大山街道(1) 赤坂御門 ~ 三軒茶屋

2014年11月23日(日) 晴

  永田町駅を9:30スタート。夫婦二人旅。

(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)

「目次」 → 「三軒茶屋 ~ 二子玉川駅西口(旧道ルート)」


【赤坂御門】 
 地下鉄「永田町駅」の9A出口を出て右に回るとすぐ赤坂御門跡がある。



【史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門】
 正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していませんが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門を見ることができます。
 赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
 明治時代以降、門が撤去され、その石垣も図のように大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。



 江戸時代の古地図を見てみると、赤坂御門から現在の「赤坂見附交差点」迄出てゆく道の両側は堀で、御門を出て右側は現存する弁慶濠、左側には溜池があった。
 溜池は和歌山藩主浅野幸長らが築いた人造湖で、外濠と上水道の水源を兼ねていて、「赤坂見附交差点」から「外堀通り」を東に行き、「六本木通り」と交差する「溜池交差点」を過ぎた「特許庁前交差点」辺りまであった。

 溜池があった所は、現在は衆・参議院議長公邸、ホテル、日枝神社、首相官邸、特許庁等が建っている。

【赤坂見附跡】 ~9:36
 赤坂御門の説明盤の左隣に赤坂見附跡の説明付標柱が立っている。

【赤坂見附跡】
 
左側にある石垣は、江戸城郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。詳しい説明は、右に坂を登った角にある説明番に記されています。
     平成十六年三月 千代田区教育委員会

【弁慶濠と弁慶橋】 (右側) 9:39
 右手、弁慶濠弁慶橋が架かっている。

 ここの弁慶橋は明治22年(1889)に架けられたもので、それ以前はこの場所に橋は無かった。
 橋名の由来は二説あり、一説には、江戸開府の頃、この外濠を築造した弁慶小右衛門の名前から弁慶濠の名が付き、明治に架橋されたとき濠の名に因んで命名されたと云うもの。
 もう一説は、江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小左衛門が東神田の藍染川に作った弁慶橋を、後にこの場所に移設した時、そのまま同じ名前で呼んだと云うものである。

 現在の橋は昭和60年(1985)11月に架け替えられたコンクリート橋製となっている。
 橋の袂には「弁慶フィッシングクラブ」があり、貸しボートで釣りが出来、かなり大きなバスも釣れているようである。

【九郎九坂(くろぐざか) (右下) 
 弁慶橋の袂から「青山通り」(国道246号)に移り、国道の右側を進むと、歩道橋の先に豊川稲荷がある。
 神社総門の手前の右に下る坂が九郎九坂


豊川稲荷 (右側) 9:47~9:55

 九郎九坂(左の写真で木柱が立ってる右に下りる坂)の入口から石段を十数段上ると豊川稲荷総門(山門)があり、門の手前右側に総門再建記念碑と、縁起が並んで建っている。

 総門の開門は午前六時で、閉門は午后八時。


【豊川稲荷縁起】
 豊川稲荷は稲穂を荷い白狐に跨り
(またがり)給うお姿の豊川○を合わせた文字)枳尼真天(とよかわだきにしんてん)にましまし 今から凡そ七百余年の昔 順徳天皇第三
皇子寒巌義尹禅師によってなじめて感見され それより代々伝えられて 嘉吉元年(西暦1441年)旧十一月二十二日豊川の霊場豊川閣妙嚴寺に奉祀されました 尓来福徳の善神として広く御信者の皆様に信仰せられて今日におよんでおります
 当山は愛知県豊川閣の東京別院で 江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公が生涯の守護神として日夜信仰せられた由緒ある豊川○枳尼真天の御尊像をおまつりする霊場であります。

 ここは「稲荷」と呼ばれるので「狐を祀った神社」を想像したが、豊川稲荷の正式名称は「豊川閣妙嚴寺」と称する曹洞宗の寺院で、お祀りしているのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天であった。
 本殿前には狛犬ではなく狐だったので益々神社だと勘違いしてしまう。豊川ダ枳尼眞天が稲穂を荷い、白い狐に跨っていることからいつしか「豊川稲荷」が通称となって広まったとの事である。
 総門から境内に入ると左に「お守り授与所」、右に「稲荷会館」があり、会館の左隣で境内の真中に本殿が建つ。

