坂下宿・土山宿 (関ロッジ→土山西口バス停) <旧東海道38回目>

2004年12月4日(土)曇後雨

 関ロッジを8:10スタート。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「亀山宿・関宿」 ← 「目次」 → 「水口宿」


〔鈴鹿峠を越えるウォーカーにアドバイス〕

1.関宿を出ますと、土山宿入口の田村神社前にある「道の駅」までの5時間〜5時間半、食堂は勿論、食料を購入できる場所は一切ありません。

 関宿であらかじめ食料と飲料水を購入しておく必要があります。朝早く出立する人は前日に用意して下さい。

2.土山宿の近くには鉄道がないため、帰る人はバスを利用すると思いますが、草津線の貴生川駅へ行くバスは1時間に1〜2本しか走っていません。あらかじめインターネットでバスの時刻表を調べて印刷したものを持参することをお薦めします。 バス会社は、「土山町 あいくるバス」です。

 田村神社を出発して土山宿に平行している国道1号線を通って、貴生川駅まで行っています。田村神社から約40分で250円均一です。

 宿場沿いのバス停は、中間で「土山町役場」、西のはずれで「土山西口」、その少し先で「白川橋」などがあります。


【西の追分】 (左側) 8:20

 関宿が終わり、国道1号線に合流する所にあります。

 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。

 慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。

 ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78Km)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。

 ここから国道に合流し、食堂「大阪屋」の前を行きます。


【転び石】  (右側) 8:30

 国道沿い「オークワパーキング」内の中ほどにありますので、あらかじめ駐車場のフェンス内に入っておくといいでしょう(先の方から出られます)。

 直径2mほどの石で、案内板はありません。

 何度片付けても街道に転がり出てしまったと云われる伝説の石。また、鈴鹿峠から当時畑だったこの地に転がり落ちてきたという説、鈴鹿川に転落した石が自力でここまで戻ったという説等もある。

 

 旧東海道は、国道1号線が右カーブした先の「オークワ流通センター」の看板の所を右折し、鈴鹿川の市瀬橋を渡って市瀬集落入ります。

 ほどなく国道に戻りますが、426.2Kmポストで国道を横断して左の道へ行きます。左側民家の軒下にベンチが置いてあったが、旅人が自由に利用していいのかは不明です。

 再び国道に合流しますので、右側を歩いてください。


【筆捨山】 (右側) 8:55

 427Kmポスト付近から右前方に「筆捨山」が見えます。カメラを持っている人はここが一番目のポイントです。

 さらに進んで左に大きくカーブする手前右側に「名勝 筆捨山」の石碑があります。

 その先バス停の手前に右へ入る小道(旧道の残りか?)がありますが、一歩入ると目の前に奇岩の筆捨山(下記【坂下宿】の写真参照)が現れます。二番目の撮影ポイントです。

 紅葉と水が綺麗な鈴鹿川を右手に見ながら弁天橋を渡った先を右折すると沓掛の集落に入ります。橋のたもとに「国道改良記念碑」があります。

 沓掛バス停を通過すると、次のバス停は馬子唄会館前になります。


【馬子唄会館】 9:35〜9:55

 会館脇の道路沿いに日本橋から始まって京都三条大橋まで、宿場毎の木柱が並んで立っており、これを眺めると四十八宿まで制覇したのがあらためて実感できます。京都の手前大津宿まであと五宿を残すのみ。京都まで目標の3年以内に完歩できそうもないが、3年1〜2ヶ月で行ける目途が立った。

