石薬師宿・庄野宿
(内部駅→井田川駅)
<旧東海道36回目>
2004年10月24日(日)曇
四日市駅7:30発の電車で内部駅に行き。ウォーキングを7:50スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
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内部川に着いたら左折し、国道1号線下のトンネル(左の写真)をくぐると、すぐ左手に階段がありますので、これを登って国道の左側を歩きます。 内部橋を渡ったところで401.7Kmポストを発見。ついに400Kmを突破、京まであと約100Km。 内部橋を渡ったら、斜め左へ入ります。あと500mで杖衝坂という案内板があり、目の前にこんもりした山が見えてきます。右カーブして永辻屋酒店を左折すると杖衝坂の入口です。 |
【杖衝坂・芭蕉句碑・二つの井戸】 (左側) 8:13
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かなりの急坂を登るとすぐ史跡が現われます。
左から「史跡 杖衝坂」の石碑、「井戸」、「永代 常夜灯」、「芭蕉句碑」、「井戸」と並んでいます。 松尾芭蕉が貞享四年(1687)に江戸から伊賀に帰る途中、馬に乗ってこの坂にさしかかったが、急な坂のため馬の鞍とともに落馬したという。そのとき詠んだ季語のない有名な句である。 宝暦六年(1756)村田鵤州が、杖衝坂の中ほどにその句碑を建てた。 明治の初期、坂の下釆女西町、永田清一郎氏の庭園に移されたが、このたび現所有者斉藤沢一郎氏ご夫妻のご理解により、再びもとの地に移設したものである。 昭和五十一年三月吉日
上の写真が「芭蕉の句碑」で、前の箱に資料が置いてありました。右の蓋が「弘法の井戸」 杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「其地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、梢に歩みましき、故其地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「徒歩ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上りきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。
この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が湧き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日堂に供える閼伽水(あかみず)を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。 |
【血塚社】 (左側) 8:20
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短い杖衝坂を登りきった左側にあります。
日本武尊が東征から帰るとき足に怪我をして杖をつきながら帰ったが、そのとき足の血を封じたという祠。
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【史跡 采女一里塚跡】 (右側) 8:32
坂を下り、国道1号線に合流した右側にある出光のガソリンスタンドの左横に石碑が立っています。
【北町地蔵尊】 (左側) 9:10
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403Kmポストを通過して、国分町の信号で斜め左に入ります。ここから鈴鹿市です。入ってすぐ右側に延命地蔵尊があります。 再び国道に当たったら、地下歩道をくぐり反対側に出ます。ここでしか国道を渡れませんので注意して下さい。渡ると前方に右へ行く道が見えますので、そちらへ行きます。
右斜めの道に入ったらすぐ写真の地蔵堂があります。ここから石薬師町に入ります。 江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのであろう。 現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供養の奉仕がなされている。毎年八月二十四日は地蔵さんの会式である。 平成四年十月 石薬師魅力再発見委員会 〔鈴鹿市市制五十周年記念事業〕 |
【大木神社】 (右奥) 9:20〜9:35
境内1ヘクタールに鈴鹿市指定天然記念物の椎の木が群生している神社です。
昨日購入した「なが餅」を食べながら休憩。長く薄く伸ばした餅に少しの餡が入っているものですが、皮がやや香ばしいことを除けば唯の餅です。焼直したらもっと美味しいかも知れません。
【大木神社の椎の森】 鈴鹿市指定天然記念物 昭和54年6月指定
この椎の森は、当大木神社境内約1ヘクタールに巨木が群生しているもので、市内では他に類を見ることができない。
この椎は、ブナ科スダジイで樹皮に縦の裂け目があり秋にはたくさんの実をつける。
平成十六年一月 鈴鹿市教育委員会
【小澤本陣跡】 (右側) 9:40
