新居宿・白須賀宿
(弁天島駅→二川駅)
<旧東海道27回目>
2004年2月7日(土)晴 西の風強し
今回も自家用車で出発して浜松西ICで降り、前回行きそびれた舞坂宿の岐佐神社の赤石を見学してから、弁天島海浜公園の駐車場 に車を置いて(1回¥400-)、前回終了した弁天島駅から街道の続きを歩きました。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
【岐佐神社】 (左奥)
舞阪宿脇本陣の手前(東寄り)の道を左に入ると岐佐神社があります。
本殿西側に赤茶けた大きな石が置いてあるが、これは「古事記」の中に出てくる赤石で、大国主命に致命傷を与えた石と云われている。
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【赤石の御由来】 古事記に登場する「因幡の白兎」に続くお話です。 大国主命は、兄弟たちとの恋争いの末、八上比売(やがみひめ)と結婚の約束をします。恋に敗れた兄弟たちは、大国主命を手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上から猪を追い降ろすから、山の下で捕らえろ」と言いつけて、真っ赤に焼いた大石を転がり落としました。この大石を抱きとめた大国主命は、大火傷を負い、命を落としました。これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神(かみむすびのかみ)に命乞いをされます。 神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である『蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)・蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)』に言いつけて大国主命の治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は、貝殻を割って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえったのです。 出雲神話と岐佐神社は、このようなかかわりがあり、ここに『赤石』がまつられています。御祭神が海に関係するところから、水産・漁業の守り神であるとともに、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたかと信仰を集めています。 |
弁天島駅11:10スタート。
今日は一日中、西の風(向かい風)が非常に強く、マスク・帽子・襟巻き・手袋と完全武装しても非常に寒かった。特に浜名湖の橋の上は耐え切れないくらいでした。きたない話だが鼻水が絶えず出て困った。
顔全体を覆う立体マスクをした二人の歩く姿は何かの犯人のようで、すれちがう人は怖かったのではないかと思いました。
新居町駅11:50着。道路脇に建っていた温度計は5℃を表示していた。
駅前に新居の案内図があり、その先に山頭火の歌碑があります。
駅を過ぎ、栄町交差点を直進すると浜名橋に出ます。橋の右手には船溜りがあり、舞阪から船で渡ってきた旅人がこの辺りで降りたところです。(下記【新居宿】の現在の写真参照)
新居関所のすぐ手前で丁度12:00になったので、左側にある「のみたべ屋(丸浅)」で昼食をとったが、ここは美味しい・安い・量があると三拍子そろって大当たりでした。二人とも「天ぷら定食」を注文したが、950円(ちなみにこの店で一番高い品)で天ぷらは大盛り、麦めし・とろろ芋・小そば・小鉢・つけ物がついて大満足でした。そのほか、麦とろ丼が¥300-、とろろせいろが¥680-でした。
【新居関跡・新居関所資料館】 (右側) 12: 45〜13:15
全国で唯一、江戸時代の関所の建物が残っているところです。
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【関所面番所】(上の写真で奥の建物) この建物は、東海道を往来する旅人を取り調べる関所役人が控えていた建物で、面番所といいます。嘉永七年(1854)の地震により倒壊したため、翌安政二年(1855)に立て替えられました。構造は、入母屋造り、本瓦葺きで東西に十一間・奥行七間、これに三方三尺のまわり縁側がつき、内部は向かって右の部屋を上の間(十畳)・中の部屋を上番所(二十畳)・左の部屋を下番所(二十五畳)という部屋割りです。 明治二年の関所廃止令後、明治六年から大正五年まで小学校として、その後、昭和二十六年まで新居町役場庁舎として使用されました。
全国で唯一現存する関所建物として昭和三十年に国の特別史跡に指定されました。 新居関所創設(1600)より元禄十五年(1702)までは幕府直轄として関所奉行が任務に当たっていましたが、元禄十五年以降、関所の管理は三河国吉田藩へ移管されました。 吉田藩管理下としての関所役人は、番頭・給人・下改・賄役・番所足軽・往還女改之女など計四十人前後が交代制で任務にあたっていました。