 馬子唄、坂下宿、鈴鹿峠の解説があり、職員が馬子唄の解説をしてくれましたが、館内に流れているはずの馬子唄が聞けなかったのには残念。どんな節なのだろうか。

【馬子唄の調べ】

 坂は照る照る鈴鹿は曇る 

   あいの土山雨が降る

 馬がものいうた鈴鹿の坂で             お伊勢参りを「おさん宮」という。

   おさん女郎(上臈)なら乗しようというた    お伊勢参りをする上流の公家の女性なら馬に乗せても良かったという。

 坂の下では大竹小竹

   宿がとりたや小竹屋に

 手綱片手の浮雲ぐらし                1600〜1700年以降に作られた歌詞。

   馬の鼻歌通り雨

 与作思えば照るのも曇る              1708年の作

   関の小万の涙雨

 関の小万が亀山通い                1788年の作

   月に雪駄が二十五足

 関の小万の米かす音は 

   一里聞こえて二里ひびく

 馬はいんだにお主は見えぬ

   関の小万がとめたやら

 昔恋しい鈴鹿を越えりゃ

   関の小万の声がする              「馬子唄が鈴鹿以西に無いのは、船旅が多かった為と考えられる」と館長の説明。

【鈴鹿馬子唄の特色】

 鈴鹿馬子唄は、馬子唄としては南限であるといわれています。また、その歌詞は宿場ならではの情緒的なものを歌い込んでおり、他の馬子唄とくらべても艶を含んだ異色のものとなっています。

 馬子たちの仕事唄であった馬子唄が多くの人々の心をとらえたのは、そこに馬子たちの喜怒哀愁などが豊かに織り込まれていたからなのでしょうか。

【鈴鹿馬子唄の発祥と伝播】

 鈴鹿峠を担う馬子たちの間で鈴鹿馬子唄がいつごろから歌われだしたのかは定かではありませんが、初見は宝永元年(1704)に刊行された「落葉集」であるといわれています。

 さらに宝永5年(1708)大阪竹本座で上演された近松門左衛門作の浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」に鈴鹿馬子唄が登場するなどし、全国的に知れ渡ることとなりました。

【全国に見る馬子唄発祥地】

 鈴鹿峠で馬子唄が生まれたのと同様に東海道の他の地域の峠でも唄が誕生しています。場所が違っても峠を越える大変さは同じだったのでしょう。旅人と自分自身も慰める内容の歌詞となっています。

 鈴鹿峠と並び称される東海道有数の難所である箱根峠をはじめ、下のようにいくつかの峠で馬子唄の発祥がみられます。

   箱根馬子唄(神奈川県) 箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川 ・・・

   上州馬子唄(群馬県)   赤城しぐれて 沼田は雨よ 明日は水上 湯檜曽まで ・・・

   秋田馬子唄(秋田県)   歩べこの馬 急げや川原毛 西のお山に日は暮れる ・・・

   小諸馬子唄(長野県)   小諸出て見よ 浅間の山に けさも三筋の 煙立つ ・・・

【坂下宿の町並み】

 坂下宿は江戸から48番目の宿駅であり、鈴鹿峠の下にあることからその名が付いたといわれています。元々は峠の麓に位置していましたが、慶安3年(1650)の大洪水によってほとんどが壊滅したため、現在の場所へ移転しました。

 坂下宿は峠の宿場の典型で、天保4年(1846)の記録によると戸数153、人口546、本陣3、脇本陣1で旅籠の数は48と、亀山宿の21、関宿の42よりも多く、全戸数に占める旅籠の割合は五十三次中、箱根宿に次ぐ高いものでした。

【御伝馬之定】

 関が原の戦いで天下を取った徳川家康は、「御伝馬之定」を発して宿駅の制度化を図りました。各宿駅に備える馬の数や積荷の量などを決め、公用の場合には「伝馬朱印」を発行することによって無賃で馬を使用できるようにしました。

 この制度により宿場における人や馬の出入りが激しくなり、人を乗せたり荷物を運ぶ馬子が街道通行になくてはならない役目を果たすようになりました。

【人馬駄賃(運賃)の変遷】

 宿駅における人馬の使い方は一宿ごとの継ぎ送りの形を取り、慶長16年(1611)には幕府によって街道筋の駄賃馬の規制が定められました。駄賃銭は各地域の実情や困窮程度に応じて宿駅ごとに異なり、坂下宿は気象の変化が激しく峻険な鈴鹿峠越えを要したため、駄賃表にみられるように他の宿駅よりも割高な駄賃が認められていました。