【東京・赤坂豊川稲荷別院の御縁起】
 豊川稲荷は昔、順徳天皇第三皇子寒巌禅師が最初感得された稲穂を荷い白狐に跨り給う端麗なお姿の豊川○枳尼真天という霊験あらたかな仏法守護の善神です。
 当別院は江戸時代、大川越前守忠相公が信仰された由緒あるご尊像をまつり、もと赤坂一ツ木の大岡邸あったものを、明治20年、現在地に奉遷し、愛知県豊川閣の直轄別院となり今日に至ったものです。
     (パンフレットより)

 境内のあちこちに七福神の石像が祀られていた。

 本殿の左隣には「奥の院」(左の写真)と「三神殿」と並び、これらの参道には奉納された「千本のぼり」がはためいていた。

東京・赤坂豊川稲荷別院千本のぼり)】
 願いの叶ったお礼として、また家内安全・商売繁盛・交通安全・心願成就と、それぞれの願いをこめたのぼりが、奥の院一帯の参道両側にギッシリと奉納されております。
     (パンフレットより)
 「本殿」と「奥の院」の間の手前に「大岡越前守御廟」が建っている。

【開基大岡越前守忠相公御廟】
 
大岡越前守忠相公は、妙厳寺十九世哲翁万牛禅師に帰依して禅機を証得され、邸内に豊川稲荷社をまつって深く信仰し、政務を遂行した名奉行として今なお名声を轟かせております。
     (パンフレットより)

【牛鳴坂】 10:00
 豊川稲荷からは向かいの旧道に行きたいが、目の前の「青山通り」は渡れない為、少し戻って横断歩道を使う。左側に渡ったら、すぐ左斜めの上り坂道に入る。この上り坂を牛鳴坂と言う。
【牛鳴坂】
 うしなきざか 赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう。


【弾正坂】 10:05
 牛鳴坂を登りつめた左側「山脇学園」前の右へ下る坂を弾正坂と言う。
【弾正坂】
 だんじょうざか
 西側に吉井藩松平氏の屋敷があり、代々弾正大弼(だいひつ)に任ぜられることが多かったため名づけられた。


【薬研坂】 10:10
 旧道が「青山通り」に合流する直前で左に下る坂が薬研坂。

【薬研坂】
 やげんざか
 中央がくぼみ両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。

 ここで、大山街道から離れて、左の薬研坂を下って、雷電為右衛門の墓・勝海舟邸跡・長谷川平蔵の生誕地・浅野内匠頭夫人の遥泉院が身を寄せた氷川神社を見学する為、寄り道をする。


【三分坂】 10:20
 薬研坂を下って登って突当りを右折する。 突当りの左手に「TBS放送センター」がある。
 TBS前辺りから突き当りを右折した短い下り坂を三分坂と言う。
【三分坂】
 さんぷんさか 急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。


【報土寺】 (左奥) 10:22~10:30
 三分坂を下った十字路の右角に報土寺がある。
 三分坂に面した寺の塀は、築地塀(練塀)と呼ばれる弓なりの珍しいものである。

【築地塀(練塀)】 東京都港区文化財総合目録登録(平成十年九月一日)
 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿って造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
     東京都港区教育委員会

 門を入ると右手に雷電為右衛門が寄進した梵鐘がある。

梵鐘】 港区の文化財
 報土寺の梵鐘は、文化十一年(1814)三月に雷電為右衛門が寄進したものが有名です。竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿で、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。現在の鐘は、明治四一年(1908)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。
     東京都港区教育委員会

 正面本堂の左横を奥に入った墓地に雷電為右衛門の墓がある。雷電の墓は墓地に入った左側の塀沿いに少し進んだ所で墓石の前に丸い石が置かれている。

【雷電為右衛門の墓】 
 明和四年(1767)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、願容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
 天明四年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(1790)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。
 雲州(島根県)松江の松平候の抱え力士であったが、引退後も相撲頭に任ぜられている、文化十一年(1814)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取り壊させられた。
 文政八年(1825)江戸で没した。
     昭和五十年十二月 東京都港区教育委員会

 他に伊部香山墓もあるとのことだがこちらは見つからなかった。
【伊部香山墓】 東京都指定旧跡(昭和30年3月28日)
 伊部香山(1794-1853)は江戸時代後期の儒学者(朱子学)です。名は鳴と言います。越後旭村に伊部孝節の第三子として生まれます。香山の号は故郷の妙高山に因んだものです。ニ七歳の時に江戸に出て葛西因是に学び養子にもなりますが、その後独立し伊部姓にもどります。築地の軽子橋に塾を開き、岸和田藩主岡部氏、飯山藩主本多氏など、香山に学ぶものが多くありました。天保一四年(1843)には老中水野忠邦に招かれ浜松藩の客需となり、門人は藩士三千人に及んだといわれます。著書に「大学講義二巻」などがあります。
     平成ニ四年三月 建設 東京都教育委員会


