大山街道(3) 三軒茶屋 ~ 高津交差点 (新道ルート)

2015年3月14日(土) 曇りのち晴

  三軒茶屋駅を10:25スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)

三軒茶屋 ~ 二子玉川駅西口(新道ルート) → 「目次」 → 「高津交差点 ~ 荏田宿(江田駅)」


 「三軒茶屋」から「二子玉川」へ向う大山街道は、上町ルート(旧道)新町ルート(新道)の2ルートがあり、前回は旧道を歩いたので、今回は新道を歩く


【伊勢丸稲荷神社】 (右側) 10:33
 「三軒茶屋」の三叉路から左の国道246号線・玉川通りへ進み、300m弱行った「うどん・のらや」の所を左斜めの旧道へ入る。
 旧道に入って程なく右側の駐車場の奥に伊勢丸稲荷神社と赤い鳥居が見える。本来はこの駐車場から鳥居をくぐってお参り出来たのだろうが、現在はブロック塀で塞がれている為、駐車場の先を右に回って入る。境内に入ると大山道と刻まれた丸い自然石の石碑がある。
    


【地蔵堂】 (左側) 10:43
 旧道が国道に合流する少し手前、「ハイム清光園」前に正保二年(1645)の地蔵堂が建っている。その手前に庚申塔があるとのことだが見落としたようだ。
  


【宗円寺】 (左側) 10:50
 環七の「上馬交差点」渡った先に宗円寺があり、入口左側に旭山小学校発祥地碑の石柱が立っている。

八幡山 宗円寺 (曹洞宗)
 開基は心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願で、文保元年(1317)十月二十三日寂した。
 当時は若宮八幡宮の別当寺であった。本尊は釈迦如来坐像、創建当時は小さな草庵であったが、寛永十年(1633)喜山正存和尚が中興した。
 境内に木像の「しょうづかの婆様」の小堂がある。江戸時代初期の頃からまつられたもので、疫病よけに霊験あらたかであるといわれている。
     昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会

 山門を入ってすぐ左側のお堂にしょうづか婆様の像が祀られている。
    
 また、境内右手には世田谷区内で最古と言われる明暦四年(1658)の庚申塔(三猿)が建っている。
    白い石像の左側に建つ庚申塔


【駒沢オリンピック公園】 (左奥) 11:10
 「駒沢大学駅」を過ぎ、「駒沢交差点」を左折すると「駒沢大学」があり、正門の手前の公園状敷地内にゴルフ場跡の石柱が立っていた。
 駒大の先に駒沢オリンピック公園(西口)がある。広いので入口のさわりだけを見てすぐ「駒沢交差点」に戻った(11:20)。
  


【庚申堂】 (右側) 11:22
 「駒沢交差点」を渡って、「玉川通り」の右側を進むとすぐ先に庚申堂が建っていて、標柱には庚申樣と刻まれていた。
 祠の中には2基の庚申塔が建っていて、中原街道(1)で高輪の「光福寺」境内にあった「ゆうれい地蔵」と同じように不気味な庚申様であった。
    


【品川用水路跡】 (右側) 11:28
 次の「新町一丁目交差点」で右斜めの道へ入る。入って直ぐ右側の「大東京信用組合」の左前に品川用水路跡の標柱が立っている。
  


【桜神宮】 (右側) 11:37
 「桜新町駅」手前の右側に桜神宮があって、社殿前の早咲きの桜が綺麗だった。桜神宮は通称で正式名は古式神道本宮と言う。
  


<昼食> 11:40~12:30 
 桜神宮の斜め向かいにある「ロイヤルホスト」で昼食。


【長谷川町子美術館】 (左奥) 12:35~13:15
 「桜新町駅」を過ぎた信号を左折した商店街が「サザエさん通り」で、サザエさん一家のキャラクターが各店に飾られていた。また、駅前からの通りも含めて一家の像も点在している。
 「サザエさん通り」を南下し、「「桜新町交番前」の二股を右に進むと左側に長谷川町子美術館が建っている。
 ここは『サザエさん』の漫画で知られる長谷川町子(1920-1992)が姉の鞠子さんと共に趣味で蒐集した美術品を展示している建物で、昭和60年に長谷川美術館として開館、没後の平成4年に長谷川町子美術館に改められた。
 美術品の他に、漫画で描かれた生い立ちや磯野家の模型等が展示されている。
 長谷川町子は佐賀県生まれの福岡育ちだが、父の死後(1946年)一家そろって上京し、この地に約40年住んでいた。
開館時間 火~日曜・祝日 10:00~17:30
休館日  月曜(祝日の場合はその翌日)、展示替期間、年末年始
入館料  600円(65歳以上500円)
館内撮影禁止
  