文化7年(1810)の東海道駄賃表

宿駅名

本馬

人足

桑 名 ←→ 四日市

151文

 73文

四日市 ←→ 石薬師

127文

 61文

石薬師 ←→ 庄 野

 34文

 18文

庄 野 ←→ 亀 山

 86文

 44文

  亀 山 ←→  関

 68文

 35文

 関  ←→ 坂 下

117文

 56文

坂 下 ←→ 土 山

上り 225文

111文

下り 169文

 82文

土 山 ←→ 水 口

127文

 61文

水 口 ←→ 石 部

146文

 70文

石 部 ←→ 草 津

140文

 69文

草 津 ←→ 大 津

166文

 81文

大 津 ←→ 京 都

169文

 82文


【鈴鹿峠越えのはじまり】

 古代において鈴鹿峠越えは「加太越え」であり、加太川に沿った数多くの瀬を渡る、険しい山道でした。しかし都の移転に伴い交通路が変化し、仁和2年(886)になって「阿須波道」と呼ばれた今の鈴鹿越えが開通したことが「三代実録」に記されています。これによって、この峠一帯の名称が鈴鹿山と呼ばれるようになり、伊勢神宮へ向かう斎王の群行はこの新しい道を通ることが通例となりました。

【鈴鹿峠の山賊】

 古代から中世にかけての鈴鹿峠には山賊がはびこり、旅人を大いに苦しめました。その横行ぶりは、峠越えが開通して間もない昌泰元年(898)には早くも勅使の一行が襲われていることからもわかります。鎌倉時代には北条氏がその征伐を峠近辺の地頭に命じましたが、山賊に襲われる旅人は後を絶ちませんでした。

 このような恐ろしい山賊の姿は様々な物語となって現在に伝えられています。


【坂下宿】 江戸から107里半(422.2Km)、京へ18里 人口約 560人 

広重の東海道五拾三次之内・坂之下『筆捨峰 

 市之瀬村にあった筆捨茶屋(関宿と坂之下宿の中間にあった立場)と筆捨山を描いたもの。

 狩野元信がこの絶景を描ききれずに遂に筆を捨ててしまったという故事からこの名がついた。

現在の筆捨山


 バス停「伊勢坂下」(三重交通バスの終点)前に10:05到着。

 坂下宿には当時の面影は何も残っていません、ただ本陣跡等の石碑があるだけです。

 国道1号線の改修・発達により宿場がさびれてしまった。

【松屋本陣跡】 (左側)

 バス停「伊勢坂下」前に石碑が立っています。

【大竹屋本陣跡】 (左側)

 バス亭隣の畑の東端に石碑が立っています。

 江戸時代においては諸侯(大名)の休泊所を本陣と呼び、諸侯の他公卿、高級武士等特権階級の休泊所にあてられ、家屋の規模も広大でした。

 坂下宿には大竹屋、松屋、梅屋の3つの本陣と小竹屋脇本陣があり、特に大竹屋は道中記に「街道一の大家」と称えられたほどで、旅人たちが一度は泊ってみたいと願う名高い宿でした。

【梅屋本陣跡】 (左側)

 同じ畑の西端に石碑が立っています。

【法安寺】 (右側) 10:10〜10:15

 境内の紅葉が最高に綺麗でした。

 禅宗の寺で、本尊は信州善光寺分身の如来とのこと。

 松屋の門が残されており、山門を入った左側には、近国作の猿が坐像をまつる庚申堂がある。


【小竹屋脇本陣跡】 (右側)

 梅屋本陣の斜め前に石碑が立っています。

 「大竹屋は無理でもせめて泊まりたや小竹屋」と云われた。

【身代地蔵尊】 (右側) 10:20

 小竹屋脇本陣跡隣りの蔵のすぐ横に赤い前掛け付けた可愛らしい地蔵が祀ってありました。その隣りにも地蔵(左の写真)がありました。

 右の写真で、三軒ある本陣でなく「小竹屋脇本陣跡」を載せたのには訳があります。その答えはこのホームページのURLを見て推理してください。

 


【岩屋観音】 (右側)  10:25

 国道1号線に合流する地点にあります。大道場 岩屋十一面観世音菩薩の大きな石碑と横に門があります。扉を開けて入ると奥に観音堂と滝があり、手前に滝の水が飲めるようになっています。

