喜連川宿 (氏家・ホテル →  喜連川本町バス停) <旧奥州街道3回目>

2012年10月11日(木) 快晴

 氏家宿「ホテル サンヒル」を8:15スタート。

(注: 文中で街道の左側、右側とは白河に向っての左右です)

「白澤宿・氏家宿」 ← 「目次」 → 「佐久山宿」

 


【五十里洪水の水位痕  (左側) 8:18

 ホテルを出てすぐの「桜野中交差点」辺りからしばらくのあいだ、左右に蔵や屋敷門を持つ広々としたお屋敷が点在していた。

 交差点を渡ってすぐ左側、村上家の屋敷門上部に水位痕が残っていて、その横に五十里洪水の水位痕と書かれた下記説明文が掲げられていた。

 享保8(1723)年8月10日、暴風雨により五十里湖〔天和3(1683)年9月1日に起きた日光大地震で男鹿川、湯西川が堰きとめられてできた湖で、現在の新五十里湖より規模が大きかった〕の水位が極限までに上がり、昼過ぎに決壊、「五十里洪水」が発生しました。

 決壊した湖の濁流は、瞬く間に鬼怒川沿岸の村々を飲み込み、櫻野には「暮れ六つに」(午後6時頃)水が押し寄せ、「水高六尺余」(約1.8m)に達し、甚大な被害となりました。洪水では「流水は山の如く、川下の村々は家財、田畑は言うに及ばず人馬もろとも流され」たと伝えられています。

 洪水は大きな爪痕を残し、「夜四つ時」(午後10時頃)になってようやく引き始めますが、その被害は真岡、二宮まで及び、死者1万2千と下野で最悪の水害となりました。

 この門は約300年前に建てられたもので、門柱に残された水位痕は櫻野村での五十里洪水最高水位を示すものです。村上家では大災害の記憶を後世に伝えるため、門と水位痕を大切に守ってきました。なお、「奥州道中分間延絵図」〔文化3(1806)年〕にはこの門が描かれており、江戸時代の櫻野村の姿を伝える貴重な文化財です。


【瀧澤家住宅(鐵竹(てっちく)堂)】  (左側) 8:20 

 村上家と細道を挟んでその隣に長屋門を持つ瀧澤家住宅(鐡竹堂)がある。

 門をくぐって庭には入れたが、本日は休館日で鐡竹堂の外観しか見られなかった。

 また、蔵は、屋根の上に望楼が乗っている大変珍しいものであった。

【瀧澤家住宅(鐡竹堂・蔵屋敷・長屋門)】 栃木県指定有形文化財建造物(平成10年1月16日指定)

 瀧澤家住宅は旧奥州街道に面して、伝統的な板塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、屋敷構えは今なお旧家の面影を留めている。

 瀧澤家は、明治になって紡績等の事業で財をなした旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られる。指定の3棟は、明治25年(1892)10月23日に氏家町で陸軍大演習が行われた時、喜平治宅が明治天皇の休息所に充てられた際、新築あるいは増築されたものと考えられている。

○鐡竹堂(南北6.5間×東西7間)

 鐡竹堂は明治天皇の休息所として使用された建物で喜平治の雅号「鐡竹」にちなんで名付けられた。平屋建ての入母屋造りで北側の庭園に対して4室をL字型に並べ、東側正面に車寄せを張り出している。北西の6畳間が主室で、床、違い棚、付書院を完備し、金地の、襖絵素木の格天井とするなど、天皇の御座所にふさわしい造りとなっている。休息のために揃えた調度品とともに当時のままの姿で残されている。

○蔵座敷(桁行4.5間×梁間4間)

 蔵座敷は、総2階建、切妻瓦葺の伝統的な土蔵の屋根のほぼ中央に洋風の望楼を乗せた特徴のある建物である。望楼は方形造銅板平葺、四面に装飾的な上部半円状の扉を開き、周囲には洋風唐草模様の鉄柵を巡らしている。洋風望楼は、明治初期洋風建築の大きな特徴の一つであり、この地方においても、明治期の旧奥州街道沿いに同様な洋風望楼を乗せた建物が幾つか存在していたといわれるが、現存するのはこの建物だけである。

 この洋風望楼部分は明治20年の建造当初のものではないことが内部構造から判明しており、明治25年の行幸が増築のきっかけになった可能性が高い。

○長屋門(桁行8.5間×梁間2.5間)

 長屋門は、入母屋造、桟瓦葺で左右を小部屋とし、中央部を門とする典型的な長屋門形式である。門は内寄りに門柱を立てて両開きの扉を吊り、東側に通用門(潜門)を開く。正面1階には出窓形式の武者窓を背面2階に格子戸を設けている。

