大山街道(2) 三軒茶屋 ~ 二子玉川駅西口 (旧道ルート)

2014年12月3日(水) 晴

  三軒茶屋駅を10:00スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)

「赤坂御門~三軒茶屋」 → 「目次」 → 「三軒茶屋 ~ 高津交差点(新道ルート)」



 「三軒茶屋」から「二子玉川」へ向う大山街道は、二つのルートある。
 一つは上町ルートで、「三軒茶屋」の大山道標が建つ二股を右の「世田谷通り」へ進む大山街道の旧道である。
 前回の最後に記載した大山道標の説明文によると『大山道は、矢沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。』と書かれている。
 もう一つは新町ルートで、二股を左の「玉川通り(国道246号線)」へ進む大山街道の新道である。
 今回は、旧道を歩くこととする。


【駒留八幡神社】 (左奥) 10:20
 「三軒茶屋交差点」から「世田谷通り」を西に進み、途中右奥にある通称:目青不動の「最勝寺」に寄ろうと思っていたが、案内板も無く、曲がり道を通り越してしまった。戻るのも面倒になり先に進む。
 環七通りと交差する「若林交差点」を左折し、三本目の小道を右折すると駒留公園内の駒留八幡神社に寄る。この小道は脇参道で、四本目を右折すれば鳥居の前に出る。鳥居の右横に説明板があった。
 下記説明文の厳島神社は社殿の左奥にある。

【駒留八幡神社(若宮八幡)】
 祭神は天照大神、応神天皇。北条左近太郎入道成瀬は、当時この地の領主で、あつく八幡大神を崇敬し、徳治三年(1308)社殿を造営し、経筒を納め駒留八幡とあがめたてまつった。その後世田谷城主吉良頼康は、その子の追福のため、八幡宮に一社相殿として祀り若宮八幡と称した。また、その母常盤を弁財天として祀ったのが、厳島神社である。
     昭和五十三年三月 世田谷区教育委員会

【松蔭神社】 (右奥) 10:40~11:00
 街道に戻って、「世田谷通り」を少し進んだ「松蔭神社入口交差点」を右折して「松蔭神社通り」を400m強、途中東急世田谷線の「松陰神社前駅」の踏切を渡って進むと松蔭神社の参道に着く。
 「松蔭神社通り」の電柱には吉田松蔭門下生の説明文が並んでいたので、見つかった人物を載せる。

【山県有朋(1838~1922)】
 長州藩士。下級武士の家に生まれ、吉田松陰に師事。文久三年(1863)、奇兵隊に入って頭角をあらわして軍監となり、外国軍や幕府軍と戦って数々の功を立てた。維新後は内閣組閣二回、陸軍大将、元帥をつとめた。
【品川弥次郎「(1843~1900)】
 長州藩士。下級武士の家に生まれ、松下村塾で吉田松陰に師事し「弥ニの才、得やすからず」と、特に可愛がられた。明治三年(1870)ヨーロッパ各地に留学、帰国後は駐独公使、宮中顧問官、内務大臣を歴任。大日本農会など産業団体設立にも尽力した。
【伊藤博文(1841~1909)】
 長州藩の農民の家に生まれ、足軽の養子となる。師吉田松陰からは将来「周旋家」になりそうだと評される。文久三年(1863)には英国に秘密留学し、翌年帰国して討幕運動に奔走。維新後は憲法制定などを推進し、明治八年には初代内閣総理大臣となる。
【久坂玄瑞(1840~1864)】
 長州藩士。師吉田松陰から「防長年少中第一流の人物」と評されるほどの秀才だった。日和見な長州藩の進路を尊皇攘夷に統一し、文久三年(1863)五月には関門海峡で外国艦を砲撃。しかし同年八月の政変で長州藩が失脚したため、京都で「禁門の変」を起すも敗れて自害した。

 神社に入ると、平成23年に建替えられた鳥居の左手前に神社の説明文が掲げられている。

【松蔭神社】
    ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰先生)
 松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰し、明治維新を成遂げた多くの若者を教育しました。しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて三十歳若さで刑死されました。その四年後の文久三年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の所領で大夫山と呼ばれていたこの地に改葬されました。
 明治十五年(1882)十一月松蔭先生門下の人々が相談し、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り神社が創建されました。

 鳥居をくぐって参道に入ったすぐ左側に旧鳥居の一部が保存されている。

【松蔭神社旧鳥居柱】
 松陰先生五十年祭(明治41年)の際に建造された松蔭神社の旧鳥居柱の一部(社殿に向って右の柱)。旧鳥居は御影石製で台座含め総重量約20トン程であった。平成23年10月の新鳥居建設にあたり解体。その一部を保存した。
 「明治四十一年十月五十年祭」の刻字は社殿向って左の柱にあったものを保存の際に移し刻字したもの。

 旧鳥居柱のすぐ先左側に松蔭神社道の道標が建っている。

【松蔭神社道の道標】
 旧大山道(矢倉沢往還。現在の世田谷通り)から松蔭神社に至る道の入口に建てられていた道標。世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設した。明治45年乃木希輔公により寄進。

 道標の隣には徳富蘇峰植樹の碑が建っている。

【徳富蘇峰植樹の碑】
 徳富蘇峰(本名 猪一郎、徳富蘆花の兄)は明治の言論人。肥後の生まれで、熊本洋学校をへて、同志社に学ぶ。政治的には桂太郎と密接な関係を持った。
 明治41年自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、碑を建立した。

 次いで、右側に吉田松陰のブロンズ像が建っている。

【吉田松蔭先生像】
   (鋳造:平成25年 ブロンズ)
 明治23年に大熊氏廣氏によって製作された吉田松陰先生像(石膏 松蔭神社所蔵)から鋳造されたブロンズ像。
 松蔭神社ご鎮座130周年(平成24年)の記念事業として東京藝術大学に依頼し、ほぼ一年かけて石膏像の調査修復及びブロンズ像の鋳造をおこなった。平成25年4月完成。同27日の春季例大祭にあわせ完成除幕式がおこなわれた。
※大熊氏廣(安政3年(1856)~昭和9年(1934))
 明治9年工部美術学校に入学し、教授として来日していたイタリヤ人彫刻家ラグーザに師事、明治15年首席で卒業。明治21~22年滞欧しファルギエール、モンテベルデ等に師事。日本における近代彫刻の先駆者。作品として靖国神社の大村益次郎像が有名。