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現在も子孫が住んでいる家ですが、良く手入れされていることが分かります。 大名の泊る宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く、元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。国学者、萱生由章(1717〜75)もこの家の出である。 鈴鹿市教育委員会 |
【佐々木弘綱翁應居之碑】 (右側)
石薬師小学校入口の左横に、石碑があります。
一緒の敷地にある石薬師文庫の前には、「距津市元標九里四町十七間」の石碑もあります。
弘綱は信綱の父です。
【佐佐木信綱資料館と生家】 (右側) 9:45〜10:10
【佐佐木信綱資料館】
当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を究められた佐佐木信綱博士の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士生誕の地に建設したものです。
市では、今回の会館を機に、佐佐木家をはじめ、博士ゆかりの方々からの寄贈、寄託を受けた品々のほか、これまで生家に保管されていた資料一切を当館に収納しました。
資料の中には、博士の遺愛品、御下賜品、書簡、作歌、原稿のほか、書籍には「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」の主著三部作をはじめ、歌集「おもひ草」「山と水と」など多数を保管、展示しています。
昭和六十一年五月 鈴鹿市
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【佐佐木信綱生家】 (左の写真は卯の花が咲き、産湯の井戸がある庭) 資料館隣の生家も見学できます。明治5年生まれで6才まで石薬師で暮らしたという。生家に入ると『卯の花の匂う垣根にほととぎす…』と「夏は来ぬ」の歌が流れてきます。庭には産湯の井戸と卯の花(学名:うつぎ)がありました。 大正14年「校本万葉集」を刊行。
第1回文化勲章(昭和12年)を受賞。受賞者九名のうち最年少(66才)であった。 |
【佐佐木信綱と卯の花の里・石薬師宿】
石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和二年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
弘化二年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約七割をしめており、農村的正確の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。
当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872〜1963)の生家で、一家が松坂へ移住する明治十年(1877)まで、裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六十三年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にも、また道端にも白い可憐な花が咲き、清楚な趣をそえている。
【佐々木弘綱翁記念碑】 (左側) 10:15
記念館のすぐ先左側、浄福寺の前に巨碑があります。
【石薬師宿】 江戸から101里35丁(400.5Km)、京へ23里3丁 人口約 990人
安藤広重の東海道五拾三次之内・石薬師『石薬師寺』 広重の絵も薬師寺の山門を描いている。 背景の山は鈴鹿山脈を近づけて描いていると思われる。 |
現在の石薬師寺山門 |
【石薬師寺】 (右側) 10:25〜10:40
国道1号線の上をまたぐ「瑠璃光橋」を渡るとすぐあります。高富山瑠璃光院石薬師寺。
境内に、一休の歌碑「名も高き誓ひも重き石薬師 瑠璃の光はあらたなりけり」、芭蕉の句碑「春なれや名もなき山の薄霞」等があります。
朱印を頂く。
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【石薬師寺】 江戸から百一里三十四丁七間、元和二年に宿場となった。それまでは高富村と称していた。 現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵(上記広重の錦絵参照)にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。
ご本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永六年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹子社がある。その御曹子社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにしたそれが芽をふいて育ったと伝えられている。地元では「逆さ桜」と呼んでいる。 寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永六己巳年(1629)再建された。建物の規模は桁行三間、梁間四間、寄棟造。本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。 石仏は花崗岩で像高190cm、寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線堀り、ほおはゆたかで、薬師仏として親しまれてきた。