 地方に残る長屋門の中でも最大級のこの長屋門は建築年代を確定する資料は残されていないが、門の飾り金具にはすべて菊花が用いられていることや部材の腐食度から見て、鐡竹堂と同時期の建築と推定できる。

     栃木県教育委員会・氏家町教育委員会


挟間田一里塚】  (右側) 9:15

 瀧澤家住宅を後にし、左右に点在する大きな屋敷に感心しながら少し進んだ左側の田圃の前に、十九夜塔や二十三夜塔等が4基、その先左側に石仏が見られる。

 しばらく進むと、「桜野交差点」で右後ろから来る「氏家バイパス(国道239号線)」と合流する。

 国道に合流して30分程進んだ「松山交差点」少し手前右側の民家の門前に、庭に向って一里塚の標柱が立っていた。失礼して少し門の内側に入ると、左側の塀に沿って祠が建っている小さなこんもりが見える、これが狭間田一里塚である。

 塀の外側から背伸びして覗いても説明板と共に一里塚が見える。

【奥州街道一里塚】 氏家町史跡(昭和51年3月3日指定)

 近世になると江戸を中心にして諸街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、榎や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。

 氏家地内には堂原地蔵堂南側と挟間田の二か所あったが、堂原一里塚は明治以降消滅した。挟間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになった。

 延宝六年(1687)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として三十二里目にあたる一里塚である。

 奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。

     氏家町教育委員会


【明治時代の水準点  (右側) 9:35

 「松山交差点」を過ぎ、少し進むと「さくら市」の標識が立っていて、一緒に『諸国名所図〔羽黒坂望喜連川〕』の絵に「奥州道中 これより先一里 喜連川宿」と書かれていた。

 そのすぐ先で国道239号線は右に分かれて行くが、奥州道中は直進して旧弥五郎坂を上って行く。 国道の方は新弥五郎坂で喜連川方面に行くバスはこちらを通る。

 その分かれる手前右角「佐藤自動車」(整備工場)の前に新旧2体の大黒天の像があり、古い方の台座には水準点が刻まれている。

【明治時代の水準点】

 新旧2体の大黒天のうち左側の古い大黒天の台座の土台に「不(に似た記号)」の記号が刻んである。これは、明治9年(1876)7月に布達し、翌8月から明治10年(1877)8月の1年間、内務省地理寮(国土地理院の前身)が東京−塩釜間の高低測量(現在の水準測量)を実施したときに高低標(現在の水準点)として利用した印である。

 当時狭間田附近は一帯が水田で、不朽物が大黒天以外に見当たらなかったために、これを高低標として、記号を刻んだのではないかと思われる。

 この時、東京霊岸島水位標平均潮を0mと定め、そこを起点とし、京橋、上野を経て、北千住からは奥州街道沿いに水準測量を実施した。大黒天は45番目の高低標にあたり、狭間田新田村弥五郎坂市ノ堀橋際大黒塚、標高158.0866m(521.6858尺)という当時の測量記録が明治12年6月発行の地理局雑報第14号に報告されている。


早乙女坂古戦場跡】  (右側) 9:45

 国道239号線と分かれ、旧道に入ってすぐ左側民家の横に勝善神が、続いて畑の前に馬頭観音や二十三夜塔の石碑が並び、右側には奥州街道の標識が立つ。

 その先右側に石段があり、上り口に早乙女古戦場の標柱と説明板が立っている。

 30段程の石段を登ると、鞘堂が建っており、堂の脇にも説明板が立っていた(下の写真)

 鞘堂の中には供養塔(五輪塔)が納まっており、平成四年七月に平沢大作が鞘堂を寄進したとあった。

【古戦場】 (石段下の説明文)

 天文十八年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。

【早乙女坂古戦場の跡】 (石段上の説明文)

 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(保)を確保する上で最も重要な課題であった。

 このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文十八年(1549)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。

 弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。

 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示している。


奥州街道(古道)】  (右側・入口) 10:03〜 

 古戦場の先、左「キリンビール研究所」、右「喜連川早乙女坂温泉」の前を通り、弥五郎坂を更に上ると「セブンハンドレットクラブ」入口が頂上で、そこから下り坂になる。

 峠から少し下ると、右側に新しい案内板が立っている古道の入口が見えてくる。

 私達は迷わず古道の方に進んだが、左の道へ行くと「河東碧梧桐句碑」と「弥五郎坂開削の碑」があると案内板の地図に記されていた。どちらに進んでも先で一緒になる。

【史跡 奥州街道(古道)】 さくら市指定(平成17年2月9日指定)  延長612m。 最大道幅4m。

 慶長6(1601)年徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向う。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所のひとつであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。