【長谷川平蔵生誕地】 (左奥) 10:35
 報土寺の門を出たら真直ぐ(三分坂を下りた十字路を左折)進み、「赤坂五丁目交番前交差点」を渡り、最初の十字路を左折した次の細道の右角あたり(現:赤坂6-11)が、長谷川宣以(のぶため)(平蔵)の生誕地と云われている。
 長谷川平蔵は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として有名で、斬り捨て御免の権限を持つ幕府の火付盗賊改方の長官として、盗賊達から”鬼の平蔵(鬼平)”と恐れられているが、江戸時代後期に実在した人物である。
 四百石の旗本である長谷川宣雄の摘男として生まれ、幼名を銕三郎といい放蕩の青年時代を過ごしたが、家督相続後は父と同じ平蔵を通称としていた。
 長谷川宣以:延享二年(1745)~寛政七年(1795)


勝海舟邸跡 (左奥) 10:40
 「赤坂五丁目交番前交差点」から二つ目の三叉路(長谷川平蔵生誕地へ曲がる次)を左折した先の三叉路の右角にある「Ristorante AKI」の生垣の中に、「ソフトタウン赤坂自治会」が平成七年十一月に建てた勝海舟邸跡の標柱とその下に説明板が掲げられている。

【勝海舟邸跡の記】
 
港区赤坂六丁目一〇番三九号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政六年(1858)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当所居住中の一〇年間が最も華々しく活躍した時期に当る。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政六年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国四丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂二丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚二十三歳で赤坂田町中通り=現赤坂三丁目一三番ニ号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 三十六歳からは赤坂氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年四十五歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治五年(1872)再び上京し、満七十六歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地=現赤坂六丁目六番一四号=に住み、参議・海軍卿、樞密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政七年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸艦長として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福澤諭吉らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
 文久二年(1862)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年三月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総監府参謀西郷隆盛と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第一回会議は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪三丁目のホテルパシフィックの地=で行なわれた。第二回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝五丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝五丁目の三菱自動車ビル周辺=で行なわれたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年五月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞江(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに対応し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木一丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束一丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
     平成七年十一月吉日 ソフトタウン赤坂管理自治会

【転坂】・【氷川坂】 (左奥) 10:42
 勝海舟邸跡の前をそのまま進み、突き当りを右折すると緩い上り坂になる。
 右折した次の角を左に上る坂が転坂で、正面の上りが氷川坂
【転坂】 
 
ころびざか
 江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。
 一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。
【氷川坂】
 ひかわざか
 八代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当る坂である。  


【氷川神社】 (左奥) 10:50~ 10:57
 氷川坂の途中、右側に氷川神社の入口がある。
 鳥居をくぐり、参道を少し進んで石段を登ると二番目の鳥居がある。広い境内に出ると右手に社殿、左手に天然記念物のイチョウ、正面奥に浅野土佐守邸跡がある。また、社殿入口門の内外に二基ずつ石燈籠が建っている。
 この日は、七五三参りの人がかなり出ていた。

【氷川神社社殿】 東京都指定有形文化財(建造物) (昭和27年11月3日指定)
 この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造の形式です。
 江戸幕府の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(1730)に建てられました。吉宗は『享保の改革』と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や色彩などで飾り立てたりするものですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また、全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
     平成ニ二年三月 建設 東京都教育委員会
【天然記念物 氷川神社のイチョウ】 東京都港区指定文化財
 目通り(地上一・五メートルの高さ)の幹径約ニ・四メートル、幹周約七・五メートルを測る推定樹齢四〇〇年の巨樹である。
 氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが、神社が現在の地に建立された享保十五年(1730)には、すでに一〇〇年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられる。
 イチョウは、生きた化石とも言われ、一億五千万年前には地球上のいたるところで生い茂っていた。氷河期に絶滅しかけたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたといわれる。落葉性の大木で成長も早く、高さ三〇メートルにも生長する。雌雄異株であり、この木は雄株である。
 港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。
     平成六年九月二十七日 東京都港区教育委員会
【浅野土佐守邸跡】 東京都指定旧跡(昭和30年3月28日指定) (昭和18年3月16日標識)
 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は、寛永九年(1632)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
 元禄十四年(1701)三月十四日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収の上、家は断絶となりました。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し搖泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(1714)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起った時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保三年(1718)に断絶となり、遺領は広島藩へ還付されます。享保十五年(1730)、現在の赤坂四丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。
     平成ニ五年三月 建設 東京都教育委員会
【氷川神社の石燈籠 四基】
 門の内外に立つ二対四基の石灯籠です。門内の本殿前立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現の元赤坂一~二丁目)の講中が、享保九年(1724)間四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。

