中原街道(1) 虎ノ門~五反田駅

2013年11月3日(日) 晴
 「虎ノ門交差点」を10:30スタート。妻と二人旅。

(注:解説で街道の左側、右側とは平塚に向っての左右です)

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 2013年の夏は猛暑、且つ、9月~10月は台風が記録的に多発した為、歩く機会を逸していたが、11月に入ってやっと街道歩きを再開することが出来た。
 まずは、近場で手頃な中原街道に挑戦。虎ノ門から平塚までほぼ一直線の道で分かり易く、見所も豊富そうなのが選定の理由。

 中原街道は古道で、東海道が整備される前は旅人の往還としての役割を担っていた。徳川家康が初めて江戸に入った天正十八年(1590)は、まだ東海道が整備されていなかったので、家康は平塚から江戸に向うこの直線道を通ったと云う。
 行程は、千代田区虎ノ門(江戸城虎ノ門)から平塚市中原まで約60Km強(15里)である。
 またこの街道は別名「御酢街道」とも呼ばれている。江戸時代の初め中原代官の一人であった成瀬五左衛門重治が中原で造られた食酢を毎年幕府に献上する時、10万石の格式をもって中原街道を往還したことにより、この名が付いたと云われている。


 第一回目は、江戸時代の古地図と照らし合わせて歩いてみた。それによると、当時の大名屋敷の跡地が現在はどうなっているかとか、江戸時代からの神社仏閣が多数残っていること等が分かり興味深かった。


【虎ノ門金刀比羅宮】  (右側) 10:33~10:40
 「虎ノ門交差点」から国道1号線を南に進むと、すぐ右側に虎ノ門金比羅宮の石の鳥居が見えてくる。
 鳥居とビル(虎ノ門琴平タワー)の下をくぐって参道を進むと、左手に有形文化財の銅鳥居が、その奥に社が建っている。また、銅鳥居の右足元に百度石も建っている。
【虎ノ門金刀比羅宮】 東京都指定歴史的建造物
 讃岐丸亀藩主の京極高和が領地・讃岐の金刀比羅大神を、万治3年(1660)に三田の江戸藩邸に邸内社として勧請、その後延宝7年(1679)に現在の地虎ノ門に移る。こんぴら人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといわれる。
 社殿は権現造りで、第二次世界大戦により焼失したが、拝殿、幣殿の部分は昭和26年(1951)に再建された。ともに総尾州檜造り、銅板葺きである。日本最初の建築史家、伊藤忠太郎の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。
 なお、幣殿の奥の本殿は、昭和58年(1983)に復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、銅板葺きとなっている。
     東京都生活文化局
【銅鳥居】 港区指定有形文化財・建造物
 この銅鳥居は、虎門外の讃岐丸亀藩京極家(約五万石の大名)の江戸屋敷に勧請された金毘羅宮(現金刀比羅宮)の鳥居です。文政四年(1821)十月に奉納された明神型鳥居で、「金刀比羅大神」の扁額が掲げられています。円柱には青竜・玄武・朱雀・白虎の霊鳥・霊獣が飾られ、下部には奉納関係者の名前が刻まれています。願主・世話人の多くは芝地域の商人と職人でしたが、江戸市中の地名・人名もみられます。
 江戸では諸藩邸内の神仏を一般に公開し、賽銭収入も期待されていたようです。
 江戸庶民の信仰を反映したこの派手な鳥居は、当時の人々の宗教的・文化的活動の実態を示す貴重なのものです。
     平成十三年十月二十三日指定 港区教育委員会
【百度石】 
 百度石は、いわゆる「お百度参り」の際に用いられたもので、神殿とこの石の間を往復して願掛けをしました。
 願掛けの一種である「お百度参り」は、江戸時代に盛んに行われましたが、特に都市部に目立つ個人祈願の一形態で、その多くは、病気治療の願掛けであったといわれます。
 正面に「百度石」、背面には「大願成就 願主□心道 元冶元甲子年(1864)十二月吉日」の銘があり、・・・
   (この説明文が木柱の裏側まで続いていたらしく、気がつかず中途半端になっていまった。)
【義士洗足の井戸】 (右奥) 10:45~11:00(探している時間を含む)
 金比羅宮から二つ目の信号「虎の門二丁目交差点」を右折して、突き当りまで行くと、左側に「日本消防会館」がある。その会館1階の「ニッショウホール」入口に義士洗足の井戸が作られている。井戸といっても人のオブジェが飾られている噴水だが、傍らに下記の説明板が掲げられていた。
 ただ、この井戸が「ニッショウホール」玄関にあるとは思わず、会館の周りをうろうろして見つかるまでかなりの時間を要してしまった。
 【義士洗足の井戸】 
 元禄のころ、このあたりに大目付、仙石伯耆守
(ほうきのかみ)の屋敷があった。大目付とは老中の配下にあって政務を監督し、諸大名の行動を監視した役職である。
 元禄十五年(1702)十二月十五日朝、大石良雄以下四十七枚名の赤穂浪士が本所吉良邸に討入り、主君浅野内匠頭の無念を晴らし武士の本懐を遂げた。
 吉良邸を引き上げて芝泉岳寺にある主君の墓前に向かう途中、大石良雄は部下二名の者を仙石伯耆守邸に差し向け自首させた。その際に両名の義士は邸内の井戸で洗足して座敷にあがったと言う。
 この史実をもとにこの井戸を作り、後世にあまねく伝承するものである。
     昭和五十六年十一月吉日 財団法人 日本消防協会