 更に参道を進み、拝殿へ上がる手前に32基の石燈籠が並んでいる。



【石燈籠】
 境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、毛利元昭公をはじめ先生門下の伊藤博文、山縣有朋などの縁故者より明治41年(1908)に奉献されたものです。
 その燈籠に刻まれた文字は書家高田竹山による八分隷書体によるものです。
石燈籠奉納者芳名
①毛利元昭
②吉川經健・毛利元忠
③毛利元秀・毛利元雄
④吉川重吉・小早川四郎
⑤大村徳敏・毛利五郎
⑥伊藤博文
⑦山縣有朋
⑧井上 馨
⑨桂 太郎
⑩木戸孝正
⑪佐久間左馬太
⑫乃木希典
⑬廣澤金次郎・林博太郎
⑭山田英夫・品川弥一
⑮青木周蔵
⑯野村 靖
⑰河瀬真孝
⑱杉孫七郎
以下略


 下の写真で9基ある石燈籠は、左から⑥⑦⑧⑨⑩⑫⑭⑯⑱である。

 上記、上の写真の石燈籠前を左奥に入って行くと、吉田松陰他烈士墓所がある。

【吉田松陰先生他烈士墓所】
 文久3年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松蔭先生の亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御霊の安住の所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の墓を芝青松寺から改葬。同年11月、福原乙之進を埋葬した。
 禁門の変後の、長州征伐の際に幕府によって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、更に綿貫治良助を埋葬、中谷正亮を芝青松院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。
 明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。

 左の写真で、真中が吉田松蔭の墓、左隣が来原良蔵、右隣が小林民部、その右が頼三樹三郎、左ロウソク立の後ろに福原乙之進と綿貫治良助の墓がある。
 墓所前に建つ一対の石燈籠が、後に徳川氏より寄進されたもの。

 参道に戻って拝殿に進むと、その手前に6基の石燈籠が建っている。

【松蔭神社】
 
明治十五年長州藩士吉田松陰の霊をまつる。この地は同藩主毛利大膳大夫の抱屋敷であったので俗に大夫山とよばれた。
 
松蔭は安政三年(1865)長州萩において松下村塾(鳥居脇にあるのはその模したもの)を開いて高杉晋作、伊藤博文ら多くの子弟を薫陶し、かれらに大きな影響をあたえたのである。
 松蔭は安政大獄のときに処刑されたが、後、ひそかに頼三樹三郎らと共に、神苑の西方老松楓樹のもとに葬られた。

     
昭和六十年三月 世田谷区教育委員会


 左の写真で、拝殿前の石燈籠の寄進者は左側奥から①③⑤、右側奥から①②④である。

 拝殿の左手には松下村塾を模した建物が建っている。

【松下村塾】
 
松蔭先生の教育道場であった松下村塾は、叔父の玉木文之進が天保13年(1842)寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾の名の起こりです。塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政4年(1857)まで引き継ぎました。その後、松蔭先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治25年頃まで続きました。
 松陰先生は嘉永5年(1852)23歳の時は半年ほど、安政4年(1857)26歳の冬出獄(米艦に乗船を企てて投獄されていた)してから安政4年(1857)11月迄、杉家(松蔭の実家)で子弟を教育していました。この月の5月にはじめて八畳一間の塾舎が完成することになり、松陰先生はこの時から塾に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。塾生が増加して手狭になったので安政5年(1858)3月、十畳半の増築がおこなわれました。松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政5年7月20日、先生29歳の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、これから同年12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2年半程であったようです。松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後といわれており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥三郎、伊藤博文など明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。
 本神社にある松下村塾は山口県萩の松蔭神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。

【大吉寺】 (右側) 11:12
 「松蔭神社入口交差点」に戻り、次の「世田谷区役所入口信号」を越えた少し先の右側に大吉寺がある。

 作家でスポーツ評論家としても活躍した寺内大吉(1921年~2008年)の生家であり、ここの住職も務めた。
 また、寺内大吉はマリリン・モンローのファンとして知られ、1973年に大吉寺本堂でモンロー13回忌の法要が営まれ、「鞠利院不滅美色悶浪大姉」という戒名を授けたことでも有名。
 境内にはモミジや大銀杏が赤や黄色に染まり綺麗だった。

【円光院】 (右側) 11:17
 大吉寺の隣に円光院がある。

 門前右手の歩道上に櫻小学校發祥之寺の石標が立っている。
 円光院は、世田谷城主・吉良氏の祈願寺であり、玉川八十八ヶ所霊場四十九番札所。
 門を入って右に枝垂桜、左に庚申塔があった。

【世田谷代官屋敷(大場家住宅)】 (左側) 11:25~11:32
 大山街道は、円光院前の信号を左折し、次の「世田谷中央病院」信号を右折する。
 そこから250m程進むと左側に世田谷代官屋敷(大場家住宅)があり、茅葺きの立派な表門が出迎える。

【世田谷代官屋敷】 東京都指定史跡(昭和27年11月3日旧史跡指定・昭和34年2月21日史跡指定)
 江戸時代のはじめ、大場氏は彦根藩井伊家領世田谷(二千三百石余)の代官職を務め、明治維新に至るまで世襲していました。この屋敷地はその代官役所として使用した居宅を含む屋敷跡です。
 大場氏は中世に世田谷城主であった吉良家の重臣でしたが、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条方についた主家吉良家が没落すると、世田谷新宿(上町)に留まり帰農していました。寛永一〇年(1633)、井伊家が世田谷領一五箇村(後にニ〇箇村)を拝領した際に、代官に起用されました。以後、明治四年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきました。
 屋敷は江戸中期の建築であり、代官所の中心である母屋は約七〇坪(約ニ三一・四㎡)、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、白州跡などの一部が今も現存し、往時代官屋敷の面影を伝えています。
     平成ニニ年三月 建設  東京都教育委員会

 この表門の左側から入るが、入口に案内所がありパンフレットを貰える。
入  館  ご自由に入館できます。 午前九時より、午後五時まで  入館は午後四時三十分まで
入館料  無料
休館日  月曜日・年末・年始・国民の祝日(月曜日が祝日の場合は、その翌日も休館日です。)

 敷地内に入り、表門の後ろに回りこむと樹齢二百年の「たぶの木(玉樟)」が出迎える。

【たぶのき(一名:いぬぐす)くすのき科】
 暖地の海岸地に多い常緑の大高木で、初夏に黄緑色小花を群生する。老樹の材の木月が巻雲紋を現しているものをタマグスと呼び、高く評価される。


 左の写真で、たぶの木の左が表門の裏側、奥に見える建物が案内所。

 案内所から入って左手(上の写真では右手)に主屋が建っていて、正面には式台付の玄関がある(下の写真)

【重要文化財 大場家住宅】
 この住宅は、大場家7代六兵衛盛政が元文2年(1737)と宝暦3年(1753)の2度にわたる工事によって完成したものであります。大場家は、元文4年(1739)から幕末まで彦根藩世田谷領の代官職を世襲したのでその役宅として使用されていました。
 江戸中期上層民家の遺構をよく保存する建物として、主屋及び表門の2棟が、昭和53年1月21日国の重要文化財に指定されました。

