金沢宿・
上諏訪宿・下諏訪宿 (青柳駅 →
下諏訪駅) <旧甲州街道15回目>
2008年11月23日(日) 快晴
上諏訪のホテルから電車で青柳駅迄戻り、昨日終了した十字路を8:15スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは下諏訪に向っての左右です)
上諏訪で泊まったホテル「ルービアン南湖」は、ツイン11,000円で温泉付き朝食無料だった。朝食無料のホテルは大した料理が出ない所が多いが、このホテルの朝食は今まで泊まった朝食無料のホテルの中では群を抜いて種類が多く、こんなに沢山のものが食べ られて無料でいいのかとビックリした。
いよいよ甲州道中も最後の行程となり、それを祝うように昨日に続き快晴の中、ゴールを目指す。
【金沢宿】 日本橋から四十八里 二十八町十ニ間(191.6Km)、下諏訪へ四里 二十五町(18.4Km)
天保14年(1843)で人口 622名、総家数161軒、本陣1軒、旅籠屋17軒。
【金沢宿本陣跡】 (左側) 8:25
細道の十字路からはすぐ国道20号線に合流して左方向へ進むと、10分で「金沢交差点」に到着する。
この交差点左角に立っている「金鶏の湯」の看板横に金沢宿本陣跡の説明板と明治天皇金澤行在所跡の石柱がある。
「金沢温泉・金鶏の湯」はこの交差点を右に入るとすぐある、地元でも人気のアルカリ性単純温泉。
茅野市営なので400円と安い。開館9:00〜21:00。水曜休館。
〔金沢宿本陣跡〕
五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き、約四里(約15Km)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務に当てさせた。甲州街道の宿場には二十五人の人足と二十五匹の馬を常駐させその任に当たらせた。
本陣は大名や公家が泊まったり、休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には二軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。
本陣の敷地は約四反歩(約40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた四代三郎左衛門は、延宝六年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され家は闕所断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の三藩であったが、江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。
平成十一年五月吉日 金沢財産区 金沢区 金沢歴史同好会
【金沢宿の町並】
「金沢交差点」右角の樋口氏宅が下問屋跡。
交差点から一軒先左側の古い建物が、明治時代まで茶屋だった近江屋。二階に連子格子を残している。
近江屋の隣に元旅籠屋だった松坂屋。脇の看板に「旅館 HOTEL 松坂屋」と書かれていたので、こちらも明治時代に入っても営業していたのだろう。
【馬繋ぎ石】 (右側) 8:32
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「金沢交差点」から次のバス停手前に、こちらも二階に連子格子を残している小林氏宅が建っている。
往時馬方宿を営んでいたと云う玄関の前に大きな石が置かれており、その石の前に小さな馬繋ぎ石があった。 |
【 如意輪観音堂・処刑の地】 (左側) 8:38
小林氏宅の先左側に上部に電灯が乗っている細長い秋葉常夜燈が立っており、それを見たらすぐ右斜めの枡形道へ入ると川の手前左側に小さな如意輪観音堂が建っている。この観音は村の為に立ち上がり、ここで藩に処刑された小松三郎左衛門を供養するものである。
川に突き当たり、左折すると川沿いに水神等の石仏が沢山並んでいた。そこを過ぎると国道に合流し、左折して落合橋を渡る。
【如意輪観音の由来】
金沢宿本陣問屋三代目小松三郎左衛門は、金沢山をめぐる金沢町と千野村との山論においてその中心となって働いた人である。延宝六年(1678)藩奉行所の裁許状に対し、金沢町の立場を強く主張したが、奉行所では駅伝馬の遅れを裁許状に服しないを理由にはりつけの刑に処した。処刑はその年の十月二十五日町民涙で見守る前で三十四歳を一期に刑場の露と消える。処刑の地はこの付近と伝えられている。
寛延二年(1749)供養の地蔵尊が建てられたがいつの頃か水害にあい流失したものと思われる。寛政十二年(1800)下町の人々により祀られた如意輪観音をその対象として供養が行われ今日に至っている。
昭和五十九年十月二十五日 小松三郎左衛門奉賛会
【権現の森】 (右側) 8:45〜8:52
落合橋を渡ったら、すぐ右折して枡形の続きを行くとすぐ「矢ノ口交差点」で国道に合流する。
この交差点右角に権現の森があり、立派な石造物が沢山並んでいる。同じ内容の説明板が国道側と県道196号線側に立っていた。
