白沢宿・氏家宿 (宇都宮宿上河原バス停 → 氏家・ホテル) → <旧奥州街道2回目>

2012年10月10日(水) 晴

 自家用車で宇都宮市の大通り2丁目にある駐車場(駅に近くて宿泊した場合に一番安かった駐車場)に車を預け、「上河原通り」と「大通り」との交差点 (上河原バス停)を9:10スタート。

(注: 文中で街道の左側、右側とは白河に向っての左右です)

「宇都宮宿」 ← 「目次」 → 「喜連川宿」

 

 9月末まで夏日が続いて街道歩きの夏休みが長かったが、10月に入って東海自然歩道を皮切りにやっと奥州道中に戻ってこられた。

 このHPでは「長屋門」と「屋敷門」は分けて、部屋等が付属して門を「屋敷門」、屋根付き の門構えのみは「屋敷門」と表現する。


【清巌寺(せいがんじ) (左奥) 9:15〜9:20 

 「幸橋」を渡る手前の「清巌寺通り」を左に入ってすぐの清巌寺に、重文の鉄塔婆が収められている。

 境内に入るとすぐ右手に収蔵庫があり、常時扉は閉まっているが、朝早いこの時間でも鍵が掛かっておらず自由に中に入れる。自分で照明のスイッチを入れればガラスで囲われた中に鉄塔婆が見られる。

 

【鉄塔婆】 国指定重要文化財(昭和44年8月9日指定)

   高さ  三・三メートル

   幅   〇・三メートル

 この鉄塔婆は、鎌倉時代の正和元年(1312)の八月に、宇都宮八代城主貞綱が亡き母の十三回忌の供養のために建立したといわれる。

 塔婆の上部には阿弥陀を表す梵字と阿弥陀三尊の浮彫りがあり下部には九〇字の願文がある。

 我が国最古であり、かつ唯一の鋳鉄製の大塔婆であることから当時の宇都宮氏の政治、経済的な力ばかりでなく文化的・宗教的な水準の高さを示している貴重な資料である。

     昭和六十三年三月建 宇都宮市教育委員会


【旧篠原家旧宅】 (正面) 9:25〜9:55

 田川に架かる「幸橋」を渡ると、県道125号線との交差点正面に重厚な旧篠原家住宅が見えてくる。奥州道中はこの交差点を左折して進む。

 篠原家の主屋は明治28年に2年の歳月と当時のお金で3万円を費やして建てられたもので、その年の宇都宮市の予算は1.7万円だったというから、いかに 凄かったが分かる。

 建坪が100坪、一尺五寸(約45cm)角のケヤキの通し柱(大黒柱)が11m。

 婚礼などのお祝い事の時に使われた二階の座敷は20畳の広さがあり、二間半(約4.5m)の床の間はケヤキの1枚板、一階の大黒柱から伸びた床柱と合わせて全体が豪壮な造りとなっている。また、各部屋にはガス灯用のガス配管が施工されていた。

 戦争前は敷地面積が800坪あったが、主屋と石蔵3棟を残して焼夷弾の直撃で焼失していまい、現在の敷地は220坪とのこと。主屋は大谷石と漆喰壁で防火対策を施していた為、戦火から免れたのだろう。

 余談だが、金庫の裏側に描かれていた家紋が我が家の家紋と同じだったのを発見して少なからず驚いた。

 

【旧篠原家住宅】 国指定重要文化財(平成12年5月25日指定) 宇都宮市指定有形文化財(平成7年11月27日指定)

 篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次大戦までは醤油醸造業・肥料商を営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどされておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。

 住宅の一階部分の両側には、厚さ約8cmの大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45cm角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的に装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお、石蔵三棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。

 開館時間 午前9時〜午後5時(入館は4時30分まで)

 休館日   月曜日(祝日の場合は翌日)・祝日の翌日(休日は会館)・年末年始(12月29日〜1月3日)

 入館料   一般 100円

【パンフレットより】

 宇都宮市を代表する旧家の一つである篠原家は、江戸時代(18世紀の終わり頃)から奥州街道口の現在の場所で、醤油醸造業や肥料商を営んでおりました。現在の旧篠原家住宅は、明治28年(1895)に建てられたものです。第二次世界大戦の戦災により、主屋と石蔵3棟を残して、醤油醸造蔵や米蔵などの建物は焼失してしまいましたが、明治時代の豪商の姿を今日に伝える貴重な建造物となっています。

 黒漆喰や大谷石を用いた外壁や、商家を特徴付ける店先の格子などとともに、1・2階合わせて100坪という規模の大きさが、堂々たる風格を形作り、JR宇都宮駅前の歴史的シンボルとなっています。


【首切地蔵・刑場跡】 (右奥) 10:35

 旧篠原家住宅の前を北上するのが奥州街道(陸羽街道)。

 篠原家からから5分程進んだ左側に八坂神社がある。

 その先のY字路は真直ぐ進み、JR宇都宮線のガードをくぐる。東北新幹線は右へ離れて行く。Y字路からは白沢街道と呼ばれる。

 「竹林町交差点」を渡る手前が追分になって、右斜めへ分かれて行く道が烏山道

 「竹林町交差点」を渡った左側に立派な長屋門があり、その隣の家も立派な屋敷門と蔵が3棟も建っていた。

 左手「豊郷南小学校」を過ぎ、右手「ガスト」の先の「栃木銀行」手前の細道を右に入った所は、宇都宮藩の刑場跡で近年まで首切り地蔵があったと云われるが、現在はアパートが建ったため撤去されたそうで、何も残っていなかった。

 宇都宮藩の命に背いた根来衆100人を処刑した場所で、首塚と云われていたとのことだが、この様な場所に建っているアパートには・・・!(;一_一)。


<昼食> 10:40〜11:25

 朝早く出てきたので、「栃木銀行」の斜め向かいにある「和風レストラン・まるまつ」で早めの昼食とした。

 レストランの向かいには大きな松が一本だけ立っていたが、名残の松か?