旅人の関所通行は、明六ツ(六時頃)から暮六ツ(十八時頃)までで、原則として夜間は通行できませんでした。 関所常備武具は、関所役人の所定の取り調べに従わない通行人の不法行為を未然に防止する対策として備えられていましたが、幕藩制社会の確立に伴い、関所の権威を通行者に誇示するという役割、いわゆる飾り用として関所に常備されていました。 時代によって、この数量は異なりますが、基本的には。次の武具が置かれていました。 弓二十五張り ・鉄砲二十五挺 ・矢箱ニ荷 玉薬箱ニ荷 ・長柄十本 |
【新居宿】 (荒井宿とも書く) 江戸から68里30丁(270.3Km)、京へ56里26丁 人口約 3500人
安藤広重の東海道五拾三次之内・荒井『渡舟ノ圖』 左側が遠州灘、正面が「荒井関」である。 2艘共大名の一行で、笹りんどうの紋が付いている船には大名が、手前の船には伴の者が乗っており、かなりくつろいでいる。 |
新居宿側渡船場付近の現在の写真 |
【紀伊国屋資料館】 (左側) 13:17〜13:30
新居関跡のすぐ先左側にあり、関所で一緒の共通券を販売しています。
宿内の老舗の旅籠で綺麗に再生整備されています。
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【新居宿旅籠紀伊国屋資料館】 新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。 旅籠屋として創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。 その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。 紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し建て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた。建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道400年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。(後略) 新居町教育委員会 |
【本陣跡】 (右側)
新居宿には本陣が3箇所あった。
疋田医院前に「疋田弥五助本陣跡」の標石、旧東海道が泉町信号で左に曲がる所の正面に見える連子格子の家の前に標石があり「疋田八郎衛本陣跡」と思われる。その隣に「夢舞台・東海道」の標柱「飯田武兵衛本陣跡」が立っていました。
白須賀宿(宿境まで一里六町) ← 新居町 新居宿(飯田武兵衛本陣跡) → 舞阪宿(宿境まで一里十三町)
【寄馬跡】 (右側) 13:35
左折した街道の右側に寄馬跡の石柱のみ立っており、案内板はありませんでした。
<おやつ> 寄馬跡の反対側にある、「まんじゅや」で自家製の『宿場まんじゅう』『本陣まんじゅう』など味噌や海苔風味のまんじゅうを数個買 いました。
【棒鼻跡】 (右側)
やがて街道は突き当たり、右、左とクランクに曲がりするが、その右折した所に棒鼻跡の石柱のみ立っています。案内板はありませんでした。
国道1号線に合流する橋本交差点右角に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
白須賀宿(宿境まで三十二町) ← 新居町 橋本(新居宿加宿) → 新居宿(宿境まで一町)
【教恩寺】 (右側) 13:55
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国道を右折した次の橋本西信号に教恩寺があり、写真のように山門は二階建てで、上が鐘楼と思われるのが珍しかった。 |
【風炉(ふうろ)の井】 新居町指定史跡 (左側)
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教恩寺の反対側にあり、橋本長者の屋敷跡の一角にある石積みの井戸です。 建久元年(1190)源頼朝が上洛のおり、橋本宿に宿泊した時にこの水を茶の湯に用いたと伝えられる。 風炉と呼ばれる意味はよく分からない。 昭和五十四年に新居町の史跡に指定した。
平成四年三月 新居町教育委員会 |
【紅葉寺跡】 (右側) 14:05
「浜名旧街道」入り少し進むと、右側奥に階段が見えてきます。今は廃寺となっている紅葉寺跡で、階段を上がると広場になっており、小さな地蔵堂と古い五輪塔がありました。
足利義教が富士見の旅の途中にこの寺を訪れ、見事な紅葉の風情に感動してほめ称えたので、後にこの名がついたといわれる。
現在も紅葉の名所として、秋には賑わうそうです。
紅葉寺跡への入口の左側に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
白須賀宿(宿境まで二十六町) ← 新居町 紅葉寺跡 →
新居宿(宿境まで八町)
この先東側の松並木になります。
【検校ヶ谷(けんぎょうがや)】 (右側) 14:20
左側が松並木となっている途中の右側に検校ヶ谷の石碑と案内板が建っています。
