大磯宿(後半) (大磯駅 → 国府津駅) <旧東海道10回目 >

2002年10月12日(土) 快晴

 二人旅。(JR「大磯駅」〜JR「国府津駅」)

2015年9月15日(水) 晴
 「大磯駅」(9:00)から「国府津駅」(15:35)まで2002年と同じ行程を一人で歩く。



 
(注:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)

「平塚・大磯宿(前半)」 ← 「目次」 → 「小田原宿」

 2002年と同じ行程を歩いたので、2015年9月現在に全文改訂。途中経過時間も新たに記載。


【大磯駅前洋館】 
 大磯駅改札を9:00に出て、左手「観光案内所」の前を過ぎた二股道の間に、文化庁登録有形文化財の大磯駅前洋館が建っている。
 朝早い為か、中に入れなかったが門より正面を見学。

指定番号1 大磯駅前洋館 旧木下家別邸及び新館並びに敷地】 景観重要建造物(平成24年9月13日指定)
 正面の洋館は旧木下家別邸と呼ばれ、切妻造スレートぶきで左右の屋根上にドーマー窓、各室にベイウインドウを設けているのが特徴です。大正元年に建築され、工法はいわゆるツーバイフォー工法で、国内最古の部類となる建築遺構でもあり、平成24年2月23日に国登録有形文化財に登録されています。
 緑豊かな土地に周辺環境と調和した風格のある佇まいは、新館と石垣を携えた敷地と一体となって、大磯の別荘文化を現代に伝える景観を形成しています。
     大磯町

【新杵(しんきね) (左側) 9:10
 大磯駅前洋館の二股を右斜めに下り、前回訪れた地福寺前を通って東海道(国道1号線)の「大磯消防署信号」を右折する。
 往時は消防署の少し先左側に石井本陣があったが、早くから閉じてしまったとのことで、探してみたが標識等も無かった。
 次の「照ヶ崎海岸入口信号」の手前右側に新杵菓子舗がある。
 明治二十四年から続く和菓子屋で、島崎藤村や吉田茂に愛されたとのことで、名物に西行饅頭や虎子饅頭等がある。
 2002年に訪れた時、『西行』と焼印された西行饅頭を購入したのを思い出す。
  


【大磯照ヶ崎海水浴場碑】 (左側) 
 「照ヶ崎海岸入口信号」の左角に大きな石柱が建っていて、正面に『大磯照ヶ崎海水浴場』、右面に『大正四年五月建 崋山書』と刻まれていた。
 ここを左折すると、200m程で照ヶ崎海岸と大磯港に着く
(下の写真の先)
  

 信号を渡ると国道の左側に旧道が少しだけ残っていて、その分れ道の先端に『← 海水浴場発祥の地』と書かれた案内柱が立っている。

 右の道が国道1号線、左の道が旧東海道。
 先端に『海水浴場発祥の地』の案内柱。

 ポストのうしろに、下記の南組問屋場の説明板が立っている(旧道側)。
 そのうしろの茂みの中に、下記の新島襄終焉之地碑が建っている(国道側)。
 

【南組問屋場】 (左側) 
 
旧道側のポストの隣に南組問屋場の『此辺大磯宿の史跡』と題する絵図兼説明板が立っている。

【南組問屋場】 
 幕府からの書状の継立てや、参勤交代の大名行列の際に周辺の助郷村々から動員された人足や馬の差配を取り仕切る場所であり、宿場にとってたいへん重要な施設であった。
 大磯宿には、南組と北組の二箇所に問屋場が置かれていた。
     大磯町

【新島襄終焉の地】 (左側) 
 南組問屋場の後ろの茂みの中に新島襄終焉の地碑が建っている。入口は国道側にある。



【新島襄終焉の地】
 
明治の先覚的教育者新島襄は、一八四三年ニ月十二日(天保十四年一月十四日)江戸神田の安中藩邸内で、藩主新島民治の長男として生まれた。
 その当時は、近代日本の黎明期に当り、新島襄は憂国の至情抑えがたく、欧米先進国の新知識を求めて一八六四年(元治元年)函館から脱国して米国に渡り、苦学一〇年キリスト教主義教育による人民教化の大事業に献身する決意を抱いて一八七四年(明治七年)帰国、多くの困難を克服して、一八七五年(明治八年)十一月二十九日京都に同志社英学校を設立した。
 その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中病にかかり、一八九〇年(明治二三年)一月二十三日療養先のここ大磯の地百足屋旅館で志半ばにして四七歳の生涯を閉じた。

【原敬大磯別荘跡地】 (左奥) 9:18
 「照ヶ崎海岸入口信号」を左折して、海岸に向う途中の左手民家の塀に原敬大磯別荘地跡の説明板が立っている。

【原敬大磯別荘地跡】
原敬 1856〜1921
 政友会総裁・首相 盛岡市出身、南部藩士上士の家に生まれ、15歳で上京。司法省学校に学び、新聞記者を志し、郵便報知入社。その後、外務省に入り、外相陸奥宗光の知遇を得、通商局長を経て外務次官に進む。退官後、大阪毎日地新聞社長に就任。政界に投じ、青年時代からの悲願であった薩長藩閥政府の打倒に全力を傾ける。
 政友会総裁となって政党の近代化をはかり、大正7年(1918)秋、折からの米騒動によって満身疎痍創となった長州閥の寺内内閣の後を承けて首相となり、日本最初の純粋政党内閣を組織する。世はアゲテ「平民首相」とよんだ。すべての栄爵を拒否したからである。
 在職3年余、大正10年(1921)11月4日、東京駅頭で暗殺される。65才であった。
 原敬の一生は、近代日本建設への軌跡であり、英知の象徴である。
     大磯との関わり
明治16年12月16日 27歳 天津領事
                    薩摩藩士 中井弘(工部省大書記官 後の滋賀県知事、京都府知事)の子女 貞子(14歳)と結婚
明治25年 3月26日 36歳 外務省通産局長 妻と大磯へ
        9月13日      妻病気 大磯へ
明治26年 8月 1日      貞子 大磯へ
明治28年 5月14日 39歳 外務次官 2回 大磯へ
明治29年        40歳 8回 大磯へ  大磯に別荘購入
明治34年        45歳 大阪北浜銀行頭取 大磯へ7回
明治37年        48歳 大阪新報社長
明治38年        49歳 衆議院議員 大磯へ6回  貞子と離婚成立
明治40年        51歳 内務大臣 大磯へ2回
大正 2年        57歳 内務大臣 鎌倉腰越に別荘用地購入  大磯別荘手放す
大正 7年        62歳 第19代内閣総理大臣