【高橋是清翁記念公園】 (左側) 11:20~11:28
 街道に戻って「青山通り」に合流したら、次の左角に高橋是清翁記念公園がある。



 公園内の中央に和風庭園(左上の写真)が残り、その後ろには石像や石灯籠が並び、左奥の築山に是清の銅像(左下の写真)が建っている。


【高橋是清翁記念公園の沿革】

 この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家『高橋是清』翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅工事等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
 園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。
     平成7年 港区

【明治神宮外苑・絵画館前銀杏並木】 (右側) 11:40~11:48
 「青山通り」を西に進み「青山2丁目交差点」に来ると右手に絵画館前のいちょう並木が現れる。
 本日は、落ち葉による黄金の絨毯には少し早いが大勢の人で混み合っていた。
【明治神宮外苑の記】
 明治四十五年(1912)七月三十日に、明治天皇(第一二に代の天皇・今の天皇の僧祖父)、大正三年(1914)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(1920)十一月一日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行なわせられ、叉、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の歳月をかけて、大正十五年(1926)十月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御人徳をお偲びつつ、青少年の心身鍛錬の場として、或いは遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当たり、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
     大正十五年十月 明治神宮奉賛会 会長 徳川家達



【銀杏並木】
いちょう(銀杏・公孫樹)

 銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上古生代の末期(一億五千万年前、巨大な恐竜が生息していた時代)に地球上に広く分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。
 日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられており、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。
並木の総本数は一四六本(雄木四四本・雌木一〇二本)

 四並列の銀杏が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人口自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(1926)十月二十二日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。
 これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を提示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。
 この外苑の銀杏樹が、この世に実生えたのは、造園会の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年八十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(1908)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数一六〇〇本にもなりました。
 外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することなり、既に樹高六メートル内外に生長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十二年(1923)に植樹したものです。
 直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラクビー場)に至る二条の並木も同時に植えております。最高二十四メートル・目通り周り二メートル八十センチ、最低十七メートル・目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。
 この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植樹されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。
 樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしょうが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしょう。同じ時期に、同じ苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましょう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に成長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人口自然美を楽しませてくれることでしょう。
     平成御大礼の日 之を建つ
            平成二年十一月十二日 明治神宮外苑

【梅窓院】 (左側) 11:53~11:58
 地下鉄「外苑前駅」1b入口前の左側に梅窓院がある。

 風情のある竹林の参道を進むと不老門(左の写真)があり、そこをくぐると一転して近代的なビルが建つ空間に出る。
 境内に入って正面が墓地で、右手前は「SCSK青山ビル」だが、右奥に本堂がある。本堂は平成15年に完成したという近代的な建物だった。
 梅窓院は、寛永二十年(1643)徳
川家家臣、老中・青山大蔵少輔幸成が逝去の時、青山家の下屋敷内に側室を施主として建立された寺。
 
青山の地名はこの青山氏がこの辺り一帯を治めていた事によると云われる。
 墓地には、青山家歴代の当主・十三代の墓や、「天狗煙草」の製造販売をした明治時代の奇商であった岩谷松平の墓等があるとのことだが、関係者以外立入り禁止のために入ることは出来なかった。

【百人町】 
 「青山通り」は左にややカーブして進む。
 「表参道交差点」の少し手前右に「善光寺」があり、見学しようと思っていたが場所を勘違いして行けなかった。
 この「善光寺」周辺の旧町名が百人町で、若年寄支配下の下級武士の組屋敷があった。家計が苦しかったので、傘張りなどの内職が多かったと云う。
 古地図を見ると青山通りの両側に、通りに面して間口が狭く細長い家がギッシリと並んでいた。


【青山学院】 (左側) 12:26~12:35
 「南青山五丁目交差点」を越えると左側に妻の出身校である青山学院がある。

 青山学院の正門から構内に入ると銀杏並木が金色に色付いて綺麗だった。暫し構内巡りをする。
 学院の敷地は、江戸時代、松平左京大夫の上屋敷があった所である。

 青山学院は、1874年に創設された
プロテスタント・メソジスト派の学園。140年余りの歴史を有する日本でもっとも古い学校の一つ。
 1927年、それまでの女子系と男子系の学校が合同し、現在の青山学院の土台が作られた。1949年、大学を設置し、幼稚園から大学院までを有する総合学園となった。