【乃木将軍縁故の地】 (左側) 11:05
 「虎の門二丁目交差点」に戻って、信号を横断し少し進むと左側にコンビニ(セブンイレブン)があり、その前に乃木将軍縁故の地として説明文と共に石碑が建っている。ライトアップの設備もあった。
【乃木将軍縁故の地】
 この地は乃木将軍が明治十一年歩兵第一朕隊長に補せられ間もなく居宅を購い同年八月静子夫人を迎えて新居を構え翌十二年八月長男勝典氏誕生同年冬新坂町へ移転するまで住まわれたゆかりの地である
     昭和三十六年九月吉日 乃木神社宮司 高山貴謹識

【愛宕神社】 【NHK放送博物館】 (左奥) 4月29日訪問
 「虎の門三丁目交差点」と歩道橋を過ぎた次の信号を左折するとトンネルが見える。そのトンネルに向かって右上がNHK放送博物館で左上が愛宕神社である。
 トンネルをくぐった右にエレベーターがあるので、楽に放送博物館入口前まで登れ、愛宕神社へもトンネルの上で繋がっている。
 曲垣平九郎が馬に乗ったまま駆け上がったと云う有名な出世の石段を登って正面から愛宕神社に参りたい方は、トンネルをくぐった「愛宕神社前交差点」を左折すれば、すぐ左手に急な石段が見えてくる。
 中原街道周辺に限らず都内に現存する神社仏閣は古地図を見ると縮小されたものもあるが、ほとんど江戸時代から続いているものが多い。
 愛宕神社と放送博物館には、再度旧東海道を歩いた2013年4月29日に訪れているので今回は寄らなかったが、そのときの記録を載せる。
 【愛宕神社由緒】
 当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。幕府の崇敬篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
 江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現在のご社殿は昭和三十三年再建されました。嘉永十一年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(八十六段)を駆け上がり、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。
  (ご社殿内に扁額寄贈)
 海抜二十六メートルは都内随一の高さを誇り、桜と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残しています。明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市内を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導きました。鉄道唱歌にもその名が残り春は桜、夏の蝉しぐれ、秋の紅葉、そして冬景色と四季折々の顔を持つ風光明媚な愛宕山として大変貴重な存在となっております。
 ほおづき市・羽子板市は浅草の市の先駆け、発祥の地として江戸時代の書「東都歳時記」にもその賑わいは記され現在は六月の千日詣り、羽子板絵馬にその名残をとどめています。
     伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり
 上記写真の急な石段(出世の石段)を登ると、赤い二の鳥居があり、正面に社殿が建っている。社殿内には、曲垣平九郎が石段を駆け上がっている絵や、桜田門外の変と思われる絵等が奉納されていた。
 社殿前には、昔名水が湧き出ていたと云われる愛宕の池があり、左手の広場には、曲垣平九郎と馬の顔出し看板が置かれていた。
【NHK放送博物館】
  放送の始まりから放送の歴史などが分かる展示物が4Fまであって楽しめる施設である。
 日本最初のテレビの復元模型から始まる放送機材の変遷、大河ドラマや紅白歌合戦の特別展示物、放送体験スタジオ、ライブラリーからなる。
 私が特に目に留まったものは、昭和天皇が『
終戦の詔書』を録音した円盤、所謂『玉音盤』で、窒素ガスを封入したシールドケースに入れ、紫外・赤外線をカットしたガラスを使い、常時4℃を保つ恒温ケースで展示されていた(左の写真)

 開館  9:30~16:30
 休館  月曜日・年末年始(月曜が祝日なら翌火曜日)
 入場  無料

【永井坂】 (左折道) 11:30
 「神谷町交差点」を過ぎると左手上に「オランダ大使館」があるが、入口はこの反対側になる
 次の「麻布台一丁目交差点」か
やや上り坂になり、中原街道は直進するが「板倉交差点」を左折すると永井坂で正面方向に東京タワーが聳えている。
【ながいざか】
 江戸時代から明治初期にかけて、この付近の地を芝永井町といったことからこの名が付いた。

