藤川宿・岡崎宿(前半) (本宿駅→岡崎公園前駅) <旧東海道30回目>

2004年2月29日(日)雨

 豊橋グランドホテルを8:30に自家用車で出発し、途中御油駅近くの西明寺を見学後、本宿駅の有料駐車場(¥800/日)に車を置いて街道の続きを歩きました。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「御油宿・赤坂宿」 ← 「目次」 → 「岡崎宿(後半)・知立宿」


【西明寺】 

 御油駅より北東800mのところにあります(前回紹介した松並木資料館からは1.2Kmです)。

 前回紹介したベルツ博士の供養塔がある寺です。

 995−998年(平安時代)に三河国司大江定基が大宝山に六光寺を開き、愛妾・力寿姫の冥福を祈ったのが始まりといわれている。鎌倉時代には最明寺となり、室町時代後期に現在の西明寺と改められた。

 西明寺には、武田信玄の軍師である山本勘助の墓、日本医学の恩人・ベルツ博士の供養塔があり、本堂の裏には大寶山の霊峰を背景にした廻遊式の苔に囲まれた美しい大庭園があります。

〔西明寺のモッコク〕 豊川市指定天然記念物(昭和56年4月指定) 山門(左の写真)の左側にある樹です。

 このモッコクは、樹齢約400年で県下では最大のものといわれます。高さは15m、幹の周りは目の高さで2.3mもあります。

 モッコクは、関東南部以西の暖帯から熱帯にかけて自生しています。また、庭木としても多く植栽されています。

 別名を「あかみのき」といわれるだけあって、材はあざやかな赤色で建築材、器具材に用いられています。

     豊川市教育委員会


 前日終えた「火の見櫓・道路元標」前を10:25スタート。

【十王堂跡】 (左側) 10:27

 火の見櫓からすぐの所にあります。

 街道に沿ったこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。

 堂宇は昭和30年欣浄寺(ごんじょうじ)境内に移された。

 本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和六十二年岡崎市文化財に指定された。(非公開)

     郷土史本宿研究会


【一里塚跡】 (右側) 10:29

 十王堂のすぐ先のブロック塀角に石柱が立っています。本宿史跡保存会が建てたもので江戸から七十七里。


【宇都野龍硯邸跡と長屋門】 (左側) 10:35

 本宿村医家宇津野氏は古部村(元岡崎市古部町)の出といわれ、宝暦年間(1751〜63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。

 七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。

 安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。

     郷土史本宿研究会


【本宿村西側入口】 10:38

 国道1号線に合流した場所に、前回の東側入口と同じように「左国道1号 右東海道」の石碑と本宿村の案内板がありました。

 【是より東本宿村 赤坂宿へ壱里九丁】

(前略:前回の「本宿村東側入口」参照)

 この辺りは、山綱村、市場村との村境であり、往古の駅家(うまや)はこの付近といわれている。

 村絵図からは往還筋両側とも家居はなく並木松が続き、南山裾にかけて山綱村の入会地であった。字平五沢は荻野流、高島流の砲術家でもある代官冨田牧太が砲術稽古を実施した所である。また、シーボルトの「江戸参府紀行」に、この辺りの山中から法蔵寺裏山にかけて植物採集したと記述されている。家居の西端に幕末期蘭方医として三河の先駆者であった宇都野氏の長屋門造りの屋敷があった。

 この辺りから上衣文(かみそぶみ)村を経て宮崎村に至るおよそ三里程の山家在道があり、山地との交流に欠かせない道であった。

     1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

 ここを過ぎたら、早めに国道1号線の右側に渡ってください。10分ほどで名鉄の線路に接すると、人と自転車しか通れないような下りの小道がありますのでここを下ります。下りたところは広い道になっています。