平素は秘仏であるが、十二月二十日の「おすす払い」には、洗い清められる。平安後期の作。
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【蒲冠者範頼之社(御曹子社)】 (左側) 10:30
石薬師の山門前を真直ぐ入った左側にあります。
蒲冠者範頼を祭った神社。範頼は源頼朝の弟であるが、武道、学問に優れているので、それらの願望成就の神様と言われている。
昔は弓矢を奉納し、文武の向上を祈願する習わしがあった。境内の左側には神馬(模型)とそのきゅう舎が寄進されている。
神社の南約60mのところに範頼ゆかりの蒲桜(県指定文化財)がある。
平成四年十月 石薬師魅力再発見委員会
【石薬師の蒲桜】 県指定文化財・天然記念物 (昭和14年8月指定)
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範頼之社の前を60m入ったところにあります。 信綱の歌碑「ますらをの其名とゞむる蒲ざくら 更にかをらむ八千年の春に」が根元にあります。 今年の異常気象で全国的に桜が狂い咲き、ここの蒲桜も10月だというのに小さい花びらでしたがちらほら咲いていました。 この桜はヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。赤茶芽、花は一重の五弁、直径5cm、白色から淡紅色で、開花時は見事である。 伝説によれば、寿永(1182〜84)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。そのため俗に「逆桜」とも言われている。 平成十四年三月 鈴鹿市教育委員会 |
【石薬師の一里塚】 (左側) 10:57
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蒲河橋を渡ってすぐ左側にあります。 家忠日記には、慶長九年二月(1604)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を三十六町に改めたという。 くたびれたやつが見つける一里塚 (江戸時代の川柳) 平成四年十月 石薬師魅力再発見委員会 〔鈴鹿市市制五十周年記念事業〕 |
東海道は一里塚で左折し、線路をくぐってすぐ右折します。その先、一旦国道1号線をくぐり右側を迂回して国道に合流します。
そのまま20分弱歩くと右手に日本コンクリートが見えてきますのでその会社が終わった所の「庄野町北」信号を右折します。右折すると「庄野宿資料館」の看板が立っています。
次の信号を左折すると庄野宿の東側入口です。そこに「東の宿入口」の案内板があります。
【庄野宿】 江戸から102里26丁(403.4Km)、京へ22里30丁 人口約 855人
庄野宿は江戸から百二里余東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く寛永元年(1624)といわれている。この宿は、「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人たちを合わせ七十戸で宿立をした。南北八丁で宿人口の加茂町中町上町からなる。
安藤広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を得ている。
安藤広重の東海道五拾三次之内・庄野『白雨』 この絵は蒲原の「夜の雪」とならんで広重の傑作といわれている。 白雨とは、にわか雨のことである。駕籠には油紙の合羽で覆っている。 |
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現在庄野宿内には広重の絵に似た場所がないので、この先「女人堤防碑」の脇にあった竹やぶを載せました。 |
【庄野宿資料館】 (左側) 11:45〜11:55
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市有形文化財の旧小林家住宅を資料館としたもの。 【旧小林家住宅】 市有形文化財(建造物) 庄野町は安藤広重の『東海道五十三次』の中でも傑作といわれる〔庄野の白雨〕の題材になったところとして有名で、東海道五十三次のうち四十五番目の宿場にあたります。旧街道の雰囲気をしのばせる家屋が年々失われてゆく中、現在もなお古風な姿をとどめる旧小林家住宅は、江戸時代末期の大型町屋建築として高い評価を受けています。 この建築物は保管されている棟札から嘉永七年頃に建てられたものと考えられます。こうした貴重な歴史的遺産を保管するため、平成八年三月十二日に主屋、土蔵を市の有形文化財(建築物)に指定しました。 翌年から庄野宿関係資料を中心に展示する郷土の資料館として活用するにあたり、平成十年三月に修復工事を終え、四月から庄野宿資料館として公開いたしました。 館内には本陣文書をはじめ、宿駅関係文書、小林彦三郎先生の絵画や遺品、また生活用品や民具、農具などを常設し、当時の生活の様子を一目で知ることができるよう陳列しています。 |