【心光教院】 (左奥) 11:40
 「板倉交差点」から下り坂になり、二つ目の道を左に入ると東京タワーの下に心光教院があり、山門を入った所にお竹如来堂が建っている。おそらく山門のことと思われるが傍らの壁に文化庁指定・登録有形文化財のプレートが貼られていた。
 中原街道右手一帯には、スウェーデン・ロシア・アフガニスタン・フィジー・フィリピン・シンガポール・オーストリア・リトアニア・ルーマニア・中国等の大使館が多数存在している。
 【お竹如来の縁起】 
 お堂にはお竹如来像および流し板がまつられている。
 寛永年間、江戸伝馬町の名主佐久間勘解由
(かげゆ)の使用人お竹は、庄内(山形県)出身にして生まれつきいつくしみの心に溢れ、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜まったものを食料としたという。
 信仰深く常に念仏を怠らず、大往生をとげたという。
 この話を聞いた五大将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金襴の布に包まれた立派な箱に、お竹さんが当時使っていた流し板をおさめて、増上寺別院であった心光院に寄進され、その徳光を顕彰された。このことは江戸名所図絵、三縁山誌等に取りあげられている。
   桂昌院御詠歌に
       ありがたや光と共に行く末は
               花のうてなにお竹大日
   一茶の俳句に
       雀子やお竹如来の流し元 
               雪の日やお竹如来の縄だすき
 また当時の浮世絵師春信、国芳、豊国ら多くの絵師によってお竹さんの姿が描かれた。なおこの御堂は秋田出身の故神成志保氏の特志によって建立された。


 左の写真で、左下の隅に見える白い建物がお竹如来堂である。

【飯倉公園】 (右奥) 11:50
 心光教院から街道に戻り、「東麻布一丁目交差点」を過ぎた次の細道を右折するとすぐ突き当たりに飯倉公園があり、園内に公園付近沿革案内と古地図、他に赤羽接遇所跡の説明板が立っている。
 古地図によると、公園から街道の方を向いて左斜め前のビルが、赤羽外国人宿所があったと所だったと明記されていた
(下の写真)

【赤羽接遇所跡】
 赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所附属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された。
 黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれており、内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものと二棟の木造平屋家屋から成っていた。
 幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。
     昭和四十八年三月 東京都港区教育委員会
【公園付近沿革案内】
 板倉という地名には、都内でも有数の古い由緒があって、歴史書「吾妻鏡」の寿永三年(1184)の条に源頼朝の寄付した土地として初めて現れる。そして集落は、それ以前の古代から確認され、穀倉あるいは芝公園の丸山にちなんで、板倉の地名ができたといわれる。古くから街道筋となり、豪傑渡辺綱にかかわる伝説も生じた。
 室町時代には特に豊かだったと想像され、江戸時代にも四辻を中心に繁華で、付近には大名屋敷や、学者が住むので先生小路という所もあって、維新後は劇場もできたこともある。
 新町名は麻布台、東麻布に変わったが、今も公園や福祉会館などに板倉の名を残している。

【芝丸山古墳】 (左奥) 12:10~12:25
 飯倉公園から街道に戻り、すぐ先五差路の「赤羽交差点」を直進するが、この交差点を左折した所にある「芝公園」内の芝丸山古墳に寄ってみる。
 交差点手前を左折し、右手に首都高の「芝公園ランプ出口」が見える所から公園内に入ると目の前に丸山(古墳)があり、右側に回り込むとまず丸山貝塚の説明板が立っている。
【丸山貝塚】
 芝公園内の丸山と呼ばれる丘陵の東南斜面に貝層が残存している。まだ正式の学術調査が行われず、古くから著名なわりにその内容が明らかでない。
 表面的な観察によると、ハイガイ・ハマグリなど海水産の貝殻から成るものと思われるが、従来文化遺物があまり採集されていない。わずかに安行式土器片が発見された事実から、縄文時代後期の貝塚と考えられるにとどまる。
 丸山の丘上には大形の丸山古墳が造られているので、破壊されているところもあるが、斜面に残る部分は都内の貝塚研究のため重要である。
     昭和四十八年三月 東京都教育委員会

 貝塚説明板から更に回り込んだ所にある階段を少し登った円山随身稲荷大明神の左側に芝丸山古墳の標柱と説明板が立っている。
【芝丸山古墳】 東京都指定史跡(昭和54年3月31日指定)
 全長106メートル前後、後円部径約64メートル、前方部前端幅約40メートル、くびれ部幅約22メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16メートルの台地端に位置し、前方部を南々西に向けている。
 江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治三十一年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。
 前方部が狭く低い形態や、占地状態などから五世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。
     平成二年十二月二十七日 再建 東京都教育委員会