 主屋を左回りに行くと、屋敷の土間(台所)に入れて内部を見学出来る。



【主屋の内部】
 南北両面の入口は農家式の大戸になっています。玄関には式台が設けられ、それを上がるとすぐに18畳の「板の間」があって、その西側の「役所の間」「次の間」は、代官の執務室として用いられた部屋です。
 また、西南端に位置する7畳半の部屋は、大場家では「切腹の間」と呼び、「事あるときはここでいつでも腹を切る覚悟で職務に当った」と伝えられます。
     (パンフレットより)


 上の写真は、土間から「板の間」、その奥の「役所の間」を写したもの。
 下の写真は、南側の部屋を写したもので、手前の板の間が「名主詰所」、その次が「代官居間」、一番奥が「切腹の間」である


【世田谷代官の職務】
 大場氏は、寛永10年(1633)より、彦根藩世田谷領2300余石の代官を代々勤めました。この世田谷代官は、佐野奉行(下野国佐野と世田谷にある飛地の地方支配役。一般にいう郡奉行に当ります)の配下に属しましたが、江戸詰の御元方勘定奉行および御賄方からも直接指示を受ける立場にありました。
 世田谷代官の職務のうち最も重要な仕事は、年貢の収穫に関することで、時にはその職務を賭さなければならない程の大切な職務でした。また、代官は領内の治安についても気を配らなければならず、村々の名主年寄りを指揮して犯罪の防止や取締りに当ったり、変死人の検視・災害場所の見分・市の見回りに出向いたりと多忙を極めました。代官屋敷には、犯罪人捕縛のための三ツ道具や手鎖が常備されていました。白州では、桜田の上屋敷や佐野で開かれる裁判の下調べが行なわれました。現在、屋敷の西側にある「白州跡」の玉砂利は当時のものですが、白州自体は現状よりやや北東にずれた所にあったと伝えられます。さらにまた、世田谷領が井伊家の江戸屋敷賄料として与えられた関係で、年中行事や生活上必要な品々を調達納入することも世田谷代官の職務に含まれていました。毎年、井伊家へ納入される品としては、正月のお飾り用の竹木、節句用の餅草・菖蒲、蚊遣り用の杉葉、入浴剤として使用する桃葉等があげられます。それに加えて、普請・草刈・垣結・米搗等々の使役される人足、菩提寺・豪徳寺で執り行われる法要・葬儀の際の人夫も世田谷領内から微発しなければなりませんでした。ここには書ききれませんが、その他にも世田谷代官には沢山の仕事が課せられていました。大庭弥十郎の書いた「世田谷勤事録」には、世田谷代官の職務について詳しく書かれており、その苦労の程がよくわかります。

 南側大戸から庭先に出て主屋の南面を見ると床の間付6畳の「二階座敷」が見える。
 更に西側に回って資料館の方に行くと左側に白州、右側に白州通用門が建っている。

  主屋南側  白州  白州通用門

 この代官屋敷前の通りは「ボロ市通り」と言い、毎年12月15・16日と1月15・16日にボロ市が開かれる。
【世田谷のボロ市】 東京都指定無形民俗文化財(風俗習慣) (平成19年3月15日指定)
   伝承地  世田谷区一丁目・弦巻五丁目・ボロ市通り・世田谷通り(一部)・駒沢公園通り(一部)
 世田谷のボロ市は、天正六年(1578)に小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて発した「楽市掟書」に起源を持つとされる。掟書によると、この楽市は一と六の日の、一ヶ月に六日開かれる六斎市であった。しかし江戸時代になると江戸商業圏の拡大により、市は年に一回、十二月十五日の歳の市となった。市で売買された品は多彩で、歳の市といっても単に正月を迎える準備のためだけでなく、一年を通して必要とする様々な品物をそろえる場であり、生活や農業生産の上で欠かせない市であった。
 この市は明治六年(1873)の太陽暦の採用によって、翌七年から旧暦の歳の市に相当する一月十五日にも開かれるようになり、また明治中期には十六日も開催の定例となった。市の名称は、正式には「市町
(いちまち)」といったが、明治中期頃から「ボロ市」が一般的となった。これは草鞋の補強や野良着を繕うためのぼろや、古着などが市商品の大半と占めるようになったからである。
 ボロ市は四〇〇年以上にわたり、それぞれの時代に対応し、様々な変化をしながらも、ほぼ同じ場所で継続して開かれてきた。戦後は急激な都市化と生活の変化によって扱われる商品も変わり、ボロ市も農村の生活市ではなくなってしまった。しかし、今でもボロ市は、数少なくなった正月を迎える節季意識を伝える行事として、多くの人々に親しまれている。
     平成十九年三月 世田谷区教育委員会


【世田谷区立郷土資料館】 (左側) 11:32~11:55
 代官屋敷と地続きで西隣に郷土資料館がある。
開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休 館 日 :毎週月曜日、祝日(月曜日が祝日の場合はその翌日も)、年末年始
入 館 料 :無料

①資料館の敷地に入った北側の新館前に、これから訪れる弦巻から移設された大山道の道標が、その右隣に山吉講富士登拝記念碑が建っている。

【道標】
銘文 〔左側面〕  右 
             登戸道
                   本願主
                    石田十右衛門
    〔正  面〕  左   延享三丙寅年
               さがみ □月吉日
           (梵字) 大山道
                      世田谷上宿同行五十人
年代 延享三年(1746)
伝来 この道標は、もと弦巻五-十六-三十一の三叉路にあったが、交通量の増加に伴ない、通行車両の振動や接触などで、下部は土中に埋没した状態になっていた。
    そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって、当館へ移設されたものである。
    なお、道標のあった場所には、そのよすがを留めるために同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。
    「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。
          財団法人 大場代官屋敷保存会
          世田谷上町町会          」
     平成十四年十一月 世田谷区教育委員会
【山吉講富士登拝記念碑】
   (碑文略)
 富士山に対する信仰は原始的な山岳信仰として旧くから存在したが、庶民の間に富士登拝の風習が盛んとなったのは富士の行者・食行身録(じきぎょうみろく)が現れて庶民救済の教義を提唱した十八世紀以降のことである。
行身録の弟子たちは独立して講を結成し、さらにそこからは多くの技講が生まれることとなった。こうして、富士講は十九世紀の初頭にしの隆盛期を迎え、俗に「江戸八百八講」と呼ばれる程の発展を遂げたのである。
 当富士登拝記念碑は、三軒茶屋の富士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が、講中の三十三回富士登拝を記念して屋敷地の一角(現・太子堂四丁目四三八番地付近、茶沢通り路上)に建てたものである。また、その際、北口本宮富士浅間神社(現、富士吉田市)の境内にも、もう一基記念碑を建てており、それも同所に現存している。
 堀江家は「三軒茶屋」という地名の由来となった三軒の茶屋の一つ田中屋を経営した旧家である。
     平成五年三月 世田谷区教育委員会