江戸時代、検校とは盲人社会の最高位をさし、座頭が検校になることは困難なことであった。
言い伝えでは、その昔、盲目の座頭が検校の位を得るため、東国より京に上る途中、この辺りで道に迷い倒れ、その望みを絶たれてしまったと、という。
その後、誰言うことなくこの谷を「検校ヶ谷」と呼ぶようになった。
新居町教育委員会
【藤原為家と阿佛尼の歌碑】 (左側) 14:22
松並木の中に建っています。
風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣舟 前大納言為家
わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで 阿佛尼
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藤原為家(1198〜1275) 鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え、父の没後家系と学統を継いだ。
承久の乱後、「千首和歌」で歌人として認められ、「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の勅撰集を始め、多くの私家集を編んだ。歌風は温和、平淡。この歌は「続古今和歌集」に収められている。 朝廷に仕えた後、藤原為家の継室となり、夫の没後出家し、鎌倉下向の折り「十六夜日記」をなした。この歌は同日記の中にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。 よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。 新居町教育委員会 |
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【立場跡】 (左側) 14:28
松並木が途切れた所に立場跡の石柱と案内板が立っています。
旅人が休息する施設を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。
ここは新居宿と白須賀宿の中間にある立場で、代々加藤家がつとめてきた。
立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鯉や金魚じゃあるまいに」という戯歌(ざれうた)を詠んだという話が残っている。
平成四年三月 新居町教育委員会
【秋葉山】 (右側) 14:32
屋根付の秋葉山が二棟並んで建っています。
【明治天皇野立所址】 (右側) 14:36
秋葉山の少し先に石碑と案内板が建っています。
明治元年(1868)九月二十日岩倉具視等を従え東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、十月一日に豊橋から新居へ向かう途中に休憩した場所。
明治天皇一行はその夜新居宿飯田本陣に宿泊、十月十三日に東京に到着した。
新居町
【火鎮神社】 (右側) 14:40
火鎮神社入口に「白須賀宿マップ」と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
二川宿(宿境まで二里十四町) ← 湖西市 白須賀宿(火鎮神社) → 新居宿(宿境まで二十七町)
【一里塚跡・高札場跡】 (右側) 14:55
民家の前に一里塚跡と高札場跡の石柱と案内板が、プランターに囲われて立っていました。
【一里塚跡】
一里塚は、徳川家康が最初に手掛けた東海道の整備事業のときに設けられたものです。慶長九年(1604)から江戸日本橋を基点に一里(約四キロメートル)ごとにつくられました。
塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ二メートルほどの盛土をし、榎・しい・松などが植えられました。
この辺りでは、一里塚のことを一里山と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。
【高札場跡】
幕府・大名が、法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または、単に建場といい、宿場・渡船場・問屋場など、人の目につきやすい場所に設置されました。
白須賀宿には、ここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されたほか、加宿である境宿村にも一箇所、設置されていました。
【蔵法寺】 (右奥) 15:00〜15:15
潮見坂の手前にある蔵法寺の境内にベンチとトイレがあります。
そのベンチでおやつとして買った、饅頭を食べながら休憩していると、一瞬時雨れて雪が舞ってきました。
今日は傘を持ってこなかったので、雨に変わったら困るなと思いながら寺を出たが、すぐ止んでくれたのにはホッとした。
蔵法寺には今川義忠(義元の祖父)の墓があることで知られている。潮見坂へ出る道の左手崖に生えている松の根本に碑があるとのことです。