【円山随身稲荷大明神】
 円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。
 随身稲荷の由来は、増上寺からこの地に移建当時桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれより、以来永く鎮守します大明神であります。
     大本山 増上寺
 大明神から再び階段を登って古墳の頂上に出ると伊能忠敬測地遺功表が建っている。その碑の裏に回って下を覗くと増上寺が見え、古地図を見ると現在の芝公園は全て増上寺の境内だったことが分かる。
 帰りは、反対側の階段を下りれば古墳を一回りした形で先ほど入った公園入口に戻る。
 【伊能忠敬測地遺功表】
 伊能忠敬先生は1745年(延享二年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後五十歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で七十四歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。
 その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。
 東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。
     1965年5月 社団法人東京地学協會 會長細川護立

<昼食> 12:35~13:10
 芝公園から「赤羽橋交差点」に戻って左折し、中原街道を少し進んだ左側にあった「ごはん処・やよい軒」で昼食としたが、これが大当たり!
 カキフライ定食とサバ塩焼定食を注文した所、それぞれの身も大きく安くて美味しかった。しかし、それ以上に驚いたのが、今話題の『金芽ごはん』を使っている上にお代り自由だったことである。
 「この値段で金芽ごはんが食べ放題なんて信じられない」と思わず口に出た程である。一口食べて、おかずよりごはんが美味しいと思った事は過去に一度も無かったので、久しぶりに★★★★★。

【綱の手引坂】 (右奥) 13:15
 大使館大名屋敷跡を見に行く為に、次の「三田一丁目交差点」を右折して「三田高校」前の綱の手引坂を上る。
【つなのてびきざか】
 平安時代の勇士源頼光の四天王の一人、渡辺綱にまつわる名称である。姥坂
(うばざか)とも呼んだが、馬場坂の説もある。

 
写真の左側に写っている建物は「三田高校」で、東西は手前の「三田一丁目交差点」から奥の樹木が見える所迄、南北はこの道路から後ろの川迄の広大な土地が、古地図によると久留米藩・有馬中務大輔の上屋敷だった。有馬家は増上寺警備が役目で、江戸で一番高い火の見櫓があったと云われる。

【イタリア大使館】 (右奥)
 「三田高校」前を左折して一本南に入った所にイタリア大使館がある。
 上記綱の手引き坂の右側に写っている工事中の敷地から、その裏側にあるイタリア大使館迄が、伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷だった。
 赤穂浪士の大石主税ら10名の切腹が行なわれた屋敷で、イタリア大使館の内には当時の庭が残っているとの事。

【三井倶楽部・オーストラリア大使館】 (右奥)
 「三田高校」の前を通って綱の手引坂頂上左に会員制の三井倶楽部、その先にカンガルーとエミューのオブジェが掲げられているオーストラリア大使館がある。

三井倶楽部

オーストラリア大使館
【綱町三井倶楽部本館】 
 綱町三井倶楽部本館は、大正二年(1913)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で建てられました。コンドルは明治十年(1877)に来日し、鹿鳴館、銀座煉瓦街をはじめ幾多の建築にたずさわり、建築の分野で日本の近代化に貢献しました。
 この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、ネオ・バロック風の特徴を持ち、室内装飾や家具などに優美な曲線の装飾が見られます。また、建物の背後の庭園も優れています。平成二十年(2008)には、門も建築当時の姿に復元され、大正時代の様子を伝えています。
 なお、三井倶楽部の敷地は、江戸時代には佐土原藩島津家・会津藩保科家の屋敷があったところで、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模して近代に建てられた長屋もありました。
     昭和五十二年一月設置(平成二十一年二月建替) 港区教育委員会
 現在は三井不動産株式会社が所有・管理しており、使用中のため公開していません。


 オーストラリア大使館三井倶楽部の前半分が島津淡路守の屋敷で、三井倶楽部の後ろ半分が松平肥後守の屋敷の一部だった。

【綱坂】 (右奥)
 三井倶楽部イタリア大使館の間の下り坂を綱坂と言う。この坂を下ると慶應義塾大学の裏側に出る。
【つなざか】
 羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武士渡辺綱が付近に生まれたという伝説による。