【金王坂】 12:55
 源頼朝の創建と伝える古社、金王(こんのう)八幡宮に行こうと思い、青山学院に沿った西側の道を南下したが、はた又、勘違いして首都高の手前を右折してしまった。13:00近くでお腹が空いて判断力が鈍った様で、行く気も失せてしまったので、そのまま青山通りの「宮益坂上交差点」に出る。    
 八幡宮は首都高3号線の上を渡って「金王神社前信号」を右折するとある。

 「宮益坂上交差点」に出ると道は二股に分かれ、左が青山通りの金王坂で右が「大山街道」の宮益坂である。
 その分かれた青山通りに金王坂の標柱が立っている
(左の写真)

【金王坂】
告示 明治、大正、昭和と波乱万丈の過程を経て市区改正、町名変更に伴ない先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ由緒ある金王の地名を保存し、ここに金王坂と命名する。
     昭和五十四年五月吉日建立
 

【三益坂】 12:58
 上の写真に見える歩道橋を渡って、「宮益坂上交差点」の二股を左に進む。左に入った下り坂が宮益坂で、すぐ左側に標柱が立っている。
 往時は「富士見坂」とも呼ばれ富士山が見える頂上付近に「立場茶屋」があったと云う。

【宮益坂】
 ふじみ坂、または渋谷新町とも呼ばれていました。この坂に沿う家並を、途中の御岳権現にあやかって正徳三円(1713)から渋谷宮益町と称し町奉行管下になりました。

【御嶽神社】 (右側)  13:00~13:09
 宮益坂を下って「宮益坂下交差点」の手前右側に、御嶽神社が参道の先の石段を登ったビルの屋上にある。
 石段を登ったすぐ右手に明治天皇御嶽神社御小休所阯の石碑が建っている。入口にあった説明板は下部が擦れて一部読みとれなかった。

【明治天皇御嶽神社御小休阯】 (入口に掲げられた説明文だが下部が擦れて一部判読不明だった)
 ここは、明治三年四月十七日、明治天皇駒場野の練兵天覧御幸の際、御往復共、当御嶽神社拝殿を御座所に当てられ、御小休所となったところであります。
 当日は、午前五時御乗馬にて皇居を御出発され、外桜田より赤坂をお通りになり、吉井友謹邸にて御小休、更に御板輿に御移乗になり、当御嶽神社に於いて再び御小休、御召喚になり、御乗馬にて駒場野練兵所に向われました。
 午前八時駒場野到着、午前九時○火(花火)一発を合図に、練兵を御覧になり午後二時に終了致しました。午後四時、号砲一○○御○なり、前軍より次第に列を進められ、御嶽神社、吉井邸にて各々御小休され、午後六時還幸になりました。
 翌十八日、明治天皇の思召により、当神社に鳥居及び駒寄せの御奉納がありました。
 昭和十四年二月、実時天皇聖蹟記念碑を建立しました。
   天皇陛下御在位六十年奉祝記念
     昭和六十年十一月三日建之

 明治天皇碑の右隣にお堂があり中央に不動尊、左右に庚申塔が納められている。

【不動尊】
 当 不動尊石像は、延宝9年3月6日(1681年)建立され、古くから炙り(あぶり)不動と称せられ、苦しみや疫病などを香煙で炙りだすと伝えられ、信仰厚い不動尊として、近郷近在知られております。また、一部には、札炙り不動として商人衆、金融関係の方々がお札を炙り、倍々に富を殖やすともいわれ、隠れた人気を呼んでいます。
 当所、渋谷新町の町名が元禄13年6月に宮益町と改称されたのも鎮守御嶽神社より起きたといわれています。
     渋谷 宮益坂 御嶽神社 境内
               宮益 不動尊

 更にお堂の右隣には、芭蕉句碑が建っている。

 【芭蕉句碑】
 『眼にかゝる時や殊更さ月不二  芭蕉翁』 (目にかかる時やことさら五月富士)


 意味:最後の上方帰郷の際、箱根を越えた辺りでちょうど五月晴れとなり、富士山の姿がことさら美しく現れてくれた。

【東京新詩社跡】 (右奥) 13:15
 「宮益坂下交差点」を越え、JR山手線のガードをくぐると渋谷駅の「忠犬ハチ公」前に出る。
 外国人が興奮する「渋谷駅前スクランブル交差点」を渡って二股を左の道玄坂へ進む。
 「渋谷マークシティ」で昼食を取る為に、「TOHOシネマズ渋谷}の先を左折すると左側歩道上に東京新詩社跡の標柱が立っている。

