岡崎宿(後半)・知立宿 (岡崎公園入口→知立駅) <旧東海道31回目>

 2004年3月27日(日)快晴

 今回も自家用車で出発して岡崎ICより岡崎市内に入るが、まずは重たい八丁味噌を手に入れるため、そのまま車で「まるや」に行き、工場見学と八丁味噌を購入。見学後、本日宿泊する岡崎チサンホテル(伝馬町通りの備前屋前)の駐車場に車を置かせてもらい、そのホテルから街道の続きを歩きました。

 本来ならこのまま岡崎城を見てから旧東海道を歩くのだが、名古屋に勤めている息子から「岡崎城を一緒に見たいが明朝でないと行けない」とのことで、城は明日見ることにして、国道1号線の岡崎公園入口脇の「浄瑠璃姫の墓」を12:07スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

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【岡崎宿】 江戸から 80里11丁(315.4Km)、京へ45里9丁 人口約 6500人 

 徳川家康の居城でもあった岡崎城の城下町として栄えた。

安藤広重の東海道五拾三次之内・岡崎『矢矧之橋 

 矢矧橋は、東海道で最長の橋であった。この橋も例外でなく大きな橋には必ずある擬宝珠が、広重の絵 には描かれていない。現地に行かないで描いたためか?

 広重の絵には、矢矧橋と岡崎城が描かれており、「五万石でも岡崎様はお城下まで船が着く」とうたわれたように、岡崎の発展は水運によるところが大きい。

 日吉丸が蜂須賀小六と出合ったとき、橋の上で寝ていたと云われているが、その当時、まだ橋が架かっていなかったとのことです。

 

現在の『矢作橋』 (西側の北堤より撮影)
 橋渡る 手前(東側)の南堤からは岡崎城が見えたが、橋と城を一緒に写せない。渡った(西側)北堤から橋を写すと、左の高いビルに遮られて城が一緒に写せない。広重と同じ西側の南堤から 写すべきだったと後悔しているが、行かなかったので城が一緒に入るかは分かりません。




【伊賀八幡宮(岡崎)】 実際は、翌日(28日)の朝に自家用車で行ったのですが、コースの流れが前後してしまうのでに今回に入れました。

 【住所】岡崎市伊賀町東郷中86

 【交通】東岡崎駅より名鉄バス八幡社行10分、八幡社前より徒歩2分。

 松平親忠が、三重県の伊賀から移し、子孫繁栄の守護神として文明2年(1470)に創建。

 三代将軍家光が権現造りの本殿、拝殿、石鳥居を造営し、さらに徳川家康を合わせ祀ることとした。

 極彩色の本殿は国宝に指定されている。


【岡崎公園・岡崎城・三河武士のやかた】 上記と同様に翌日行ったのですが、今回に入れました。

岡崎公園入口の復元大手門

岡崎城天守閣

三河武士のやかた(資料館)

〔岡崎城〕

 15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。天文11年(1542)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。江戸時代岡崎城は、「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平(松井)氏、本多(忠勝系統/後本多)と、歴代普請大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。

 現在の天守閣は昭和34年(1959)に復元され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野を一望することができる。


【浄瑠璃姫の墓】 (左側) 12:07

 国道1号線沿いの岡崎公園入口からすぐ東隣りにあります。

 浄瑠璃姫の墓は写真の奥です。

 大志をいだく源氏の御曹司源義経との恋に破れた浄瑠璃姫は、岡崎公園の東南を流れる乙川(又は菅生川)に投身した。

 姫の亡き骸が上がった岸にこの墓が建てられたが、後に岡崎城内のこの地点に移されたものという。

 浄瑠璃姫の墓の前には、三河国額田郡生まれの歌舞伎役者「初代 市川団蔵」碑があります。

 