【高塩背山の墓  (右側) 10:12

 古道は少し上ったあとすぐ下り坂になる。舗装された道ではあるが崖崩れや倒木や苔むした箇所があり、あまり人が通らない様だった。

 湿った古道を下って行く途中右側に、高塩背山の墓入口と書かれた説明板が立っていて、脇に細い山道があった。

 言われてみなければ気がつかない様な草むした細道なので行かなかったが、墓がこんな山の中では寂しくないのかと思ってしまった。

【歌人 高塩背山】 明治15(1882)年〜昭和31(1956)年

 さくら市を代表する歌人、高塩背山は本名を高塩正庸。代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれ、教員を勤めた時期もあったが、生涯の大方を祖父伝来の神職をまっとうした。

 24歳の頃から作歌を志し、一時、尾上紫舟に師事して、歌と書の指導を受けた。才能を開花させてからは、郷土の自然を題材に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を終生作り続けた。

 中央歌壇への投稿を通じ、若山牧水と交友が生まれ、明治43年には牧水の「創作」に参加、主軸歌人の一人として活躍をした。長く続く親交の中で、牧水は3度、喜連川の背山をたずね、酒と短歌を交えたひとときを過ごしている。その時牧水が詠んだ歌は背山の歌と並び喜連川神社に歌碑として建っている。

 代表歌集「狭間」「移りゆく自然」にあるように、郷土の風景を慈しみ74歳で没した歌人は、永眠の地を愛した喜連川の街並みが見える高台にしたかったのではないだろうか。
  山上より町を

   我が街を埋めつくして流れゐる

    朝の濃霧を丘の上ゆ見つ

   うち渡す峡間の町の夕けむり

    若葉の上にたなびきながるる


【道標  (右側) 10:40

 高塩背山の墓入口を過ぎると程なく人家が見えてきて古道は終わる。その右上を見ると庚申塔等が4基建っている。

 その先で、古道入口で分かれた(上の写真で左へ下りる)道が左から合流する。奥州道中はそのまま直進し、荒川の土手に突き当ったら右折する。

 その右折する左角に勝善神の石碑が沢山建っている。馬頭観音もあったが、まるで勝善神の団地のようだった。

 すぐ連城橋に着き、奥州道中は左折して橋を渡って行くが、明治の水準点があったところから分かれたバスはこの橋で一緒になる。

 連城橋を渡る前に右を見ると信号の前に寛延元年(1748)建立という道標が建っている。 道標に刻まれている「下妻道」は、荒川沿いに真直ぐ行く道である。

【道標】

 『右江戸道 左下妻道』 このみちしるべは、町の南端ここ葛城に残っており、近世五大街道の一つで、江戸と奥羽をつなぐ主要道だった奥州街道の名残りを偲ばせています。


【喜連川宿 宇都宮宿追分から6里10町(24.7Km)、白河宿まで15里8町19間半(59.8Km)

 宿内人数 1,198人、宿内惣家数 290軒(本陣1、脇本陣1、旅籠29)


寒竹囲の家】  (左奥) 10:55 

 連城橋を渡って喜連川の城下町に入って行く。喜連川は、古は狐川と称していた。

 喜連川宿入った所で、さっそく寄り道をする。

 和菓子店「田中屋」の前を通り、橋から110m、最初の左に入る道(「←レン光院」の案内板がある所)を左折して少し進むと、綺麗な寒竹囲の家が左右に数軒現れる。右側の家の庭先に説明板が立っていた。

  この寒竹囲いは、喜連川公方6代城主茂氏公が、藩士の宅地を囲むのに、板塀などでは製作保善が大変なので、笹の密植するのを利用して、これを生垣とすることを奨励しました。この生垣を鼈甲(べっこう)垣ともいいます。

御用堀】  (左奥) 11:00

 街道に戻らずにそのまま進み、黒塀のある次の道を右折して裏側に廻り込むと御用堀が現れ、屋根付きの休憩所と説明板が立っている。

 また、この御用堀には自動の用水掃除機が完備している為に水が綺麗で、絶滅危惧種のメダカが泳いでいた。

 御用堀に沿って進むと喜連川神社の南側鳥居の前に出て、その先にも古い説明板が立っていた。

【御用堀】 (鳥居西側の説明文)

 喜連川藩十代藩主喜連川煕氏(ひろうじ)は領民思いの名君として知られ、藩の財政建て直しや領民の暮らしや教育に熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や藩校「翰林館」などを開きました。