 資料館南側の本館前に、石仏・石碑が沢山並んでいるので、左から紹介する。

【摺臼と搗臼・麦打ちコロ】 (左の写真で、左端の3基)
銘文 なし
伝来 摺臼は、上臼と下臼を重ね合わせて上臼を回転させるものである。接合面に目を切り、その間に穀物などを通して製粉するものである。搗臼は、上部を刳(く)り、これに穀物などを入れて杵で搗き脱穀や精白を行なった。
 これらの臼は、火薬をつくるための焔硝(硝酸カリウム)の原料である硝石などの粉砕に用いたものと伝えられている。いずれも松原二丁目大庭信一氏から当館に寄贈されたものである。
 麦打ちコロは、牛などで牽いて麦を脱穀したものである。莚(むしろ)に刈った麦を敷き、この上を転がして実を外した。大正十四年製で、昭和四十四年に祖師谷一丁目田中良平氏から当館に寄贈された。
     平成十五年一月 世田谷区教育委員会

臼とコロの右隣に三界萬霊塔地蔵菩薩立像が並ぶ。

【三界萬霊塔】
銘文 〔左側面〕 南 池上道  発願人 当 村 伝右衛門
     〔正  面〕 天明五巳年十一月  三界萬霊等  西 さ加み(相模)道
     〔右側面〕 北 高井戸宿通り
     〔背  面〕 東 江戸道
年代 天明五年(1785)
伝来 三界とは、いっさいの衆生の生死輪廻する三種の世界(欲界・色界・無色界)をいい、三界萬霊塔とは、この迷いの世界におけるすべての霊あるものという意味である。真宗以外の寺院で、施餓鬼など、広く無縁の有情を供養する際に用いられているが、この萬霊塔は、道しるべを兼ねている。
 旧玉川電車真中駅付近から北側に入った辺りにあったと伝えられているが不詳である。昭和四十二年に芝田元之助氏から寄贈を受けたものであるが、同氏は昭和初期に、当時の駒沢小学校校長横溝清氏より寄贈されたと伝えている。

【地蔵菩薩立像】
銘文 〔左側面〕 武州荏原郡瀬田谷領  □内若林村  男同行弐拾六人
     〔正  面〕 宝暦六丙子年  念□講供養仏  八月二□日
     〔右側面〕 是より南 いけがミみち
年代 宝暦六年(1756)
伝来 この地蔵菩薩像は、宝暦六年に若林村の念仏講の人々によって建立された。念仏は四方浄土への往生の業として唱えるもので、念仏講は、来世すなわち死後に対する信仰という面が強く、死後の世界の道案内者と信じられていた地蔵像を建立することが多い。この地蔵菩薩立像は、現在の常盤橋陸橋付近にあったが、環状七号線施設工事のおり、旧若林村の名主であった根岸家の敷地内に移され、昭和五十七年、現当主根岸武守氏により当館に寄贈された。

地蔵菩薩の右隣に狐の石像庚申塔

【狐の石像】
銘文 
なし
伝来 
主神に従属し、その先触れ(みさき)となって働く神霊や小動物のことを「使わしめ(神使・神令)」という。狐は、稲荷の使わしめであるが、「伊勢屋稲荷に犬の糞」という江戸の諺の通り、世田谷の村々でも屋敷神に稲荷を祀ることが多く、これが具象化されて祠の前に鎮座した。この石像は、昭和五十二年に三宿の大江淳一氏から寄贈されたものである。


【庚申塔】
銘文 
〔正  面〕 奉建立  庚申塚  享保十三年 申五月十日
年代 享保十三年(1728)
伝来 
この庚申塔の本尊は、病魔・病鬼を払い退くとされる六臂三眼・憤怒相の青面金剛で、三尸を模した「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を踏みつけている。小野亀善氏(三軒茶屋一ー十九ー八)が、昭和二十年頃某家よりもらい受け自宅に安置していたものである。昭和五十一年八月当館に寄贈された。当所の設置場所は不明。

④更に、庚申塔が2基続く。

【庚申塔】
銘文 
〔左側面〕 東ハ赤坂道
     〔正  面〕 庚申供養  西ハ大山道 講中八人  延喜四丁卯十二月吉日
     〔右側面〕 右 めくろミち
     〔背  面〕 □□道

年代 
延享四年(1747)
伝来 
この庚申塔は、旧大山道に面して(駒沢ニー十七ー一)あったが、昭和六十年十一月に当該地の加藤登喜一家から当館に寄託された。
     平成十五年一月 世田谷区教育委員会

【庚申塔】
銘文 〔
左側面〕 北 府中道  (文化カ)  □□十三丙子年□月吉日
     〔正  面〕 庚申塔 東目黒道  瀬田村
     〔右側面〕 南 六かう(六郷)道
年代 
文化十三年(1816)
伝来 この庚申塔は、昭和三十年代には旧瀬田町会事務所敷地内にあったが、昭和四十八年十一月に当館に寄贈されたものである。当初は現瀬田一丁目と上野毛三丁目との境になっている現駒沢通り付近にあったのではないかといわれている。

⑤次いで、供養塔標石

【供養塔】
銘文 〔
左側面〕 右 府中道
    〔正  面〕 文化十四年  (梵字)馬頭観世音  二月吉日
    〔右側面〕 左 大山道  用賀村
年代 
文化十年(1813)

伝来 
農家にとって、馬は収入の源であり財産であった。馬頭観音は、命を失った馬を弔うために建立された供養塔である。この供養塔は、用賀四ー十一ー一の三叉路にあったもので、道標を兼ねていた。
 昭和初期、近くにあった火の見櫓撤去の際に取り外され無量寺門前に移設されていたが、昭和四十二年に無量寺より当館に寄贈された。