 更に10分ほど行くと右側に「三十七番札所 興円寺」があり、そこから5分で左側に藤川宿入口のモニュメントがあります。

 「是より西、藤川宿へ 是より東、赤坂宿へ」とあり、「東海道」「舞木町の由来」「山中城址」「山中八幡宮」の解説板があります。

【山中城址】 市指定史跡

 起伏を利用した室町時代の典型的な山城で、眼下に東海道と額田群南部に至る吉良道、現在の蒲郡市本面に至る西郡道などの街道をおさえる交通の要衝に位置していました。

 山頂(標高204m)と山腹一帯を東西400m、南北200mの規模で主郭・二の郭を中心として帯状の曲輪が囲む三河地方最大規模の連郭式山城でした。

 岡崎松平氏の三代信貞の城でしたが、大永四年(1524)に安祥松平氏の清康の命により大久保忠茂らによって攻略され、以来家康の祖父の清康のものとなりました。

     平成十五年三月

 その先、6本程の松並木と東海道の石碑が現れ、再び国道1号線と合流します。

 合流したらすぐ左折すると、山中八幡宮の大きな常夜灯(天保4年建立)にぶつかります。


【山中八幡宮】 (左奥) 11:10〜11:30

 写真の鳥居の手前50mほどには天保四年建立の大きな灯篭がたっており、鳥居の右後には、大きなクスノクがあります。

 鳥居をくぐり長い階段を登ると本殿ですが、八幡宮の常緑照葉樹林は、12回目(箱根東坂・早雲寺)でも紹介した太古からの生き残りであるヒメハルゼミの生息地でもあります。

 三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し難を避けたという鳩ケ窟があるとのことだが、よほど奥にあるのか見つけることは出来なかった。

【山中八幡宮】 岡崎観光文化百選

 家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し難を避けたという鳩ヶ窟があります。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。

 例年正月三日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます。

〔山中八幡宮のクスノキ〕 岡崎市指定文化財

 胸高囲6.6m、根囲10.8mの巨樹である。

 樹勢旺盛、樹形も整い、樹高21mと壮大な姿を見せるクスノクとしては、市内第二の大きさを誇るばかりか、県下でも稀有な存在である。

 国道1号線や名鉄電車内からも望見できる巨樹として、本市の東部をシンボライズする名木である。

     昭和六十年三月六日指定 岡崎市教育委員会

【デンデンガッサリ】 無形民族文化財(昭和47年7月指定)

 デンデンガッサリの名で当宮に古くから伝わるのは、いわゆる「御田植神事」である。古来旧暦正月三日の夜行われていたが、昭和初期から新暦正月三日の午後に行われるようになった。

 神事は、前歌・後歌・科白・所作に分かれ、稲の豊作を祈願する。最後に餅投げが行われ、この餅を食べれば夏病にかからないと言われる。

     岡崎市教育委員会

【徳川家康と山中八幡宮】

竹千代の誕生

 天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。

家康の初陣(十七才)

 弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。

 永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。

鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)

 永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。

 慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。朱印の下附(六十二才)

 慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。

葵御紋

 寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。

     山中八幡宮記 八幡宮御由緒書による

 八幡宮本殿から下りたら、神社の森に沿った脇道を通って国道1号線に戻りました。


【藤川宿東棒鼻】 11:43 

 市場の信号を越えた先に、市場村の解説と藤川宿の案内板が立っていますので、矢印に従って左斜めに入るとすぐ東棒鼻に出ます。

【市場村】

 「市場村」はもと舞木村市場にあった。慶安元年(1648)藤川宿の規模が小さかったため、六十八戸が現在地に移住して「加宿市場村」となり「市場町」の町名はそれに由来する。

     藤川郵便局

【東棒鼻】 下記【藤川宿】の現在の写真参照。

 「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。

 藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川・「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(はっさく=八月一日)の御馬進献の行列がちょうど藤川の棒鼻にさしかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭、道の両側に石垣を積んで土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。

 最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。

 とにかく、現在、藤川宿といえば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。

     藤川宿まちづくり研究会


【藤川宿の「曲手(かんねんて)」】

 棒鼻の冠木門をくぐり、細い道を抜けて右へ鍵の手に曲がり車道にもどる。

 地元の人たちは、この辺りを「曲手」(かねんて)と呼んでいる。曲手とは、直線状に来た道を直角に右に曲がり、また左へとクランク状に曲がる道をそう呼んだ。別名「桝形」とも言われている。