【権現の森】 茅野市指定史跡(昭和58年4月指定) 江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは慶長十五年(1610)ごろである。そのころここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、たびかさなる宮川の洪水や慶安三年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌四年に金沢宿と宿名を改めた。この宿場は、山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所であった。 文化二年(1805)に金沢宿より幕府に供出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」に、「宿持鎮守 除地 拾六間四方金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、権現の森と石祠について報告がされている。 参道正面に祀られているのがこの石祠で、建立は承応三年(1654)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた三年後のことである。金山権現は、祭神は金山彦命で、山の神である。武田信玄の開発した金鶏金山と関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。 石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた御嶽座王大権現・庚申・矜羯羅(こんがら)童子と制吨迦(せいたか)童子の脇侍(わきじ)をともなう不動明王・摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔・津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神祠・石燈籠など大正期までの石造物二十数基が祀られている。 また、石祠建立のころの植樹かと思われるサワラの古木が残存し、森に趣を添えており、信仰の場として、また憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。 昭和五十九年一月 茅野市教育委員会 |
【木舟一里塚】 (左側) 9:15
国道を進むと左側奥に「寒天の里」の大きな看板が見え、188Kmポストの左側に「フジカドライブイン」とその先に「セブンイレブン」のコンビニ店がある。ここのコンビニでトイレを借り、飲料を購入して9:11店を出る。
木舟一里塚はコンビニから見える左前方のこんもりした林の中にあるが、国道左側を流れている宮川の対岸になる為、石碑が見える所の国道からは直接一里塚へ行けない。
見に行く方法としては、コンビニのすぐ先「HOTEL虹色のメルヘン」の看板のある道を左折して宮川を渡り、「HOTELメルヘン」入口前を過ぎたら建物を右回りに回って田圃のあぜ道沿いに裏側に行く。すなわち、HOTEL入口先を右折、田圃に出たら最初のあぜ道を右折すると川に近づいた右の小山に石碑と案内板が立っている。碑の左側面には『昭和三十五年六月二十三日建之茅野市』と刻印されていた。
【一里塚】
徳川家康が江戸に幕府を開き交通政策の一貫として慶長六年(1601)ころ日本橋を基点に五街道を制定し一里ごとに塚を築かせた。甲州街道は当初甲府までであったが慶長十五年ころ下諏訪まで延長し中山道と接続させた。
茅野市教育委員会はここに「江戸日本橋より四十九里」(五十里ともいわれる)と刻んだ碑を建てた。塚は甲州街道制定当時は両塚であったが、明治十八年の道路改修や明治三十八年の中央線の線路敷設工事などによって塚は取り去られた。また近年この付近の耕地整理が行われたために当初の位置とは変わっている。
平成十一年五月吉日 金沢財産区 金沢区 金沢歴史同好会
帰りは元の道に戻らずに、一里塚から川に沿って草道を北に進み、小さな橋を渡って突き当たりを右折すると「木舟大橋」を渡って「木舟」信号で国道に合流できる。
この信号で9:25。
国道を470m行き、右前方に高圧線の赤白の鉄塔が見えたら、右へ戻るように上り坂があるのでこれを登るのが旧道である。下から見上げると上り坂の途中で左カーブする所に半鐘が建っている。この半鐘の左下には石碑群が、また次のカーブ右側には短い御柱風の木柱に囲われた石碑もある。
JRをまたぐ跨線橋を渡ったらすぐ左折して、変電所の前を通過し、東洋バルヴへ行く大きな陸橋の下を潜る。
右側は杉林で、道路の脇に堆積した多量の杉の落葉の上を歩くとふわふわして気持ちが良い宮川沿いの道をしばらく進む。
小さな「小早川橋」を渡り、左側に建っている「南無阿弥陀仏」碑の前を過ぎ、「早川橋」を渡ったら左折して更に川に沿った道を行く。
【 宮川板室の石碑群】 (右側) 10:00
「早川橋」から川沿いの道を進むと、JRのガードを潜り、「宮川板室」交差点で国道と合流する。
この交差点右角に、秋葉山常夜灯、出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山大権現)が彫られた石碑や三十三夜塔等が並ぶ。
【酒室神社】 (左側) 10:03〜10:10
「宮川板室」交差点を右折して弓振川を渡ると「板室」交差点に出て、ここを右折するとすぐ酒室神社がある。
丁度この日は、境内で「甘酒祭り」が始まったところで、部外者の私達にも甘酒を振舞って貰えた。
本格的に作られた甘酒でこっていりしており、冷えて疲れた身体だったことを横に置いても、お世辞抜きに本当に美味しかった。
〔酒室神社〕 市指定史跡(昭和44年11月指定)
酒室神社は、御射山(みさやま)祭りに濁酒(どぶろく)を作り、山の神に供える前夜祭をとり行った神聖な地に祀った神で、酒解子(さけとくね)之神を祭神とする。
酒室は御射山の入口に位置し、御射山は通称「はらやま」で、諏訪明神のみ狩神事の祭場である。年四度のみ狩が定められ、これを「みさやままつり」または「はらやまさま」と呼ぶ。四度のみ狩とは、押立み狩・御作田み狩・穂屋のみ狩・秋尾のみ狩である。このうち最も盛大な神事が穂屋のまつりで、旧暦七月二十六日、現在は八月二十六日に行われている。武術を奨励した昔は、諸国から守護・持頭・代官職等が多数参加し、祭の催しには、的矢・流鏑馬・角力等が行われ、露店や芸人が集まり、そのため槍隊が出て警護にあたったと云われる。参詣人をかぞえる大草(すすき)さずけの儀が行われ、神事が終わると一同勢揃いして弓振川で弓を清め、御射山にのぼりみ狩が行われた。