 国道1号線(岡崎公園前)沿いを西に行き、伊賀川を渡ると、横断歩道の少し手前に左へ入る道があり、その入口に東海道の標識があります。

 ここで、前回終えた二十七曲りに戻りました。

 入った道が板屋町。「板屋稲荷」で右折して愛知環状鉄道の中岡崎駅のガードをくぐると八丁味噌の郷に入ります。

 駅手前の「貴せん」でランチ。12:20〜12:45


【八丁味噌通り】 12:55

 味噌工場内は朝一番に車で行き、見学をすませてしまっているので、通りのみ見学して先に進みました。

 岡崎城から八丁 (約870m)離れていたことに由来する八丁味噌のふるさと。

 左の写真が味噌蔵の並ぶ八丁味噌通り です。

 味噌工場は2社で、左側に660年の歴史を誇る「まるや」、右側が「カクキュー」で資料館があります。八丁味噌はこの2社だけに許される名称で、共に工場見学が出来ます。

 右の写真は、八丁味噌製造の最終工程で、重石を乗せて3年熟成させる桶。

 八丁味噌通りには、八丁味噌の案内板が掲げられていました。

【岡崎の地場産業 八丁味噌】

 大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。

 矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも船運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。

 江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。

〔歌にみる八丁味噌〕 

 「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極くよし、焼いて又よし」といわれる八町味噌は、三河武士・農民・町民たちの常食・兵食として親しまれ、一日も欠くことができない食品でありました。また、天正十八年(1590)徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。

 それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斉藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として賞賛されてきた。

【午前中に見学した八丁味噌工場】

 私達は、「まるや八丁味噌」の工場を見学しました。赤だし味噌の試供品が貰えて、製造工程の説明もしてくれました。

 そのあとにお土産コーナーがあり(勿論赤だし味噌を購入)、最後に味噌田楽がサービスされます。美味しかったので思わずここでも出し入り味噌を買ってしましました。そのまま裏口から出るとそこは旧東海道です。

 また、工場には江戸時代に立てられた蔵や日吉丸(豊臣秀吉)の逸話が残る「石投げの井戸」があります。

 この工場の見学時間は、8:30〜12:00と13:00〜16:00です。但し、年末年始とお盆は休業しています。

 

 百六十有余年の歴史を誇る八丁味噌は、2mもある仕込み桶に大豆麹を入れ、5トンを超す重石をのせて熟成させるという、昔ながらの製法で作られています。

 八丁味噌は、精選大豆を原料とし、塩と水をひかえた天然の三年長期醸造味噌です。したがって、塩分が少なく固い味噌です。

 赤だし八丁は、八丁味噌を基に純良な米糀味噌を合わせてどんな料理にも合うように調理した本格的な料理用味噌のことです。

 味噌の種類として、主に本州と北海道で造られる「米味噌」(使用率80%)、瀬戸内と九州で作られる「麦味噌」(同6%)、そして中京地方で作られる「豆味噌」(同4%)があります。

【まるや八丁味噌に伝わる 日吉丸「石投げの井戸」】

 日吉丸が野武士の蜂須賀小六のもとで悪さをしていたある日。当店に忍び込み飯を勝手に食べている姿を蔵男に見つかってしまいました。味噌蔵の中を逃げ回っている内、頭の回転の速い日吉丸、味噌石を井戸にほうりこみます。蔵男に井戸に落ちたものと思い込ませ、見事、逃げることに成功したとか。


【矢作橋】 渡って13:05  冒頭【岡崎宿】の現代の写真参照

 八丁蔵通りを突き当たったら右折(八帖往還通り)し、国道1号線を左折すれば、矢作橋です。

 渡った右には、日吉丸と蜂須賀小六の「出合之像」があります。

 旧東海道は、この像を見ながら斜め右へ入って行きます。


【勝連寺】 岡崎観光文化百選 13:08

 国道の一本右側の道に入るとすぐ、家康の長男ゆかりの勝連寺があります。

 柳堂勝蓮寺と言われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞上人と柳堂、布教の記事がみられます。

 また、十七代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃。若宮八幡宮に首塚がある)との関係も深く、信康画像をはじめ多くの遺品が残されています。