桜新町駅前通り  桜新町交番前  長谷川町子美術館


 街道に戻って、「桜新町」から「用賀2・3丁目」に入った先で、右斜めに入って行くと、大山道追分で前回通った旧道に合流する。
 私達は、旧道に行かずそのまま直進して「用賀駅」前に出た。途中右奥に用賀神社がある。
 「用賀駅」では前回同様地下に降りてトイレ休憩。
 
この先、各駅の中しかトイレが無いので、ここで必ず寄る事を勧めます。二子玉川周辺にもありません。
 「用賀駅」から田中橋を渡って延命地蔵までは前回と同じ道を辿る。大山旧道は延命地蔵で右折したが新道は真直ぐ進む。


【瀬田交差点】
 次の大きな「瀬田交差点」は、「環八通り」と左斜め後ろからくる「新町一丁目交差点」で別れた「玉川通り」が合流して交差する五差路になっている。

 この「瀬田交差点」には横断歩道がないので写真の歩道橋を使って左側前方に移動する。

 写真で左上の道から来て歩道橋に上がる(歩道橋下の太い道路が「玉川通り」)
 左側に降りたらすぐ左斜めの旧道に進む。(写真、真直ぐの道が「玉川通り」)
 地図上では、用賀方面からの旧道が「瀬田交差点」を斜めに横切って真直ぐ進む形になっている。

【樹庭跡地の碑】 (右側) 14:05
 「瀬田交差点」で歩道橋を使って斜めに横断して再び旧道に入ると、260m程で左側に教会が建つ二股道が現れるのでここを左の道に進む。
 次の十字路を渡ったマンションの右角に樹庭跡地の碑が建っている。

【樹庭跡地の碑】
国分寺崖線の緑の保存
 この地は「樹庭」と名付けられた数多くの緑の大樹が鬱蒼と茂る、国分寺崖線上の優れた風致と景観の場所であった。
 「パークコート瀬田」の建設にあたり、瀬田地区を中心とする多数の住民からの緑保存の強い要請が行なわれ、この地にあった70本の樹木が残された。
 今後、これらの樹木が繁茂し、国分寺崖線の景観と、瀬田の良好な風致環境が守り続けられることを願い、この碑を置く。
瀬田遺跡の跡地
 瀬田1・2丁目の地区には、先土器、縄文、古墳、古代にわたる著名な瀬田遺跡が広がっている。
 この地で平成8年に世田谷教育委員会が行った発掘調査では、関東ローム層から1~5万年前の先土器時代の遺跡が8層にわたり確認され、1,162点の石器類が出土した。
 これだけで重層の文化層発見は、武蔵野台地でも貴重なものである。
 この地に瀬田の貴重な歴史が存在したことを後世に伝えるため、この碑を置く。

【行善寺】 (右側) 14:07
 次の十字路(マンションの隣)を渡った所に行善寺がある。

獅子山・西光院 行善寺 (浄土宗)
 本寺の開基は長崎伊予守重光(法名・行善)、開山は法蓮社印誉上人伝光和尚であり、永禄年間(1558~1569)に建立された。
 本尊は阿弥陀如来で、寺宝には玉川出現楠薬師があった。
 この地は展望にめぐまれ、江戸時代から玉川八景として有名であり、将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った。
   ニ子渡舟        太田子徳
  玉くしけニ子のわたり明けぬやと
    見しや鵜舟の篝也けり
     昭和五十年二月 世田谷区教育委員会