神殿は文政八年(1825)大隅流の建築家矢崎玖右衛門の建築したものである。なお境内の東の隅に「雨降り塚」と呼ぶ古墳があり、明治三十四年に発掘された。
昭和五十二年三月 茅野市教育委員会
【湯殿山大権現碑】 (右上) 10:22
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酒室神社を後にするとJR線が接近し、中央自動車道の下を潜る。 192Kmポストのすぐ先に、右に上がる階段があり、上ると線路際に月山・羽黒山・湯殿山大権現の大きな石碑と庚申等の石仏あった。 本来の旧街道は、「宮川板室」交差点手前からこの先「宮川」交差点手前までJR線の反対側を通っていた。 この石碑のすぐ先、五味氏宅の庭先か裏手に五十里目の一里塚があるはずだが、見つけることはできなかった。一軒五味氏宅が一段高い所にあったが、勝手に覗く訳にもいかず、周りにもなかった。 |
【明治天皇茅野御小休所 】 (左側) 10:35
甲州街道は「宮川」交差点で国道と分かれて三叉路の真ん中の道(真直ぐ方向)を行く。
20号旧道に入るとすぐ左側に「←鈿女神社・三輪神社↑」の看板が掛かっている駐車場がある。
その駐車場の道路側と駐車場内側の2箇所に明治天皇茅野御小休所の石碑が建っている。
【明治天皇御小休所跡】
ここは、明治天皇が三重・滋賀・京都など巡幸された際に、御小休所に充てられた五味邸の跡である。
天皇は、明治十三年六月二十三日午後二時過ぎ、五味邸にお着きになり、約一時間お休みになった。お供には伏見宮・太政大臣三條実美・参議伊藤博文・同寺島宗則などのほか、勅任官・奉任官・判任官、及び警固の者まで加えるとその数三百人とも五百人とも伝えられている。
お迎えした給仕には五味又三・大島総十郎・五味嘉与助が当たり、天皇及びおもだった供奉者には、宗湖庵の井戸から運んだ水を用いてお茶を差し上げたという。
この駐車場奥に三輪神社、三輪社の左に鈿女(おかめ)神社があるが、それらのお参りは後にして先ず貧乏神神社に行った。
貧乏神神社に参拝する予定の方は、まず貧乏神社に行き、次におかめ神社に参拝すること。逆に参拝すると福が飛んでしまう。
【 丸井伊藤商店(マルイミソ)】 【貧乏神神社】 (右側) 10:37〜10:56
駐車場の向かいに味噌を製造直売している丸井伊藤商店があり、店の中の一番奥に貧乏神神社がある。
貧乏神神社は、ここの当主が諏訪の神社から分社したもので、数年前にTVで紹介していたのを見ていたので興味があった。参拝するには店の真ん中を通って奥に行かなければならないが拝み方は面白い。
また、店の前には「明治天皇御小休所」と「宗湖寺」の説明が掲げられていた。
【明治天皇御小休所 ご案内】
明治十三年明治天皇は山梨・三重・京都御巡幸の際茅野をお通りになり、丸井伊藤商店前の五味三郎宅で御休憩された。出発は六月十六日で二十三日山梨県から諏訪に入られ午後二時に五味宅へお着きになった。一行は伏見宮・太政大臣三條実美・参議寺島宗則・伊藤博文等五百余名が従者としておいでになり、小休所では宗湖庵の井戸水を用いてお茶を差し上げた。御下賜品は白羽二重一匹・金拾五円、宗湖庵へは金五十銭を賜った。一行は約一時間お休みになって上諏訪へご出発なされた。
【諏訪家(藩祖)と諏訪御寮人〔井上靖・・・由布姫、新田次郎・・・湖衣姫〕ゆかりの『宗湖寺』】
宗湖寺は諏訪家の藩祖諏訪頼忠公〔永明寺殿芸州太守光山宗湖大庵主〕の菩提寺であります。天文十一年惣領家諏訪頼重が武田氏に滅ぼされて以来、雌伏四十年上社大祝職(おおほりしょく)にあった頼忠公〔頼重の従弟〕は、密かに再興の機を狙っていましたが、天正十年武田氏が天目山に滅び、織田信長も又本能寺の変に討滅されるや、いち早く兵を挙げ再び諏訪の地を旧領に復しました。
しかし時勢の遍歴は更に厳しく、やがて豊臣の治世となり、頼忠は徳川氏に属し譜代の大名として関東に移封となり、およそ十年の間武州・上州と彼の地にあったのでありますが、慶長六年関ヶ原の戦功により、再び故国諏訪の地に復帰したのであります。
帰国後四年、頼忠はすでに七十一歳を数え、慶長十年八月二十一日その寿を全うして卒去。
後、寛永七年故あった永明寺は破却され、その後宮川の地に移り、現在に至っています。
宗湖寺後方にある上社木落しは御柱祭の見せ場で諏訪の平を見渡せる場所です。
武田信玄諏訪侵攻の時、上原城が見え、諏訪勢の動きが見通せる木落しに陣を張り諏訪頼重は上川を挟んで犬射原に陣を構えたが軍勢の違いから、退いて上原城を焼き、ついに桑原城で敗れて囚われ、甲府に送られ自害しました。
井上靖小説『風林火山』の中にある宮川部落とは、まさにこの辺りです。
現在地より徒歩で、茅野駅まで15分、宗湖寺まで5分・木落しまで10分。
【貧乏神神社】
焼みそ好きの貧乏神様が味噌蔵にご降臨されました。
貧乏神社で厄を払い、おかめ神社で福授かる。
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ご注意 ご参拝の順番をお間違えないように。 ご参拝の順番が逆になりますと、おかめ神社で授かった福を貧乏神神社で叩き出してしまいます。 ご参拝方法 ◎最初に貧乏神神社にご参拝します。 一、まず豆代百円を壺にいれる。 二、次に、貧乏神様の前にあるご神木を“貧棒”という名の棒にて三回叩く。 三、叩き終わった後は“貧棒”を置き、今度はおもむろにご神木を三回蹴飛ばす。(散々で貧乏が逃げるというシャレです。) 四、最後に豆をご神体に向って、一回投げつける。 以上参拝時に「貧乏飛んでけ」とか「ちきしょうめ」など声を出しながら叩いたり、蹴ったり、投げたりすれば尚一層の効果あり。 ※くれぐれも手を合せて拝まないように。 ※叩く時“貧棒”の逆襲(跳ね返り)が危険ですので、あまり勢いをつけないようにお願いします。 お帰りには転福味噌をお持ち下さい。 |
◎次に鈿女(おかめ)神社にご参拝します。
こちらは、普通の神社通り、お賽銭を投げ、鈴を鳴らし手を合せて拝みます。