【東京新誌社跡】
 与謝野鉄幹は明治三十四年(1901)麹町から渋谷に移り住み、晶子と結婚しました。東京新詩社の機関紙「明星」を十二号から発行し、晶子も歌集「みだれ髪」を刊行しました。詩歌革新を目指して盛んに文学活動を行ないましたが、明治三十七年に千駄ヶ谷に移るまでに、この近くで二度住まいを変えています。千駄ヶ谷に移り住んでから、東京新詩社は最盛期を迎え、晶子も歌集「恋衣」や「夢の華」などを刊行しましたが、新誌社の機関紙「明星」が百号で廃刊される事態となり、明治四十二年に神田駿河台に移りました。


 左の写真で、蕎麦屋の前の街灯の手前に標柱が立っている(道玄坂に向って写している)。

<昼食> 13:20~14:10
 「渋谷マークシティ」4Fのとんかつ「和幸」で昼食とする。たまたま「和幸」の金券を持っていたのでこの時間まで食事を我慢していた次第である。


【道玄坂】 14:20
 道玄坂を上って行くと、「道玄坂上交番前」交差点のすぐ手前左側に道玄坂の標柱が立っている。

【道玄坂】
 江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のように振る舞ったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵(いおり)があったことに由来すると考えられます。

【道玄坂之碑】 (左側) 14:22
 上記標柱の後ろ、「道玄坂上交番前交差点」左角に道玄坂之碑与謝野晶子の歌碑が建っている。

【渋谷道玄坂】
 渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)その一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍らに道玄庵を造って住んだ。それでこの坂を道玄坂というといわれている。江戸時代ここを通る青山街道は神奈川県の人と物を江戸へ運ぶ大切な道だった。
 やがて明治になり、品川鉄道(山手線)ができると渋谷附近はひらけだした。近くに住んだ芥川竜之介・柳田國男がここを通って通学した。坂下に新詩社ができたり、林芙美子が夜店を出した想い出もある。これからも道玄坂は、今までと同じくむしろ若者の街として希望と夢を宿して長く栄えてゆくことだろう。
     樋口清之
【与謝野晶子歌碑】
 
母遠(とほ)うて瞳したしき西の山
         相模か知らず雨雲かゝる

  歌人与謝野晶子が詠んだこの短歌は、明治三十五年(1902)四月に発行された東京新詩社の機関誌「明星」に収められています。
 晶子は、前年に、郷里の大阪府の堺から単身上京し、渋谷道玄坂の近傍に住んで、与謝野寛と結婚しました。処女歌集の「みだれ髪」も刊行しています。詩歌の革新をめざした寛との新婚生活でしたが、晶子にとって、心身の負担は思いもよらず大きなものでした。
 歌人として、また妻としての多忙な日々のひとときに、住まいから近い道玄坂の上にしばしばたたずんで、西空の果てに連なる相州の山々を眺めていたのです。その山々の方向にあたる遠い堺の生家を思い、母親を懐かしんだのでした。
 みずから生家を離れて、新しい生活を渋谷で始めた晶子が、当時ひそかに抱き続けていた真情の一端を、この一首の短歌は語っているのです。
 なお、この歌碑に彫られている筆跡は、晶子自身の書簡による集字です。
     .渋谷区教育委員会

【大阪】 14:34
 「道玄坂上交番前交差点」のすぐ先の右下へ下りる坂を大阪と云う。

【大坂】
 
厚木街道(江戸から厚木まで)の間にあった四十八坂のうち、急坂で一番大きな坂であったので、大阪と呼ぶようになったといわれる。
 この坂標識の北側の坂が旧道で、南側の坂が新道である。

【上目黒氷川神社】 (右側) 14:40~14:50
 大阪には下りずに、道玄坂を下る。「道玄上交差点」で国道246号に合流すると「青山通り」から「玉川通り」と名称が変わる。
 その先「旧山手通り」を横断し、「大阪上バス停」を過ぎた右斜めに下る旧道に入る。
 旧道を下りると「山手通り」にぶつかるので、左手の信号を渡って真直ぐの上り坂に進む。
 上り坂が国道に合流する手前で右に登る石段が上目黒氷川神社の脇参道である。
 脇参道を登って境内に入った所に小ぶりの富士浅間神社が建っていて、右脇に目黒富士浅間神社の標柱が、その後ろに目黒富士の説明板が立っている。

【目黒富士】
 江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地に作られ、富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。
 目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑を移しました。
 昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の角を「目黒富士」と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行われています。
     平成22年3月 目黒区教育委員会