資料館のすぐ右手に「問屋場跡」、続いて「庄野宿本陣跡」、「距津市元標九里拾九町」の碑が庄野集会所前に、更に「高札場跡」、「脇本陣跡」、「郷会所跡」(床屋)と続きます。
【問屋場跡】 (右側) 11:55
問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。
問屋二名、年寄四名書記(帳付)馬差各四十五名が半数ずつ交替で詰めた。
主な任務は公用書状の継立、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当て、賃銭、会計などであった。
【庄野宿本陣跡】 (右側) 11:58
庄野宿は東海道五十三次の四十五番目の宿場で、寛永元年(1624)に設置された本陣は沢田家で間口十四間一尺、奥行二十一間一尺、面積二百二十九坪九合、畳数百九十七畳半、板敷四十四畳半あった。
【高札場跡】 (右側) 11:59
高札場は、法度、掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。
庄野資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。
【脇本陣跡】 (右側) 12:00
脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕がないときに利用された。
大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の名望家が選ばれることが多かった。
庄野宿では、本陣隣の、楠与兵衛家が脇本陣であった。
【郷会所跡】 (右側) 12:01
郷会所は、助郷の割当を受けている各村の代表者(庄屋または肝煎(きもいり))が集会する場所であった。
江戸時代も後期になると助郷人馬の割当が多くなり該当の村々の疲弊が重なり、減免陳情のための会合が繰り返された。
庄野資料館には陳情書の控え等が保管されている。
【川俣神社】 (右側) 12:05
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鈴鹿川沿いに6つあるという川俣神社の1つ目。川俣神社の本殿はいずれも川の方を向いており、洪水に悩まされた当時の人の思いが分かる。
境内に三重県指定天然記念物の「スダジイ」の巨木があります。 スダジイはブナ科の常緑樹で、わが国では暖地に自生している。 葉は広楕円の革質で厚く、葉の裏は淡褐色である。初夏には雌雄の花をつけ、果実は小粒で硬い。 この樹は高さ約11m、地上の幹周り約5mの巨木である。 昭和五十六年三月 鈴鹿市教育委員会 |
まもなく「西の宿入口」の案内板に出て、短い庄野宿は終わりです。
国道1号線に出ますが、真直ぐ行く街道が寸断されていますので、まず右手にある信号を渡って高架をくぐります。そこで左へ国道を渡ると、410Kmポストです。次いですぐ左へ入る道へ行くと汲川原町に入ります。
【平野道石碑】
右カーブした、左側民家の横に石柱が立っていました。
【山神の石碑】【従是東神戸領の碑】 (右側) 12:27
【従是東神戸領の碑】と【女人堤防】 (左側)
人家が途切れる右側に、山神の石碑と常夜燈が、それに続いて領界の石碑(左下の写真)が立っています。また、左側にも同じ領界石とその隣に女人堤防(右下の写真)の大きな石碑が建っています。
領界石には「従是東神戸領」と刻まれていますが、右側の領界石は、写真で分かるように溝が刻まれていました。
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【女人堤防】 石碑の刻印は読み辛かったが、下記のような言い伝えが残っています。 この地は安楽川と鈴鹿川の合流点のため水害に苦しめられていたが、堤防を作ると南側の城下が水害になるとのことで築堤を許可しなかった。そこで菊女なる者が「男達が打ち首になったのでは村が全滅するので、私達女の死出の仕事にしましょう」と暗い夜を選んで女ばかりで工事をし、六年にして完成したが、罪に問われ、処刑の日がきた。第一番に菊女が断頭の座に着いた刹那、家老松野清邦が死を決して藩主を諌めたことによる赦罪の早馬が駆けつけ、かえって築堤の功により金一封を賜ったという。
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【中富田一里塚】【従是西亀山領の碑】 (左側) 12:45
2つ目の川俣神社の前にあります。一里塚の解説は常夜灯の前と合わせて 二枚ありました。