 藤川宿の曲手は、慶安元年(1648)に、三河代官が藤川宿東端に、約500mほどの街道を造り、地割りをして市場村の人々を移転させ、加宿市場村を設けたときに、その東はずれを意識的に道を曲げて付けたことによるものと思う。その効用は外敵から宿場町を守るためとか、道を曲げることによって、街道の長さをふやし、そこに住む人をふやしたとも言われている。

 この付近は、当時、道中記にも書かれて繁盛した茶屋「かどや佐七」跡が曲がり角にあり、常夜灯(秋葉山灯篭)、そして東棒鼻などがあり、江戸期の面影を止めている。

     藤川宿まちづくり研究会


【藤川宿】 江戸から78里29丁(309.5Km)、京へ46里27丁 人口約 1200人   (赤坂へ二里九丁、岡崎へ一里半)

安藤広重の東海道五拾三次之内・藤川『棒鼻の圖 

 絵の中央に立つ杭は、宿場の境を示す傍示杭で 、この棒杭が宿場の端(はな)にあったことから、ここを棒鼻と呼ぶようになった。

 傍示杭の左は関札、手前は高札。札を付けて西へ向かう馬は、八朔(はっさく)の お馬献上行列と思われる。お馬献上とは幕府から朝廷へ馬を差し出すことで、 八朔とは、旧8月1日のことである。

現在の『東棒鼻跡』




【藤川宿本陣跡】 (右側) 11:58

 お城のような人形店を左手に見て3分ほどで右側に本陣跡の案内板が民家の庭に立っています。

 脇の道を裏に回ると、写真のように当時の石垣が残っています。

 藤川宿の本陣は字中町北にあり、藤川宿の中心地にあった。

 藤川宿の本陣はもともと二軒であったが、退転(たいてん=落ちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には「森川久左衛門」が勤めていた。当時の森川家の規模は、「本陣 凡建坪百九十四坪 字中町 門構・玄関付 壱軒」といい、今は四筆に分筆されていて、昔の面影はないが、北側の石垣は今でも当時の様子を残している。

 そもそも本陣家は、宿場町の大旅籠屋で、建物は門・玄関・上段の間を設けることができ、当主は名主・宿役人などを兼帯し、苗字帯刀を許されていた。

     藤川宿まちづくり研究会


【藤川宿脇本陣跡】 岡崎市指定文化財(昭和53年10月21日指定) (右側)  12:00

 

 本陣跡のすぐ隣で、現在は資料館になっていますが、入口から覗いただけで中には入りませんでした。

 脇本陣は、江戸時代、宿駅の本陣の予備にあてた宿舎で、大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられたが、平常は一般の旅行者にも使用された。その経営については、本陣に継ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、その敷地も、現在の跡地の四倍、約130坪程の敷地を有していた。

 現存する門は、関が原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西三家のうち大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されたが、昔日の名残をよく留めている。

     岡崎市教育委員会


【西棒鼻】 (右側) 12:12

 今時珍しい二宮金次郎の銅像がある藤川小学校の前にあります。

 藤川に再現された棒鼻は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒花ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。傍示杭と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。

 また、脇にある歌碑には、広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌で、

  「藤川のしゅくの棒はなみわたせば 杉のしるしとうで蛸のあし」

と書いてある。この狂歌の中で傍示杭を「杉のしるし」とし、ぶらりと下がる「うで蛸のあし」と、藤の花がぶら下がっている様子とにかけていておもしろい。

     藤川宿まちづくり研究会

むらさき麦】

 西棒鼻の前に「むらさき麦」の畑があります。むらさき麦は食料にもなり、染料にもなった麦です。

 藤川宿内に芭蕉句碑が建つ。その句に「むらさき麦」が読み込まれている。この句にちなんで、地元の人たちがむらさき麦を栽培している。毎年五月中旬から下旬にかけて、茎や葉、穂がほのかな紫色にそまるところから、「むらさき麦」と呼んでいる。