 浅間神社の前を進むと隣に氷川神社の本殿が建っている。

【氷川神社】
 祭神は素盞鳴命を主神とし、天照大御神、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれています。
 正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(現、玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や
小松石造りの2対の狛犬があります。
 また、石段の下には「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保13年(1812)に建てられた大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(現、神奈川県伊勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
 境内には、目切坂上(現、上目黒1-8付近)にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
     平成22年3月 目黒区教育委員会

 順序が逆になってしまったが、本殿をお参り後、本殿正面の本参道の石段を下りた。ところがこれが正解で、本参道の石段は急勾配で長い為、こちらから登ったらかなり大変だったからである。
 下りた「玉川通り」が西へ下り坂で、「山手通り」より落差がある為、脇参道の石段より長くなっている。

 本参道の石段を降りきった鳥居の左横に大山道の道標坂再建供養塔が建っている。
 左の写真で後方にある道標の正面に『大山道 世たがや通り・玉川通り』、右側面に『右 ひろう・めぐろ・池がみ・品川 みち』、左側面に『左 青山・あざぶ みち』と刻まれていた。
 前の供養塔の正面に『天下太平・坂再建供養塔・国土安全 武刕荏原郡右菅苅庄目黒郷 惣 氏子・着者 中』と刻まれていた。

【目黒川】 14:53~14:57
 氷川神社の直ぐ先の目黒川に架かる大橋を渡る。

 橋を渡った右側に大橋と書かれたレンガ柱が建っている。
 橋の右(上流)側は、暗渠で「目黒川緑道」になっている。

 大山道は「東急・池尻大橋駅」前から左斜めの道に進むため、少し戻った信号で「玉川通り」を反対側に移り、大橋を渡る。
 橋の手前に目黒川の説明板が立ち、左(下流)側は開渠で綺麗な水が流れる桜並木となっている。

【清流の復活 ―目黒川―】
 目黒川は世田谷区池尻を上流端として、品川区東品川で東京湾にそそいでいます。
 目黒川上流は昭和の初めごろまではかんがいの水源として、下流は河口から現在の船入場までは運河として利用されていましたが、都市化の進展や陸上交通の発展とともに利用状況が大きく変化し、水質の悪化や水量の減少がみられました。
 そこで、平成7年(1995年)3月より東京都では清流復活事業を実施し、目黒川で清流の復活を行ないました。
 この目黒川に流れている清流は、新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理した再生水を利用しています。
 東京都では、都民が水辺に親しむことができるとともに、水辺に多様な生物が生息できるよう、水質の工場や水量の回復により、心のやすらぐ水辺環境づくりをめざしています。
     東京都環境局自然環境部

【池尻稲荷神社】 (右側) 15:06~15:12
 「池尻大橋駅」前から左斜めの旧道に入って5分ほど進むと、左側に池尻稲荷神社の参道が現れる。
 神社入口の左側に旧大山道の石碑が、その後ろに子供が遊ぶブロンズ像が建っている。また、像の裏側に涸れずの井戸の説明板が立っていた。

【涸れずの井戸】
 この池尻稲荷神社の入口わきに、昔「涸れずの井戸」と呼ばれる井戸がありました。これはどんなに日照りが続いても、涸れることなしに、いつも豊かな水をたたえていたので、こう言われていました。この前の大山道旧道を往き来する旅人や野菜を運ぶ農民ののどをうるおし、まわりの人々に大変喜ばれました。とくに、雨乞いのための大山詣での際には、必ずここに立ち寄ったと言われます。現在も、この水は、境内の中にあり、みなさんにおいしい水を提供しています。
 この像は、江戸後期近くの商店に奉公しに来ていた少女が、奉公先の子どもといっしょに、ここに水を汲みに来た際、たぶんついでに「かごめかごめ」の遊びをしたのであろう様子を想像してつくったものです。どうぞ、昔の風景を思いうかべてみてください。
     平成元年三月 世田谷区

 鳥居をくぐり参道を進むと正面に本殿、右手に由緒と枯れてしまった松の御神木が金網の中にあった。

【池尻稲荷神社御由緒】
 世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)をお祭りしたもので、今から約千三百年の昔、和銅四年の二月の初牛の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したものが始まりです。
 この神は「稲がなる」イナリに別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のある神様ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内にも祭られています。
 当池尻稲荷神社は、今から約三百五十年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村、池沢村の両村の産土神」(ウブスナガミ)として創建鎮座になったものでそれより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。
 俗信仰としては古くから「火伏の稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲載されています。
 当時は大山街道(今の旧道)のほとりに常光時の一隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往還(今の上野方面バス道路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休息して江戸入りする道筋にありました。
 又、江戸から大山詣での人々が大阪(現在、目黒区青葉台上通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。
 なお、境内にある井戸水は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております。