【誓願寺・十王堂】 (右側) 13:17

 道路に面した堂内正面に天国の絵、左右の壁には極彩色の地獄絵が描かれていました(下の写真)。

 誓願寺の境内には、浄瑠璃姫とその父矢作の長者の墓、芭蕉句碑「古池や蛙飛込む水のおと」、本堂内に浄瑠璃姫の像があると云うが、幼稚園と一緒になっており、昨今の異常者進入事件の多発の為か門が閉まっており、見学するのは ためらわれた。

 長徳三年三月(997)恵心僧都が、溺死した当寺の住僧の慶念の冥福を祈り、堂を建て千体地蔵菩薩を造って安置した。

 時代は下り、寿永三年(1138)三月、矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。

 十王とは、十王経に説く冥府(あの世、冥土の役所)で死者を裁くという王である。すなわち、秦広王、初江王、宗帝王、伍官王、閻魔王、変成王、太山府君、平等王、都市王、五道転輪王をいう。死者は冥府に入り、初七日に泰広王の庁に至り、以下順次に、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周年、三周年に各王の庁を過ぎて娑婆(この世)で犯した罪の裁きを受け、これによって来世の生所が定まるという。

 この堂内には、これら十王の極彩色の像が安置してあり、壁には、地獄・極楽の有り様が描かれている。

     寄贈・文責 ボーイスカウト岡崎第五団

        


【聖善寺】 (左側) 13:50〜14:00

 国道1号線に合流して1.3Km程行った「鹿乗橋東」信号の先にあります。

 枝垂れ桜が満開でした。

 根元は皮一枚という老木ですが見事な枝垂れです。

〔しだれ桜〕 天然記念物(昭和38年5月指定)

 ヒガンザクラの一種エドヒガンの枝垂れ品である。推定樹齢三百年と伝えられる老樹である。

 かつては胸高囲2.4m、高さ10m、枝張り15mにも及び、枝先が山門まで届く程であったが、伊勢湾台風により主幹が折れて樹勢が衰えた。

     岡崎市教育委員会


【薬王寺】 (右側)

 聖善寺の向かいにあり、「三河国刀匠鍛刀造跡」碑が門前にあります。


【予科練の碑・鎌倉街道跡・一里塚跡】 (右側) 14:20

 14:10安城市に入る。

 「尾崎東」信号から斜め右へ入りますが、私の持っているガイドブックには、「柿崎」と書いてあり、表示が変わったのか?

 入るとすぐ松並木になります。

 しばらく進むと右側に熊野神社があり、その傍に予科練之碑があった。また、熊野神社の前には一里塚跡の石碑と鎌倉街道跡の案内板がありました。

 予科練之碑には、「此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり」と書かれていました。

〔鎌倉街道跡〕

 建久三年(1192)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅六十三ヵ所が設置された。

 尾崎町では、里町不乗(のらす)の森神社から証文山の東を通り、熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったので、この神社の森を踏分(ふみわけ)の森と呼んでいる。ここより街道は西別所町を通り、山崎町に出て、岡崎市新堀町へ向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。

 この位置を旧鎌倉街道と伝えており、それを証する「目印の松」が残されている。

     昭和五十四年十月一日 安城市教育委員会


【妙教寺・夫婦松】 (左側) 14:30

 妙教寺の前に大きな二本の松が寄り添っており、「三河路に昔をしのぶ夫婦松」と立て看板が立っていたのに、何故かそれぞれの松に「助さん」と「格さん」の名札が掲げられていた。

 その先左側に「明治天皇御駐蹕之所」の石碑が建っていました。


【永安寺】 (右側) 14:40〜14:53

 雲竜の松は、私が今まで見た中で最も大きく見事な松の一つです。

 枝ぶりもすごく、何枚も写真を撮ってしまいました。

 

〔雲竜の松〕 県指定天然記念物(昭和60年11月25日指定)