     藤川郵便局

藤川宿と松並木】 岡崎観光文化百選

 西棒鼻のすぐ先に案内板が立っていました。

 浮世絵師安藤広重が描いた「東海道五十三次藤川宿」の賑わいぶりが、今も残る脇本陣、旅籠などに偲ばれます。

 道標、常夜灯、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。

 またここは、吉良道への分岐点ともなっています。


【十王堂・芭蕉句碑】 (左側) 12:15〜12:30

 西棒鼻の斜め反対側に亡者の罪を裁く十人の判官を祀る十王堂あります。

 堂の後ろには芭蕉の句碑があります。

【十王堂】

 十王堂は、十人の「王」を祀る堂で、しの「王」とは、冥土(死者のたましいの行くところ)にいて亡者の罪を裁く十人の判官をいう。

 秦江王(初七日)・初江王(二十七日)・宗帝王(三十七日)・五官王(四十七日)・閻魔王(五十七日)・変成王(六十七日)・太山王(七十七日)・平等王(百か日)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三周忌)の総称である。

 藤川宿の十王堂はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。

 また地元では、忠臣蔵で有名な神埼与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。

     藤川宿まちづくり研究会

【芭蕉句碑】

 芭蕉句碑は、江戸時代の俳人松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。

  「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた  はせを」

 碑のうらに、

  「寛政五歳次葵丑冬十月  当国雪門月亭其雄并連中  以高隆山川之石再建」

と、建碑の書誌的事項が彫られている。

 この碑の高さは1.65m、幅1.07m、厚さ0.2m。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。

 その傍らに、高さ0.9m、幅0.5mほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑はもと別の所にあったが、大正初期に現在地に移された。

     藤川宿まちづくり研究会

 ここのお堂で休憩。昼時だがしばらく食事が出来るところがなさそうなので、少し手前の雑貨屋で買った菓子パンを食べる。休んでいると一旦止んでいた雨がまた降ってきた。天気予報では午後から晴れるとのことで期待していたが一向に明るくならないのが残念だった。


【藤川宿一里塚】 (左側) 12:33

 十王堂のすぐ先に案内板のみあります。

 (前略:一里塚の説明)

 藤川の一里塚は、記録によると、

「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所

     壱ヶ所  木立  左無之  右 榎   但、左右之塚共  藤川宿地内」

と記してある。このように藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830〜)頃には南側はすでになくなり、北側の榎は、昭和初期には枯れてなくなってしまった。

     藤川宿まちづくり研究会


【吉良道道標】 12:40

 道は二股に分かれ、下の写真で左が吉良道、真直ぐ進む道が東海道です。

 東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、この分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。

 道しるべ石は、高さ143cm、幅20cmの四角柱である。彫られている文字は、

 (右面) 文化十一年甲戌五月吉日建

 (正面) 西尾、平坂、土呂、吉良道 

 (左面) 東都小石川住

と書いてある。

 とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入ロなど重要な脇街道であった。また、伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。

     藤川宿まちづくり研究会

 今日の雨は午後から止むと言っていたのに、一向に止まないのも「なみだ雨」 か。


【藤川の松並木】 岡崎市指定文化財(昭和38年5月指定) 天然記念物

 吉良道追分のすぐ先名鉄の踏切を渡ると松並木になります。

 慶長九年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両側に松を植えた。

 この松並木はその名残をとどめるもので、約1Kmの間の九十本あまりからなり、クロマツが植えられている。


 国道1号線に合流(12:45)して、すぐ321Kmのポストがあります。そこから500m位の左側に馬頭観世音堂があり、今日は何かのいわれがあるのか、大勢の人がお参りしていた。

 一つ目の信号の先に東海道の道案内がありますので、それに従って斜め左の道に入ります。愛知産業大学の寮があるところです(13:00)。

 入ってすぐ左側の松のそばに「東海道分間延絵図」とベンチがあります。

 旧道は県道48号線と交差しますが、右に曲がってすぐところにあるうどん屋で昼食(13:20〜14:00)にしました。

 ガイドブックによるとこの付近に、「岡崎源氏蛍発祥の地」と「芭蕉句碑」があるはずなのだが、手前で地元の人に聞いても、このうどん屋の店員に聞いても分からなかった。但し、さらに右、国道1号線1号線の方に行くと「ほたる橋」があるとのことです。