【芝地区旧町名由来板】 (右側) 13:45
 綱の手引坂を下りて「三田一丁目交差点」に戻ると、かつて街道右手に薩摩藩・松平修理大夫の広大な上屋敷があった。幕府軍と庄内藩がこの藩邸に焼き討ちをかけ、これが戊辰戦争の発端となったと云う。
 次の「三田通り交番前交差点」の右角に「三田二丁目児童公園」があり、そこに芝地区旧町名由来板が立っている。
 旧町名として「三田」、「赤羽町」、「三田功運町」の三町の説明が載っていた。
【三田】
 平安時代の御田郷の名に由来します。三田は古くから田園として開けていたと考えられており、一説には、古代禁中に年貢を奉っていたため御田と称されたと伝えられています。御の字を三に改めた年代は定かではありませんが、戦国時代には三田となっていたようです。
 徳川家康入国(天正十八年、1590)以来、虎ノ門より品川宿までの往還のため、町人の往来がしだいに盛んになり、寛文年間(1661~1673)には町奉行支配となって三田の諸町が創設されました。
【赤羽町】
 江戸時代初期は赤羽川(古川)の灌漑を受けた田園でしたが、明暦(1655~1658)以来筑後久留米藩有馬氏の屋敷となり、明治四年(1871)に工部省所属製作所の敷地となりました。明治五年(1872)、赤羽橋付近は土器職人が多数住居していたので赤埴(赤い素焼きの人形)と呼ばれ、これが転じて赤羽となったと伝えられています。
 江戸の力士小野川喜三郎が火の見櫓の上で怪猫を退治したという伝説「有馬の猫騒動」で名高い有馬屋敷のあったところです。
【三田功運町】
 寛永十七年(1640)三田聖坂にそれまで江戸城近くの桜田にあった功運寺が移り(現三田中学校のあたり)、門前町となったことに由来しています。芝方面から三田台に続く細長い聖坂は、一説に高野聖が開いたといわれています。
 明治二年(1869)、三田功運寺門前は三田功運町と改称されました。町名の由来となった功運寺は、大正十一年(1922)に現在の中野区へ移転しましたが、町名はそのまま残りました。

【慶応義塾大学】 (右側) 13:50
 「三田通り交番前交差点」の先から「三田二丁目交差点」迄の右側に慶応義塾大学がある。
 慶応義塾大学の敷地は、肥前島原藩・松平主殿頭の中屋敷だった。
 明治四年に芝から応義塾大学が移転してきた。

 「慶応義塾大学」東門の前を通り「三田二丁目交差点」を左に入った、飲食店街の中(23番地)に水野和泉守・三河岡崎藩の中屋敷で、赤穂浪士・神崎与五郎ら9人の切腹地として、石灯籠と説明板が立っているとの事だったが、いくら探しても見つけることが出来なかった。
 見逃した23番地内の入り組んだ細道にあったのかも知れない。10分弱ロス。

【聖坂】 14:05
 次の「三田3丁目交差点」を右折して、すぐ斜め左の道へ進んで聖坂を上る。
【ひじりざか】
 古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。

【亀塚稲荷神社】 (右側) 14:07
 聖坂の途中右側に亀塚稲荷神社があり、石段を四段上った社の手前右側に小さな5枚の弥陀種子板碑が並んでいて、鳥居の後に説明板が立っている。


 【弥陀種子板碑】 東京都港区指定文化財(歴史資料)
 全国でも中世の関東地方に著しい信仰の特徴といわれる板状の秩父青石、すなわち緑泥片岩に刻まれた供養塔である。
 弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切りだした秩父型の板碑三基には、それぞれ「文永三年(1266)十二月」「正和二年(1313)八月」「延文六年(1361)」の造立年が陰刻されており、特に文永三年の刻銘は、港区に現存する板碑の中では最古である。
 これらの板碑は、以前は当社付近にあったものとも、荏原郡上大崎(現品川区上大崎)にあったものともいわれている。
 なお、境内には他に二基の板碑があるが、これらは磨耗がはげしく、造立年などを知ることはできない。
     平成七年九月二十六日 東京都港区教育委員会

【済海寺】 (左側) 
 亀塚稲荷神社の隣に「クウェート大使館」が、聖坂を登りきった左側に済海寺がある。
 済海寺の境内を入ってすぐ左側に「フランス公使館跡」の石碑と説明文が立っている。
 【最初のフランス公使館跡】 東京都指定旧跡(史蹟指定:昭和28年11月3日、旧跡指定:昭和30年3月28日)
 済海寺には、安政五年(1858)に締結された日仏修好通商条約により、翌六年八月十二日にフランス公使館が設置されました。初代駐日公使ド・ベルクール(着任時は総領事)がここに駐在しました。公使館としては書院、庫裏の全部、慶応二年(1866)十二月に玄関、門、門番所などが増設され、明治三年(1870)四月十日に公使館が引き払われるまで使用されました。
 済海寺は明治年間に敷地が分割され、かつてのフランス公使館の敷地は、現在の済海寺本堂敷地とその西隣の地域となります。
     平成二十四年三月 建設 東京都教育委員会