【小林清次郎翁感得報恩の碑】 (左側) 12:05

 国道119号線を越え、「海道町交差点」を渡った少し先の左側の小林家の入口に小林清次郎翁感得報恩の碑が建っている。

 寛政十一年十二月十四日 下川俣駒場家に生まれ後に海道新田小林為右衛門の養子になりました

 安政年間海道新田に水路を開き自ら水田開拓に務め終生農業に精励して海道新田の発展の為大きな貢献を致しました

 明治十四年九月八日他界 行年八十三歳

     建碑 慶応二年二月


【稚児坂】 12:25

 国道119号線を越える辺りから「海道町」に入る。

 白沢街道の左側をしばらく進むと車道と歩道の間に、杉と桜の並木が交互に植えられている街道が現れる(下の写真)

 歩道の左側は水田や畑で小川も流れ、その彼方には日光連山も望める。

 ほとんど県道ばかりを歩く奥州街道では、季節が良ければ一番気持ちの良い道かも知れない。
 水路が歩道に接してくると、前方に緩い稚児坂が見えてくる。特に説明等は無い。

 頂上辺りで5分休憩する。
 上り口交差点から十数分進んだ左側に「ここから 白沢宿内」の看板が立っていた。
  


【白沢地蔵堂】 (右側) 12:57〜13:03 

 道が下りになり、右カーブする手前の左側に勝善神と刻まれた大きな石碑が建っている。

 勝善神碑の斜め向かいに白沢地蔵堂が建っていて、先程登って来た稚児坂の謂れが判明する。

 また、この地蔵堂には白坂七福神の一つ寿老人の石像が置かれている。平成18年に「奥州街道白澤宿の会」が建てたもので、ここが七福神めぐりのスタートとなっている。

【白沢地蔵堂の伝説】

 今から約九百年前の出来事です。

 鎌倉時代(建久年)源頼朝の命を受け、伊沢家景が奥羽総奉行として鎌倉より東北に向う途中、白沢稚児ヶ坂(高崎製紙工場西側)で子供が病気になり亡くなりました。

 その子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。

 それから九百年もの間、この地蔵堂は白沢南自治会(昔は上岡本村)の人々によって守られてきました。


【やげん坂と薬研の像】 (左側) 13:05

 地蔵堂から下って行く坂を、薬研(やげん)の形に似ているからやげん坂と呼ばれている

 少し下った左側階段の前にやげん坂の説明と、階段を上った所に小さなやげんの像がある

 

【やげん坂】

 この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているとこらから、「やげん坂」とよばれるようになったと言い伝えられています。

 また、慶長十四年(1609)白沢宿として町割ができる以前からここには、街道の道しるべとして夫婦の大きな椱があった由緒あるところです。

     河内町


【江戸時代の公衆便所跡】 (右側) 13:08

 さらに坂が大きく右カーブする手前に、江戸時代に通行人が使用したとされる公衆便所跡なるトタン板張りの小さな建物が建っている。

 建物は現代のものだが地面下が江戸時代のものと思われる。裏に回ると穴と肥桶が見られる。

 また、「ここは江戸日本橋から三十里 白沢宿」の看板と、「とちぎのふるさと 田園風景百選 認定地」の標柱も立っている。


【白沢宿のまちなみ】

 突き当りの「白沢宿信号」でやげん坂が終わり、左折すると 宿場町を彷彿させる町並が目に入ってくる。

 その交差点左角に「奥州街道白沢宿 まち歩きマップ」が掲示されて、宿内の名所やまちなみの解説が書かれていた。

 

【白沢宿のまちなみ】

 奥州街道の第1宿として、江戸時代から明治期に栄えた白沢宿。その名残から宿場町としての風情や、宿の賑わいを思い起こさせる歴史性のある建物や文化などが多く残っています。近世には奥州街道の中央を流れていた水路が、現在は道の両側に移され、道路は宿場町の特徴である鍵型の形状を有しており、その沿道には間口が狭く奥行きの長い近世以来の地割が継承されております。この宿場町の歴史を伝えるため、地元住民は屋号看板や水車の整備などまちづくりに取り組んでおり、今も風情ある景観が守られています。


 「白沢宿信号」を右折して、次の十字路を左折した先、川の傍の須賀神社に七福神の弁財天像が置かれている。


【白沢宿】 宇都宮宿追分から2里28町(10.9Km)、白河宿まで18里26町19間半(73.6Km)

 江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白沢宿でした。

 宇都宮で日光街道と分かれ、白沢宿から白河宿迄二十三里(約九十キロ)が十宿で構成されました。

 十六世紀以前は純農村でしたが宿のルーツは関ヶ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めにさかのぼります。

 すなわち徳川軍が鬼怒川を渡るとき、その案内役をかって出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と、上岡本村庄屋の福田家でした。