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【潮見坂観音縁起】 承応三年(1654)三月十日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より漁師の網にかゝって御出現した観音様で、丈は一尺九寸(57.6cm)、その後堂内に安置され毎年供養されて参りました。 宝永四年(1707)十月四日遠州灘一円に大地震がありその時起きた大津波に一瞬にして元町宿は悉く波に呑まれ大被害を受けました。その時坂の上に逃れてその地に現在も住んでいる子孫も多く居ります。その前夜徳川幕府参勤交代で岡山藩城主池田綱政が当地本陣に宿泊中で、夜半観音様が夢枕にお立ちになり「この地に大危難あり早々に立ち去れ」とお告げがありましたので夜半急ぎ一行は本陣を出達し危うく難を免れることが出来ました。綱政公は観音様の御加護に感謝し邸内に潮見観音の分身を祀り子々孫々現在の池田牧場まで続いて居ります。 又同地の長泉寺にも白須賀観音として分身が祀られて居ります。 |
【潮見坂】 15:20
右側角に分かれ道を示す石柱と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
石柱には「新道」、「右旧道」と刻まれていますので右折します。頂上まで600mです。
二川宿(宿境まで一里)
← 湖西市 白須賀宿(潮見坂下) → 新居宿(宿境まで一里六町)
坂を登っている途中、振り向けば駿河湾が見えてきます。また下ってくる別々の女学生二人が見ず知らずの我々に挨拶をしてくれました。町人には会わなかったが学校では旅人に挨拶するように教育しているのだろうか、それとも町全体の人がやさしいのだろうか。上りきったところに中学校がありましたが毎日の上り下りは大変だろうと思う。
上りきるすこし手前に左へ下る道がありますが、その方向に再び駿河湾が大きくみえます。右側に潮見坂の案内板がありました。
潮見坂は、街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。
西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山を見ることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれます。
浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いています。
安藤広重の東海道五拾三次之内・白須賀『汐見坂圖』 東海道で眺望随一と云われた汐見坂から駿河湾を望む場所で、大名行列が坂を下っているところを描いている。浜辺の三角はこの辺りで盛んだった地引網を干しているところ。 参勤交代は藩にとっては大変だが、日本の基礎ができたという利点があった。すなわち、完全武装の軍隊が年中動いているので治安が良くなったり、文化や言葉が均一に広がったことなどが上げられる。 行列の規模は、100万石で2500人〜4000人。10万石で800人。1万石で37人位である。 |
現在の汐見坂中腹 |
【おんやど白須賀】 (左側) 15:32〜15:50
潮見坂の頂上にある新しい無料休憩所です。ミニ資料館があり、お茶も自由に飲めます。
【潮見坂公園跡】 (左側)
休憩所のすぐ先、白須賀中学校前に潮見坂公園があります。
公園内の海が見える先端に「夢舞台・東海道」の標柱が立っています。
二川宿(宿境まで一里二十五町) ← 湖西市 白須賀宿(潮見坂公園跡) → 新居宿(宿境まで一里十二町)
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明治天皇が江戸へ行幸する途中に休まれた潮見坂上は、かつて織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、徳川家康が茶亭を新築して、信長をもてなした所でもあります。 大正十三年四月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられました。 現在は、公園敷地に中学校が建てられていて、当時の面影をみることができませんが、明治天皇御聖跡の碑だけは残されています。 |
【潮見坂上石碑群】 (左側)
潮見坂公園の前後にあり、多数の顕彰碑や忠魂碑が建てられています。
【白須賀宿】 江戸から70里20丁(277.1Km)、京へ55里 人口約 2100人
宝永4年(1707)の大地震による津波のために、元白須賀(現在の元町)は壊滅状態となり、汐見坂の上に移った。
【曲尺手(かねんて)】 16:02
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白須賀の町に入るとすぐ、直角に曲げられた道に出てきます。この道の角に曲尺手の案内板がありました。 江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りてあいさつするしきたりでした。しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭(ともがしら)にとっては一番の失態です。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄のお寺に緊急非難をしました。