【松本順謝恩碑】 9:20
 「西湘バイパス」の下に着いたら、右側にある歩道橋を渡る。歩道橋を真直ぐ進めば「港公園」、その左側は大磯港である。
 歩道橋を渡っていると右手に松本順謝恩碑が見えるので、途中の階段で右下に降りると碑のある広場に出られる。
 碑には『松本先生 謝恩碑  犬養毅敬題』と刻まれている。

【海水浴場発祥の地】 
 明治十八
年 天与の自然に恵まれた大磯照ヶ崎海岸に 日本で最初の海水浴場を開いた軍医総監松本順先生は国民の健康増進と体力の向上をはかるため 海水浴が良いと説き その頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れて来て祷龍館(とうりゅうかん)に泊らせ 海水浴をさせて大磯町の名を日本中に広めました
     昭和五十九年六月二十四日
        親しまれて百年 
          逢いに来て 
            大磯の 夏

【大磯八景碑 照ヶ崎帰帆】 
 松本順謝恩碑の向かいに大磯八景碑『照ヶ崎帰帆』の歌碑が建っている。

【大磯八景の一 照ヶ崎帰帆】 
 いさり火の 照ヶ崎までつづく見ゆ いかつり船や 今帰るらん   敬之

 
母と子が海辺に立って、父の船の戻りが遅いのを待ち焦がれている情景を詠んだものか。

【照ヶ崎海岸】 9:25〜9:32
 松本順謝恩碑のうしろの階段を上ると美しい照ヶ崎海岸が見え、岩礁にアオバトと思われるハトが飛来していた。
 海岸には多くのカメラマンが三脚を立て、望遠レンズでアオバトを狙っていた。
    

 私が岸壁に上がった時、丁度集団で岩礁に羽を休めていたハトがいたが、残念ながらカメラを向けた瞬間に飛び立ってしまい、一羽のみの写真になってしまった。

【大磯照ケ崎のアオバト集団飛来地】 神奈川県天然記念物(平成8年2月13日指定)
 アオバトは、ハト科に属する緑色のたいへん美しい鳥で、関東地方には夏鳥として飛来し、4月から11月頃まで山地の広葉樹林に生息しています。この鳥が海岸に飛来して海水を飲む習性をもつことはよく知られ、全国の数か所で大きな集団による吸飲活動が見られます。
 大磯照ケ崎では、丹沢山地から飛来するアオバトが多く、初夏から秋にかけて多いときには1日で延べ1000羽以上が観察されます。このことは、満潮時にも海水を飲むことができる岩礁があること、背後に大磯丘陵が接近して深い森林に恵まれていることなでの好条件を備えているためと思われます。
 全国有数の飛来地であるこの海岸は、アオバトの生息環境を保全するうえで欠くことのできない重要な場所であると考えられます。このことから、当飛来地を県の天然記念物に指定し、保護するものです。
     平成10年3月1日 神奈川県教育委員会

【湘南発祥の地 大磯】 (左側) 9:40
 「照ヶ崎海岸入口信号」に戻り、左側の短い旧道を進む。国道に合流した左側には「井上蒲鉾店」がある。
 その直ぐ先に鴫立庵の看板が出ている手前左側に、湘南発祥の地 大磯の碑が建っている。

【湘南発祥の地大磯の由来】 
 
崇雪という人が寛文四年(1664)頃、西行法師の詠んだ名歌
 
「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮」
 を慕って草庵をここに結び標石をたて東海道を往還する旅人に鴫立澤を示し「著盡(ああ)湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのがはじめです。
 中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになりました。
     
平成八年四月


 2002年に訪れた時には、次の文もあった。
【日本最初の海水浴場】
 初代軍医総監松本順の尽力により、わが国最初の海水浴場として大磯海水浴場が照ヶ崎海岸に開設されたのは明治十八年(1885)のことです。
 明治二十二年の『朝野新聞』は「・・・・・・殊に驚くべきは婦人達の、大胆にも浴場に遊泳し、塩気強き大濤の恐ろしき音にて来るにも構わず、妻君令嬢並びに女教師らしき連中が身に薄き巾着の西洋寝巻きをまとい、首に大なる麦わら帽子をかぶり・・・・・・。」と大磯付近の海水浴風景を紹介している。


【鴫立庵】 (左側) 9:40〜9:55
 湘南発祥の地碑の隣に鴫立庵がある。一段下がった右手に2基の『旧跡鴫立庵』の石碑とそのうしろに沢が流れ、左手に説明文が立っている。
 沢は、石橋の下を流れてすぐ右に曲がり、やがて渚近い砂浜に吸い込まれてゆく。
 敷地内には、86基にも及ぶ句碑・可碑・墓碑等が点在しているが、そのうち主なものを紹介してゆく。



【鴫立庵 しぎたつあん 
 
寛文四年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄八年(1695)俳人の大淀三千風(みちかぜ)が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
 現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。
 崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に著盡湘南清絶地と刻まれていることから、湘南発祥の地と注目を浴びています。
  こころなき 身にもあはれは 知られけり
    鴫立沢の 秋の夕暮れ  (西行法師)


 説明文のうしろには、大磯八景『鴫立澤秋月』の歌碑(昭和12年建)が建っている。

【大磯八景の一 鴫立澤秋月】
 さやけくも古にし石文照らすなり 鴫立澤の秋の夜の月   敬之


 沢に架かる石橋(文政8年)を渡って、門から場内に入ると右手に受付があり、100円を払ってパンフレットを頂く。
 開場時間:9時〜16時
 休場日:月曜日  12月29日〜1月3日

指定番号2 鴫立庵及び敷地】 景観重要建造物(平成25年1月18日指定) 
 木造平屋の日本の伝統的技法を用いた史跡建造物で、風情のある遺構として人々に親しまれており、昭和58年7月1日に町指定有形文化財に指定されています。また、敷地内には回遊性のある遊歩道が設定されており、石碑や小堂宇などを含めた庭園にも景観的価値が認められています。
 建築物のみならず周囲の史跡庭園、周辺の自然環境など複合的な景観要素が一体となった静寂な佇まいは、大磯らしい風格のある良好な景観を形成しています。