 山門をくぐり、本堂左側に「行善寺八景」の標柱が立っている所から本堂の裏手に回ると国分寺崖線の断崖絶壁になっている。

 かつてはここから絶景が拝めたことと思えるが、今は崖下の「東急田園都市線」と「玉川高島屋」等の都会化した街並みが見えるだけで、多摩川も満足に見えない状態である。
 天候の状態によっては富士山・大山・丹沢・奥多摩・秩父連山が眺望できるとのことだが、本日は遠くが霞んでこれらの山を望むことは出来なかった。

玉川八景〔江戸時代中~後期〕岡本の紅葉・ニ子の帰帆・瀬田の黄稲
(こうとう)・大蔵の夜雨、登戸の晩鐘・川辺の夕煙(せきえん)富士の晴雪・吉沢の落雁
他に行善寺の雪景等が選ばれることもあった。

武陽玉川八景之図〔寛政三年(1791)〕都築ケ丘夜雨・喜多見ノ晴嵐・登戸ノ夕照・向丘ノ秋月・溝口の暮雪・瀬田ノ落雁・ニ子ノ帰帆・宿河原ノ晩鐘

【行善寺坂・行火坂】 
 行善寺を後にすると、小さなカーブが続く行善寺坂の急な下り坂が現れる。崖の上から一気に下りることになる。
 行善寺坂の途中、左手の上り坂に行灯坂
(あんどんざか)の標柱が立っていた。由来は、急坂のため登って行くと身体が行灯の様に熱くなってくるからとのこと。
  行善寺坂  行灯坂


【南大山道道標】 (左側) 14:20
 行善寺坂を下りきった所で、六郷用水に架かる「調布橋」を渡る。
 橋を渡ったら直ぐ左折し、1ブロック行った左側の六郷用水沿いに南大山道道標が建っている。
 補修箇所が多い道標の右下に標柱が立ち、道標の上部正面真中に『南大山道』、その左側に『左西赤坂道』、右側に『右東目黒道』と刻まれていた。また、道標下部正面真中に『庚申供養講中』、その左側に『○○吉日 瀬田村』、右側に『安永六年○○』(1777)と刻まれていた。
    


【ニ子の渡し跡碑】 (右側) 14:33
 南大山道道標の目の前の道を右折して、「東急大井町線」の高架下をくぐる。
 目の前に交番が見える「駒沢通り」を横断して、真直ぐ「二子玉川駅」のバスロータリーを突っ切る。
 「多摩堤通り」に出たら正面に見えるレンガ壁の切り通しへ右手の信号を渡って進む。旧土手の左側に玉川東陸閘
(りっこう)の標識が立っている。
 
玉川東陸閘とは、暴れ川だった多摩川が二度の大洪水を起した後に築かれた、一部が開閉できる堤防の事を言う。真中には洪水を食い止める為の防壁板用の溝があった。
    
 この切り通しを抜けると多摩川に突当る。
 土手に突当ったら、右に曲がって直ぐの「世田谷区立玉川福祉作業所」の門前に、ニ子の渡し跡碑が立っている。
 往時の渡し船は、この場所から、右下の写真に見える右手の「ニ子橋」の下を斜めに横断して対岸の渡し場まで通っていた。
  
  


【ふたこばしの親柱】 (左側) 14:48
 右上に見える「ニ子橋」を渡る(14:41~14:47)。橋の中央で、東京都から神奈川県川崎市に入る。

 渡り終えた「ニ子橋交差点」で右斜めの道に入って行く。
 この道の入口から始まる「ニ子大通り」商店街の街灯には大山街道の道標が掲げられていた。
 また、ここから川崎市内の大山街道には、随所にカラー舗装がされているのが有り難い。

 また、交差点の左角にはふたこばしの親柱が二基保存され、傍らにニ子の渡しの「川崎歴史ガイド」が立っている。

【ニ子の渡し】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 ニ子橋の完成は大正十四年。それまで、街道を行く人々はここニ子の渡しから多摩川を渡った。徒歩船、馬船。河原には茶屋、蕎麦屋。船待ちや川遊びで、渡し場は大いに賑わった。