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【本陣跡】 (右側) 16:05
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美容院の前に本陣跡の石柱と案内板がありました。
その石柱のそばに御主人を待つ犬が繋がれていて、石柱を撮影している私に盛んに吠えていたのが可愛かった。 この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とあります。 |
【問屋場跡】
案内板等はなく、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
二川宿(宿境まで一里十八町) ← 湖西市 白須賀宿(問屋場跡) → 新居宿(宿境まで一里二十二町)
【火防樹】 湖西市指定文化財 (両側) 16:12
道路両側の民家の塀に沿って道路に直角に槙の木が並んでいる所があります。火防の為の樹で、右側に案内板が立っています。
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東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を元宿と呼ぶのはこの為である。 宿場の移転以来、津波の心配はなくなったが、今度は冬季に西風が強く、たびたび火災が発生し、然も大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根がわら葺であったことにも依る。 そこで此の大火をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。 火防の広さは、間口二間(3.6m)奥行四間半(8.2m)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防が有った。 昭和五十九年十一月三十日 湖西市教育委員会 |
【静岡県最後の「夢舞台・東海道」の標柱】 (右側) 16:20
この先すぐの境川が、昔は近江と三河の国境で、現在は静岡県と愛知県の県境になります。箱根からなじみになった静岡県側の「夢舞台・東海道」の標柱もここが最後となりました。いままでの標柱の中で最も文字がかすれていたのは、皆がお別れに撫でていったのかと思うほどでした。
二川宿(宿境まで一里十二町) ← 湖西市 境宿(白須賀加宿)
→ 白州賀宿(宿境まで二町)
16:30に境橋を渡って愛知県豊橋市に入り、坂を登って国道1号線に合流します。
【一里山の一里塚跡】 (右側) 16:40
一里山東の信号で国道に合流し、すぐ右側に写真のような小さな森があります。そこに祠が二つあり、その祠の下の石垣に一里塚跡のプレートがはめ込まれていました。
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【一里山の一里塚】 豊橋市指定史跡(昭和50年11月指定) (前略:一里塚の説明) 江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが、明治以降その必要性も次第に失われ荒廃にまかせられた。 この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一基ずつあったが、南側のものは破壊されて屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末年頃には全く滅失してしまった。現在、幸いに保護されて残るこの塚は東西11m、南北14m、高さ3mで、旧東海道の面影を残す極めて稀な遺構の一つである。 豊橋市教育委員会 |
この先しばらく国道を歩きますが、周りはキャベツ畑で風を遮るものがない為、時折小雪まじりの強い西風に大変つらい思いをしました。
やがて東海道新幹線が接する「二川ガード南」の信号に来たら、ここを右折して新幹線のガードを潜り左方向の筋違橋を渡って、東海道本線も渡ります。両JR線の右側に出ると二川宿に入って行きます。
寒い中やっと二川町に到着したのが17:30。暗くなったことと二川本陣の施設も閉まっているので明日見学することにして駅に急ぐが、二川駅は町の西外れにあるため、宿に入ってから駅まで歩くだけでも30分近くもかかり、疲れた足には非常に長く感じられた。
27回目の旅終了(18:00)二川駅。 ◆本日総歩数:38,000歩
二川駅よりJRで弁天島駅まで戻り、自家用車で弁天島の和食の店へ行き、念願の美味しいうなぎを食べ、豊橋駅に向かう。
本日は、駅前の「豊橋グランドホテル」に泊まる。古いホテルだがツインの部屋は広く、バスタブも大きめだったので疲れた足がお湯の中にゆっくり伸ばせたのは良かった。