 その功績が認められ戦いののち両村共同で白沢宿という名で往還宿を構成することが許され、慶長十四年(1609)には、町割も完成し両家は御用を勤め問屋になっています。

 天保十四年(1843)には本陣一、脇本陣一、旅籠屋十三軒を数えていました。白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。

 明治十八年奥州街道が現在の国道四号線に移り、おかげで現在の宿のおもかげを今にとどめています。

 白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存してゆくため、むらづくり事業を契機に、用水堀に鯉を放流し環境美化に務め、後世にその歴史を伝えて行きたいと思います。

     昭和六十二年三月吉日 白沢宿保存会


【明治天皇御休之所】  (右側)13:15

 「白沢宿信号」を左折してすぐ右側の「旧白澤病院」敷地内に明治天皇御休之所と刻まれた石柱が建っている。往時は高砂屋という旅籠屋だった。


【白澤宿本陣】 (左側) 13:20

 「白沢宿信号」から左側2軒か3軒目辺りに福田脇本陣があったが、現在は何も残っておらず屋号もなかった。

 次いで左奥に白髭神社があり、七福神の大黒像が置かれている。
 白髭神社鳥居の右隣は番所と標示された駐在所があり、その隣の宇加地家本陣跡で屋号も掲げられていた。門から奥を覗くと玄関部分が本陣時代のものと思われる建物が見えた
  

 宇加地家の門左側に白沢宿の説明(上記【白沢宿】に記載)と、右側には各宿への里程が書かれた案内板が立っていた 。里程表記におかしな箇所があるが、本文通り記載した。

【ここは江戸より三十里】

 江  戸  江  参拾里  四町   弐拾間    (118.4Km)

 宇都宮宿江    弐里弐拾八町         (10.9Km)

 白 澤 宿 与利

 氏 家 宿 江    壱里  半            (5.9Km)

 喜連川宿江    参里  拾八町         (13.7Km)

 佐久山宿江    六里  拾弐町参拾六間    (19.0Km)

 大田原宿江    八里   壱町  拾七間   (25.8Km)

 鍋 掛 宿 江  拾壱里弐拾四町  拾四間   (38.7Km)

 越 堀 宿 江  拾壱里弐拾壱町   弐間   (39.6Km)

 芦 野 宿 江  拾参里参拾弐町四拾四間半 (49.6Km)

 白 坂 宿 江  拾七里   壱町  拾九間半 (62.1Km)

 白 河 宿 江  拾八里参拾四町  拾九間半 (69.6Km)

                (奥州街道中宿村大概帳による)

  奥州道中白河宿より、宇都宮宿迄弐拾壱里余りを、膝栗毛によって踏破した記年にこの高札を掲げる。

     平成参年(1991)拾壱月四日 奥州街道白澤宿の会 奥州街道膝栗毛の会


【造り酒屋・薬師堂】 (左奥) 13:30

 本陣の先、左奥の明星院には七福神の布袋像が置かれている。

 突き当り(二つ目の鍵形)に、下野地酒「澤姫」の醸造元井上清吉商店がある。創業は明治元年。ロンドン開催の世界最大酒類コンテスト「インターナショナル・ワイン・チャレンジ」で、SAKE部門「吟醸酒・大吟醸酒の部」にて2年連続(2010/2011年)ゴールドメダルを受賞したとのこと。

 その造り酒屋の前を左折した奥に薬師堂があり、七福神の毘沙門天像が置かれている。

 また、薬師堂の右側には宇加地家代々の墓があり、江戸時代の八代までの墓誌が建っていた。


【宿の入口の松】 (左側) 13:35

 奥州道中は、造り酒屋の前を右折してすぐの「九郷半橋」を渡り、鬼怒川堤防を目ざして直進して行く。

 その「九郷半橋」手前の左側に立派な松の木が聳え、前に立っていた「白沢宿信号」の所にあったのと同じ「奥州街道白沢宿 まち歩きマップ」に宿の入口の松が描かれていたので、この松のことと思われる。


【北野神社】 (右奥) 13:37 

 「九郷半橋」を渡ってすぐ右折すると奥に北野神社があり、七福神の恵比寿像が置かれている。

 神社の境内には「白沢山車収納庫」が建っていて、神社に行く途中の川際に屋台の説明板が立っていた。

【白沢甲部彫刻屋台】

 明治初期に鹿沼から購入したと伝わる黒漆塗彩色彫刻屋台で、形式は宇都宮形のものです。

 鬼板と懸魚は獅子と牡丹で、牡丹は棟上では見事な籠彫りとなっています。正面柱は右に昇り龍、左に降り龍が彫られ、高欄下にも龍が彫られています。脇障子や欄間は花鳥彫りで、12枚の障子下部にはそれぞれに干支の動物が彫り込んであります。

  製作年代:天保4年(1833)

  作   者:堀師−富田宿 三代目磯辺義兵衛(敬信)他

  明治3年(1870)の手直し

  塗師−晃陽住 坂本虎吉

  錺師−      手塚卯之吉

  絵師−      貴之

     宇都宮市教育委員会


【江戸時代の鬼怒川の渡し】 (右奥)13:46 

 「九郷半橋」から直進して、次の「西鬼怒川橋」を渡る手前を右折すると、すぐ先の木立の前に「奥州街道白澤宿の会」による「←江戸時代の鬼怒川の渡し」と書かれた標柱が立っている。説明文等は無かった。