 受付がある建物が鴫建庵室(左下の写真)、その先に続く部屋が俳諧道場(右下の写真)になっている。
 俳諧道場は、日本三大俳諧道場(他に、京都の落柿舎、滋賀の無名庵)の一つで、明和二年(1765)、三千風入庵後約七十年を経て三世鳥酔が庵の再興時増築したものと云われている。
 また、受付の向かいには大磯教育委員会の説明文が立っていた。



大磯町指定有形文化財 鴫立庵 大磯町指定史跡名勝天然記念物 鴫立沢】 (昭和58年7月1日指定)
 現在、鴫立庵内には鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があります。庵室については大淀三千風(1700〜1750)が建てた
もの、俳諧道場については三世庵主鳥酔が明和二年(1756)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果鴫立庵の基本部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられます。
 鴫立沢には西行法師が鴫立沢を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりありました。寛文四年(1664)、崇雪がこの地に草庵を結んだ時に鴫建沢の標石を建て、その標石に《著盡湘南清絶地》と刻んだことから、《湘南》の名称発祥の地として注目されています。
     平成二十二年三月 大磯町教育委員会


 遊歩道を進むと、最初の石段の途中左側に小さな三重塔(昭和12年・1937)が建ち、上った所に虎御前碑(元禄14年・1701)、法虎堂、西行五百年忌の鴫立澤碑(元禄13年・1700)が並んでいる。
  
  
 法虎堂内には虎女の木像が安置され、格子から覗くことが出来る。

【法虎堂】 
 
初代庵主 大淀三千風在位の頃に、お堂・木像ともに江戸新吉原から寄進されたと伝えられており、現在もそのまま遺っています。
 お堂には、日本三大仇討物語『曽我物語』の主人公である曽我十郎の恋人、虎女の十九歳の姿を写した有髪僧体の木像を安置しています。一一七五年に誕生した虎女は、大磯に遊女としてもらい受けられ、十七歳で十郎と出会い、恋に落ちました。


 法虎堂の先に円位堂が建つ。円位堂は、三千風の建てた元禄そのままの建造物で、茅葺きの屋根に被われ、堂内には西行法師の坐像が安置されている。
 今回(2015年)は正面の扉が閉じられていたが、2002年の時に訪れた時は「東海道シンポジウム大磯宿大会」が開催されて、法虎堂と円位堂の扉が開かれ、虎所と西行の坐像を間近で見ることが出来た。
 西行の坐像は2002年の写真を載せる。

    

 円位堂の左側に芭蕉句碑(安永9年・1780)が建っている。
  


 円位堂の前には、西行銀猫碑西行上人歌碑(昭和26年・1951)等数基の碑が建っている。
    

 円位堂の右側には、西行笠懸けの松石燈籠(元禄10年・1697)が建っている。
    

 笠懸の松のうしろには、貞明皇后行啓記念碑が建っている。
  


 その先、一段高い所に茶室があり、その左奥に十七世時処人が寄進した観音堂が建っている。
 茶室の前を右に曲がると、左側に松本順墓碑がある。『守』の一字を刻んだ球形の大石で、町の人が建てたものである。
  


 松本順墓碑の斜め向かいには五智如来(寛文4年・1664)が並んでいる。
  


 五知如来の向かいには、鴫立沢の標石(レプリカ)が置かれている。本物は塩害から守るため、大磯城山公園内にある郷土資料館の庭に移設されている。
  


【大磯八景碑 富士山暮雪】 (右奥) 10:05
 鴫立庵前の「鴫立沢信号」を渡って北へ進む(東海道から見れば信号を右折)。直ぐ最初の道を左折して北西へ、次の二股道を左に取る。右側は「大磯小学校」。
 東海道線の線路にぶつかる直前、11段の石段を上った直ぐ左手の石垣に大磯八景碑『富士山暮雪』の歌碑が嵌め込まれている。
 また、石段を上った所に、富士見橋跡の欄干が残っている。下の写真では欄干が写っていなくて残念だったが石段は写っている。

【大磯八景の一 富士乃暮雪】
 くれそめて 紫匂ふ雪の色を みはらかすなり富士見橋の辺   敬之

【島村藤村邸】 (右奥) 10:10
 大磯八景碑のすぐ先の線路側に島崎藤村邸の案内柱が立っているので、それに従って左折すると、次の左角に藤村邸があり、向かいの小公園にも説明板が建っている。
 庭から屋内を見学する形で、入口で記帳する。
開場時間 9時〜16時
休場日  月曜日  12月29日〜1月3日
入場料  無料

【島崎藤村邸】
 
藤村は、明治三年(1872)二月十七日筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在、木曽郡山口村神坂区馬籠)の本陣の家に生まれ、本名を春樹という。
 昭和十六年(1941)一月十四日大磯のドンドン焼きを見に来て珍しい郷土行事であるのをよろこばれ、これを左義長と言い初められた。
 大磯の温暖な地をこよなく愛し、その春、大磯町東小磯に住まれ、「東方の門」の筆を起こしたのであった。当村は「一葉舟」「夏草」などの詩集を刊行して日本近代詩史に不滅の名を刻み他に文明批評随筆、旅行児童文学など数多くを残している。昭和十八年(1943)八月二十一日静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中頭痛を訴え急に倒れた。八月二十二日午前零時三十五分「涼しい風だね」という言葉を残して木曽の生んだ大文豪は行年七十一才で永眠され、本人の希望により大磯地福寺に葬られた。


【旧島崎藤村住宅−静の草屋−】 大磯町指定有形文化財(平成6年12月21日指定) (小公園の説明文)
   主屋  木造、平屋建、寄棟造、トタン葺
   離れ  木造、平屋建、切妻造、トタン葺
   表門  木造、腕木門、トタン葺
 この住宅は小説家島崎藤村が最晩年の昭和十六年二月から同十八年八月、七十一歳で逝去するまでの二年半、静子夫人と暮らした住まいです。住宅は町屋園と呼ばれた貸別荘住宅の一軒で、関東大震災から昭和初期に建てられたものと考えられます。
 主屋は庭に面して広縁が廻る八畳の居間を中心とし、四畳半の書斎と控えの間が付く簡素な住まいで、藤村が〈静の草屋〉と称し、質素を旨とする生活に合った住まいです。未完の絶筆『東方の門』はここでしたためられ、文豪終焉の地となりました。なお離れは藤村亡き後、昭和二〇年静子夫人が建てたものです。
     平成二十二年三月 大磯町教育委員会