 この水をいただくと病気が治るとのこと。一口だけ飲んでみました。

 観音堂は立ち入り禁止です。

 左の写真は入口、右の写真は観音堂脇の祠と滝です。


【片山神社】 10:50

 国道を500mほど行くと、右へ入る道に片山神社の石柱が見えてきます。

 山林を登ってゆくと、鳥居と急な階段が見えてきます。その見上げるようなキツイ階段を登ってみたら焼け跡しかありませんでした。片山神社のことはガイドブックで事前に見ておかなかったので焼けてしまったことは知らず、よけい疲れが出てしまった。ただ神社周りの紅葉は見事でした。

 鳥居の左横、水場の後には「鈴下流薙刀術発祥之地」碑があります。


【鈴鹿峠】  

 いよいよ本格的な鈴鹿峠越えです。

 片山神社前を右へ、常夜灯があるつづら折りの急な石畳と階段を100mほど登ると、国道1号線の陸橋に出ます。

 馬子唄会館で遇ったウォーキングの団体が片山神社で追いつかれたので急いで出発したが、昨日のウォーキングでは過去最高の体調で、リュックの重さも足の痛さも最後まで感じなかったのに、今日は打って変わって足が重く、この急坂はなかなか足が前に出ず本当にきつかった。昨日足に豆ができた為に遅れ気味だった家内は元気で、どんどん登って行ってしまったのには参った。一晩で形勢が逆転してしまった。

 陸橋に出たところに休憩出来るイスとテーブルがあったので、少し早いが昨日「月の庭」で買っておいたパンで昼食にしました。(11:00〜11:20)

 休んでいると、例の団体が追い越して行きましたが、クラブツーリズム且蜊テの「東海道を歩く」ツアーでした。解説者付きなので過去に参加してみようかと思ったツアーです。

 峠までは、ここから更に300mほど山道を登ります。

 私は、不本意ながら足が重かったのできつかったが、かつて難所と云われた鈴鹿峠でも、現在では通常の体調なら、こんなものかと思われくらいあっけない登りです。

 休憩以降は最後まで快調に歩けたので、この短い登りのきつさは何だったのだろうか?

【休憩所にあった鈴鹿峠の解説】

 鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886)に開通した。

 八町ニ十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀(みずがね)商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。

 また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。

 江戸時代の俳人、松尾芭蕉も鈴鹿峠についての「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。

     環境省・三重県

【芭蕉句碑】

 休憩所から短い階段を登ったところにあります。   ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山

【馬の水のみ鉢】

 芭蕉句碑の隣にあります。

 かつて街道を上り下りする人馬のために水溜が置かれていた。

     平成4年1月復元 関町教育委員会

【田村神社旧跡】

 頂上まで登りつめると、左「鏡岩」の標識がありますので、案内に従って林の中に入るとすぐ田村神社旧跡の石碑のみあります。

【鏡岩】 三重県指定天然記念物 (左奥) 11:30

 更に、落ち葉でふわふわの林の中を矢印に従って150mほど入ると天然記念物 鈴鹿山の鏡石に行けます。

 この岩に登るとはるか眼下に坂下方面の国道が見渡せますが、高所恐怖症の人はすくんでしまうほどの絶壁です。

 鏡岩は、珪石が断層によってこすられ、名のとおり露出面につやが出たものとのことです。

 天下の峻険鈴鹿峠山頂の南方120mにあり、岩石の種類は珪岩。

 鏡岩の肌面は縦2.3m・横2m。

 むかし峠に住む盗賊が街道を通る旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたという伝説から俗称「鬼の姿見」ともいう。

     平成二年七月 関町教育委員会 


【鈴鹿峠の標柱群】 (左側) 11:40

 分岐点に戻り、平らな道を先に進むと数十mで視界が開けた茶畑に出ます。出たところに標柱が沢山並んでいます。

 (正面に)「界 左 三重県 伊勢の国 右 滋賀県 近江の国」/(左側面に)「是より江戸まで百九里」/(右側面に)「是より京まで十七里」の石柱。

 その他、「東海道」、「鈴鹿国定公園」、「坂下1.5Km、余野公園1.5Km/若宮口バス停6.5Km/山女原4.3Km、安楽越7.5Km」、「東海自然歩道」等が立っています。