【白澤の一里塚趾】 (左側)  13:50

 「西鬼怒川橋」を渡って少し行った左側に「白沢河原」という「関東バス」の折り返し広場がある。

 その広場に、白澤の一里塚趾碑開田之碑、最後の白澤宿七福神の福禄寿像が建っている(写真右から、開田之碑、福禄寿像、一里塚趾碑、一里塚の説明板)

 

【白澤の一里塚】

 一里塚は、旅人が目的地へ到着するまでの目標と馬や駕籠の賃銭の支払いの目安に、江戸幕府によって慶長九年(1604)に設置されました。江戸・日本橋を起点にして、奥州街道はじめ五街道の両側に一里(約四Km)毎に設けられました。塚は一般に九メートル四方で、この上に榎木が植えられ、一里塚であることの目印と旅人の日よけの役目も果たしました。

 古文書には、白澤の一里塚は日本橋から三十番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、度々の洪水で壊されてしまったと記されています。

 奥州街道白澤宿の会では、江戸時代に多くの人たちが利用した一里塚の歴史を後世に伝えるため、会員と地元の白沢河原、白沢甲部、白沢南の各自治会の皆さんの協力を得て、ここに「白澤一里塚趾」の碑を建立しました。

     平成二十一年五月二十三日 奥州街道白澤宿の会

 ◎前面道路は江戸時代の奥州街道(奥州道中)です。


【鬼怒川の渡し跡】 (右下) 14:18

 一里塚跡から更に真直ぐ進み、鬼怒川の堤防に突き当ったら堤に上がって左に進む(14:00)。

 遥か先の方まで続いている堤防道を15分程進むと、右へ戻る様に下がる道が現れるので、下りて林を抜けると鬼怒川の護岸に鬼怒川の渡し跡と書かれた標柱が立っている。標柱には、左方向に「氏家宿」、右方向へ「白澤宿」の標示もある。

 堤防に登って8分程進んだ右前方に下りる道ではなく、2本目に下る道なので注意。
 現在は、ここから対岸に行けないので、この先の「阿久津大橋」を渡ることになるが、歩道が無いので歩くには怖い橋である。

 橋を渡ると「さくら市」に入る。
  


【船玉(ふなだま)神社】 (左奥) 14:40〜14:55

 「阿久津大橋」を渡って、すぐ右側にある「(有)アクツ建材」の前を左折して少し進むと、舟形の土地に船玉神社が建っている。

 神殿に向って左手前に立つ常夜燈の台座には、「右 奥州道」、「左 江戸道」、「此方河岸道」と刻まれていた。

 

【阿久津河岸・船玉神社】

 徳川家康が江戸城に入部すると、領地である関八州諸国から建築用材や食料の輸送はもっぱら川船によった。幕府が開かれ、やがて参勤の制が布かれると、東奥の糧穀や物産などは、阿久津まで陸送され、ここから川船で江戸に送られるようになり、さらに商用の荷駄も旅人もこれを利用するようになった。川船の発着場を「河岸」という。

 阿久津河岸は奥州街道の鬼怒川渡河点(とがてん)にあたり、最上流に位置するという地の利を得て、慶長以来、明治の中期まで水陸交通の要地として300年間の繁栄を続けた。

 鬼怒川上流独特の川船を「「小鵜飼船」といい、また、船頭たちが、水上安全の守護神として河岸場にまつったのが、船のみたま・船玉(魂)大明神である。境内は船の形を模して作られたといわれ、舳(へさき)の位置に神殿がたてられており、一般の神社とは趣を異にしている。


【高尾神社】 (右側) 15:05 

 船玉神社からから街道に戻り、突き当りの「上阿久津交差点」を左折する。

 この交差点を真直ぐ進むと「与作稲荷神社」が、曲って郵便局の前を左折すると「浮島地蔵尊」等があるが寄らなかった。

 その先、歩道橋のある所を右に入るとすぐ高尾神社がある。今は普通の社殿だが、尻尾をまるめた 可愛い狛犬を見るだけで階段を登った価値があった。

 人間の能力では自由にならないのが天候です。それを支配する神が高尾神で、天空や地の底、闇の中にいる神々たちの集団です。雷神・龍神・水神などとなって人々に信仰されてきました。上阿久津の高尾神は鬼怒川と関係が深い水神(龍神)信仰が原点と考えられます。

 10月19日の大祭には古法による強く発酵させた甘酒と生の川魚を一緒に供え、それをいただく古式の神事が伝承されています。もとは延宝6年(1678)に建設された総欅造り、彫刻や色彩で仕上げら れた社殿でしたが、明治39年(1906)に焼失し、その後再建しましたが昔の面影はありません。

 それでも、古来よりの農耕や河岸の水とかかわりがあった上阿久津の守護神だったことがしのばれます。


【将軍地蔵】 (右側)  15:18

 右側「太古精機」を過ぎた林の中に将軍地蔵が祀られている地蔵堂があり、境内に天然記念物の公孫樹の巨木が聳えている。

 旧奥州道中は、ここから右斜めに進み「スーパー・ベイシア」の脇につながっていたが、現在は「日立物流」の敷地となって消滅している。

 

【将軍地蔵】

 源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ渕の悪蛇のため進めません。宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として堂原に将軍山地蔵院満願寺を建てました。

 室町時代のころ、ここから日光山に修業にいったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられ気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べつくしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き討ちをしたので満願寺は焼けてしましました。

 江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全にご利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石燈籠などが残されています。

 

【堂原の公孫樹】 天然記念物(昭和61年11月28日指定)

