大津宿(後半)・三条大橋
(スーパーホテル大津→三条大橋) <旧東海道
42回目>
2005年2月19日(土) 曇一時小雨
スーパーホテル大津を8:00に出て、昨日の交差点よりスタート。
ついに最終回の行程になりました。本日は、息子と娘が三条大橋で出迎えてくれることになっており、朝から待ち合わせの時間調整がうまくいくかの不安と、完結に向かっての高揚が入り交ざった複雑な気分で出発しました。
【大津宿】 江戸から122里20丁(466.9Km)、京へ3里 人口約 1489人
広重の錦絵と現在の風景は下記「名水餅」に記載。
【煌き大津賞の家】 (左側)
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昨日終了した中央大通りの交差点に戻り「京町通り」に入る。途中、京町通りを解説した石柱がありました。 【京町通り】
この通りは、江戸時代に「大津百町」として賑わった旧大津市街地を東西に貫く三本の通りの一つです。この通りは、旧東海道とも重なっており、京都への道筋にあたるところから「京町通り」と呼ばれてきました。かつては多くの商家が軒を連ね、分岐点にあたる札の辻以西は、北国街道となっていました。 文化庁登録有形文化財第25−0286号で「この建造物は国民的財産です」とプレートに書かれていました。 煌き大津賞は大津市内で自然の保護や都市景観の保全などに地道に取り組んでいる人を表彰しようと毎年行われているもので、表彰は2003年で17回目となる。 |
【札の辻】 【大津市道路元標】 (左側)
路面電車(京阪電鉄京津線)が走る道路との交差点が辻の札で、東海道はここを左折します。ここから道は逢坂の関跡まで登り坂になります。
ここを曲がらずに真直ぐ行くと間道の小関越えで山科へ続いています。
交差点の西側の角に「大津市道路元標」の石碑、「辻の札」の標柱、付近の案内図が並んで立っていました。
【辻の札】 標柱の側面に記載
東海道と北国街道の合流地点で、江戸時代には、江戸幕府の高札がここに掲げられていたことから起こった地名です。かつては札の辻の西南角には、旅人に人足や馬を提供する人馬会所も置かれており、大津町随一の賑いをみせていました。
【辻の札の由来】 地図の下に記載
辻の札の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。ここは、東海道と北国街道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国街道であった。
辻の札を左折して、路面電車が右(西)の方へ離れて行く先の左側に「本陣跡」があるとのことですが見逃してしまいました。
【関蝉丸神社】 (右側) 8:25〜8:37
JRのトンネルが右下に見える陸橋を越えると間もなく右側に入口があり、神社は京阪電鉄京津線の踏切を渡った奥です。
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【謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社】 幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。 一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。 蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。 謡曲史跡保存会 |
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左の写真は、神社内にある有名な蝉丸の歌碑です。
これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬもあふ坂の関 【工芸品 石燈籠(時雨燈籠)一基 】 国指定重要文化財 「時雨燈籠」の名称でしられる六角形の石燈籠です。六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、その上にたつ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。六角形の火袋は簡素なもので、火口を一ヶ所と小さな丸窓を設け、壁面も上部にだけ連子を彫っています。六角形の笠もうすく、蕨手はよく古式をとどめています。最上部の宝珠と請花は後補。 いずれにしても作成年代を示す銘文はないが、様式上、鎌倉時代の特色をもったよい石燈籠で、貴重なものとして昭和三十七年六月に国の重要文化財に指定されました。 大津市教育委員会 |
【大津算盤・車石】 8:40〜8:45
上関寺バス亭に差し掛かかったとき、大津算盤の始祖片岡庄兵衛の16代目という御主人に呼び止められ、家の中に案内されると土間の踏み石には本物の車石を使っていました。
また、「一里塚庄兵衛」と彫られた石碑、五十三次の古い絵が貼ってある屏風、上段が二つ玉、下段が五つ玉の大津算盤(写真)などを見せてもらいました。
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【大津算盤】 この先で大津算盤の案内碑が出てきますので、そちらで解説します。 |
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〔車石〕 この先、逢坂峠手前の切り通しの石壁に絵と共にはめ込まれていた解説文です。 大津−京都間を結ぶ東海道は、米を初め多くの物資が運ばれていましたが、この逢坂の峠道はとくに運搬の難所でした。 江戸時代、運搬の多くなった、文化2年3月(1806)に京都の心学者、脇坂義堂は一万両を費やし、大津から京都三条にかけて約三里(12Km)の間を、荷車往来用に「花崗岩」に轍を刻んだ敷石を並べて通行に役立てました。 これを「車石」と呼んでいます。
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【安養寺】 (右側) 8:49