【旧大山街道ニ子の渡し場入口】 (右側) 14:51
 商店街に入って直ぐの信号を右折したピザ屋の後角に旧大山街道ニ子の渡し場入口の標柱が立っている。
  


【岡本かの子文学碑】 (右奥) 14:53~15:00
 街道に戻らずに渡し場入口の標柱の脇をそのまま奥に進むと左手に岡本かの子文学碑が建っている。ここはニ子神社の境内でもある。

【岡本かの子文学碑】
 この碑は地元有志の発意により前衛的な画家・彫刻家の岡本太郎、建築家の丹下健三等の協力を得て昭和37年(1962)11月に建てられたもので、岡本太郎がモニュメントを製作し、丹下健三が台座と築山を設計しました。この碑は岡本太郎が、父、岡本一平と母、かの子がこよなく愛したこの地、ニ子の多摩川のほとりを懐かしみ、本人が「誇り」と命名しました。
 また、岡本かの子の業績を讃える文芸評論家・思想家の亀井勝一郎の文を、小説家、川端康成の直筆によって刻んだ碑が「誇り」の横にあります。
     高津観光協会・高津区役所

【碑】

 岡本かの子は明治二十二年三月一日誕生し多摩河畔ニ子の郷家にて生長せり祖先代々武蔵相模に栄えし旧家の血筋と多摩川の清流とはかの子の生命に深く愛染し作品のうちに多様なるすがたをもって表現されたりかの子は若くして和歌を学び長じて佛道を修めあるひは東西の藝文にひろく接して昭和十四年二月十八日眠去の日まで華麗なるいのちを燃えあがらせつつ幽玄にしてまた絢爛たる文学の道を辿れりここに川崎市有志ならびに友人知己その業績を讃え故人をしのびてかの子文学碑を建立す
     昭和三十七年十一月一日 亀井勝一郎文 川端康成成書

【ニ子神社】 (右奥) 14:53~15:00
 岡本かの子文学碑の左奥にニ子神社が建っている。

【ニ子神社とかの子碑】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 
境内のわきにある「かの子碑」は、岡本太郎の作。母を思い「誇り」と題している。昭和三十七年秋完成。現実的なこの抽象彫刻と隣り合うニ子神社の創建は古く。優に二百年をこえる。

 ニ子神社社殿の前の参道(上記写真の手前)を大山街道まで戻った所に建っている鳥居の右下に大山燈籠の説明板があった。
 但し、周りには大山燈籠は見当たらなかった。説明板の横に立っているのが、かつての支柱だったのであろうか。



【大山燈籠】
 大山は神奈川県中央部にある山岳で標高一、ニ四六メートル、年間降雨量が多く雨降山の別名がある。
 山頂に阿夫利神社があり、山腹に不動尊で有名な大山寺がある。両者を総称して一般に大山様と呼ばれ、古くから農業、商売繁盛、技能芸能の神仏として農工商の庶民に厚く信仰された。
 阿夫利神社の神官や大山寺の社僧を「御師」といった、御師は関東一円に特定の受持ち区域を持ち常々村々を巡回し大山信仰の布教と大山講の組織作りにつとめた。
 大山信仰がさかんになったのは江戸文化が発達した中期頃からで、江戸市民は多くの大山講を組織して集団で登山参拝した。
 落語の題材にもなっているように、江戸から大山街道を通り伊勢原に至り大山登山参拝後は一路平塚に出て、江ノ島・鎌倉・藤沢等の名所旧跡を見物し神奈川より舟で品川に渡り江戸に帰る行程は、江戸市民が大山詣を兼ねた、三、四泊の観光慰安旅行であった。
 往来する大山詣での鈴の音は夜の大山街道に遠くからひびき、ニ子宿や溝口宿は大山詣の御客でにぎわった。
 古くから阿夫利神社は農業の神として信仰され、特に日照りが続くと大山様に雨乞いすればかならず雨が降ると信じられた、事実雨乞いをすれば不思議と雨が降った、このため各村々には早くから大山講が組織され信者は毎年七月二十六日の山開きには村内一定の場所に大山燈籠を建て八月二十七日まで、連夜にかかさず灯明をつけた。
 大山街道沿いに立つ大山燈籠は夜間通過する大山講中の道標ともなった。
 この燈籠は当時の夏の風物詩であった、旧高津村がニ子神社前に建てた実物です。総桧造りで大正末期に再築されたもので電球で灯明した、その昔はニ子の渡場に建てられ油、ローソクで灯明されていた。
     *このプレートのシルエットは大山を模したものです。