【上方見附跡】 (左側) 10:20
 藤村邸と小公園の間の道を東へ、次の十字路を左折して国道に戻る。
 次の「大磯中学校前信号」の手前左側、「統監道バス停」傍に上方見附絵図付き説明板が立っている。



【上方見附】
 
見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き、宿場を守る防御施設として造られた。
 街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは一・六米程で、その上に竹矢来が組まれていた。
 この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。
 そこには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。
 この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった。
     大磯町経済観光課

【東海道松並木】 (左側) 10:20
 「大磯中学校前信号」を渡った所に、ここを左折する『「こゆるぎの浜』の案内柱が立っている。
 この信号から松並木となり、直ぐ先の「東海道松並木歩道橋」の左後ろに東海道の松並木小淘綾
(こゆるぎ)ノ浜の説明板が立っている。

【東海道の松並木】
 江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
 松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。

 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。
【小淘綾ノ浜】
 『ゆるぎ』とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾(共によろぎ)と書かれ、今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(よろぎごうり)と呼ばれていました。
 万葉集には、『相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも』とよまれています。

 平安時代の古今和歌集には『こよろぎ』とよまれていましたが、その後の歌集には『こゆるぎ』とよまれました。
 歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海岸一帯をさすといわれています。
     環境庁・神奈川県

【松の年輪】 (左側) 10:29
 「滄浪閣前信号」の少し手前に、年輪が印刷されているが朽ちかけたカバーが被さっている大きな松の切り株が残っていて、傍らに説明板が立っている。

【東海道の歴史を物語る松の年輪】
 松並木が整備されてから約四百年。松の年輪はその時代の生き証人として様々な出来事を語ってくれます。
 この切り株は、平成六年十一月に松の天敵であるマツクイムシの被害にあってしまった老松(樹齢二百十七年)ですが、「いつまでも東海道の¥歴史をかたり続けてほしい。」との気持ちから歴史年表として、ここに保存します。
     平成六年十二月 建設省横浜国道工事事務所 小田原出張所

【大磯八景 小餘綾春風】 
 「滄浪閣前信号」手前を右折して海岸に出た所が小淘綾ノ浜で、大磯八景『小餘綾晴嵐』の地であるが、現在歌碑は存在していないとのこと。

 従って、海までは行かなかったが、歌は載せておく。
【大磯八景の一 小餘綾晴嵐】
 小松原けむるみどりに打ちはれて 見わたし遠く小餘綾の浦   敬之

  
晴嵐というのは、新緑の頃に吹く青嵐のこと。夏を前にした静かな海岸の様子を詠んだものと思われる。

 ここまで、七景を紹介してきたが、残りの大磯八景『唐ヶ原落雁』は、大磯町東町三丁目の花水川土手に建っている。しかし「花水橋」から南へ少し離れている為、行っていないので、歌だけ載せておく。
【大磯八景の一 唐ヶ原落雁】
 霜結ぶ 枯葉の葦におちて行く 雁の音寒し 唐が原   敬之

  
かつて、花水橋から海に向って湿地が広がっていて、古くから唐が原(もろこしがはら)と呼ばれ、多くの歌が詠まれた。


【滄浪閣(そうろうかく) (左側) 10:31
 「滄浪閣前信号」前に、2007年3月まで大磯プリンスホテル別館として営業していた「滄浪閣」が建っているが、元は伊藤博文公の居宅で、公が大磯の住民として籍を移し、永住の地として定められたのは、日清戦争の頃と言われている。
 敷地の前には、標柱が建っていて『伊藤公滄浪閣之奮蹟』と刻まれている。
  


県立大磯城山(じょうやま)公園 旧吉田茂邸】 (左側) 10:50
 国道を暫く歩き、血洗川に架かる「切通橋」を渡った先の「城山公園前信号」を斜め右に行くのが旧東海道だが、旧吉田茂邸に寄る為、信号を直進する。
 信号の直ぐ先左側に旧吉田茂邸の入口がある。その右手は駐車場になっている。
 この地区は平成二十五年(2013)に公園として拡大整備された所である。
開園時間 9時〜17時(入園は16時45分まで)
入園無料

 園内に入って直ぐ右手にバラ園があるが、この時期、一、二輪しか咲いていなかった。

【バラ園】
 昭和36年頃、現在の駐車場に、バラ園が造られました。吉田茂は、バラの愛好家で、「プリンセスミチコ」と呼ばれる品種をはじめ、多くの種類のバラが植えられていました。しかし、昭和54年、当時の大平首相とカーター大統領の日米会議がこの地で行なわれた際に駐車場になり、面積は縮小されました。
 公園整備にあたり、当時のバラ園の一角であるこの地に、吉田茂存命時にあった品種を再び植栽し、当時の雰囲気を演出しています。


 バラ園の先に内門である兜門が建っている。

【内門(兜門)】
 サンフランシスコ講和条約を記念して建てられた門で、別名「講和条約
門」と言われています。また、軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれます。
 屋根には、「檜皮葺き」という薄いヒノキの皮を重ねた伝統的技法が用いられています。
 昭和29年に完成しましたが、老朽化が著しかったため、公園整備にあわせ、屋根の葺き替えなどの修復工事を行ないました。


 兜門をくぐると良く手入れされた日本庭園が目に飛び込んできて、芝生が綺麗な道を進むと、左手に中池、右手に石塔が建っている心字池が見える。

【日本庭園】
 この日本庭園は、池を中心にその周囲を散策して自然の移り変わりを愛でるもので、「池泉(ちせん)回遊式」と呼ばれています。
 吉田茂は、ツツジやウメなど多くの花木を植え色彩豊かな庭造りを行なったようです。
 晩年、この庭園内を散策することを日課にしていたと伝わっています。
 庭園整備にあたっては、当時の雰囲気を少しでも感じ取ることができるよう、昭和40年代の景観の復元を目材手います。


 心字池の縁を右に廻って奥に進むと、一段高い所に七賢堂が建っている。

【七賢堂】
 七賢堂は、明治36年、伊藤博文の自宅、大磯の「滄浪閣」にあったものです。はじめ、明治維新の元勲のうち、岩倉具視、大久保利通、三条実美、水戸孝允の4人が祀られた「四賢堂」でした。その後、伊藤博文が祀られ、昭和35年には吉田茂がこの地に移設し、西園寺公望を合祀し、吉田茂本人も、死後に合祀され、現在の「七賢堂」となりました。
 この地の歴史を感じさせる貴重な建物のため、公園の一部として残すこととしました。