【標石】
銘文 
〔正  面〕 品川領用水御普請所  天保七申歳二月
年代 天保七年(1836)
伝来 寛文二年(1661)、熊本藩主細川越中守綱利の弟・若狭守利重が品川領戸越に抱屋敷を取得したが、その邸内の泉池用に、野川村新川より仙川養水を分水して戸越浄水を開削した。
 仙水養水は境村(現武蔵野市)から玉川上水を分水したものであった。細川家ではこれを寛文六年に廃止したが、早損に苦しんでいた品川領宿村の農民がこの古堀を用水として賜りたいと願い出て、翌七年幕府の許可を得た。灌漑用水としては細小だったため、同九年幕府は水路の拡張工事を行なった。
 品川用水は、本区だけでも烏山・粕谷・廻沢・船橋・世田谷・弦巻・世田谷新町・馬引沢の旧発か村を流れ、全長七里(約二十八キロメートル)にも及ぶものであった。上流で数カ所の分水口が設けられてことなどから、品川領宿村までの引水量は充分ではなく、用水をめぐる争いが絶えなかった。

⑥最後に、これから訪れる用賀3丁目の旧道と新道が合流するところに立っていた庚申塔が移設されてある。

【庚申塔】
銘文 
〔左側面〕 右り 江戸道
     〔正  面〕 庚申塔
     〔右側面〕 左り 世田ヶ谷四ッ谷道
     〔背  面〕 文政十丁亥年十一月吉日  用賀村講中

年代 
文政十年(1827)
伝来 
中国の道教では、人間の体内にいる三尸が庚申の夜に抜け出し、天帝にその人の罪過を告げるというので、庚申の夜には身を慎んで徹夜をせよと説いた。この守庚申の信仰は、日本に伝わり奈良・平安時代には宮廷を中心に広まったが、民間に浸透するにあたって仏教や神道の影響を受け変容した。江戸時代には庚申堂が建てられ、庚申講が組織されるようになった。
 この庚申塔は用賀下講中によって建立されたもので、道しるべの役割を持つものである。青山大山道が三軒茶屋で二手に分かれて用賀三丁目で再び合流する地点にあったものである。交通量の増加に伴って、一時真福寺境内に保管されていたが、同寺から当館へ寄贈されたものである。


 石碑群を見た後に、資料館を見学する。
 世田谷区郷土資料館は、区政30周年事業の一環として昭和39(1964)年9月10日に開設された都内最古の公立地域博物館である。館内撮影禁止。
 本館に入って、1階に玉川上水木樋が展示、2階は常設展示室で世田谷区に関する歴史・民俗資料が原始から近・現代に渡って展示されている。また、新館2階は企画展示室となっている。
 玉川上水木樋と三軒茶屋にあった石橋楼の説明文の冒頭を控えたので載せる。

【玉川上水木樋】
 玉川上水は、江戸市街の拡大によって、江戸市民への飲料供給を目的として承応2年(1653)に開削された。武州羽村で多摩川の水を取り入れ、水路は台地上の尾根を選んで開削されたが、四谷大木戸からは暗渠となり、江戸市中へ木樋と石樋で配水した。

【石橋楼】
 石橋楼は、明治二年(1869)に、それまで太子堂村大塚坂で茶屋を営んでいた矢部ふじなる婦人が、三軒茶屋という地名の由来ともなった三軒の茶屋の一つ「信楽」を買い取って、料亭と旅宿を兼ねた店を営業したものと伝えられる。


<昼食> 12:00~12:30
 世田谷城址豪徳寺に寄り道する為、代官屋敷・資料館から3本目の道を右折して「世田谷通り」を横断、更に、東急世田谷線の「上町駅」の踏切を越えて北上する。
 その「上町駅」向いのそば屋で昼食をとる。


【世田谷城址公園】 (右奥) 12:35~12:45
 大山街道から分かれて450m程進んだ所に世田谷城址公園がある。
 入口に案内板城の説明板が立ち、そこから石段を上がった所が郭跡、その左上が土塁、土塁の後ろ側(左手)に進むと堀跡ともう一つの土塁が残っている。


東側公園入口
【世田谷城址公園】
 世田谷城の南東端の郭を中心とした一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てている堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。

後ろが東側土塁で、その後ろが郭
【世田谷城跡】 都指定旧跡
 世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。十四世紀後半に吉良治家
(はるいえ)が居住したのに始まると伝える。
 吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、十五世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・大田道灌に与力し、十六世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄三年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正十八年(1590)豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
 世田谷城の濠・土塁の構造は天文六年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、十六世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。
    平成十四年十一月 世田谷区教育委員会

西側入口から見た西側の土塁
【吉良氏と世田谷城】
 世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。
 貞治5年(1366)、吉良治家によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文章から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。
 応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の大田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。
 その後、吉良頼康の代には、小田北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。
 その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。

【城郭構造】
 世田谷城は目黒川の支流、烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。
 城郭の構造として中央に位置する郭は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台地の土塁に囲まれています。
 世田谷城址公園には、土塁と堀の一部が残されています。
 世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭を中心として複雑に展開する8カ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられます。
     平成22年 世田谷区

【豪徳寺】 (右奥) 12:47~13:15
 世田谷城址公園の西側に出て、次の道を右折すると、すぐ巨木の松並木が続く豪徳寺の参道になる。

【豪徳寺参道の松並木】 地域風景資産(平成26年3月選定)
 
松の巨木がつくりだす、トンネルの様な参道の松並木は、豪徳寺と一体となって風格のある風景を生み出している。
     世田谷区

 松並木の緑の参道を進み、山門をくぐって境内に入ると、今度は一転して真っ赤な紅葉が出迎えてくれた。

 豪徳寺は、せたがや百景「招き猫の寺」(昭和59年10月選定)としても有名である。
 一説に、彦根藩二代藩主井伊直孝が鷹狩りの帰りにこの前を通りかかると、寺の飼い猫が手招きをしたので、この寺で一休みすることにした。
 その時、急に雷雨になり、直孝は「猫が招いてくれたおかげで、ずぶ濡れにならずに済んだ。これは縁起がいい。」と喜んだと云う。

 もう一つの説は、直孝が突然の雷雨にあい、木の下で雨宿りをしていた時、傍の寺の飼い猫が手招きするので、不思議に思って猫に近づいた時、今まで雨宿りしていた木に雷が落ちた。猫に命を救われたとこの寺に寄進をしたと云う。 
 境内に入った右手の鐘楼近くの紅葉は最高に綺麗だった。

 境内に入った正面に仏殿が建っていて、前面の枝垂桜の前に豪徳寺と仏殿の説明板が立っている。

【豪徳寺仏殿】 世田谷区指定有形文化財(平成2年2月15日指定)
   附◎棟  札  一枚
     ◎石灯篭  二基
   規     模  桁行(間口) 五間(実長十七・七六メートル)
             梁行(奥行) 六間(実長十五・八二メートル)
 豪徳寺仏殿は、寛文から延宝にかけて行なわれた大造営事業の中心的建造物である。この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりである。
 仏殿は、掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために延宝四年(1676)、建設に着手し、翌延宝五年(1677)に完成した。豪徳寺四世天極秀道の代で工匠星野市左衛門尉積則らが造営に当った。
 