 特に飢饉や大火から領民を守るため町中どこでも用水が使えるように生活用水の確保に気を配り、1842年(天保十三年)、町を挟む両河川(内川・荒川)から町内に水を引き入れる用水堀を開削し生活用水・灌漑用水・防火用水として利用したほか、数十町歩の新田を開拓するなど藩財政にも潤いをもたらしました。

 「御用堀」には内川筋の西河原堰から取水し殿町・本町を貫流するものと、荒川筋野辺山堰から取水し西町・下町を貫流するもの、そして横町・本町・日野町を貫流するものがあります。

 この「御用堀」は通称「横町堀」と呼ばれ、町民の生活用水に使われておりますが、平成二年度誇れるまちづくり事業で一部修景工事を施工し、鯉を放流し、「やすらぎの散歩道」として整備したものです。

    平成三年三月 さくら市 誇れるまちづくり委員会

【御用堀】 (鳥居東側の説明文)

 本町の河川を概観すると県北部山岳地域と関東平野の接点にあるため一般に奥が浅く流れも急でしかも水量に乏しいこの御用堀は水源を県北部高原山系に発し塩谷町、氏家町を流れて町内早乙女、小入、野辺山に至りこの辺の荒川から分流する用水を運ぶ御用堀であるl光院下及び辻畑等の水田二二、五ヘクタールに灌ぎその上百五拾余戸の用水となる農耕に欠することのできない水各戸の日常生活、防火用水とも言われその昔沿岸の人達は米を研ぎ歯を磨き顔を洗った清流であった今は昔の物語である時代の流れとともに河川は汚れ昔日の面影さらになく昔の人々の郷愁をさそう御用堀である今も河は静かに流れる

     昭和六十年度喜連川商工会むらおこし事業


喜連川神社】  (左奥) 11:00〜11:15

 御用堀のある南側の鳥居(下の写真)から55段の階段を上って喜連川神社本殿に上がり、東側の階段より街道へ戻る。

 南側階段下左側に社務所があり、その前に石に刻まれた高塩背山の説明文と歌碑、若山牧水の歌碑が建っている。また、綺麗なトイレもある。

【高塩背山の説明文】

 高塩背山(明治十五年〜昭和三十一年)は、本名 正廣、この地に生まれた。明治三十五年前橋中学校を病気で中退後、父祖伝来の喜連川神社神職を継承。かたわら小学校職員をしていたが、二十四歳の頃から作歌をこころざし、一時尾上紫舟に師事して歌と書の指導を受けた。その当時から若山牧水ほか多くの青年歌人を知り、文通。明治四十三年牧水の「創作」に参加。以後創作社の中軸として名を知られる。

 牧水と背山の親交は深く、牧水はその生涯において三回、背山宅を訪ねて宿泊しているが、その第一回目は大正四年七月十九日で、泊まった翌朝に「時をおき・・・」の歌を詠んだ。この作は牧水の酒の歌では、代表的な名歌のひとつである。

 背山はこれという旅もせず、常に郷土の自然を対象に、暖かい人間性を秘めた清明な歌を作り続けたが、昭和三十一年五月三十一日に七十四歳で病没した。歌集に「狭間」「移りゆく自然」の二著がある。

 このすぐれた現代歌人二人の足跡をここに誌し、永遠に記念するためにこの双歌碑を建て、郷土の誇りとするものである。

     平成元年四月 喜連川町長 塩野昌美

【牧水の歌碑】

 時をおき 老樹の雫おつるごと しずけき酒は朝にこそあれ   

   高塩背山兄の許に宿れる翌朝 大正四年夏  牧水

【喜連川神社】 (南側階段下に立っていた説明板)

 永禄6年(1563)に、領主源惟朝が戦国時代の心の寄り所にしようと、尾張国津島の午頭大王の分霊を勧請した社で塩谷氏、喜連川氏の代々崇敬の社とさらました。

【喜連川神社】 (本殿傍に立っていた説明板)

 本社の本宮は天王宮で、夏祭りは”お天王さん”。あばれ神輿の名で近郷まで知られています。

 永禄6年、塩谷15代兵部大輔惟朝が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請して創建したと伝えられます。塩谷氏喜連川氏代々崇敬の社で喜連川ほか15郷の総鎮守といわれました。


大手門】  (左奥) 11:20 

喜連川神社の東側階段を下りる途中からお丸山公園(喜連川城跡)へ行く道があるが、東日本大震災の影響で「崖崩れの恐れがあるため立入禁止」となっていた。今回この公園から喜連川温泉まで行く予定だったが、市役所からの登り口も含め全面立入禁止で残念ながら見学することが出来なかった。