最後におかめ様の顔を撫でます。
ほっぺたを撫でるとよりご利益多し。
写真で説明すると、右手前の壺に100円入れ、その上に乗っている“貧棒”で壺の後ろにあるご神木を叩き、蹴飛ばす。最後に左の酒樽のなかに鎮座しているご神体に豆を投げつけるのである。
貧乏神神社は一番奥の部屋に、おかめ様は手前の部屋にあり、「はすれ券供養箱」なるものもある。
私達もストレス解消を兼ね、参拝方法にならって、力いっぱい叩き、蹴り、投げつけてきた。
参拝帰りには、また店の中を通るのでお土産を買わないわけにはいかない。歩きでは重たいため量が多い味噌は買えないが、小さなプラスチックケースに入った5種類の味噌が3つ1000円ということで、麹味噌・青唐辛子味噌・にんにく味噌を購入した。横浜から来て甲州街道を歩いているとの話になったら、別に小さなビニール袋に入った普通の味噌もサービスしてくれた。家に帰ってこれらの味噌を食べたら、どれも絶品。来春の甲府ドライブでは、ここまで足を伸ばして、もう一度購入したいと思う美味しさであった。
【鈿女(おかめ)神社】 【三輪社】 (左側) 10:57
貧乏神神社に参拝したので、福を貰えるようにおかめ神社に詣でる。
【三輪神社】 市指定文化財(昭和42年2月指定)
三輪神社は久寿年間(約810年前)に、大和の国三輪村の三輪神社をこの地にお迎えしたものと伝えれられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。祭神は大国主命・稲御魂(うがみたま)命・櫛玉命である。
本殿は文化元年(1804)三月に矢崎玖右衛門により建築され、拝殿は文政三年(1820)に建築されたが、明治四十一年に改築している。
本殿の彫刻は、大隈流の流をくむ矢崎玖右衛門の代表作である。江戸時代の建築の、彫刻に技巧をこらした傾向がよく現れている。題材はすべって中国の歴史物語にとり、北面には「蜀の三傑桃園に義を結ぶ」の図、東面は「黄石公張良に兵書を授くる」の図、南面は「玄徳赤兎馬に鞭打って潭渓を越ゆる」の図である。欅を材として、半肉彫で、空間構成もよくととのい、香高い芸術作品である。
昭和五十年一月 茅野市教育委員会
〔鈿女神社〕
鈿女神社の祭神は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになりました。「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」となりこれが「ひょっとこ」と一緒におかしく踊られるようになりました。このおかめを祭る神社は諏訪に三社あり、長持ちに必ずおかめ面を担ぐ慣わしになっています。
昭和八年当時の商業者が商売繁盛、家内安全、厄除け縁結び祈願のために、安曇の松川村より分社して以来、地元宮川商業会がお守りしています。
福の神としておかめ様があり「笑う門には福来たる」として、心の明るさと癒しを与えてくださいます。鈿女の字を分けて見ると金田女神社となり、お金の貯まる神社として縁起もよく人々に愛されております。
宮川商業会 宮川街づくり協議会
【御柱木落し場】 (右奥) 11:07
すっかり長居をしてしまった貧乏神神社とおかめ神社に別れを告げ、旧道を進むと程なく上川橋に着く。
この橋の右側にJRの鉄橋が平行して架かっており、その鉄橋の右端、民家の黒い屋根の後ろに僅かに見える土の斜面が木落し場である。諏訪大社上社の御柱は、この木落し場から落され、宮川の川渡りを行って、一ヶ月後の里引きに継がれる。
上川橋を渡ると茅野の繁華街に入り、程なく右手ベルビアというビルの前を通る。茅野駅はこのビルの後ろに隠れている。
<昼食> 11:15〜11:50
ベルビア一階の「かんてん茶房きれい」で、『寒天入り豆腐ハンバーグプレート(980円)』を注文する。御飯は五穀米で434キロカロリーとヘルシーな上に美味しかったので★★★★。
もっとエネルギーを付けたい人はベルビア手前に蕎麦屋が二軒ほどあるが、この先食堂等はない。
【諏訪大社上社鳥居】 (左側)
ベルビアの前に大きな鳥居が建っている。
【大年社(おおとししゃ)】 市指定史跡(平成6年12月指定) (右側) 11:52
ベルビア西角の「茅野駅西口」交差点を右斜めの太い道に進むのが甲州街道で、次の細い十字路に大年社がある。
大年社は、諏訪神社上社の末社で、祭神は大歳神で、祀られた年代は明らかでない。
『年内神事次第旧記』等によると、古くは神田五段があったとされ、『上諏訪造宮帳』には、「大歳宝殿、玉垣鳥居、是も近年退転、御園栗沢之役」とあって、古くから信濃国各郷村の課役によって造営されていたことがうかがえる。
四月二十七日の御座石神社の矢ヶ崎祭り(通称どぶろく祭り)には、饗膳の用意が整うと野比(狼煙)をあげ、その煙を見て各大年宮に詣でるとされ、『諏訪大明神画詞』の中にもくわしく述べられている。
神祭は、矢ヶ崎祭りの当日に行われ、矢ヶ崎祭りの濁酒が1荷奉納される古習は現在も続いている。大祝の職位(即位)にあたって十三所の御社参りをする時に、十二番目に参詣されるところをみても、この神社と諏訪神社との関係は深い。
さらに、御座石神社同様、御柱を建てず、その代わり七年ごとに素朴な鳥居を立てるなど、古風を多く残している。
平成七年三月 茅野市教育委員会
【上原八幡神社】 (左側) 12:05
大年神社から「茅野駅入口」交差点を横断し、次の「上原」交差点で国道に合流したら右へ行く。
ここの国道20号線は、中央高速・諏訪ICに向けてのバイパスが茅野駅手前で別れているので、やや交通量は少ない。
上原で右折すると次の「上原八幡」交差点左角に上原八幡神社がある。この神社は藩主が参勤交代のとき、馬から駕籠へ乗り換えていた場所で、往時は大きかったが、現在は鳥居に比べて小さな祠が祀られているだけであった。
【八幡神社の由来】