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【中富田一里塚】 一里塚は、慶長九年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。 江戸日本橋を起点として、三十六町を一里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。 享和三年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。 その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時、東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。この地から、江戸へおよそ百里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。 平成十三年十月 中富田一里塚保存会 もう一枚には、分間絵図の説明の他に次の事が書かれていた。 中富田は亀山領の東端にあたり、隣の神戸領との境界を接する村である。 大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎の大木があったといわれている。 |
【川俣神社】 (左側) 12:58
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12:55、右側民家の前に「ひろせ道」の石柱がひっそりと立っており、そこから3分ほどで、本日3つめの川俣神社に着きます。
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<昼食> 13:10〜13:40
庄野宿で昼食時になったが、街道の前後では食事ができるところが全くなかった。
この時間になってやっと川俣神社手前の雑貨屋で菓子パン買うことができ、神社の目の前を流れる安楽川の河原で昼食にしました。この河原にはグランドがあり、和泉橋の下にベンチとテーブルがあったので座って食事ができました。
街道は、和泉橋を渡った土手を右折し、公民館の前を左に入って行きます。
【道標「右のぼ」】 (右側)
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二基ある石碑の2つとも「のぼ」の下が隠れていますが、おそらく日本武尊ゆかりの能褒野への道しるべ「のぼの道」と思われます。 |
【明治天皇御小休所・観音堂跡・「和泉橋」の橋柱】 (右側) 14:00
フェンスが張られている一段高いところにそれぞれ石碑が建っています。
【地福寺】 (右側)
「明治天皇碑」の隣で、入口に常夜灯があります。
【小田町寺社の由来】
鈴鹿市西部に位置する小田町の極楽山地福寺は、その所在地を小田町道心がいどうと呼び、その昔道心が多く修業せし処といわれている。当時は七堂伽藍の備わった寺といわれ、現在も中堂、そして道心達の風呂のあった場所として、風呂の谷等その名残りの地名が残されている。
永禄十一年(1568)織田信長の戦火に遭い焼失した観音堂は常念仏堂として各誉上人の発願により延寶五年(1677)に建立され、中央に歴代亀山藩主の帰依された阿弥陀如来をまつり、その両翼には後に江戸の鈴木市郎ヱ門が東海道往来の人々の安全と家族の菩提を弔う為に、元禄十二年(1699)に西国三十三所の観音菩薩像三十三体を寄進され、東海道の道すがら多くの人々の立ち寄りご利益をいただき、また毎月十七日の縁日には門前に市が立つほどの賑わいであった。毎年八月十七日は盛大に盆おどりをおこない、近郷より人でも多く現在も賑わっている。
毘沙門堂は、身丈1m60cmの青銅造り毘沙門天をまつり福徳をさずける。七福神の一つとしても信仰を集めている。
九月二十日の縁日には、昔は踊りもあって賑わっていたと伝えられている。
堂内には鎌倉時代の作といわれている青面金剛も安置され、その昔庚申さんとして広く庶民の信仰の対象となっていた。
寺宝として江戸時代初期の二十五菩薩像も伝わっている。
平成四年十月
やがて広い道に当たりますが、真直ぐの細い道を行きます。線路が見えましたら右の踏切を渡って線路の反対側に出ます。ここで地元の人が「古来の街道は線路で分断されてしまった」と言っていたが、言われるまでもなく、線路がなければ斜めに続いていたのが分かる個所です。また左奥の丘に「鈴鹿サーキット」があり、日曜日には花火が見えるとも言っていました。あとで地図を見るとなるほど近いことが分かります。
【亀山宿・江戸の道(旧東海道)、日本武尊能褒野御墓】 【旧井田川小学校跡】 (右側)
井田川駅前広場のすぐ先に並んであります。
【景行天皇皇子日本武尊能褒野御墓】
日本武尊は景行天皇の命をうけて、大和朝廷に従わない豪族を征伐するために、九州から東北まで転戦した。東国からの帰路に、伊吹山中にて病をえて能褒野(のぼの)においてついに亡くなられ、埋葬した墓から尊の魂が白鳥となって大和へ飛び去ったと「古事記」「日本書紀」に記され、明治12年(1879)内務省によって現在のお墓が、日本武尊墓と定められ、現在も宮内庁によって管理されている。
お墓は、かつて「丁字塚」と呼ばれた全長90mの前方後円墳で、北勢地方最大の古墳である。御墓に隣接して、日本武尊、弟橘姫命、建貝児王を祀る能褒野神社と、16基の後期古墳がある。
【旧井田川小学校跡】
大正四年二月七日小田町より移転し、昭和五十四年二月三十一日まで存続した。
此の石ぶみは、その門柱の片方である。
36回目の旅終了(14:15)JR東海関西本線「井田川駅」
◆本日総歩数:30,950歩