【亀塚公園】 (左側)
 済海寺の隣に亀塚公園があり、園内中央に確定していないものの古墳ではないかと云われる亀塚がある。
 亀塚には下の写真で分かるとおりに階段が付いていて頂上に登れるが、私達は登らなかった。
 【亀塚】 東京都指定史跡(昭和58年5月6日指定)
 古くから坪井正五郎博士等によって古墳と指摘され、広く知られていましたが、詳細な学術調査が行われず、古墳であると決めることはできませんでした。昭和四五・四六年、港区教育委員会が主体となり、慶応義塾大学が測量調査および発掘調査を実施した結果、この塚が古墳時代以後に築造されたことが明らかとなりました。さらに平成一四・一七・一八年に、港区教育委員会が亀塚と周辺の調査を実施し、亀塚の構築状況を明らかにしました。しかし、埋葬施設や周濠の存在は明確でなく、依然として古墳と断定することはできていませんが、その可能性は高いと考えられます。
 また、平安時代に書かれた『更級日記』に見える竹芝寺の伝説地とも伝えられ、文明年間(1469~87)には、大田道灌が斥候
(ものみ)を置いたと伝えられています。江戸時代には、この地を屋敷地としていた田沼城主土岐頼熈(よりおき)が、これらの旨を記した「亀山碑」を頂上に建て、現在に伝えています。
     平成十九年三月三十一日 港区教育委員会 港区環境・まちづくり支援部

【歴史と文化の散歩道】
 亀塚公園入口前の歩道上に歴史と文化の散歩道と題する、三田坂めぐり散歩の地図(赤羽橋~伊皿子坂)と案内が載っていた。私たちが今日ここまで辿って来た道である。
【三田坂めぐり散歩】
 赤羽橋から伊皿子
(いさらご)橋までの坂また坂の約2.3Kmのみちのりです。綱の手引坂、綱坂、聖坂などそれぞれの歴史と景観をもった坂と落ち着いたたたずまいを見せる洋館、点在する寺院や遺跡をめぐる散歩道です。
【坂と洋館】
 三田一帯は、多くの坂に縁どられた高台の上にあり、江戸時代には武家地・寺社地となっていた。見晴らしが良く静かなこのあたりは、また江戸市民の行楽地としても知られ、ことに聖坂から伊皿子あたりにかけては”月の岬”と称される月見所として名を馳せた。
 維新後、武士にかわって華族や政府高官たちがここに住み、また、諸外国の公使館や学校が集まった。慶応義塾三田演説館や三井倶楽部、旧蜂須賀邸など数々の洋館が建てられ、この界わいの特徴となった。

【幽霊坂】 (右側)
 亀塚公園のすぐ先の右へ下る坂道を幽霊坂と云う。地図を見ても下の説明通りこの右手一帯は無数の寺院で埋め尽くされている。
【ゆうれいざか】
 坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七ヶ所ほどもある。

【伊皿子交差点】 (右側)
 坂を下り終えた「伊皿子交差点」手前左角に歯科医学教育発祥之地の石の説明が立っている。
【歯科医学教育発祥之地】
 高山紀齋は米国留学で得た理想を基にここ東京芝区伊皿子七〇番地に明治二十三(1890)年一月、わが国最初の歯科医学校として高山歯科医学院を設立した。この学院には、後の世界的細菌学者野口英世も教壇に立っている。その後、皿脇守之助がこれを継承し、東京歯科医学院、東京歯科医学専門学校、東京医科大学として現在に至っている。
 この地に端を発した近代歯科医学教育の精神は高山歯科医学院開設以来百有余年、脈々と今に引き継がれている。
     学校法人 東京歯科大学
 「伊皿子交差点」から右手に
下る坂が「魚藍坂」で、寄らなかったが途中に「魚藍寺」がある。ここには中国の古事に習った魚藍観音が祀られているとのこと。
【大石良雄等自刃ノ跡】 (右側) 14:50
 「伊皿子交差点」の次の信号右側の広大な敷地は高松宮邸である。一回りしたが、全周上部にとげの付いた高い塀に囲まれて、門も鉄製で、まるで刑務所の様な構えだった。
 高松宮邸隣の「都営・高輪一丁目アパート」の正面入口の右角に大石良雄達自刃ノ跡と刻まれた石碑が立っている。左側面には『大正六年七月 東京府』と刻まれていた。
 さらに、その入口から奥に入って行くと、突き当たりに大石良雄外十六人忠烈の跡という説明板が立っていて、鍵の掛かった門の中は庭石が散らばっている一角が保存されていた
(下の写真)
 高松宮邸を含めここ一帯が細川越中守の下屋敷跡で、この屋敷の庭で大石内蔵助ら十七人が切腹した。
 また、この左手東海道(第一京浜国道)との間に泉岳寺がある。
 大石良雄外十六人忠烈の跡】 東京都指定旧跡(昭和30年3月28日指定)
 この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら十七人が預けられた肥後熊本藩細川家の下屋敷の一部です。赤穂事件とは、元禄十四年(1701)三月十四日におこった殿中刃傷事件とその翌年十二月十四日夜から十五日にかけての吉良邸討入り及びその一連の事件のことをいいます。
 当時の藩主五代綱利は、老中稲葉丹後守からの御預けの命を受けると、大目付仙石伯耆守の屋敷に総勢八七五人の藩士と駕籠を送り引渡しを受けます。このような大部隊を送ったのは、大藩の威武を示すとともに、上杉家の襲撃を警戒したためといわれています。細川家は、大藩の威厳と識見をもって優遇し、御預四家の中で即日引見したのは細川家だけでした。
 元禄十六年(1703)二月四日午後二時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹の申し渡しを受け、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合せ存じ奉り候」と礼を述べました。切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を背負った位置でした。
     平成二四年三月 建設 東京都教育委員会
【赤穂義士史蹟碑
 正義を愛し名節を重んず者は暫くここに歩を停めよ
 此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総師大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である
     昭和三十五年三月二十日 社団法人中央義士会 東京都教育委員会
 【自刃せる義士左の如し】
 大石内蔵助    良雄  四五
 吉田忠左衛門   兼亮  六三
 原  惣右衛門   元辰  五六
 片岡源五右衛門 高房  三七
 間瀬久大夫    正明  六三
 小野寺十内    秀和  六一
 間 喜兵衛     光延  六九
 磯貝十郎左衛門 正久  二五
 堀部彌兵衛    金丸  七七
 近松勘六      行重  二四
 富永助右衛門   正因  三四
 潮田又之丞    高教  三五
 早水藤左衛門   満堯  四○
 赤垣源蔵      重賢  三五
 奥田孫大夫    重盛  五七
 矢田五郎右衛門 助武  二九
 大石瀬左衛門   信清  二七