 七賢堂の右手階段を上って行くと海が見える所に、東を向いている吉田茂像が建っている。

【吉田茂銅像】
 昭和58年に、地元有志の方々による建立委員会によって建立されました。
 お顔は東の方角を見つめており、サンフランシスコ講和条約締結の地、サンフランシスコとワシントンに向けて設置されたと言われています。
 この場所からは、富士山や相模湾を一望でき、吉田茂が眺めた同じ景色を感じ取ることができます。


 その先にも相模湾を一望できる道は続くが、何も無い様なので、銅像の所から下の道に下りて入口に戻る。
 戻る途中の右手(兜門からは左奥)に建築中の吉田邸の一部が見える。

【旧吉田邸の再建】
 
旧吉田邸は、吉田茂の養父、吉田健三が、明治17年に別荘として建築したことが始まりです。その後、増改築を重ね、吉田茂がその生涯を閉じる昭和42年、89歳までを過ごした邸宅でした。
 平成21年3月、旧吉田邸は焼失してしまいましたが、大磯町が「町有施設」として再建することなり、平成24年〜25年度に設計を、平成26年度以降に建物の再建工事を行なう予定です。(県がこれらを受託しています。)

 焼失は、漏電によるものとみられ、総檜造りの本邸が全焼し、数多くの歴史的調度品や家財も失われてしまった。
 平成27年(2015年)現在、建物は再建中で、平成28年3月末に完成予定である
(左の写真は、完成予想図)

【西長院】 11:13
 旧吉田茂邸の駐車場から出て右へ50m程行った右側に西長院がある。
 「切り通しの身代わり地蔵さん」として親しまれて来た本尊が有名な寺であるが、地蔵を見ることは出来なかった。

【身代わり地蔵尊(町重文)の由来】 
 西長院は、「身代わり地蔵さん」として、多くの人達の信仰を集め、親しまれてきました。地蔵尊は行基の作と伝えられ、身の丈約一米五〇糎の石造りの地蔵菩薩で、はじめは切通しの岩窟の中に祀られていました。
 鎌倉時代に梶原平芝景時の家臣、悪太郎義景という人がこの地蔵尊を深く信仰していました。建久二年鶴岡八幡宮に参拝する源頼朝の行列に突然襲い掛かる集団があり、大乱戦となり、悪太郎義景は敵方に加わったとまちがえられて畠山重忠に討たれてしまいました。しかし悪太郎の身体には刀傷ひとつなく不思議に難を逃れたのですが、この地蔵尊の身体より血潮が流れ出し、肩のところに刀剣の傷を受けたような痕がついていました。これは永年この地蔵尊を信仰していたおかげだと皆は語り合い、畠山重忠はこの刀を「地蔵丸」と名付け家宝として今日に伝わっているということです。
 その後、室町時代に大■郡の岡崎四郎の娘がこの地蔵尊を深く信仰し夜更けになるまで参拝しているのをみて悪い若者たちが待ち受け、娘の首を打ち落としてしまいました。娘はひと声叫んで倒れてしまいましたが、身体に異常はなくこの場を逃れ我が家に帰り、その出来事を話すと村の人達は驚いてこの地蔵尊を尋ねました。するとこの地蔵尊の首が落ちていました。このような霊験のあることにより人々は皆、「身代わり地蔵」と称して元禄二年お堂を建立し尊像安置の霊場としました。
     谷村山 西長院 梅林寺 鈴木正明
【石造地蔵菩薩立像】 大磯町指定有形文化財(昭和51年7月17日指定)
 西長院の本尊で像高は一四八・七七センチメートルを量ります。両手先と両足首先を欠失していた、頸部と胸部に継ぎ目があります。総体に風化が目立ちますが、しっかりと刻まれた目鼻立ちや、量感に富んだ体躯、柔軟な衣文掘出などに中世の優れた作風がみられます。
 鎌倉時代の石仏として神奈川県下でも屈指の佳例といえます。
     平成二十年十二月 大磯町教育委員会

【県立大磯城山公園 旧三井別邸地区】 (右側) 11:18〜11:43
 「城山公園前信号」に戻り、旧街道に入るとすぐ右側に大磯城山公園があり、入口に大石の公園碑が座っている。

 園内に入り、左手の坂を上って行くと、まず中門が見えてくる。今は綺麗に修復されているが、三井別邸時代は各地の寺の古材を用いて建てられた門で、当時の写真が掲げられていた。



【中門(海會山)】 三井別荘時代の建物
 薬師寺(奈良)、菅原寺(奈良)、浅草寺(東京)などの古材を用いて作られています。
 柱は薬師寺の鐘楼の柱を使い門扉は当麻寺(大和)の講堂扉、鬼瓦および棟瓦は菅原寺金堂瓦、肘木は浅草寺肘木を使用するなど、多数の寺の古材を用いて建立されました。


 門をくぐり、左カーブした直ぐ右手に上りの階段があり、入口に三井別邸時代にあった流雲橋と仙遊門の写真が掲げられていた。



【流雲橋と仙遊門】 三井別荘時代の建物
 階段の上にかけられていました。橋げたの礎石の一部が現在でも残っています。階段の昇り口には仙遊門が設置されていました。


 階段を上って行くと、右手に横穴古墳群の案内板が立っていたので、そちらに登って行く。
 山道を上り、次いで左回りに下って行くと、12個の横穴が並び、古墳時代の墓穴とのこと。

     

 横穴古墳群から更に下って行くと、「ふれあい広場」の前に大磯町郷土資料館が建っている。
  
 館内に入ってすぐの所に城山荘の写真と構造模型があり、奥には大磯と周辺地域の縄文時代から現代にいたる歴史遺品が展示されている。一例として、縄文土器・横穴墓の復元・祭り舟・大磯の自然や生活等があった。

【城山荘】
 三井総領家(三井八郎右衛門高棟)の別邸として、昭和9年当地に建てられました。和洋折衷の外観をもち、奈良や浅草など各地の有名神社の古材を利用した特異な建物で、中央にそびえる「養老閣」からは湘南や伊豆箱根の海山が一望できたといいます。城山荘は、この構造模型を基礎に建てられたものと思われますが、実際の建物とはデザインが一部異なっていたようです。
 なお、当資料館は城山荘をモチーフとしています。