当寺流行した黄檗様式の影響が随所に見られるとともに絵様肘木など特異な様式が使われており、建築史学上、また技術的にも価値の高いものである。
     平成二年九月 世田谷区教育委員会

 仏殿の右手前には鐘楼が建っていて、梵鐘は世田谷区の有形文化財となっている。

【豪徳寺の梵鐘】 世田谷区指定有形文化財(工芸品) (平成12年11月28日指定)
  制作年代  延宝七年(1679)
  作   者  近江大掾藤原正次
  材質・構造  銅鋳造
  総   高  一四七・五センチ
 本梵鐘は、延宝七年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。
 形姿は、比較的細身で近世のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。
 製作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大橋市之丞吉寛が幹事となっている。
 本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品として美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現在最古であり、世田谷に縁ある人物がその製作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。
     平成十二年十二月 世田谷区教育委員会

 仏殿の後ろに本堂とその左に仏舎利塔がある。

【大谿山豪徳寺(曹洞宗)】
 豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立した伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(1584)中興開山門菴宗関(もんなんそうかん)(高輪泉岳寺の開山)の時臨済宗から曹洞宗に改宗した。
 寛永十年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当寺のままに現在に伝えている。
 境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝篋印塔が残されている。
     平成四年 世田谷区教育委員会


 ちなみに、直孝の法号は「久昌院殿豪徳天英大居士」である。

 仏殿の左手には2006年建立の三重塔が建ち、紅葉と重なって美しかった。
  東面  西面  三重塔横(後ろは仏殿)

 三重塔の
北側を奥に進んで行くと広大な井伊家墓所がある。


墓所(左奥に直孝、右手前に直弼の墓がある)

奥の中央が二代藩主直孝の墓
【彦根藩井伊家墓所】 国指定史跡(平成20年3月28日指定)
 井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(1575)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(1600)の関が原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く二代直孝も大阪夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷に合わせて三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までのこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に接近し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
 寛永十年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩士や家族がここに葬られた。
 墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩士や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
 墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1698)に建てられた。直孝が没したのは万治二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
 また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。
 彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。
     平成二十年三月 世田谷区教育委員会

十三代藩主直弼の墓
【井伊直弼墓】 都史跡(昭和47年4月十九日指定)
 井伊直弼(1815~60)は彦根藩主直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで安政五年(1858)四月大老になる。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ヶ国条約に調印。また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に安政七年三月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
 世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬された。
 墓石の高さは三四二センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎柳暁覚翁大居士」とある。
     昭和四十七年十月三十日 建設 東京都教育委員会

【大山道 道標】  (右側)13:32
 大山街道に戻り、西に進んだ直ぐの「世田谷通り」を渡って突当りを左折。また直ぐ「世田谷通り」のX字形になっている「桜小前交差点」を渡って直進する(「世田谷通り」からは左斜めの道へ入る)。
 「世田谷一丁目」から「弦巻五丁目」に入った次の右角にある「鈴正畳店」前(「進入禁止」標識の左下)にレプリカの道標が建っている。

 本物は、前述の【世田谷区立郷土資料館】新館前に移設されている(①「大山道の道標」参照)。
 本物と同型のこの地にある道標には、
 
ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す
           財団法人 大場代官屋敷保存会
           世田谷上町町会          』

と刻まれている。

【大山詣をする旅人の像】 (左側) 13:38~13:45
 五さ路を越えて、次の十字路から少しだけ緑道がある。

 左の写真の石段を登ると、街道の左上のマンション前に次の交差点まで1ブロックだけ緑道がある。

 その緑道が終わって信号のある道を渡った向かいの公園の左側に大山詣をする旅人の像が建っている。

【大山詣】
 
江戸時代中期、関東一円の農村には雨乞いのために、雨降り山とよばれる丹沢の大山に参詣する習慣がありました。これを大山詣といいます。赤坂見附から、青山、世田谷、ニ子、溝ノ口、長津田、伊勢原を経て大山に至るこの道は、俗に大山道とよばれていました。世田谷区内の大山道は、三軒茶屋、世田谷通り、ボロ市通り、そして弦巻を通って、用賀、二子玉川に行っていました。
 しかし、大山詣はしだいに、信仰は口実となり、帰り道東海道に出て、江ノ島や鎌倉で遊ぶ物見遊山の旅に変わってきました。この像は、そんな大山詣をする商家の主人をモデルに、たぶん一服しただろうと思われるこの場所に設置したものです。
     昭和六十年三月 世田谷区
 また、右側には、蛇崩川 洗い場跡の石柱が立っていた。
 この辺りに、農家が市場に野菜を出荷する時に使っていた洗い場の跡があったのだろう。

【地蔵菩薩・馬頭観音】 (右側) 13:52
 次の信号、「弦巻四丁目交差点」右角、コンビニの前に地蔵菩薩馬頭観音が屋根付で並んで建っている。

 地蔵の台座の文字は擦れて読むことが出来なかった。

【昭和薬科大学世田谷校舎跡地】 (右側) 13:58
 次のX字型の「陸上自衛隊交差点」手前、三角点に昭和薬科大学世田谷校舎跡地の石碑が置かれている。跡地にはマンションが建っていた。

 この交差点を右折すれば「陸上自衛隊用賀駐屯地」、その先「弦巻五丁目交差点」迄行けば「馬事公苑」がある。

 昭和女子薬科専門学校 昭和29年~昭和26年
 昭 和 薬 科 大 学  昭和24年~平成 2年
  延べ一万人の薬学生が此の地より巣立った
  平成2年4月東京都町田市に移転
     平成14年1月建立 賀っこ法人昭和薬科大学

【衛生材料廠跡】 (右側) 14:01
 「陸上自衛隊交差点」を渡ると「上用賀」に入り、直ぐ先右側の「国立医薬品食品衛生研究所」入口に衛生材料廠跡の石標が立っている。
 また、門の前には国立医薬品食品衛生研究所の沿革が掲げられていた
(下の写真で妻が見ている掲示板)