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安養寺山門前に「逢坂」の解説がありました。(写真で右の石柱) 【逢坂(おうさか)】 「日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とぱったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。 【逢坂山 安養寺】 関寺旧址 本堂には、重要文化財、行基作の阿弥陀如来坐像が安置されている。 また同寺は、蓮如上人の旧跡で、上人身代わり石の名号石が残っている。 なお境内の「立間観音」は古く東海道名所図絵等にも記載されて有名である。 大津市経済部観光課 |
【旧逢坂山ずい道東口】 (右側) 8:56
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国道1号線合流手前の「京大防災研究所」内にあります。
入口には鎖がかかっていましたが、誰もいないので入らせてもらいました。 このずい道は明治11年10月5日東口から、又同年12月5日西口からそれぞれ掘さくを始め、約1年8ヶ月の歳月を費やして明治13年6月28日竣工したもので、大正10年8月1日線路変更により廃線となるまで、東海道本線の下り線として使用されていたものであります。 全長664.8mにおよぶこのずい道は日本人技術者が外国技術の援助を得ずに設計施工した、我が国最初の山岳ずい道として歴史的な意義をもつものであります。 坑門上部にある石額は竣工を記念して時の太政大臣三条実美の筆になるものであります。 日本国有鉄道 昭和36年10月14日建設 |
【関蝉丸神社上社】 【弘法大師堂】 【逢坂常夜灯】 (右側) 9:09
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京大防災研究所からすぐ国道1号線に合流しますので、反対側(1号線の左側)に渡り、京阪京津線に沿って行きます。 |
【逢坂山関址】 (右側) 9:19
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坂を登りきった右側に常夜燈と共に石碑が見えます。
古来からの交通の要衝で、平安時代には、不破・鈴鹿と並ぶ三関のひとつであった。歌枕としても名高い。ただ、関のあった場所は関寺(現在の逢坂1丁目の長安寺)の近くとだけわかっており、碑の建っている逢坂峠のあたりに関があったという確証はない。 |
【逢坂山名水餅跡】 (左側) 9:29
広重の東海道五拾三次之内・大津『走井茶屋』 店頭に湧き溢れている名水走井を描いているが、現在はこの先にある月心寺玄関前(下の写真)にあります。 |
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現在は看板のみです。(写真は西側から撮ったもの)
店先に広重の絵にも描かれているような大きな石臼がありました。 |
【大津算盤の始祖・片岡庄兵衛】 (左側) 9:25
名水餅看板のすぐ隣りにあります。
江戸時代、東海道筋のこのあたりで売られていた大津算盤は、慶長17年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家の子孫が住まわれていた。
【月心寺】 (左側) 9:34
入口は格子戸で、「月心寺 走井」の文字が書かれた行燈型の看板が掲げられていました(左下の写真・上)。
前庭(左下の写真・下)には自由に入れますが、その奥も連絡すれば年中無休で日没まで境内を自由に拝観できるそうです。
月心寺の隣に「明治天皇駐蹕之處」の石碑が立っていました。
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【月心寺】
画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)の別邸で、没後に寺院として改められた。室町期の絵師・相阿弥(そうあみ)作と伝わる池泉回遊式の庭園は見事で、走井の名水や小野小町百歳像を安置する小町堂などがある。 【走井】 この名水は、第十三代成務天皇の御誕生の時、産湯に用いられたと伝えられる。 安永年間スウェーデン人ツンベルブが江戸に赴いた紀行に「どんな小さな茶屋にもいつも米で作った白か緑の小さな菓子がある。旅人や輿夫はこれを買って茶とともに食べる。茶はいつも飲めるように用意されている。」と記されている。 関の清水走井などの清冽な水で立てられた茶とともにとったのが、その菓子の名のおこりである。 走井の かけひの水の すずしさに越えもやられず 逢坂の関 清輔
大津市観光課 ごま豆腐以外の料理も感動とのことです。 月心寺と村瀬さんはテレビでも紹介され、そのときの話です。 村瀬さんは、9歳で仏門にはいり各寺で修行した後、30代半ばで月心寺の二代目住職となる。その後、事故で体が不自由になったが、今でも80歳の高齢にもかかわらず、早朝2時に起床し、不自由な手で自ら丁寧にごまをすって客を迎えるための準備をしています。 「お客様の到着にあわせてごま豆腐をつくるために、むきごまは前の晩からつけておき、1時間以上かけてするので、大勢の客の為のごま豆腐は午前2時から作り始めなければならない」そうです。 |
【追分】 9:58
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名神高速道路をくぐり、交番を左折します。 程なく写真の追分にぶつかります。右が京道、左が宇治道です。
道標には正面に「みきハ京みち」、左側面に「ひだりハふしミみち」、右側面には「柳緑花紅」と刻まれていました。 この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点にあたっていました。追分の名は、このような街道の分かれ道で馬子が馬を追い分けることからきたものです。なお江戸時代、付近の街道沿いには、髭茶屋町、南・北追分町の三か町が並んでいました。 |