 資料館の庭には、鴫立沢標石の本物が置かれていた。
前述【鴫立庵】の項参照。

【鴫立沢標石―『湘南発祥の地』】
 大磯(台町)にある鴫立沢は、西行法師が東国行脚のときに「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ」と詠んだ地として知られており、漢文4年(1664)に小田原の外郎(ういろう)の子孫といわれる崇雪が草庵をむすんで標石を建てたといいます。
 正面に『鴫立沢』、裏面に『崇雪 著盡湘南清絶地(そうせつ あきらかにしょうなんはせいぜつをつくすのち/しょうなんせいぜつのちつけつくす)』と刻まれています。年号は確認できませんが、漢文年間に建てられたものであるとすれば、すでに江戸時代にはこの地の絶景を『湘南』という言葉で表わしていたことになります。これをもって大磯を『湘南発祥の地』とするゆえんです。
 この標石は、塩害による摩滅から守るために、鴫立庵から当館へ移設されました。なお、鴫立庵にはレプリカ(複製)が置かれています。


 資料館右手の階段を上って展望台に向う。
 展望台には、城山荘本館の写真と説明文が掲げられていた。

【城山荘本館】 三井別荘時代の建物
 建築家久米権九郎設計の木造建築物で、昭和9年暮れに完成しました。
 本館中央には「養老閣」と呼ばれる四層の塔屋があり、最上階は展望室となっており、屋根には鶴の飾りが取り付けられていました。
 この建物は全国の寺社の古材を使用して建設された歴史的にも非常に価値の高い建物でしたが、昭和45年に名古屋鉄道株式会社の所有となり、解体され京都に保存されています。


 展望台からは、相模湾、富士山、箱根連山、真鶴半島、伊豆半島が眺望できるが、この日は、霞んで相模湾と箱根連山しか見えなかった。
    

 展望台から西側に下りて行く(右上の写真)右奥に茶室「城山庵」、小淘綾ノ滝、日本庭園等があるが寄らずに中門まで戻り、城山公園をあとにした。


<昼食> 11:45〜12:25
 血流橋まで戻って右側の河畔にある「カフェテラススプーンハウス」でパスタのランチをとった。


【国府本郷の一里塚】 (左側) 12:40
 
城山公園前の道を真直ぐ進み不動川に架かる「本郷橋」を渡る。すぐ先の鮮魚店「壱の屋」に”生しらす”を売っていて、買いたいが持ち歩けないので断念。
 軽く上り、旧道は徐々に国道に近づいて行く。国道に近づいた緑地帯の上に付近の「東海道分間延絵図」が載っている一里塚の説明板と『江戸から十七里』と書かれた標柱が立っている。

 この左の海岸線には「大磯ロングビーチ」がある。

【国府本郷の一里塚】
 慶長9年(1604)、徳川家康は秀忠に一里塚の築造を命じました。一里塚は日本橋を基点として、各街道に一里(約3.9キロメートル)ごとに設けられた塚です。
 土の塚を築いて里程の目印とし、塚の上には大木が植えられ、その木陰は旅人の休憩所となりました。
 大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿内に、17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。国府本郷の一里塚は実際にはここより約200mほど江戸寄りに位置していました。塚の規模は不明ですが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようです。

 この国府本郷村の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造したものです。

【道祖神】 (左側) 12:45
 「大磯プリンスホテル入口バス停」に、道祖神と刻まれた富士山型の石と、周りに、これも道祖神の一種なのか丸石神
(今後、この様な石をこう呼ぶことにする)が沢山置かれていた。

  


【双体道祖神・地神社】 (左側) 12:48
 国道に合流する「国府新宿信号」手前の生垣を背に双体道祖神地神社が、その手前にも丸石神が置かれていた。

  


【宝積院(ほうしゃくいん) (右奥) 12:55
 国道に合流してから二つ目の信号である「六所神社入口」を右折すると六所神社の大きな赤い鳥居が建っている。
  
 その奥、東海道線のガード手前右側に宝積院がある。
 道路際に町内最古の梵鐘が、その左手の本堂脇に大磯町で最大級のカヤの木が聳えている。

【国府新宿梵鐘】 大磯町指定有形文化財(昭和47年6月14日指定)
 寛永八年(1631)の紀年銘を有する。町内に現存する最古の梵鐘です。江戸時代の作例としては一般的ですが、陰刻された銘文中に、国府の政庁である国(こくが)に勤務する役人の「在張(庁)」という文字がみられることが注目されます。
 作者は、相模国愛甲郡荻野で代々鋳物師をしていた名家・木村五郎右衛門吉久であり、同人の作となる梵鐘は、県下でも高く評価されています。
     平成二十年十二月 大磯町教育委員会

【宝積院のカヤ】 大磯町指定史跡名勝天然記念物(昭和47年6月14日指定)
 大磯町で最大級のカヤ。樹齢は三〇〇年以上と考えられます。一部本堂付近を除いては周囲に障害物がなく、樹冠形成に適した環境下にあります。樹高は一五メートル、胸高周囲は三・二メートルで、樹勢はきわめて旺盛です。地上四メートルから梢にかけて長さ一〇メートルに達する枝を六〇数本放射状に出し、直径ニ〇メートルの大樹冠を形成しています。このように整った樹形を形づくるのは稀で、非常に貴重なものといえます。

     平成二十年十二月 大磯町教育委員会

【六所神社】 (右奥) 13:00
 東海道線のガードをくぐった先、突当りに六所神社がある。
 神社入口までの参道左右に、注連縄が巻かれたケヤキの大木が二本聳えている。

【六所神社の樹林】 大磯町指定史跡名勝天然記念物(昭和48年7月20日指定)
 
参道から本殿・社務所周辺、六所公園が指定の範囲です。表参道のケヤキ、本殿脇に連立するケヤキ、イチョウ、社務所脇のタブノキは樹齢が三百年を超える巨木で、樹齢・太さ・樹形ともに単木としても高く評価されます。また、針葉樹のクロマツ、カヤや広葉樹のスダジイ、エノキの大木も見られ、数少ない平地の巨木群として貴重な樹林が残されています。
     平成二十年十二月 大磯町教育委員会