八幡神社は古くは八幡宮と呼ばれ、当社の由緒書によれば、既に鎌倉時代弘長年中(1261〜64)に前上社大祝諏訪盛重が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を分霊し、八幡山極楽寺を別当として、神祭祈祷を盛んにし、さらに戦国時代永禄年中(1558〜70)、鎌倉より光明寺を移し、極楽寺とともに別当とし、社地は数町歩に及び、上原城下町の中枢として、広く諏訪一円から崇敬された。慶長六年(1601)、諏訪氏が上州から諏訪の旧領に復帰後高島藩主が江戸参勤交代の際、藩主は当社前で下乗、神前において道中の安全を祈願した。即ち、江戸行きの際には、藩主は当社まで、騎馬、下乗祈願後、当社より旅支度を整え、駕籠で出府、帰城の際も当社にて駕籠から騎馬にかえたといわれている。今日社前に残る参道と枡形の駕籠置石の配列は数百年の歴史を物語っている。
平成五年十一月吉日 上原区 上原史跡保存会
【鍛冶小路・塔所小路・播磨小路】 (共に右側)
「上原八幡」交差点を過ぎると「上原頼岳寺」交差点までの間に、右へ中央本線の線路を越えて行く道が3本あるが、順番に「鍛冶小路」、「塔所小路」、「播磨小路」と刻まれた石柱が建っていた。
【天然記念物・土橋祝殿大欅之跡】 (左側) 12:15
「播磨小路」の「上原北」交差点を過ぎた左側に、鳥居と社殿が建っており、その前に土橋祝殿大欅之跡と彫られた石碑があった。説明板等は見つからなかったので良く分からないが、天然記念物と書かれていたので、かつては大欅があったのだろうか。
この辺りの土蔵には、龍か蔦のような白い模様と大黒様の絵や目出度い字などが描かれていた。
【柿澤翁・土橋翁の筆塚】 (右側) 12:17
「上原頼岳寺」交差点手前の右側に、門人が建立した柿澤翁・土橋翁が併記されている筆塚があった。
【少林山 頼岳寺(らいがくじ)】 (右奥) 12:25〜12:33
「上原頼岳寺」交差点の右奥に頼岳寺が見える。
本来の甲州街道は、次の交差点(郵便局がある所)を右に登り、更に左斜めへ曲がって三叉路に出るのだが、頼岳寺へ寄る為にはより離れた三叉路から戻らなければならない。旧道を忠実に守っている私だが、昨日から登りが多かった為か足が痛く、一本手前に入るだけで大きな無駄が省けることから、「上原頼岳寺」交差点を右折して直接頼岳寺へ向うことにした。
門前を右に曲がると信玄ゆかりの地「上原城跡」に行けるのだが、車で5分掛かるくねくね曲がっている山道である。途中「上原城諏訪氏館跡」もある。
総門手前左側に説明板があり、その裏面には『諏訪氏略系図』と『諏訪氏関係史跡』の地図が掲げられている。
総門左の池の後ろには芭蕉等の文学碑が並んでおり、総門から山門に至る参道両側は立派な杉並木となっている。
石段を登って山門をくぐると正面が本堂で、右手に鐘楼があり、ここは標高797.8mとのこと。
【開創】
曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。開創は江戸時代初期の寛永八年(1631)で開山(初代住職)は大通関徹(群馬県双林寺第十三世)、開基は高島藩初代藩主の諏訪頼水である。頼水は諏訪大社上社にまつられる建御名方神(諏訪明神)の直系諏訪氏で、諏訪氏は古代から中世まで諏訪の盟主として君臨し、江戸時代は高島藩三万石の大名であった。
【頼岳寺の沿革】
開創以来この地方の中心的勢力を保ち、江戸時代には寺領一〇〇石を賜り、末寺は十四ヶ寺である。古くから修行寺として知られ、常に数十名の雲水が参集した。さらに第三十二世孤峰智璨は明治四十年以来五十年にわたる在住中に、人材の育成、伽藍の整備に尽力し、のち頼岳寺の祖本寺にあたる神奈川県大雄山最乗寺の住職を経て、大本山総持寺独住第十八世円応至道禅師となった。
【上原城周辺】
寺の右側の金比羅山(978m、甲州街道からの比高はおよそ200m)には上原城があった。この城は諏訪信満の時代、諏訪惣領家の居城として築城され、政満・頼満・頼隆・頼重が板垣平(頼岳寺の南方)に居館をおいて諏訪を統治した。天文十一年(1542)武田信玄に攻略されたのちも、武田氏が城代をこの城において諏訪を治め、以後岡村(上諏訪)に政庁が移るまで諏訪の政治・経済中心地であった。上原には城下町が経営され繁盛した。とくに城下には鎌倉五山にならって上原五山を呼ばれた五ヶ寺があった。永明寺(頼岳寺の前身)・極楽寺・金剛寺(廃寺)・法明寺・光明寺(この二ヶ寺はのちに合祀して法光寺となり上諏訪に移る)があり、上原八幡社もこの時代に建立された。
上原五山のうち永明寺は向富士と号し、現在の頼岳寺よりおよそ500m南方にあった曹洞宗の寺である。開創は永正年間(1504−1521)で、開山は慈山永訓(静岡県真珠院第二世)、開祖は諏訪頼水の曽祖父にあたる頼満(永明寺殿西周宗昌大居士)である。永明寺は以後七代130年間続いたが、寛永七年(1630)同寺に駆け込んだ科人(とがにん)の引渡しを拒否したことから、頼水の命により炎上破却された。永明寺の頼忠夫妻(頼水の両親)の墓、本尊釈迦如来、什器などは翌年建立された頼岳寺に移された。
【頼岳寺山門前杉並木】 市指定文化財(昭和57年二月指定) 少林山頼岳寺は、諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院である。高島藩初代藩主頼水は、寛永八年(1631)上野国最大山雙林寺(群馬県北群馬郡子持村)の大通関徹を招いて開創し、諏訪氏の菩提寺とした。 参道の杉並木は、かつては目通り幹周り3.5m、推定樹齢三百年の大木が立ち並んでいたが、昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立とあわせ頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。
平成五年十月 茅野市教育委員会 @島木赤彦 ひとつ蝉なきやみて遠き蝉聞ゆ山門そとの赤松はやし A森山汀川 おのづから安住の地と寺山に鳥群がれるさまをしも言ふ B近藤雪山 鶯の雲をとどむる高音哉 C宮坂一眠 若竹のみど里雨滴を珠と抱く D松尾芭蕉 名月や池を巡りて夜終 E北澤敏郎 いつ見ても飽くこともなき蓼科山 女の神の山古里の山 |