【東海道自然歩道】

 この歩道は、東京の「明治の森高尾国定公園」から大阪の「明治の森箕面国定公園」まで、美しい自然や文化財をむすぶ約1300Kmの道です。

     環境庁・滋賀県


【万人講常夜燈】 (右側)  11:47

 高さ5.44mの巨大な常夜灯で、休憩所とトイレもある広場に建っています。

 万人講常夜燈は、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ38t、高さ5.44mの自然石の常夜燈で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜燈は、近江国側の目印として旅人の心を慰めたことであろう。

     平成十四年三月 土山町教育委員会


 土山に入ると、左の写真のような「歴史の道 東海道」の道標が街道筋に整備されています。

 坂を少し下りると、鈴鹿トンネルを抜け出た国道1号線と合流し、ここから滋賀県土山町に入ります。

 しばらく国道を歩き、434Kmポストで12:00丁度。

 かつて旧道はここから国道の左右に蛇行してあったのだが、現在はほとんど通れないので国道1号線をひたすら行くしかありません。たまにそれらしい細道があるのですが行かないほうがいいです。

 435Kmポストで大津まで50Kmの道路標識が立っていました。


【山中の石碑と馬子唄の歌碑】 (右側)  12:30 〜12:35

 右側に小公園が現れますので公園に沿った右斜めの道に入ります。

 公園内には「東海道鈴鹿 山中」の石碑、「常夜灯」、「馬子唄歌碑」、「あいの土山観光案内図」があります。


【山中一里塚公園】 (右側)  12:45

 再び国道1号線に合流する地点にあります。

 「檪野(いちの)観音道(大原道)道標」、「一里塚の石柱」、「鈴鹿馬子唄の碑」などがあります。

【檪野観音道(大原道)道標】

 山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの附近から南西に伸びる道がある。この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)・檪野村(甲賀町大字檪野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。

 当時、道標は東海度との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には檪野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白の「盡十方(つくすとも)世にはえぬきや大悲心」という句が刻まれており、檪野の檪野寺への参詣道でもあったことを伝えている。

 自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通じての人々の交流を物語っている。

     平成十五年三月 土山町教育委員会

 ここからもそのまま国道の右側を歩いて下さい。道標案内の地図に、旧道は国道1号線の反対側から左斜めに行くように書かれていますが行っても無駄です。すぐ会社の敷地に入ってしまいます。私達は横断歩道のない国道を、危険を冒してまで渡って行きましたが騙されてしまいました。

 先ほど述べたように色気を出さずに国道を行ってください。


【猪鼻峠】 

 猪鼻交差点(13:00)にあった道路標識を見ると、大津まで51Km、水口まで16Kmとあった。45分前に通過した所の道標では大津まで50Kmだったのに、何だろう!

 猪鼻交差点の先、左側に歌碑「いの花や早稲のもまるゝ山越ろし」があります。

 やや上ったところが猪鼻峠、現在は険しくないが、昔は難路だったらしい。

 左から出てきた旧道らしき道があったが、手前では入るところが見つからなかった。ここに「蟹塚」の矢印があったので少し入ったが、距離が書いてなかったのですぐ引き返しました。もう少し行けば大蟹を祭った塔があるそうです。

 遙か昔、ここに蟹の怪物が出没して旅人を悩ましたが弘法が杖でたたくと甲羅が割れたという伝説があります。

 国道1号線の右側を下って行くと歩道は突き当たりますので、斜め右へ入ります。入ったところは猪鼻の集落です。


【蟹沢古戦場跡】 (右側)  13:22

 石柱と案内板のみあります。

 天文十一年(1542)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹波守及び飯岡三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦態勢を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度進攻し、一挙に山中城を攻略しようとした。

 このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方高畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠軍の甲賀への侵入を阻止することができた。

     平成七年三月 土山町教育委員会


【土山宿】 江戸から110里2丁(432.2Km)、京へ15里半 人口約 1500人 

 13:30、道は田村川にぶつかりました。現在は橋がないので田村神社へ真直ぐ行けませんので、左側国道1号線の田村橋を迂回します。

 私達が行ったときは、護岸工事の真っ最中で「平成17年1月31日完成」の看板が立っていたが、護岸だけの工事か橋ができるのかは不明でした。ここに橋ができると昔の姿がよみがえってすばらしいのだが。(右下の写真)