 永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。

 助太夫延宝五年(1677)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。

 この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢300年くらいと推定されます。

 この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。

 樹高 : 4.5m  幹の周 : 3.7m  枝張り : 東西17m、南北24m


【明治用水記念碑】 14:55

 正面に巨大な記念碑が3基建っていました。かつては大きな明治用水が流れていたが、現在は道路の下に暗渠となっています。


【清見潟又市碑・清見潟又蔵建之碑】 (右側) 15:15

 石の鳥居と多数の石碑があります。力士の像を初め、相撲関係の碑が多い。


 15:35に猿渡川橋を渡って知立市。すぐ左側の「来迎寺公園」で休憩(15:40〜15:50)。この公園内に「錦旗千載駐餘光」碑があります。


【元禄の道標】 (右側) 15:55

 「来迎寺」信号から右に入る道を挟んで東西に道標が2基あります。

 道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標示物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸処にこの様な道標が建てられていた。

  従是四丁半北 八橋 業平作観音有

  元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白

と記されており、これは、元禄九年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ500mの牛田町西端にも、『東海道名所図会』に記されている元禄十二年の道標が残されている。

     知立市教育委員会


 「来迎寺」信号(元禄の道標)を右折して10分行った突き当りに無量寿寺があります。

 その途中に整備された遊歩道が東西に続いており、現在は地下に埋められたが、かつての明治用水路でした。

【現在の明治用水】

 明治用水は、明治政府の殖産興業政策をおしすすめるため愛知県の指導のもとに、明治13年(1880)に開削されました。この政策により開削された安積疎水(福島県)、須賀疏水(栃木県)とともに、「明治時代の三大用水」の一つとして全国に知られています。

 明治用水の開削により、この台地も「日本のデンマーク」と称せられる農業の先進地に発展しましたが、昭和30年代後半(1960年頃)から工業化、都市化の波が押し寄せ、用水の汚れ、ごみの投棄、水路の安全性、用水の管理などにいろいろな障害が出てきました。

 そこで、現在は地下に埋められた管水路となり、その上部は水環境整備事業により「緑あふれる用水の道」とし

て整備されました。


【無量寿寺】 16:05〜16:30

 在原業平ゆかりの杜若( かきつばた)で有名なお寺です。 

【八橋山 無量寿寺】

 慶雲年間(704〜8)に創建された慶雲寺が、弘仁三年(821)八橋のこの地に移され、無量寿寺となったと伝えられている。

 史跡名勝の地として知られたここ三河八橋は、古くから文人墨客の訪れることが多かった。

 境内には、芭蕉句碑、八橋古碑(亀甲碑)、業平の井戸、杜若姫供養塔、八橋古碑など多数あり、裏手は庭園になっています。

 写真は、やっと芽が出始めた心字池の杜若。

【芭蕉句碑】 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定

 境内に入るとすぐ正面にあります。

   かきつばた 我に発句の おもひあり  芭蕉

   麦穂なみよる 閏ひの里          知足

 芭蕉が貞享元年(1684)に『野ざらし紀行』を終え翌年四月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊り俳筵を開いた時の作といわれる。

 芭蕉は知足の案内でこの旧蹟八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。

 碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とあり、三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものとされている。

     知立市教育委員会

【八橋古碑】 市指定文化財物)昭和40年1月指定

 芭蕉句碑の傍にあり、亀の上に石碑が乗っていました。

 史跡名勝の地として知られたここ三河八橋は、古くから文人墨客の訪れることが多かった。

 この碑文は、荻生徂徠門下の秋本嵎夷が岡崎候に招かれて儒官をつとめていたとき、偶この地を訪れ、「八橋紀事弄王孫歌」と題して“八橋と業平の故事”についてまためたものである。

 書は門人の国分興伯機で、同門人の由良不淰により寛保二年(1742)に建立された。

 亀の上に三五七の漢字を刻んだ碑柱が建ち、一般に亀甲碑と呼ばれている。

     知立市教育委員会

【ひともとすすき】

 芭蕉句碑の後にあり、長い葉の先の多くは結ばれていました。

 謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたと伝えられてる。

   八橋の一もとすゝき穂にいでて はるばる来むる人まねくらん

 と「三河名勝絵図」にはあります。

 このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるといふ言い伝えから、縁結びのすすきと言われている。