【大門街道追分】 12:36
頼岳寺総門前の道を北西に進むと程なく、左斜め下から合流する三叉路に合流する。この左から上がってくる道が本来の甲州街道である。合流点の三角地に常夜燈と大小の石碑(道標)が建っている。 供にかすれて読みづらいが、常夜燈には「右東京道・左大門道」、奥の大きな石には「右江戸道」と彫られているようだ。 ここが大門街道との追分で、私達が頼岳寺から来た道が大門街道になる。
(写真は諏訪側から写したもの。左が大門街道でここを行くと頼岳寺へ、右が甲州街道) (「旧中山道道草ハイク」15回目参照) |
【火燈(ひとぼし)公園】 (右側) 12:42
この辺りは茅野姓が多い。追分から5分で火燈公園に着く。説明板と地図によると、大文字焼きのように、この公園の右後ろの山に鳥居火、左後ろの山に三ツ星のかがり火が焚かれたとある。
神戸村では、御柱年の盆の十五日(七月)の夕、頼重院の裏山、前山の峰近い「火とぼし場(火燈場)」で、諏訪大社への鳥居火を灯して、奉納した。その年の新しい「麻がら」で作った大きな松明を、神宮寺村河原崎の上社大鳥居の所で見て、最も鳥居の形に見えるように、火燈場の斜面に配して灯し、諏訪明神へ「かがり火」を上げた。
この鳥居火は。『太古からの仕来り』で、いつから行われているのかは明確ではないが、文化十五年(1818)の口上書から推察すると、武田の時代に始まったのではないかと思われる。武田勝頼は、天正六年(1578)の御柱年に、上社及び下社の大規模な御造営をしており、この時上社の御造営にあたった番匠(大工)が、火燈山に鳥居火の設計をしたのではないかと考えられている。
鳥居火の鳥居は、笠木の長さ約100m、貫の長さ約84m、脚の幅約66mという大仕掛け。点火は先ず大久保の峰の三ツ星から灯し始め、上桑原村から来たお見舞いの大松明を、大久保山の峰に背負い上げ、夕日の沈む頃に灯して三ツ星とし、鳥居火を上げる前ぶれとした。
現在の諏訪農協会館の前あたりに五王ノ鬼塚があり、この五王ノ鬼塚の松明に点火するのを合図に、火とぼし場でもいっせいに点火して鳥居火とした。
この地は鳥居火、三ツ星、五王ノ鬼塚のほぼ中心に位置することから、区民が『太古からの仕来り』を想う意味からも“火燈し公園”と名づけた。
【神戸一里塚】 (左側) 12:51
公園からすぐ先の立派な神戸公民館の前を過ぎると、広場に一里塚の石碑が建っている。
現在塚は残っていないが、右側は小高くなっているので大きな塚のように見える。
【甲州道中五十一里塚】
江戸時代の初めに、幕府は「五街道」の改修を行って一里塚の制を敷き、江戸日本橋を起点として三十六町(一里、約4Km)ごと道の両側に塚を築いて、エノキかケヤキの木を植えさせた。ここ神戸には日本橋から五十一里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に五十二里塚があった。
塚上のエノキは大人の五(8〜9m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良に働く里人達にも親しまれたが、明治に入ってから取り壊された。
諏訪氏教育委員会
【常夜燈】 (真中) 13:02
一里塚を過ぎると、このあたりの民家や蔵の屋根には雀踊りが乗っているのが見つかる。
雀踊りは中山道で良く目にしたもので、その代表的なものは塩尻宿の「堀内家住宅」である。(旧中山道17回目参照)
持参の標高計によるとこの辺りで790m、気温は13℃であった。
しばらく道なりに進むと、十字路で道の真中にゴミ集積所が置かれている所に出る。ここで前ばかり見ていると見逃すが、集積所の裏側に古い常夜燈が建っている。常夜燈の前にはこれも古い道標があり、字はかすれて良く分からなかったが、ここも追分なのか。
常夜燈を過ぎると左側が開けて、諏訪湖の周りの山とその奥の雪山が綺麗であった。但し、建物の陰で諏訪湖は見えない。
【桑原城跡】 【足長神社】 (右側) 13:19
やがて「霧ヶ峰入口」の信号のある交差点に出て、この交差点の右手に手入れの行き届いた立派な松が大きな石の上に乗っていたのには感嘆。更にこの松の後ろの山を見ると、中腹に大きく「桑原城跡」の看板が掲げられていた。かつて桑原城がこの右の山の上にあった。
この交差点右に登って行くのが県道424号線でやがてビーナスラインに乗れる。
甲州街道は交差点を横断するとすぐ「足長神社」の入口があり、神社は階段を登り県道を越えた所にある。この参道両側の杉も大きかった。
【秋葉常夜燈】 【双体道祖神】 (右側) 13:22
「足長神社」を過ぎるとすぐ、右へカーブして登って行く道があるが、その曲がり角に秋葉山の石碑とその前の石室の中に二人が寄り添う道祖神があった。
この後、道はゆるやかに下り、やがてJR中央線の線路に接してくると20号線の旧道に合流するので右折する。
二つほどバス停を過ぎた右側の武津公民館前にも秋葉山と二人が手をつないでいる道祖神があった。
公民館のすぐ先で国道20号線に合流するのでここも右へ行く。
【上諏訪宿】 日本橋から五十二里 六町十ニ間(204.9Km)、下諏訪へ一里 十一町(5.1Km)
天保14年(1843)で人口 973名、総家数232軒、本陣1軒、旅籠屋14軒。
【酒造通り】 (左右) 13:45〜14:00
「清水1・2丁目」交差点手前で左下に下りるごく細い道が旧道のようなのでそちらを歩いたが、すぐ火の見櫓が立っている「清水1・2丁目」交差点に出る。
次の「元町」交差点から「諏訪2丁目」交差点までの400mの間に酒造所が4軒並ぶ通りとなる。
それぞれの店で試飲ができるので日本酒好きには堪らない通りだろうが、台ヶ原宿の「七賢」で述べたように、日本酒だけ好まない私は一軒も試飲しなかった。どの店も「七賢}と比べて開放的でなかったので下手に試飲すると手ぶらでは出られない雰囲気があったし、歩きでは酒は重たいので買えなかったこともある。最後の舞姫酒造を覗いただけだった。
