧正が平将門の乱の鎮定と万民豊楽を祈願して、ここから南約1.7キロメートルの並木町の公津ヶ原(不動作)とよばれる地に仮堂を設け、京都より不動明王の御本尊を移し安置し奉ったが、その後江戸時代の安政5年(1858)成田山新勝寺本堂(現在の釈迦堂)が完成した際、入仏供養の行列は本来ならば公津ヶ原の仮堂から出発すべきところ、あまりに遠方のため、この地に仮の安置所を設けここから出発したという故事に基じている、これにより現在に至っても毎年7月7、8、9日に行われる祇園祭りには御神輿と御稚児の行列は当地から出発するならわしとなっている
 また、この地区を不動ヶ岡というのは、昭和7年(1932)に印旛郡富里村大字日吉倉の一部であった論田、苅分、申新田、中弘、向山、太田、橇田を成田町に編入した際、不動尊ゆかりの地であるという理由から7つの小字を大字不動ヶ岡と改称したものである、京成線陸橋「阿利耶橋」(阿利耶とは「聖」の意味)もまたこのゆかりにちなんで名づけられた
     成田山新勝寺、不動ヶ岡区、不動ヶ岡商店会


 敷地内には、上写真のの他に地蔵菩薩立像一躯の覆屋と、坐像四躰を安置している覆屋がある。
   


【大師堂 (左) 16:20
 直ぐ先、左下から上ってくる道と街道が合流した点に太子堂と思われる祠が建っている。
 近くに行かなかったので思われるとした。
  



 京成成田駅入口で本日の行程を終了し、京成線で「京成佐倉駅」まで戻り、車で帰宅。
 



6回目の旅終了(16:30)。京成成田駅。

本日の記録】
 現代の街道のみの距離は、12.8Km(海隣寺坂~成田駅前)。
 累計:水戸街道と成田街道の追分(「中川大橋東」信号)から、51.9Km。
 寄り道を含めた実歩行距離は、16.5Km (京成佐倉駅傍駐車場~京成成田駅) 累計:81.5Km
 7時間 27,200歩。

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