【池尻稲荷神社の御神木】
 境内にはシイの木、ケヤキ、イチョウ、サクラ等が高くそびえて静かな趣をそえています。かつては、御神木の松の木がひときわ高くそびえていましたが、昭和二〇年に枯れてしまい、それに合わせるように八月の終戦があったということです。一方空襲で周りが焼かれた時、二本のケヤキによって風向きが変わって、神社は火災を免れたといわれています。神社の杜がこれからもいきいきと成長し、自然が守られるように皆様の御協力をお願いします。
      平成十四年五月 池尻稲荷神社
 右手数段の石段を下りた所に手水舎があり、手水舎の水は薬水の井戸からの引き水と後ろの説明板に書かれていた。
 その先は「玉川通り」に面しているので、「玉川通り」からが本参道かも知れない。

【「薬水の井戸」御由緒】
 この手水舎の水は、当神社境内にある「薬水の井戸」よりの引き水です。
 「薬水の井戸」は、山城国伏見の稲荷山に御鎮座の薬力明神の神託により、「神の道を信じ勤め、その病気の平癒を心に三度祈念し、神の道の薬として飲みほせば、薬力明神の力により病気立ち所に快癒す」と伝えられている明泉です。
 往時、この旧大山街道筋には赤坂一ツ木村より池尻村まで飲用水はなく、往来の人、農民、みな頼りにしたと伝えられています。又「涸れずの井戸」と云われて、現在もこの井戸水は、如何なる渇水時にも涸れることなく、常に豊富に湧き出ております。

【大山道道標】 15:33
 数分で池尻の旧道は「玉川通り」に合流する。
 頭上に「首都高3号渋谷線」が通る「玉川通り」を暫く進むと「三軒茶屋」の二股に到着する。
 ここから大山街道は、二股の右方向(世田谷通り)へ進む旧大山道と、左方向(「玉川通り)へ進む新大山道に分かれる。
 その二股の付根で「三軒茶屋駅」入口に不動明王が乗る道標が南を向いて建っている。

【道標】
銘文 (正  面) 左相州道 大山道
    (左側面) 右富士 世田谷・登戸 道
    (背  面) 天下太平国土安穏  寛延二己巳年  石工 江戸本材木町八丁目・石田屋□□□(花押)
              建立
           文化九壬申年 昭和三十一年丙申三月吉日石工石峯
              □(再力)建
           五穀成就萬民家樂
    (右側面) 此方 ニ子通
年代 寛延二年(1749)、文化九年(1812)再建
伝来 大山道は、矢倉沢往還の俗称である。この道標は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期ごろに開通したといわれる新大山道(桜新町経由)との分れ道にあった石橋楼(三軒茶屋の地名の起こりの茶屋の一つ)の角に建てられていた。
 大山は、古い民俗信仰である石尊信仰と山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は江戸町民などの大山詣りが盛んになり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。
 この道標は、玉川電車の開通や、東京オリンピックの道路の拡張などにより点々と移されたが、昭和五十八年五月に三軒茶屋町会結成五十周年記念事業の一つとして、元の位置近くに復された。
備考
  一、この道標は、本来は渋谷方面に向いて建てられていた。
  一、相州通・ニ子通は、ほぼ現在の玉川通りである。
  一、富士・世田谷通・登戸道は、ほぼ現在の世田谷通りである。
     昭和五十九年三月 世田谷区教育委員会

【三軒茶屋】 
 三軒茶屋の名前の由来は良く知られている通り、大山詣り等がブームとなった江戸時代中期、交差点の付近に三軒の茶屋があったことから名付けられた。
 三軒の茶屋の名前と位置は、大山に向って二股の三角点(内股)に「信楽」(明治二年に「石橋楼」に代わり、現在は「カラオケ店」)、右手に「田中屋」(現在は「田中屋陶苑」になっている)、左手の次の角に「角屋」(現在はパチンコ屋)があった。

  信楽跡  田中屋跡



 1回目の旅終了(15:35)。三軒茶屋駅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、7.5Km(赤坂御門~三軒茶屋・道標)
          赤坂御門から一里三十三町(7.5Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、13.6Km(地下鉄永田町駅9A出口~三軒茶屋駅)  累計:13.6Km

          6時間05分 23,700歩。



「目次」 → 「三軒茶屋 ~ 二子玉川駅西口(旧道ルート)」