順番に紹介すると、まず本町交差点左側に真澄の「宮坂醸造」、次の鍵之手交差点手前左側に横笛の「伊東酒造」、交差点を渡って右側に麗人の「麗人酒造」、その隣に舞姫の「舞姫酒造」。勅使河原郁恵さんが訪れて4店の酒を試飲したのは「舞姫酒造」。
【吉田のマツ】 (右側) 14:20
上諏訪駅手前の「諏訪1丁目」交差点を右折し、次の角を左折する。
左折してすぐの左側に、明治初期の木造家屋を利用した「喫茶石の花」がある。かつての内科医院で立派な門も残っている。
その隣がスーパーの「まるみつ」で、裏からも入れるのでトイレを借りた。但し、男性は疲れた足にはきつい3階だった。
その「まるみつ」の斜め向かいにある「片羽保育園」の庭に吉田のマツが植栽されていた。
【吉田のマツ】 諏訪市天然記念物(昭和54年2月指定)
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種 名 クロマツ(マツ科) 推定樹齢 270〜300年(平成七年現在) 大 き さ 目通り幹周1m45cm 地上30cm 幹周2m13cm 高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723)藩主忠虎の大坂城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。代々吉田家の庭園に育てられたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したもので有り、市内の最年長樹である。 クロマツの特徴は樹皮が末端まで暗黒色、下部樹皮が亀甲状に割れ、葉は濃緑色で強剛、新芽の鱗片は白味を帯びる。諏訪地方に見られるクロマツは栽植されたものである。 諏訪市教育委員会 |
【甲州道中五十二里塚】 (左側) 14:24
吉田のマツからすぐ先の民家の左端にトタン板に囲われた碑と説明板がある。
甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。各街道とも江戸日本橋より三十六町(一里、約4Km)ごと道の両側に盛り土をして頂上にケヤキ・エノキなどを植えて一里塚とした。ここに一里塚ができたのは慶長十五年(1610)頃と言われている。この塚は江戸から五十二里で西は下諏訪町富部の五十三里塚、東は四賀神戸の五十一里塚へと続いている。
諏訪市教育委員会
【兒玉石神社】 (右奥) 14:35〜14:47
やがて街道は右に大きくカーブして上り坂となり、二股に分かれるので、この二股を左に進む。
その二股の左側は、諏訪市文化財指定庭園で旧諏訪藩ゆかりの庭園「指月庵」となっているが、2003年に一般公開を打ち切ったそうだ。
右側の「湯の脇公民館」前には、屋根の中の地蔵や石碑が並んでいる。
私達は寄らなかったが、二股の右の道を行くと突き当たりに高島藩諏訪氏の菩提寺となっている「温泉寺」がある。
二股を左に行き、左カーブした右奥に兒玉石神社がある。境内には巨石が五個あり、拝殿前の大石は「いぼ石」と呼ばれ凹部に溜まった水で「いぼ」を洗うと治ると言われている。
また、児玉石公園にもなっていたので、ここのベンチで休憩する。
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【兒玉石神社由緒記】 例祭 十月二日斎行。最近は近くの日曜日に斎行する。 祭神「兒玉彦命」は、諏訪大神「建御名方命」の御子「片倉辺命」の御子にして、兒玉石神社の祭神として鎮座する。 『根元記抄』に、“創立年月は不詳であるが、遠い昔より「下桑原鎮守大矢小玉石湯之権現」として、原住民の崇敬を集め産土神(うぶすながみ)として祀られていた”とあり、兒玉石神社であろうと考えられる。依って文明十八年以前の創立と伝えられている。 明治十三年三月諏訪大社の摂社に加列された。毎年の例祭斎行の際には、諏訪大社より神官が参向され、幣帛(へいはく)料を捧げて奉仕されることが昔から今に続けられている。弐年寅年申年の七年目毎には八剱神社の旧社殿を移して当神社の神殿としたり、「千木」を譲与されることが例となっていた。 神社の境内には、五個の大石があり「諏訪の七石」の一つに数えられている。拝殿前にある二個の大石は「いぼ石」と呼ばれ神社のシンボルとなっている。 『上諏訪宮神徳記抄』には、“神が諏訪湖より大石を取り上げたが袖は濡らさなかった。中に二個の大石があり「兒玉石大明神」と称した。”とある。「兒玉石大明神」(大石)は祭神の御霊代となっている。大石には、沢山の凹部があって常に水をたたえて乾くことがなく、この水で「いぼ」を洗うと、必ず治癒すると言い伝えられている。 鳥居脇には、樹齢二百五十年という「大杉」があり御神木となっており、また、境内には三社の無格社が鎮座している。 (兒玉石神社明細帳より抜粋) 平成十六年十月吉日 |
【先宮神社】 (右側) 14:52
「兒玉石神社」より5分程進むと先宮神社があり、本殿横に樹齢650年と言われる大欅がある。
また、境内前に流れている小川(溝)には橋や蓋石などが架けられていないので落ちないように注意。
【先宮神社由緒記】
例大祭 九月二十九日 昔から“おくんち”と親しまれていたが、最近は近くの日曜日に斎行。
先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」の神話の一節にみえる。諏訪神社の祭神「建御名方命」が出雲より、州羽(諏訪)の地に遷御された以前より、すでに原住民の産土神であった。
しかし「建御名方命」が諏訪神社に鎮座した当時、国ゆずりの為抵抗したが遂に服従し、現在の社地に鎮座することになった。この事により他地に出る事は許されず、今でも境内前の小川には橋を架けないとの言い伝えがある。