【大貫家の人々】 (左側) 15:04
 街道に戻って、少し進んだ左側の「ニ子二丁目公園」の入口に大貫家の人々と題する「川崎歴史ガイド」が立っている。

【大貫家の人々】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 大貫家は岡本かの子の生家。若くして逝った兄・雪之助は藤村門下で、谷崎潤一郎とも親交が深かった。かの子は、のちに漫画家岡本一平と結婚。岡本太郎は、その長男である。

【光明寺】 (右側) 15:06
 ニ子二丁目公園の斜め向かいに光明寺があり、ここには岡本かの子の兄である大貫雪之助の墓がある。

【光明寺とニ子学舎】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート 
 浄土真宗光明寺。江戸初期にニ子塚から移された。農民たちも一緒に移住し、ニ子村を形づくっていく。
 明治七~九年、本堂には「ニ子学舎」が置かれ、近代小学教育の場となった。
【大貫雪之助の墓】
 大貫雪之助(晶川)は、明治20年(1887)2月22日橘樹郡高津村ニ子(当光明寺前が元大貫家)の大貫寅吉の次男として生まれました。
 第一高等学校在学中に文才を認められ、妹カノ(後の岡本かの子)と共に与謝野鉄幹・晶子夫妻の「新思想」が主宰する創刊にあたり、谷崎潤一郎・和辻哲郎・木村壮太・後藤末雄などと共に同人として活躍し、その前途を期待されましたが、大学を卒業した年の大正元年(21912)11月2日丹毒の病で急逝しました。
 当光明寺境内の大貫家墓地にその墓碑があります。
     高津観光協会・高津区役所

【大釜】 (右側) 15:13
 光明寺から170m程進んだ右側の「飯島商店」の前に、NHKの大河ドラマで使われた大釜が飾られている。

【口上】
 この釜こそは、あのNHKテレビ大河ドラマ「黄金の日々」に出演した根津甚八ふんする石河五右衛門を釜ゆでにした代物である。
     提供 (株)飯島商店

【国木田独歩碑】 (右側) 15:19
 次の「高津図書館入口信号」の右奥に高津図書館があり、その敷地内通路右側に国木田独歩碑がある。

   【国木田独歩碑】
 明治30年(1897)みぞれまじりの春に、国木田独歩が溝口を訪ねたとき、当時旅館であった溝口の亀屋に一泊しました。このことは独歩の作品「忘れ得ぬ人々」のモデルとなり、この作品によって明治文壇に不動の地位を築きました。
 独歩と亀屋の関係を後世に記念するため、当時の亀屋主人、鈴木久吉が建碑を計画しましたが、志しなかばで世を去りました。彼の俳友達が意思を継ぎ、独歩27回忌を記念し、昭和9年(1934)夏、亀屋の前に碑を建てました。
 題字は島崎藤村が書いたものです。
     高津観光協会・高津区役所

【田中呉服店】 (右側) 15:21
 信号の直ぐ先の右側に蔵造りの田中呉服店がある。

【蔵造りの店】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 重い瓦屋根と土の壁、母屋との境は厚い土戸。二階には頑丈な格子窓。防火、防犯などの蔵の特徴を生かした重厚な店構え。田中呉服店は、明治に建築された代表的な蔵造りの店である。

 すぐの「高津交差点」で本日の歩きを終了。ここを左折して高津駅より東急大井町線で帰宅。 



 3回目の旅終了(15:25)。「高津交差点」。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、7.7Km(三軒茶屋~高津交差点)
          赤坂御門から新道ルート経由で、三里三十一町(15.2Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、11.3Km(三軒茶屋駅~高津駅)  累計:37.0Km

          5時間 17,300歩。



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