広重の東海道五拾三次之内・土山『春之雨 

 田村神社手前の田村川に架かる板橋と、春雨に濡れてそこを渡る大名行列の先頭を描いている。

 

2004年12月4日現在の風景 

 広重の絵と全く同じ場所です。前方を真直ぐ行くと田村神社境内に入り、 「高札場跡」と「広重の絵」を経て左下の鳥居の写真へつながります。

 

 下の写真の鳥居の横(旧田村橋から続いていた道)に下記の解説と共に、この「広重の絵」がありました。

 歌川広重は、多くの道中図や各所図を描いているが、天保4年(1833)に刊行された「東海道五拾三次」(保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、情緒豊かな作風を生み出している。土山を描いた「春の雨」は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の社のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。

 土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5Km)に細長く連なっていた。東の地点である田村川板橋は、安永4年(1775)に架けかえられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。


【田村神社】 (右側) 13:35〜14:00

 ここでも紅葉がすばらしかったが、お参りしていたら遂に雨がふってきました。

 「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、相の土山雨が降る」と馬子唄に歌われているように、鈴鹿峠を境にがらりと天気が変わるようだ。今朝、関ロッジを出た所で土地の人に「峠の向こうに行くと天候が変わるよ」といわれたが、その通りになってしまった。

 左下の写真は、中程にある鳥居で、ここを右に曲がると左上の川(旧田村板橋)に当ります。右下の写真は、奥の本殿への参道です。

 弘仁十三年(822)創建と伝えられ、鈴鹿山中の悪鬼(山賊)を退治した坂上田村麻呂を祭る神社。

【祭神及鎮座由来】

 本神社は坂上大宿禰田村麻呂公倭姫命外数神を配祀し奉る。弘仁三年正月嵯峨天皇勅して坂上田村麻呂公由縁の地土山に鎮祭せられ勅願所に列せられる。 実に本社の地は江勢の国境鈴鹿参道の咽頭を占め都より参宮の要衝に当る。古伝鈴鹿山中に悪鬼ありて旅人悩ます。勅して公を派して之討伐せしめられ其の害初めて止むと、されば数多の行旅の為め其の障害を除き一路平安を保たしめ給う公の遺徳を仰ぎてこゝに祀らる。誠に御神徳の深遠に亘るものというべきであります。 


【土山宿内】

 田村神社から真直ぐ、国道1号線を渡って道の駅「あいの土山」前に出るのが旧東海道です。

 土山名物「かにが坂飴」は、道の駅かその前の売店でしか買えません。この先土山宿内には売っていませんでした。

 街道は道の駅の先で右折します。その曲がり角に土山宿の案内板が立っています。

 案内板の先に祠と、上島鬼貫句碑があります。

〔上島鬼貫句碑〕 (左側) 14:07

 上島鬼貫は、大阪の伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。この俳句は、上島鬼貫が、貞享三年(1686)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。

     土山の町並みを愛する会

   吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風 

 この先、民家の前に「土山宿 旅籠 ○○屋跡」のように書かれた石柱が左右にたくさん立っています。土山宿にはこんなにも旅籠が多かったのかと驚きます。坂下宿も多かったらしく、やはり鈴鹿峠を越えるのは大変なことであったことが、これら両宿の旅籠の数からも推測できます。

〔一里塚跡〕 (右側) 14:14

 (前略:毎度おなじみの一里塚の解説)

 土山町内設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが現在その跡は、ほとんど残っていない。塚の規模は、およそ高さ2.5m、円周11mの大きさであったと伝えられている。土山地先の一里塚は土山町北土山大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。

〔白川神社〕 (左側) 14:21

 本殿は奥深いので行きませんでした。

 祭神は速須佐之男尊、天照大神御神、豊受大御神。創祀は不詳で、古くは牛頭大王社・祇園社などと呼ばれていた。寛文五年(1665)二月十一日の火災により延焼し、現在の場所に遷座する。本殿は、文久三年(1863)に改造された。

 七月第三日曜日行われる「土山祇園祭花笠神事」は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山十四組ごとに奉納された花笠から花を奪い合う「花奪い行事」が行われる。これは、承応三年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民族文化財になっている。