神社の史料など乏しいが、文献では大和地籍には数ヶ所の遺跡があり、嘉禎三年(1237)以前に集落が形成され、漁撈(ぎょりょう)・狩猟・農業・養蚕等・農耕の「神」を祭り、共同体として生活し、寄り所として神社を築き、豊作祈願や感謝をし、天災地変・無病息災・外敵の消除等を祈ったりした。
神社名については、古くは「新海宮社」・「鷺宮」・「鵲宮」と言う名称があって、旧高島藩の「検地水帳」で元禄九年(1696)に、「鷺宮」が「先宮」と表記されている。
また鎌倉幕府の嘉歴四年(1329)の「下知状」に「鷺宮」の造営を下桑原(現在の上諏訪)の役と定めている事から、この頃には神社としての形態が整っていたものと思われる。
なお拝殿脇には諏訪市指定の天然記念物「大欅」があり、年代を物語っており、また境内には数社の無格社が鎮座している。
(先宮神社誌より抜粋)
平成十四年三月吉日
【先ノ宮神社のケヤキ】 諏訪市文化財(昭和43年4月指定)
先ノ宮神社の祭神は高光姫命といわれ、創立は文明十八年(1486)以前であるといわれている。諏訪明神以前の国神で、当初明神に反抗したが、ついに服従して今の社地に鎮座し、他に出ることを禁じられたという伝承があり、いまでも境内前の小川には橋がない。
このケヤキは市内では上社の布橋門横のケヤキとともに最大級のものである。
目通りの幹周7.45m、樹高25m、枝張り25m(長径)15m(短径)で樹齢650年と推定される。
古来「大樹は人を育てる」といわれ有名な巨樹である。
諏訪市教育委員会
【皮だけのケヤキ】 (左側) 15:05
先宮神社を過ぎると道は下り坂となり、やがて火の見櫓が見えたらその先の「諏訪市消防団第一分団第一部」と隣の「武居屋酒店」の間に大きなケヤキがあるが、この木の裏に回るとびっくりする。幹の殆どは空洞になっており、皮一枚で生きているからである。
ケヤキの前には「甲州街道」の石柱が、後ろには「慰霊碑」の石碑が建っている。
「武居屋酒店」隣の道路から下の方に諏訪湖の一部が見えてくる。
更に坂を上り切ると、左の展望が開け、諏訪湖の全体が見える絶景ポイントとなる。
【長崎家】 【橋本】 (左側) 15:20
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諏訪湖絶景ポイントから5分弱で、化粧し直した山口氏宅の蔵が現れ、その隣に長崎氏宅の立派な家がある。更に「橋本」という屋号の古い家が続く。 写真で分かるように、連子格子のある建物で、高島城の門ではないかと思われる立派な門がある。 欄間には鯉の彫刻と軒先から見事な燈籠が突き出ている。 かつての茶屋跡だったことが、建物の西面に掲示されていた。 |
【石投場】 【明治天皇駐輦跡】 (右側) 15:38
「橋本」から下りで左右に民宿が並ぶ道を行くと、前方に突然巨大な「プチモンド諏訪レイク」マンションが現れる。 再び諏訪湖の展望が良い場所に出ると、左側の民家が切れたすぐ先の右側やや高い所に二つの碑が並んで建っている。笹竹が生い茂り、危うく見逃すところだった。 右の碑が○○八名所石投場で、かつて諏訪湖がこの真下まで迫っていたので、ここから湖へ石を投げられたそうだ。○○の字が読めなかったが、諏訪のことか? 左の碑が明治天皇駐輦址で、ここで休んで美しい諏訪湖を眺めたのであろう。 |
【一里塚碑】 (右側) 15:50
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石投場から坂を登り、次いで下りきった少し先に甲州道中最後の一里塚碑が案内板と共に建っている。 起点の日本橋から道の中央を計って一里毎(4Km)に、道の両側に大きく土を盛り榎等を植え一里塚として、旅人の便とした。 この塚は江戸(現、東京)より53番目。甲州街道中最終のもの。 あと十一町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き。中仙道につながる。 |
【承知川橋】 (右側) 16:00
一里塚から10分弱で、小さな川を承知川橋で渡る。この橋を覚えておいて、すぐ先のヤマザキショップの前を過ぎると「久保海道公会所」の石垣に、一枚岩が貼り付けられて承知川橋の説明板が掲げられている。
また、一枚岩の左には地蔵、上には案内板(承知川橋・諏訪大社秋宮300m)があった。
〔承知川橋の記〕
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。輝石安山岩 重量約拾参屯
伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。
この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。
昭和五十二年 久保海道町
【下諏訪宿甲州道中 ・中山道合流之地碑】 (右側) 16:10
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「承知川橋の記」の先で、右カーブすると大通り(国道142号線)に出て右が「諏訪大社下社秋宮」となる。
合流之地碑の足元にはプレートが埋め込まれており、『旧甲州道中Koshudochu
Old Route →江戸 五十三里十一丁』・『京都 七十七里三丁↓ 旧中山道Nkasendo
Old Route 江戸 五十五里七丁←』と記されていた。 (左の写真は碑だけだが) |
甲州道中・中山道合流之地到着
(16:10) 日本橋から五十三里十七町(
210.0Km)
1年10ヶ月(15回)かけて旧甲州街道を制覇
本日の記録 :
街道のみの距離は、19.4Km(旧道青柳十字路〜甲州道中・中山道合流之地碑)
寄り道を含めた実歩行距離は、21.8Km(青柳駅〜下諏訪駅)
7時間55分
33,560歩(街道のみ) 36,000歩(青柳駅〜下諏訪駅)
大井宿迄で中断していた中山道に戻ります。