【承教寺】 (右側) 15:00~15:10
 「都営アパート」から信号を超えて右側の「高輪第二郵便局」の隣に承教寺があり、その入口左側に二本榎の碑、右側に英一蝶
(はなぶさいっちょう)の説明板が立っている。
 また、この寺の狛犬は実にユニークな顔をしていた
(下の写真参照)
 英一蝶の墓はここから参道を進み、奥まった本堂の左前に建っており、小さめの墓石が岩石の上に乗っていた
(一番下の写真)
 承教寺を出て、下記説明板に記載の二本の榎が斜め向かいの黄梅院にあるというので、寄ってみたが案内板等も無く、どの木であるか分からなかった。
 【二本榎の碑について】 
 その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
 誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
 それがそのまま「二本榎」(にほえのき)という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
 戦後、地番変更で高輪何丁目などと地名が変わりましたが、昭和四十二年に町内の黄梅院の境内に夫婦の榎を植樹し、石碑を立ててこの「二本榎」の町名をいつまでも忘れないようにしました。
 平成二年、「碑」をこの場所に移しましたが、二本の榎は黄梅院に大切に育てられています。
 この「碑」はこの町の住民にとって大切な象徴となっております。
     高輪二本榎町会
 【英一蝶】 (1652~1724)
 英一蝶は江戸中期の画家、狩野安信に学び人物・花鳥にすぐれやがて独自の軽妙洒脱な画風を創始、和歌・発句もよくした。
 はじめ多賀朝湖を称したが、四十六才のとき、「朝妻舟」という絵で将軍綱吉の放縦な生活を諷刺したため、幕府の忌憚に触れ三宅島に遠島、赦免後英一蝶と改名した。
 この英一蝶の墓が当「承教寺」の境内にある。大正十三年二月東京府知事より史跡に仮指定された。
【英一蝶墓】 東京都指定旧跡(昭和18年5月指定)
 江戸中期の絵師、英派の始祖、本名は多賀信香、潮湖のち一蝶、北窓翁などと号した。承応元年(1652)大阪(京都ともいう)に生まれ、十五歳(一説に八歳)のとき、伊勢亀山藩侍医となった父多賀白庵に従って江戸に移った。絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人であった。
 元禄十一年(1698)『当世百人一首』や『朝妻舟』の図などが将軍綱吉を諷刺したとして、三宅島に配流となったが、在島十二年ののち大赦により江戸に戻った。赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したという。
 軽妙洒脱な筆致で江戸市民や都市風俗を描くことを得意としたが、享保二年(1717)には風俗画廃業を宣言している。同九年一月十三日、七三歳で没した。
     平成二十年十二月 設置 東京都教育委員会 