【沿革】
 国立医薬品食品衛生研究所は、明治7年(1874年)に医薬品試験機関としての官営の東京司薬場として発足した。わが国で最も古い国立試験研究機関である。その後、明治20年(1887年)に東京衛生試験所と改称された。
 大正3年(1914年)には、第一次大戦の影響により、医薬品の輸入が途絶えたため、重要医薬品の製造を開始し、多くの医薬品の国産化に成功した。その結果、それまでの輸入に依存していたわが国の製薬産業の近代化の基盤が確立した。
 大正11年(1922年)には、春日部に薬用植物栽培試験場が設けられ、試植研究等が開始された。
 昭和13年(1938年)に厚生省の発足に伴い、厚生省の所管となった。昭和21年(1946年)には、神田和泉町の庁舎から現在の用賀に移転し、昭和24年(1949年)には、国立衛生試験所と改称され、大阪衛生試験所は大阪支所となった。
 昭和53年(1978年)には、毒性部、薬理部、病理部、変異遺伝部から成る安全性生物試験研究センターが設置され、近代的な動物実験設備と共に、わが国における安全衛生試験研究の中心的役割を果たす責任が課せられることとなった。
 昭和55年(1980年)には、春日部の薬用植物栽培試験場が筑波に移設され、筑波薬用植物栽培試験場となり、内容の強化とともに、北海道、伊豆、和歌山および種子島の各試験場との研究連絡をはかる体制が確立した。
 昭和60年(1985年)以後、新剤形医薬品や遺伝子組み換え医薬品のほか、医用材料、新開発食品、天然添加物など新たに評価の必要な対象物質が生まれてきた。さらに、安全性評価のための新しいリスクアセスメントが必要となった。
 
平成9年7月、医薬品等の承認審査等薬事行政全般の見直しが行なわれ、国立衛生研究所から国立医薬品食品衛生研究所に改称するとともに、医薬品等の承認等審査を行なう医薬品医療機器審査センターを新設した。
 平成14年4月、食品関連部門を統合するなど国立試験研究機関の再構築を行い、伊豆薬用植物栽培試験場を廃止し、新たに遺伝子細胞医薬部、食品衛生管理部、医薬安全科学部の3部を設置した。
 平成16年4月、ゲノム科学等を応用した画期的な医薬品開発等の基盤となる研究を行なうため、大阪支所の組織を改編し、大阪府茨木市に移転した。
 平成17年4月、医薬品技術および医療機器等技術の向上のための基盤技術を図ることとして、独立行政法人医薬基盤研究所が設置され、細胞バンク部門、大阪支社および薬用植物栽培試験場(北海道、筑波、和歌山、種子島)が移管された。
 これにより、世界的な視野に立った活力ある試験・研究を行なうとともに、関連分野における国際協力を支える機関としての責任を果たしている。

【大山道追分】 (右側) 14:08
 「上用賀一丁目交差点」をすぎ、「用賀3-10」から下り坂。
 下り終わったX形十字路の右角に大山道追分と刻まれた石標が立っている。

 この左後ろからくる道が、桜新町を経由してきた大山道新道で、ここで旧道と新道が合流する。大山道は直進する。
 かつてここには、前述の【世田谷区立郷土資料館】本館前の一番右側に移設された庚申塔(⑥「庚申塔」参照)が置かれていた。

【用賀宿】 
 大山街道旧道(上町ルート)と新道(新町ルート)が合流した場所に用賀宿があった。真福寺の門前町でもあり、規模は小さかったが、大山街道の宿場町として栄えた。


【真福寺】 (右奥) 14:12~14:19
 大山道追分を過ぎ、最初の十字路を渡った直ぐ先に真福寺入口がある。

 入口右側には、『真言宗・智山派 瑜伽山真福寺』の標柱が建ち、その右下に『三界萬霊』と刻まれた石碑、また、道の左側にも石碑が建っていて判読しづらかったが、一番下に『六道』とあった。

 三界
(さんがい)は、一切衆生の生死輪廻する三種の世界、即ち、欲界・色界・無色界。
 六道は、衆生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界、即ち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天。

 参道を行くと赤い山門があり、「玉川八十八ヶ所霊場 第三十九番」とあった。

 真福寺は、飯田図書が開基、法印宗円和尚が開山となり創建したと云う。
 飯田図書は小田原北条氏に仕えていたが、元禄~元亀年間(1588~1572)に父帯刀と共に用賀村に来て村を開拓したと云われている。
 用賀では勢力を強め彦根藩の代官職も務めた。その当時は2名の代官制をとっていたようだ。
 
 山号の「瑜伽
(ゆが)」はサンスクリット語でヨガのことで、用賀の語源もヨーガからきたとのこと。
 また、山門が赤い為、赤門寺とも呼ばれている。

 山門をくぐると左手に庚申堂太子堂が並んでいる。

【庚申堂 太子堂由来】
 武州荏原郡用賀村字向ノ高橋霊太郎 鈴木長兵衛ノ両世話人ハ講中廿五名ト共ニ弘化四年 秋 地区街道安全ト村民徐災獲福祈願ノ為庚申像ヲ又嘉永年間職方ノ守リ本尊トシテ聖徳太子像ヲ建立(現用賀町一のニ三三)□此度□境内地ヲ消防署拡張用地トシテ提供ノ為 講中總会議決ヲ得テ□□堂ヲ真福寺境内ニ移転スルモノナリ
     維持 昭和三十九年十月二十五日

 続いて本堂手前左側の六地蔵の左隣に芭蕉句碑が建っている。

 みちの辺の 木蓮は馬に 喰われけり  芭蕉翁

【用賀駅】 (右側) 14:20~14:30
 街道に戻り、緩い左カーブすると東急田園都市線の用賀駅(地下駅)に到着する。
 「用賀駅」の北口は古代の円形劇場の様な階段があり、これを下りて地下商店街でトイレに寄り、ベンチで数分の休憩をした。
  


【延命地蔵】 (右側) 14:36
 「用賀駅」を後にするとすぐ首都高3号渋谷線の下にある「田中橋」を渡る。
 その先二股になっている所に延命地蔵がある。

 旧道はこの二股を右斜めに進み、新道は真直ぐ進む。
    


【笠付庚申塔】 (左側) 14:46
 上記二股道を右に入り、少し進むと「環八通り」にぶつかるが中央分離帯があるため真直ぐ横断出来ない。しかたがないので、右手の信号へ迂回して環八を渡る。
 更に暫く進むと、瀬田教会(聖アントニオ神学院)に突当るので、右折して進むと次の十字路を渡った慈眼寺の参道入口左側に、赤い前掛けを着けた笠付庚申塔が建っている。

 標柱の右横にはもう一つの庚申塔と馬頭観音も建っている。
 笠付庚申塔には、三猿の上に青面金剛が乗り、元禄十年(1697)二月二十日と刻まれている。

【慈眼寺】 (右側) 14:48
 大山道は、慈眼寺参道に入る前の十字路を左折して急坂を下って行くのであるが、突当りに仁王が納まる慈眼寺の山門が建っているので、そちらに進む。

 門は閉じられているので、左手から境内に入る。門も本殿も比較的新しい。
 山門前の標柱には『真言宗・智山派 喜楽山教令院慈眼寺』と刻まれ、開山は法印定音、開基は長崎四郎左衛門。