【心字池】 市指定文化財(名勝)昭和40年1月指定

 上の写真。

 この庭園は、寺の再興者であった方巌売茶和尚が文政年間(1818−29)に、以前よりここにあった池や庭を茶亭風に改造したものと思われる。

 庫裏前の杜若池を中心とし、一の段から四の段まで生垣で区切られ、人の影を見ることなく杜若を眺めながら回れる回遊式庭園となっている。また正面遠景には岡崎の村積山、近景には逢妻川の清流を借景として取り入れている。生垣には赤目樫・山茶花が植えられ美しく刈り込まれている。毎年五月には約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑わう。

     知立市教育委員会

【方巌(売茶)井戸のいわれ】

 方巌売茶翁が、紀州におもむいた折、紀州大納言徳川治憲より「旧跡八橋を大切にせよ」とのお言葉があり、帰寺して、心字池に水を入れるための井戸を掘る予定でしたが、病気になりその志を果たせず、嘉永二年(1849)八世朴仙和尚の代に、ようやく完成し、心字池に水を入れたと伝えられている。

【業平の井】 八橋旧跡

 業平がお茶の水を汲んだという井戸です。

【杜若姫供養塔】 市指定文化財(建造物)昭和40年1月指定

 花崗岩で作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、全高は約1m、全体に風化が著しいが、基壇は矢作川流域にみられる蓮華を省略した形式のものである。笠は五段であるが四隅の耳を欠き、相輪も途中で折れており、燈身の四仏の梵字もはっきりしない。

 杜若姫は小野中納言篁(たかむら)の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕って、やっとこの八橋の逢妻川で追いついたが、業平の心を得ることができず、悲しんで池に身を投げて果てたと伝えられている。

 この塔は、姫をあわれみ、後の世に供養して建てたとものと思われる。

     知立市教育委員会

【在原業平と万葉椿】

 八橋の鎌倉街道沿いには、珍種と見られる万葉椿が多くみられます。文献によりますと椿は日本古来の花木で、万葉の頃から、椿を詠み込んだ歌も見られます。在原業平も東国への旅に出て八橋至り、この里にて金魚の尾に似た椿の葉を見つけ、万葉椿とよんだところからその後村人達は業平万葉椿と呼ぶようになったと言い伝えられています。

【謡曲「杜若」と業平の和歌】

 謡曲「杜若」は、在原業平が都から東へ下る途中、三河国八橋で美しく咲く杜若を見て都に残した妻を偲び「かきつばた」の五文字を句の頭に置いて

   唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思う

と詠んだと書かれている伊勢物語を典拠にして作曲されたものである。

 東国行脚の旅僧の前に、業平によって詠まれた杜若の精が女の姿で現れ、伊勢物語の故事を語り、業平の冠と高子の后の唐衣を身につけて舞い、業平と歌舞の菩薩の化身として賛美しながら杜若の精もその詠歌によって成仏し得たことをよろこぶという雅趣豊かな名曲である。

     謡曲史跡保存会


【来迎寺一里塚】 県指定文化財(史跡)昭和36年指定 16:40

 旧道に戻って、道標からすぐ先にあります。

 慶長八年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、その翌年中央集権の必要から諸国の街道整備に着手、大久保長安に命じ江戸日本橋を起点に、東海道、東山道、北陸道など主要街道を修理させた。この時一里ごとに築いた里程標を一里塚・一里山などと称した。

 こうした一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。

 塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれる。この大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。

 この塚のように両塚とも完全に遺されているのは大変珍しい。

 県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。

     知立市教育委員会


【里程標と松並木】 17:00

 新田北交差点の歩道橋を渡って左側に里程標があり、石柱の正面に「旧東海道 三拾九番目之宿 池鯉鮒」、東側に「江戸日本橋 八拾四里拾七町」、西側に「京都三条 四拾壱里」と書かれていました。京都まであと161Km。知立の松並木が続きます。

 松並木の遊歩道下には明治用水が暗渠になって流れているとのことです。

【東海道松並木】

 徳川家康が江戸に幕府を開いたとき、禁裏のある京都と江戸間の交通を重視し、東海道を整備したのは慶長九年(1604)のことである。当時幅ニ〜四間(3.6〜7.2m)の道は随分の大道であったに違いない。やがて参勤交代が始まり、逐年交通量は増えてきた。そのため寒暑風雨から旅人を守るため、中国の古例にならい両側に松木を植えたものである