 堂原の将軍地蔵(そうめん地蔵)境内にあるイチョウ科の落葉高木で、雌雄異株。原産は中国。樹皮が厚く、耐火力にすぐれ、薬用にもなったので、日本では古い由緒をもつ神社仏閣に医療・火防の霊樹として植えられた。このイチョウは今宮神社のイチョウ(町指定天然記念物)と推定樹齢が同じく約六百年とされている。

 今宮イチョウが雄、このイチョウは雌で、併せて「夫婦イチョウ」と呼ばれている。樹幹や枝から気根がたれ下がり、乳房の様に見え、樹液がしたたるので、古来より、乳不足の母親はこのイチョウに願いをかけると効きめがあったといわわれている。晩秋には沢山の銀杏が落ち、賞味されている。当地方の名木であり、まれにみる巨木である。

  樹齢(推定)  約六百年

  樹    高  二八・二メートル

  目 通 周 囲  四・九メートル

     氏家町教育委員会

 *文中の今宮神社は、この先、氏家宿の奥にある。


【勝山城跡】 (左側)  15:25〜15:50

 将軍地蔵から数分で勝山城跡の入口に到着する。
 城跡内には「さくら市ミュージアム・新井寛方記念館」があるので当初から訪れる予定だったが、館内入れ替え作業のため一週間休館とのことで残念ながら見ることが出来なかった。

 しかたがなくトイレだけ借りて、「ミュージアム」裏から城跡に向う。
 「ミュージアム」がある所は勝山城の二の丸東廓になる。

 空堀を跨ぐ大手口橋(写真)を渡って土塁で囲まれた本丸跡広場(写真)へ入って行く。更に奥の搦手跡から二ノ丸南廓跡へ進むと鬼怒川の眺めが素晴らしい高台に出て行く。ここに 、二つの伝説の説明板があった。

 この後、川に沿って二の丸北廓方面をまわって元の入口に戻 る。

 戻る途中の土塁下に旧森家長屋門が移築されていた。


大手口橋

本丸跡
 【勝山城跡】

 勝山城は、鬼怒川を見下ろす崖端城(がいたんじょう)(断崖を利用して築かれた城)として鎌倉時代末頃に氏家氏によって築かれ、その後慶長2年(1597)の廃城までおよそ300年の歴史を持っています。現在の塩谷町から芳賀町まで広がる氏家郡24郷支配の拠点ですが、また宇都宮氏の配下として北辺を守る役割も果たす重要な場所でした。南北朝期から戦国期を通じては、芳賀駿河守が城主となっています。その間に改修が行われ、城の各所に堅固な設備が見られます。

 現在確認されている城域は、南北450m、東西は北辺で325mあり、段丘先端部の本丸をL字型に二の丸、三の丸が囲む連廓式の縄張り(城の設計をいう)が想定されます。

 本丸は、内径で東西80m、南北70mの方形で一周する土塁は本丸内の高さ3〜5m、堀底からは7〜8mあります。本丸東側の一段高い土塁部分が大手(正面入口)で、堀内に四脚の橋が架けられていました。大手北側の櫓台が張り出して横矢掛け(侵入する敵に横から矢を射る施設)の構造を備えています。南西部の搦手(裏側入口、通用口)は土塁の折を利用した横矢掛けの設備と橋があります。

      さくら市・さくら市教育委員会


 かつてこの辺りの崖下は草川と鬼怒川が合流し、深い淵となり常に渦巻いており「釜が渕」と呼ばれていました。この「釜が渕」にまつわる伝説が今に語り継がれています。

【竜宮城の貸し椀】の伝説

 勝山の釜が渕っつうどこは、言ってみだらわがっぺきっとも、底が見えねっくれ暗くて、気味悪いっくれ深えとこなんだよ、ほんだきっと、昔はもっと深がったっつうぞ。ほれもほのはずだんべえ。ほっからは竜宮城までつながってだっつうがら。

 竜宮城の乙姫さまは、気立てがどでもええ神さまだから、村の者が何かに困って願えごとすっと、何でも貸してくれたんだど。

 えづのこったがぁ、村の者が人寄せごとしっぺって思ったんだきっと、茶碗が足んなくて困ってたんだと。ほんで、ほうゆう時は、竜宮城さ向がって願えごとしれば、何でも貸してくれるっつうごとを聞いたもんだから、釜が渕さ行ってお願えしたんだと。

 「茶碗一〇〇ぜん貸しておごれ」って三べんお願えしたんだと。ほしたら、おったまげっぺ、水ん中から、ポガン、ポガンちて茶碗が浮がんできたんだと。一い二う三い四おと浮がんで来ちゃあ、川のへりっこさ寄って来たんだど、ほの人はさっそく拾って、ほれを人寄せごどにつかったんだど。

 人寄せごどが終わってがら、ほの人は茶碗を返しに行ったんだど。

 「おかげさんで大助かりしやんした、ありがどうでやんす」ちて、ちゃんと御辞義して、ザブン、ザブンちて釜が渕さ向がって、茶碗を流してやっと、ぐるんぐるん回って、底さ沈んでったんっだど。一回目は大助かりして、ほの後も、ほやって村の者も茶碗借りたんだど。

 ある人が、また茶碗一〇〇ぜん借りて、返しに来た時のこどなんだど、えづものよおに、一い、二う、三いと数えて釜が渕さ向がって、茶碗をほん投げでえだんだきっと、お終(しま)えの一つになった時、ほれがとでもきれえな茶碗だったもんだがら、返すのがもったえねぐなっちたんだど。一つぐれ、えがんべやって思ったんだんべ、ほんで、ほの一つを懐さ入れで家さ帰ってきっちたんだど。