 再び街道にもどるとすぐ、乙川の土手にぶつかります。本来の旧東海道はこの川を真直ぐ渡ったのだが、現在は橋もなく渇水期以外は渡れないので、右側の国道1号線の大平橋を迂回します。

 橋を渡ったらすぐ旧道へ戻ろうと思っていたが左折する道はなく、旧道はすぐ先の「大平町北」の交差点で合流するので、大平橋の上から左手の小さな森にある神社(大平川水神社)を見るにとどめました。

 旧東海道はこの交差点から斜め右に入ります。入るとすぐ東海道の石柱があります。


【つくて道石碑】 (右側) 14:17

 「男川小学校西」三叉路(信号あり)の右角に古い道しるべがあり、右側に「東海道」、左側に「つくて道」と刻まれていました。


【大岡越前守陣屋跡】 (右奥) 14:20〜14:25

 「つくて道石碑」の次の角、「岡崎大平郵便局」を右折するとすぐあります。

 写真のように立派な門と塀が復元されているが、中は公園状態で何枚かの案内板が掲げられているだけです。

【大岡越前守陣屋跡】 岡崎観光文化百選

 「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。

 陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。 

【大岡越前守忠相公】 延宝五年(1677)〜宝暦元年(1751)

 大岡越前守忠相(ただすけ)は、徳川八代将軍吉宗の下で江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。目安箱の設置や江戸の町火消し「いろは四十七組」の創設や小石川養生所の建設など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通過改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政建て直しを図りました。寺社奉行まで昇進したのち、75歳で没し、相模国堤村(神奈川県茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。(下記)

【西大平藩陣屋】

 西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。

 しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。

 大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。

【後日追加】 2005年6月23日、約25年ぶりに浄見寺を訪れてみました。

 大岡家の菩提寺である浄見寺境内のうっそうとした樹木は、「浄見寺の寺林」と称される天然記念物(昭和42年神奈川県指定)となっています。

 その樹木の中に初代から十代までの墓が並んでおり、五代目忠相の墓がさすがに一番大きいです。

 藤原鎌足の流れくみ、三河国に下り大岡家と称して十四代まで続いた系図が墓の傍に掲げられていました。

【大岡一族の墓所】 茅ヶ崎市指定史跡(昭和36年指定)

 浄見寺は越前の守忠相で有名な大岡家代々の菩提寺で、初代忠勝をはじめとする墓などが並んでいます。天正十九年(1591)二代忠政は徳川家康からこの地、堤村を与えられ、その後、慶長十六年(1611)に浄見寺を建立しました。


【大平一里塚】  国指定史跡(昭和12年指定)  14:30

 

 「岡崎大平郵便局」まで戻り、数ブロック行くと左側にあります。

 写真は南側の塚で、現在はこちら側だけ残っています。

 北側の塚は壊され、大きな常夜灯が建っているだけです。

 常夜灯には、「皇太子誕生記念」と刻まれていたので、現在の天皇が生まれたときに建てられたものと思われる。

 東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。

 塚の規模は、高さ2.4m、底部の縦7.3m、横8.5mの菱形である。塚の中央の榎は巨木となっていたが、昭和二十八年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。

     岡崎市教育委員会

 と解説にあったが、2004年現在、写真のように立派な榎になっています。


 この辺りの旧東海道に交差している道は信号も横断歩道もなく、交差している道路は車が多いので渡るのが大変でした。

 国道1号線に合流したら、右側を歩き東名岡崎ICのランプウエイを3つくぐります。

 くぐり終えたら、コスモ石油がある川沿いの道を斜め右へ行きます。東海道の道標があります。


【法光寺】 14:55

 旧東海道に入って少し行った右側にあります。

 この寺の山門は、門の上に鐘楼がある珍しいものです。狭い境内と見受けられたのでやむなく山門の上に造ったと思われます。


【岡崎二十七曲】 15:00

 やがて道は、三角点に到達します。その真ん中に「岡崎二十七曲碑」(写真)があります。

 ここに二十七曲りの解説と道順が描かれていますが、実際の道はここから右方向だが、地図は左方向に描かれてため、頭の中でひっくり返すのが大変でした。

 ここを掃除していた人に道順を聞いたが、聞き違えたらしく、最初の曲がり角を一つ手前で曲がってしまい苦労しました。曲がる方向の角に石柱があるのでそちらへ曲がればよいのだが、ひとつ間違えると探すのに苦労します。