 
寺伝では、徳治元年(1306)法院定音が仏の教えを説きながら各地を回っていた途中、この地を訪れた時に、崖の中から出てきた『降三世明王』を里人から譲られ、ここに小堂を建てて祀ったのが始まりと云う。

【瀬田玉川神社】 (右側) 14:49~14:53
 寺眼寺山門前を左に進むと、そのまま瀬田玉川神社境内に入って行く。こちらは脇参道になっている。

 瀬田玉川神社は急峻な崖の上にあり、長崎家が造営した社殿が古墳の上に建てられている。
 したがって、社殿前の本参道は石段で大山街道まで下って行くことになる。
 大山道に出ると急な下り坂になっていて、改めて神社が崖の上に建っていることが実感できる。

【玉川大師】 (右奥) 14:56~15:14
 坂を下った右手に、身延山関東別院玉川寺
(ぎょくせんじ)があるが、寄らなかった。
 玉川寺を過ぎた次の道を左折して75m程行くと「玉川教会」の隣に玉川大師がある。ここの奥の院地下霊場は完全な暗闇の中を巡ることで有名なお大師様である。
 本堂にあがり、左手の入口で100円のお賽銭を置いてスリッパに履き替え、地下に降りてゆく。中は一筋の光も無い完全な暗闇で、細い下り坂を壁伝いに「南無大師遍照金剛」と唱えながら進んで行く。
 男でも一人で進むには勇気がいる程の経験をしたことの無い真の闇である。暫く進むと四国・西国両霊場のお大師様・観音様が暗闇と交互に出迎えてくれる。

【奥の院地下霊場 遍照金剛殿】
 この仏殿は、私たちのいのちの根源である巨大な”秘仏大日如来さま”の胎内を表わす。本堂直下より境内の地下一円に及び、四国88か所西国33番両霊場のお大師さま・観音さまを悉くお迎えし、有縁の方々に結縁す。
 至心に順拝修行すれば、心身ともに清浄となり、そのまま無辺の大慈悲に浴し、生きる力と幸福が授かる。
 竜海和尚心血注いで昭和九年完成した本邦稀有の秘密マンダラ大殿堂なり。石仏総数三百尊体、深さ約五米、参道約百米、鉄筋コンクリート造りの奥の院。
     (パンフレットより)
【地下霊場順拝法則
▼一切の明かり(懐中電灯・ローソク等)を禁ず。
▼必ず静粛を保ち、「南無大師遍照金剛」と念じて下さい。
▼土足を禁ず(特に、お砂ふみ修行は素足で)
▼順拝時間 9時より4時30分まで

【治大夫橋・次大夫堀】 15:17
 街道に戻って、次の「NTT瀬田前交差点」前の次大夫堀治大夫橋が架かっている。
 橋を渡る前の左に次大夫堀の標柱と橋の説明板(ニ子玉川周辺案内図付)が掲げられている。
 また、橋の親柱と欄干下の土台にニ子の自然と題する花鳥風月が描かれていた。



 
【治大夫橋(じだいゆうはし)
 治大夫橋・・次大夫堀の上を渡る大山道
大山道(おおやまみち)
 大山道とは、大山詣りの道のことで、大山は神奈川県伊勢原市にあります。世田谷を通る大山道は、江戸赤坂御門を起点とし、二子玉川で多摩川を経て、伊勢原から大山まで続いています。二子玉川には、ここ治大夫橋を渡る大山道と、行善寺の東側を通る大山道があります。
次大夫堀(じだゆうぼり)
 慶長年間、徳川家康が主として下流の六郷地方の米の増収をはかるため、代官小泉次大夫吉次に命じて切り開いた灌漑用水で、世田谷地方の人々は「治大夫堀」(同・六郷用水、現・丸子川)と呼んでいました。
     世田谷区

【大山道道標】 (右側) 15:27
 治大夫橋を渡り、「二子玉川小学校」前を過ぎ、小学校の後ろで「玉川通り」から分かれた「厚木街道」と呼ばれる国道246号の高架にぶつかったら左折して国道をくぐり、すぐ右折して国道の反対側を道なりに進む。
 程なく「多摩堤通り」に突当った右角に大山道道標(近代の標柱)が建っている。
        多摩川へは、道標前の信号を渡り、右斜め(写真で自転車が進んでいる方向)に下りて行く。


【兵庫島】 (右側) 15:30~15:37
 上記の右斜めの道を下りて行くと、野川に架かる兵庫橋に出る。
 「兵庫橋」を渡ると野川と多摩川の間の三角州にある兵庫島公園に入り、すぐ左に「兵庫島公園周辺ご案内」板が立っている。
 地元のご婦人の教えに従って、公園の多摩川縁から西を見ると「新ニ子橋」の西詰めの二つのビルの間から富士山が見えた。大山もかつては見えていたがビルの陰になって見えなくなってしまったとのこと。
 下の写真は、兵庫橋から「公園」、「野川」、「新ニ子橋」を望んだところ。

【兵庫島の由来】
 兵庫島はもともと多摩川と野川との吐き出す泥砂の堆積により形成されたデルタであり、現在の位置より一町程上流にあって完全に島の形をなしていた。しかし、たびたびの洪水により移動をかさね、現在ではほとんど陸つづきの1つの洲に過ぎなくなっている。
 この兵庫島の由来は、正平13年(1358)に新田義貞の子義興が、鎌倉の足利基氏を討ち新田家の再興をはかろうと、上野国(群馬県)から13人の従者とともに鎌倉に兵を進めたおり、多摩川の矢口の渡しで江戸荘の領主江戸近江守らの策略とは知らずに、さし向けられた船に乗ってしまった。船頭は、かねて仕かけた船底の栓を抜き、櫓を流して水にとび込んで逃げてしまった。船は沈みかけ、鎧、兜の武士たちは身動きができず、同時に両岸からは江戸ら数百の軍勢がとき声を挙げて矢を射かけた。もはや、これまでと義興は自害したが、気強い従者は対岸に泳ぎつき、群がる敵兵を切りまくって自害し果てるものもあった。中でも由良兵庫助、同左衛門兄弟は、へさきに立ち、刀を逆手に取り直して互いに自分の首を切り落とした。その壮絶な死をとげた由良兵庫助の屍がデルタ(兵庫島)に流れついたことに起因している。


 2回目の旅終了(15:40)。二子玉川駅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、6.6Km(三軒茶屋駅~二子橋北詰)
          赤坂御門から旧道ルート経由で、三里二十一町(14.1Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、12.1Km(三軒茶屋駅~二子玉川駅)  累計:25.7Km

          5時間40分 20,400歩。



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