 入口を入って、右手の池の小島に「六所ひぐるま弁天社」が、左手の池の小島に「龍神大神社」が祀られている。

 正面の石垣の上に建つ社殿の注連縄は出雲で作られているそうで、太く立派なものである。
 六所神社は、718年に現在地に遷座されたもので、その時より、主祭神の柳田大神に、一之宮寒川神社 ( 寒川 ) 、二之宮川勾神社 ( 二宮 ) 、三之宮比々多神社 ( 伊勢原 ) 、四之宮前鳥神社 ( 平塚 ) 、平塚八幡宮 ( 平塚 ) の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになった。

【六所神社の御由緒】
 崇神天皇の御代、櫛稲田姫命様を御祭神として創建されました。
 中世以降、相模国の総社として、都から派遣の国司や、源頼朝公を始めとする武家の崇敬を受けました。
毎年五月五日の相模国府祭は神奈川県文化財に指定されております。


 社殿を支える石垣は、戦国時代小田原の北条氏によって築かれたもので、関東大震災や天災にも崩れることなく、四百年以上も社殿の礎になっている。この石垣は鷹取山の石を使い野面積という工法と伝えられている。
  


【塩海(しおみ)の名残り】 (右側) 13:26
 六所神社から国道に戻って13:13。 13:20に大磯町から二宮町に入る。
 左側の「二宮
郵便局」を過ぎるとやや下り坂になる。
 下り終わって、葛川に架かる「塩海橋」を渡るが、渡る手前右側に二宮町教育委員会が建てた塩海の名残りと書かれた標柱が立っている。
 近くに説明文等は一切無いので良く分からないが、二宮は海に面した村で、古くから製塩が盛んだった様で、町内に塩海
(しぼみ)という地名があり、『新編武蔵風土記稿』に「古この海浜にて塩を精製す、依ってこの名あり」と記されている。
 また、鎌倉時代に二宮太郎朝忠が御家人として相模国渋見郷(霜見・塩海とも呼ばれた)の地頭を務めていたことも記録に残っているそうである。
 この地名が現在「塩海橋」に名残りがあるとのことらしい。
  


【旧東海道の名残り】 13:50
 「二宮交差点」を歩道橋で越え、「二宮駅入口信号」を過ぎて暫く進むと、「吾妻神社入口信号」の手前で二股道になり、旧東海道は右の道に入る。
 この分れ道の頂点に旧東海道の名残りという標柱と、そのうしろに「↑約100m左折 梅沢海岸」という標柱が立っている。

  左が国道1号線、右が旧東海道


【梅澤橋】 (左側) 13:53
 旧道に入って直ぐ右側に吾妻神社の鳥居と石標が建つが、神社は東海道線を越えた山の上にあるようなので行かなかった。
 道は軽く下って右カーブ、次いで左カーブするが、その左カーブの左側に梅澤橋の石碑が建っている。
 ここも説明文は無かったが、かつては橋が架かっていたのか?
 石碑が建つ所を左折すると300m程で梅沢海岸に出られる。

  


【等覚院(藤巻寺)】 (右側) 13:56
 梅澤橋から左カーブするとやや上り坂。ほぼ登りきった右側に等覚院がある。
  

 石段を上って境内に入ると、やや左に本堂があり、その前に町天然記念物のの古木がある。また、その隣には町重文の梵鐘がある。

【フジ】 二宮町天然記念物(昭和49年6月5日指定)
        樹齢 約四〇〇年
        高さ 二四〇cm
 
このフジの木は古くから有名で、元和九年(1623)将軍家光上洛のおり、当地に籠を止めてフジの花をご覧になったと伝えられています。また、寛文の頃仁和寺宮が関東に下向したとき、フジの花をご覧になり、「藤巻寺」の別号を与えられたとも伝えられています。
 永く旅人からも関心をもたれ、他の文学書にも記されている木です。
     
平成八年二月 二宮町教育委員会
【梵鐘】 二宮町重要文化財(昭和49年6月5日指定)
       高さ 一〇一・〇cm  口径 外 六〇・〇cm
                         内 四五・〇cm

 もと吾妻社の別当坊・千手院にあり明治のはじめ当等覚院に移されたと伝えられている。
 寛永八年(1631)の銘があり、町内に現存する最古の梵鐘です
 鐘鳴音は清澄でその響きもまた格別によい。
     平成八年二月 二宮町教育委員会

【石造物群】 (左側) 14:03
 等覚院を過ぎると、旧道は国道に近づいて行き、「山西信号」で国道と合流する。
 その合流点に道祖神天社神双体道祖神等の石造物が集められている。
 その中に『朝日清正光大薩■道』と刻まれた道標も建っていた。
(■:偏に、旁は鍋蓋(かんむり)の下に、その下に。)
 調べてみると、大山の北、宮が瀬ダム近くの愛川町にある「志田山朝日寺」への道標らしい。本尊は「清正光大薩捶
(*手偏でなく土偏)」なので。
    


【旧東海道の名残り】 (左側) 14:12
 国道を少し進み、「押切坂上信号」より左斜めの旧道に入る。手前に日本橋より75Kmの標示があった。先には「川匂歩道橋」が見える。
 その入り口に旧東海道の名残りと書かれた標柱が立っている。先ほどは旧道が右に分かれたが、今度は左に分かれる。
 この辺りは、大磯宿と小田原宿の中間に位置する間の宿・梅沢宿だった。

  


【二宮の一里塚跡】 (右側) 14:13
 旧道に入った直ぐ右側が一里塚の跡で、松の木の前に石碑が建ち、説明板が掲げられている
(上の写真で生垣の向こう側)

【東海道一里塚の跡】
 
慶長九年(1604)江戸幕府徳川家康は、息子秀忠に命じ、東海道、東山道、北陸道の三街道に、江戸日本橋を起点として一里(約四キロメートル)ごとに塚を築かせ、交通の円滑化を図りました。
 一里塚は、大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠などの運賃の目安であると同時に、塚の上にある大木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いで、格好の休憩所にもなりました。
 ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から十八番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ一丈二尺(約三・六メートル)、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約三・三メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変に賑わっていました。
     平成十七年十二月 二宮町教育委員会

【松屋本陣の跡】 (左側) 14:19
 一里塚から少し進むと、「押切坂」の下りが見えてくる。その下り坂手前左側の「和田邸」の庭に松屋本陣の跡と書かれた標柱と説明板が立っている。