 東側鳥居をくぐり奥州道中に戻る。街道に出た向いの古い「かぶらぎ時計店」と「村上金物本店」の建物は往時の旅籠屋「山田屋徳平」だった家。横から見れば二階に旅籠屋の雰囲気が出ている。

 また、その先右側「割烹寿司芳川屋」辺りに脇本陣があった らしく、後で調べたら、さくら市のHPに「芳川屋」の後ろに『明治天皇御連輦』碑があるように載っていた。

 次の道を左折して大手門を見学(左の写真)。「さくら市役所」の入口に平成3年に再現されたもので、二階が展示室になっているとのことだが、本日は休館日の為、こちらも残念ながら見学することが出来なかった。
  


喜連川街の駅本陣】  (右側) 11:25〜12:15

 大手門から街道に戻り、すぐ先右側に街の駅本陣の看板が出ている所がかつての喜連川本陣跡。現在は大正時代の警察署を「カフェレストラン 蔵ヶ崎」として利用している。建物の前には水が湧き出ている設備があり、自由に飲める。私達は丁度飲み物が切れたのでペットボトルに充填した(下の写真の岩)

 更に、このレストランで昼食を取った。レストランの中には「留置所」と書かれた部屋もあるが、大正時代の内装と、矢絣(やがすり)の着物と袴を着けたお姉さんが給仕してくれるなど、大正ロマン漂う中で食事が出来る。

【街の駅「本陣」について】

 喜連川宿は奥州街道十宿の内@白沢宿A氏家宿に次ぐ第三の宿で、本陣・脇本陣・旅籠茶屋が軒を連ね、喜連川足利氏〔各式十万石実高壱万石〕の城下町も兼ね殷賑(いんしん)を極めた。

 本陣とは、参勤交代の大名や公用の幕府の役人が定宿とした高級旅籠で問屋を兼ねる所が多かった。当宿には、奥羽・越後・下野の三十七大名が三月から六月にかけて投宿している。

 当宿の本陣は、江戸中期には郡司十左衛門斎藤仁右衛門等が経営したが、後期には当街の駅所在地で上野太郎平が経営に当った。

 明治になり本陣跡には警察署、郵便局、銀行が開設された。当「街の駅」舎は大正十五年に建築された喜連川警察署の建物で、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数か所しかないという貴重な建造物である。


【龍光寺】 (右奥) 12:22

 少し早いが、この先バスの便が無いので街の駅本陣を本日の終点として「本町」の信号に戻り、右へ150m程入った所の龍光寺を最後に見学。

 境内には足利家歴代の墓所等がある。

【足利家歴代の墓所】 喜連川町指定文化財

 この寺の創立者は、足利尊氏であって東勝寺と号し下野国の安国寺であった。

 喜連川左馬頭頼氏の時慶長六年(1601)父頼純逝去されたので、当山に葬り戒名の龍光院殿全山機公大禅定門の頭をとって龍光院と改称した。以来足利家の菩提所と定めて寺領五十石を賜り喜連川藩公代々祈願追善の香華の院であった。

 墓所周囲は築堤を廻らし総面積が四百平方米石塔五十四基のほか石燈籠があり、十四代に亘る藩主御台所嫡子等の墳墓にて、城下町喜連川の代表的文化財として旧態を保持している。

【足利尊氏木像と宮殿】

 龍光寺境内の北端に旧喜連川藩公歴代の御廟所がある。その内部に桧皮葺き総欅作りの立派な宮殿であり鎌倉時代の建築様式といわれている。

 尊氏の木像は宮殿内に安置されている寛文六年(1666)四代藩主左兵衛督昭氏が鎌倉長寿寺中の坐像(足利尊氏)を同寸法に複写製作したもので、京都等寺院鎌倉長寿寺とこの龍光院にある三体の一つである。

 当山では近年まで秘宝として一般には開扉しなかった。



 3回目の旅終了 12:35 喜連川本町バス停。

  12:40発の東野交通のバスで宇都宮まで戻り、駐車場にとめていた車で「大いちょう」と「松が峰教会」を見学(日光街道10回目参照)後帰宅。

   今回の記録 :街道のみの距離は、7.0Km (氏家・ホテル〜喜連川本陣跡)

           宇都宮宿追分から、六里八町 (24.4Km)

           4時間20分 16,000歩 氏家・ホテル〜喜連川本町バス停)

           寄り道を含めた実歩行距離は、8.5Km (氏家・ホテル 〜喜連川本町バス停) 累計32.0Km

 

「白澤宿・氏家宿」 ← 「目次」 → 「佐久山宿」