 ほれがらしばらぐしてがら、まだ茶碗借りに釜が渕さ行ったんだきっとも、ほれがらっちいもんは、何も浮がんでこねがったんだど。ほんで何べんも何べんも頼んでみだんっだきっと、やっぱし何も浮がんでこねがんったんだど。誰が釜が渕さ行って乙姫さまにお願えごどしても、何も出てこねぐなっちまったんだっつうこった。

 きっと、乙姫さまが、よっぽど怒って、釜が渕と竜宮城がつながってっとこをふさえっちたんだんべなぁ。

【雪姫と紅葉姫】の伝説

 昔々なぁ、どごの国でも、年がら年中、戦さばっかし、やってだころのこどなんだど。

 ほのごろ、勝山のお城を守ってだお殿さまに、器量よしの二人のお姫さまが居だんだど、姉さまは色白だったんで「雪姫」って呼ばれ、妹の方は赤えほっぺだしてだもんだがら「紅葉姫」って呼ばれでだんだど。

 ほの勝山のお城も、回りの国がら攻められだもんで、お城の家来はみんなして戦がったんだきっとも、とおとお負げちったんだど。

 お殿さまは二人のお姫さま呼ばって「お城から逃げでげ」っちだんだきっと、二人はえづまでもお殿さまの言うとおりしねがったんだど。

 ほのうぢ、お殿さまも家来だちも、討ち死にしたり、切腹したりして、死んちったんだど。

 雪姫は、敵にとっ捕まるぐれだったら、死んちった方がええやっちて、紅葉姫と一緒にお城追ん出て、高え崖の上がら、がままえでる(渦巻く)釜が渕さ、抱き合って飛び下りたんだど。

 ほれがら随分と年がたって、こご通る船乗りだちは、仲良ぐ泳えでる白え鯉と赤え鯉をよぐ見がげだんだど。勝山の城が負げだっつう話を聞いでだ人だぢは、白え鯉は姉さまの雪姫で、赤え鯉は妹の紅葉姫じゃながんべがっちて話しながら、船をこえだんだど。

 ほれからまだ長えこどだって、鯉の話も忘れかげっちたころのごど、源じいさんつう漁師が、こごらにすんでたんだど。ほの日も大川(鬼怒川)さ漁に行ったんだきっと、なじょしたこったが、ほの日に限って、からっきし魚が取れながったんだど。しゃあねえがら、だんだん川下って釜が渕あだりまで来たらば、日が暮れっちまたんだど。こごらで一網打ってから帰っぺって、川っぺりから網打って、さで引き上げっぺとしんだきっと、ながなが上がんねんだど。力えっぺえたぐり寄せでみだらば、網の中にゃ、白くてでっけえ鯉がかがってだんだど。

 思えがげねえ漁に、源じいさんは嬉しぐって、帰る気んなったらば、「雪姫、雪姫」って呼ばる女っこの声がしたんだど。振り返っても何も見えねし、水の音しかしねんだど。源じいさんが、まだ歩ぎ出す気んなったら、まだ「雪姫」って声がしたんだど。ほの後も、帰る気んなっと呼ばる声が聞けで、ほすっと源じいさんも、ちっと気味悪ぐなっちったんだど。三回目の声が聞けで振り返った時、白え鯉が源じいさんのはげごん(かごの一種)中から飛び上がって、川ん中さ逃げちったんだど。ほーして、ほれを待ってだみでに、赤え鯉が見えで、あっちい間に二匹の鯉は深えどごさむぐっちたんだど。

 ほれから後、源じいさんは重え病気わずらって寝込んちたんだど。えぐら医者さまにかがってもなおんねで、苦しんでた晩に、源じいさんは変な夢見たんだど。えづがのあの白い鯉が出できて「はぁ漁はしねで下せえ」ちだんで、「わがったよ」ちたら、病気なおっちたんだど。

 釜が渕にゃ、今でも、雪姫と紅葉姫が白え鯉と赤え鯉んなって、住んでんだどさ。

【旧森家長屋門】

 長屋門は長屋の中央に出入り口を設けたもので、両側は物置や隠居屋などに利用された。本来、武家屋敷のものだが、近世以降、名主・組頭など村役人に許されるようになり、さらに明治以降は家格に関係なく建てられるようになった。この長屋門は喜連川町鹿子畑から移築したもので、天保年間の建造と推定されている。


【お伊勢の森】 (左側) 16:25

 奥州道中は、勝山城跡入口前を右折し、すぐ「ベイシア」駐車場入口前を左折して行くのだが、ここで「ベイシア」に寄って明日の朝食を購入する(15:55〜16:20)。

 街道に戻り、すぐ先の信号も横断歩道もない国道4号線をやっとの思いで横断する。

 国道を越えるとすぐ、左奥に小さな森が見える所がお伊勢の森である。

 

【お伊勢の森・奥州街道】

 お伊勢の森神明宮は、遠く村の発生とともにまつられたのであろう。旧奥州街道を少し離れた所に四角四面に石を積んだ石塚があり、その中に伊勢神宮の内宮・外宮その他の末社を勧請したものがまつられていた。あたり一面が森をなしていたことから、俗に「お伊勢の森」といった。ここに詣でることにより、同じご利益があり、いくつかの霊験談が伝説化して残っている。