【高輪消防署】 (左側) 15:15
  黄梅院のすぐ先の「高輪警察署前交差点」の手前左角に火の見櫓があるレトロな高輪消防署二本榎出張所、渡った左角に高輪警察署、右手前歩道上に二本榎の由来が書いてある説明板(上記「承教寺」の説明文と同文)と、港区旧町名由来板が立っている。
 この交差点を右折して「桜田通り」を渡った右角が「明治学院大学・高校」で、以前訪れた時、道路から見えた芝生奥の礼拝堂が美しかった。
 その先が庭の綺麗な「八芳園」がある白金台に続く。
 高輪消防署二本榎出張所は、昭和8年(1993)立てられ、平成22年に「東京都選定歴史的建造物」(近代建築の遺産)に選定された。
 第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、希望者には内部を公開しているとのこと


【旧町名由来板・高輪】
 (他の町は省略)
 
現在の田町駅周辺から二本榎に続く古道、奥州路の道沿いに広がる地域をいいます。この地は東京湾に面した高台で、江戸の町を一望できたといわれています。地名の由来は諸説ありますが、高台の縄手道であるところから「高き縄手」の略で、後に高輪と書き改めたといわれています。この道は、江戸開府にともない東海道が整備されるまでは、旅人の往還としての役割を担っていました。東は海、西は寺院や町屋の見られる古くからの片側町でした。

【光福寺】 (左側) 15:22
  「高輪警察署前交差点」を渡って、警察署隣の「高野山東京別院」と「高輪教会」を過ぎて少し行った左側に光福寺がある。
 入口に「開運稲荷安置」と刻まれた標柱が立っている先の山門をくぐった正面本堂の左手に稲荷堂があり、その右横に地蔵堂が建っている。そこに祀られている「子安地蔵」は、別名「ゆうれい地蔵」と呼ばれる不気味な地蔵尊で港区登録有形民俗文化財となっている。
 石に刻まれた地蔵で浮き上がっており、左の写真で分かるとおり足が細くなっているので、本当に幽霊のように見える。

 港区に残る民話の一つに次の様な話がある。
 二本榎にある飴屋に毎日赤子を連れた女性が飴を買いに来ていた。雨の日でも傘を差さずに来るこの母子を不思議に思った飴屋の主人が、ある日後をつけてみると寺の中に入って行った。後日住職と共に後をつけると地蔵の前にたどりついた。住職が毎日この地蔵を供養したら、その母子は現れなくなったと云う。

【相生坂】
 光福寺から次の「高輪三丁目信号」(左手は衆議院高輪議員宿舎)を右折し、すぐの「高輪台信号」を左折して国道一号線(桜田通り)を進む。やがて相生坂を下ってゆく。
【相生坂】
 相生坂の名称は、古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田一丁目)前を通る道と、この坂のある中原軌道が、雉子神社(東五反田一丁目)の手前で合流していたことにもとずくとされる。昔は急坂で険しいものであったが、だんだんと道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。

【雉子神社】 (左側) 15:45
 下り坂の途中左側に雉子
(きじ)神社があるが、鳥居をくぐって階段を上がると社は大きなビルの下にあった。
 拝殿・本殿とも銅葺きで、本殿の左側に「三柱神社」がある。
 相生坂を下りきると五反田駅前に着く。
   【御由緒】
 当社鎮座の起源は古く、御社号は元荏原宮、文明年中には大鳥明神山神社とも称して居りましたが、慶長年間に徳川三代将軍家光公が鷹狩の折に一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀な目出度いしるしであるとして、雉子宮(きじのみや)と名附けられて江戸の社寺名所にその名を連ね、明治維新に雉子神社と改められて現在に及んでいます。
 当社は武蔵國荏原郡上大崎村、下大崎村、谷山村、永峰町、六軒茶屋町、現在の品川区上大崎東五反田の全域と、西五反田一、二、三丁目一圓の氏子鎮守であります。
 神域は昔から現在の処で、社前の中原街道(國道一号線)が明治三十八年以来三度拡幅改修されて、次第に狭隘となりました。
 明治以前は白雉山宝塔寺が別当職でありました。明治五年村社と定められ、明治四十三年上大崎村に鎮座の三島神社を合祀して現在に及んでいます。
     文 藻
 大崎村と言う所に行けり、この辺は古事幕府の唐より渡りし雉子を数多く放ち給いける由、雉子宮と申して小祠あり
   なくたびに 紅葉散るなり 雉子の宮
       文政九年      酒井雅楽頭抱一
   ほろほろと なくやきぎすの宮に来て
       天若彦のむかしとはばや
                    加藤千浪
     昭和五十七年十二月 謹記


 第一回終了 16:00(五反田駅)

 今回の記録 : 街道のみの距離は、「虎ノ門交差点」から6Km。
           寄り道を含めた実歩行距離は、11.3Km。

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