【松屋本陣の跡】
 
江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸〜上方間を往復する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。
 このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿〜小田原宿の距離が十六キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。
 その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。
     平成十七年十二月 二宮町教育委員会

【史跡 車坂】 (右側) 14:41
 「押切坂」は急坂で、直ぐ国道に合流する。
 中村川の「押切橋」を渡ると、左側に海(相模湾)が見えてくる。
 続いて「塔台橋」を渡ると上り坂になり、途中の「橘インター入口信号」から小田原市に入る。
 平らな道になると左側が大きく開け、相模湾や伊豆半島が良く見える様になる。
  

 直ぐ「車坂」の下りになり
(上の写真の右カーブ部)、その途中右側の木立の前に史跡・車坂と書かれた標柱が立っていて、その左側面には『前川の里』、右側面には『詠歌 太田道灌・源実朝・北林禅尼』と記されていた。
 標柱のうしろには、この辺りで読まれた3人の歌が掲げられている。鉄板に書かれた文字は、2002年の時と比べて錆が目立ち文字の擦れもひどくなっていた。



   鳴神の声もしきりに車坂 とどろかしふるゆふ立の空   太田道灌
 戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。
 「平安紀行」の作者は大田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にゆう立しきりに降りそえば」とあり、この時に詠んだものです。

   浜辺なる前川瀬を逝く水の 早くも今日の暮れにけるかも   源実朝

 「吾妻鏡」健保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て箱根、伊豆の二権現に参拝する際に、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず、日暮れまで待つ間に詠んだものです。

   浦路行くこころぼそさを浪間より 出でて知らする有明の月   北林禅尼(阿仏尼) 
 「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を立ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊まり、あす鎌倉に入るとあり、この時に詠んだものです。


【大山道道標】 (右側) 14:43
 直ぐ先、右折道の右側に大山道道標秋葉燈籠小さな祠が縦に並んでいる。かつては建物(八百屋)の左側に隠れて振り返らないと見逃す恐れがあったが、2015年9月現在では建物が取り払われて江戸側から向ってもすぐ見つけられた。
 大山道道標の上に乗っている不動明王は色彩が施されている立派なものである。正面に『従是大山道』、左側面に『大やまみち』と刻まれていた。

    
  


【坂下道祖神】 (右側) 14:56
 右側「ダイヤモンドライフ湘南」前を過ぎたすぐ先の小川の手前に双体の坂下道祖神が祀られている。
  
  


【双体道祖神】 (右側) 15:08
 「西前川信号」の右角に双体道祖神が祀られ、そのうしろに丸石神が沢山並べてあった。

  


【御勧(おすす)堂碑】【親鸞上人草庵跡】 (左側) 15:18
 程なく国道は「西湘バイパス」に接して、軽く坂を上りきると「国府津駅前信号」に出る。
 今回はこの駅前で終了予定だったが、少し時間があるので、次回分の御勧堂真楽寺に行った。

 まず、「国府津駅前信号」を越えた直ぐ先左に入った所に御勧堂がある。
 入口に『親鸞聖人御庵室 御勧堂』と刻まれている石碑が建ち、奥に御勧堂が建っている。お堂右手前の石碑には『親鸞聖人御草庵旧蹟』と刻まれていた。
 ここには説明文等は無かったが、この先の真楽寺にあった。
  
  


【真楽寺】 (右側) 15:23〜15:30
 御勧堂から200m程進んだ右側に真楽寺がある。入口に『親鸞聖人七ヶ年御奮跡 真宗大谷派 真楽寺』と刻まれた標柱が建っている。
  

 奥に進んで門を入ると左手に鐘楼、右手に帰命堂、正面の一段高い所に本堂、本堂に上る石段の左右には立派な蘇鉄が茂っている。


本堂と蘇鉄


帰命堂
【真楽寺】
 親鸞上人ゆかりのこの寺は、勧山と号する真宗大谷派の寺院であるが、往古は聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の寺院であった。のちに親鸞上人が関東の教化を終え、帰路の際に当地に立ち寄られた時、当時の住僧性順がその教法に導かれ、真宗の教えに帰依して一字を建てたのが、この寺の始まりとされている。
 寺号もその時親鸞に「真楽寺」と命名して貰ったといわれている。
 寺内の帰命堂には、帰命石と呼ばれる2メートルほどの石があるが、これは親鸞が石に指頭で名号を書かれたといわれるので“帰命石”と呼ばれている。
 山門の国道をはさんで南側、袖が浦の海岸に勧堂がある。これは親鸞聖人草庵の旧跡で、ここで聖人が7年間民衆を教化されたと言伝えられている。勧堂の名も聖人のこの事績に基づいてつけられたものである。
 なお寺内の菩提樹は、小田原市の天然記念物に指定されている。


 また、本堂の左手墓地の奥に真楽寺のボダイジュがある。

【真楽寺のボダイジュ】 小田原市指定天然記念物(昭和56年3月30日指定)
     株元周囲  約六・五メートル
     樹   高  約十二〜十六メートル
     枝張り状況 東西十三メートル
             南北十三メートル
 この木は、寺の本堂西側、JRの線路を背にした所に立つ古木で、周囲は一段高く石垣で囲まれています。
 『新編相模風土記稿』(1830〜1841年編纂)にも当時の菩提樹の記述があります。それによると、「菩提樹、親鸞手植えのものと伝、囲七尺』とあり、当時は幹周りニ・一メートルの大樹で、単幹であったことが分かりますが、現在ある菩提樹は、根元が三幹で、そのうちニ幹が分岐して双幹となり、計五幹となっています。
 これは幕末の頃、真楽寺で火災があり、その時この木も損傷し、根の部分が枯れて株だけが生き残っていたものがその後ひこばえ(根元から生える幹)が生え、生長したものが現在の木のようです。
 この木が親鸞上人(1173〜1262)の植えたものかどうか、はっきり断言できませんが、樹齢三百七十年位と推定できるので、植え継がれたものかもしれません。
     小田原市教育委員会


 10回目の旅終了(15:35)JR東日本「国府津駅」より帰宅

 今回の記録:街道のみの距離は、10.1Km(大磯消防署前交差点〜国府津駅前信号)
         日本橋から十九里十五町(76.2Km)。
         寄り道を含めた実歩行距離は、 15.9Km(大磯駅〜国府津駅)  総計132.6Km
         歩数:26,200歩(2015年)

 

「平塚・大磯宿(前半)」 ← 「目次」 → 「小田原宿」