【閑栖寺】 (右側) 10:04
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追分のすぐ先にあり、門前と境内に車石が置いてあります。 東海道五十三次 大津八丁(札の辻)から京三条大橋までの約三里(十二KM)の間、物資輸送する牛馬車の通行を楽にするため、花崗岩に溝を刻んで切石を敷きつめた。文化二年(1802)心学者脇坂義堂が発案し、近江商人中井源左衛門が財を投じたとも伝えられている この附近は車道と人道に分かれていて、京に向って右側に車石を敷き左側は人や馬の通る道であったと伝えられている。 当寺の境内にも数基保存している。 放光山閑栖寺 |
【煌き大津賞の家】 (左側) 10:12
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東側からと西側から撮影。 |
【三井寺観音道石碑】 (右側) 10:25
大きな石柱が現れ、正面に「三井寺観音道」、左側面に「小関越」と刻まれています。
上述の「札の辻」へ続いていると間道と思われます。
【徳林庵】 (右側) 10:35〜10:50
街道沿いに六角堂が建っています。
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【徳林庵】 柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる。仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。 この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一本から刻んだ六地蔵の一といわれ、京の町から諸国、諸地方へ向う東海道の出口にあたり、物詣や疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり、地蔵菩薩信仰として栄えた。また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。 江戸時代には検校位を有する盲人が、毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を演じ、親王の御霊を慰めたという。 京都市 |
【縁起】
山科地蔵尊は、山科廻(めぐり)地蔵、四ノ宮地蔵とも呼ばれています。
霊験大なる事で有名なこの尊像は今より約1150年前の平安時代に小野篁公(おののたかむら)によって作られた霊像です。
初め伏見六地蔵の地に、六体の内のひとつとしてあった尊像は、後白河法皇の深い信仰を受け、平清盛、西東法師等の手により、厄病退散、都往来の路上安全、庶民の福来結縁を祈願し、都街道の出入り口六ヶ所に一体ずつ分置されました。
この時より約850年の間、山科地蔵尊は、六地蔵めぐりの伝統行事の歴史と共に、東海道を往来する人々を、あたたかく見守り続けているのです。
また尊顔が美しく新しく見えるのは、百年に一度、化粧直しをされる為です。
本尊の他に、裏側にはかわいい六地蔵が安置されていました。
また、「人康親王供養塔」もありました。
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徳林庵の先の右側に立っていた「東海道」石柱に、「京三条はし迄一里半」とありました。 もう一息の距離になったのと、数人の托鉢僧が各家々の前で念仏を唱えているのに出会うと、いよいよ京都の町に入ってきた実感が沸いてきました。 |
【明治天皇御遺跡】 (右側) 11:03
山科駅前交差点を渡ったホテルの横に石柱がありました。そのホテルの地下でトイレ休憩。
この石碑は、明治元年九月明治天皇御東幸の際、同二年三月の御還幸及び、同十一年十月の御還幸の三回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹毘沙門堂領地内にあった「奴茶屋」(現RACTO・A2階)に御駐輦されたことを記念して建立されたものである。
【三条通りの道標】 (左側) 11:10
右側に、灯明を入れられる穴が開いている「愛宕常夜燈」の石柱を見て、広い道路に出た所か出る前かは定かでないが、左角に「右は三条道」と刻まれた石柱がありました。
三条通りに出たら右折してJR東海道線をくぐり、公園状道路より少し行った細い道を左折するのであるが、ガイドブックの案内が分かりづらく、うろうろして15分〜20分ロスしました。京都に入ると旧東海道の案内がほとんどなくなります。
三条通りのJR東海道線をくぐった先、右手の森に「天智天皇山科陵」があるので行きたかったのですが、子供達との約束があるため泣く泣くあきらめました。
【亀の水不動尊】 (左側) 11:48
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日の岡峠の細い坂をほぼ登りきる手前にありました。 亀の口から井戸水が流れ出ていました。 かつての休憩所か。 |
【車石の広場】 (左側) 12:00
不動尊からの細道を下り、三条通り(国道1号線)に合流したところに、実物大の荷車と車石がたくさんはめ込んでありました。
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平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し、三条通りの四車線化及び歩道の整備事業を実施した。本事業の完成を記念して、三条通りの舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した広場を設置する。