 天明七年(1787)に光格天皇の、嘉永元年(1868)に孝明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀斎田抜穂調整所となった。また、明治元年(1868)旧暦九月二十二日、明治天皇御東幸御駐輦の時に、当社境内が内待所奉安所にあてられた。

 本殿の前には、願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿・祈願成就がかなうと伝えられている。

     平成十四年三月 土山町教育委員会

〔森白仙終焉の地(井筒屋跡)〕 (左側) 14:25

 文豪森鴎外の祖父白仙は、文久元年(1861)十一月七日、この井筒屋で没した。鴎外が明治三十三年に記した「小倉日記」で明らかなように、森家は代々津和野藩亀井家の展医として仕えた家柄である。白仙は長崎と江戸で漢学・蘭学医を修めた篤学家であった。

 参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち、この井筒屋で病のため息をひきとったのである。のちに白仙の妻清子、一女峰子の遺灰も、白仙の眠る常明寺に葬られた。

     平成四年三月 土山町教育委員会

【うかい屋〕 (左側) 14:30〜15:05

民芸茶房 

 江戸時代中期の建物を改造したといわれる雰囲気のあるたたずまいで、現在でも東海道を徒歩で旅する人は必ず寄るといわれる有名な店です。

 鈴鹿峠で少しばかりのパンを食べただけだったので、かつて街道で二番目に美味しいといわれた「夕霧そば」を目指したと言う蕎麦の中で「鴨南ばん」(¥850−)を注文しました。他に抹茶セットやぜんざい等の甘味もあります。また、陶芸などの民芸品を売るコーナーもあります。

 隣には「脇本陣跡」があります。


〔土山宿問屋宅跡〕 (右側) 15:06

 近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。

 土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。

     平成十四年三月 土山町教育委員会

 


〔土山宿本陣跡〕 (右側) 15:07

 土山宿は、東海道の基点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。

 土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代としてこれを勤めた。

 本陣は当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。

 明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇幸行の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。

 本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。

     平成三年三月二十五日 土山町教育委員会


〔明治天皇聖跡〕 (右側) 15:07

 「明治天皇」の石碑と、その隣に「井上圓了の漢詩」の石碑が並んであります。

〔林羅山の漢詩〕 (左側)

 林羅山の漢詩が石に刻まれており、傍の案内板にはその解読、意味、解説が書かれていました。

(解読)

 行李 東西 久しく旅居す

 風光 日夜 郷閭を憶ふ

 梅花に馬を繋ぐ 土山の上

 知んぬ是催嵬か 知んぬ是岨か

(意味)

 東から西、西から東へと長く旅をしていると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。

 さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。

 いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。

(解説)

 作者、林羅山は、徳川幕府に使えた江戸前期の儒学者。

 号を道春という。

 家康没後の元和二年(1616)、羅山三十四歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て故郷の京都へ向う。

 この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記「『釋詁毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」この詩を詠んだとある。

〔大黒屋本陣〕 (右側) 15:15

 何も無い跡地だけで、本陣の案内板と石柱の他、「問屋場跡」と「高札場跡」の石柱も立っていました。

 土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣職之事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。

 土山本陣は、寛永十一年(1634)三代将軍徳川家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代の施行以来諸大名の休泊者が増加し、土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。

 大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと分からないが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山宿の補佐本陣となっている。古地図によると、当本陣の規模は、土山本陣のように、門玄関・大広間・上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったことが想像される。

     平成四年三月 土山町教育委員会


【東海道土山宿】 15:20

 南土山で国道1号線に合流。その三角点に「土山宿西の入口」の解説がありました。

 土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。

 源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉を結ぶ東西交通路線が一層重要視されようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に降盛しはじめた。

 宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立などをつかさどる問屋場、公用者の宿泊のための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたる者が住み、幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠屋店、茶店などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。

     平成七年三月 土山町教育委員会



 38回目の旅終了(15:25)「土山西口」バス亭  本日の歩数:35,700歩

 本数が少ないバスの時間をインターネットで事前に調べておいたので、10分待ちですみました。

 ここよりJR草津線の貴生川ヘ行き、草津経由で米原から新幹線で帰宅。

 

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