 知立の松並木は、近年まで牛田町から山町まで約1Km続いていたが、住宅が次々と建てられた今では450m程になってしまった。戦前までは、昼なお暗いほど老樹が鬱蒼としていたが、昭和34年の伊勢湾台風により60〜70%の松が折られたり、根ごと吹き倒されてしまった。昭和45年、幼松158本を捕植し、以後毎年松食虫の防除に努め、昔の姿を今にとどめています。


【馬市之址】 (左側) 17:05

 松並木を進むと、馬の像と広重の錦絵(池鯉鮒)があります(下記【知立宿】の現代の写真参照)

 池鯉鮒(ちりゅう)の馬市は古来、牛田〜八橋間の野原にあったとする言い伝えがある。その付近に、馬場池と呼ぶ池があり、70年前頃まで子供達がよく遊びにいったとか。

 古代万葉集にも「引馬野」の歌があり、その頃から馬の市があったようである。

 江戸初期東海道が開け、池鯉鮒宿が設けられて、人々が町に集まってきたことから、慈眼寺を中心にした付近が選ばれ、時には東海道松並木両側にも空き地を設けて、収容し切れない馬を繋いだともいわれている。


【知立松並木】 市指定文化財(名勝)昭和44年4月指定 17:07

 「馬市之跡碑」のすぐ先に案内板が立っていました。

 慶長九年江戸幕府は諸国に対し、五街道へ一里塚と松並木を設置することを命じた。この知立の松並木は、幅 七m、約五百mにわたり凡そ百七十本の松が植えられている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。

 また、この松並木の西の地名を馬引野と呼び、大宝二年(702)持統天皇が三河行幸の際詠まれた歌「引馬野爾(ひくまのに) 仁保布榛原(にほふはりはら) 入乱(いりみだれ) 衣爾保波勢多鼻能(ころもにほわせたびの) 知師爾(しるしに) 長忌寸奥麻呂」から、浜松市・宝飯郡御津町と共に天皇行幸の推定地とされている。

     知立市教育委員会


【馬市句碑】 (左側) 17:08

 「松並木」案内板のすぐ先に句碑(石碑)が二つ並んでいます。

【馬市句碑】

   かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく

   蝶つばめ 馬市たてしあととめて

 俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。

万葉の歌碑】

   引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに

 この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。


 国道1号線に合流したら、地下道をくぐって斜め左の道へ入ってゆきます。

 渡ったところに「東海道 池鯉鮒宿」の石柱があります。その先名鉄三河線の踏み切りを渡って知立の町並みへ入ります。

 知立駅に近づいた六差路(ゑびす屋の前)は真直ぐの細い道が旧東海道です。


【知立宿】 江戸から84里5丁(330.4Km)、京へ41里15丁 人口約 1600人 

広重の東海道五拾三次之内・池鯉鮒『首夏馬市 

 毎年首夏(陰暦の4月)の25日から5月5日まで、知立宿東の野原で 馬市が開かれていた。

馬市之址碑
馬の像と広重の『首夏馬市』の絵があります。 


 「無量寿寺」へ行く途中の道で財布を拾ったが、知立の町に入るまで交番がなく、やっと知立警察署を探し宛てて届けることができた。夕食中に「無事落とし主に戻すことができた」と警察から電話が入り、めでたしめでたしの日でした。



 31回目の旅終了(17:40)名鉄名古屋本線知立駅入口の交差点。  ◆本日総歩数:29,300歩

  知立駅より名鉄で東岡崎駅まで戻り、サンホテルの近くで旧東海道沿いのうなぎ屋「喜せん」で夕食。定食を注文したところ白焼き・蒲焼・柳川・酢の物と豪華な鰻ずくしで大満足でした(★★★★)。

 岡崎サンホテルのツイン部屋は非常に狭いが、宿泊代金が¥7800(勿論二人で)と安いのと比較的新しいホテルで、更に旧東海道沿いにあるので、街道歩きが目的でホテルは寝るだけという人には、お薦めです。

 

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