 全部を忠実になぞりたがったが、最初につまずいた分が残念だった。

【岡崎城下二十七曲り】

 岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。

 二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590−1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長十四年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。

 二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。

【二十七曲り】 二十七曲りの途中にあった解説

 徳川家康が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが天正18年(1590)8月。同年10月には、田中吉政が岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。吉政は、矢作川に初めて橋をかけ、生川の南にあった東海道を城下へ引き入れました。城下の道は、防衛の意味から屈折しているのが常で、岡崎はその典型でした。これが二十七曲りです。しかし、徳川の安定政策が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄えていきました。

 岡崎城の入口に掲示されていた地図が一番分かりやすいので下に載せますが、容量の関係で解像度を上げられなくてすみません。

 地図上の白い道です。

 最初の道は、「二十七曲碑」から右へ行き、2本目(3本目か?)の道を左折します。曲がる角に石碑があると思います「若宮町」。次が「両町」でクランクに右・左と曲がり、伝馬通りへ。『伝馬』の交差点左角に菓子の「備前屋」があり、ここで名物『あわ雪豆腐』を購入。この伝馬通り辺りが宿場の中心で、両側の歩道には宿場町ゆかりの可愛らしい石の彫刻が並んでいます。

 右側映画館の前が「西本陣跡」で、ここを左折、すぐ右折(きら道・京いせ道の道標)。「旧商工会議所」の横を通り、突き当りを右折(籠田惣門碑)。籠田公園の脇を通り、左折(連尺通りへ)。本町通りを渡ったら石碑に従って右折・左折を繰りかえし、材木通りへ。柿田橋を渡らずに左折し、次の三清橋を渡る(右折)。渡った先の左斜めの道へ入り田町へ。

 やがて道は国道1号線に寸断されます。近くの横断歩道を迂回するしかありません。

【東海道の変遷】

 東海道は鎌倉時代になって京都から二十六番目の宿が矢作宿であり、十四世紀末矢作岡崎郷が明大寺に出現しました。

 天正十八年(1590)田中吉政が岡崎に入城し城下町の建設にとりかかり乙川の南岸を通っていた東海道を城下に導きいれ、矢作橋の建設に着手しました。

 慶長六年(1601)本多康重が岡崎藩主となり田中吉の政城下町建設を引き継ぎ、矢作橋も完成しました。

 慶長十二年の大洪水によって八町の町民を城東の台地に移し、伝馬町を新設しつづいて連尺町篭田町両町も作られ町並みがほぼ完成し「岡崎宿三十六町二十七曲り」といわれるようになりました。

 城下の町角を多くしたのは防備の必要からですが、町並みを長くして商家の賑わいを招く利点も考慮されたものとおもいます。

『あわ雪豆腐』 ★★★

 江戸時代、東海道は岡崎宿の茶屋に、参州名物として旅人に親しまれていた、「あわ雪豆腐」がありました。それはあんかけ豆腐のようなものであったと言われています。

 とうふのおかし「あわ雪豆腐」は有機栽培大豆の純豆乳から生まれたまろやかな菓子で「あんかけ」にちなんだ「餡かけソース」をかけて食べます。


【旧商工会議所】 岡崎観光文化百選 (右側) 15:50〜16:55

 大正6年、岡崎銀行本店として建てられた、赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建物です。戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は、市内の金融機関の資料館として一般に開放されています。

 郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物です。

 



 30回目の旅終了。旧東海道は、国道1号線にぶつかった地点(岡崎公園そば)で終了とする。 二十七曲りはまだ続くが次回とする。

 この後、岡崎公園西側の堀に沿って名鉄名古屋本線岡崎公園前駅(16:45)まで歩き、本宿駅まで戻って自家用車で帰宅。

 ◆本日総歩数:32,100歩

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