平成十六年一月 京都市 ここの広場で、子供達が高速道路を下りて三条通りを走っているとの携帯連絡が入ったので、途中で見つけて貰えるように、三条大橋までこのまま三条通りを行くことにしました。 旧東海道は坂を下り、陸橋を渡り50m程のところで右斜めに入るとのことですが道が良く分からないこともあり、三条通を行く。 |
【白川橋】 (左側) 12:34
白川橋のたもとにあった石碑を見ていたときに、子供達から我々を見つけたがそのまま通り過ぎたとの連絡が再び入った。見つけたのならちょっと止まって荷物だけでも積んでくれてもいいのにと思った。
【高山彦九朗、皇居望拝之像】 (左側) 13:46
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江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。 今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747年〜1793年)の姿を写したものである。 高山彦九郎は、群馬県の出身である。十八歳の時以来、前後五回、上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向って拝礼した。 その姿は 大御門 その方向きて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧 と和歌に詠まれた。 明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。 後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、 人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遥かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は鴨の水アサノサ と謡いつがれた。 京都市観光部振興課 |
12:45三条大橋到着、3年2ヶ月(42回)かけて旧東海道を制覇。本日の歩数:26,500歩
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奇跡的に、別々に出発した2組が1秒も狂わずに橋の真ん中で出会うことができました。 (左の写真で、向かってくる白い傘の2人が息子と娘、赤い傘が妻です。) 私は橋の写真を色々撮っていたので真ん中での出合には参加できませんでしたが、決定的瞬間が撮れました。 先に着いている子供達が駐車場を探していたこと、三条通りでこちらが迷ったことなど偶然が重なって感動の出会いとなりました。 (右の写真は、橋の西側にある弥次喜多像の前で完歩記念の紙を持っている私と妻です。) |
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右上の写真の場所に、「三条大橋擬宝珠刀傷跡」、「弥次喜多像」、「撫で石」、「道中安全祈願」の案内板がありました。
【三条大橋擬宝珠刀傷跡】
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀傷があります。これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です。
三条大橋を渡る時に目をやってみてはいかがでしょう。
三条小橋商店街振興組合
【弥次喜多像】(右上写真で、私達の後にある像です)
この像は、江戸時代後期に十返舎一九が書いた滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公である弥次朗兵衛と喜多八をモデルにしたものです。「東海道中膝栗毛」とは、二人が伊勢詣でを思い立ち、数々の失敗や滑稽を繰り返しながら、東海道を江戸から京、大阪に旅する様子を描いた滑稽紀行文です。物語では、大阪に行く前に三条大橋に近い宿屋に泊って、ハシゴを買わされる話になっています。
このブロンズ像は、三条小橋商店街が、二科会の会員で彫刻家の小山由寿氏に製作を依頼し平成六年に建立し、西院春日神社内にある旅行安全・還来成就の神である還来(もどろき)神社に御祈願をして頂きました。
【撫で石】(右上写真で、左側案内板の下にあります)
「無事に還り来る」の信仰で有名な還来神社にならい、旅の安全を祈願して「撫で石」を設置しました。昨今、旅行中になにが起こるか分かりません。旅行に来ておられる方、また、これから旅行に行く方、どうぞこの撫で石を撫でて旅の安全を祈願し、楽しい旅にしましょう。
また、この石は牛若丸(源義経)で有名な鞍馬から産出した鞍馬石で、酸化鉄の含有により玉葱状剥離が現れ、鉄錆色が前面を覆っているのが特徴です。
三条小橋商店街振興組合
【道中安全祈願】(右上写真で、右側の案内板です)
ふれあいの弥次喜多さん 旅は道ずれ世はなさけ 道中安全願いつつ ふれて楽しい 旅の始まり 由
三条小橋商店街
【京都 三条大橋】 江戸から126里6丁1間(495.5Km)
広重の東海道五拾三次之内・京師『三条大橋』 約126里の道程を当時の旅人は2週間以上かけて歩いた。 この絵は北側から描いており、三条大橋から見た京都東山で、緑の山の中腹には 清水寺、その他、八坂神社・双林寺・知恩院等が描かれている。 |
現在の三条大橋
(南側から撮影したもので、手前が江戸方向です) |
ミニ情報で紹介しましたが、広重は京都に行かずにこの絵を描いたと言われています。
その決定的証拠としては、その当時の三条大橋は日本で初めて橋脚を石で造った橋であり、広重の絵のように木ではなかったからです。現在の石の橋脚の形と比較すれば違いは一目瞭然です。さすが広重もその後に描いた絵では、石になっています。
街道歩きを終了後、4人で二日間ドライブをしました。
当日は「金閣寺」と「二条城」を見学後、前述した大谷集落の「かねよ」でうなぎの夕食を取り、大津プリンスホテルに宿泊。
翌日は、「三井寺」、「石山寺」を見学して草津に戻り、子供たちに「草津宿本陣」を見せ、次いで近江八幡の伝統的建造物保存地区を見学しました。