 すぐ前の道が昔からあった古道で、東は古宿(現古町)に、東(南?)は堂原地蔵尊〜阿久津へと通じている。徳川幕府が開かれるとともに街道が整備され、氏家村にも宿場や伝馬の制が敷かれるようになり、近世の新しい宿・氏家宿ができた。この街道を奥州道中と名付けたが、一般には、奥州街道と呼んでおり、氏家以北37大名の参勤や公用のため、本陣や問屋が設けられ、商人や旅人が足繁く往来した。


【道標と馬頭観世音碑】 (右側) 16:40〜16:45

 お伊勢の森を後に、JR東北線の「旧奥州街道踏切」を渡って、突き辺りを左折すると氏家宿に入って行く。

 この丁字路右側に、新しくしたと思われる馬頭観世音碑、古い道標石地蔵が建っている。

 「ここは古町」と書かれた標柱に道標の説明板が掲げられていたが、擦れて非常に読みにくかった。

 また、ここに「河原石塔婆群0.1K」の標柱があった。この丁字路を左折して100m程行った右側の路地を入るとあるとのことだったが、その附近に標示等が無く見つけられなかった。

 

【奥州街道道標石】

 奥州街道は、白澤・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・白河の10宿、20里22町余の道中で、江戸時代、五街道の1つとして江戸と奥州を結ぶ重要な交通機能を果たしてきた。

 奥州街道と大谷街道の分岐点となっているこの道標は享保以前頃の設立で「右 江戸海道、左 水戸かさま、下だて、下づま」とある。「馬頭観世音」碑は、幕府下野の名筆家、喜連川藩ゆかりの小山霞外(かがい)の書で天保9年(1838)11月の設立である。

 ここは氏家宿の南端でもあり、奥州街道は鍵の手に曲がり、木戸番所が設けられていた。


【氏家宿】 宇都宮宿追分から4里10町(16.8Km)、白河宿まで17里8町19間半(67.7Km)

 宿内人数 879人、宿内総家数 235軒(本陣1、脇本陣1、旅籠35)


【本陣跡・脇本陣跡】 16:55

 国道293号線の「氏家交差点」を渡った、「黒須病院」(右側)前の「平石歯科医院」(左側)辺りが、氏家宿本陣(平石六右衛門)があった場所で、その斜め向いが脇本陣だったが、 共に今は標柱も何も残っていない。


【寛方・タゴール平和公園】 (右側) 16:57

 本陣跡すぐ先の小公園が寛方・タゴール平和公園で、園内には説明文とタゴールの言葉を刻んだ石板があるだけである。

 この奥にもトイレがあるが、この先にもっと綺麗なトイレがある。

 荒井寛方(1878〜1945)はここに生まれ、日本画家をめざして巣立った。

 仏画を志した寛方は原三渓やアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖タゴールの知遇を受け、日本画の享受として渡印した。その間、アジャンタ壁画模写の難事業を成し遂げ、多くの人々と交わり、日印文化交流の架け橋となった。タゴールとはその後も親交がつづき、現在インドにおいて寛方とタゴールの畏敬の念はますます深まっている。「仏画の寛方」と称された寛方は、晩年には法隆寺金堂壁画の模写にも従事した。無念にも完成直前に急死したが、その業績は今なお燦然と輝いている。寛方の遺した膨大な資料、遺品とこの地は、故人となった子息の英郎氏と孫の聖也氏が引継ぎ、寛方顕彰を果たさんとした。英郎氏婦人なみ子氏と子息の孝志氏はその遺志を守り、これらを氏家町に寄贈された。氏家町は、このご意向を尊重し、寛方とタゴールの偉業を偲び、二人の友情を永遠に記念するため、この地を公園とした。

 ここに集い憩う人々が、寛方芸術と二人が追及した世界平和の理想をより深く理解されることを願うものである。

     1994年5月 氏家町

【上記文中に出てくる「原三渓」について】

 原富太郎(1868〜1939)は、号を三渓と称し、岐阜県の出身。

 1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫娘と結婚し原家に入籍。我が家のご近所(横浜市中区本牧)に住み、生糸の貿易で莫大な財を成した実業家。

 また、広大な日本庭園(三渓園)を造り、全国から歴史的価値のある建物を移築し、一部(外苑)を無料公開した。

 更に、美術品の収集や芸術家の支援・育成に力を入れ、下村観山・前田青頓・横山大観・タゴール等が三渓園に滞在し作品を遺している。その他多くの芸術家とも親交があった。

 私の子供時代は戦災で荒れてはいたが、外苑には自由に入れて格好の遊び場だった。今は埋め立てられしまった海で、夏は海水浴や潮干狩りが出来たのが懐かしい思い出となっている。

 現在、三渓園は横浜市に寄贈され、財団法人三渓園保勝会により整備され、内苑・外苑とも有料公開されている。


【西導寺】 (左側) 17:05 

 「氏家駅東入口信号」手前の細道を左に入ると西導寺がある。本堂の左側に鎌倉時代末期の五輪塔が三基建っている。

【西導寺本堂】 建造物

 本寺院は建久二年(1191)氏家氏の始祖氏家公頼が建立したと伝えられる古刹である。

 現本堂は天明四年(1784)に完成したもので、建造は宮大工十五代目長野万右衛門(市貝町)があたり、造営費は本堂作料二十二両・白米十石・手金一両・造作十六両と記録されている。これら費用は、西導寺十三世境誉上人諦雅和尚が明和九年(1772)から十年間にわたって行った托鉢や寄進による浄財でまかなわれた。

 本堂は間口八間・奥行七間・木造平屋・唐破風・入母屋造り・銅板葺きの江戸後期の建造物である。内陣と外陣は丸柱で区画され、 その上部欄間は「天女奏楽」「二十四孝」の図を欅の厚板に透彫りにしたのもである。外側は三尺幅の板縁が三方に廻らされ、勾欄がある。氏家地方では江戸後期の代表的寺院建造物である。

     昭和五十九年三月一日指定 氏家市教育委員会

 

【西導寺の五輪塔】 

 五輪塔の起源は不明だが、宝蓋(ほうがい)をかけた舎利瓶の形に密教思想の万物生成の要素である空・風・火・水・地(キヤ・カ・ラ・パ・ア)をあてはめたと考えられる。日本では平安時代末期に造立が始まり、中世以降石塔といえば五輪塔を指すまでに普及した。

 本五輪塔は平成九年に本寺境内に分散していた各塔を現在位置に移築したもので、形態を比較すると空輪の形と水輪のバランスが違っており、造立に時間差があると考えられる。銘文が無いため正確な年代等は不明であるが、右側の塔は火輪の形態から鎌倉時代末期までさかのぼることができると思われる。

 これらは一般の五輪塔に比べ大型であり、威風堂々たる姿は古都鎌倉に存在してもひけをとらないものである。他に町内の大型の五輪塔は光明寺と堂原地蔵堂に各一基づつ存在する。

     平成九年十一月二十一日指定 氏家町教育委員会


【つた地蔵尊】 (左奥) 17:15

 西導寺の脇から駅へ向う道に出て、一本後ろの道の中ほど、丁度西導寺の真後ろにあたる所につた地蔵尊がある。

 地蔵はお堂の中に入っているのではなく、お堂の後ろに座っている。

 (下の写真で、常夜燈の後ろの屋根が西導寺本堂)



 

【石造地蔵菩薩坐像(彫刻)】

 蔦地蔵とか定家地蔵とも呼ばれる本彫刻は高さ一・三六メートルの安山岩に地蔵菩薩坐像と蓮弁台座まで丸彫りにした中世期の石仏である。

 右手に錫杖、左手に摩尼宝珠を持つ延命地蔵の形で、法衣・袈裟も的確に刻まれ、台座にめぐらされた蓮弁は力強い。細面・切れ眼は冥想的で、品格を保ちながらも耳や鼻は大きめに強調されている。また、この石仏が正面だけでなく、周囲を巡りながら拝するために、丸彫りは丹念に仕上げられ、重量感あふれる中世石仏となっている。

 鎌倉期に宇都宮氏を中心に形成された宇都宮歌壇は京都・鎌倉に次ぐ一大地方歌壇で、歌聖藤原定家と親交を結び、宇都宮頼綱の女は長子為家に嫁いでいる。頼綱は法然上人に帰依し蓮生法師と称した。宇都宮氏の支族氏家公頼も浄土信仰をもち、定家の七周忌に定家の面影を写した石仏を造立したと伝えられ、以来定家地蔵といわれるようになったという。

     (昭和五十一年三月三日指定) 氏家町教育委員会


【光明寺】 (右側) 17:20

 街道に戻り、「氏家駅東入口信号」を過ぎたすぐ右側の小公園に東屋と綺麗なトイレがある。

 その隣の右へ入る道が光明寺の参道となっている。

 山門を入った正面、お堂の後ろの岩の上に大きな不動明王がでんと構えている。

 

 奥州道中分間延絵図にも描かれている、高さ3mの青銅製不動明王坐像( 県指定文化財)は、宝暦九年(1759)の鋳造。

 「さくら市ミュージアム」に、この不動明王を造った時の木型が保存されている。


<夕食> 17:25〜18:15

 本日泊まるホテルは、朝食も夕食も付かない素泊まり専用なので、「氏家駅東入口信号」の右側にある新装なった「お食事処 なかや」で夕食をとった。

 この時間帯にも関わらず客は私達だけだったが、注文したカキフライ定食は美味しかった。


 夕食後、街道を進み、奥州道中は次の「上町交差点」を右折する。この交差点は右折する奥州街道と直進する会津中街道の分岐点になっている。

 この交差点を直進し、次の「さくら市役所前信号」を左斜めに真直ぐ進むと、【将軍地蔵】の項で出てきた今宮神社がある。「上町交差点」から760m程だが、真っ暗になってしまったので、私達は行っていない。

 「上町交差点」を右折して130m行った五行川に架かる小さな「五行橋」を渡り、更に60m行ったこちらも小さな「思案橋」を渡る。

 「思案橋」から120m行った右側に「宇都宮餃子館」の販売店があり、その後ろに今夜宿泊する「ホテル サンヒル」がある。食事は付かないが、奥州道中沿いにあるので便利なホテルである。食事付を希望するなら、やや高いが氏家駅の近くに「清水壮」がある。



 2回目の旅終了 18:25 氏家宿・奥州道中沿いの「ホテル サンヒル」

   今回の記録 :街道のみの距離は、15.7Km (上河原バス停〜氏家・ホテル)

           宇都宮宿追分から、四里十五町 (17.4Km) 

           9時間15分 35,400歩 (上河原バス停〜氏家・ホテル)

           寄り道を含めた実歩行距離は、21.8Km/36,100歩 (大通り2丁目・駐車場〜氏家・ホテル) 累計23.5Km

 

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